連載小説
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前編
「先輩、もう寝ましょうよ」
「ダメ。これが完成するまで寝るわけには……」
ルーニャ・ルーニャ・サバトの支部。その一室で、ラタトスクのミールは作業机に向かっていた。
蝋燭に照らされた作業机には、大量の小説原稿が散らかっている。
隈だらけの目をぎらつかせながらペンの手を止めないミールを、がっちりとした体格の青年が心配そうに眺めている。
「でも、もう三徹目ですよ。寝ないと身体が持ちませんよ」
「いい?『マジカル☆バフォメットちゃん Another☆storyアンソロジー』の締め切りは明日なの!芸術に昼も夜もない!」
椅子から垂らした大きな尻尾で、ぽふぽふと青年をどつきながらミールは言った。
『マジカル☆バフォメットちゃん』は魔界で大人気の大衆娯楽小説である。ラブコメあり、バトルあり、もちろんエロもてんこもり。
バフォメットの少女が『お兄ちゃん』をモノにするために、あらゆる魔法を使って大活躍する物語であり、強大な力を持つがために素直になれないバフォメットちゃんと、一途な思いでバフォメットちゃんに尽くす『お兄ちゃん』の恋愛模様が魅力である。
ミールもその魅力にとりつかれた一人であり、サバトの任務の合間にこうして二次創作小説を書くことに並みならぬ熱意を傾けている。
「明日は任務があるとか言ってませんでした?反魔物国家で情報操作するとか」
ミールの後輩のエドが言った。ミールの任務は反魔物国家テンバートに潜入し、小規模な傭兵団や主神教団の部隊に誤情報を流し、魔物娘たちの住処や魔王軍の野営地に誘導することである。
そして誘導された彼らは、めでたく魔物娘の餌食となり、反魔物国家の力は徐々に削がれていく。
大規模な戦闘が起これば、どんなに気を配っても死者が発生してしまう。
そのため、普段から少しずつでも戦力を削ることで、起こりうる戦闘の規模を減らしていくのは重要な任務である。
そのような大切な任務を明日に控えながらも、ミールの手は止まらない。
「だからこそ、今しかない!今しか書く時間が無い!」
ミールは懐から白い錠剤の入った小瓶を取り出すと、一気にあおった。
ザラザラザラ、と錠剤はミールの口に流れ込んでいく。魔力を欲する魔物が飲む、精補給剤である。普通の食事よりも魔力を効率的に補給できる便利な薬だ。サバトの魔女にも使用者が多く、信頼性が高い。
しかし、その味は最悪である。
「ウヴォエ!!!まずっ!!!紙粘土よりまずっ!!!」
ミールは錠剤のほとんどを、足元のクズ籠に吐き出してせき込んだ。
「先輩、無理しちゃダメですよ。おとなしく寝ましょう」
エドが背中をさすると、ミールは口を拭って身体を起こした。
「うー……なんか日に日にまずくなってる気がする……けど、元気は出た!これで書きまくる!」
「ダメです。寝ないと身体によくないですよ」
「書く!」
「ダメです」
「書く!」
「寝ろ!!!」
突然、ミールの背後に一人の魔女が現れ、分厚い魔導書をミールの頭に叩きつけた。
「うわばらっ!?」
ミールはばたりと、作業机に突っ伏した。そしてそのまま、ぐーぐーといびきをかき始めた。
「まったく、うるさいったらありゃしない」
「アルラさん、助かりました」
「いいのよ、このバカはこうしないとテコでも動かないから」
先がとんがった魔女帽子を頭にかぶり、ルーニャ・ルーニャ・サバトの制服を着た魔女は呆れたように言った。
アルラはミールたちの上司であり、転移魔法の達人だ。
ミールたちのようなサバトの任務に就く者を反魔物国家に送り込む役目を持つ、ルーニャ・ルーニャ・サバトの幹部である。
