紅い媚薬
時刻は夕方を過ぎ、そろそろ夕食時になろうかという頃。
家々は徐々に明かりを灯し、それぞれの夕餉の匂いが街中に満ち満ちていく。
「痛っ!」
そんな中。街のほぼ中央に建つ大きな屋敷の厨房で、給仕服を着込んだ少年・リュートは小さく悲鳴を上げた。その容姿は明るい茶髪に年端も行かぬ童顔、華奢な体付き。この屋敷の使用人である彼は、流し場で水仕事をしている最中だったらしい。シンクに置かれた金属製のボウルの中では、蛇口の水に流されるじゃがいもがゴロゴロと転がっていた。
一旦蛇口を閉めて、リュートは苦悶の表情で自分の右手を凝視する。その視線の先では中指の爪の間がぱっくりとあかぎれを起こしていて、滲み出た血がじんわりと指先を染めていた。傷口は深くは無いが浅くも無く、ふるふると震え続ける中指が彼の感じる苦痛の強さを物語っていた。
よくよく見れば、彼の両手はまだ十代も前半の肌とは思えないほどカサカサに荒れていた。季節は既に秋から冬へと移ろい始めていて、地下水を利用している水道の水は異様に冷たく、加えて空気もめっきり乾燥してきている。当然使用人ともなれば炊事・洗濯・掃除と水に触れる機会が多く、そのためリュートの手はすっかり油分を失い、乾燥してしまっていたのだった。
「ぅう、やっちゃった……」
今しがた作ったばかりのズキズキとした紅い痛みに、彼は嘆く。
もともと乾燥肌の嫌いがある彼の経験上、一つあかぎれを起こせばそのまま二つ、三つと傷が増えていくのは分かり切っていた。これから先、確実にボロボロになっていくだろう自分の手を想像したリュートは深く深く、溜め息をつく。
しかし雇われである以上、与えられた仕事をこなさない訳にはいかない。せめて傷口を洗おうと、再び蛇口の栓を開けようとしたリュートは。
「ふむ、仕事中に手を止めるのは関心しないぞ、リュート」
「ぅわあっ!?」
直後、真後ろから響いた声にびくりと肩を跳ねさせた。
驚愕の声を上げて、咄嗟に背後を振り返る。
そこには、鮮血にも似た真紅の瞳でじぃっと彼のことを眺めている、麗しい美女の姿があった。
成人男性にも引けを取らない長身と、直立不動に腕組みという立ち姿が、見る者に否応ない重圧を感じさせる。目蓋をすぅと細めて、自分より頭一つ以上背の低い少年の姿を見下ろしていた。
彼女の名はヘレナ。この屋敷の主人の娘にして、リュートの仕える直属の主。
誰もが目を見張る美貌。月の光のように煌くショートの金髪。身を包む、宵闇の色と血の色を基調とした質の良いドレス。その場に居るだけで誰もが釘付けになるだろう圧倒的な存在感に、落ち着いた雰囲気の口調からは育ちの良さを垣間見せる。
そんな彼女の正体は、自ら貴族を名乗る、名乗るに値する実力を備えた高貴なる種族、ヴァンパイアだった。
今から数ヶ月前、何処にでもある一般家庭の末っ子でしかなかったリュートを、ある日突然、自分の屋敷の使用人として雇い入れ、有無を言わさず連れ帰った張本人でもある。
「……何をそれほど驚く?」
「い、いきなり背後から声を掛けられたら誰でも驚きますよ、ヘレナ様っ!」
「ふむ……」
未だ心臓をバクバクと跳び上がらせるリュートは、主に向けて非難の視線を送る。
それは貴族に仕える一介の従者としては有り得ない、反抗するかのような姿勢だ。
それまで思考の読めない無表情を貫いていたヘレナは、そんな従者の様子を見て、紅い瞳を尚更に細める。そして、ヴァンパイアの備える獰猛に尖った犬歯を見せ付けるように、口の端を吊り上げると……
