中編
ハイデン城の王居。その広大な居住エリアの一室が女王アリシアの寝所である。
豪奢な寝室のベッドの上、扇情的なネグリジェに身を包んだアリシアは一人思索に耽っていた。
(ユリアン・ウッズ少将か...)
5年前に催眠を施した際、記憶の改竄と共に恐怖やトラウマも取り除いてやったと思っていたが、人間の心理構造というものはよほど複雑なものであるようだ。
(それもそうだったのだろう。人の心というものを私は理解していなかった。いや、今もそうかもしれない)
催眠治療を施した後、身分の隔絶や女王としての公務多忙もあり、ユリアンと会話を交わしたのは数えるほどもなかった。
だがそんなことは言い訳にはならない。国のためとはいえ、ギブンズ砦を利用したのは国家元首である彼女なのである。
彼女はどこにでもいる厚顔無恥な貴族ではなく、鋭い洞察力と判断力を持った十分に賢人と云える人物であったが、それでもやはり女王としての立場以外で相手を考えたことがなかったかもしれない。人間と魔物達が共存できる楽園の建国を目指し、革命政治家から為政者として活動してきたこの十数年は特にだ。
(私が理想と情を失ってしまったのか、それとも現実との闘いが私の心から瑞々しさを失わせたのか)
彼女の血族は数多いが、そのほとんどの娘達は魔物らしく男性に対する貪婪な欲求と執着を持っている。アリシアは奔放な彼女達を一族としての意識に欠けると苦々しく思うことがあったが、それは自分の勘違いではなかったのではないか。
(むしろ深沼のような性の交歓への沈湎こそ、我ら魔物にとって最も相応しいのかもしれない)
それが人間にとっての、魔物という美しく蠱惑的な者達に対しての一般的な印象であるだろう。もちろん、魔物を極端に嫌う排斥主義者達は別であるが。
(しかし)
思案を巡らせつつ、アリシアは彼女らしい結論に落ち着く。
(他はどうであれ、私は変わることはない。私がこの国の繁栄に全てを捧げなければ、誰がこの魔物達と人間の国の安寧を守るというのか)
少し退屈な注釈になるが、彼女を弁護するとすれば、理想や情だけでは国や組織を運営することはできないのである。国家運営には数えきれない程の面倒な障害があり、加えて組織では利害と感情が混ざった複雑奇怪な人間関係が構成され、さらにそこに外部から理解のない有力者が必ず介入してくる。業腹なことに、それらの人間達の協力なしには国という巨大な機構を運営していくことはできないのだ。
それ故に、革命家達は数々の妥協と失望を繰り返してゆくことになるのである。
私達が知る高名な革命家達もそうであるが、現実の厚い壁に絶望し自ら命を断つ者、縦横の機略を持つがその苛烈な行動故に反対派に暗殺される者、革命後の卑俗化した同志や組織に失望して世を捨てる、もしくは第二の革命を目指し反乱を起こす者。そして、アリシアのように現実と理想との闘いの中で徐々に革命家から治国者・調整家へ巧みに変化してゆく者。この型のみが為政者としての命脈を保っていくことができるのである。この種の革命家はそう多くはない。
(思えば革命の業火から生き残った同志はもう数えるほどしか残っていない。・・・ゲオルグ、君は今何をしているのか。)
「ゲオルグ・マローン...」
ぽつり、袂を分かったかつての想い人の名を口にした。途端に長年忘れていた甘酸っぱい感覚が胸を突き上げてきた。
(いけない、昼の出来事が尾を引いている。慎まねばならない、慎まねば)
頭を振ってため息を付き、アリシアはいつもの冷徹な為政者の顔に戻ろうとした。
「女王陛下、お休みのところ大変失礼致します。ロンダ・クリストフ中将がお目通りを願い出ております。火急とのことでございますので、御取次ぎ致しました。」
侍女長のダークプリースト、セリーンがドアの外から取り次いだ。
(やはり来たか)
女王は溜め息をついた。
ロンダの用は明白である。ユリアンの結婚についてであろう。
(わたくしも彼がロンダを娶ることを望んではいたが)
今日の昼食会でユリアンのあまりに深い心の闇と、イザベラへの愛を知った。加えてギブンズ砦の件は彼を犠牲にしたアリシアの泣き処である。
「陛下?」
「起きています。通してやりなさい」
女王として、そして育ての親としてロンダを説き伏せねばならない。ユリアンにはもう安息のみを与えるべきだろう。
やがて扉が開き、長靴の音を響かせてロンダが入室し跪いた。
「ロンダ・クリストフ陸軍中将、罷り越しました。夜分のご無礼をお許しくださいますよう」
「うむ」
「このクリストフ、誠に僭越ながら、どうしても陛下にお伺いしたい儀がございます」
アリシアはロンダの異常な緊張を見て取った。
「セリーン、下がりなさい。私がよいと言うまで、どんなことがあろうと取り次がぬように」
「畏まりました」
音もなく侍女長は部屋から姿を消した。
広い女王の寝室は静寂と緊張に包まれた。
「さて」
ロンダの緊張をほぐすように女王は寛闊に口を開いた。
「ラウディー、顔をお上げなさいな」
昔、母親代わりとして彼女の面倒を見ていた頃の口調で、その愛称を呼んだ。
「陛下...」
顔を上げたロンダの目には涙が溜まっていた。
「誰も居ないわ、ママって呼んで。」
「ママ...。」
「分かっています、ウッズ少将のことでしょう。ごめんねラウディー。」
「ママぁ!」
ロンダは跪いたままの姿勢からいきなり跳躍し、アリシアのベッドに飛び込んできた。そのまま女王の豊満な胸に顔を押し付けてロンダは泣き始めた。
「ママ、ひどいよぅママ」
「ごめんなさいね」
子供をあやすように女王はロンダの美しい赤髪を優しく撫で続けた。
幼い頃のロンダはとんでもないお転婆娘で、いつも喧嘩ばかりして大人たちの手に負えなかった。だが彼女はその一方で非常な甘えん坊であり、アリシアはそんなロンダが可愛くて仕方なく、彼女をラウディー(喧嘩好き)という愛称で呼び惜しみなく愛情を注いだ。
アリシアは甘えん坊な彼女を実の子供以上に可愛がったため、ロンダは今でもアリシアの娘達から嫉妬されることがある。
「ママ、わたしね、どうしてもユリアンが欲しいの。ユリアンがいたらもう何にも要らないの」
「.......。」
「イザベルなんて娼婦にわたしが負けるわけないの。ユリアンは女を見る目がないと思うの。私と結婚したほうが絶対に幸せになれるの」
「.......。」
ロンダの訴えにアリシアは何も応えることはできない。ただ髪を撫で続ける。
(幼いな)
女王は思う。なんという幼さか。だがこれが魔物なのであろう。打算も掛け値もない、幼い子供の初恋のような、純粋な相手への好意。魔物はその色欲をクローズアップされるきらいがあるが、その元となっているものは混じりっけのない素裸の好意といえる。
もっとも、ヴァンパイアのようなプライドと知能の高い種族達はその好意を巧妙に韜晦させるのだが。
ストレート過ぎる好意に魅惑的な容姿が加われば、墜ちない男など万人に一人であろう。
(だが)
