前篇
一人の少年がぽつんと佇んでいた。
そこは町はずれにある昼間でも薄暗い鎮守の森。そしてその奥にはひっそりと社が一つ建っているだけだった。
「魔物や妖怪がいるわけないだろ?馬鹿じゃねーの。」
その少年の胸中には先ほど友人たちに言われた言葉が何度となく響いていた。
そう、彼はいわゆる妖怪や魔物といった人外のものたちが存在することを信じ、そして未知の存在であるそれらのものたちが好きだった。何故かと問われれば明確な理由が言える訳ではなかったが、様々な話に登場するそれらの存在は彼の胸をときめかした。
ただ、そんな彼の住む世界は非情でもあった。魑魅魍魎がいるとされる暗闇は街灯にかき消され、妖怪や魔物は既にアニメーションや漫画の題材にしかなっていなかったし、精々変わり者の学者がその地域の文化としての側面を見出すといった程度にしか人々に認識されていなかった。
だからこそ、その存在を信じる彼は友人たちの中でも変わり者として扱われていた。仲間たちと仲が悪いわけでも、ましてや嫌われているわけでもない。ただ、妖怪の事になると途端に彼は異端視された。ただそれだけだった。
そして彼らと言い合いになった時に彼は必ずと言ってもいいほどこの寂れた社を訪れた。鎮守の森は昼でも薄暗く、細い石畳の道が続き、薄くなった朱色の鳥居が数基、そしてあまり手入が入っていない事を思わせる古めかしい社は彼の好きな妖怪や魔物を想起させるには十分な場所であった。
その日も彼は友人たちと口論になり、社の前に立っていた。
鎮守独特の湿気に濡れる石畳に足を滑らす事のないように注意しつつ、鳥居をくぐり社の前に立つ。そして祖母から教わった祈りの言葉をごにょごにょと口にして、小さい頭を下げ神様に挨拶をする。そんないつもと変わらない彼の日常はその日も同じはずだった。そう彼が頭を上げるまでは。
「白い…狐?」
彼が頭を上げると、普段は閉ざされている社の扉が、先ほどまで確かに閉まっていた扉が開いていた。そしてそこには一体の狐の像が鎮座している。その像は何度もその場所を訪れたことのある彼が目にした事の無いものだった。全身が雪のように白く、長く美しい切れ長の目の両端は美しい朱色が彩っている。その立ち姿はとても美しく醸し出す雰囲気は幼い少年の眼を釘づけにした。
少年はその狐の像を時間も忘れて凝視していた。少年の心の中に「稲荷」という概念があったのかは分からない。だがそれでも彼は幼いなりにその狐の像から神聖な雰囲気を確かに感じ取っていた。
「また来てくれたのですね。」
そんな鎮守の森に突然女性の声が響いた。人の気配のない場所で発せられたその声はとても優しく少年の耳に響いた。どうやらその声の発信源はどうやら目の前の白い狐の像であるらしい。
「誰か…いるの?」
少年はおずおずとそ目の前の像に話しかける。
「ああ、私の声がちゃんとあなたに届いているのですね。なんとも喜ばしいことです。」
どことなく嬉しそうな女性の声がそれに応える。
「あなたは狐の神様なの?」
「この状況に驚ない度胸、そして頭の回転も早い…なんという行幸。まだ私も運には見捨てられていなかったのですね。」
確かに少年はこの状況にあまり動じていなかった。だがそれは妖怪好きだからという理由ではなく、ただ茫然としていただけであった。
「ええ。正確には神の使いですが、狐の神として祀られていることもあります。」
「そ、その僕にいったいどうして突然話しかけてきたの?」
「ああ、それもそうですね。用件を早めに言わなければ…ってもう時間が…いじゃ…いですか。」
目の前の像がぼやけ、ジャミングが酷くなったように言葉がとぎれる。
「お願…があるのです。これから出来るだ…この社へお参りに来ていただ…ないでしょうか?」
「…うん。分かった。」
「そ、それと出来れ…時々でいいの…油揚げ…奉納してくださ…」
「油揚げ?」
「そして…最後…これが一番大事…ことなのです。貴方…、貴方のお名前を教えていただけますか?」
名前なんて聞いていったい何が目的なんだと思いつつも、彼は素直に自分の名前を口にした。
「僕の名前は…関悠二」
「ふ…、関…二。忘…ま……よ。貴方…御…前を…」
