第六十九話・Faceless assassin
男に顔はなかった。
誰かと擦れ違うたびに顔が変わっていく。
厳つい肉体労働者風の青年、
陰気で骸骨のようにやせ細った老人、
高貴な身分のような美女、
様々な人種や顔に変化する男は尾行を撒くために擦れ違うたびに変装を変えていく。
尾行するのはヴルトームの部下。
彼女もまた、自分たちが町へ辿り着く前に、ロウガという男が如何なる男か、名もなき町とはどのような町なのかを調査させるために、先行して秘密裏に部下を潜入させていた。
それが突如届いたネヴィア暗殺予告を受けて、ヴルトームの指示の下、魔王軍にとっても同盟関係にあるパンデモニウムから預かったネヴィアの命を守るために、彼らはたった一人の男を追いかけていた。
男の名はアルスタイト。
本名は明らかになっておらず、ただ彼の通称、『代行者』という名が知られるのみ。
教会の、神の、神罰の代行者。
ヴァルハリア教会司祭の表の顔を持ち、対外的にではあるが教会非公認で教会に対抗する者を秘密裏に消し去る暗殺者としての裏の顔を持つアルスタイトは、追手が迫っているというのに、その追手を嘲笑うようにいくつも顔を変え、ヴルトームの部下を翻弄していた。
彼女の部下も人の波に一瞬消えるたびに姿形が変わるアルスタイトを何度も見失い、見失うたびに彼らに挑発的に微笑みかけるアルスタイトに、薄気味悪い思いを感じながらも命令通りに彼を追い続けていた。
だが、彼らの苦労は報われることはなく、再び人々の雑踏に紛れてしまうと二度とその姿を現さなかった。
ただ一つ。
追手の一人の耳元に囁きを残して。
「安心しなさい。まだ殺してあげない。」
アルスタイトは神に愛されし者。
彼に関する記述にこういう文言がある。
それは宗教的意味合いではなく、ある意味それは誇張表現の大きな教会歴史資料の中でも数少ない的確で、客観的な表現であると言える。
アルスタイトは物心付く頃には、教会で修道士として生きていた。
神の教えを決して疑わず、幼くして経典を一字一句まで諳んじるという神童であったという。
それだけの経歴を見ても神に愛されているという記述は頷けるものがある。
だが、決定的な彼の人間的な欠陥が教会的に見て、神の寵愛を受けていると言っても過言ではなかった。
痛覚の欠落。
それが最初のアルスタイトの奇跡。
彼は傷付くことを恐れず、神の教えに忠実に、教会の正義を貫き、修道士時代から反魔物闘争に身を投じていたのである。
それは傷付くことを恐れないのではなく、傷付くという認識を知らぬ彼だからこそ出来たことなのだ。
そして彼が成長し、思春期を迎えた頃に発覚した第二の奇跡。
完全なる不能、性的感覚の完全なる欠如。
教会はその事実を知ると、アルスタイトを修道士から司祭へと昇格させた。
この世界に蔓延る不浄と快楽から解放されし者として彼は記録されている。
だが、その頃から彼は闇へと堕ちていった。
まず彼の飼い猫だった黒猫が、赤く染まった。
首の骨を砕かれ、両目を抉り、震えるように痙攣する猫を、真っ赤な手で握り潰す彼の姿が、同僚の司祭に目撃されている。
驚き問いただす同僚に、彼は悪びれる様子もなく、
「この子が、魔物になってしまう前に神の元へ送ったのです。」
と、平然といつも通りに微笑んで答えると、そのまま抉り取った猫の瞳を祭壇に捧げ、神への祈りを捧げたのだという。
同僚が残した日誌によれば、彼のそういった行動は度々見られたという。
猫、馬、牛など魔物たちを僅かでもイメージさせるものは、大概手にかけた。
そして、その標的が人間に向かうまで、それ程時間はかからなかった。