ロンダにとって不幸なことに、ユリアンはその万人に一人の男であった。多くの魔物達の好意は、うぶな子供のように燐くような至純さを持つが、それだけに相手の心の奥深くまでを洞察することが難しく、このロンダのようにやや一方的になってしまうことがある。
だが前述のとおり、健全な男のほぼ全ては、この巨大な好意の塊である美しい魔物達の前では無力であるため、特に問題などは起こらない。
(かわいそうなラウディー)
陸軍中将として戦時には大部隊を指揮し、「慈悲の戦姫」という二つ名を持つ凛々しい女将軍である彼女であるが、今は好きな男を諦めきれない甘ったれの娘っ子のようである。
アリシアはそんなロンダを心から愛しく思うが、一方で冷静に
(この子はユリアンの心を掴むことはできないだろう)
と感じていた。アリシアはイザベルがどんな女かも知らないし、ユリアンとどのような睦言を交わしたのかも知らないが、彼らの中でのみ温めうる感情があるのだろう。
その絆の強固さはユリアンの中に垣間見た通りである。チャームの魔法で無理矢理に魅了でもしない限り、ユリアンを手中にすることなどできないだろう。それに、アリシアはもうユリアンをそっとしておいてやろうと思った。
「ママ、何でユリアンの結婚を許可しちゃったの?わたしを応援してくれるって言ってたのにどうして?」
アリシアは母親として言い聞かさねばならない。
「お聞きなさいねラウディー。ウッズ少将にはあのイザベルという娼婦がどうしても必要なのです。ですから貴方にはもっと相応しい....」
ロンダを説得しようとその肩に手を置いて違和感を感じた。その隊服の下にあるザラリとした感触。
(これは、鎖を着込んでいる)
理解の早いアリシアはすぐにロンダの企図を察した。が、同時にロンダもアリシアに意図を気付かれたことを察知した。
「ラウディー、あなたは...!」
素早くロンダは後方に飛び上がって宙返り、元のように跪いた。
「お察しのとおりでございます、女王陛下。どのような事情があろうとも、私はこのままユリアンのもとへ行き、決闘を申し込みます」
「......。」
「そして彼を打ち倒し、かの娼婦から彼を奪い去るのです」
「......。」
「陛下のお許しがなくとも彼を攫うつもりでありましたが。・・・・少しだけ昔のように甘えてみたかったのかもしれません。」
有能な軍人とはいえ、ロンダもデュラハンという歴とした魔物である。デュラハンの有名な古習として、気に入った男性を攫うというものがある。
このままではユリアンと結ばれることができないと分かった以上、彼女はデュラハンという魔物として行動を起こした。
ロンダは立ち上がった。
「ラウディー、お待ちなさい」
「陛下に私を止めることはできないはずです。何故ならば、如何に賢なりといえど、陛下も魔物。私の心情は陛下に御理解頂けると邪推致します」
その通りであった。国主としての彼女は陸軍中将と少将の決闘などという前代未聞の事件を看過する訳にはいかないが、一方で魔物としての本能ではロンダの心情を理解している。
しかしながら、
「たとえ勝ったとて、ウッズ少将の心を手に入れることはできません」
これがアリシア・フロスト、彼女個人としての意見であった。
「あなたが彼を手に入れたい気持は分かります。あなたが全てを投げ打つ覚悟で決闘を申し込めば、あの少将なら受けてくれるやもしれません。しかし、勝ってその身を手に入れてどうするのです。チャームを使おうとでも云うのですか?」
「いいえ、女王陛下」
ロンダの瞳に情欲の火が灯った。
「彼を浚い、すべての自由を拘束してでもその身を以て私の愛を知ってもらうのです。」
荒く熱っぽい息。
「最初は抗っても、きっと彼は私の愛を受け入れてくれます。私の狂おしい愛を注ぎ込めばきっと。何日でも何十日でも。彼に私の全てを注ぎ続けるのです。きっと私に夢中になってくれる」
恐るべき妄執である。冷静な人間が聞けば仰天するだろうが、このあまりに美しい妄執のデュラハンを否定できる者はそう多くはないだろう。
「必ず誰にも気付かれず決闘を行います。私の隊務にも支障は起こさず、ユリアンは病気による療養という形にし、しばらく代行を立てます。ライナス卿などに口は挟ませません。問題など、そう、何も起こらないのです。ただ結ばれるだけ」
そう話すロンダは本当に嬉しそうな表情で、まるで結婚式を待つ花嫁のように恍惚としていた。
(もうあの風斬りユリアンに勝った気でいるのか)
これで戦時ではよくあれだけの精緻な作戦を立案し、こなすことができたものだ。
愛に狂い始めた一途で愚かしいデュラハン。だがその狂気がロンダの美しさを凄絶なほどに引き立てる。
「それにね」
急にまた甘ったれた声を出す。アリシアはこの愛娘の声に弱い。
「ママもゲオルグさんを無理やり手に入れなかったことを後悔してると思うもの」
「........」
止める意思が徐々に弱くなってきた。そもそも女王であるアリシアを除くとして、天才剣士であるロンダを腕づくで止められる可能性のある者は、この国ではかろうじてあのユリアン・ウッズ少将ぐらいなのである。
アリシア自身も、本心ではロンダとユリアンが結ばれることを望んではいたが。
(何とか、どの者にも幸福が訪れるよう取り計らおう)
「ラウディー、あなたは昔から手の掛かる子でしたが・・・」
「これが私の最後の我侭でございます。どうかお許しくださいますよう。」
深く一礼し、ロンダは女王の寝室から逸る足取りで出て行った。
王宮の廊下を足早にロンダは歩く。
「うふ」
うふ
うふ
うふふ
「アハ」
あは
あは
あは
あはは
「アハハハハハハハハハハハハハハ!」
もう大丈夫!大丈夫。女王陛下は私の味方。陛下はやっぱり私に甘い。だって私のママだもの。ママは私を愛してくれている。他の人にどんなに厳しくたって、一番可愛い私には甘いの。ずっと昔からそうなの。ママは私が大好き。私もママが大好き。
さあ後は
後は後は後は後は
「ユリアン」
ああ、ああ
「ユリアン!」
後は貴方を打ち倒して手に入れるだけ!!
手に入れる手に入れる手に入れる!!
この手にこの手にこの手にこの手にこの手に
この手にこの手にこの手にこの手にこの手に!
ああなぜ今まで実力行使に出ることを躊躇っていたんだろう。
いつもあんなに気を使って、軽い素振りで誤魔化したりして。
そうだ
私が真剣な気持ちをぶつけなかったのも悪いよ。私が単なる遊びで誘ってると思ったのかもしれない。ユリアンって堅物だから。
そうだ、きっとそうだそうなんだ。
でも、もう大丈夫。
私の本気の気持をその身体に流し込んで流し込んで流し込んで。
私の愛でどろどろになるまで蕩けさせてあげる。
もう新兵達なんてどうでもいい。ユリアンだけいればいい。
ユリアンだけ、ユリアンだけ、ユリアンと私だけ、私とユリアンだけ、
二人だけ、二人だけでずっとずっと。
ああ抱かれたい、抱かれたい。あの逞しい腕で、風を切る腕で。
この背骨が折れるぐらい抱きしめて欲しい。いい、折れたって構わない!
もう少し、もう少し、もう少しの辛抱。
私は勝てる。私は勝てる。
勝てる勝てる勝てる勝てる。
私は、私こそがユリアンに勝つことができる!
