連載小説
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前篇
カチカチと秒針が規則正しく進む音が室内に響く。
静寂が支配するその部屋は、雑多という言葉が相応しい様相を呈している。
オーダーメイドで作られたと思われる木製の棚には丁寧に手入がされた電動ドリル、ペンチやノコギリなど沢山の工具が並び、その隣には天井にまで届くかといった背の高い本棚が三つ並ぶ。だが、それでも収容しきれないほど大量の本やバインダーに纏められた資料、科学分野を中心とした雑誌が部屋中に溢れている。そしてその部屋に二つ置かれている机の、大きい方の卓上には沢山の道具が置かれている。半田ごてや銅線、フラスコや薬瓶など馴染みのあるものから、見たこともないような文字や記号が記された器具、不定期に点灯する計測器らしい物体など使用目的がなんなのか判然としないものなどが並び、この部屋の異様さを一層際立たせている。だが、不思議とほこりっぽさやごみごみとした雰囲気は感じない。むしろある種の清潔感すら感じてしまうほどだ。

「…徐々に、というのがやはりネック…か。」
その部屋の主である私、牧野朋子はこの部屋に置かれているもう一つの机の前で悩んでいた。
目の前には様々な数列や術式が書き殴られたレポート用紙が散乱している。考えをまとめながらその中の一枚を取り上げ、思考をその内容に集中させるが、今自分が抱えている悩みの解決にはつながりそうにはない。自分が想定している術の完成まではあと少し。だが、その最後の部分にてこずっていた。
「考え方を切り替えねば、な…。」
ため息を一つ吐き出し、レポート用紙を机の上に放りだす。
アンデット型のリッチである自分にとって時間は持て余すほどあるのだから、答えを導き出すのに例えどれだけ時間がかかろうとも焦ることも憤ることもない。十年先だろうが百年先だろうが構わないのだ。

しかし、研究や術の完成が滞る度に強いストレスを感じてしまう。
思ったように上手く行かない現実と、求める答えに中々たどり着けない自分の情けなさに腹が立ってしまう。その研究や実験によって齎される結果や結論を誰よりも早く知りたいと願う自身の知識欲が、自分の無能さを強く苛むのだ。それは誰よりも知識を求め渇望する私たちリッチが抱える宿命なのかもしれない。

「う〜…んぅ…。」
私は凝り固まった頭と体を解す為、大きくのびをしながら深呼吸をする。
魔術によって埃が除去された冷たい空気が肺に入り込む感覚と、上を向き手を突き出したことで首筋から肩にかけてついている筋肉が緊張から解放されてもたらされる脱力感が実に心地いい。その感覚に身をまかせながらゆっくりと視線を机の上に向けていく。パソコンのデスクトップなどの電子機器、その前に乱雑に置かれた専門書や資料、そして母から貰ったお気に入りの万年筆。そんな机の上に広がるいつもの光景の中の一つで視線が止まる。

そこには飾りっ気の無い紺色の縁をしたシンプルな写真たてがあり、収められている写真には一組の男女が写っている。
写真の左側に写る中肉中背の男はタキシードを着て、これ以上ないくらいの笑顔を浮かべている。今にも明るく朗らかな笑い声が聞こえてきそうだ。その笑顔を見るだけで、彼の純真さや優しさを見た者に想像させるだろう。ただ、彼は無精ひげをはやしているので人によっては厳めしい印象を与えるかもしれない。
そしてその男に腕を絡め、男とは対照的にぎこちない笑顔を浮かべる女は真っ白なウエディングドレスを着ている。血色以前に生命の息吹を感じられない白い肌、珍しくきちんと整えられた灰色の髪、そして気だるそうに開けられた半眼から覗く紫の瞳。まさにリッチのお手本の様な風貌をした彼女は数年前の自分だ。
「俺が写真をとってやるからよ、そこに旦那と並べよ。ほら、笑え!!」
今でも鮮明に思い出す。この写真は夫と挙式を挙げたチャペルで、幼馴染のワーウルフが撮影したものだ。普段から写真嫌いで被写体となる事など殆どないお陰で、自分では笑っているつもりがひきつったような表情になってしまっている。見る人によってはリッチがくしゃみを堪えているように見えてしまってもしょうがないレベルだ。その事でひとしきりこのワーウルフに笑われてしまったものだ。

私はぼんやりとその写真を眺める。
不思議なもので、夫のにこやかな笑顔を見るだけでじんわりと疲れが癒えていくのを実感するし、それどころか丹田の奥がじんわりと熱くなり、新陳代謝がよくなった気さえする。そして私はその写真を見ながら考える。私はだれよりも夫を、愛している。最初は実験体という程度の認識だった。しかし、言葉を交わし、肌を重ねていく度にその存在は私の中で大きくなっていった。もはや離れることなど考えられないし、離れる気もない。

そんな私は現在、黒縁眼鏡をかけ、レースのついた下着を身につけ、そしてゆったりとしたロングのワンピースの上に白衣を着ている。別に視力は悪くないので眼鏡は必要ないし、魔術によって室温をコントロールできるから下着も服も正直に言うと着る必要もないし、それまであまり服を着ない生活を送っていたので邪魔だ。ではなぜそれらを身につけっているかというと―――

「その眼鏡、すごく似合っている。」
「レースの下着だとぐっと大人の魅力が出て素敵だなぁ〜。」
「ワンピースを着ていると、清楚なお嬢様みたいでとっても可愛いよ!!」
「白衣…いいね!!」

それは全て、夫に喜んでもらうためだ。
夫は眼鏡と白衣フェチで、レースがついた大人っぽい下着が好きで、そしてワンピースやロングスカートがもたらすチラリズムと、丁寧に妻の服を脱がせていくのが大好きなのだ。これらの条件を満たすと夫がより強く興奮状態になるのは実験で既に実証済みだ。だからこそ私は多少の窮屈感や不便さを感じても、この恰好をやめることは無い。