「明日は、先輩の代わりに俺が任務に行きます。先輩は締め切りに追われてますから」
エドはミールを抱え上げて言った。ラタトスクの太い尻尾がぶらんと宙に揺れる。
「大丈夫なの?」
「ええ、先輩に付いて回っていたんで任務の仕掛けも分かっていますし、あとは標的の教団部隊に地図と情報を渡すだけです」
「そう。ならいいけど。度し難いわね」
アルラは作業机の上に転がる小瓶を見て、眉をしかめた。
「男の目の前で、精補給剤を飲むって相当ひどいわよ。うちのお兄ちゃんなら激怒するわね」
「先輩は、俺よりも小説の方が好きみたいで」
エドは腕の中で眠るミールの頭をそっと撫でた。
「好きにさせてあげたいんです」
「まったく、そこまで言うなんて」
「命の恩人ですから」
アルラはため息をついた。エドの一途さを見ると、ミールの尻を蹴り上げたくなる。
「それじゃ、もう寝なさい。明日はしくじらないようにね」
「分かりました。おやすみなさい」
アルラはひらひらと手を振ると、転移魔法で姿を消した。
「先輩、原稿がんばってください。俺も任務をがんばりますから」
エドは腕の中でぐっすりと眠るミールにささやくと、寝室に向かって歩き出した。



次の朝、ミールは自分の部屋で目を覚ました。
目をこすりながら時計を見ると、九時を回りかけている。ミールのぼんやりした頭の中で、任務という二文字が浮かび、警報を発した。
「ぎゃあああ!まずい!八時にアルラに送ってもらうはずなのに!あー!いつもはエドが起こしてくれるのに!」
やばいやばいやばい、と焦りながら準備をして、支部長室に飛び込む。
「ごめんアルラ!寝過ごしちゃった!」
作業机に座るアルラは、呆れきった目をミールに向ける。
「おはよう、寝ぼすけさん。昨晩はずいぶんと張り切ってたわね」
「え、えへへ。つい筆が乗っちゃって……でも、もう大丈夫!準備万端!任務ならいつでも行けるから!」
「ああ、それだけど。エドが行ったから」
ミールはぽかんとした顔でアルラを見る。
「え?エドが?」
「そうよ。寝ぼすけのあんたの代わりに、エドが任務に就いたの。『このくらいの任務なら自分一人で大丈夫です。先輩は原稿に集中してください』って言ってたわ」
「そ、そうなんだ……帰ったらお礼しないと……」
「話があるわ」
アルラはぎろりとミールを睨んだ。
「な、なに?」
「あなたがエドと組んでから、一年が経ったわよね」
「もう、そんなに経つんだ。季節は巡るというか……」
「一年前のあなたは優秀な情報部員だった。なのに、エドと組んでからおかしくなってるわ」
「どのへんが?私は変わらないって」
まあ、多少は小説に夢中になることもあるけど。とミールは心の中で漏らす。
「業績、という点ではあなたは変わらないわ。情報の収集量も、サバトへの貢献も文句なしよ。問題は私生活」
「私生活?普通だと思うけど」
「洗濯は誰がやってる?」
「うっ」
エドが洗っている。
「料理は誰が作ってる?」
「うっ」
エドが作っている。
「書類整理は?報告書は?あんたが入れ込んでる小説の編集は?」
「うっうっうっ」
全部エドがやっている。
「それでいて、未だに手を出していないってどういうこと?本当に魔物娘なの?」
「いやー、その。それには事情があって」
「あんたがいつまでも手を出さないと、エドの精の匂いでこの支部の風紀が乱れるの。わかる?」
魔物娘は男の精に敏感である。特に独身の男の精に対しては非常に敏感である。そして、このサバト支部は情報を扱う地味な部署であるためか、『お兄ちゃん』を持たない一人身の飢えた魔女が多い。
この支部の状況を例えるなら、ギャグボールを噛まされた狼の群れの中を、焼き立てのステーキが堂々と闊歩しているようなものだ。
