連載小説
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前編
その日、娼婦イザベルは場違いな客に出会った。
連れてきたのは、アルフレッド・シーゲルという軽い男だ。いかにも遊び慣れているといった感じのチャラチャラした男で、近衛師団兵だと嘯いているが信じられない。今日も居並ぶ娼婦たちをにやにやと見ている。この男はどうでもよかったが、その連れからイザベルは目を離せなかった。

少年である。いや、青年かもしれない。童臭の残るあどけない顔立ち。16,7歳ぐらいだろうか。大きな手と発達した筋骨が、粗末な木綿の服の下に鋼のような肉体を想像させ、顔に比べて妙にアンバランスだ。ここは娼館だというのに、興奮も緊張もないのか、ぼんやりと視線を漂わせている。ここがどういうところかも分かっていないような表情である。

好みの女はいるか、とアルフレッドは少年に囁いた。大方、女を知らない少年に筆下ろしでもさせてやろうというのだろう。

(下らないね)

三十路をとうに過ぎ、娼婦生活に飽いたイザベルはそう思いながらも、なぜかこの少年に興味を持ってしまっていた。しかし、この娼館には彼女より若く魅力的な女は何人もいる。自分には縁がないだろうと、ふいっと少年を視界の外へ消してしまおうとした時、彼女は感じた。

こちらを見つめる気配。
あの少年からの視線である。

(まさか)

と思ったが、その視線は固定されている。少年はじっとイザベルを見つめていた。
その視線の先に気付いたアルフレッドは、やれやれイザベルかよ、と頭を掻いた。
イザベルの評判は無愛想、無口、不感症と散々なものだ。
全くの余計なお世話である。
すると意外なことに、アルフレッドは彼女が初めて見る真面目な表情をし、小さくイザベルを手招きした。
怪訝に思いながらも近づくと、彼はここだけの話だがな、という前置きをして耳打ちをした。

その内容にイザベルは驚いた。少年は、今巷で大評判になっているギブンズ砦攻防戦の唯一の生き残りであり、女王陛下から直々に勲章を下賜された英雄だという。

(へえ、この坊やがね)

話しに聞くギブンズ砦攻防戦とは、砦の守備兵が少年一人を残し全員が戦死するという酷烈な防衛戦であったという。その少年も惨烈な戦闘を体験したせいか感情の起伏をなくし、言葉も満足に話せなくなっているらしい。どころか、酷い悪夢にうなされるらしく、眠ることを恐れ、睡眠を殆ど取らないらしい。

「で、このアルフレッド様が女の温もりを教えてやろうと思ったのさ。」

にやりと笑う。だが男の目は笑ってはいなかった。

「何とかしてやってくれよ、頼む。」

ぐっとイザベルの肩に手を置き、明日の朝迎えに来るから、と女達に手を振って帰って行った。その時、男の目には涙が光っていた。後から聞いた話だが、アルフレッドはギブンズ砦救援部隊の一員であり、現場のあまりの凄惨さに嘔吐するほどであったという。

(人助け、って柄じゃないけど)

最初から彼女は少年に惹かれたのかもしれない。この少年のことをもっと知りたいと思った。

「おいで」

イザベルが手招きすると、少年は一歩進み、不思議そうな目でイザベルを見つめた。

(埒が明かないね)

「こっちだよ。」

イザベルは少年の手を優しく引き、階段を上がって自分の部屋に連れ込んだ。

「ここに座りな。」

少年は従順にベッドの端に座った。さてどうしようかとイザベルは考える。
アルフレッドの言い草から察すると、童貞を捨てさせるためにここへ連れてきたわけではなく、人の温もりを味わって欲しいのだろう。

(本当に柄じゃないね)

と思いつつ、この傷ついているらしい英雄を慰めてみようと決心した。

「ほら、来なよ。」

ちょっと強引に少年をベッドの中に引き入れ、優しく抱きしめてやった。

「眠るのさ。」

「・・・・。」

相変わらず少年は喋らず、ただその身を固くした。

「大丈夫。怖くなってもアタシがついてるよ。」

イザベルは自分自身に驚いた。こんな優しい言葉が口から飛び出したのは一体何年ぶりだろうか。

「力を抜いて。アタシはイザベル。あんたとここにいるよ。」

驚きながらも、すらすらと言葉が出た。
自分にもこんな一面があるのか、とイザベルは徐々に冷静な気持になってきた。

やがてどれくらい時間が経ったのか、少年の肩から力が抜けた。相変わらず喋りはしないが、警戒心が薄らいできたのだろう。

イザベルは自分の遠い記憶から掘り起こした子守唄を唄ってやったり、背中を擦ってやったりした。

やがて、小さな寝息が聞こえてきた。少年は静かに眠っていた。

(何だ、案外簡単に寝てくれるじゃないか)

少し拍子抜けした気持になったが、すぐにそれが間違いだったと思い知らされた。


10分も経たぬ間に少年は目を覚ました。それにイザベルが気づいたのは、少年がガタガタと震えだしたからだ。

「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

よほど酷い悪夢を見たのか、声にならない悲鳴を上げて震えている。

イザベルは驚いたが、少年の広い背中に腕を回し、震えを止めてやろうとした。

「大丈夫だよ。何も怖いことなんてない。大丈夫。」

だが少年は聞こえないのか、イザベルの腕を夢中で振りほどこうとした。物凄い力だった。彼女の細腕が千切れそうになったが、それでも彼女はその腕を離さなかった。
徐々に少年の力は弱くなったが、震えは収まらない。

(どうすりゃいいだろう)

イザベルは考えたが、くたびれた娼婦である彼女に妙案が浮かぶわけでもない。

ここは人肌だな、という平凡な結論に至り、彼女はそっと衣服を脱ぎ捨てた。先ほどの攻防で腕の筋肉が突っ張ってしまい、なかなか苦労した。
細い彼女の裸身が露わになる。スレンダー、というよりも貧弱という表現が似合うイザベルの薄い身体と胸。その胸に彼女は少年の頭を抱き寄せた。

「安心しな、アタシが起きてあんたを見てる。怖いことなんてありゃしないよ。」

根気強く、何度も何度もイザベルは繰り返した。

すると、不意に少年は鍛え抜かれた逞しい腕でイザベルの裸身にしがみついた。少年の馬鹿力に痩せぎすのイザベルは悲鳴を上げそうになったが、何とか我慢した。

そのまま少年は眠り、イザベルは起きたまま朝を迎えた。




「おや?」

少年を迎えに来たアルフレッドが驚いた顔で少年を見た。低血圧な上に寝不足のイザベルには分からなかったが、少年は穏やかな表情をしていたらしい。

「眠れたのか。お手柄だな、イザベルさんよ。」

また頼む、という言葉を残してアルフレッドは少年を連れて帰っていった。



そんな色気のないベッドインを何回も何回も繰り返し、お互いの身体の匂いが馴染んできた頃。
ある夜、ベッドの中で初めて少年は言葉を発した。

「い...べる。....ザ....ベル。」

「?」

「イザ....ベル。イザベル。」

「......!」

瑞々しい感情をとっくに失ったはずのイザベルも、この時は感動してしまった。

「ああそうだよ、アタシはイザベルだ。」

胸が熱くなった。

「イザベル。」

「なんだい?」

「イザベル......好き。」


イザベルはその直後のことは覚えていない。恐らく悩乱したのかもしれない。
惹かれていたのだろう。なぜ惹かれたのか上手く言えないが。
とにかく、事実としてイザベルは少年を己の中に引き入れた。意外なことに、自らをずっと不感症だと思っていたイザベルは、実は喜びの深い性質(たち)であり、後で恥ずかしくなるほどの声を出してしまった。
少年は最初こそイザベルに導かれるままであったが、やがて彼はイザベルを支配し、優しい愛撫で彼女の喜びを何度も引き出した。そして最後に彼のものでイザベルの中が満たされた時、もう女としてとっくに擦り切れていたはずの彼女は、その人生で初めて「女」になったことを実感した。



「イザベルさん、ありがとう。」

ベッドの中、少年は初めて見せる笑顔をイザベルに向けた。

「何がだい?」

その笑顔が眩しくて、無愛想で知られたイザベルはついそっぽを向いてしまった。

「僕を救ってくれた。」

「柄じゃないんだ。やめとくれよ。」

イザベルは照れくさい。

「まだ」

「?」

「まだ、消えてはないんだ。真っ赤な壁も、嫌な匂いも、開いたままの皆の目も。」

やっと笑ってくれた少年の笑顔が消えた。

「血だらけの皆がね。隊長、守って下さい、戦って下さいって。」

「.....若い隊長さんだね。」

「敵も言うんだ。助けて下さい。殺してやる。この人殺し、ってね。」

「.....。」

「でも殺したよ。皆殺した。憎くて、怖ろしくて。恨んだだろうね、彼らは。」

「あんた...。」

「仲間も誰も守りきれなかった。良い人達だったのに、皆死んでしまった。僕は英雄なんかじゃない。ただの人殺しだよ。」

淡々と喋る少年にイザベルはぞっとした。
この少年の心には闇が巣食っているのか。

「今でも目を閉じると、仲間の、敵の死に顔が浮かんでくるんだ。何日もずっと見ていたせいかな。目に焼き付いて消えないんだ。」

勝手だよね、とぽつりと言う。

「みんな僕のせいなのに。それが怖くて、苦しくて眠れないなんて。」
「そんなことないさ。」

また震えだした少年の手をイザベルは強く握った。

救ってあげたい。少しでも助けになってあげたい。この少年の心に、ほんの少しだけでも光を。

「皆が国のために必死で戦った。あんたは生き残った。それでいいじゃないか。あんたが苦しんで誰が救われるんだい?」

「...............。」

「アンタは精一杯戦った。そして生き残った。それでいい。」

イザベルは力強く言い切った。こうでも言わなければ、この少年は自分の殻に籠り、永遠に自分を責め続ける気がしたからだ。

「..............。」

少年は黙った。

「...............。」

長い沈黙だった。
イザベルは辛抱強く待った。

四半刻ほど経ち、少年は再び口を開いた。

「............いいの?」

「いいんだよ。」

イザベルは優しく頷いてやった。

「僕は、生きていいの?」

「いいんだよ。」

出会った日のように、少年の頭を胸に抱き寄せた。

「僕は.......。」

少年は絶句し、少し肩を震わせた。

わっと泣き出すかと思ったが、少年は黙ったままイザベルに身を任せているだけだった。
いや、イザベルからは見えないが、静かに涙を流しているのかもしれなかった。

(なんて強い子だろう)