どうやら彼の小動物めいた驚きようが可笑しかったらしい、非難の視線にも何処吹く風と、くつくつと楽しそうに笑うのだった。
「ふふっ。確かにそれは、私の落ち度に間違いないな。潔く認めよう。……だが、手前の主の食事を作っている最中だというのに、手を休めて堂々とサボタージュとは。窘められても仕方が無いのではないか? リュートよ」
「……っ!?」
ヘレナは謝罪の言葉もそこそこに、従者の不手際を追及する。たじろぐリュート。
とはいうものの、リュートが仕事の手を止めていた理由が何であれ、ヘレナには問い詰める気など毛頭無かった。自らが認めた上で雇い入れた従者のことを、実のところ微塵も疑ってはいない。彼の愚直なまでの生真面目さを、彼女はとてもよく理解していたからだ。決して怠慢を良しとするような人物では無い、と。
よく聞けば明らかな冗談交じりだと分かるヘレナの口調には、初心な少年をからかって遊ぶ以外の意図など、無い。要はこの貴族、やたら尊大な口調や存在感溢れる佇まいとは裏腹に、とてもお茶目で、意地の悪い性格をしていたのだった。
「て、手を抜いているつもりはありませんっ!」
しかし、ヘレナも認める生真面目さを持ち、なおかつ急に現れた主の姿に慌てふためいている今のリュートには、彼女の台詞は額面通りにしか聞こえない。言葉そのままを真に受けてしまった彼は首を大きく振り乱し、大慌てで言い繕うほかなかった。その初々しい反応こそを食い物にされているという事実に気付くのには、もう少しかかりそうだ。
「ただ……」
そんな彼は、職務怠慢でないことを示すため、作業を中断していた理由を正直に告げようとして。ふと、思い直したように言い澱んだ。ヘレナに気付かれないよう、ズボンの影へとさりげなく血が滲んだ指先を隠す。
「ただ、なんだ?」
「……えっと、その」
「……?」
どう言ったものか分からず、リュートは言葉が継げない。
ヘレナは浮かべていた笑顔を潜めると、怪訝そうに首を傾げた。
人をからかって遊んでいたことからも分かる、少々意地の悪いヘレナの性格。
ただしそこに悪意は全く無く、主と従者という間柄にしては妙にフランクな接し方には、この屋敷に早く馴染めるようにという思惑が含まれていることを、リュートはこの数ヶ月で肌身に感じ取っていた。
里親に出された仔犬がだんだんと新しい飼い主に懐いていくように。
屋敷に連れてこられた当初は少なからず警戒の意思を見せていたリュートも、ヘレナの言動の端々から滲み出る確かな優しさに、抱いていた警戒心はいつしか純粋な敬愛へと変わっていた。不手際を疑われて咄嗟に言い繕ったのも、叱責を恐れたのではなく、彼女に嫌われたくないと思ったが為の行動だった。
故にリュートは、今の自分の手の有様をヘレナに知られたくなかったのだった。これを見られてしまったら、優しい主はきっと心配するに違いない。そんな、自惚れではない確信が彼にはあった。自分のせいで主の心を惑わせる訳にはいかないという想いが、リュートに継ぐ言葉を躊躇わせる原因となっていた。
しかし。そんな誤魔化しは、いつまでも通じるものではない。
今リュートが対峙している相手は人間ではなく、血の匂いに敏感な吸血鬼なのだから。
「む。血の匂い……」
ヘレナは、様々な食材の匂いが染み付いている厨房に、微かな血の匂いが混じっていることに気が付いた。それも食肉から漂う血肉の匂いなどではなく、今しがた体外に溢れ出たばかりであろう、新鮮な人間の血液の匂い。
そんな匂いを発する存在など、人間ではないヘレナを除けば目の前に一人しかいない。
「ふむ……」
「え、わっ!? ヘ、ヘレナ様っ!?」