だって私、、、、、
ユリアンの最大の弱点を知ってるんだもの
「うふふ」
「待ちなロンダ。来ると思ってたぜ」
「?...あら」
王宮から離れ、ユリアンの居宅までもう少しという所で不意に声を掛けられた。
今日は月が明るいが、林に遮られて顔は見えない。が、馴染みのある声だ。
「お呼びじゃないわよぉ、色男さん」
いつもと変わらない口調の中にも、鬼気迫るものを感じさせる。
アルフレッドは内心大いに恐懼しながらも、親友のためにロンダを止めたかった。
「なあロンダ。頼むよ。ユリアンにゃイザベルが必要なんだ。もちろんイザベルもそうさ。お互い強く結びついてんだ、あの二人はよ。諦めてやってくれねぇか」
だがロンダは鼻で笑う。
「私にもユリアンが必要なのよ。彼がいないと生きていけないし、、、、ああもう、あんた邪魔ねぇ。それじゃあんたが」
ずいっとロンダがアルフレッドとの距離を詰めた。彼の鼻先にロンダの甘い体臭が漂った。
「ユリアンの代わりに私を満足させてくれるの?」
アルフレッドの腰に手を回し、首筋に髪をこすりつけた。
「あっ....」
もうそれだけでアルフレッドは目眩がし、彼の男は痛いほどに屹立した。
駄目だ、十人並みの男が束になってもこんな女には敵わないと彼は思った。
「うっそ〜、じゃあね」
ひらりと身を翻し、ロンダはユリアンの家へと歩き出した。
「おまっ、待」
我に返ったアルフレッドがロンダの肩を掴んだ瞬間、彼の視界はくるりと一回転し、やがて石造りの壁のように硬い水面に顔から叩きつけられた。
「あははっ、浅い沼でよかったわね。しばらくおやすみなさい」
呆気無く意識を失った彼には当然その言葉は聞こえなかった。
サラヴェリー王国では他国と同様、兵士達には宿舎が割り当てられる。
将官には当然一般兵とは段違いに豪華な将官用宿舎が用意されているが、ユリアンは官舎には住まず、王宮に程近い猟師小屋を増築した粗末な家屋に住んでいた。
家僕は一人だけ。モロサヌという老いた猟師である。元々この家にはこの老人が住んでおり、ここを気に入ったユリアンがモロサヌから買い取ったのだが、この非常に無口で腕の良い猟師である老人を彼が気に入り、そのまま身の回りの世話役として雇っているのである。老猟師を家僕にするとはいかにも無骨なユリアンらしいが、ユリアンは基本的に自分の身の回りのことは自分自身でやってしまうため、主従というよりは同居人に近い不思議な関係をこの老人と築いていた。
「モロサヌ爺」
「ん?」
終日一言の会話もないことが珍しくない二人だが、この日、夕食の兎のシチューを食べ終わったユリアンが口を開いた。
「今日女王様から許可をもらった。この前言ったイザベルさんと結婚するよ」
「....そらめでてぇのう」
岩を刻んだような表情に変化は見られないが、これでも老人は精一杯喜んでおり、イザベルを見慣れているユリアンには良く分かるのである。
「それでね、ゴヴァイアへ転属することになったんだ。」
ユリアンはこの老人にもややくだけた口調で話す。
「そら、大田舎だで。いっぱい山猪もおるで。」
兎に角この老人は猟が好きなのである。他には趣味と呼べるようなものは何もなく、獲物の尻ばかり追いかけて女の尻は追いかけたことがないものだから、当然今まで独身である。一種の奇人といえる。
「僕はイザベルさんと一緒に行くよ。来るかい?」
「ん」
返事はいつもこれだけである。だがこの時に限って少し付け加えた。
「だども二人の邪魔はできね。近くに住んで、時々燻製でも持ってっからよ」
「そうか」
意外に粋な心を持った老人のようであった。
ユリアンは自室の木造のベッドに寝転がって目を閉じ、今日一日を振り返った。
(やった。僕はやったよ。陛下に認めてもらえた)
この国の最高権力者からの許可をもらえたのである。もう大丈夫であろう。
(イザベルさんの体調が気になるといえば気になるけど)
それだけが気掛かりであったが、前途に開けたイザベルとの新しい未来の前にはさしたる問題とも思わなかった。
(ああ楽しみだな。イザベルさんと田舎暮らしか)
これからの人生、過去の仲間達の霊を弔いつつ、イザベルと二人で暮らしていく、それが今このユリアンのただ一つの願いであった。
「?」
ふと家の外に何か異質なものを感じた。
「旦那、分かるだか?」
いつの間にかベッドの傍にモロサヌが立っていた。この老人は野生の鹿にも気付かれないほど上手に気配を消すことができるが、あまりにも猟師生活が長いせいか、普段から無意識に気配を消す癖がある。
「外に何かいるね、獣かな?」
「ん。盛った雌熊のごとある。だども今そんな雌はいね」
もう交尾の季節は終わっているらしい。
「ちょ、見てくるで」
足音も立てずにモロサヌは部屋から出て行った。
一応用心のために剣を引きつけて待っていると。
「ん」
とモロサヌが戻ってきた。手に何か書状のようなものを持っている。
「何だったんだい?やっぱり熊だった」
「んにゃ、中将様」
「えっ!?」
驚くユリアンに、老人は書状を差し出した。
「クリストフ師団長が、なんでこんな夜中に・・・」
怪訝に書状を開き、ランプの灯にかざした。
ユリアン・ウッズ殿
本日貴殿に決闘を申し込みたく推参
疾く武具を身に付け外へ出られたし
待つ
ロンダ・クリストフ
内容はこれだけである。特徴的な可愛らしい丸文字がロンダ本人の筆跡であることを、もちろんユリアンは知っている。
(デュラハンの伝説か)
デュラハンは気に入った男に予告をした上で攫ってゆくという。そんな伝説を聞いたことはあるが、まさかあのロンダ中将がそんなことを自分にするとは全く意外であった。決闘を申し込み、自分を倒して攫っていくつもりか。ユリアンはロンダが思っているほど鈍感な男ではないが、それでもロンダが自分に対してこれほどの執着を持っているとは思っていなかった。
(ともあれ)
数秒は呆然としてしまったが、軍人である彼に行動の停滞というものは基本的には存在しない。
中将を待ちぼうけにさせるわけにもいかないし、逃げを決め込んだところで、あの研ぎ澄まされた五感と自分をも超える身ごなしを持つ彼女から逃げきれるとも思えない。
立ち上がり、隊服を身に付けつつユリアンは考えた。
これは本気だろうか。いや、冗談でこんなことは絶対にしないだろう。彼女はその内実はとても真面目であることを5年も付き合いのあるユリアンは知っている。しかし将官同士の決闘ということが許されるのであろうか。それにいざ決闘という場面になって自分は戦えるのか、そして勝てるのか。
「旦那」
モロサヌだ。この老人は気配を消しているものだからすっかり存在を忘れてしまっていた。ユリアンも珍しく動揺しているのだろう。
「何だい?」
「行かね方がええ。ありゃ盛っとるで。あぶね」
モロサヌ老人は大真面目だが、どこかその語り口がユーモラスである。その可笑しみが、ユリアンの心に落ち着きを取り戻させた。
「そうも行かないよ、上官だしね」
モロサヌの肩をポンポンと叩き、ユリアンは外へ出た。
「こんばんは、ユリアン。待ったよー」
門の傍に転がしてある丸太に座っていたロンダが立ち上がった。
