リップクリーム
季節は真冬。
とある大学の片隅、時代を感じる古びた研究棟の一室、暖房の効いた温い室内にて。
頭髪と下半身に蛇の特徴を持つ魔物、メドゥーサであるところの蛇ノ目明歩は、テーブルの上に置かれた一つの小さな『物体』をじぃっと凝視していた。セミロングの髪先にうごめく数十の蛇達も、それに追随して全員が同じ一点を注視している。彼女の眉間には皺が深く刻まれていて、まさしく真剣そのものといった印象だ。
しばらくそうして。躊躇を一瞬、明歩はおもむろに手を伸ばす。
短く細い円柱状の『物体』をそっと手に取ると、先端を覆う白いキャップを取り外した。
そしてその逆側、底の部分にあるダイアル様のツマミを、繊細かつしなやかな指先でくるくると回転させると。キャップが外れた先端からさながら口紅のように、しかし決して鮮やかな紅ではない乳白色の物体が、じわじわとせり上がってきた。
……早い話が、それはただのリップクリームだった。
そこらのドラッグストアに百円未満の価格で投げ売りされているような、それこそどこにでもある何の変哲もない、それはただのリップクリームだった。
じめじめとした真夏とは違いカラカラに乾ききった冬場の空気は、女性の肌の天敵だ。明歩は人間などより遥かに身体の丈夫な魔物、しかしこうも空気が乾燥していれば、その肌も流石に堪えるというものだ。ハンドクリームや乳液などの肌の乾燥を防ぐアイテムは、その全てが女性で占められている魔物達にとっても確かな必需品なのだった。
当然、唇の荒れを防ぐリップクリームもその一つだ。
唇も女性の顔の一部分。ヒビ割れて白く粉を吹いた唇など、魅力に欠ける。
明歩もそうして冬の乾燥に悩まされている内の一人なのだろう。実際に彼女の唇は室内の暖房にあてられたのも相まって、徐々に乾き始めていた。
「……うー」
……だというのに。
なぜか明歩はリップクリームの先端を凝視したまま、ピクリとも動こうとしなかった。口からは小さく唸り声だけを零しつつ、依然として眉根と視線を寄せ続けるのみだ。彼女の本心を表現する髪先の蛇達は、各々がそれぞれに悩ましげにその身をくねらせていて、彼女の胸中の葛藤を如実に表していた。
しばし、石像のように固まる。
その様は、睨んだ相手を石へと変えるメドゥーサの名折れである。
「……あっ」
そのままたっぷり数分が過ぎて。
ふと、蛇達の中で最も勇敢な、つまりは明歩の持つ勇気を一番色濃く反映させた一匹が、彼女の手に触れた。それを皮切りに他の蛇達も、まるで応援するかのように次々と明歩の手に寄り添っていく。その姿からは、今にも「頑張れ」という声援が聞こえてきそうだった。
……その光景を見て。明歩は意を決したように、きりりと表情を引き締めた。
一つだけ深呼吸をして、心を落ち着ける。震える指先を制しながら、乳白色の先端を自身の下唇へと近づけていく。軽く目を閉じる彼女の姿は、さながら想い人からのキスを待ち受けているようにも見えた。
十秒ほどの時間をかけて。それは薄桃色の粘膜と、ぴたりと触れ合った。
熱く湿った吐息が、明歩の喉奥からはぁと漏れ出る。
既に何度も使用されているのだろうその先端は、真ん中の部分だけが溝になって凹んでいる。その溝を唇に添わせるようにゆっくりとリップクリームを動かすと、溶け出した成分がねっとりと下唇に纏わりつき、乾き始めていた表面を潤していった。
口角から口角までを丹念に塗り終えると、そのまま上唇にも滑らせ、同じように塗りつける。元々綺麗に色付いていた粘膜はつやつやとした光沢に包まれていき、明歩の美貌をさらなる艶やかさで彩った。
上唇にも一通り塗り終えたあとは、唇同士を互いに擦り合わせて……念入りに、ともすれば執拗とも言い換えられるほどに念入りに、クリームを粘膜内に馴染ませていった。
「は、あ……っ」
馴染ませ終わって。
明歩はまるで一仕事終えた後であるかのように、一息ついた。気が抜けて呆けた顔は、幸福と後悔という相反する二つの感情を同居させたような、そんな何とも言えない複雑な表情で満たされている。仮にそれを見た人物が、リップクリームを塗るくらいで何をそんなに大袈裟な、という感想を抱いたとするならば、それは誠にその通りと言う他無いだろう。