ヘレナはおもむろにリュートとの距離を詰めると、更に顔を寄せて、すんすんと彼の匂いを嗅ぎ始めた。丹念に手入れをされた艶やかな髪先が触れるほどに近い距離、嗅ぐという行為にすら何処か気品を感じさせるその姿に、リュートの身体は硬直する。年齢的に幼いとはいえ、彼も歴とした男なのだ。香水とは違う女性本来の甘い匂いが鼻腔を擽り、リュートは頭と視界をくらくらと歪ませた。
しばらくそうしてリュートに鼻を寄せていたヘレナは、ゆっくりと顔を離す。「微かな血の匂いは目の前の少年から漂っている」との確証を得たのだ。ざっとリュートの全身に目を配らせた彼女は、不自然に隠されている彼の右手に目を付けて、そこへ自分の手を伸ばす。不意を突かれた形のリュートは、未だ呆然としていて動くことが出来ない。
直後、白く粉を吹いたようになった荒れ手と、傷どころかささくれ一つ無い滑らかな素肌とが、互いの肌の感触を得た。暖かく触れ心地の良い感覚に、リュートはハッと我に返る。同時に目を逸らし、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「……なるほど。これが、手を休めざるを得なかった理由か」
「……ええ、と」
手に取ったリュートの右手を眼下にぽつりと呟いたヘレナは、言葉を詰まらせる彼を置いて、じっと爪の間の傷口を眺めていた。今もじわじわと滲み続ける血液は凝固する気配なく、注視するヘレナの瞳の色と混ざり合っている。
そっと主の顔を盗み見てみるリュートだったが、いつの間にか無表情に戻ってしまった彼女の顔から感情を読み取ることは難しく、ただただ不安に心を締め付けた。
しばらくして。、ヘレナがふと、小さく口を開く。
それを言葉を発する予兆だと捉えたリュートは思わず身構える。主の感情が読めないため、一体何を言われてしまうのか想像がつかない。よくよく考えれば、自分は主を誤魔化そうとしていたのだ。もしそれを裏切りと解釈され、失望されてしまったら。そんな、後ろめたさからくるネガティブに陥った生真面目な少年の心は、深い思考の闇の中へと勝手に転がり落ちていく。
みるみるうちに青ざめていくリュートに、気付いているのかいないのか。
ヘレナは彼の中指に、自分の指を添えると、おもむろに唇を近付けて。
「あむっ」
「ひゃっ!?」
言葉は発さず。
なんと、彼女は躊躇うことなく、従者の指を口に含んだ。
予想外の主の行動に、リュートはまるで女の子のような悲鳴を上げてしまう。
リュートの中指の第一関節から先を、薄桃色の柔らかな膨らみが、上下からそっと挟み込んでいた。
「ヘ、ヘレナさ……ぅあっ!?」
突然のヘレナの奇行に驚いたリュートは静止の声を上げようとするが、ぬめりのある生暖かい何かが傷口を這いずった瞬間、それは途中で呻き声へと変化する。ヘレナの舌先が、リュートの傷を、血を、舐め上げたのだ。
それはヴァンパイア……吸血鬼の名を、まさしく体で表す行為。
舌の上にじわりと広がる甘美な液体を、まるで上質なワインを嗜むようにゆっくりと口内で転がして、絡ませた唾液と共にこくりこくりと喉を鳴らしていく。
「や……ぅぁあう……っ」
それと同時にリュートの右腕から首筋にかけてを、ぞくぞくとした、しかし決して不快ではない痺れが襲う。ヘレナが舌を這わせていくたびに、ヴァンパイアの持つ魔力が傷口を介してリュートへと流れ込んでいる。その魔力がリュートの快楽神経を強く刺激し、彼の身体に抗いようのない快感を刻んでいたのだった。感じていた苦痛はその快感の前に軽く打ち消され、リュートの視界はだんだんと薄いもやに覆われていく。