「クリストフ中将、書状を拝見しましたが、本気なのですか?」
「アハ、読んだ?あのおじいちゃん、ちゃんと渡してくれたんだねぇ」
アハハと笑うロンダにユリアンは違和感を感じた。
「中将?」
その時、雲間から隠れていた月が顔を出し、ロンダを照らし出した。
「あは♪」
それは今まで彼が見たことのない、彼女の女としての顔であった。
その上気した顔と目のギラツキに彼は見覚えがある。
(いつかの外征中に見た発情したワーウルフ)
嬉しそうな咆哮を上げながら兵士達に飛び掛ってきた美しい獣達。悲鳴や嬌声で部隊は大変な騒ぎになったものだった。
「中将、貴方も魔物なのですね。」
「そうよぉ、ユリアンを取って食っちゃうの。攫って食べちゃうのよぉ。ね、私といいコトいっぱいしましょうよぅ」
戦場でのロンダの凛々しい軍人としての姿を知るユリアンは、目の前のロンダの嬌態にやや失望を感じたが、それでも彼女の存在を否定する気にはならない。
「本当は決闘なんてしたくないの。ユリアンが私に大人しくついて来てくれればいいのよぅ。ね?」
上目遣いに異常な色気が籠もる。並の人間であれば、この淫気に当てられただけで射精してしまうのではないか。
「大人しくついていけばどうなるのですか?」
飛び下がって言葉を返す。ユリアンは平静を保っている。
「そりゃあもう、あんなことやこんなこと、こっちのほうからあっちのほうまで・・・」
「お断りします」
ぴしゃりと断った。ユリアンにすれば堪ったものではない。
「いじわる...。いいもん。ユリアン倒して担いで連れてくんだからぁ...」
ロンダは切なげに太腿を擦り合わせた。その太腿に彼女の体液が月明かりに照らされてキラキラ光っている。
「ほら、見えるユリアン。私こんなにも貴方が欲しいの。うふふ」
全くもって、朴念仁と云われるユリアンでも鼻血が出そうな光景である。
「私を攫って食べてしまうことが中将のなさりたいことですか?」
気を取り直し、今にも抜剣して襲いかかってきそうなロンダにユリアンは話し掛ける。
場所を移動して決闘を行うのだと思ってばかりいたが、彼女の興奮状態を察するに、すぐにでも戦ってユリアンを連れ去りたいようだ。
もちろんユリアンは今彼女を目の当たりにして戦うことは不可避だということを悟り、対策を練るために時間を稼ごうとしている。
「そうよ。私はユリアンを・・・・・。あぁもうまどろっこしいの、もう耐えられないの!ユリアン、私のものになって!」
ロンダは勢いよく抜剣した。ユリアンの目論見は外れた。もう時間はない。でも少しだけでも時を稼ぎたい。
「中将!お待ちを。我々が戦ってしまえば、一体隊務はどうなるのですか」
「そんなことはどうにでもなるの!」
「ライナス卿にはどう説明なさるおつもりですか!?」
「あんな空豆でくの坊なんてどうだっていいの!」
酷い言われようだなライナス卿。追い詰められる中、少し同情した。
「女王陛下のお許しが・・・」
その言葉に、ロンダはピクリと反応した。
「ママ...陛下は私の味方よ。私の最後の我侭を聞いて下さるわ」
(もう戦うしかない)
ユリアンは覚悟を決めた。静かに抜剣し、その分厚い剛刀を自らの正面で真横に構える。彼の一番の得意技である、最速の風斬りの構えである。
「あは。無理無理。いくら貴方の太刀行きが早くても、私の突きには及ばない」
その通りだ、とユリアンは思った。彼女の最強の技は目にも留まらぬ瞬息の三段突きである。癖のある右構えから繰り出されるこの技は、突いて引くを繰り返す、その動きがほんの一瞬、ほんの一動作にしか見えないという大変な難剣である。異常な踏み込みの速さとその衝撃に耐えうる肉体、そして手首の柔軟さが人間には不可能と思われる技を可能にしていた。
いくらユリアンの太刀が早くとも、薙ぐ速度は突きには及ばないのである。そして、おそらく彼女の剣士としての技量は自分を超えている。
(勝ち目は薄い)
歴戦の猛者としての彼の経験がそう告げている。だが負ける訳にはいかない。イザベルとの未来を失うわけには行かないのだ。
「ですが中将、貴方には一つ足りないものがありませんか?」
ユリアンは彼自身が不得意と認める心理戦を仕掛けた。
「んん?なぁに?」
呆けた声を出しながらも、ロンダの姿には全く隙がなく、惚れ惚れするような構えを保ったままジリジリと距離を詰めてくる。
「貴方は人を殺したことがない。魔物であれば当然といえますが、それが私との真剣勝負で仇になるのではないですか?」
するとロンダは吹き出した。
「あははー何言ってるのユリアン。私別にユリアンを殺すつもりなんてないもん。ちょっと膝とか肩とか砕いちゃうかもしれないけど、動けなくして攫いたいだけだよ」
そういえばその通りだ。ユリアンの心理戦はあっさり敗北に終わった。
「でもねーユリアンには決定的な弱点があるのよー。私知ってるんだから。教えてあげようか」
もうお互いの間合いまで一歩版の距離である。
「何ですかそれは?」
ユリアンは思わず乗った。結局、駆け引きは驚くほど下手くそである。
「ユリアンはね、自分にとって親しい人を傷つけることができないの。今までずっと貴方を見てたから分かるよ。優しすぎるのユリアンは。それが貴方の最大の弱点よ」
「...........」
図星だった。
今も構えているこの剣をロンダに向かって振り抜くことなど絶対にできないし、もっと簡単にいえば彼女を殴りつけることさえ出来るとも思えない。
かつてギブンズ砦で、酷たらしい仲間の死骸に囲まれたユリアンの深層にまで根を張っているトラウマがもたらした弱点である。
それは彼女が大切な仲間であるからだ。
「ゴメンねユリアン。私どうしても貴方を手に入れたいの」
あと半歩の距離にまで縮まった。
ロンダ、ユリアン共に構えはそのまま。
会話はなくなり、木立のざわめき意外の物音はなくなった。
森の獣達の気配もない。静寂。
ああ、ああ、ああ
もう勝てる、もう勝てる、もう勝てるよ!
ほら見て、ユリアンのあの構え。握りに全然力が入ってない。
あんな握りじゃ刀は振れない。そうだ、もう諦めたらいいんだよ。
一生私が面倒見てあげるよ、愛してあげるよ。ずっとずっとだよ。
ねえ、ねえ、だから、、、早く私の鳥籠の中に入ってきて!!
うふ
うふ
うふふふふふふ
あはは
あはあは
アハハハハハ
ロンダは勝利を確信したが、彼女もユリアンに勝るとも劣らぬ戦歴を誇る猛者である。内心の悦びを懸命に抑えながら、水のような冷静さで必殺の三段突きを繰り出す瞬間を窺っていた。あと数ミリ。
(負ける)
ユリアンは焦った。このままでは絶対に勝てない。ここまで不利な闘いに彼は身を置いたことがなかった。傷つけずに勝つなど出来るのだろうか。まして相手は王国一の剣の使い手である。
(うん?)
剣か。ユリアンは思った。剣にこだわらなければ。しかし剣を捨て、あのロンダに敵う術はあるのか。自分がロンダに優っている点は...。
その刹那、ロンダの突きが電光のような速度で繰り出された。
豪奢な寝室のベッドの上、扇情的なネグリジェに身を包んだアリシアは一人思索に耽っていた。
(ユリアン・ウッズ少将か...)