イザベルは思った。想像したくはないが、おそらく普通の人間ならば廃人になるぐらいの経験をしたのだろう。イザベルには分かる。この少年には戦士としての天賦の才があるのだろうが、皮肉にもその才能とは対照的なほどの優しい心が彼を苦しめ、彼を深く蝕んでしまっている。


そして、顔を上げた少年が言った言葉をイザベルは生涯忘れることができなかった。

「僕にはイザベルさんがいてくれるから。だから、だから生きてみるよ。」

少年はイザベルの手を握り返した。彼の傷んだ心が、ぼろぼろになった優しさが流れ込んでくるような気がした。




―ああアタシは、

この人が好き。

この少年が好きだ。

ああ、神様。神様。

傷ついた彼を、ひび割れたガラスのような心を、

ずっと私が包んであげたい。

でもきっと、彼はこんな安娼婦などすぐに見向きもしなくなるだろう。

そんなの当然だ。そうあるべきだ。

でも、でも、今だけは。

彼が私を見てくれている今だけは。

この幸せな気持に浸らせて。

そしていつか彼が私の前からいなくなっても

―どうか彼の全てが救われますように。


イザベルは、その幸薄い人生で初めて祈った。




「まだ自己紹介をしてなかったね。イザベルさん、僕は―」















5年の歳月が流れた。














「イザベル、そろそろアンタの王子様が来る頃なんじゃないの?」

色黒の顔を意地悪そうに歪ませて、娼婦仲間のアニタがタバコをふかした。
手入れを怠った荒れた肌が目立つ、この娼館の主のような大年増だ。

「は...何が王子様だって?」

気だるげな表情を取り繕って、少し老いたイザベルは言葉を返す。
すると、アニタは嬉しそうにからかうのだ。

「ケッ!また無理してニヤケ面隠しやがって。あんたみたいな無愛想なすれっからしに惚れる物好きなんざ、そうはいねえよ。嬉しそうな顔の一つでもしろよ。」

「・・・・。」

「困ったらすぐに黙りやがる。気に入らねぇ女だよ、アンタは。ホラ、何やってんだい。さっさと愛しのナイト様のお迎え準備でもしなよ。」

煙を吐き、ひらひらと追い立てるように手を振る。口は悪いが、こう見えて根は優しく面倒見の良い女だ。

「・・・行ってくる。」

表情を変えないままイザベルはゆっくりと立ち上がり、部屋横の階段を降りていった。

ミシミシと階段が悲鳴のような音をたてるこの館「椿の園」は、王都ハイデンから程近いサラヴェリー王国公認の色町にある、やや廃れた娼館だ。昔は貴族御用達の栄えある館だったらしいが、今はその面影もなく、どこにでもあるようなただの安娼館である。

ここは色町。富貴問わぬ数多の男達がここで欲望をさらけ出し、疲弊した心を、己を女の中に埋没させ、倦んだ日常へと戻るせめてもの糧とする。




毎週日曜の午後6時頃、この館に場違いな客が現れる。

その客が現れると、辺りが華やぎ空気が軽やかになる。
向いや隣の娼館の女達も熱い視線を送るが、その客はいつも迷うことなく、この椿の園にやってくる。


身に纏っているのは、栄えある王国近衛師団の隊服。
中背ながらもがっしりとした体格。そして、それに不釣り合いなほどの幼さの残る繊細な顔立ち。

「やあ、イザベルさんはいるかい?」

よく通る少し甲高い声を響かせ、その若い仕官は館の中に入った。
細い鼻筋が通り、鳶色の瞳が淡い光彩を湛えている。


「いや旦那!よくいらっしゃいました。イザベルはこちらにおりますです!ずーっと旦那をまっておったですよ!ホホッ!!」

支配人である親爺の歓迎に笑顔を返し、若者は階段の傍に佇む娼婦に顔を向けた。

「イザベルさん、いつもの一週間ぶりだね。元気にしてたかい?」

「・・・・あぁ。」

だるそうな表情でそっけない返事のイザベル。いつものことではあるが。

「こらイザベル!!旦那に失礼だろうがっ。笑顔の一つも見せられんのかお前は!!」

「...。」

ハラハラした親爺が叱りつけるが、女はどこ吹く風である。

「おまっ・・・!「まあまあいいんだよ。」」

激昂しかけた親爺を遮り、若者はイザベルの冷たい手を優しく両手で包んだ。
その顔立ちには似合わぬ、節くれ立った分厚い手だ。

「会えて嬉しいよ。週に一度だけっていうのが本当に悲しくなるくらいね。」

若者の優しく温かい眼差しが、青白いイザベルの顔に注がれた。

「・・・そうかい。」

イザベルはいつものように素っ気なく言葉を返すだけだったが、
その青白い頬に鮮やかな朱が差した。

(へっ、やっぱり取り繕ってやがるだけか。)

イザベル。元は多少美人であったが、鼻がいわゆる鷲鼻であり、目付きの鋭い癖のある顔立ちをしている。体つきは小柄で痩せぎす。おまけに年増で無愛想なためか、この若者の他には指名する客はいない。いや、たまにはいるのだが、アニタや他の女からこの高名な軍人の存在をこっそりと耳打ちされ、結局は遠慮してしまうのである。
だが若者は毎回必ず金貨を置いていくため、客がたった一人でもイザベルはこの娼館の中でもそこそこ稼いでいる、という不思議な存在になっていた。

この問題児(?)の面倒を長年見てきた親爺であったが、彼女はこの年若い軍人に対してだけは、女としての自覚をはっきりと持っているようであった。
よく見ると、少し白髪が混じり始めた金色の髪も今日はきちんと梳かされており、うっすらと丁寧に化粧もしている。

(イザベルのやつ、心底惚れてやがる。)

そりゃあアニタが面白がって応援するはずだ、と親爺は心の中で納得し、

「ウチは多少古くなってますからな、床が抜けん程度でおねがいしますよ!ホホッ」

と階段を上がっていく二人に野暮なエールを送った。




「・・・さあどうする、寝るかい?」

埃っぽい部屋に入ったイザベルは少し咳き込んだ後、味も素っ気もない言葉を投げかけた。
若者はそれには答えず、イザベルの頬に手を添えた。少し荒れた肌を優しく撫で、

「今日はおめかしをしてるんだね。とっても綺麗だ。僕のために?」

「気分だよ。」

いつもの調子で返すが、若者は愛しげな手つきを変えることはなかった。
やがて手を止めると、イザベルの顔をじっと見つめた。

「シワの数でも数えてるのかい?」

彼女の照れ隠しである。

「イザベルさん、あまり顔色が良くないね。少し痩せた気がする。疲れてる?」

「あたしはいつも通りさ。それよりも寝ないのかい?抱きに来たんだろう?」

イザベルは背を丸め、少し内に籠もるような咳をした。

「半分外れ。僕はイザベルさんに会いに来るんだよ。それより答えて。今日は何か食べた?食欲はある?」

「・・・朝にチーズを一切れ。今日はあまり食欲ないんだ。」

その言葉を聞くと、若者はドアを開けて部屋を出て行った。階段を慌ただしく降りていったかと思うと、またすぐに上がってきた。
その手にシチューの皿とパン。賄いを親爺からもらってきたのだろう、







「食欲がなくても、ちゃんと食べないといけないよ。ここは埃っぽいし、湿気てるからなぁ。。。」

シチューとパンを食べさせた後、イザベルをベッドに寝かせ、若者は傍らの椅子を引いて腰掛けた。

「今日は休んだほうがいい。休養ってのは大事だからね。」

子供を寝かしつける母親のように、若者はイザベルの体を包む薄い毛布に手をおいた。

「アンタは変な人だよ。娼婦を抱きもせずに寝かしつけるなんてね。不能でもないくせに。」

抑揚のない声で悪態をつくが、若者は相手にならず、慈しむように毛布越しの女の痩せた体を撫でた。

「このままあたしが寝ちまったらどうするんだい?わざわざ娼館に来た意味が無いだろ。」

「いいんだ。僕はイザベルさんに会いに来てるんだから。寝顔が見れるなんてご褒美だよ。」

「馬鹿だね。」

「かもね。.......ああ、そうそう。そういえばね、今週から新兵の本格的な組撃ちの訓練が始まったんだけど、アルのやつが新兵の前で張り切っちゃてね・・・」

若者が今週の出来事を面白おかしく話す。無口なイザベルはほとんど聞いているだけだが、
元来が聡明なのか、要所要所で的確な相槌を打つ。

「結局、見栄張って新兵の一番強い子を指名して模擬戦をやったんだけど、頭にいいのもらっちゃってね。白目剥いて、馬鹿だろー。」

「ホントだね...。」

アルこと、アルフレッド・シーゲル。もうここには顔を見せなくなったが、よく覚えている。今も相変わらずチャラチャラしているのだろうか。

「でしょう、それで医務課に運ばせたんだけど、本人はやられたことまるで覚えてなくて....」

饒舌な若者。だが彼女は知っている。普段の彼は無駄口を叩かず、その謹直な勤務態度とずば抜けた剣の腕で、上下問わず大きな信頼を得、慕われていることを。
彼は謙虚な人物であるが、若き名士であり、娼館の客である兵士や、あるいは彼に想いを寄せる娼婦達の噂話に頻繁に上るのだ。
彼女は知っている。彼がこのような歳相応の無邪気さを見せるのは彼女の前だけなのだ。そしてこの若者は、今までイザベル以外の女を指名したことがない。