ある日、同僚が朝の祈りを済ませ、日課であった花壇への水遣りのために庭に出ると、彼は腰を抜かし、悲鳴を上げて花壇への肥料や水を投げ捨てて教会へと逃げ込んだ。
庭の木に、少女が首に縄をかけられて吊るされていた。
その少女は教会のあった村の娘で、気立てが良く、貧しい家庭のために畑で出来た野菜を売り、その僅かな売り上げで慎ましく暮らす、村の男の誰もが恋をするような笑顔の可愛い少女であった。
同僚の司祭はアルスタイトを問い詰めた。
するとやはり彼は否定する訳でもなく、平然と答えたという。
「人々を堕落させる程美しいあの娘は、きっとサキュバスだったのでしょう。でもご安心なさい。悪の芽は私がすべて摘み取っておきましたから。」
同僚が彼の言葉に驚いていると、その知らせはまるで閃光のような速さで彼の耳に届いた。
少女の一家は全員、血の海に沈んでいたと。
それから彼が暗殺者になるまで如何なる経緯を辿ったのかは明らかになっていない。
ただ一つわかっていることは、彼は欠落した感覚、欠落した快楽の代償として他人を欺き、怯える敵を嘲笑い、その刃物を突き刺すことで、肉体的な快楽から精神的な快楽を求めるようになったということである。
そして教会の指示によらない暗殺を決行する時、彼が狙う人物には共通点があった。
それは美しいこと。
瞳が、スタイルが、髪が、肌が、指が、魂が。
あらゆる美しいという要素を持つ、魔物や親魔物派の人物が彼にとって命を狙うに値する。
彼は我慢出来ないのだ。
美は唯神のために、それが彼、アルスタイトの信条。
だからこそ、彼はネヴィアを狙う。
神を裏切り、堕落した神に帰依した彼女が今でも持つ絶対的な美を、彼は今こそ神に捧げなければならないと思っているのである。
彼は生まれた時から教会の教義のみを支えに生きていた。
だから彼は心から魔物を憎む。
彼自身に直接的な恨みはないのに、心にもない憎しみを、心から燃やして。
ついに今夜だ。
今夜12時、裏切り者は私のナイフで赤く染まる。
嗚呼、きっと彼女なら…。
これまでの私の仕事で、きっと誰よりも美しいだろう。
きっと神はお喜びになるだろう。
一度は神を裏切った彼女でも、あの美しさならば神もきっと許すだろう。
教会の指示であの男を狙ったが、あの男を諦めて良かった。
あの男は私が殺すに値する者ではあったが、やはり彼女には及ばない。
何より私の手紙を読まずに埋もれさせるような、マナーのなっていない彼には些か失望したというのもあるのですが…。
しかし……、教会には彼女を狙う旨の手紙を連絡員に持たせたというのに、未だに返事が返って来ないというのは少々不審ですね。
あちらからもロウガの暗殺指示があったきり、一度も別の指示が届いていない。
教会の方で何か重大なことでも起こったのでしょうか…。
「ふふふ……、まあ良いでしょう。今夜は楽しみましょう。あなたは死ぬ。きっと死ぬ。私という卑しき犬に殺されて、あなたは神の下で煌々と輝き続ける星になる。嗚呼、待ち遠しい。後5時間がこれ程までに長く感じてしまうなんて今までになかったことです。あなたはどんな手段で私を阻むのですか?どれ程の規模で私を迎えてくれるのですか?あなたは、どんな血の色をしているのですか?」
連絡員も途絶え、教会からの指示も途絶えた彼には知る由もない。
この時、教会にはすでにハインケル=ゼファーがその口先で大司教たちを意のままに動かし、円卓会議で隣国にして同胞、神聖ルオゥム帝国を逆賊として討伐を決定する会議が開かれていることなど。
そして、彼の放った連絡員は尽く、大司教への報告が届く寸前で彼の配下であるクロコに討ち取られていたことなど、この町にまだ情報が届く前だった彼には知る由もなかったのである。