5年前に催眠を施した際、記憶の改竄と共に恐怖やトラウマも取り除いてやったと思っていたが、人間の心理構造というものはよほど複雑なものであるようだ。
(それもそうだったのだろう。人の心というものを私は理解していなかった。いや、今もそうかもしれない)
催眠治療を施した後、身分の隔絶や女王としての公務多忙もあり、ユリアンと会話を交わしたのは数えるほどもなかった。
だがそんなことは言い訳にはならない。国のためとはいえ、ギブンズ砦を利用したのは国家元首である彼女なのである。
彼女はどこにでもいる厚顔無恥な貴族ではなく、鋭い洞察力と判断力を持った十分に賢人と云える人物であったが、それでもやはり女王としての立場以外で相手を考えたことがなかったかもしれない。人間と魔物達が共存できる楽園の建国を目指し、革命政治家から為政者として活動してきたこの十数年は特にだ。
(私が理想と情を失ってしまったのか、それとも現実との闘いが私の心から瑞々しさを失わせたのか)
彼女の血族は数多いが、そのほとんどの娘達は魔物らしく男性に対する貪婪な欲求と執着を持っている。アリシアは奔放な彼女達を一族としての意識に欠けると苦々しく思うことがあったが、それは自分の勘違いではなかったのではないか。
(むしろ深沼のような性の交歓への沈湎こそ、我ら魔物にとって最も相応しいのかもしれない)
それが人間にとっての、魔物という美しく蠱惑的な者達に対しての一般的な印象であるだろう。もちろん、魔物を極端に嫌う排斥主義者達は別であるが。
(しかし)
思案を巡らせつつ、アリシアは彼女らしい結論に落ち着く。
(他はどうであれ、私は変わることはない。私がこの国の繁栄に全てを捧げなければ、誰がこの魔物達と人間の国の安寧を守るというのか)
少し退屈な注釈になるが、彼女を弁護するとすれば、理想や情だけでは国や組織を運営することはできないのである。国家運営には数えきれない程の面倒な障害があり、加えて組織では利害と感情が混ざった複雑奇怪な人間関係が構成され、さらにそこに外部から理解のない有力者が必ず介入してくる。業腹なことに、それらの人間達の協力なしには国という巨大な機構を運営していくことはできないのだ。
それ故に、革命家達は数々の妥協と失望を繰り返してゆくことになるのである。
私達が知る高名な革命家達もそうであるが、現実の厚い壁に絶望し自ら命を断つ者、縦横の機略を持つがその苛烈な行動故に反対派に暗殺される者、革命後の卑俗化した同志や組織に失望して世を捨てる、もしくは第二の革命を目指し反乱を起こす者。そして、アリシアのように現実と理想との闘いの中で徐々に革命家から治国者・調整家へ巧みに変化してゆく者。この型のみが為政者としての命脈を保っていくことができるのである。この種の革命家はそう多くはない。
(思えば革命の業火から生き残った同志はもう数えるほどしか残っていない。・・・ゲオルグ、君は今何をしているのか。)
「ゲオルグ・マローン...」
ぽつり、袂を分かったかつての想い人の名を口にした。途端に長年忘れていた甘酸っぱい感覚が胸を突き上げてきた。
(いけない、昼の出来事が尾を引いている。慎まねばならない、慎まねば)
頭を振ってため息を付き、アリシアはいつもの冷徹な為政者の顔に戻ろうとした。
「女王陛下、お休みのところ大変失礼致します。ロンダ・クリストフ中将がお目通りを願い出ております。火急とのことでございますので、御取次ぎ致しました。」
侍女長のダークプリースト、セリーンがドアの外から取り次いだ。
(やはり来たか)
女王は溜め息をついた。
ロンダの用は明白である。ユリアンの結婚についてであろう。
(わたくしも彼がロンダを娶ることを望んではいたが)
今日の昼食会でユリアンのあまりに深い心の闇と、イザベラへの愛を知った。加えてギブンズ砦の件は彼を犠牲にしたアリシアの泣き処である。
「陛下?」
「起きています。通してやりなさい」
女王として、そして育ての親としてロンダを説き伏せねばならない。ユリアンにはもう安息のみを与えるべきだろう。
やがて扉が開き、長靴の音を響かせてロンダが入室し跪いた。
「ロンダ・クリストフ陸軍中将、罷り越しました。夜分のご無礼をお許しくださいますよう」
「うむ」
「このクリストフ、誠に僭越ながら、どうしても陛下にお伺いしたい儀がございます」
アリシアはロンダの異常な緊張を見て取った。
「セリーン、下がりなさい。私がよいと言うまで、どんなことがあろうと取り次がぬように」
「畏まりました」
音もなく侍女長は部屋から姿を消した。
広い女王の寝室は静寂と緊張に包まれた。
「さて」
ロンダの緊張をほぐすように女王は寛闊に口を開いた。
「ラウディー、顔をお上げなさいな」
昔、母親代わりとして彼女の面倒を見ていた頃の口調で、その愛称を呼んだ。
「陛下...」
顔を上げたロンダの目には涙が溜まっていた。
「誰も居ないわ、ママって呼んで。」
「ママ...。」
「分かっています、ウッズ少将のことでしょう。ごめんねラウディー。」
「ママぁ!」
ロンダは跪いたままの姿勢からいきなり跳躍し、アリシアのベッドに飛び込んできた。そのまま女王の豊満な胸に顔を押し付けてロンダは泣き始めた。
「ママ、ひどいよぅママ」
「ごめんなさいね」
子供をあやすように女王はロンダの美しい赤髪を優しく撫で続けた。
幼い頃のロンダはとんでもないお転婆娘で、いつも喧嘩ばかりして大人たちの手に負えなかった。だが彼女はその一方で非常な甘えん坊であり、アリシアはそんなロンダが可愛くて仕方なく、彼女をラウディー(喧嘩好き)という愛称で呼び惜しみなく愛情を注いだ。
アリシアは甘えん坊な彼女を実の子供以上に可愛がったため、ロンダは今でもアリシアの娘達から嫉妬されることがある。
「ママ、わたしね、どうしてもユリアンが欲しいの。ユリアンがいたらもう何にも要らないの」
「.......。」
「イザベルなんて娼婦にわたしが負けるわけないの。ユリアンは女を見る目がないと思うの。私と結婚したほうが絶対に幸せになれるの」
「.......。」
ロンダの訴えにアリシアは何も応えることはできない。ただ髪を撫で続ける。
(幼いな)
女王は思う。なんという幼さか。だがこれが魔物なのであろう。打算も掛け値もない、幼い子供の初恋のような、純粋な相手への好意。魔物はその色欲をクローズアップされるきらいがあるが、その元となっているものは混じりっけのない素裸の好意といえる。
もっとも、ヴァンパイアのようなプライドと知能の高い種族達はその好意を巧妙に韜晦させるのだが。
ストレート過ぎる好意に魅惑的な容姿が加われば、墜ちない男など万人に一人であろう。
(だが)
ロンダにとって不幸なことに、ユリアンはその万人に一人の男であった。多くの魔物達の好意は、うぶな子供のように燐くような至純さを持つが、それだけに相手の心の奥深くまでを洞察することが難しく、このロンダのようにやや一方的になってしまうことがある。
