Forever Love
町で彼女を見かけた時から俺は虜になっていたのかもしれない。
何故ならその日以降、俺は彼女に会いたくて、彼女と擦れ違った場所、同じ時間に彼女を探して町に出るようになっていた。
会ってどうする、会って何を話すつもりなのか、そんなことを考えたこともあったが、それでも俺は彼女にもう一度会いたかった。
病気だと思った。
何の理由もなく彼女を探す。
そんな日々が何日も続いただろうか。
俺は疲れていた。
そして誘われるように入った一軒のバーで飲んでいた時、俺は探し続けていた彼女に声をかけられた。
「隣……、良い?」
客は俺一人。
ただカウンターの奥で長い狐色の髪の女のバーテンダーが静かにグラスを磨いているだけ。
断れる訳がなかった。
「どうぞ…。」
そんな気の利かない言葉しか出なかった。
女なんて何人も付き合ってきた。
女の扱いなんて心得たもの、ずっとそう思っていた。
でも、違ったんだ。
俺は本当の女に出会ったことがなかったんだと実感した。
「ありがとう。」
日本人じゃないのは一目見てわかる程、透き通るような白い肌。
銀色の髪が、まるで上等な絹のように揺れる。
赤いコートに黒いレザーパンツ。
ピンヒールのブーツで足を組んで座る彼女は、ただそれだけで絵になった。
そんな彼女がやわらかく微笑んだだけで、俺は完全に堕ちていた。
彼女の前にスッと、白ワインの入ったワイングラスが置かれた。
「お久し振りですね。いつ、日本に?」
どうやらこのバーテンダーと彼女は旧知の仲らしい。
「そうね、10日くらい前だったかな。」
それは俺が彼女を初めて見かけた日。
彼女は出された白ワインを上品な手付きで口に運ぶ。
ワインで潤った唇が、艶かしかった。
「…な、何で俺の隣なんかに…。」
「………何でというかな。君は私を探していたんだろう?」
「…え。」
どうして、知っているんだ。
誰にも言わずに、誰にも頼らず彼女を探していたのに…。
「知る方法なんていくらでもあるよ。単刀直入に聞くけど、私に何か用があるのかい?」
「用なんて……。」
なかった。
情けないことに本当になかった。
いくら考えても言い訳にもならないくらいに何もなかった。
「……俺は、ただあなたに会いたかった。それだけです。」
「本当に?」
俺はただ、頷いた。
「会って、何か話そうとか考えていた。でも何を話して良いのかわからなかった。今まで女の子の喜びそうなトークとか、そんなので適当に女の子と遊んできた俺だけど……。あなたと擦れ違って、それが全部崩れてしまった。」
「……見た目はなかなかの無頼漢だが、意外にロマンチストなんだね。君は一目惚れなんか信じているのかい?」
「信じているとか信じていないとか、もうそんなレベルじゃない。現に俺はあなたを探し続けて、同じ時間で同じ場所を何度も……。」
「探していたね…。そうだ、12月27日午後8時37分56秒に出会ったのは、確かに君だったね。私が日本に着いて夕食を食べた直後、繁華街で確かに君と擦れ違ったのを覚えているよ。」
「な、何でそんなに細かく…!?」
「覚えているさ。永遠に近い長い時間を生きる者は時間を蔑ろにしがちだが、永遠に近い時間だからこそその一瞬一瞬を常に心に刻むべきだと私は思っている。そうすれば永遠は退屈な時間の牢獄ではなくなる…。」
彼女が何を言わんとしているのかわからない。
俺の思案に気が付いたのか、彼女は頭を下げた。
「すまない、君に愚痴っても仕方がない話だったね。忘れてくれても構わない。そういえば、君の名前を聞いていなかったね。私は、アルトシュバイン。アルト、と呼んでくれ。」
「俺は……、九十九。大河原九十九。」
「では、ツクモ。」
アルトが俺の顎を指で持ち上げて、甘い声で囁いた。
「君がずっと捜し求めていた私のことが知りたかったら、ステーションホテル最上階のスイートルームに来なさい。そこで私は君に問い掛けをしよう。もしもその問い掛けに、私の願いに応える勇気があるのならいらっしゃい。夜が明けるまで、待っててあげよう…。」