―――――――――――――――――――――――
「…………悪いが、俺の知ったことではない。」
昨夜、泣きながら助けを請うガーベラにそう告げてから俺は一睡も出来ないまま、朝を向かえ、再び夜を迎えていた。
店の柱時計が10回、その鐘を鳴らした。
俺らしくもなく、皿洗いや裏方の仕事に集中も出来ず、俺はアケミに与えられた部屋の中で一人、店の喧騒を感じながら、目を閉じて静かに正座をしていた。
あの娘、怒っていたな…。
『剣士さんの馬鹿!良いよ、もう頼まない!天使様は私一人でも守るから!!』
あの声が、ガキのキンキンした高い声が今も耳を離れない。
他人の面倒事に関わるのはごめんだ。
第一、俺は剣を捨てたのだ。
剣を握る価値のない俺に何が…、出来るというのだ…。
失った左腕がズキズキと痛む。
俺には何も出来ない。
強い、俺は誰よりも強いと思っていたのに、俺はこの町で敗北を喫した。
俺の戦いに敗北は許されなかったのに…。
復讐こそ我が使命、生き続けるたった一つの理由。
だが、俺は倒された。
命を奪われることなく、自害することもなく生き恥を晒している。
そんな男に剣を握る資格などない……。
「……資格など、ないのに!」
畳張りの床を苛立って力一杯叩いた。
こうして座っている自分に苛立ってくる。
関係ない、知ったことではない。
なのに何故、俺はあの娘を気にしているのだ!
『私は剣士さんはすっごく強い人だと思ってますよ。』
違う、俺は強くなどない。
真っ直ぐな目で…、俺を見るな!
ガーベラは退くことを知らないから、きっと本当に暗殺者の前に立ち、あの娘の言う天使とやらを守ろうとするだろう。
だが、あの娘の技量ではどう足掻いても太刀打ち出来ないのは目に見えている。
血溜まりに沈む、暗い目をしたガーベラの姿が頭をよぎる。
そしてその光景に、俺は………、
大事な人を守れなかったあの日の俺を重ねてしまった。
残った生身の右腕は剣を求めている。
例え俺に剣を握る資格がないとしても、せめて一度だけで良い。
たった一度で良いんだ。
救える命を、この手で掴みたい。
俺を信じる瞳を……、
これ以上俺自身を裏切れない!
「……お行きなさいな。」
「アケミ…。」
処分してもらった剣を抱えたアケミが部屋の入り口に立っていた。
「…これが最後ですよ。きっとここがあなたの分岐点。いくつも存在した分岐点の最後の決断。もしも決断しなければ、本当にあなたは燻ったまま、あなたの言う通りにゆっくりと朽ちていくんですから。」
「…何故、そう言い切れる。」
少しだけ遠い目をして、アケミは後ろ髪を掻き揚げながら言った。
「……昔ね、飲み屋を始める前にちょっと占いで食っていたんです。色々思う所あって、長年の友人の下から離れて、ある男の噂を聞いて…、この町に流れ着いたんですよ。今でも時々、良い目をした人を見付けるとこっそり占っているんです。それで出た結果は、あなたの運命はまさに今夜、分岐点を迎えます。ですから、お行きなさい。行って、自分が何のために剣を握ったのかを思い出して来なさい。ロウガにエレナが必要だったように、ウェールズ。あなたにはガーベラという存在が必要だったのです。ですが、忘れちゃ駄目ですよ。あなたは一人じゃない。あなたの魂に形を与えてくれた人、あなたの歪な魂を壊した人、そしてあなたの魂の本当の輝きに気付いた少女があなたに力を貸してくれると言うことを…。」
アケミが俺に剣を手渡した。
今まで感じたことのない重みが、再び俺の手に戻る。
「……微力を尽くす。」
「…不安、ですよね。じゃあ、おまじないを上げましょう。これを持って行きなさい♪」