だが前述のとおり、健全な男のほぼ全ては、この巨大な好意の塊である美しい魔物達の前では無力であるため、特に問題などは起こらない。
(かわいそうなラウディー)
陸軍中将として戦時には大部隊を指揮し、「慈悲の戦姫」という二つ名を持つ凛々しい女将軍である彼女であるが、今は好きな男を諦めきれない甘ったれの娘っ子のようである。
アリシアはそんなロンダを心から愛しく思うが、一方で冷静に
(この子はユリアンの心を掴むことはできないだろう)
と感じていた。アリシアはイザベルがどんな女かも知らないし、ユリアンとどのような睦言を交わしたのかも知らないが、彼らの中でのみ温めうる感情があるのだろう。
その絆の強固さはユリアンの中に垣間見た通りである。チャームの魔法で無理矢理に魅了でもしない限り、ユリアンを手中にすることなどできないだろう。それに、アリシアはもうユリアンをそっとしておいてやろうと思った。
「ママ、何でユリアンの結婚を許可しちゃったの?わたしを応援してくれるって言ってたのにどうして?」
アリシアは母親として言い聞かさねばならない。
「お聞きなさいねラウディー。ウッズ少将にはあのイザベルという娼婦がどうしても必要なのです。ですから貴方にはもっと相応しい....」
ロンダを説得しようとその肩に手を置いて違和感を感じた。その隊服の下にあるザラリとした感触。
(これは、鎖を着込んでいる)
理解の早いアリシアはすぐにロンダの企図を察した。が、同時にロンダもアリシアに意図を気付かれたことを察知した。
「ラウディー、あなたは...!」
素早くロンダは後方に飛び上がって宙返り、元のように跪いた。
「お察しのとおりでございます、女王陛下。どのような事情があろうとも、私はこのままユリアンのもとへ行き、決闘を申し込みます」
「......。」
「そして彼を打ち倒し、かの娼婦から彼を奪い去るのです」
「......。」
「陛下のお許しがなくとも彼を攫うつもりでありましたが。・・・・少しだけ昔のように甘えてみたかったのかもしれません。」
有能な軍人とはいえ、ロンダもデュラハンという歴とした魔物である。デュラハンの有名な古習として、気に入った男性を攫うというものがある。
このままではユリアンと結ばれることができないと分かった以上、彼女はデュラハンという魔物として行動を起こした。
ロンダは立ち上がった。
「ラウディー、お待ちなさい」
「陛下に私を止めることはできないはずです。何故ならば、如何に賢なりといえど、陛下も魔物。私の心情は陛下に御理解頂けると邪推致します」
その通りであった。国主としての彼女は陸軍中将と少将の決闘などという前代未聞の事件を看過する訳にはいかないが、一方で魔物としての本能ではロンダの心情を理解している。
しかしながら、
「たとえ勝ったとて、ウッズ少将の心を手に入れることはできません」
これがアリシア・フロスト、彼女個人としての意見であった。
「あなたが彼を手に入れたい気持は分かります。あなたが全てを投げ打つ覚悟で決闘を申し込めば、あの少将なら受けてくれるやもしれません。しかし、勝ってその身を手に入れてどうするのです。チャームを使おうとでも云うのですか?」
「いいえ、女王陛下」
ロンダの瞳に情欲の火が灯った。
「彼を浚い、すべての自由を拘束してでもその身を以て私の愛を知ってもらうのです。」
荒く熱っぽい息。
「最初は抗っても、きっと彼は私の愛を受け入れてくれます。私の狂おしい愛を注ぎ込めばきっと。何日でも何十日でも。彼に私の全てを注ぎ続けるのです。きっと私に夢中になってくれる」
恐るべき妄執である。冷静な人間が聞けば仰天するだろうが、このあまりに美しい妄執のデュラハンを否定できる者はそう多くはないだろう。
「必ず誰にも気付かれず決闘を行います。私の隊務にも支障は起こさず、ユリアンは病気による療養という形にし、しばらく代行を立てます。ライナス卿などに口は挟ませません。問題など、そう、何も起こらないのです。ただ結ばれるだけ」
そう話すロンダは本当に嬉しそうな表情で、まるで結婚式を待つ花嫁のように恍惚としていた。
(もうあの風斬りユリアンに勝った気でいるのか)
これで戦時ではよくあれだけの精緻な作戦を立案し、こなすことができたものだ。
愛に狂い始めた一途で愚かしいデュラハン。だがその狂気がロンダの美しさを凄絶なほどに引き立てる。
「それにね」
急にまた甘ったれた声を出す。アリシアはこの愛娘の声に弱い。
「ママもゲオルグさんを無理やり手に入れなかったことを後悔してると思うもの」
「........」
止める意思が徐々に弱くなってきた。そもそも女王であるアリシアを除くとして、天才剣士であるロンダを腕づくで止められる可能性のある者は、この国ではかろうじてあのユリアン・ウッズ少将ぐらいなのである。
アリシア自身も、本心ではロンダとユリアンが結ばれることを望んではいたが。
(何とか、どの者にも幸福が訪れるよう取り計らおう)
「ラウディー、あなたは昔から手の掛かる子でしたが・・・」
「これが私の最後の我侭でございます。どうかお許しくださいますよう。」
深く一礼し、ロンダは女王の寝室から逸る足取りで出て行った。
王宮の廊下を足早にロンダは歩く。
「うふ」
うふ
うふ
うふふ
「アハ」
あは
あは
あは
あはは
「アハハハハハハハハハハハハハハ!」
もう大丈夫!大丈夫。女王陛下は私の味方。陛下はやっぱり私に甘い。だって私のママだもの。ママは私を愛してくれている。他の人にどんなに厳しくたって、一番可愛い私には甘いの。ずっと昔からそうなの。ママは私が大好き。私もママが大好き。
さあ後は
後は後は後は後は
「ユリアン」
ああ、ああ
「ユリアン!」
後は貴方を打ち倒して手に入れるだけ!!
手に入れる手に入れる手に入れる!!
この手にこの手にこの手にこの手にこの手に
この手にこの手にこの手にこの手にこの手に!
ああなぜ今まで実力行使に出ることを躊躇っていたんだろう。
いつもあんなに気を使って、軽い素振りで誤魔化したりして。
そうだ
私が真剣な気持ちをぶつけなかったのも悪いよ。私が単なる遊びで誘ってると思ったのかもしれない。ユリアンって堅物だから。
そうだ、きっとそうだそうなんだ。
でも、もう大丈夫。
私の本気の気持をその身体に流し込んで流し込んで流し込んで。
私の愛でどろどろになるまで蕩けさせてあげる。
もう新兵達なんてどうでもいい。ユリアンだけいればいい。
ユリアンだけ、ユリアンだけ、ユリアンと私だけ、私とユリアンだけ、
二人だけ、二人だけでずっとずっと。
ああ抱かれたい、抱かれたい。あの逞しい腕で、風を切る腕で。
この背骨が折れるぐらい抱きしめて欲しい。いい、折れたって構わない!
もう少し、もう少し、もう少しの辛抱。
私は勝てる。私は勝てる。
勝てる勝てる勝てる勝てる。
私は、私こそがユリアンに勝つことができる!