一人身の魔女たちは今すぐでもエドを押し倒したくて仕方ないが、エドにはミールの匂いがこれでもかと付いているため、泣く泣く精補給剤を飲むしかないのだ。
「ついこの間も、エドに優しくされた魔女が精補給剤のやけ食いでぶっ倒れたのよ」
「まあ、それは、申し訳ないとは思うけど……」
アルラは心配そうにミールを見た。
「ねえ、私はあなたの手助けをしたいの。事情があるなら話してくれないかしら」
アルラの真っ直ぐな視線に耐えきれず、ミールは思わず目をそらす。
「えっと、その……」
「同期の友人として、これでもあなたの事を大切に思っているの。だから、あなたかエドに何かあるなら話してくれないかしら」
「ごめん!原稿仕上げてくる!」
「ちょっと!」
ミールは脱兎のごとく、支部長室を飛び出した。バタン!と勢いよく扉が閉まる。
「はぁー……」
アルラはため息をついて、椅子にもたれる。
何一つ分からないのだ。ミールがエドの事を気に入っているのは知っている。なのに、なぜ魔物娘らしく襲いかからず、娯楽小説の執筆なんかに入れ込んでいるのか。
考えても仕方ない。
「……お兄ちゃんと一発ヤるか」
そう言うと、アルラは転移魔法を唱えて姿を消した。



「まずいまずいまずいまずいまずい!!!」
エドは反魔物都市テンバートの裏路地を走りながら叫んだ。彼は追われていた。
背後からはいくつもの怒声。
「裏切り者を逃がすな!」「奴を殺せ!」「魔物と姦淫した悪魔め!」
「まだヤってない!」
走りながらエドは言い返し、路地を曲がる。そして、自らのうかつさを呪った。
予定通り、遠征の準備をするテンバートの主教騎士隊と接触できたのはよかった。
五十人ほどの騎士隊が教会の前に展開し、進軍前の最後の休憩をとっていた。
エドは隊長らしき男を見つけ、話しかけた。元傭兵の経験で、誰が部隊の指揮をとっているかすぐに分かった。
「あんたが騎士隊長さんか?」
部下と話していた騎士隊長は、話を止めてエドの方を見た。他の騎士とは違う上質な全身鎧を着た、目つきの鋭い男だった。
「確かに、私がそうだが。どうかしたか?」
「俺はグメロ傭兵団からの使いです。あんたにこれを渡せと」
グメロ傭兵団はこの騎士隊と同盟関係にある傭兵団だ。団長は騎士隊長と仲が良く、名前を出せば騎士隊長に信用されることは調査済みだ。
「見せてくれ」
「これです」
エドは懐から一枚の地図を取り出して、隊長に渡す。
「ふむ……」
騎士隊長は地図を興味深げに眺める。
もちろん、地図には細工がされており、地図に描いてある通りの道をいけばラミアの巣が密集している地帯に入るようになっている。
これで、この騎士隊はみんなまとめてラミアのお婿さんというわけだ。
「それじゃ、俺はこれで……」
「待て」
立ち去ろうとするエドを、騎士隊長は呼び止めた。
「なんでしょう?」
ドクン、と心臓が高鳴る。
「この間贈った酒を、グメロは飲んでいるか?」
エドはほっとした。ただの世間話だ。
「ええ。あんまりおいしいもんだから、みんなで回し飲みしたくらいです」
「そうか」
騎士隊長は地図を破り捨てた。
「なっ!?」
「あいつは下戸だ。こいつを捕らえろ!魔王軍のスパイだ!」
騎士隊長の命令とともに、休憩していた騎士たちは立ち上がり、剣を抜くとエドに向かってきた。
相手に警戒されないために武器は持ってきていなかった。エドは背後から罵声と矢を浴びながら路地裏に逃げ込み、現在に至るわけである。
「先輩ならグメロが下戸だって知っていただろうし、こんなドジは踏まないんだろうなあ」
エドはミールの事を考えながら足を止め、後ろを振り返った。狭い路地をさんざん走り回ったおかげで、数十人単位だった騎士も五人まで減っていた。
重い鎧を身に着けて走ったせいか、騎士たちは荒い息をついている。