アケミが自分のしていた細身のネックレスを外すと、俺の前から背伸びをし、首の後ろに手を伸ばして、そのネックレスを着けた。
小さな淡い桜色の宝石にシンプルなチェーンのデザインのネックレスが俺の首にかかる。
「………これは、由緒ある品なんですよ。友人がくれた物なんですけど、これをしていると、どんなに苦しい時でもいつも誰かが見守ってくれているのを実感出来るすごい代物なんですから。」
「…俺は。」
一人だ、と言おうとするとアケミが人差し指で俺の口を軽く押さえた。
「一人じゃない。あなたはどれだけの人に支えられているのか私にもわかりません。あなたの行方不明のお母さん、あなたを救ってくれた人たち、あなたを信じてくれるガーベラちゃん。そして、生きて帰ってくると信じてる私。」
「…………………何故、信じられる。」
「何故も何もありませんよ。私たちが勝手に信じているんですからね。でも、あなたはそれを無視出来る程、冷めた男じゃない。あなたは冷めたフリをしなければ戦えず、そうでなければ生き残れなかった人。」
アケミの言葉に、思わず首にかけられたネックレスを握った。
「信じなさい。私が出来るのはここまで。後はあなたが自分の力で、自分の運命を勝ち取ってきなさい。きっとそのネックレスが守ってくれますよ。」
「…そんなにありがたいものなのか?」
「そうですね…。私が友人の下を離れる時に餞別でもらった、ただの友情の証ですけど。元の持ち主は通称、魔王って呼ばれてますけどね♪」
「……………な!?お前は…、一体…!?」
「誰にも言っちゃ嫌ですよ。元魔王軍元帥は伊達じゃないんですから♪」
「…!?………そうか、そうだな。ふふふ…、あはははははは!」
馬鹿らしい。
俺は、何を長いこと迷っていたのだ。
そして俺の何と小さなことか。
敗れて当然か。
俺は所詮、俺のために戦った。
サクラという少年は言っていたじゃないか。
愛する人々を、添い遂げたいと思う人を守りたいから戦う、と。
俺より年下の少年が、多くの命を背負っているのに、俺はたった一人。
俺の命すら背負ってはいなかったではないか。
馬鹿らしい話だ。
勝てる訳がないじゃないか。
アケミにしてもそうだ。
より多くの命を預かった彼女にしてみれば、俺なんかどれ程の幼子か。
柱時計が11回、その鐘を盛大に鳴らした。
「やっと笑いましたね。そのネックレス、必ず返しに来るんですよ。」
「ああ、わかっている。帰ってくる時は、ガーベラも連れて帰らねばならぬな。」
「ふふ、当たり前です。」
行こう、もう迷いはない。
俺は所詮一人。
だが、必ずしも一人じゃない。
仮初めの棲家とは言え、笑顔で送り出してくれる者がいる。
見ず知らずの俺に懐いて、俺のために怒ってくれる少女がいる。
この胸に、まだ母さんの宿してくれた魂が生きている。
それで、十分じゃないか。
復讐は一先ずお預けだ。
義手に力が入る。
復讐に身を染めて以来、初めてこの義手が軽く感じる。
ガーベラ、アケミ……、そして俺がこれまで討ち果たした数多の魂よ。
遅くなってすまなかった…。
俺は、お前たちが誇れる俺を目指すよ。
「……我が名はウェールズ=ドライグ。我、喰らう者。神を嘲笑い、教会の正義を喰らい、自ら望んで剣にその命を賭ける者。我は一人、我は数多の絆に支えられし、誇り高き龍の子なり!」
漆黒の剣士が繁華街の裏通りを駆ける。
少女が待つ館まで後少し。
冷たい身体に初めて熱い血潮を感じる剣士は
これまでの人生を悔やみながら、少女を追いかける。
間に合ってくれ、間に合ってくれと
逸る心と耳に、町の教会の12の鐘の音が響き渡る。
剣士は疾る。
初めて、その腰に下げた剣に魂を託して。
覚醒した龍の子は、歪な闇を喰らい尽くすため走り続けた。