それでもリュートは、貴族ともあろうお方が一介の従者の指を舐めしゃぶって良い訳がないという考えから、どうにかして抗おうと試みる。……しかし、彼の右手はヘレナの両手にしっかりと包み込まれていて、痺れて力の入らない身体では手を引こうにもビクともしない。
そうこうしているうちに注入されていく魔力はリュートの全身を駆け巡り、いつしか彼は、すっかり主の行いに身を委ねてしまっていた。
ヘレナが血の味をじっくりと堪能する傍らで、リュートは快楽を一心に受け取る。
ただそれだけの時間は、リュートの血が止まる数分近くの間、続いた。
「ぷぁっ。……ふむ、ご馳走さま、だ……♪」
「ふあ、ぁ……」
血の味がすっかり感じられなくなった頃、ちゅぷりと音を立てて唇を離したヘレナは、至極満足そうに呟く。てらてらと濡れ光るリュートの指先からヘレナの唇にかけてを、まるで名残惜しむかのように透明な糸が一筋、結び。間を置かずプツリと千切れて、そこで両者は別たれた。
「……ヘレナ、さま。吸血は、お食事のあとでは……」
「ふふ、たまにはこういうのもいいではないか」
羞恥や快感で顔を真っ赤にしつつ、一連の主の行動に困惑するリュート。
対するヘレナは、余裕綽々といった笑みを浮かべて従者の疑問に応える。
「言うなれば、少しばかり遅いおやつの時間だ。……それに、もう痛みは無いだろう?」
「え。……あ」
言われて傷口を意識したリュートは、傷口が完全に塞がり、痛みすらも掻き消えていることに気が付いた。どうやらヘレナは、吸血すると同時に回復魔法を行使していたらしい。
「その傷が元で業務に支障が出ても困るからな。治しておいた。それと、薬品庫に保湿用のクリームが常備してあったはずだ。あとであれも使うといい」
「……あ、ありがとうございます」
主に手間をかけさせてしまった手前、リュートは申し訳なさそうに肩を丸める。
「礼はよい。……まぁ、その代わり、といってはなんだが……」
それを見たヘレナは、ピンと人差し指と立てる。
反応し、おずおずと主の顔を見上げたリュートは。
「今日の夕食は、いつもより美味しく頼む。……出来るな?」
「……っ! は、はい……っ!」
主の言葉の意図するところに気付いて、ハキハキとした声になって応えた。
リュートにとって、料理は家事のなかで最も得意とするものだ。彼なら問題なく、美味しい夕食を用意するだろう。ギブアンドテイク、等価交換。それで手打ちだと言わんばかりに話を切ったヘレナは、従者の返事に満足そうな笑みを返す。
そのまま優雅にドレスを翻すと、厨房の出口へと歩みを進めるのだった。
「私には、まだやり残した仕事がある。しばらく自室に篭るが、夕食は何時になる?」
「あ、ええと。まだ作り始めたばかりですので、もう少しかかります。ですが、いつもの時刻には用意出来るかと」
「ふむ、結構だ。時間になったら、こちらから赴こう。食堂に用意して待っていろ」
それだけ言って、ヘレナは厨房を後にした。
カツカツと硬い床を叩く音がだんだんと遠ざかっていく。
貴族にだってそれ相応の仕事がある。街の中央に居を構えるような大貴族ともなれば尚更で、食事や入浴の時間以外は自室から出てこないこともしばしばあった。そのためリュートは特に疑問を抱くこと無く、主の背中を見送った。
……仕事が終わるまで自室から出てこないほど仕事熱心なヘレナが、何故やり残した仕事を放って、リュートの前に姿を現したのか。