彼女の目から、俺は目を離せなくなっていた。
何か答えなければと思っても、口が、舌がまったく言うことを聞いてくれない。
「待っている。では宗近、また寄らせてもらう。」
「はい、その時はまた香牙と一緒に飲み明かしましょう。」
そう言ってアルトは店を後にした。
後に残されたのは俺一人。
彼女がいなくなって、まるで夢から覚めたばかりのような心地で俺はぼんやりしていた。
でも夢じゃない証拠に、隣に彼女の口紅の付いたワイングラスが残っている。
彼女の囁いた声が耳に残っている。
「お客様、何かお飲みになりますか?」
バーテンダーがやさしく微笑んでいた。
「え、ああ……、じゃあ何か適当に…。」
「では何か軽いものでもお作りしましょう。恋のおまじないが叶うように…。」
――――――――――――――――――
日付が変わる少し前。
俺は彼女の指定したステーションホテル最上階のスイートルームの部屋の前にいた。
緊張している。
ドアをノックしようにも、その手がドアに触れる寸前で止まる。
何度、溜息を吐いただろう…。
そのたびに俺は何をしに来たんだろうと自分に問う。
答えなんて出る訳がないのに…。
ガチャ……
その時、扉が開いた。
誰もいない。
独りでに扉が開いて、俺は狐に摘ままれた気分になる。
部屋の中は真っ暗だった。
「ツクモ、入りなさい。」
彼女の声だ。
逆らい難いその声に俺の足は自然に部屋の中に向かっていた。
バタン
また扉が勝手に閉ざされる。
それでも俺はもう気にならなかった。
彼女が、アルトが俺を待っているのだから…。
薄暗い照明の中で俺は一人掛けのソファーにゆったりと足を組んで座るアルトを見付けた。
「おいで、ツクモ。」
やさしく、それでいて命令するような声。
俺はまるで絶対的な何かに対じするように、自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらいおずおずとアルトに歩み寄った。
「そこに跪きなさい。」
彼女の言う通りに俺は、彼女の前に跪く。
目の前には彼女の黒いストッキングに包まれた足の甲。
「顔を、上げなさい。」
彼女を見上げるように、俺は顔を上げた。
そこで初めて気が付いた。
彼女は服を着ていなかった。
黒い下着に黒いガーター。
彼女の白い肌にそれはよく栄え、美しさの中に何とも言えない艶がある。
「答えなさい。何故、私に言われるまで部屋の中に入らなかった。私は君にこの部屋に入ることを許可していたはずだが、それは私への侮辱と取っても構わないのか?」
アルトは非常に不機嫌だった。
陶器で作った人形のように美しいまま、彼女は強い目線で俺を貫いた。
心臓が、抉られるような冷たい恐怖に早鐘を叩く。
「……俺は、本当にここに来るべきなのかずっと考えていたんです。あなたに誘われて、嬉しかったのに…、本当に来ても良かったのか。ずっと迷い続けていました。」
「……で、その答えは出たのかい?」
「出なかった…。出るはずもなかった…。」
アルトはフゥ、と溜息を吐く。
「まずは合格だな。」
「…え。」
「まずは合格だと言ったのだ。もし考えなしに食い付いて来るような野良犬だったり、適当に薄っぺらな言葉を吐くような下種であったなら、その舌を引き千切り、未来永劫淫魔どもの餌にしてやろうかと思っていたが……。どうやら君はそんな薄っぺらな現代人に比べて、いくらか気骨があるらしい。」
アルトは初めて表情を和らげた。
それがさっきの不機嫌さは嘘であったことを告げる。
「待ってはいないよ。君は私の予想よりも早くここにやってきた。そしてそこで自分に何度も問い掛けて躊躇った。レディを待たせるのは非常に無礼なことだが、君は私の誘いを私の魔眼を見ながらも迷った。素質はあるのだろうな。」
アルトは悪戯っぽい笑顔を俺に向けた。
「ツクモ、心して答えよ。汝にとって、永遠とは何か。」
「永遠……?」
気だるそうにソファーに座る彼女はただ、そうだ、と言う。
永遠…。
何故彼女がそんなことを聞きたがるのか理解が出来なかった。