しばらくして会話が途切れ、この埃っぽい部屋に静かな時が流れる。
親爺が気を利かせたのか、単に客が来ないだけなのか、隣の部屋に人が入る気配もない。
若者の優しい手つきが心地良い、穏やかで優しい時間。
いつしかイザベルは目を閉じ、この若い軍人の温もりに心を委ねた。




「イザベルさん?」

「・・・。」

「寝た...かな?」

しばらく後、イザベルが眠りに落ちたことを確認すると、若者は彼女の頬に顔を寄せた。

「愛してるよ、僕のイザベル。」

優しく口づけし、椅子から立ち上がり部屋を出て行った。

静かに扉が閉まると、イザベルは目を開けた。



「あたしもだよ、ユリアン。」

誰にも聞こえない、小さな呟きが零れた。





「アニタさん、ちょっといいですか?」

青年は2階の娼婦達の休憩所でタバコをふかしているアニタに声をかけた。

「おや、このアニタさんに何か用かい?ナ・イ・ト・様♥」

「からかわないでくださいよ。」

この謹直な軍人は、イザベルに対して以外は冗談を言わない。

「いやいやご謙遜。王国近衛師団の切り札「風斬りユリアン」こと、ユリアン・ウッズ少将様だもんな。若いのに大したもんだよ。噂じゃ、ハーモン州の総督、ミレウム卿からご息女の婿に望まれたって聞いたぜ?」

アニタがからかうように聞くと、珍しくこの若者、ユリアンの表情に影が差した。アニタは要らぬことを言ってしまったかと内心焦ったが、彼はすぐにいつもの謹直な表情に戻った。


「そんなわけないですよ。私など氏も素性もない、孤児院出身のただの兵士です。それに婿だなどと言われても、私にはイザベルさんがいる。」

「それが今世紀最大の謎だね。ユリアン様よ、あなた今いくつだい。」

真意を聞いてみたい。アニタは切り込んでみることにした。

「23ですが。」

「へえ!まだ23だったかい。それで陸軍少将っていう高官様だからね。本当なら、アタシなんか虫けらは地べたに拝跪して顔も見ちゃいけないようなお方だよ。」

事実である。この青年ユリアン・ウッズ、サラヴェリー王国の最年少の将官である。他に年齢の近い将官といえば、ワイバーン空軍所属のワシム・カッセル少将35才ぐらいであり、他国にも類がない。

「ご存知だとは思うけど、イザベルは38さ。一回り以上年が違う。それに、多少顔はマシかもしれないが、娼婦としちゃ、とうにお払い箱みたいなもんさ。私も同じだがねぇ。ここの親爺のお慈悲で細々生きて、このカビ臭ぇ場末の館で50やそこらでコテンとおっ死ぬ。それがほぼ決まった私達の未来ってもんさ。それでも・・・」

「それでも私はイザベルさんが好きです。歳が離れてるとか、娼婦だとか、そんなことは構わない。ねえアニタさん、大好きで、大切な人を想うことに理由など要りますか?」

ユリアンの真摯な表情は変わらない。だが、この若さで一体いくつの死線を経験したのか。涼しげな眼差しの奥に、時折歴戦の猛者としての凄味がのぞく。
アニタは商売柄、数限りない男を見、枕を交わしてきたが、ユリアンほどの男を見たことはないと思い、密かに好意を持っていた。

「分かった分かった、ごちそうさま。それで、用があって私に声掛けたんだろ?」

だがイザベルの手前、自分の好意を曝け出すことはできない。
アニタは急いで話をぶち切り、さっさと方向を変えた。

「ああそうなんです。実はイザベルさんがちょっと体調が悪いみたいで、ここ最近で痩せてしまった気がします。」

「ああ、そういえば最近はあんまり食欲が無いみたいだね。」

心根は優しいアニタも、イザベルの体調の異変を気にかけていた。

「今日も少し妙な感じの咳をしていたんです。すまないけど、医者に看せてあげてくれませんか。頼みます。私は国立闘技場に出張があってしばらく来られないので。」

もし余ったら美味しいものでも食べて下さい、と金貨を3枚アニタに手渡すと、ユリアンは足早にイザベルの部屋へと戻っていった。


「チッ、幸せ者め。まさかとは思ったけど、イザベルを落籍(ひか)せるって噂は本当なのかもしれないね。」


アニタはつい先日聞いた娼婦仲間の噂を思い出した。落籍せる、つまり馴染みの旦那が気に入った娼婦を娼館、つまり女の所有者から身柄を買い受けるということ。
裕福な貴族が才色兼備な若い娼婦を落籍せることは稀にあるが、イザベルのような年増を落籍せる物好きなどは前代未聞であろう。
だが、あのユリアンならやるかもしれない。ユリアンのイザベルに向ける気持は紛れもない本物だし、イザベルも感情表現は不器用ながら、彼を確かに愛している。

だが、とまたアニタは思う。二人が一緒になったところで、果たして祝福する者が何人いるだろう。かたや王国近衛師団の至宝と云われる若き少将、かたやただの年増の娼婦である。
ユリアンは魅力的な男だ。弁えてはいるが、酸いも甘いも知り尽くした自分でさえ魅せられそうになる。想いを寄せる女は多いだろうし、掃いて捨てるほど縁談があるだろう。


-住む世界が違う-

-釣り合わない-


釣り合うはずもなく、滑稽なほどに住む世界の開きがある。妾ならばまだいいかもしれない。今まで落籍された若い魅惑的な娼婦たちは、大切にお妾さんとして囲われているという。十分な生活と贅を尽くした金銀宝石の対価として、彼女たちの美しい身体を捧げる。それもいいだろう。

だが、ユリアンはどうするのか。まず間違いなく、妾などにするつもりはないだろう。あの真っ直ぐな若者のことだ、妻としてイザベルを迎えるだろう。
世間はそれを許すのか。否、好奇心を抱きつつも、世間は決して認めまい。世間とはそういうものだ。彼は栄光に輝く未来を失うだろう。しかしそれをイザベルは・・・

「おいアニタ、何やってんだ?全然掃除やってねぇじゃねぇか!」

親爺のだみ声がアニタの思考を掻き消した。いつの間にか見飽きた髭面の男が目の前に立っている。この親爺、性根が卑しく人間としては小さいが、根っから悪い男ではない。

「うるさいねぇ、そのうちやるよ。......ところでさ、あのユリアン様がイザベルを落籍せるって話は本当なのかい?」

わざと軽い調子で聞いてみる。

親爺は一瞬ぎょっとした顔をしたが、一種の主であるアニタなら構わないと思ったのか、強面の髭面を近づけた。



「ああ、本当だとも。信じられん酔狂な話だがよ。この色町の決まりを知ってるか?どんな蓮っ葉だろうが、落籍せるには一律金貨5000枚だ。泣く子も黙る、この街の武闘派ギルドの鉄の掟ってやつよ。」

5000枚だぜ5000枚、と繰り返し呟いたあと、一段と声を落として親爺は続ける。

「それをあの少将閣下はよぉ、先週耳そろえて持ってきたんだよ。信じられねえ。聞いた話じゃ、今までこの娼館に来る以外のほとんどの金を貯めてたそうだ。」

今は、色町を取り仕切っているギルドの裁断待ちだという。いくら決まりであるとはいえ、ほぼ前例のないこの酔狂な事態に、海千山千のギルドのやり手共も驚いたらしい。
だが彼らは皆有名人であるユリアンの人柄に好意を持っており、裁断が下りるのもあと数日という段階だという。

「おやまぁ、そこまで話が進んでたのか。」

驚きを通り越してアニタは呆れてしまった。親爺はアニタの反応など頓着せず喋り続ける。

「いや、あんなに幸せな女はいないだろうよ。本当に。俺も信じられん。あんなお人がいるとはなあ。」

それにはアニタも同感だった。この薄汚い娼館で生涯を終える運命の年増娼婦が、将来の栄達を約束されている若き英雄の妻になるなど、御伽噺の世界の話であろう。
だがそれだけに無理がある。きっと無理がある。御伽噺はあくまで現実ではないのだ。それが現実になれば、多くの歪みが生まれるだろう。
劫を経たアニタは、親爺の予熱に浮かされることなく、二人の行く末を危惧した。

「幸せになれりゃいいがねぇ。」

さぞ難しかろう、とイザベルは心の靄を煙とともに吐き出した。






「・・・ん。」

「目が覚めた、イザベルさん?」

薄暗い部屋に日が差し込んでいる。どうやらあのまま眠りに落ちてしまっていたようだ。

「おはよう、もう朝だよ。今日はいい天気だ。」

ユリアンの指が、少し乱れたイザベルの前髪を優しく梳かした。

「うん、少し顔色は良くなったね。」

ほっと安心したような顔。その表情にいじらしいほどの愛情が溢れている。

「アンタは寝なかったのかい?」

我ながら気の利いた言葉も出ないもんだ、とイザベルは自嘲する。
すると、ユリアンはちょっとだけいたずらっぽく微笑み、

「実は、ちょっとだけイザベルさんの横で寝てたんだよ。添い寝っていうのもなかなかのご馳走だね。」

「馬鹿だね。」

ふっ、とイザベルは無意識に笑っていた。イザベルが笑顔を見せるのも、実はこのユリアンにだけだったりする。

(本当は抱いて欲しかったけどさ)

けれども、変わらないユリアンの優しさがイザベルは何よりも嬉しかった。

「さあ、僕はそろそろ行かないと。送っておくれよ、奥さん。」

「誰が奥さんだか。」

悪態をつきながらも、ちょっとだけ満更でもない気持でイザベルは起き上がった。




「へっへー、昨日はお楽しみでしたかな、旦那?」

相変わらずの親爺の挨拶に愛想笑いを返し、ユリアンはテキパキと騎士団の装束を身につけた。

背中に翻るマントには、近衛師団栄光の象徴である黄金剣のクロスの刺繍がある。
度胸が良いのか無頓着なのか、勿論、騎士の正装で色町に来る者などユリアン以外にはいない。


「じゃあそろそろ。」

ユリアンは、同じく見送りに来てくれたアニタにチラリと視線を向けた。

(わかってるよ。ちゃんと医者に看せるって。)

アニタがうなずくとユリアンは目元で会釈をし、イザベルに顔を向けた。

「次の日曜は国立闘技場で剣闘大会があってね。王都代表で出場しないといけなくて、ここには来れないんだ。でも、きっと優勝して帰ってくるよ。」

「え?」


(来れないなんて、そんなの聞いてない)


この国が平和になって以来、最近は回数こそ減ってしまったが、ユリアンは週に一度は必ず顔を見せてくれていた。


「身体を大事にして、無理はしないでね。それじゃあ。」


(あ...)