この後、指先に付着した唾液をこのまま洗っていいものか否か。そんなことで十分以上も悩み続けることになる彼には、そんな矛盾を考える余裕などなかった。
今日の仕事なんて全部終わっている癖に。とんでもない嘘吐きだな、お前は。
甘い痺れが渦巻く下腹部と同様、次第に蕩けていく思考の隅で、ヘレナはそう自嘲していた。
「あっ、ひ……んんっ♪」
リュートと厨房で別れてから、十分後。
足早に自室へと戻ったヘレナは一心不乱、自慰に耽っていた。
しっかりと施錠された密室に、慎ましくも悩ましげな嬌声と、身悶えによる衣擦れの音が絶えず響き渡っている。
彼女は部屋中央にある天蓋付きの、さぞかし寝心地の良さそうなベッドの上で、長い脚を控えめに開いた格好で仰向けになっている。高級そうな紅いカーペットの上には着ていたドレスが乱雑に脱ぎ散らかされていて、今の彼女の姿はオーバーニーソックス以外は何も身につけていない、ほぼ全裸体だ。右手はふくよかな胸、左手は綺麗な桜色に色付く女性器へと伸ばされていて、細く滑らかな手指がそれぞれの性感帯を執拗に弄くっていた。
右手は乳房をやんわりと揉みしだきながら、しこり始めた薄桃色の乳首を指先で弾き。左手は産毛のように薄い陰毛の下、包皮の中のクリトリスを転がすようにこねくり回している。指先が一動作するたびに潤滑液代わりの愛液がくちくちと音を立てて、声や衣擦れと共に室内に満ちる淫靡さを増していった。
「リュート……好きだよぉ……♪ りゅーとぉ……♪」
ヘレナはひたすらに従者の名を呟き、彼への想いを紡いでいく。その声音はリュートの前に姿を現した際の貫禄あるものとは違い、まるでよちよち歩きの仔猫のように甘えたものだ。それらを言葉にするだけで身体の芯が熱くなり、心臓の高鳴りも増していく。今日、彼の姿に見た幾つもの顔、仕草、声が脳裏に浮かんでは焼き付き、ヘレナの心をじんわりと温めていった。
快感に顔を蕩けさせ、はしたなく淫らに身体を悶えさせる今のヘレナは、言わば発情した状態にあった。その原因は、先ほど摂取したリュートの血液。ヴァンパイアにとって人間の血液は強力な媚薬と同義だ。微量とはいえ、人間である彼の血液を口にしたヘレナはすっかり身体を火照らせてしまっていて、現在は自身を慰めることで、どうにも抑えられない性的欲求を満たしている真っ最中なのだった。
今の彼女からは、高貴さや貴族らしさなど、一片も感じられない。
そこにあるのは、愛しい男に想いを募らせる一人の女の姿、ただそれだけだった。
(血を吸うつもりなんて、なかったのに……んぅっ♪)
ヘレナはこうなるに至った自らの行動を、半ば呪う。
リュートの傷を治療するだけなら、わざわざ吸血する必要などないのだ。血を拭い、回復魔法をかけてやりさえすればいい。血を吸ってしまえばもれなく発情し、抗うことの出来ない情欲に悩まされると分かっているのだから、尚更だ。
だがそれは、今のヘレナには土台、無理な話だった。
(でも、仕方ないじゃない……リュートの、血……とっても甘くて、芳醇で、素敵な、美味しい血ぃ……♪)
かの夜、お忍びで繰り出した街中で偶然見かけた男の子。家族と幸せそうに笑いながら歩く、背の低い茶髪の彼。見た瞬間心臓が跳ね上がり、生まれて初めての一目惚れを経験してしまった。いてもたってもいられなくなりその翌日には、権力だの身分だの口八丁手八丁、傍目から見れば誘拐さながら、それこそ無理矢理に屋敷へと連れ帰った。
それが、ヘレナとリュートの馴れ初めだった。
今日もただ、会いたいだけだった。
彼と顔を合わせて、その幼げな声を聞いて、取り留めの無い会話を楽しみたいだけだった。