誰かと擦れ違うたびに顔が変わっていく。
厳つい肉体労働者風の青年、
陰気で骸骨のようにやせ細った老人、
高貴な身分のような美女、
様々な人種や顔に変化する男は尾行を撒くために擦れ違うたびに変装を変えていく。
尾行するのはヴルトームの部下。
彼女もまた、自分たちが町へ辿り着く前に、ロウガという男が如何なる男か、名もなき町とはどのような町なのかを調査させるために、先行して秘密裏に部下を潜入させていた。
それが突如届いたネヴィア暗殺予告を受けて、ヴルトームの指示の下、魔王軍にとっても同盟関係にあるパンデモニウムから預かったネヴィアの命を守るために、彼らはたった一人の男を追いかけていた。
男の名はアルスタイト。
本名は明らかになっておらず、ただ彼の通称、『代行者』という名が知られるのみ。
教会の、神の、神罰の代行者。
ヴァルハリア教会司祭の表の顔を持ち、対外的にではあるが教会非公認で教会に対抗する者を秘密裏に消し去る暗殺者としての裏の顔を持つアルスタイトは、追手が迫っているというのに、その追手を嘲笑うようにいくつも顔を変え、ヴルトームの部下を翻弄していた。
彼女の部下も人の波に一瞬消えるたびに姿形が変わるアルスタイトを何度も見失い、見失うたびに彼らに挑発的に微笑みかけるアルスタイトに、薄気味悪い思いを感じながらも命令通りに彼を追い続けていた。
だが、彼らの苦労は報われることはなく、再び人々の雑踏に紛れてしまうと二度とその姿を現さなかった。
ただ一つ。
追手の一人の耳元に囁きを残して。
「安心しなさい。まだ殺してあげない。」
アルスタイトは神に愛されし者。
彼に関する記述にこういう文言がある。
それは宗教的意味合いではなく、ある意味それは誇張表現の大きな教会歴史資料の中でも数少ない的確で、客観的な表現であると言える。
アルスタイトは物心付く頃には、教会で修道士として生きていた。
神の教えを決して疑わず、幼くして経典を一字一句まで諳んじるという神童であったという。
それだけの経歴を見ても神に愛されているという記述は頷けるものがある。
だが、決定的な彼の人間的な欠陥が教会的に見て、神の寵愛を受けていると言っても過言ではなかった。
痛覚の欠落。
それが最初のアルスタイトの奇跡。
彼は傷付くことを恐れず、神の教えに忠実に、教会の正義を貫き、修道士時代から反魔物闘争に身を投じていたのである。
それは傷付くことを恐れないのではなく、傷付くという認識を知らぬ彼だからこそ出来たことなのだ。
そして彼が成長し、思春期を迎えた頃に発覚した第二の奇跡。
完全なる不能、性的感覚の完全なる欠如。
教会はその事実を知ると、アルスタイトを修道士から司祭へと昇格させた。
この世界に蔓延る不浄と快楽から解放されし者として彼は記録されている。
だが、その頃から彼は闇へと堕ちていった。
まず彼の飼い猫だった黒猫が、赤く染まった。
首の骨を砕かれ、両目を抉り、震えるように痙攣する猫を、真っ赤な手で握り潰す彼の姿が、同僚の司祭に目撃されている。
驚き問いただす同僚に、彼は悪びれる様子もなく、
「この子が、魔物になってしまう前に神の元へ送ったのです。」
と、平然といつも通りに微笑んで答えると、そのまま抉り取った猫の瞳を祭壇に捧げ、神への祈りを捧げたのだという。
同僚が残した日誌によれば、彼のそういった行動は度々見られたという。
猫、馬、牛など魔物たちを僅かでもイメージさせるものは、大概手にかけた。
そして、その標的が人間に向かうまで、それ程時間はかからなかった。
ある日、同僚が朝の祈りを済ませ、日課であった花壇への水遣りのために庭に出ると、彼は腰を抜かし、悲鳴を上げて花壇への肥料や水を投げ捨てて教会へと逃げ込んだ。