少年の言葉を聞いたその瞬間、まるで少年の言葉を待っていたかのように狐の像はぐにゃりと歪み、少年に今まで感じさせなかった不気味さを残しつつ、彼の前から消え去った。
そしてそこには一人残された少年と、何時も通りの薄暗い森が広がる光景があるばかりだった。
「…君、関君。ちゃんと聞いているのですか?」
教授の声にはっとして、関と呼ばれた青年は緩んでいた気を引き締める。随分昔のことを思い出してぼんやりとしていたようだ。
「はい、教授。なんでしょうか。」
「やっぱり聞いてないじゃない。自分の番じゃないからってぼんやりしていては駄目よ。ごめんなさいね、住友君。じゃあもう一度そのフレーズを弾いてみて。」
教授の意識が自分から逸れたのを確認して、関悠二はそっと息を吐いた。
彼は地元を離れ、この国の首都にある私学の音楽大学に進学していた。妖怪が好き…ということでも彼の存在は友人たちの中で特別視されたが、男でピアノを弾いているという事実もまた彼をより特別視させていた。というのも彼が育った田舎では良くも悪くも男は男らしく、女は女らしくといった気風が未だ根強かったからだ。
しかし、彼はピアノが好きでピアノを弾く事を辞めようとはしなかった。決して上手くは無かったが、それでも音楽と関わる事が好きだった。だからこそ、自分の将来を考えた時、自然と音大に進む事を目指したのであった。
そんな音大に進学して既に二年。始めは身内も知人もいない環境に馴染むのに必死で気を張ることが多かったが、今では心許せる友人たち(目の前でピアノを弾いている住友もその一人)もでき、それなりに充実した大学生活を過ごしていた。
あの不思議な体験をして10年の月日が経っていた。
あれから彼は、上京するまで律儀にも毎日社に参拝した。それは朝夕の登下校のついでに行く事が多かったが、例え天気が悪くても、部活や受験勉強で時間が遅くなっても必ず参拝し、高校に入学して小遣いをもらえるようになってからは週に一回ほど油揚げを奉納した。幼い時分は、社に行くたびにあの像が現れないか心を躍らせたものだったが、それでもあの狐の像は一度として姿を現さなかった。
しかし、それでも彼は参拝する事をやめなかった。参拝をやめると言う事は、あの時の約束を反故にしてしまう。それはあの不思議な体験そのものを、自分の大切な思い出を否定してしまうといった想いがそうさせたのであった。
そんな事を考えながらピアノの音に耳を傾けていると、またぼんやりと過去の出来事に想いをはせていた事に気が付き、慌てて現実に神経を集中させる。すると実にタイミング良く授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「はい。それじゃあ次の授業までに言った課題をちゃんとしてくるようにね。」
厳しくも優しい教授の声が教室内に響き、関と住友は教室を後にした。
「真面目な関がぼんやりするなんて、珍しいな。」
授業から解放されたのが嬉しいのか、笑顔の住友がからかうように声をかけてくる。
「いや、少し昔の事を考えていて…油断したよ。」
「ふーん。そんで関はこれからどうするよ。俺はホールに寄ろうと思うけど。」
ホールとは各学年の各学部の学生に割り当てられた部屋の通称で、そこでは学生たちが好き好きに楽器を演奏したり、音楽談義を繰り広げたり、はたまた学生らしく馬鹿なことをテンション高く繰り広げる場所であった。その部屋の多くは電化製品や生活用品が学生の持ちこみで置かれ、そこで半ば生活しているような連中もいるらしい。
「うーん。それなら僕もホールに行くよ。」
先ほどまでの授業が今日ある授業の最後だったので直ぐに帰ろうかと思っていたが、今日はバイトも無く、期日が迫るレポートも無いので、自分もホールで寛ごうかと思い住友にホールへ行く事を告げた。
「よし、もう終わった連中もいるだろうし、行こうぜ。」
「おう。」
ホールに着くまで、住友と先ほどまでの授業の内容や、最近聞いた音楽の話などを話した。ホールに向かうまでの道中は何時も見る風景と変わりない。同じように授業を終えてのんびりくつろいでいる者、次の授業へと足早に歩いている者、楽器の練習に励む者、中庭ではしゃぐ者、それぞれが音大の日常を形成している。