だが、エドが足を止めたのは騎士たちと戦うためではない。
そこが路地裏の行き止まりだったからだ。
「観念しな。降参すれば命までは取らねえよ」
騎士の一人が言った。
「いや、最後までやらせてもらう」
エドは構えるフリをして、懐の宝石を握りしめる。
ミールから非常時に使えと言われているものだ。
(先輩、気づいてくださいよ)
エドは心の中で祈りながら、五人の騎士達と向かい合った。



「あー、ダメだ。何も書けない」
ミールは作業机に向かっていた。何も書けなかった。
なにか書こうと頭からひねり出そうとするが、出てくるのはエドのことばかりである。
「くそー、全部エドのせい。絶対そうだ」
ミールは尻尾をぶんぶん振りながら、精補給剤のビンをあおる。
今日の精補給剤はドブ底の味だ。エドが後輩になってからの一年間、精補給剤が日に日にまずくなっていく気がする。
執筆時は頭に魔力を回し、普段の任務では魔法を使うミールにとって精補給剤は生命線である。
このまま精補給剤がまずくなっていけば、いずれ精補給剤を飲めなくなる日が来ることは間違いない。
「そうなったら、エドの精を……」
ミールは獲物を狙う狩人の顔で呟き、はっと目を見開く。
「いや、エドはただの後輩。ただの後輩なんだ……」
ミールは頭を抱えながら机に突っ伏す。
エドをサバトに勧誘したのはミールだ。
サバトでは基本的に、勧誘された男は勧誘した者の『お兄ちゃん』となるのが一般的だが、ミールとエドの場合は、執筆と任務に明け暮れる日々が関係の進展を妨げていた。
しかし一番の原因は、ミールの極度な奥手さにあった。
(本当はそろそろ襲ってもいいんだろうけど、いきなり押し倒したら嫌われるだろうなあ……だったらもっと順序を踏んで、デートとかして、雰囲気のあるホテルとか……でも、私なんかの身体にエドが興奮するか分からないしなあ、いざベッドに入って、「先輩、勃ちません」なんて言われたら嫌だし……だったらエドから誘ってくれるまで待つかな……)
この調子である。だから一年間も関係は進展しないまま、ずるずるとここまで来てしまったのだ。
「……酒でも飲みに行こうかな」
ミールが筆を置いた時、椅子にぶら下げた鞄がぶるぶると震え出した。
「え?何?」
ミールが鞄の中をのぞくと、半球形にカットされた赤い宝石が激しい光を放ちながら震えていた。
不別のオーブと呼ばれるそれは、元は一個の球体のオーブを半分にカットしたもので、片方のオーブの持ち主が危機に陥ると、もう片方のオーブがそれを知らせてくれるというものである。
主にドラゴンやラミアなどの伴侶に対して過保護な魔物娘に人気の高いアイテムであり、ミールとエドはそれを任務で別行動する際に使用していた。
「ちょっとちょっとちょっと!どうしたの!?エドがドジを踏むなんて!」
ミールは鞄をひっつかんで、支部長室に走った。



剣士が四人、射手が一人。それが騎士たちの戦力だ。
斬りかかってくる騎士をいなしながら、エドは敵の戦力を推察した。
狭い路地裏に追い詰められ、武器は無く、敵は重装備の騎士五人。そのような状況でエドが何とか立ち回れているのは、エドが元傭兵なだけではなく、騎士たちもエドを本気で殺そうとしていないからである。
なぜなら、ここでエドを殺せば魔王軍の情報を失い、そうなれば魔王軍が仕掛けてくる次の策に対して受け身にならざるを得ないからだ。
ゆえに、騎士たちは手加減せざるを得ない。
エドは突き込んでくる騎士を躱し、腹に蹴りを入れる。よろけた騎士に追撃を入れようとしたとき、エドの身体のそばを矢が掠めた。
続いて飛んできた矢を、エドは転がって躱し、騎士たちとにらみ合う。
矢が飛んできた方を見れば、四人の騎士の向こうで弓を構えた射手が、次の矢をつがえている。