……だというのに、あんなに美味しそうなものを見つけてしまったら。初めて口にしてからというもの、すっかり虜になってしまったあの味を思い出してしまったら。
ヘレナの瞳と同じ真紅が視界に入った途端、ヴァンパイアとしての吸血衝動が、何より人間の男を欲する魔物としての本能が、血を求めよ彼を求めよと叫び散らしたのだ。胸の奥底から湧き上がる果ての無い欲望を、彼女は我慢出来なかった。自らの内に潜む、リュートに襲いかかろうとする獣を御するだけで、精一杯だったのだ。
「そこぉっ♪ もっと弄って、りゅーとぉ♪」
ヘレナは、十数分前に見て触れたリュートの手を脳裏に思い描き、その感触を自身の手に投影する。女性であるヘレナとそう変わらない大きさの手、けれども彼女と明らかに違うのは、小さくとも男性なのだと否応なく意識させる節々の太さ。荒れた肌もどことなく、男性らしさを強調させていた。好きな相手の指先が自身の大事な箇所に触れ、好きに弄くっていると想像するだけで、ヘレナの性感は何倍にも跳ね上がった。
「んぅうっ♪ んはっ♪ ふやぁあっ!♪」
感度が増していくにつれて、自然と性感帯をこねる指の動きが速くなる。比例するように嬌声はより熱っぽく、それでいて切なく、甘やかな形に変化していった。普段とはあまりにも違う、甲高い少女然とした声音が、ヘレナ自身の鼓膜を震わせる。
「……ぃ、やあ……っ♪」
その声のあまりの淫靡さにふと我に返った彼女は、羞恥心に頬の赤みを強め……しかし、自慰行為を止めることは当然、しなかった。女性器に添えた手はそのままに、唐突に寝返りをうつ。仰向けから一転うつ伏せへと体位を変えると、今まで頭を預けていた枕に強く口元を押し付けた。
そうして枕に顔を突っ伏したまま、両膝を立てて、お尻だけを高く後ろに突き出した格好になる。続いて軽く股を広げると、左手だけでなく右手も女性器に宛がった。その姿は、溢れる嬌声を極力抑えつつ、それでいて身体の中で最も敏感な箇所を存分に責め立てることができる、今の彼女にとって最も合理的な体勢だった。
男が見れば誰もがその腰を鷲掴み、蜜壺に逸物を突き立てたくなるだろう卑猥な有様。
もはや完全に快感を貪るだけの雌と化したヘレナの指先が。リュートの指の形を投影させた、自分のものであって自分のものでない指先が、再度、小刻みに我先にと蠢き始めた。
「むぅっ!♪ ぅうーーっ、ふぅうーーーーっ!♪」
深く吐き出されるも、枕に吸収されなかった声の残滓が、くぐもった音として漏れ出る。
指の動きは相変わらず陰核責めを主体としていたが、手指の数が増えるにあたり、責め方は変わっていた。左手は直接自慰行為には参加せず、人差し指と中指で陰核包皮より二センチほど上の皮膚を引っ張り上げて、釣られて捲れた包皮からクリトリスを露出させている。そうして隠れ蓑をひん剥かれ、一切無防備となった肉の芽は、空いた右手指による蹂躙の格好の餌食となっていた。
いつしかすっかり充血し、ぴょこんと可愛らしく勃起していたクリトリス。快楽神経の密集するそこを直接刺激されることによって生まれる性感は、包皮の上からの比ではない。こねられ、摘まれ、扱かれ、押し潰され。思う存分容赦無く、嬲られ続ける。トロンと下がりきった目尻と、勝手にビクビクと痙攣する肢体が、ヘレナが得ている快感の強さを物語っていた。
「うーとっ、うーとぉっ♪ もっほ、ぉおっ♪ ひへ、ぇえっ!♪」
もっと、もっとと、空想の中の従者に呼びかけるヘレナ。
歓喜の涙が、目尻に滲む。
食い縛る歯の隙間から、涎が枕にじわりと染みる。