ユリアンはマントを翻して歩き出す。その広く逞しい背中は、いつも振り返ることなく朝の雑踏の中に消えていってしまうのだ。イザベルは珍しく大いに狼狽した。



くい



ユリアンは右袖にわずかな重みを感じた。

「?」

振り返ると、イザベルがいつもの無表情でユリアンの袖を摘んでいた。



くいくい



「イザベルさん?」

どうしたんだろうか、咄嗟には理解できなかった。




「今週は無理でも....。でも、再来週は来てくれるんだろう?」

「・・・?・・・!!」



ああそうか!彼女は寂しがっているんだ。
来週自分が来れないことを悲しんでくれている。ユリアンの胸に熱い感情が湧き上がった。

「あの・・・ね。ちゃんと食べ物は火が通ったものを食べるんだよ。生水は飲んじゃいけないよ。アンタは強いだろうけど、優勝なんかしなくていいから、怪我しないように気をつけないといけないよ。羽目をはずして悪い女に引っかからないように・・・。あと、それと・・・」

青白いイザベルの顔が、どんどんトマトのように赤くなる。

「ああっもう!!」

人前では騎士としての振舞いを厳守するユリアンが、思わずイザベルを強く抱きしめた。

「可愛いなぁ、イザベルさんは。」

「そんな・・・ちゃんと聞い・・んっ!」

ユリアンがイザベルに深く口付けた。勿論路上であり、誰からも丸見えである。
この清々しい暴挙に、親爺とアニタは口をあんぐりと開けてしまった。

「はあ、最高の朝ごはんだ。ふふっ。」

唇を離すと、何の邪気もない笑顔でユリアンは笑った。
茫然自失のイザベルも親爺もアニタも、その笑顔を美しいと思った。

そして、イザベルの細い肩に厚い手を置き、

「次に来た時、ちょっと大事な話があるんだ。楽しみにしててね。愛してるよ。」

もう一度強くイザベルを抱きしめた後、確固とした足取りでユリアンは歩き出した。

「あ・・・アタシも、愛してる...。」

その絞りだすような小さな声は、どよめきと雑踏に紛れ、ユリアンには聞こえなかったようだった。



「乙女かっ。ババアのくせに。」

もちろんアニタの悪態も。



(これが普通の客ならただのナンパ野郎なんだけど、ユリアン様は本気だから困ったもんだ。)









「おはようございます!!ウッズ師団長補!!」

「ああ、おはよう。お前は...アンネだったね。入りなさい。」

月曜日、兵営の執務室。丁度新兵の名簿に目を通していたユリアンが、訪れた若い女兵士に声を掛けた。陸軍少将であるユリアンは近衛師団長補という貴官である。

「いつも元気だな。もう模擬戦闘訓練の時間だろう、私に何か用か?」

口調こそ柔らかいが、イザベルと話している時とは別人のような峻厳さがある。普段の彼は、23歳という若さを全く感じさせることのない荘重な雰囲気を身に纏っている。

「はっ。その、サラヴェリー剣闘大会は6日後であります。是非、新兵一同ウッズ師団長補にご指導を頂きたく!」

「そうか、お前達も腕試しで出場するんだったな。勝ち抜くのは難しかろうが、良い経験にはなるだろう。ところでアルフレッド統括教官はどうした?お前達新兵の面倒を総覧しているのは彼のはずだが?」

「はいっ!実はシーゲル統括教官殿は先ほど失神して医務課に...。そのため、ハイアット教官殿からウッズ師団長補をお呼びするよう私が仰せつかりました。」

「またか・・・・・。ひょっとして、またコナーとかいう奴とやったのか?」

「はっ。」

コナー・バルド。新兵の中で最も腕が立つが傲岸不羈な性格であり、快く思っていない朋輩も多いと聞く。アルフレッドがいなくとも他の教官達が訓練を進行すれば良いのだが、ユリアンをひどく尊崇する彼らは、何事につけ彼に頼ってくる。

「いいだろう、私もたまには立ち会うべきだな。アンネ、訓練場へ行こう。」

さすがに教官のトップが度々やられては示しがつかないだろう。内心少々重く感じる腰を上げ、ユリアンは訓練場へ向かった。







「で、なんと『風斬りユリアン』様が俺の相手をして下さるわけで?」

コナーの前評判通りの不遜な態度に、整列した新兵と訓練教官達は息を呑んだ。

闘技場の真ん中、ユリアンはコナーと向かい合っている。
初めて見るが、頑丈そうな巨体から樹の幹のような腕が伸び、岩のように盛り上がった肩がさながら熊のような印象を与える。眉が鋭く上がった利かん気な顔立ち、歳は18、9か。
恵まれた体格とその強気な性格で、今まで恐れるものなどなかったのだろう。

ユリアンは優しく親切な男だが、礼儀と尊重を重んじる。ましてや近衛師団長補として責任のある立場である。


「言葉遣いと態度がなっておらんな。入隊してから今までどんな教育を受けていたんだ。」

「へへ。生憎俺は尊敬する相手にしか敬語は使えないもんでね。」

「貴様っ!!!!!」
「まあいい」

割って入ろうとしたハイアット教官を穏やかにユリアンは制した。

「しっしかし。」

「...下がってろ」
「!!」

時折ユリアンが見せる異様な迫力に、言葉もなく教官は引き下がった。

「コナー、お前は私を尊敬していないんだな?」

「そりゃあそうですよ。」

怯むことなく、傲然とコナーは胸を反らし、薄ら笑いを浮かべた。

「なぜかな?」

「ボロきれみたいなババア娼婦にうつつ抜かしてる上官をどう尊敬しろと?」

「!!!!!!!!!!」




(・・・・・言いやがった、コナーのやつ)
(・・・・・身の程知らずの馬鹿って怖え)






誰もが知っているが、誰もが憚って口にしなかった。それを、恐れを知らぬ新兵がついに言った。
英雄風斬りユリアン最大の謎にして最大の汚点(と思われている)を遂に口にした。

皆が凍り付いた表情でユリアンを見た。しかし、




「そうか。」

ユリアンの穏やかな表情は全く変わっていなかった。

「アンネ、そのナイフを貸しなさい」

「えっ、、、はははいっ」

硬直していたアンネから木製の訓練用の短刀を借り、

「コナー、一つ教えてやろう。その長刀で構わんから掛かってきなさい。」

穏やかな口調のままで試合開始を宣言した。
言わずもがな、得物のリーチが全く違う上に、長刀は模造刀とはいえ金属製である。
そして二人の体格差は歴然としている。

(所詮は女にトチ狂った阿呆だ)

コナーはほくそ笑んだ。豎子である。


「この国の至宝、風斬りユリアン様がお相手して下るとは光栄だ。遠慮せずいき....」

(ん?)

コナーは違和感を感じた。急に澱んだような、重苦しく粘つくような空気。妙に息苦しくなり、呼吸が早くなった。

(なんだこれは)

刀を持った腕は上がらず、踏み込もうにも足が動かない。夏の陽に喘ぐ老犬のように、短い呼吸を繰り返すだけである。

(なんだってんだよ、こんな優男に)

ユリアンであった。いつもと変わらぬ表情のユリアンから放たれる異様な空気が、戦場を経験したこともないコナーを本能的に怯えさせていた。

(...び、ビビるかよこんなもん。ビビってたまるか)

しかし彼にも意地がある。今まで己の我儘、傲慢さを貫いて生きてきた。自分より強い人間などいない。まして、こんな年もそれほど自分と変わらない優男に負けるはずがない。コナーの意地が、得体の知れない恐怖に慄く表情を無理矢理に引き締めた。

(いける!俺なら。俺が一番強いってところを見せるんだ。踏み、踏み込む!)

傍から見れば単なる馬鹿であり、上官を傷つけたところで自分の将来への栄達を自らぶち壊すだけであるが、彼にとってはもちろん大真面目の反骨である。

「う、うぉぁっ!」

コナーが巨体に似合わない俊敏さで一気に踏み込み、長大な模造刀を左袈裟に振り下ろした。暴勇ゆえの手加減のない一撃。直撃すれば左鎖骨は粉砕され、生涯刀を持てなくなるなるだろう。





その時

風が哭いた。


悲鳴のような音とともに、コナーの鋼鉄製の模造刀が、ばきりと2つに折れて飛んでいった。




「・・・・え。」


驚く間もなく、ナイフの柄が軽くコナーの顎を打った。

「あれ。」

それ一撃で脳が揺らされ、あっさりと膝から崩れ落ちた。

「そんな、馬鹿な。」

一体何が起きたのかコナーには分からなかった。



「どうしたコナー。」

いつの間にか、膝を曲げたユリアンがコナーの顔を覗きこんでいた。

「遠慮せず逝くんじゃないのか?」

「ヒッ...」

恐ろしい目だった。数多の人間を殺してきた者のみが持つ、暗い殺戮者の目だ。猛禽類の鋭い爪で心臓を鷲掴みにされたような、引き裂かれるような恐怖がコナーを襲った。


「ひ、ひっ」

(殺される....)