だって私、、、、、
ユリアンの最大の弱点を知ってるんだもの
「うふふ」
「待ちなロンダ。来ると思ってたぜ」
「?...あら」
王宮から離れ、ユリアンの居宅までもう少しという所で不意に声を掛けられた。
今日は月が明るいが、林に遮られて顔は見えない。が、馴染みのある声だ。
「お呼びじゃないわよぉ、色男さん」
いつもと変わらない口調の中にも、鬼気迫るものを感じさせる。
アルフレッドは内心大いに恐懼しながらも、親友のためにロンダを止めたかった。
「なあロンダ。頼むよ。ユリアンにゃイザベルが必要なんだ。もちろんイザベルもそうさ。お互い強く結びついてんだ、あの二人はよ。諦めてやってくれねぇか」
だがロンダは鼻で笑う。
「私にもユリアンが必要なのよ。彼がいないと生きていけないし、、、、ああもう、あんた邪魔ねぇ。それじゃあんたが」
ずいっとロンダがアルフレッドとの距離を詰めた。彼の鼻先にロンダの甘い体臭が漂った。
「ユリアンの代わりに私を満足させてくれるの?」
アルフレッドの腰に手を回し、首筋に髪をこすりつけた。
「あっ....」
もうそれだけでアルフレッドは目眩がし、彼の男は痛いほどに屹立した。
駄目だ、十人並みの男が束になってもこんな女には敵わないと彼は思った。
「うっそ〜、じゃあね」
ひらりと身を翻し、ロンダはユリアンの家へと歩き出した。
「おまっ、待」
我に返ったアルフレッドがロンダの肩を掴んだ瞬間、彼の視界はくるりと一回転し、やがて石造りの壁のように硬い水面に顔から叩きつけられた。
「あははっ、浅い沼でよかったわね。しばらくおやすみなさい」
呆気無く意識を失った彼には当然その言葉は聞こえなかった。
サラヴェリー王国では他国と同様、兵士達には宿舎が割り当てられる。
将官には当然一般兵とは段違いに豪華な将官用宿舎が用意されているが、ユリアンは官舎には住まず、王宮に程近い猟師小屋を増築した粗末な家屋に住んでいた。
家僕は一人だけ。モロサヌという老いた猟師である。元々この家にはこの老人が住んでおり、ここを気に入ったユリアンがモロサヌから買い取ったのだが、この非常に無口で腕の良い猟師である老人を彼が気に入り、そのまま身の回りの世話役として雇っているのである。老猟師を家僕にするとはいかにも無骨なユリアンらしいが、ユリアンは基本的に自分の身の回りのことは自分自身でやってしまうため、主従というよりは同居人に近い不思議な関係をこの老人と築いていた。
「モロサヌ爺」
「ん?」
終日一言の会話もないことが珍しくない二人だが、この日、夕食の兎のシチューを食べ終わったユリアンが口を開いた。
「今日女王様から許可をもらった。この前言ったイザベルさんと結婚するよ」
「....そらめでてぇのう」
岩を刻んだような表情に変化は見られないが、これでも老人は精一杯喜んでおり、イザベルを見慣れているユリアンには良く分かるのである。
「それでね、ゴヴァイアへ転属することになったんだ。」
ユリアンはこの老人にもややくだけた口調で話す。
「そら、大田舎だで。いっぱい山猪もおるで。」
兎に角この老人は猟が好きなのである。他には趣味と呼べるようなものは何もなく、獲物の尻ばかり追いかけて女の尻は追いかけたことがないものだから、当然今まで独身である。一種の奇人といえる。
「僕はイザベルさんと一緒に行くよ。来るかい?」
「ん」
返事はいつもこれだけである。だがこの時に限って少し付け加えた。
「だども二人の邪魔はできね。近くに住んで、時々燻製でも持ってっからよ」
「そうか」
意外に粋な心を持った老人のようであった。
ユリアンは自室の木造のベッドに寝転がって目を閉じ、今日一日を振り返った。
(やった。僕はやったよ。陛下に認めてもらえた)
この国の最高権力者からの許可をもらえたのである。もう大丈夫であろう。
(イザベルさんの体調が気になるといえば気になるけど)
それだけが気掛かりであったが、前途に開けたイザベルとの新しい未来の前にはさしたる問題とも思わなかった。
(ああ楽しみだな。イザベルさんと田舎暮らしか)
これからの人生、過去の仲間達の霊を弔いつつ、イザベルと二人で暮らしていく、それが今このユリアンのただ一つの願いであった。
「?」
ふと家の外に何か異質なものを感じた。
「旦那、分かるだか?」
いつの間にかベッドの傍にモロサヌが立っていた。この老人は野生の鹿にも気付かれないほど上手に気配を消すことができるが、あまりにも猟師生活が長いせいか、普段から無意識に気配を消す癖がある。
「外に何かいるね、獣かな?」
「ん。盛った雌熊のごとある。だども今そんな雌はいね」
もう交尾の季節は終わっているらしい。
「ちょ、見てくるで」
足音も立てずにモロサヌは部屋から出て行った。
一応用心のために剣を引きつけて待っていると。
「ん」
とモロサヌが戻ってきた。手に何か書状のようなものを持っている。
「何だったんだい?やっぱり熊だった」
「んにゃ、中将様」
「えっ!?」
驚くユリアンに、老人は書状を差し出した。
「クリストフ師団長が、なんでこんな夜中に・・・」
怪訝に書状を開き、ランプの灯にかざした。
ユリアン・ウッズ殿
本日貴殿に決闘を申し込みたく推参
疾く武具を身に付け外へ出られたし
待つ
ロンダ・クリストフ
内容はこれだけである。特徴的な可愛らしい丸文字がロンダ本人の筆跡であることを、もちろんユリアンは知っている。
(デュラハンの伝説か)
デュラハンは気に入った男に予告をした上で攫ってゆくという。そんな伝説を聞いたことはあるが、まさかあのロンダ中将がそんなことを自分にするとは全く意外であった。決闘を申し込み、自分を倒して攫っていくつもりか。ユリアンはロンダが思っているほど鈍感な男ではないが、それでもロンダが自分に対してこれほどの執着を持っているとは思っていなかった。
(ともあれ)
数秒は呆然としてしまったが、軍人である彼に行動の停滞というものは基本的には存在しない。
中将を待ちぼうけにさせるわけにもいかないし、逃げを決め込んだところで、あの研ぎ澄まされた五感と自分をも超える身ごなしを持つ彼女から逃げきれるとも思えない。
立ち上がり、隊服を身に付けつつユリアンは考えた。
これは本気だろうか。いや、冗談でこんなことは絶対にしないだろう。彼女はその内実はとても真面目であることを5年も付き合いのあるユリアンは知っている。しかし将官同士の決闘ということが許されるのであろうか。それにいざ決闘という場面になって自分は戦えるのか、そして勝てるのか。
「旦那」
モロサヌだ。この老人は気配を消しているものだからすっかり存在を忘れてしまっていた。ユリアンも珍しく動揺しているのだろう。
「何だい?」
「行かね方がええ。ありゃ盛っとるで。あぶね」
モロサヌ老人は大真面目だが、どこかその語り口がユーモラスである。その可笑しみが、ユリアンの心に落ち着きを取り戻させた。
「そうも行かないよ、上官だしね」
モロサヌの肩をポンポンと叩き、ユリアンは外へ出た。
「こんばんは、ユリアン。待ったよー」
門の傍に転がしてある丸太に座っていたロンダが立ち上がった。
「クリストフ中将、書状を拝見しましたが、本気なのですか?」