はち切れんばかりの興奮によって吹き出る汗が、白磁のような素肌を艶かしく際立たせて。
こんこんと膣奥から溢れ出てくる愛液が、手指を、陰毛を、大腿を伝い、真っ白なシーツとソックスに淫猥な跡を滴らせる。
様々な液体に塗れながら、ヘレナはひたすらに絶頂へと突き進んでいた。パクパクと物欲しそうにひくつく膣口を見ても分かるように、下腹部に蓄積された快楽が決壊するのも、もはや時間の問題だ。
事実、それから十秒もしない内に、その時はやってきた。
(あ、あっ♪ イク……イっちゃいそう……♪)
下腹部や女性器にジンとした痺れが宿り始めて、ヘレナは絶頂がすぐそこにあることを知る。
それからどうするのかは、既に決まっていた。重力に従い自然と垂れてくる愛液を指先にたっぷりと絡めると、クリトリスにも念入りに塗り付け、ラストスパートの準備を整える。リュートの血を初めて口にしてからというもの、毎日欠かさず続けてきた秘め事だ。数ヶ月もの時を経て洗練されたその行為は、実に手馴れていた。愛液を塗布する間、肉の芽が指の間を滑り逃げていく絶妙な感覚を楽しむ余裕すらある。
「……んむっ♪」
包皮を剥いていた左手指も動員し、両手指合わせてクリトリスへと宛てがう。可愛らしい大きさながらも今や立派に自己主張し、包皮を押し退けるほどにその存在をアピールしているそれには、もはや隠れる場所など必要ない。
指先が肉の芽の根本、そして本体それぞれに、ぐっと押し当てられる。……覚悟を決めたヘレナが、一つ深呼吸をした直後。彼女の分身たるそこは、今までで最も力強く、そして素早い動作で擦り立てられていった。
「んうーーっ!♪ っ……〜〜〜〜ッッ!!♪♪」
声にならない声が、喉奥から搾り出される。
根本を擦る指は深い深い悦楽を子宮内に根付かせ、本体を擦る指は鋭い電撃のような快感を背筋に走らせる。暴力的とも言える快楽に、堪らず目元まで顔を枕に埋めると、真っ暗になった視界の中に愛するリュートの姿が浮かんだ。本当の彼は、一体どうやって私を責め立ててくれるのだろうか。
今ヘレナの性感帯を苛め抜いているのは他でもない、彼女自身の手だ。リュートの手の形を投影しているとはいえ、彼自身の手では決してない。故に彼女は空想の向こう側、本当の彼の姿を夢想する。優しく慰めてくれるのだろうか、それとも意外な激しさで苛められてしまうのだろうか。
本物の彼の手管を、知りたい、味わいたい。
そんな想いが、ヘレナの抱くリュートへの渇望を尚更に強めていった。
(も、ムリ……っ♪ 助けて、りゅーとぉ……っ♪ たすけてぇ……ッ♪)
ぬちぬちと。ぐちゅぐちゅと。
粘液が掻き混ぜられる婬音は時を追うごとに間隔を短くしていき、それに従い全身の強張りと痙攣も強くなっていた。絶頂が目前に迫るなか、もぞもぞと忙しない両脚が、丁寧にアイロンがけされていたシーツにまた一つ皺を増やして、弾け飛び散る愛液と共に見るも無残な有様に変えていく。ドレスを予め脱いでおいて良かったと、ヘレナは朦朧としていく意識の隅で心底安堵していた。
(キてっ♪ このままイかせて、ぇ……ッ♪)
頭の中の従者に、主であるヘレナは必死になって懇願する。
立場があべこべなその姿を見て、しかし幻滅する様子もなくニコリと笑ったリュートの幻は、痛々しいくらいに充血したクリトリスを優しく撫で付けると。
そのまま親指と人差指で挟み込み、ギュウッと、キツく抓り上げた。
「ふぅうあッッ♪♪」
激しく全身を跳ね上げさせて、ヘレナは大きく絶頂を迎える。
ごく少量の潮が尿道からプシュリと吹いて、シーツにまた新しいシミを作った。