あれが一番厄介だな。とエドは思った。
あの射手はおそらく、腕や足なら当たっても死なないだろうという判断で矢を飛ばしてきている。そういう意味では、剣士よりもよっぽど厄介だ。
この狭い裏路地では、剣を構えた騎士を間に挟みながら戦うくらいでしか対策ができない。
(早く来てください、先輩)
不別のオーブが光り出してから、十分が過ぎようとしている。さすがに限界だ。
張りつめた空気が弾け、騎士の一人が斬りかかろうとした。その時。
「お待たせ、エド!アルラが一発ヤッてて遅くなった!」
エドと騎士たちの間に、魔法陣が現れ、一匹のラタトスクが出現した。
もちろんミールだ。しかしその場所は、斬りかかってこようとする騎士の目の前である。
「先輩!」
エドはミールを抱きかかえるようにかばった。背中に熱い鉄棒を押さえつけられたような、鋭い痛みが走る。
「エド……?」
「先輩、早く、転移魔法を……」
「わ、わかった!」
ミールが鞄から取り出した巻物を広げるのを見て、エドは振り返る。唖然とした表情の若い騎士が、血濡れの剣を持っている。
彼も、普段は平和な街を警備する騎士だ。この街を守るために魔物を斬る覚悟はできているが、人を斬る覚悟はできていなかった。
エドはその騎士の剣を奪い、思いっきり蹴飛ばした。騎士は他の騎士を巻き込みながら地面に倒れこむ。奥の射手の射線が通り、矢が放たれる。
エドは剣で矢を弾いた。矢が放たれるタイミングが予測できれば、不可能なことではない。
「先輩……!まだですか!?」
二射目を弾きながら、エドが聞く。背中が熱い。頭がくらくらして、立っているのがやっとだ。
「あと半分!もうちょっとだから!」
ミールは、魔物娘病院に直行する転移魔法が書かれた巻物を地面に広げ、魔力を込めていた。
緊急用にサバトのメンバーに配布されているものだが、ミールの魔力量では発動に時間がかかる。
騎士たちは体勢を立て直し、射手に射線が通るように展開して、じわじわと近づいてくる。
今まで加減していたのは、エドが素手だったからである。エドが剣を手にした今、彼らに加減する理由は無い。
エドは三射目を弾き、ミールを守るように立ちふさがる。
射手の矢を弾きながら、騎士からミールをかばうのは不可能だ。可能なのは、どちらか一つ。
(なら……!)
射手が矢を放つのと同時に、左右から騎士が斬りかかってきた。
エドは矢を肩で受けた。骨まで響く痛みが走るが、この程度では止まらない。
左の騎士の剣を弾き、右の騎士の剣を受け流して顔を殴り飛ばした。どうと騎士が地面に沈む。
続いて飛んできた矢を弾き、左の騎士の剣に渾身の一撃を叩き込む。
バキン!と双方の剣が折れる。武器を失い、とまどう騎士の襟をつかんで投げ飛ばす。派手な音を立てて、騎士が地面に叩きつけられた。
「エド!開いた!」
ミールが叫ぶ。同時にエドは、折れた剣を射手に向けて投げつけた。
今まさに矢を放とうとした射手は、それを躱すために体勢を崩した。
その隙に、エドはミールを抱きかかえながら魔法陣に飛び込んだ。
「クソッ!」
射手が矢を放った時には、既に二人は魔法陣の中に消え、あとには何も残っていなかった。
「逃げられたか……お前ら、そいつらに手を貸してやれ」
射手は呆然と立ち尽くす二人の騎士に命令すると、矢を筒にしまい、弓を背負った。残りの騎士たちは倒れた騎士を立ち上がらせると、肩を貸した。
「あの、小隊長」
騎士が聞いた。エドの背中を斬った若い騎士だ。
「なんだ?」
「あれが魔物なんですか?自分には、ただの少女にしか……」
射手は殴り飛ばそうと拳を握るが、少し考えてそれを下げた。
「魔物はあらゆる方法で人間を堕落させようとする。あの姿は、俺たちを色欲に堕落させるためのものだ」
「でも……」