庭の木に、少女が首に縄をかけられて吊るされていた。
その少女は教会のあった村の娘で、気立てが良く、貧しい家庭のために畑で出来た野菜を売り、その僅かな売り上げで慎ましく暮らす、村の男の誰もが恋をするような笑顔の可愛い少女であった。
同僚の司祭はアルスタイトを問い詰めた。
するとやはり彼は否定する訳でもなく、平然と答えたという。
「人々を堕落させる程美しいあの娘は、きっとサキュバスだったのでしょう。でもご安心なさい。悪の芽は私がすべて摘み取っておきましたから。」
同僚が彼の言葉に驚いていると、その知らせはまるで閃光のような速さで彼の耳に届いた。
少女の一家は全員、血の海に沈んでいたと。
それから彼が暗殺者になるまで如何なる経緯を辿ったのかは明らかになっていない。
ただ一つわかっていることは、彼は欠落した感覚、欠落した快楽の代償として他人を欺き、怯える敵を嘲笑い、その刃物を突き刺すことで、肉体的な快楽から精神的な快楽を求めるようになったということである。
そして教会の指示によらない暗殺を決行する時、彼が狙う人物には共通点があった。
それは美しいこと。
瞳が、スタイルが、髪が、肌が、指が、魂が。
あらゆる美しいという要素を持つ、魔物や親魔物派の人物が彼にとって命を狙うに値する。
彼は我慢出来ないのだ。
美は唯神のために、それが彼、アルスタイトの信条。
だからこそ、彼はネヴィアを狙う。
神を裏切り、堕落した神に帰依した彼女が今でも持つ絶対的な美を、彼は今こそ神に捧げなければならないと思っているのである。
彼は生まれた時から教会の教義のみを支えに生きていた。
だから彼は心から魔物を憎む。
彼自身に直接的な恨みはないのに、心にもない憎しみを、心から燃やして。
ついに今夜だ。
今夜12時、裏切り者は私のナイフで赤く染まる。
嗚呼、きっと彼女なら…。
これまでの私の仕事で、きっと誰よりも美しいだろう。
きっと神はお喜びになるだろう。
一度は神を裏切った彼女でも、あの美しさならば神もきっと許すだろう。
教会の指示であの男を狙ったが、あの男を諦めて良かった。
あの男は私が殺すに値する者ではあったが、やはり彼女には及ばない。
何より私の手紙を読まずに埋もれさせるような、マナーのなっていない彼には些か失望したというのもあるのですが…。
しかし……、教会には彼女を狙う旨の手紙を連絡員に持たせたというのに、未だに返事が返って来ないというのは少々不審ですね。
あちらからもロウガの暗殺指示があったきり、一度も別の指示が届いていない。
教会の方で何か重大なことでも起こったのでしょうか…。
「ふふふ……、まあ良いでしょう。今夜は楽しみましょう。あなたは死ぬ。きっと死ぬ。私という卑しき犬に殺されて、あなたは神の下で煌々と輝き続ける星になる。嗚呼、待ち遠しい。後5時間がこれ程までに長く感じてしまうなんて今までになかったことです。あなたはどんな手段で私を阻むのですか?どれ程の規模で私を迎えてくれるのですか?あなたは、どんな血の色をしているのですか?」
連絡員も途絶え、教会からの指示も途絶えた彼には知る由もない。
この時、教会にはすでにハインケル=ゼファーがその口先で大司教たちを意のままに動かし、円卓会議で隣国にして同胞、神聖ルオゥム帝国を逆賊として討伐を決定する会議が開かれていることなど。
そして、彼の放った連絡員は尽く、大司教への報告が届く寸前で彼の配下であるクロコに討ち取られていたことなど、この町にまだ情報が届く前だった彼には知る由もなかったのである。
―――――――――――――――――――――――