身体がガタガタと震え、目尻に溜まった涙が零れ落ちそうになった。


「分かるか?」

「えっ。」

「分かるかと聞いている。」

「何が、でしょうか?」

先ほどの嘲弄ではない。コナーはごく自然に敬語を使った。今の一瞬で完全な実力差を感じてしまったのだ。この男には絶対勝てない。

「私は何故お前より強いと思う?」

「何故でしょう。」

従順な弟子のような態度になったコナーを、ユリアンは本来の優しい瞳で見つめた。殺戮者のそれは消えていた。

「大切な人がいるからだ。お前のような蛮勇ではない。自分のためだけの力ではない。この力はな、大事な人を守るために使うんだよ。今はお前が彼女を侮辱したから、彼女の名誉を守るために己の力を使ったというわけだ。分かるな?」

「はっ...。」

まだぼんやりする頭でコナーは考えをまとめようとした。

「そういうことだ。さて、他の者達は今の模擬戦で何が分かったかな?」


ユリアンは訓練兵を一瞥したが、皆先ほど見せた殺気にすっかり竦んでしまったのか、言葉も出ないようだ。

その時、

「はーい、風斬りユリアンは訓練兵の前で堂々と惚気ける天然さんだということでーす!」

脳天気で間延びした声が響いた。皆が真っ青な顔でその声の主を振り返ったが、すぐに安堵の溜息をついた。スラリとした美しい赤髪の女騎士。

「クリストフ中将、見てたんですか。」

「そりゃそうよー、久しぶりにユリアンの本気が見られると思ったけど、まだまだ新兵君は敵わないかぁ。」

「相変わらずお人が悪い。」

困った人だ、といった表情をユリアンは見せた。
辺りの空気が一遍に和らいだ。


ロンダ・クリストフ、サラヴェリー王国近衛師団長であり、陸軍中将。「慈悲の戦姫」の異名を持つ最強のデュラハンとして知られている。中将という大官でありながら、戦場では作戦を決めた後は参謀に本営を任せ、近衛師団長補である少将ユリアンとともに前線を指揮してきた。刃を引いた長剣を扱い、目にも留まらぬ瞬息の刺突で骨を砕き、殺すことなく一瞬で敵を無力化してしまう。王国統一前の戦場を転戦し、幾多の戦いを勝利に導いてきた。5年前からユリアンとパートナーを組み、「戦姫」と「風斬り」の異名を聞くだけで、戦わずして敵勢は震え上がったものであった。ユリアンと互角の腕を持つと噂されているが、普段の彼女は非常に磊落で親しみやすい人柄であり、憧憬と畏敬の眼差しを集めるユリアンとは違った意味で人望があった。
また彼女は魔物の例に漏れず好色な面があり、毎年気に入った新兵を可愛がることを楽しみにしている。


「もー、彼女のために頑張っちゃってー。お姉さん妬いちゃうよー!」

わざとらしく拳を振り上げて頬を膨らませる。長身で大人びた風貌とは真逆の行為がやけに似合う、魅力的な女性(魔物)だ。

「ご勘弁下さい。」

ユリアンは苦笑いしながらコナーを助け起こし、短刀をアンナに手渡した。
そして居並ぶ訓練戦たちを見廻し、静かに口を開いた。

「....今は戦争はないが、この平和がいつまでも続くという保証はない。私という薄汚い人殺しがお前達に教えることができるのは、強さを履き違えるなということだ。ただ敵を殺すだけでは意味が無いのだ。仲間がいる。その仲間を決して死なせてはならない。そのための強さが必要だ。その強さが仲間を生かし、民を生かし、自らを生かし、国をも生かすだろう。単なる殺人者というだけでは、結局誰も救うことができない。分かるか?」

柔らかな口調でユリアンは説く。だがユリアンをよく知る教官達は、彼の悲惨な過去を偲んで涙を堪えた。ロンダも珍しく真顔で話しを聞いている。

「はい!」

大きな返事とともにユリアンの手を強く握ったのは、訓練生の中で最も勝ち気で彼を慕っているアンネだった。

「あ、あの、ウッズ師団長補!自分は師団長補の言う通り、きっと皆を生かせる兵士になります!でも、どうかご自分のことを卑下なさらないで下さい!師団長補は素晴らしいお方であり、自分はお慕い申し上げております!」

燃えるような若い瞳がユリアンを捉えていた。

熱く語るアンネに、再び訓練生たちは凍り付いた。
(おいおい....。)

が、ユリアンは優しくアンネの手を握り返し、

「期待している。皆も、しっかり訓練に励みなさい。」

と短い言葉を残し、ハイアット教官に後を任せて兵舎へと戻っていった。

「あっ待ってよーユリアン。」

その後をロンダが呑気な声を上げて追いかけていった。









「おいおいおいおい!!アンネ、お前勇者だな!女なのによ!!」
「コナー!!お前も力の差ってもんがわかっただろ、上には上がいんだよこのバカ!!」
「ええ、アンネってばユリアン少将争奪戦に参戦しちゃうの?私も名乗りあげようかな!」
「あの迫力どう!?あんな優しい顔してるのに、あの目はヤバイぞ!!」
「いやしかし、やっぱ半端ねーぜ「風斬りユリアン」。あの時の音聞いたかよ!?」


騒ぎ出す訓練生たちを鎮めるのに教官達は苦労した。








「聞いたよユリアン、朝っぱらから例のイザベルさんにおもいっきりキスしてたんだって?もうお偉方の耳に入ってると思うよー。」

女としては長身のロンダが、同じ高さのユリアンの顔を覗き込むように言った。

「ああ、見られていたんですね。」

路上でしたから、とこの歴戦の若者は照れも言い訳もしない。歩みを止めることなくさらっと言う。
動じないユリアンにロンダは何故かむかっ腹が立った。

「何よー、涼しい顔しちゃって。実は本命は私のくせに?えへへ。」

わざとらしく顔を赤らめつつ、ウインクしてみせた。完成された美貌と可愛らしい動作が相まって、びっくりするほど魅力的な表情になる。あくまで冗談として言ってはいるが、実は万が一の期待を込めていないといえば、それは嘘である。
が、ようやく足を止めたユリアンは動じることもなく。

「悪い冗談はおやめ下さい、中将。」

冷静な顔で一刀両断された。

「むー。何よ、つれないなぁ。」

いたずらっぽい表情を保ってはいるが、実は少し傷ついたりもする。

「私の事、はしたない女って思ったりしてる?」

シュンとした表情でユリアンを見る。新兵を可愛がっていることを言っているのだろう。猛兵達の頂点に立つ近衛師団長といえど、彼女も乙女(魔物)なのだ。

「まさか。主食が人間の精なのであれば、それは仕方のない事でしょう。相手の同意を得ているのであれば、何も問題はないと思います。」

まさに正論、道理である。

「じゃ、じゃあ、これからはユリアンだけをずっと可愛がってあげてもいいよ!」

度胸のあるロンダは踏み込む。

「何度も言った通りで申し訳ないですが、私にはイザベルさんがいます。」

そしてこうやって撃墜され続けてきた。
だが、何度撃ち落とされても彼女は諦めない。

「だってー、10才以上も歳が離れてるんでしょー。ユリアンが中年になったら、イザベルさんはお婆さんじゃないのー。」

こんなことをユリアンに対し軽い調子で言えるのは、同僚では5年間パートナーを務めている彼女だけかもしれない。ロンダはイザベルを除けばユリアンに最も近しい異性だろう。もっとも、軽い調子を装いつつも実際はこの上なく真剣である。
だが相変わらずユリアンは動じない。少し微笑みながら、

「ああ、イザベルさんなら可愛いお婆ちゃんになるでしょう。一緒に年をとるのも楽しみの一つと言えますね。」


(〜〜〜〜〜〜〜)


ここまで惚気けられると、負けず嫌いなロンダはさらに食い下がりたくなってしまう。

(ああなんで、なんでこの男は私にみたいな魅力的な女が傍にいるのに、あんな中年娼婦なんかにお熱なんだよ!)

5年前、ユリアンを救ったイザベルの献身を知らないロンダには分からない。

だが、さらに自分自身を売り込むのは惨めになる気がして、ロンダは先程の訓練生を槍玉に上げてみようと思った。

「でもユリアン、さっきのアンネって娘。」

「アンネがどうかしましたか?」

きょとんとした顔のユリアン。ああもうこの男は、とロンダはますます腹立たしい。

「あの娘あなたに惚れちゃってるよー。あの目はそりゃもう完全にだよ。あんな優しい言葉をかけちゃって、どうするつもりなの?」

せめて軽薄な言葉を吐いて失望させてほしい、ロンダはそう思う。

「それは中将の勘違いでしょう。私はどの部下に対しても同じ態度で接しています。彼女は素直で真面目だ。良い兵士になる。」

心底そう思っているような表情で言う。この男、正気で言っているのだろうか。

「それに」

普段は口数の少ないユリアンだが、さっきの模擬訓練といい、今日は珍しく多弁である。

「良い兵士になれば、きっと死なずに済むでしょう。私は、さっきのような瞳が怖いんです。あの目で見つめられると、どうしようもなく怖くなる臆病者なんだ、私はね。」

「瞳が?なんで?」

ユリアンをよく知っているつもりでも、やはりロンダには分からない。

「いつか....」

「?」

「いつかまた血塗れの死体になって、私を見つめるかもしれない。隊長、隊長、とね。」

「....。」

少し顔を背けたユリアンの顔は見えない。だが淡々と話すその姿を、ロンダは痛ましく、そして愛おしく感じた。

「ユリアン」

ロンダはそんな彼を抱きしめたくて腕を伸ばすが、ユリアンは自然と距離を取っていつもの微笑を向けた。

(私を癒してくれるのは貴方ではないのです)

そう言われているような気がして、ロンダは悲しくなった。

(彼を地獄から助けだしたのは私のはずなのに)