「信仰を疑うな。今のは聞かなかった事にしてやる。行くぞ」
騎士たちはどこか迷いのある足取りで、路地裏を引き返していった。



サバトが運営する魔物娘病院の廊下を、滑車つきの担架が駆けていく。
担架に載っているのは、血まみれのエドだ。肩の矢は刺さったままで、背中からの出血が服をどす黒く染めていた。
「エド!死なないで!エド!」
ミールは担架に追いすがりながら声をかける。エドはゼーゼ―と苦しそうに息をしながら、ミールの手に触れた。
「先輩……大丈夫……です……この……くらい……」
「喋らないで!出血がひどくなるわ!」
担架を押しているダークプリーストがエドに怒鳴る。
担架は廊下の突き当たりにある扉の中へ入っていった。扉には『手術室』と書かれている。
ミールは手術室の前の長椅子に座り、両手で顔を覆った。
「エド……死んじゃやだ……」
ミールの頭に、エドと出会ってからの記憶が浮かんでくる。



「金を貸してくれ」
反魔物都市に潜入していたミールが、道端に座るエドにそう言われたのが始まりだった。
ボロボロの身なりに、刃こぼれした剣を肩に立てかけた格好の物乞いは、生気のない目を虚空に向けて、道行く人々に金を貸してくれと声をかけていた。
もちろん無視した。任務の最中に物乞いに構っている暇はない。
しかし、ミールはなぜかその物乞いが気になった。理由は分からないが、気が付いたらその物乞いを遠巻きに眺めていた。
彼はただひたすらに、道行く人々に声をかけていた。必死そうにかすれた声を絞り出していた。
だが、道行く人々は彼の事を無視し、中には蹴飛ばす者もいた。
その時のエドは五日もまともに食べておらず、声を出すのがやっとの状態だったと後で聞いた。
ミールはそれを知らなかったが、物乞いがあんまりに哀れで見ていられなくなり、一枚の銀貨を差し出した。
「それだけだよ。あとは自分でなんとかしな」
物乞いは銀貨を受け取り、かすれた声でこう言った。
「ありがとう。この借りは必ず返す」と。
次に会ったのは、その都市の貧民街にある安酒場だった。
ミールは主神騎士たちに追い詰められていた。人化の魔法は解けて、ラタトスクの姿があらわになっていた。
取引相手の魔術師が、ミールにスペルブレイクをかけたためだ。
それからすぐに主神教会に通報され、逃げる間もなく取り囲まれてしまった。
「汚らわしい魔物め。ここにお前の居場所はない」
主神騎士たちの剣が迫る。ミールがぐっと目を瞑った時、目の前に現れたのがエドだった。
変わらぬボロボロの格好に、手には刃こぼれした剣を下げている。その目には物乞いをしていた時とは違い、確かな生気が宿っていた。
「物乞い風情が、魔物をかばうのか?」
「いや、恩を返したいだけだ」
次の瞬間、エドは目にも止まらぬ早業の剣技で主神騎士たちの剣を弾き飛ばし、ミールを脇に抱えて安酒場から飛び出していた。
「どこに行く?」
「主教教会の裏の、サバトの入り口まで」
無意識にミールは、サバトの入り口という重大な秘密をエドに話していた。
エドは頷き、主神騎士たちの包囲をかわしてサバトの入り口まで連れて行ってくれた。
それからミールを下ろすと、何も言わずにエドは立ち去ろうとした。
「待って!」
エドは振り返った。
「銀貨一枚の借りは返したつもりだが」
「これからどうするの?」
「俺は傭兵だ。傭兵らしく仕事をするさ」
ミールはそれが嘘だと知っていた。仲間の情報によれば、つい先日にこの都市の近くで起きていた戦いは終わり、傭兵の仕事はもうないはずだ。
なら、どうするのか。おそらく何かしらの手段で小金を稼いだ後、人間同士の戦いがある場所へ向かうのだろう。
もったいない、とミールは思った。この男をそんなつまらない戦いの中に埋もれさせるのは、とてももったいない。