でも、彼女の目は微笑んでいても本気だった。
俺は考える。
時計の針の音でさえ大きく感じてしまう程、ただ深く。
そして俺は一つの答えに辿り着く。
「永遠とは……、存在しないもの…。」
「ほう。存在しない、か。」
「俺にとってです。永遠と錯覚することはあっても、永遠に存在し続けることは出来ない。例えば想いは永遠に残るなんて言葉はあっても、いつか想いは忘れ去られて、仮に残されていてもその想いはオリジナルじゃない。誰かのフィルター越しの想いは、原始の姿を残していない。後世に残したいっていう世界遺産にしてもそうです。姿形は当時のままを残せても、材質やそこを行き交う人々は絶えず移り変わっていく。永遠とは存在しないもの。でも誰もが縋りたくなるもの。それが……、俺の考えです。」
アルトは俺の言葉を黙って聞いていた。
「……仮に、永遠の命なんてものを俺が得たとしても、それを俺は嘆くでしょう。友も愛する人もいない人生を生き続けなきゃいけない。強制的に、そして自分で終わらせることも出来ずに。それを望む人々にとってはそれは至上の喜びでしょう。でも、生き続けることが喜びじゃない。俺の喜びは……。」
そう、俺にとって今考えられる最上の喜びとは。
「俺の喜びは、命ある限りあなたの隣にいたい。」
「………見た目に似合わず古風な男だね、君は。」
「それは………、昔、柔術をかじっていたせいかもしれません…。」
俺は顔を伏せる。
何故か彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。
「……ツクモ、顔を上げなさい。」
バーでそうしたように、アルトが俺の顎を指ですくい上げる。
「君は永遠は存在しない、と言ったね。そして永遠の命も友も愛する者がいなければ欲しくはないと言ったね。では、もしも君の望むものが永遠に存在し、それが君を必要としたとしたら……、どうする?」
「え……。」
アルトが小さな口を開く。
赤い口紅の向こうに犬歯と言うにはあまりに大きく尖った歯が覗いていた。
まさか…。
いや、あまりに非現実的だ…。
でも彼女の美しさを考えれば……!
「私はヴァンパイア。君たちが吸血鬼と呼ぶ不死王の一人。君の目から私はいくつの娘に見えるかどうかわからないが、こう見えてもう1000年は軽く生きてきた。私が日本にやってきたのはね、私もそろそろ従者の一人でも欲しくなったのだよ。最近は輸血パックなんてジャンクフードが世に出回っているおかげで食に困ることはなくなったが、やはり生の血液は鮮度が格段に違いすぎる。だからって誰でも良いという訳でもないんだ。他の同種はどうなのか知らないが、私が欲しいのはまずは従者として夜の世界を知ってもらい、いつの日か私と同格の存在になれる者。さあ、ツクモ………。」
アルトが俺の耳元で囁いた。
「君が望むのなら、永遠をあげよう。君の嘆く友も愛する者もいない永遠ではない。君が望む、私の隣にいたいという望みを叶えられるのだ。その代わり人間はやめねばならない。太陽を捨て、信仰を捨て、退廃的な永遠の牢獄に囚われ続けなければならない。私は、強制はしない…。」
「俺は………。」
永遠なんていらない。
それは俺が寂しさに耐えられないからだ。
もしもその永遠に苦痛を伴わないのだったら…。
人間でい続けることに、何の意味はない。
「……そう、答えは決まっているのだね。では、ツクモ。君の首筋の甘い感触を楽しむ前に、一つやってもらおうか。」
アルトは俺の前に黒ストッキングに包まれた足を差し出した。
「忠誠の証に、私の足にキスを。」
「……はい、喜んで。」
彼女の差し出した右足を、丁寧に手で包むように抱えると俺は足の甲にキスをする。
――――――――――――――――――
情事が終わって、しばらく経って私は目を覚ました。
隣にはツクモの安らかな寝顔。
首筋には二つの穴。
私が咬み、彼の血を吸い、私の魔力を注いだという証。
「ふふ…、おいで…。」
彼が目を覚まさないように、やさしく引き寄せ、その顔を胸に沈めてしまう。