そんなロンダの気持が伝わるはずもないのか、ユリアンはまた口を開いた。


「だがもし、アンネがそういう気持で私を慕っていてくれたとしても」

「しても?」

ロンダはつられて語尾を継いだ。

「私は近々イザベルさんと結婚するつもりです。そうなればそのような思いも抱くことはなくなる。」

今度こそロンダは完全に絶句した。













「あーあ。なんでなんだろ。ユリアンは私のことが好きになるはずだったのに。」

執務室の椅子にだらしなく背を預け、ロンダは虚しさを感じていた。

「アイツを助けだしたのは私なんだよぅ。それなのになぁ...」

ユリアンの結婚宣言の衝撃からようやく落ち着きを取り戻したが、胸に風穴が空いたような寂寥感は覆いようがない。

(そりゃあ望みは薄かったかもしれないけど...。)

「でも、女王様も応援して下さってるし.......。」

ロンダはその飄々とした印象とは違い、粘り強くなかなか諦めない性格である。
この五年間、食事の誘いを断られ、演劇鑑賞を断られ、旅行の誘いも全て断られた。もちろんユリアンは優しい男だから、ロンダが傷つかないようやんわりと断る。
だがそれも面倒になってきたのか、最近はイザベルさんに悪いから、の一点張りになっていた。

「あーあ。もう素直に祝福してやるしかないか。って無理無理。辛いなあ...。」

実はロンダは一度、ユリアンの後をこっそりつけてイザベルを見たことがある。

以前のユリアンは3日と空けずイザベルの椿の園に通っていたらしいが、さすがに近衛師団長補としての体裁を考えたのか、今は毎週日曜だけである。謹直な彼らしいのだが、行く時には変装や偽名などを使わず堂々と通っている。

(なんだ、ただの陰気な年増じゃないか。)
娼館の入り口で佇む二人を見た時、彼女はそんな第一印象しか持たなかった。なるほど癖はあるものの顔立ちは悪くはない。だが、大多数の男が好む豊満さとは真逆の貧相な体つきで、さらに表情の暗さが大きなマイナスポイントであった。
(でも何でユリアンはあんなに上機嫌なんだ?)
ロンダが訝しんだほど、ユリアンはニコニコ機嫌よくイザベルに話しかけていた。いつもロンダが一生懸命話しかけても、一言二言で会話を終わらせてしまう男だ。それに、あんなユリアンの笑顔をロンダは見たことがなく、否が応にも妬心を煽られた。

さらにロンダを驚かせることが起こった。あの堅物ユリアンが冗談でも言ったのか、路傍の石地蔵のようだったイザベルの表情が緩み、くすりと笑ったのである。恋する少女がはにかむような、可愛らしい笑顔だった。

(あーあ、年増が小娘になってるよ)

ほんの一分ほど眺めただけで、二人の深い仲を見せつけられた気がした。
と同時に、こそ泥のように物陰から盗み見をしている自分をひどく惨めに感じた。

(やめだ。いいじゃないか、ユリアンが幸せならそれで。)

ロンダは自尊心が強い。自分にそう言い聞かせ、無理に肩をそびやかせて帰路についた。

(幸せにする相手が私じゃなくたって。)

自分が望むのは愛する人の幸せ。そう自分を無理矢理納得させ、元の日常に戻っていった。





「あー、でもやっぱり諦められない!好きなんだもん!!」

そして今、ロンダの自問自答はしばらく続く。







翌日。

「御用でしょうか、ライナス卿。」

ユリアンは恭しく敬礼し、自分を呼んだ目の前の顕官に尋ねた。

「ああ、そうなのだ。女王様からお前を昼食会に呼ぶように云われていてね。」

視線を神経質そうに動かして早口で喋る。ギルバート・ライナス、近衛軍司令官。
元来武人肌ではなく、吏僚として栄達してきた人物である。軍略と周旋の才を評価されて今の地位に就いたはいいが、文官と武官の狭間で日々悩んでいる苦労人である。

「女王様ですか。何か私に御用なのでしょうか?」

およそ理由は察せられるが、あえてユリアンは尋ねてみた。

「私は知らんよ。お前が訊いてみたらいい。くれぐれもご無礼のないようにな。」

予想通りの返事である。決して悪い人物ではないが、小心で、日々自分の立場を守ることに汲々としているために相手のことを思いやる意識が欠けているのである。このような人物が、時として悪事を働くのだろう。

「畏まりました。ところで、昼食会であれば、今はもう午後0時になる頃だと思われますが...」

まるで海に棲む烏賊のように、ライナス卿の顔色がサッと青ざめる。

「そ、そうだ!すぐに行かなければ。ユリアン、ついてきなさい。」

ユリアンを急き立て、バタバタと早足で歩き出した。それなりに有能な男であるが、落ち着きの無さが人物の小ささを感じさせてしまう。






薔薇。薔薇。薔薇。
一面の薔薇。
一体何万本あるのか見当もつかない。

サラヴェリー王国女王、アリシア・フロストは薔薇を好む。
昼食はいつも薔薇園の気に入りの場所で喫するのが彼女の習慣である。

視線で薔薇達を愛でながら、アリシアはテーブルの端で遠慮がちに食後の紅茶を啜るユリアンに声を掛けた。

「ユリアン・ウッズ近衛師団長補...」

ひどく艶のある声である。灰色の髪と赤い瞳が妖しく煌めき、肌の露出が少ない王衣でさえ、すらりと伸びる手足、豊満な胸の魅力を隠し切れない。破滅的な美しさを誇るこの女王、原初のサキュバスである。

「はっ。」

畏まってユリアンは応えた。一代でこの王国を築き上げた女王に対し、ユリアンは彼なりに尊敬の念を持っている。

「そう固くならないで下さい。今は昼食会です。ジパングでいう茶室と思えばよい。分かりますか、ユリアン?」

その声自体が至高の旋律のようであり、それだけで周りにいる者達を陶然とさせてしまう。他の顕官とともに陪席している神経質なライナス卿でさえ、うっとりとした表情を浮かべていた。

「はい、女王陛下。しかしながら、私は菲才にてジパングのことはよく存じ上げません。」

が、さすがに緊張しているユリアンはそれどころではない。

「左様か、まあよろしい。私の娘がたいそうジパングを気に入っておりましてね、なかなかこちらに来ようとしないのが頭痛の種なのです。孫娘は来ているのですが、これがまた厄介な問題で...。まあ今は関係のない話です。」

アリシアはとりとめもなく旋律を奏で続け、再びユリアンにゆっくりと視線を向けた。

「ユリアン、そなたは良く我が国に尽くしてくれている。風斬りの雷名がこの国にあるというだけで、戦争・侵略の抑止力になっています。感謝していますよ。師団長のクリストフ中将と共に、これからもこの国の武を支えて欲しい。」

「勿体なきお言葉。恐悦に存じます。」

この女王一族が他の魔物と違うところは、その愛欲や性欲と共に、それ以上の政治力と旺盛な領土欲を持っていることである。淫魔の象徴ともいうべきサキュバスの中では相当の変わり種というべき存在であった。アリシアはそのフロスト一族の祖であり、頂点である。

「不測の事態だったとはいえ、かつてのギブンズ砦では辛い思いをさせましたね。」

「...いえ。」

ユリアンはこの話題には触れたがらない。


「ところで....」

アリシアはその切れ長の目を細め、

「イザベルという娼婦のことは聞いています。」

いきなり核心をついてきた。


沈毅なユリアンの顔色が動いた。それも当然と言える。この美しいサキュバスは、この国の頂点でもある。昼食会とはいえ、彼女の口からその名が出るということは、

(ここは正念場である)

という覚悟をユリアンに決めさせた。


「ユリアン・ウッズ、この女王アリシアがそなたに訊きますが...かの娼婦、そなたにとってどのような存在か?謹直なそなたのこと、遊びで娼館に通っているわけではあるまい?」

いきなりの重い言葉だ。

一国の女王の問いである。曖昧な回答は許されない。
加えて、この答えが自分とイザベルの運命をも決めるであろうこともユリアンは直感した。

「私の....未来の妻でございます。彼女がいるからこそ、私は生きていられるのです。」

心臓の鼓動が太鼓を打つように激しくなったが、ユリアンは思い切って言った。

「だから、ハーモン州総督ミレウム卿の縁談を断ったのですか?」

アリシアの目が鋭くなった。

ユリアンの背中に冷や汗が流れた。アリシアは話の分かる人物とは云われているが、非情の辣腕政治家として知られている。ハーモン州は未だに独立の気風が強く、王国の中では慰撫に手を焼いている存在である。そのハーモン州総督と自らの股肱の臣との縁談が成れば、今後は随分と折衝もやり易くなるだろう。

「はい。仰せの通りでございます。」

下手な言い訳も虚飾も無駄である。ユリアンは正直に答えた。

「大田舎のゴヴァイアビレッジに転属を願い出ているのもそれですか?」

「....はい。」

自分と結婚すれば周囲から好奇と嫉妬の目で見られるであろうイザベルを守りたい。そう考えた末の転属願いである。図星であった。

「全く正気とは思えませんね。」

呆れたような表情で、アリシアは気怠げにため息を付いた。
その姿が一枚の絵画にように様になっている。

やがて豪奢なカップに注がれた熱い紅茶を口に含み、しばらく黙った。

ユリアンはその沈黙に耐えた。






「認められません。」

冷たい声でアリシアは言った。

「そなたはミレウム卿の息女と結婚するべきです。なかなかの美貌と才智の女性だと聞いています。そのイザベルとやらは妾にせよ。それならば大目に見ましょう。」

「ですが、」
「黙りなさい。」

アリシアは鋭くユリアンの言葉を遮った。そこにいる全員が、首に白刃を当てられるような切れ味である。

「そなたはこのアリシアの臣である。ならば命に従いなさい。」

女王の丁寧な口調は、背骨に氷を詰め込まれるような冷たさがある。重臣達は生きた心地がせず、さっさと命令に従えと心の中でユリアンを罵りまくった。

だがユリアンは黙っている。その態度は控えめとはいえ、命に服す気がないことは明白であった。

(こ、こいつ)

重臣達がまさに悲鳴を上げそうになった時、


「だがもしも...」


とアリシアは急に言葉を和らげた。

「見も知らぬ相手が嫌だというならば、師団長のロンダなら如何か?女王の身で言うのも憚りはありますが、あれもそなたに想いを寄せているようです。武力も容姿も卓絶している。そなたの相手としてまこと相応しい。」

(これは...)