「…………悪いが、俺の知ったことではない。」
昨夜、泣きながら助けを請うガーベラにそう告げてから俺は一睡も出来ないまま、朝を向かえ、再び夜を迎えていた。
店の柱時計が10回、その鐘を鳴らした。
俺らしくもなく、皿洗いや裏方の仕事に集中も出来ず、俺はアケミに与えられた部屋の中で一人、店の喧騒を感じながら、目を閉じて静かに正座をしていた。
あの娘、怒っていたな…。
『剣士さんの馬鹿!良いよ、もう頼まない!天使様は私一人でも守るから!!』
あの声が、ガキのキンキンした高い声が今も耳を離れない。
他人の面倒事に関わるのはごめんだ。
第一、俺は剣を捨てたのだ。
剣を握る価値のない俺に何が…、出来るというのだ…。
失った左腕がズキズキと痛む。
俺には何も出来ない。
強い、俺は誰よりも強いと思っていたのに、俺はこの町で敗北を喫した。
俺の戦いに敗北は許されなかったのに…。
復讐こそ我が使命、生き続けるたった一つの理由。
だが、俺は倒された。
命を奪われることなく、自害することもなく生き恥を晒している。
そんな男に剣を握る資格などない……。
「……資格など、ないのに!」
畳張りの床を苛立って力一杯叩いた。
こうして座っている自分に苛立ってくる。
関係ない、知ったことではない。
なのに何故、俺はあの娘を気にしているのだ!
『私は剣士さんはすっごく強い人だと思ってますよ。』
違う、俺は強くなどない。
真っ直ぐな目で…、俺を見るな!
ガーベラは退くことを知らないから、きっと本当に暗殺者の前に立ち、あの娘の言う天使とやらを守ろうとするだろう。
だが、あの娘の技量ではどう足掻いても太刀打ち出来ないのは目に見えている。
血溜まりに沈む、暗い目をしたガーベラの姿が頭をよぎる。
そしてその光景に、俺は………、
大事な人を守れなかったあの日の俺を重ねてしまった。
残った生身の右腕は剣を求めている。
例え俺に剣を握る資格がないとしても、せめて一度だけで良い。
たった一度で良いんだ。
救える命を、この手で掴みたい。
俺を信じる瞳を……、
これ以上俺自身を裏切れない!
「……お行きなさいな。」
「アケミ…。」
処分してもらった剣を抱えたアケミが部屋の入り口に立っていた。
「…これが最後ですよ。きっとここがあなたの分岐点。いくつも存在した分岐点の最後の決断。もしも決断しなければ、本当にあなたは燻ったまま、あなたの言う通りにゆっくりと朽ちていくんですから。」
「…何故、そう言い切れる。」
少しだけ遠い目をして、アケミは後ろ髪を掻き揚げながら言った。
「……昔ね、飲み屋を始める前にちょっと占いで食っていたんです。色々思う所あって、長年の友人の下から離れて、ある男の噂を聞いて…、この町に流れ着いたんですよ。今でも時々、良い目をした人を見付けるとこっそり占っているんです。それで出た結果は、あなたの運命はまさに今夜、分岐点を迎えます。ですから、お行きなさい。行って、自分が何のために剣を握ったのかを思い出して来なさい。ロウガにエレナが必要だったように、ウェールズ。あなたにはガーベラという存在が必要だったのです。ですが、忘れちゃ駄目ですよ。あなたは一人じゃない。あなたの魂に形を与えてくれた人、あなたの歪な魂を壊した人、そしてあなたの魂の本当の輝きに気付いた少女があなたに力を貸してくれると言うことを…。」
アケミが俺に剣を手渡した。
今まで感じたことのない重みが、再び俺の手に戻る。
「……微力を尽くす。」
「…不安、ですよね。じゃあ、おまじないを上げましょう。これを持って行きなさい♪」
アケミが自分のしていた細身のネックレスを外すと、俺の前から背伸びをし、首の後ろに手を伸ばして、そのネックレスを着けた。