「だったら、サバトに入る気はない?」
「サバト?」
「そう。私の後輩になって、仕事を手伝うの」
サバトは幼い女の子に欲望を抱く『お兄ちゃん』の素質がある者しか加入できないのが規則だ。
だが、ミールは思った。この男を手放したくない。ミールを救う時に見せた剣技は必ずサバトの役に立つはずだ、と。
「……報酬は?」
「一日三回の食事と、風呂付きの住居提供。任務をこなせば金銭報酬あり。どう?」
「魔物の戯言にしては悪くないな」
「じゃあ決まり。それから、あんたは私の後輩なんだから、これからは敬語で話す事!」
「なんでそんな……」
「ほら!」
ちっ、と舌打ちするとエドは言った。
「分かりましたよ、先輩」
それからは大変だった。アルラに土下座してサバトの入会手続きをしてもらい、魔物と交わるなんてごめんだと言うエドのために黒ミサの時期に任務を被らせたり。
けど、エドはとてもいい後輩だった。仕事はすぐに覚えたし、彼の剣技で助かったことも一度や二度じゃきかない。
それに、ミールの小説を馬鹿にせずに誉めてくれるし、いつもおいしいご飯を作ってくれるし、怖そうな見た目なのに優しいし、愚痴を吐いても黙って聞いてくれるし。
そんな彼の事を、ミールはいつの間にか好きになってしまっていた。
けど、その思いを伝えようとして、できなくて、その思いを小説にぶつけるようになってしまって。
「ミール」
顔を上げると、アルラがいた。
「ひどい顔。鼻水まで垂らして……ほら」
アルラが差し出したハンカチで、ミールは涙をぬぐい、鼻水をかんだ。
「ありがど……」
「それ、洗って返してね」
「うん……」
アルラはミールの隣に座った。
「任務の件は気にしないで。テンバートの主教騎士団は別の方法で対処したから」
「うん……」
ミールはどうでもいいような、投げやりの返事をした。
沈黙が流れる。
「大丈夫よ。グレイリア・サバトの治療は魔王軍一って評判なんだから。死人でも叩き起こすってね」
「うん……」
「それと、もう少しエドの事を信じてあげて」
ミールは顔を上げた。
「どういう意味?」
「いい?あなたがエドの事を信頼してるように、エドもあなたの事を……」
その時、アルラの言葉をさえぎるように手術室の扉が開いた。
ミールが立ち上がる。
「エドは!?エドは大丈夫ですか!?」
医者のバフォメットは、大きくうなずいた。
「背中の傷は骨まで達していたが、なんとか塞がった。後遺症も残らんだろう」
「良かった……ありがとうございます」
ミールはほっと息を吐く。
「じゃが、一つ問題があっての」
「な、なんです!?」
バフォメットは神妙に言う。
「傷を完治させるには、『メディカル・キュア』。つまり、寝療行為が必要でな」
メディカル・キュア。治療魔法の一つで、けが人に魔法がかかった術者が添い寝することで、二人の魔力を循環させ、けが人の容態を回復させる魔法である。
通称・寝療行為と呼ばれ、その魔法の性質上、けが人に伴侶がいる場合は必ず伴侶にメディカル・キュアをかけ、寝療行為をするのが絶対規則である。
「そこで患者はまだ一人身ということで、うちの看護婦が寝療行為をしようとしたんじゃが」
「し、したんですか?」
ミールの顔がスッと青くなる。
「いやいや、そうしたら患者が急に暴れ出しての、それこそ傷が開きそうになるくらいな。ひとしきり暴れた後、急にある名前をひたすら呟き始めたんじゃ」
「名前?」
「ミール、とな。おぬしの事じゃろう?」
ミールはぽかんとした顔で、バフォメットの顔を見返した。
20/05/24 00:40更新 / KSニンジャ
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