だが、その日常は目的のホールへと到着する少し前に、非日常へと変貌した。
先ほどまでほとんど日が沈み、暗さを増していたとは思えないほど空が明るく輝き、そして見たこともないようなピンク色に空が染まっていた。
「こ、これは一体…。」
「お前にも見えてるんだよな?」
そんな空に驚きつつ住友を見ると、同じように混乱した視線をこちらに向けた後、住友は再び視線を空へと戻した。どうやらこれは自分や住友の見間違いでも幻覚でもないようだった。それを証明するように周りの人々も同じように呆然と空を見上げている。
だが、それから数分後に空は今までの様な夕闇へと姿を戻した。人々は口々に先ほどまでの異変を口にし、あるものは首を傾げ、あるものは既に先ほどまでの日常へと戻っていた。
「今のはなんだったんだろうな…」
声をかけながら隣にいる友人へと視線を移すが、その友人隣にいなかった。
「さあな、それよりホールに急ごうぜ。」
どうやら住友は既に興味を無くした様で、ホールへと向かって歩き出していた。そんな友人の後ろ姿に苦笑いしながら悠二もホールへと向かうことにした。
ホールの中は先ほどの異変の話題で盛り上がっていた。
というのも、ホールの中に置かれていたテレビが先ほどの異変について速報を流していたからであった。その速報は二人がホールに到着したときには流れ始めていて、数人の友人が見ていた。
「…観測された現象は、人為的なものではなくただの自然現象であり、今のところ人体への影響も、危険性もありませんので余計な混乱を引き起こさないようご注意ください。」
アナウンサーが慌ただしく原稿を読む姿を見ていた悠二は微妙な違和感を覚えていた。その様子に気がついたのか、ホールにいた友人の一人である高市が話しかけてきた。
「関君、難しい顔してどうしたの?」
「ああ、いや…。前例があるならまだしも、あの現象を単なる自然現象と断定するのが随分と早いなと思ってね。」
「確かにそうだけど…あれを人為的にどうにかするなんて無理でしょ。しかも広域にわたってだなんて。」
「そうそう、関は何でも難しく考えすぎ、それよりのんびりしようぜ〜。」
「そんな頭が固いから彼女ができないんだよ」
だが、それは自分しか思っていなかったようで、友人たちはテレビから視線を外し、普段のように過ごし始めていた。そして最後の感想は余計だ、住友よ。
日がすっかり暮れ、暗闇に包まれる中、悠二は下宿への帰路についていた。
結局、あれから何が起こるでもなくいつもと変わらない時間が過ぎていった。悠二は住友や高市などと世間話や音楽談義をかわし、一時間ほどホールで時間をつぶした。空の色が変わるという現象も、発生してからすぐはテレビも慌ただしく伝えていたが、15分もすれば通常のプログラムに戻っていた。
「何だったんだろうな、あれは。」
そんな事を口にしても誰も答えてくれるはずもなく、自転車の車輪が回る音しかしなかった。
悠二の通う音大は都心から離れた場所に位置している。その地域は沢山の大学が隣接(といってもそんなに近いわけではないが)している影響もあって多くの学生や浪人生が住み、ベットタウンとも違った、独特な街を形成していた。特にこの周辺は音大生のために防音を施したアパートやマンションが多く立ち並び、地方から上京してきた学生たちのほとんどが大学の近くに住んでいる。悠二もそんな一人で、キャンパスから自転車で10分程度のところに悠二の住むアパートがある。築年数が自分の年を上回っているが一人で住む分には十分な広さもあり、防音もしっかりしているので悠二はそのアパートでの生活に不満を覚えた事は無い。
誰もいないこの状況で、これ以上考えても意味がないかと思考を切り替え、悠二は自転車を漕ぐ足に力を込める。そしていつも使う帰り道を使い、見えてきたアパートを見ながらこれからの段取りを考える。風呂の準備をし始めるか、それとも先に楽器の練習をしてしまうか。どちらとも決められないまま駐輪場に自転車を置き、一階の角部屋にある自分の部屋に向かう。