「アハ、読んだ?あのおじいちゃん、ちゃんと渡してくれたんだねぇ」
アハハと笑うロンダにユリアンは違和感を感じた。
「中将?」
その時、雲間から隠れていた月が顔を出し、ロンダを照らし出した。
「あは♪」
それは今まで彼が見たことのない、彼女の女としての顔であった。
その上気した顔と目のギラツキに彼は見覚えがある。
(いつかの外征中に見た発情したワーウルフ)
嬉しそうな咆哮を上げながら兵士達に飛び掛ってきた美しい獣達。悲鳴や嬌声で部隊は大変な騒ぎになったものだった。
「中将、貴方も魔物なのですね。」
「そうよぉ、ユリアンを取って食っちゃうの。攫って食べちゃうのよぉ。ね、私といいコトいっぱいしましょうよぅ」
戦場でのロンダの凛々しい軍人としての姿を知るユリアンは、目の前のロンダの嬌態にやや失望を感じたが、それでも彼女の存在を否定する気にはならない。
「本当は決闘なんてしたくないの。ユリアンが私に大人しくついて来てくれればいいのよぅ。ね?」
上目遣いに異常な色気が籠もる。並の人間であれば、この淫気に当てられただけで射精してしまうのではないか。
「大人しくついていけばどうなるのですか?」
飛び下がって言葉を返す。ユリアンは平静を保っている。
「そりゃあもう、あんなことやこんなこと、こっちのほうからあっちのほうまで・・・」
「お断りします」
ぴしゃりと断った。ユリアンにすれば堪ったものではない。
「いじわる...。いいもん。ユリアン倒して担いで連れてくんだからぁ...」
ロンダは切なげに太腿を擦り合わせた。その太腿に彼女の体液が月明かりに照らされてキラキラ光っている。
「ほら、見えるユリアン。私こんなにも貴方が欲しいの。うふふ」
全くもって、朴念仁と云われるユリアンでも鼻血が出そうな光景である。
「私を攫って食べてしまうことが中将のなさりたいことですか?」
気を取り直し、今にも抜剣して襲いかかってきそうなロンダにユリアンは話し掛ける。
場所を移動して決闘を行うのだと思ってばかりいたが、彼女の興奮状態を察するに、すぐにでも戦ってユリアンを連れ去りたいようだ。
もちろんユリアンは今彼女を目の当たりにして戦うことは不可避だということを悟り、対策を練るために時間を稼ごうとしている。
「そうよ。私はユリアンを・・・・・。あぁもうまどろっこしいの、もう耐えられないの!ユリアン、私のものになって!」
ロンダは勢いよく抜剣した。ユリアンの目論見は外れた。もう時間はない。でも少しだけでも時を稼ぎたい。
「中将!お待ちを。我々が戦ってしまえば、一体隊務はどうなるのですか」
「そんなことはどうにでもなるの!」
「ライナス卿にはどう説明なさるおつもりですか!?」
「あんな空豆でくの坊なんてどうだっていいの!」
酷い言われようだなライナス卿。追い詰められる中、少し同情した。
「女王陛下のお許しが・・・」
その言葉に、ロンダはピクリと反応した。
「ママ...陛下は私の味方よ。私の最後の我侭を聞いて下さるわ」
(もう戦うしかない)
ユリアンは覚悟を決めた。静かに抜剣し、その分厚い剛刀を自らの正面で真横に構える。彼の一番の得意技である、最速の風斬りの構えである。
「あは。無理無理。いくら貴方の太刀行きが早くても、私の突きには及ばない」
その通りだ、とユリアンは思った。彼女の最強の技は目にも留まらぬ瞬息の三段突きである。癖のある右構えから繰り出されるこの技は、突いて引くを繰り返す、その動きがほんの一瞬、ほんの一動作にしか見えないという大変な難剣である。異常な踏み込みの速さとその衝撃に耐えうる肉体、そして手首の柔軟さが人間には不可能と思われる技を可能にしていた。
いくらユリアンの太刀が早くとも、薙ぐ速度は突きには及ばないのである。そして、おそらく彼女の剣士としての技量は自分を超えている。
(勝ち目は薄い)
歴戦の猛者としての彼の経験がそう告げている。だが負ける訳にはいかない。イザベルとの未来を失うわけには行かないのだ。
「ですが中将、貴方には一つ足りないものがありませんか?」
ユリアンは彼自身が不得意と認める心理戦を仕掛けた。
「んん?なぁに?」
呆けた声を出しながらも、ロンダの姿には全く隙がなく、惚れ惚れするような構えを保ったままジリジリと距離を詰めてくる。
「貴方は人を殺したことがない。魔物であれば当然といえますが、それが私との真剣勝負で仇になるのではないですか?」
するとロンダは吹き出した。
「あははー何言ってるのユリアン。私別にユリアンを殺すつもりなんてないもん。ちょっと膝とか肩とか砕いちゃうかもしれないけど、動けなくして攫いたいだけだよ」
そういえばその通りだ。ユリアンの心理戦はあっさり敗北に終わった。
「でもねーユリアンには決定的な弱点があるのよー。私知ってるんだから。教えてあげようか」
もうお互いの間合いまで一歩版の距離である。
「何ですかそれは?」
ユリアンは思わず乗った。結局、駆け引きは驚くほど下手くそである。
「ユリアンはね、自分にとって親しい人を傷つけることができないの。今までずっと貴方を見てたから分かるよ。優しすぎるのユリアンは。それが貴方の最大の弱点よ」
「...........」
図星だった。
今も構えているこの剣をロンダに向かって振り抜くことなど絶対にできないし、もっと簡単にいえば彼女を殴りつけることさえ出来るとも思えない。
かつてギブンズ砦で、酷たらしい仲間の死骸に囲まれたユリアンの深層にまで根を張っているトラウマがもたらした弱点である。
それは彼女が大切な仲間であるからだ。
「ゴメンねユリアン。私どうしても貴方を手に入れたいの」
あと半歩の距離にまで縮まった。
ロンダ、ユリアン共に構えはそのまま。
会話はなくなり、木立のざわめき意外の物音はなくなった。
森の獣達の気配もない。静寂。
ああ、ああ、ああ
もう勝てる、もう勝てる、もう勝てるよ!
ほら見て、ユリアンのあの構え。握りに全然力が入ってない。
あんな握りじゃ刀は振れない。そうだ、もう諦めたらいいんだよ。
一生私が面倒見てあげるよ、愛してあげるよ。ずっとずっとだよ。
ねえ、ねえ、だから、、、早く私の鳥籠の中に入ってきて!!
うふ
うふ
うふふふふふふ
あはは
あはあは
アハハハハハ
ロンダは勝利を確信したが、彼女もユリアンに勝るとも劣らぬ戦歴を誇る猛者である。内心の悦びを懸命に抑えながら、水のような冷静さで必殺の三段突きを繰り出す瞬間を窺っていた。あと数ミリ。
(負ける)
ユリアンは焦った。このままでは絶対に勝てない。ここまで不利な闘いに彼は身を置いたことがなかった。傷つけずに勝つなど出来るのだろうか。まして相手は王国一の剣の使い手である。
(うん?)
剣か。ユリアンは思った。剣にこだわらなければ。しかし剣を捨て、あのロンダに敵う術はあるのか。自分がロンダに優っている点は...。
その刹那、ロンダの突きが電光のような速度で繰り出された。
15/10/11 04:23更新 / SHOOTING☆STAR
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