たった一目見た私を探していると聞いた時には、ただの好奇心だった。
だというのに、今はこんなにも愛しく感じてしまっている。
永遠を否定した彼。
だけどそれは永遠への憧れの裏返し。
そして永遠を欲しいと思った理由は私への想い。
そんな男を、手放せる訳がないじゃないか…。
そう思った時、一つの疑念が過ぎる。
「………あの女、まさかここまで視ていたんじゃなかろうか。」
あり得るだけに私は、彼を連れて日本を発つ前にあの女に問い詰めようと決心する。
それにしても……、一目惚れを信じているのか……、か…。
それはまるで私のことじゃないか。
私の隣にいたい、とあんなにハッキリと言われて心の奥底で喜んでいた私がいる。
それなら、一緒にいよう。
100年でも200年でも、それこそ永遠に。
私だけを見て、私のことだけしか考えられないくらいに、愛してあげよう。
でも……、君は私の愛を信じないで良い。
所詮、私は人の恐れる夜の闇に生きる死者。
自分の都合を、君の想いを利用しているにすぎない…。
「………………………。」
「……ツクモ、目が覚めたかい?」
否定するように、彼が私の胸にさらに深く潜り込む。
「否定に、なっていないよ…。」
「……何だか、ひどく悲しい夢を見ました。あなたが、俺を冷たく突き放す夢。なのにあなたが悲しそうに泣いている夢を…。」
「………そうか。」
血液とは魂、魂とは思いだと聞いたことがある。
絵空事と考えていたが、あながちそうでもないらしい。
「俺は信じます。アルトが愛を信じなくて良いと言っても、俺はこの命が……、いえ。この身体が滅ぶまであなたの愛を信じて、あなたを愛し続けます。」
「………馬鹿。」
もうすぐ日が昇る。
私たちの存在してはいけない境界線。
だからこのまま寝よう。
一つのシーツに包まって、二人で同じ夢でも見続けよう。
退屈だった日々が終わる。
これからは永遠の終わらない夢が見られそうだ。
ああ、どうか……。
これが夢でありませんように…。
何故ならその日以降、俺は彼女に会いたくて、彼女と擦れ違った場所、同じ時間に彼女を探して町に出るようになっていた。
会ってどうする、会って何を話すつもりなのか、そんなことを考えたこともあったが、それでも俺は彼女にもう一度会いたかった。
病気だと思った。
何の理由もなく彼女を探す。
そんな日々が何日も続いただろうか。
俺は疲れていた。
そして誘われるように入った一軒のバーで飲んでいた時、俺は探し続けていた彼女に声をかけられた。
「隣……、良い?」
客は俺一人。
ただカウンターの奥で長い狐色の髪の女のバーテンダーが静かにグラスを磨いているだけ。
断れる訳がなかった。
「どうぞ…。」
そんな気の利かない言葉しか出なかった。
女なんて何人も付き合ってきた。
女の扱いなんて心得たもの、ずっとそう思っていた。
でも、違ったんだ。
俺は本当の女に出会ったことがなかったんだと実感した。
「ありがとう。」
日本人じゃないのは一目見てわかる程、透き通るような白い肌。
銀色の髪が、まるで上等な絹のように揺れる。
赤いコートに黒いレザーパンツ。
ピンヒールのブーツで足を組んで座る彼女は、ただそれだけで絵になった。
そんな彼女がやわらかく微笑んだだけで、俺は完全に堕ちていた。
彼女の前にスッと、白ワインの入ったワイングラスが置かれた。
「お久し振りですね。いつ、日本に?」
どうやらこのバーテンダーと彼女は旧知の仲らしい。
「そうね、10日くらい前だったかな。」
それは俺が彼女を初めて見かけた日。
彼女は出された白ワインを上品な手付きで口に運ぶ。
ワインで潤った唇が、艶かしかった。
「…な、何で俺の隣なんかに…。」
「………何でというかな。君は私を探していたんだろう?」
「…え。」
どうして、知っているんだ。
誰にも言わずに、誰にも頼らず彼女を探していたのに…。
「知る方法なんていくらでもあるよ。単刀直入に聞くけど、私に何か用があるのかい?」
「用なんて……。」
なかった。
情けないことに本当になかった。