ライナス卿は思った。
女王としての威令を下しつつ、ユリアンを手放さないための落とし所を用意した。いや落とし所ではなく、女王の真の目的は、お気に入りのロンダにユリアンを娶せることに違いない。国の最高権力者からの命令と譲歩である。


(うまい。これは不可避)


ユリアンはどう出るか、自らの立場も半ば忘れ、碁盤の指し手を眺めるような気持でユリアンを見た。

「であれば、」

とユリアンおもむろに立ち上がった。

「私は陛下の臣である立場を辞さねばなりません。」

鞘ぐるみ剣を外し、アリシアに向かって跪いた。



(なんという男か!)



この場にいる全ての高級官僚が度肝を抜かれた。
臣として全ての栄達を約束されたような男が、娼婦との結婚のためにその全てを捨てようとしている。


(見事な男だ)
(頭がおかしい)


驚きはしたが、彼らの反応は好意と悪意半々といったところであった。
しかし、それよりも彼らはアリシアの機嫌を恐れた。ユリアンは女王の命に従わないことを宣言したのである。

アリシアは一瞬美しい眉を寄せ、すぐに冷たい表情に戻った。


「ユリアンよ。」

感情のこもらない声。艶やかな旋律は消えている。

「お座りなさい。そしてわたくしを納得させてみよ。もしそれができなければ―」

背信の徒としてその名誉と身分を剥ぎ取り、女王私有の奴隷とする、と告げた。


「そうなるのも幸せかもしれませんが。」

愛でてあげますよ、と目元だけで笑う。
顕官たちはぶるりと身を震わせた。



―しかし

この破滅的で甘美な誘惑に惑わされることなく、
ユリアンは再び席についた。

もう冷めてしまったカップに口をつけた後、小さな声を発した。

「女王陛下、私は」

少し躊躇うが、やがて意を決したように言葉を続けた。

「私は人を殺しすぎました。」


ユリアンの目が変わった。暗い狂気が宿っている。

「国のため、仲間を守るために、進んで敵の胸を串刺し、命乞いをする首を刎ね、腕を切り飛ばし、頭を踏み砕きました。」

何人も何人も。

「でもやがて殺し尽くした時、私の眼の前にあったものは、敵味方の屍だけでした。」

「....。」

女王は黙っている。
気の弱い顕官達の中には気分が悪くなって口元を押さえている者もいた。

「皆、私を英雄だと讃えてくれますが、それは違う。私は単なる人殺しです。現にあの時、あれほど私を慕ってくれた仲間も誰一人助けられず、私だけが生き残った。あれから何度戦場に赴き、何度勝利を得てもあの砦の光景は消えません。今でも怖ろしいのです。あの血塗れの光景が、いつ私の目の前にまた現れるのか、怖ろしくてたまらない。」

カチャカチャ、とユリアンのカップを持つ手が震えていた。

「怖ろしいのです。」

皆心底意外だった。軍神とも仰がれるこの猛者は、昔日の凄惨な光景に怯える、心の傷んだ若者であったのだ。

「ですが....」

カチャ、とユリアンの震えが止まった。

「イザベルは私の心も身体も抱いてくれました。救ってくれました。私は誰も救えませんでしたが、彼女は私を救ってくれました。」

「それ故ですか?」

黙って聞いていたアリシアが口を開いた。

「はい。それ故に私にはイザベルしかいないのです。」






(むごいことをしたものだ)

女王アリシアは思った。
この繊細な若者の心は、あのギブンズ砦で壊れてしまったのだろう。



―――5年前、サラヴェリー王国は隣国の軍事国家メキサスからの侵略の脅威にさらされており、開戦間近の緊張に包まれていた。メキサスとの国境は険しい山岳地帯が自然の要害となっていたが、王都ハイデンへと続くベネガル平原への隘路も国境に接していた。この要路を守る守備隊200名の小さなギブンズ砦。これが開戦時の最前線になることは明白であった。

防衛上、当然砦の増築及び増兵が必須ではあったが、メキサスに気付かれた場合、こちら側が戦争準備をしていると、彼らに絶好の宣戦の口実を与えてしまうことになるため、政治家でもあるアリシアは悩んだ。悩んだ末、敵に先手を打たせることは止むを得ない、という結論に至った。
つまり最初に敵に一発殴らせ、被害者であるという事実、報復という大義を得、正義の名のもとに州を結集させてメキサスを討つ、ということである。それにはギブンズ砦を犠牲にする必要があった。それも、ただすぐに落とされては意味が無い。こちらが戦備を整え、一挙に軍隊を進行させるまでの時間を稼いでもらわなければならないのだ。

アリシアはライナス卿と相談の末、守備兵交代の名目で数十人の強者を砦に送り込むことにした。その猛兵中の最年少でありながら隊長の一人に推されたのが、当時18歳であったユリアン・ウッズであった。
彼が選ばれた理由は簡単である。無類に腕が立ち、責任感の強い性格で非常に人望があった。そして上層部にとって都合のいいことに、身寄りがいなかった。彼の異能ともいうべき剣技は当時から「風斬り」という異名で知られ、その太刀独特の風切音は有名であった。彼の剣速は、目の前に落ちる雨粒を地に落ちるまでに四度切ることができた。孤児院出身者で何の伝手もないというハンデがありながら、15歳で軍へ入隊後、ずば抜けた剣術と天性の膂力の強さで、その若さにもかかわらず近衛師団兵に選出されていたのである。
彼らを砦へ送り出す日、ライナス卿は彼に激励の言葉を与えたが、まだ少年のあどけなさの残るユリアン見た時、さすがに胸が傷んだ。が、一方で国家繁栄のための人身御供であると官僚としての頭で理解し、彼を死地へと送り出した。


彼らの到着からわずか5日後、ギブンズ砦は突如メキサス侵攻部隊の猛襲を受けた。
戦闘は悲惨であった。最大の不幸は、練達の指揮官として名高い長官がにわかに熱病に罹患し、戦闘の指揮系統が確立されていなかったことである。砦の守備兵は若年者が多く、王都からの派遣兵以外は腕が立っても実戦の経験が浅い者が多かった。いきなり始まった戦闘にしばらく呆然とし、我に返った彼らが防衛反撃を思いついた時には、すでに生命線である井戸には毒が投げ込まれ、食料庫には火が放たれ、仲間の3分の1は死体になっていた。

その中で彼らの希望となったのが、王都の猛者達と共に敵兵を退けた隊長、ユリアンであった。彼は努めて明るく言った。

「王都のライナス様に魔法書で敵の襲来を知らせた。5日もあれば救援部隊が来る。たった5日だ。そこまで持ちこたえれば、きっと僕達の勝ちだ。」

隊長である彼の言葉を信じ、彼らは勇を鼓舞して戦った。


そのたった2日後、僅かに蓄えていた雨水が早くも尽きた。時は8月、暑さの盛りであり、戦わずとも体力が削られていく。焼かれた食料庫には何も食べられるものはない。

4日後、全員が耐えがたい喉の渇きに苦しみだした。敵が力押しで攻めてきたが、ユリアンを始めとする猛者達の必死の働きで撃退された。が、この死闘で精鋭のほとんどが討たれてしまった。病床の長官も高熱の苦しみの中死亡した。

5日後、皆が待ち望んだ救援は来なかった。敵の大規模な夜襲があり、わずかに残った精鋭部隊の働きで砦はなんとか守られが、その精鋭達もユリアンを除いて皆戦死してしまった。渇きに耐えられず、8人の守備兵がこっそり井戸の毒水を飲んだが、すぐに血と吐瀉物をまき散らして死んでしまった。

10日後、生き残った者は、ネズミを食い、草の根を齧っている。戦闘に参加できなくなった兵が自らの腕を切り裂き、滴る血を砦防衛の希望であるユリアンに飲ませた。ユリアンは激しく拒否したが、皆の説得の末に飲んだ。ユリアンは涙を流しそうになったが、仲間はその涙を惜しみ、明るく笑い励ました。敵は静観している。今日も夜襲を仕掛けてくるかもしれない。救援はまだ来ない。

12日後、飢えと連日の激戦の結果、立って動ける兵士はほとんどいなくなった。今日は敵陣に大きな動きが見られる。今晩は満月のはずだ。総攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

果然、予想が当たった。ろくに動けない仲間達が次々と屠殺される中、唯一体力を残しているユリアンは荒れ狂い闘った。すでに刀は敵の血脂で切れ味を失い、鈍器となって敵の頭蓋を砕き、背骨を折り、腰骨を叩き割った。守備部隊はほぼ壊滅したが、敵も大きな損害を受け退却した。

14日後、物見に侵入してきた敵の頭をユリアンの剛刀が割った。この日、最後に生き残っていた仲間が傷の壊死で死んだ。うだるような暑さの中、砦には腐爛した死体が散乱し、悪臭が凄まじい。ユリアンはメキサスを、そしてこの砦を見捨てた王都を呪った。

16日後、一時だが、激しい雨が降った。ユリアンはもう半死の状態であったが、この雨が彼の命を救った。夢中で泥水を啜り、侵入を試みる敵兵を惨殺した。


そして20日後、救援部隊がやってきた。
なぜこんなに遅くなってしまったのか、理由はまた彼の与り知らぬ国家間の問題である。
メキサスはギブンズ砦の意外に頑強な抵抗に多くの損害を出した上、国内では内部抗争によるクーデターが起こり、その鎮圧に他国との戦争どころではなくなってしまい、ついに侵攻を断念する決断を下した。此度のことは関与せぬ、軍を勝手に離脱したならず者の煽動による結果であるとして、サラヴェリー王国女王アリシアに陳謝し、補償を申し出た。サラヴェリー自体も統一を終えた直後であり、開戦するのは利あらずと判断し、すべての事情を知りつつも陳謝を受け入れ、メキサスと和平条約を結んだ。
それらのやりとりが整った後、ようやく救援部隊が差し向けられたのである。

結果的にギブンズ砦は政治の道具にされ、残存していたメキサスの侵攻部隊はその母国に捨てられた上、ロンダ・クリストフを長とするサラヴェリーの救援部隊に撃破された。


メキサス兵を掃討した後、ロンダら救援軍は酸鼻を極めるギブンズ砦に入り生存者を探した。腐臭がひどく、無残に破損した死骸、その中で蠢く蛆や蝿の大群に嘔吐する者も多かったが、ロンダは吐き気を我慢しつつ、ただ一人の男を探した。

(ユリアン、どこにいるの!?)