「ぉお……あ……っ♪」
絶頂後もしばらく、その余韻を楽しむようにヘレナはクリトリスを弄ぶ。
そうして約一分ほど、余すところ無く快楽を貪っていく彼女だったが。ビクビクとした痙攣が収まる頃、突如として脱力した彼女はぐったりとベッドに倒れ伏した。イキ疲れてしまったらしく、ゴロリと横になったヘレナは、全力疾走した後のようにぜぇぜぇと息を荒げていた。
ヘレナは絶頂を通り過ぎた自身の身体から、除々に火照りが冷めていくのを自覚する。
少しだけ思考を取り戻した彼女はふと眼前に手を掲げ、垂れ流した愛液と吹いた潮でべとべとになった手のひらを、陶然とした表情で眺めると。誰にも聞こえないような微かな声で、一人呟いた。
その時ヘレナの頭に浮かんでいるのは当然、愛する男の顔だった。
「早く、インキュバスにならないかなぁ……」
インキュバス。
魔物の魔力に身体を侵食され、精力と性欲を多大に増進された人間の男性。
ただしヴァンパイアから見た場合のインキュバスは、世間一般に認知されているものとは少々趣が異なる。ヴァンパイアの意思、主に吸血行為によってインキュバス化された男性は、その時点で彼女達と同じ「貴族」として扱われるようになる。それはつまり、主と従者、貴族とそれ以下という垣根を一切気にする必要が無くなるということだ。
貴族としてのプライドの高いヴァンパイアは、基本的に低俗である人間を見下している。要するに「ただの人間」から「貴族」へと成るインキュバス化は、ヴァンパイアが意中の男性を恋人にできる最低ラインをクリアすることと同義なのだった。
(……私はそんなの、どうでもいいんだけどね……)
とはいえ正直なところ、貴族や人間に対するそういった観念が他のヴァンパイアより薄いヘレナにとって、リュートが貴族になろうがならまいが、知ったことではなかった。
……もはや下らない「しきたり」と化してしまっている、ヴァンパイアに伝わる古い慣習。そしてこの街に他にも住んでいる、そういった慣習に縛られたヴァンパイア達への体裁。それらが無ければむしろ今すぐにでもリュートを自室に誘い、交わり、夫としてしまいたいと。ヘレナは常日頃から考えているくらいだった。
(でも、あと少し)
ただ、それももうすぐ終わる。
この数カ月の吸血行為で、ヘレナの魔力によるリュートへの侵食は、着実に進行している。ヘレナの魔物としての勘が正しければ、恐らくあと半月もしない内に彼はインキュバスへと変化するだろう。そうなってしまえば、もう誰に遠慮する必要も、無い。
そこまで考えたヘレナの頭を、唐突な睡魔が襲った。
地力の高い魔物とはいえ、性的な行為、特に夫からの精の供給の無い行為はどうしても体力を消耗する。激しい自慰によって疲弊したヘレナの身体は絶頂の余韻も相まって、高級ベッドの沈み込むような心地良さには勝てそうになかった。壁に掛けられた時計を見れば、夕食まではまだ時間もある。
ほんの少しだけ、眠ろう。
最後まで、リュートの顔を思い浮かべながら。
ヘレナは微睡みの底へと、ゆっくり堕ちていくのだった。
それから一刻と半分ほど。
結局夕食の時間を寝過ごしてしまったヘレナは、いつまでたっても現れない彼女を心配したリュートに自室のドアを叩かれるまで、目覚めることはなかった。
しばらくして。残りの仕事を片付けていただけのはずなのに、髪はボサボサでドレスの着こなしも何故か中途半端、やけに慌てた様子で部屋から出てきた主の様子に、リュートはただただ、疑問符で頭を埋め尽くすのだった。
14/11/06 21:42更新 / 気紛れな旅人