いくら考えても言い訳にもならないくらいに何もなかった。
「……俺は、ただあなたに会いたかった。それだけです。」
「本当に?」
俺はただ、頷いた。
「会って、何か話そうとか考えていた。でも何を話して良いのかわからなかった。今まで女の子の喜びそうなトークとか、そんなので適当に女の子と遊んできた俺だけど……。あなたと擦れ違って、それが全部崩れてしまった。」
「……見た目はなかなかの無頼漢だが、意外にロマンチストなんだね。君は一目惚れなんか信じているのかい?」
「信じているとか信じていないとか、もうそんなレベルじゃない。現に俺はあなたを探し続けて、同じ時間で同じ場所を何度も……。」
「探していたね…。そうだ、12月27日午後8時37分56秒に出会ったのは、確かに君だったね。私が日本に着いて夕食を食べた直後、繁華街で確かに君と擦れ違ったのを覚えているよ。」
「な、何でそんなに細かく…!?」
「覚えているさ。永遠に近い長い時間を生きる者は時間を蔑ろにしがちだが、永遠に近い時間だからこそその一瞬一瞬を常に心に刻むべきだと私は思っている。そうすれば永遠は退屈な時間の牢獄ではなくなる…。」
彼女が何を言わんとしているのかわからない。
俺の思案に気が付いたのか、彼女は頭を下げた。
「すまない、君に愚痴っても仕方がない話だったね。忘れてくれても構わない。そういえば、君の名前を聞いていなかったね。私は、アルトシュバイン。アルト、と呼んでくれ。」
「俺は……、九十九。大河原九十九。」
「では、ツクモ。」
アルトが俺の顎を指で持ち上げて、甘い声で囁いた。
「君がずっと捜し求めていた私のことが知りたかったら、ステーションホテル最上階のスイートルームに来なさい。そこで私は君に問い掛けをしよう。もしもその問い掛けに、私の願いに応える勇気があるのならいらっしゃい。夜が明けるまで、待っててあげよう…。」
彼女の目から、俺は目を離せなくなっていた。
何か答えなければと思っても、口が、舌がまったく言うことを聞いてくれない。
「待っている。では宗近、また寄らせてもらう。」
「はい、その時はまた香牙と一緒に飲み明かしましょう。」
そう言ってアルトは店を後にした。
後に残されたのは俺一人。
彼女がいなくなって、まるで夢から覚めたばかりのような心地で俺はぼんやりしていた。
でも夢じゃない証拠に、隣に彼女の口紅の付いたワイングラスが残っている。
彼女の囁いた声が耳に残っている。
「お客様、何かお飲みになりますか?」
バーテンダーがやさしく微笑んでいた。
「え、ああ……、じゃあ何か適当に…。」
「では何か軽いものでもお作りしましょう。恋のおまじないが叶うように…。」
――――――――――――――――――
日付が変わる少し前。
俺は彼女の指定したステーションホテル最上階のスイートルームの部屋の前にいた。
緊張している。
ドアをノックしようにも、その手がドアに触れる寸前で止まる。
何度、溜息を吐いただろう…。
そのたびに俺は何をしに来たんだろうと自分に問う。
答えなんて出る訳がないのに…。
ガチャ……
その時、扉が開いた。
誰もいない。
独りでに扉が開いて、俺は狐に摘ままれた気分になる。
部屋の中は真っ暗だった。
「ツクモ、入りなさい。」
彼女の声だ。
逆らい難いその声に俺の足は自然に部屋の中に向かっていた。
バタン
また扉が勝手に閉ざされる。
それでも俺はもう気にならなかった。
彼女が、アルトが俺を待っているのだから…。
薄暗い照明の中で俺は一人掛けのソファーにゆったりと足を組んで座るアルトを見付けた。
「おいで、ツクモ。」
やさしく、それでいて命令するような声。
俺はまるで絶対的な何かに対じするように、自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらいおずおずとアルトに歩み寄った。
「そこに跪きなさい。」
彼女の言う通りに俺は、彼女の前に跪く。
目の前には彼女の黒いストッキングに包まれた足の甲。
「顔を、上げなさい。」