ロンダは少年ユリアンに心を寄せていた。いつものつまみ食いではなく、本気であった。彼の純粋な心、無邪気な表情が好きだった。彼のギブンズ砦の派兵を聞いた時、ロンダも共に行くことを強く希望したが、彼女はアリシア女王のお気に入りであり、この派兵の役割を知るライナス卿は許可しなかった。

兜ごと頭を割られた敵兵、貪られたネズミの死骸を踏み越えると、最後の防衛線であったのであろう、本営前の練兵場の一角に守備兵達が座り込んでいた。皆肩を寄せ合うようにして力尽き、幾万の蛆にその身体を提供していた。

(こんなことって...)

ロンダは複雑な外交事情などは知らない。ただライナス卿から任ぜられ、飛ぶような気持で救援に来ただけのことである。

嘔吐と涙を必死にこらえていた時、視界の隅で死体が動いた。
いや、死体ではない。黒い塊。息をしている。生存者だ。恐らく唯一の。

「...あっ、あなた、砦の人ね。私はロンダ・クリストフ。サラヴェリー近衛師団兵よ。助けに来たわ。」

ロンダは緊張しつつも優しく話しかけた。

「・・・・」

だが返事はない。

「ねえ、あなたは...」

と言いかけた時、その黒い塊は獣のように飛び出し、風を切り裂くように刀を振り下ろした。

(!!)

紙一重で躱す。彼女でなければ、頭を切り割られていただろう。

不意の攻撃に少し息を乱しながらも、彼女は襲撃者の顔を見た。

その顔は、

「....ユリアン。ユリアン!」

血と泥にまみれた、紛れも無いユリアン・ウッズであった。

「ユリアン、私よ。敵じゃない、ロンダよ!」

ロンダは必死に叫ぶ。

「・・・・?」

だがユリアンは答えない。言葉を忘れてしまったかのように、獣のような目を怪訝に細めただけであった。

「さあ、早く帰りましょう。」

ロンダがその白く美しい腕を伸ばした。腕には王国近衛師団の腕章がある。ユリアンは素早く反応した。

「ぅらぎりものッ!」

再び剛刀が風を切り裂く。

しかし、当時すでに王国一の使い手であったロンダから見れば、衰弱しきったユリアンの太刀筋は不意打ちでもない限り食らうことはない。

(裏切り者だなんて、錯乱している)

「少し休んで」

太刀を外したロンダの的確な当て身を受け、ユリアンはついに昏倒した。


やがて王都へ搬送された唯一の生き残りであるユリアンは、一時拘束衣で縛り付けられるほどの錯乱状態に陥ったが、密かにアリシアから催眠治療を受け、精神に一定の落ち着きを取り戻した。その際、記憶には改竄が施され、砦の捨て殺し、救援の遅滞など王府にとって都合の悪い事情は全て闇に葬られた。全滅した守備兵達についても、隊長ユリアンは奮戦したが守りきれなかったという記憶に書き換えられた。この改竄が、永久にユリアンを苦しめることになる。


弱り切った身体はロンダの細やかな介護の甲斐もあってか、徐々に快方へ向かった。
その後、王府のシナリオによるギブンズ砦決死の防衛戦が大々的に発表され、ユリアンは英雄へと祀り上げられ、少尉候補生に過ぎなかった彼は異常ともいう早さで昇進を重ねた。

が、彼は感情と言葉を忘れてしまったかのようであり、一言も言葉を発することなく、人形のように日々を過ごした。その無感情は、常に側で支えたロンダに対しても同じであった。

そして、



―イザベルという娼婦に出会った、という訳か。



アリシアは長い沈思を終え、再びテーブル端のユリアンを見つめた。
地獄絵図と化した砦の最後の情景は、ロンダの記憶を通じてアリシアは十分に知っていた。

思えば、自分はこの若者を随分酷く扱ってしまった。詳しい情交などは分からないが、彼のバラバラになった心を繋ぎ止めているのが、あの娼婦なのだろう。
が、為政者である彼女は、彼に許しを請いたいわけでもなく、己が懺悔したいわけでもない。

それは―
この小心な司令官も同じだろう、とアリシアはチラリと視線をライナスへ向けた。
彼はユリアンを見ていたが、やがて暗い表情で視線を落とした。彼なりに良心の呵責はあるのだろう。

(小心な俗吏)

アリシアは考える。このユリアンはまだまだ価値がある。軍事的、政治的、その両方の価値だ。
だが、彼の心は危うい。記憶は操作しているし、こちらに危害を加える恐れはない。それなら今までの功績に免じて、自由を与えてやっても良いのではないか。為政者として。
と彼女は結論づけたが、やはり彼女にも情があり、心の何処かに彼に対する罪悪感があったことは拭えない。元々魔物は情深く、変わり種といえど彼女もその例外ではないはずだ。たとえその情が、海に浮かぶ一片の流氷のように儚いものであろうとも。



女王は再びユリアンに視線を戻し、血のように赤い唇を開いた。

「いいでしょう、ユリアン。その者を娶ることを許可します。ゴヴァイアへの転属も認めますが、しばしの猶予とし、出立までは白雲荘を二人の新居として与えます。」

白雲荘とは城下を見下ろす丘の上にある、フロスト一族所有の別荘である。王家からの破格の好意といえる。

(おお!)

という声無き声が漏れ、無言の感動が周囲を包んだ。
ユリアンの悲惨な過去を断片的とはいえ直に聞いてしまった重臣達は、相手が娼婦だという大珍事に当惑しつつも、彼を祝福したい気持ちになった。ライナス卿は俯いた目頭に涙を滲ませている。中途半端に人の良い彼も苦しんでいたのだろう。


「おめでとう、ウッズ師団長補―」

重臣達が末席のユリアンに振り向くと、


「.......。」

風斬りユリアンは静かに涙を流していた。
今まで最も苦しんでいたのは彼である。いや、植え付けられた偽りの記憶のためにこれからも血の涙を流し続けるのは彼なのだ。

そのユリアンが、

「女王陛下、この御恩。ユリアン生涯忘れません。」

と涙ながらに再び跪いた時、遂にアリシアは心が痛むのを感じてしまい、

「幸せになるのですよ。」

と思わぬ言葉をかけてしまっていた。

(結局は狂言になってしまいました。許しなさいロンダ)








「おいロンダ、聞けよ!?聞いてびっくりすんなよ?」

近衛師団長の執務室。いきなり軽薄そうな髭面の男が飛び込んできた。

「何よアル?あなたコナーに頭をやられてノックの仕方も忘れたの?」

ロンダは馴染みの同僚に呆れた声を掛けた。ユリアンの親友である彼はロンダにとっては良い相談相手であり、長年の気安い部下である。

「それにアンタは私の下僚なんだから、勤務中は中将様に対する礼節ってもんをわきまえなさいよこのチャラヒゲ男。」

いつものように馴れ馴れしいアルフレッドの態度を窘めようとするロンダを憚ることなく、緊迫した面持ちのアルフレッドは、構わず一気に捲し立てた。

「女王様がユリアンの結婚を許可した。相手はもちろんあのイザベルだ。しかもゴヴァイアに転属するらしい。あいつは王都を去る。」


「え.....。」

ロンダの表情が蝋人形のように固まった。

「......嘘よ。」

「嘘じゃない。たった今ライナス卿から直接聞いた。ロンダこれでお前も...」
「嘘よ!」

「......。」

アルフレッドは初めて見るロンダの激しい感情の発露に

(諦めろ)

という言葉を飲み込んでしまった。

ロンダの表情は彼が予想した悲嘆でも落胆でもなかった。「憤怒」そのものである。

「だって!ユリアンは私が助けたんだもの!女王様も応援してくれるって言ってくださったもの!私があんな中年娼婦に負けるわけないんだもの!だって、だって!!」

ロンダの剣幕にアルフレッドは気圧されたが、ユリアンとイザベルの情交を最もよく知るのは彼であり、もちろんあの二人に幸せになってほしいと願っていた。

「でもよロンダ、もう女王陛下もお認めになったんだ。祝福してやったらどう...」

目の前のロンダの変化を見ているアルフレッドの語気がどんどん尻すぼみになっていく。




赤い瞳が妖しくギラつき、



厚い潤んだ唇から吐く息が荒くなり、



珠のように真っ白な肌が赤く上気している、




ああ、これが女の激情だ。身を焦がすほどの激情だ。いつも親しみやすく子供っぽい性格だけについ忘れていたが、これが魔物というものだ。



燃えるような赤い髪、男好きのする美しい顔、大きく突き出た豊満な胸、悩ましいくびれた腰。
数は少なくても、こういう人間なら探せばいるだろう。


だが違う。違うんだ。魔物というものは。


悦楽に澱んだ昏い瞳


抱き尽くされることを希う熱い汗ばんだ肢体


そして、身も心も焼きつくすほどのどろりとした欲情と底なしの愛。




「アル、私.....」


ああ、なんて


「女王陛下のお許しがなくても」


なんて


「力づくでも」


なんて君は


「ユリアンを攫ってみせるわ」


なんて君は美しいんだ



15/09/22 03:40更新 / SHOOTING☆STAR
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■作者メッセージ
読み切りのつもりでしたが、かなり長くなってしまったので分けました。
後編にご期待ください。

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