後になって思えば、この時点で気がつかない自分もそうとう防犯意識が無かったのだろうと思う。これから自分に起こる非日常を予測する事が出来なくても、せめて自分の部屋に明りがついている事に何故気がつかなかったのだろうか。
鍵を差し込み玄関を開けると…そこには見知らぬ女性が三つ指をついて頭を下げていた。
「!?」
誰でもそんな状況に陥れば、落ち着いていられないと思う。誰もいないと思っていた自分の部屋に人がいるのだから。
「御帰りなさいませ。お待ち申しておりました。」
そんな悠二の混乱を知ってか知らずか、目の前の女性は頭を下げたまま彼に声をかける。だがその言葉を聞くやいなや、悠二は勢いよく玄関の扉を開けて外に飛び出し扉を閉めた。
「なんなんだ、あの女性は。ま、間違いなく自分の部屋だよな。」
まず思った事は自分が部屋を間違えたのではないかという事。しかし、鍵に書かれている部屋番号と今いる部屋の番号は間違いなく自分が借りている104号室。その事実が余計に彼を混乱させる。これが間違いだったらどんなに良かっただろう。
「あの、どうかなさいましたか。もう夜も更けてまいりましたから中へお入りください。」
静かにドアが開き、おずおずと先ほどの女性が顔を出した。まるで自分が客で目の前の女性が家主の様な感覚に疑問を覚えつつ、混乱して戦慄く口からなんとか言葉を絞り出す。
「はあ…分かりました。」
「はい。そうなさってください。」
悠二の言葉が嬉しかったのか、満面の笑みで彼女は言葉を返す。その笑顔を見た瞬間、悠二は彼女に見惚れてしまった。その顔は今まで見た誰よりも美しく妖艶で、切れ長の眼の端や頬はほんのりと朱に染まり、可憐さを際立たせている。
そして今まで混乱してまともに見る事が出来ていなかった彼女をまじまじと見つめる。今では珍しい着物を身にまとい。その着物は薄紫で非常に美しく、素人目にも高級なものである事を思わせる。そして透けるような白い肌、この国の人間とは思えないほど美しい金色の髪、そして金色の瞳のコントラストがとても美しい。そしてじっと立っているだけなのにそれだけで強く自己主張しているようだった。
そんな彼女を目で追いかけつつ玄関で靴を脱ぎ、戸締りをしながらふと我に返る。
「ってあなたは誰なんですか。それにどうしてここにいるんです?」
「実は今日は貴方様にお願いがあってまいりました。」
混乱する彼とは対照的にのほほんと彼女は彼に話しかける。
「お願い、ですか?」
「ええ。貴方様にしか叶えていただけない重要な願いなのです。」
そこまで言うと目の前の女性は一つ深呼吸をして、何かを決心するかのように悠二の顔を見つめ口を開いた。
「関悠二様、私と結婚していただきたいのです。」
そこは町はずれにある昼間でも薄暗い鎮守の森。そしてその奥にはひっそりと社が一つ建っているだけだった。
「魔物や妖怪がいるわけないだろ?馬鹿じゃねーの。」
その少年の胸中には先ほど友人たちに言われた言葉が何度となく響いていた。
そう、彼はいわゆる妖怪や魔物といった人外のものたちが存在することを信じ、そして未知の存在であるそれらのものたちが好きだった。何故かと問われれば明確な理由が言える訳ではなかったが、様々な話に登場するそれらの存在は彼の胸をときめかした。
ただ、そんな彼の住む世界は非情でもあった。魑魅魍魎がいるとされる暗闇は街灯にかき消され、妖怪や魔物は既にアニメーションや漫画の題材にしかなっていなかったし、精々変わり者の学者がその地域の文化としての側面を見出すといった程度にしか人々に認識されていなかった。
だからこそ、その存在を信じる彼は友人たちの中でも変わり者として扱われていた。仲間たちと仲が悪いわけでも、ましてや嫌われているわけでもない。ただ、妖怪の事になると途端に彼は異端視された。ただそれだけだった。
そして彼らと言い合いになった時に彼は必ずと言ってもいいほどこの寂れた社を訪れた。鎮守の森は昼でも薄暗く、細い石畳の道が続き、薄くなった朱色の鳥居が数基、そしてあまり手入が入っていない事を思わせる古めかしい社は彼の好きな妖怪や魔物を想起させるには十分な場所であった。
その日も彼は友人たちと口論になり、社の前に立っていた。