彼女を見上げるように、俺は顔を上げた。
そこで初めて気が付いた。
彼女は服を着ていなかった。
黒い下着に黒いガーター。
彼女の白い肌にそれはよく栄え、美しさの中に何とも言えない艶がある。
「答えなさい。何故、私に言われるまで部屋の中に入らなかった。私は君にこの部屋に入ることを許可していたはずだが、それは私への侮辱と取っても構わないのか?」
アルトは非常に不機嫌だった。
陶器で作った人形のように美しいまま、彼女は強い目線で俺を貫いた。
心臓が、抉られるような冷たい恐怖に早鐘を叩く。
「……俺は、本当にここに来るべきなのかずっと考えていたんです。あなたに誘われて、嬉しかったのに…、本当に来ても良かったのか。ずっと迷い続けていました。」
「……で、その答えは出たのかい?」
「出なかった…。出るはずもなかった…。」
アルトはフゥ、と溜息を吐く。
「まずは合格だな。」
「…え。」
「まずは合格だと言ったのだ。もし考えなしに食い付いて来るような野良犬だったり、適当に薄っぺらな言葉を吐くような下種であったなら、その舌を引き千切り、未来永劫淫魔どもの餌にしてやろうかと思っていたが……。どうやら君はそんな薄っぺらな現代人に比べて、いくらか気骨があるらしい。」
アルトは初めて表情を和らげた。
それがさっきの不機嫌さは嘘であったことを告げる。
「待ってはいないよ。君は私の予想よりも早くここにやってきた。そしてそこで自分に何度も問い掛けて躊躇った。レディを待たせるのは非常に無礼なことだが、君は私の誘いを私の魔眼を見ながらも迷った。素質はあるのだろうな。」
アルトは悪戯っぽい笑顔を俺に向けた。
「ツクモ、心して答えよ。汝にとって、永遠とは何か。」
「永遠……?」
気だるそうにソファーに座る彼女はただ、そうだ、と言う。
永遠…。
何故彼女がそんなことを聞きたがるのか理解が出来なかった。
でも、彼女の目は微笑んでいても本気だった。
俺は考える。
時計の針の音でさえ大きく感じてしまう程、ただ深く。
そして俺は一つの答えに辿り着く。
「永遠とは……、存在しないもの…。」
「ほう。存在しない、か。」
「俺にとってです。永遠と錯覚することはあっても、永遠に存在し続けることは出来ない。例えば想いは永遠に残るなんて言葉はあっても、いつか想いは忘れ去られて、仮に残されていてもその想いはオリジナルじゃない。誰かのフィルター越しの想いは、原始の姿を残していない。後世に残したいっていう世界遺産にしてもそうです。姿形は当時のままを残せても、材質やそこを行き交う人々は絶えず移り変わっていく。永遠とは存在しないもの。でも誰もが縋りたくなるもの。それが……、俺の考えです。」
アルトは俺の言葉を黙って聞いていた。
「……仮に、永遠の命なんてものを俺が得たとしても、それを俺は嘆くでしょう。友も愛する人もいない人生を生き続けなきゃいけない。強制的に、そして自分で終わらせることも出来ずに。それを望む人々にとってはそれは至上の喜びでしょう。でも、生き続けることが喜びじゃない。俺の喜びは……。」
そう、俺にとって今考えられる最上の喜びとは。
「俺の喜びは、命ある限りあなたの隣にいたい。」
「………見た目に似合わず古風な男だね、君は。」
「それは………、昔、柔術をかじっていたせいかもしれません…。」
俺は顔を伏せる。
何故か彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。
「……ツクモ、顔を上げなさい。」
バーでそうしたように、アルトが俺の顎を指ですくい上げる。
「君は永遠は存在しない、と言ったね。そして永遠の命も友も愛する者がいなければ欲しくはないと言ったね。では、もしも君の望むものが永遠に存在し、それが君を必要としたとしたら……、どうする?」
「え……。」
アルトが小さな口を開く。
赤い口紅の向こうに犬歯と言うにはあまりに大きく尖った歯が覗いていた。
まさか…。
いや、あまりに非現実的だ…。
でも彼女の美しさを考えれば……!