しかし、誰かのためにこのような行動を自分がするというのははっきり言って、独身時代の自分からは考えられないことだった。昔の自分が今の自分を見たらおそらく失笑するだろう。「それは何かのコスプレか?」と冷たく切り捨てるかもしれない。だが、今の私にとって愛すべき夫や彼との生活はなによりも大切でかけがえの無いものになっている。夫が私の実験に快く手を貸してくれるように、私も夫が喜ぶことならば出来る限りの事をするつもりだ。



「だからこそ…夫を愛することに長けた私たち魔物娘が、遅れをとるわけには…いかない。」

そう言って私は視線を写真から外し、机の引き出しを開けて数冊の本を取り出す。
その本こそが私が今もっとも頭を悩ませている発想の発端であり、なんとしても実証したい命題を私に投げかけた原因だ。それらの本…正確に言うと人間の漫画家が書いた成人向けの漫画を私は、バフォメットである友人より譲り受けた。全く興味が無かったのだが、「中々新鮮じゃから、読んでみぃ〜。」などと言って置いていったのだ。

しかし、元々欲しいものであるわけでもないのでそれから数日はその存在を忘れていた。
「あれ、これってDっていう漫画家さんの…漫画じゃない?」
そんな私にその存在を思い出させたのは、だれあろう夫だった。
彼は私の部屋に置かれた数冊の本を見つけると、なんとも懐かしそうに数冊のうち一冊を手に取った。彼が言うには友人の一人がこの漫画家のファンで、散々話を聞かされたから記憶に残っていたそうだ。「確かに友人に渡されて読んだことはあるけど、決して…持っていたわけじゃない。そこは誤解しないで!!」と強調していたのは気になるが、それでも夫が読んだことがあるという事実は、私に興味を持たせるのには十分だった。ほんの少しでもそれらに夫が性欲をくすぐられたかもしれないと考えると、僅かに心がざわついた。

それから二、三会話をして夫が私の部屋を出た後、すぐに私は夫が手にしていた漫画を読み始めた。
その本は学生たちの甘酸っぱい恋愛、そしてその関係から一歩踏み出していく初々しい姿を描いているというものだった。全体を通してストーリーがあるわけではないが、一つの学校を舞台に何人もの登場人物がそれぞれの恋愛を謳歌するといった構成になっている。所謂オムニバス形式と言うやつだろう。様々なフェチ心をくすぐるヒロインたちに翻弄される恋人が登場し、様々な趣向の読者が楽しめるよう工夫を感じる作品だった。ただその中の一つの話で、眼鏡をかけ白衣の保険医が登場する話があった…が、直ぐに記憶から消すことにした。なんだかとても不愉快な気持ちになった。

だが、「普通」。良くも悪くもそれだけだった。
確かに想像していた以上に面白いのだが、人間同士の性交は至ってノーマルで魔物娘の満足を得る様なものではないと実感した。私の感覚からすれば爽やかな青春モノの小説を読んだような感覚しか起こらなかった。おそらくではあるが、魔物娘の殆どは同じような感想を抱くのではないだろうかと思う。魔物娘の濃厚で個性的な性交をメインディッシュとするならば、この本はまるで前菜の様にしか感じなかった。

しかし、私は漫画を読み進めていくうちに魔物娘ではおそらく起こりえないであろう一つのポイントに心奪われた。
それは人間ならではの、人間の構造だからこそ起こりうるシーンだった。確かにそういう事態が引き起こされることは人間の構造を学んでいる時に理解していた。魔物娘にとってむしろ喜ぶべきその現象は人間にとって『障害』でしかないのだ。それでも漫画の中で恋人達はその『障害』を“愛”で乗り越え、よりいっそう強く絆を深めていた。

そうして恋人と結ばれたことで恍惚の表情を浮かべるヒロインたちの顔が…暗に「これはお前たち魔物娘には出来ない、私たち人間にしか示せない愛の証明なのだ。」と見下しているように思えてしょうがなかった。それは私の被害妄想や思いこみなのかもしれない。しかし、夫を愛することに何よりも長けた私たち魔物娘にとって、「できない」という烙印をおされるのはもっとも屈辱的な侮辱に思えた。

だからその『障害』を私の体に再現し、私の夫への愛を証明しようと考えたのだ。

正直に言うと、私がしようとしている事はある意味で魔物娘としては異端なのだろう。失格と言われても大げさではないのかもしれない。
先程も言ったが、その現象は私たち魔物娘にとって喜びしかない。私も勿論夫とその瞬間を経験したが、これからの未来を指し示す祝砲であり、至福のときでしかなかった。それをわざわざ『障害』へと変化させるなんてはっきりいってなんの利点もない。気がふれたと言われてもおかしくない。それでも、それを実行しようとするのは誰よりも夫を愛しているという自負と、愛ではどんな存在にも負けないと信じる魔物娘としてのちっぽけなプライドからだった。

「必ず、成功させてみせるからな…待っていてくれ。」
私はそっと自身の下腹部を撫でながら写真の夫へ語りかける。

術の完成まであと少し。私は大きく息を吸い込んで、再び神経を研ぎ澄ましていった。
13/10/25 23:46更新 / 松崎 ノス
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■作者メッセージ
魔物娘が人間の描いた成人向け漫画を読んだらどうなるだろうという思いつきで書き始めてみました。

朋子が何に執着したかしつこいぐらいもったいぶりましたが、それはかなり単純でしょうもない内容です(笑)。分かる方にはまる分かりかもしれませんが…(笑)

後半では朋子の暴走と顛末を書いていこうと思っています。

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