「……」
呆けたままの明歩は、使い終えたリップクリームをぼんやりと見つめていた。
視線を虚ろにした、魂がするりと抜けてしまったような表情は、頬がわずかな朱に染まっているのも相まって、女性が絶頂に達したしばし後の如き妖艶なエロティックさをも醸し出している。
「……もう、一回……」
その顔のまま、明歩はぼんやりと呟き。
何を思ったか、再びリップクリームの先端を唇に押し当てて。
ゆっくり、じっくりと、丹念に、粘膜へと塗り込み始めて……
「あ、あったかぁ……」
ガタリと建て付けの悪い音を立てて、研究室の扉が開かれる。
同時、大学の研究課題における明歩のパートナーであるところの大葉爽司は、暖房の効いた室内へと大急ぎで転がり込んだ。身体を丸め、凍えるように両肩を抱くその様は、本日の廊下の寒さをありありと物語っている。
「ふふ、おかえりなさい、大葉くん」
そんな彼に対して、明歩は喉奥から零れる可笑しみを隠そうともせずに、部屋の奥から声をかけた。
少々遠慮に欠ける彼女の様子は、爽司への信頼の現れなのだろう。嬉しそうに身体を揺らしながら彼を眺める蛇達の様子からも、その親しみの程が伺えるというものだ。
「た、ただいま蛇ノ目さん……」
「お手洗いに行くだけにしては随分と遅かったみたいだけど、何かあったの?」
「研究棟のトイレの配管が凍ってて使えなくなったとかで、本棟まで行く羽目になったんだ……」
「ああ、それだと時間もかかるわね、一旦外に出ないといけないし……え? もしかして、その格好で……?」
本日の天気は曇り。
雪こそ降ってはいないものの、気温は氷点下を下回り、寒風も強く吹き荒んでいる。
だというのに今の爽司の格好は、シャツにパーカーを羽織っただけの簡素なものだった。屋内だけならまだしも、その格好のままで外へと出ていくのは……
「……一旦ここに戻って、ダウン着ていけばよかったよ……」
「……想像するだけで、身震いするわ……」
「寒いの苦手だもんね、蛇ノ目さん……」
実際に震え上がってみせる明歩と蛇達の様子に笑みを浮かべつつ、爽司は彼女の傍へと歩いていった。部屋奥の隅、明歩を挟んだ向こう側には今どき珍しい煙突付きのストーブが設置されていて、今も全身を震わせる彼の足は、自然と暖かい方向へ進んでいく。
……もちろんそれ以外の思惑も、爽司にはあるのだろうが。
明歩と会話を弾ませる彼の表情は、とてもとても楽しそうだ。
一人の男として、彼女の傍に在りたいのだろう。
「……あれ?」
と。明歩が席に着くテーブルまで近づいた爽司は、何かに気が付いたような声を上げた。
「――――っ」
爽司の視線の先を追った明歩は、ピクリとわずかに頬を強張らせる。
しかし、彼女にとって爽司の反応は想定内であったらしい。すぐに何事も無かったかのように表情を戻すと、冷静を装いつつ口を開いた。
「……どうしたの?」
「いや、これ……」
爽司の見つめる先、テーブルの上には、短く細い円柱状の『物体』……リップクリームがあった。
おもむろに彼は、ズボンのポケットをガサゴソとまさぐり始める。自宅の鍵や携帯のストラップが立てる甲高い音がしばし室内に響いて、結局何も手にすることなく手を引き抜いた彼は、確信を得たように声を上げた。
「これ、僕のだ」
途端、明歩の髪先が一斉に慌てかけ。直後、その内の一匹の首が繊細かつしなやかな指先でキュッと締められると、それらはたちまち大人しくなった。
「どうやらさっき使ったあと、しまい忘れてたみたいだ」
「そ、そう。“誰のか分からなくて”取り敢えず放っておいたんだけど、あなたのだったのね」
言葉の一部が少しばかり強調されている。
「うん。失くさなくてよかったよ」
「ウチの教授のことだから、下手に放置したら捨てられちゃうものね」
「あはは……大事にしまっとく」
ひたすら、冷静な受け答えに徹する明歩。
失くさなかったことを喜び、リップクリームをポケットに収めようとする爽司の様子を見届けながら、彼女は密かに安堵の溜息をつく。
「あ、そだ。僕も使っとこ。外に出て少し乾いちゃったし」
ふと思い直し、ポケットへ入れようとしていた手を戻す爽司。