「私はヴァンパイア。君たちが吸血鬼と呼ぶ不死王の一人。君の目から私はいくつの娘に見えるかどうかわからないが、こう見えてもう1000年は軽く生きてきた。私が日本にやってきたのはね、私もそろそろ従者の一人でも欲しくなったのだよ。最近は輸血パックなんてジャンクフードが世に出回っているおかげで食に困ることはなくなったが、やはり生の血液は鮮度が格段に違いすぎる。だからって誰でも良いという訳でもないんだ。他の同種はどうなのか知らないが、私が欲しいのはまずは従者として夜の世界を知ってもらい、いつの日か私と同格の存在になれる者。さあ、ツクモ………。」
アルトが俺の耳元で囁いた。
「君が望むのなら、永遠をあげよう。君の嘆く友も愛する者もいない永遠ではない。君が望む、私の隣にいたいという望みを叶えられるのだ。その代わり人間はやめねばならない。太陽を捨て、信仰を捨て、退廃的な永遠の牢獄に囚われ続けなければならない。私は、強制はしない…。」
「俺は………。」
永遠なんていらない。
それは俺が寂しさに耐えられないからだ。
もしもその永遠に苦痛を伴わないのだったら…。
人間でい続けることに、何の意味はない。
「……そう、答えは決まっているのだね。では、ツクモ。君の首筋の甘い感触を楽しむ前に、一つやってもらおうか。」
アルトは俺の前に黒ストッキングに包まれた足を差し出した。
「忠誠の証に、私の足にキスを。」
「……はい、喜んで。」
彼女の差し出した右足を、丁寧に手で包むように抱えると俺は足の甲にキスをする。
――――――――――――――――――
情事が終わって、しばらく経って私は目を覚ました。
隣にはツクモの安らかな寝顔。
首筋には二つの穴。
私が咬み、彼の血を吸い、私の魔力を注いだという証。
「ふふ…、おいで…。」
彼が目を覚まさないように、やさしく引き寄せ、その顔を胸に沈めてしまう。
たった一目見た私を探していると聞いた時には、ただの好奇心だった。
だというのに、今はこんなにも愛しく感じてしまっている。
永遠を否定した彼。
だけどそれは永遠への憧れの裏返し。
そして永遠を欲しいと思った理由は私への想い。
そんな男を、手放せる訳がないじゃないか…。
そう思った時、一つの疑念が過ぎる。
「………あの女、まさかここまで視ていたんじゃなかろうか。」
あり得るだけに私は、彼を連れて日本を発つ前にあの女に問い詰めようと決心する。
それにしても……、一目惚れを信じているのか……、か…。
それはまるで私のことじゃないか。
私の隣にいたい、とあんなにハッキリと言われて心の奥底で喜んでいた私がいる。
それなら、一緒にいよう。
100年でも200年でも、それこそ永遠に。
私だけを見て、私のことだけしか考えられないくらいに、愛してあげよう。
でも……、君は私の愛を信じないで良い。
所詮、私は人の恐れる夜の闇に生きる死者。
自分の都合を、君の想いを利用しているにすぎない…。
「………………………。」
「……ツクモ、目が覚めたかい?」
否定するように、彼が私の胸にさらに深く潜り込む。
「否定に、なっていないよ…。」
「……何だか、ひどく悲しい夢を見ました。あなたが、俺を冷たく突き放す夢。なのにあなたが悲しそうに泣いている夢を…。」
「………そうか。」
血液とは魂、魂とは思いだと聞いたことがある。
絵空事と考えていたが、あながちそうでもないらしい。
「俺は信じます。アルトが愛を信じなくて良いと言っても、俺はこの命が……、いえ。この身体が滅ぶまであなたの愛を信じて、あなたを愛し続けます。」
「………馬鹿。」
もうすぐ日が昇る。
私たちの存在してはいけない境界線。
だからこのまま寝よう。
一つのシーツに包まって、二人で同じ夢でも見続けよう。
退屈だった日々が終わる。
これからは永遠の終わらない夢が見られそうだ。
ああ、どうか……。
これが夢でありませんように…。
11/02/15 00:36更新 / 宿利京祐