小さな淡い桜色の宝石にシンプルなチェーンのデザインのネックレスが俺の首にかかる。
「………これは、由緒ある品なんですよ。友人がくれた物なんですけど、これをしていると、どんなに苦しい時でもいつも誰かが見守ってくれているのを実感出来るすごい代物なんですから。」
「…俺は。」
一人だ、と言おうとするとアケミが人差し指で俺の口を軽く押さえた。
「一人じゃない。あなたはどれだけの人に支えられているのか私にもわかりません。あなたの行方不明のお母さん、あなたを救ってくれた人たち、あなたを信じてくれるガーベラちゃん。そして、生きて帰ってくると信じてる私。」
「…………………何故、信じられる。」
「何故も何もありませんよ。私たちが勝手に信じているんですからね。でも、あなたはそれを無視出来る程、冷めた男じゃない。あなたは冷めたフリをしなければ戦えず、そうでなければ生き残れなかった人。」
アケミの言葉に、思わず首にかけられたネックレスを握った。
「信じなさい。私が出来るのはここまで。後はあなたが自分の力で、自分の運命を勝ち取ってきなさい。きっとそのネックレスが守ってくれますよ。」
「…そんなにありがたいものなのか?」
「そうですね…。私が友人の下を離れる時に餞別でもらった、ただの友情の証ですけど。元の持ち主は通称、魔王って呼ばれてますけどね♪」
「……………な!?お前は…、一体…!?」
「誰にも言っちゃ嫌ですよ。元魔王軍元帥は伊達じゃないんですから♪」
「…!?………そうか、そうだな。ふふふ…、あはははははは!」
馬鹿らしい。
俺は、何を長いこと迷っていたのだ。
そして俺の何と小さなことか。
敗れて当然か。
俺は所詮、俺のために戦った。
サクラという少年は言っていたじゃないか。
愛する人々を、添い遂げたいと思う人を守りたいから戦う、と。
俺より年下の少年が、多くの命を背負っているのに、俺はたった一人。
俺の命すら背負ってはいなかったではないか。
馬鹿らしい話だ。
勝てる訳がないじゃないか。
アケミにしてもそうだ。
より多くの命を預かった彼女にしてみれば、俺なんかどれ程の幼子か。
柱時計が11回、その鐘を盛大に鳴らした。
「やっと笑いましたね。そのネックレス、必ず返しに来るんですよ。」
「ああ、わかっている。帰ってくる時は、ガーベラも連れて帰らねばならぬな。」
「ふふ、当たり前です。」
行こう、もう迷いはない。
俺は所詮一人。
だが、必ずしも一人じゃない。
仮初めの棲家とは言え、笑顔で送り出してくれる者がいる。
見ず知らずの俺に懐いて、俺のために怒ってくれる少女がいる。
この胸に、まだ母さんの宿してくれた魂が生きている。
それで、十分じゃないか。
復讐は一先ずお預けだ。
義手に力が入る。
復讐に身を染めて以来、初めてこの義手が軽く感じる。
ガーベラ、アケミ……、そして俺がこれまで討ち果たした数多の魂よ。
遅くなってすまなかった…。
俺は、お前たちが誇れる俺を目指すよ。
「……我が名はウェールズ=ドライグ。我、喰らう者。神を嘲笑い、教会の正義を喰らい、自ら望んで剣にその命を賭ける者。我は一人、我は数多の絆に支えられし、誇り高き龍の子なり!」
漆黒の剣士が繁華街の裏通りを駆ける。
少女が待つ館まで後少し。
冷たい身体に初めて熱い血潮を感じる剣士は
これまでの人生を悔やみながら、少女を追いかける。
間に合ってくれ、間に合ってくれと
逸る心と耳に、町の教会の12の鐘の音が響き渡る。
剣士は疾る。
初めて、その腰に下げた剣に魂を託して。
覚醒した龍の子は、歪な闇を喰らい尽くすため走り続けた。
11/01/18 23:24更新 / 宿利京祐
戻る
次へ