ブワッと、明歩の動揺を反映して沸き立とうとする蛇達一同。
それを察知した明歩は一瞬の内に蛇達の首根っこを鷲掴んでまとめ上げると、どこからともなく取り出した小さなヘアゴムで彼女らの首を丸ごと縛り上げた。キツく食い込むゴム紐。暴れる身体を徐々に沈黙させていくその顛末を、辛うじて難を逃れた二、三匹ほどの蛇がただただ呆然と眺めていた。
「……え? 何で急に髪をまとめたの……?」
目の前で起きた数秒の出来事に、同じく唖然とする目撃者が一人。
「いえ、ほら。何だか急に暑くなってきちゃって。ここのストーブ、古くて温度調節も自由に出来ないでしょう?」
「……蛇達、ものすごいぐったりして動かなくなってるけど……?」
「私の蛇だもの、このくらい大丈夫よ。うん、きっとそう」
「そ、そっか……」
呆気にとられていた爽司だったが、頑なな様子の明歩を見て、目の前の光景を気にしないことに決めたようだ。助けを求めるように潤んだ瞳で見つめてくる蛇の一匹から、そっと目を逸らした。
「えーと。何をしようとしてたんだっけ」
「リップクリームを使うんじゃなかったかしら?」
「ああ、そうだった。ありがとう蛇ノ目さん」
明歩のさりげない誘導に、爽司はリップクリームのキャップを外しつつ礼を言う。
明歩は、爽司の一挙一動の一切を見逃さないよう、下手をすればその眼力でそのまま石にしてしまいかねないほどに、彼の姿を凝視していた。その視線は特に、リップクリームを持つ手へと集中して向けられている。……意外と乙女な一面を持っているらしい彼女にとって、目の前で行われようとしている『間接キスに次ぐ間接キス』を、むざむざ見逃すわけにはいかないのだろう。
ドキドキと、高鳴りを増すいたいけな鼓動。
爽司はクリーム部分を露出させるため、底部にあるダイアル様のツマミを回す。
……回そうとして。
「……あれ」
一つ、不思議そうな声を上げてその手を止めた。
「……どうかした?」
お預けを食らわされて、思わず尋ねる明歩。
「……減ってる」
「へっ」
思わぬ返答に、間抜けな声を上げた。
「なんか、すごい減ってるんだよ。リップクリーム。この前買ったばかりで、こんなに使った覚えなんか無いのに……」
スティックの内側に一番奥まで収納されているクリーム部分は、買ったばかりとは名ばかりに、出入り口から一センチ程度もすり減っている。
ハッとして、明歩は思わず自身の唇に触れた。
こってりと必要以上に塗りたくられたクリームが、指先をヌルリと滑らせる。
「……ねぇ、蛇ノ目さん。もしかして」
声を低く、そして真顔になった爽司は、明歩の顔へと目を向ける。
対する彼女は見た目上、何ともなしに平然としているように見える。しかし、その内心がこれまで無いほどに泡立っているだろうことは、彼女の首筋を伝う幾筋もの冷や汗が如実に物語っていた。
逃げ出したくなる身体を、必死に堪える。
爽司の口が、ゆっくりと開かれて。
明歩の目は覚悟を決めたように、そっと目蓋を閉じた。
「これ、僕のじゃないのかもしれない」
「……へぇっ?」
直後、素っ頓狂な声を上げて、彼女は目を見開いた。
「これ多分、僕のじゃなくて別の人の持ち物だと思う。このリップクリームは何処にでも売ってる安物だし、同じのを買った人がたまたまここに忘れていったんだよ、きっと」
「……」
「あれー、でもじゃあ僕のは何処にいっちゃったんだろう……ポケット以外に入れた記憶は無いし……うーん」
言いながら、テーブルの元あった場所にリップクリームを戻す。
自己完結しつつも首を捻る爽司とテーブル上のそれを、呆けた顔の明歩は交互にまじまじと見つめていた。
「? 蛇ノ目さん、どうかした?」
「……なんでもないわ。そう、なんでも……」
「……?」
その後。
ほとほと疲れたようにガックリと、それでいて至極残念そうにしょんぼりと項垂れる明歩の姿を、爽司は訳も分からず不思議そうに眺めているのみだった。
ちなみに束ねられたままの蛇達は明歩が自宅の風呂に入る時までそのままだった。
15/01/03 23:23更新 / 気紛れな旅人
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