鎮守独特の湿気に濡れる石畳に足を滑らす事のないように注意しつつ、鳥居をくぐり社の前に立つ。そして祖母から教わった祈りの言葉をごにょごにょと口にして、小さい頭を下げ神様に挨拶をする。そんないつもと変わらない彼の日常はその日も同じはずだった。そう彼が頭を上げるまでは。
「白い…狐?」
彼が頭を上げると、普段は閉ざされている社の扉が、先ほどまで確かに閉まっていた扉が開いていた。そしてそこには一体の狐の像が鎮座している。その像は何度もその場所を訪れたことのある彼が目にした事の無いものだった。全身が雪のように白く、長く美しい切れ長の目の両端は美しい朱色が彩っている。その立ち姿はとても美しく醸し出す雰囲気は幼い少年の眼を釘づけにした。
少年はその狐の像を時間も忘れて凝視していた。少年の心の中に「稲荷」という概念があったのかは分からない。だがそれでも彼は幼いなりにその狐の像から神聖な雰囲気を確かに感じ取っていた。
「また来てくれたのですね。」
そんな鎮守の森に突然女性の声が響いた。人の気配のない場所で発せられたその声はとても優しく少年の耳に響いた。どうやらその声の発信源はどうやら目の前の白い狐の像であるらしい。
「誰か…いるの?」
少年はおずおずとそ目の前の像に話しかける。
「ああ、私の声がちゃんとあなたに届いているのですね。なんとも喜ばしいことです。」
どことなく嬉しそうな女性の声がそれに応える。
「あなたは狐の神様なの?」
「この状況に驚ない度胸、そして頭の回転も早い…なんという行幸。まだ私も運には見捨てられていなかったのですね。」
確かに少年はこの状況にあまり動じていなかった。だがそれは妖怪好きだからという理由ではなく、ただ茫然としていただけであった。
「ええ。正確には神の使いですが、狐の神として祀られていることもあります。」
「そ、その僕にいったいどうして突然話しかけてきたの?」
「ああ、それもそうですね。用件を早めに言わなければ…ってもう時間が…いじゃ…いですか。」
目の前の像がぼやけ、ジャミングが酷くなったように言葉がとぎれる。
「お願…があるのです。これから出来るだ…この社へお参りに来ていただ…ないでしょうか?」
「…うん。分かった。」
「そ、それと出来れ…時々でいいの…油揚げ…奉納してくださ…」
「油揚げ?」
「そして…最後…これが一番大事…ことなのです。貴方…、貴方のお名前を教えていただけますか?」
名前なんて聞いていったい何が目的なんだと思いつつも、彼は素直に自分の名前を口にした。
「僕の名前は…関悠二」
「ふ…、関…二。忘…ま……よ。貴方…御…前を…」
少年の言葉を聞いたその瞬間、まるで少年の言葉を待っていたかのように狐の像はぐにゃりと歪み、少年に今まで感じさせなかった不気味さを残しつつ、彼の前から消え去った。
そしてそこには一人残された少年と、何時も通りの薄暗い森が広がる光景があるばかりだった。
「…君、関君。ちゃんと聞いているのですか?」
教授の声にはっとして、関と呼ばれた青年は緩んでいた気を引き締める。随分昔のことを思い出してぼんやりとしていたようだ。
「はい、教授。なんでしょうか。」
「やっぱり聞いてないじゃない。自分の番じゃないからってぼんやりしていては駄目よ。ごめんなさいね、住友君。じゃあもう一度そのフレーズを弾いてみて。」
教授の意識が自分から逸れたのを確認して、関悠二はそっと息を吐いた。
彼は地元を離れ、この国の首都にある私学の音楽大学に進学していた。妖怪が好き…ということでも彼の存在は友人たちの中で特別視されたが、男でピアノを弾いているという事実もまた彼をより特別視させていた。というのも彼が育った田舎では良くも悪くも男は男らしく、女は女らしくといった気風が未だ根強かったからだ。
しかし、彼はピアノが好きでピアノを弾く事を辞めようとはしなかった。決して上手くは無かったが、それでも音楽と関わる事が好きだった。だからこそ、自分の将来を考えた時、自然と音大に進む事を目指したのであった。
そんな音大に進学して既に二年。始めは身内も知人もいない環境に馴染むのに必死で気を張ることが多かったが、今では心許せる友人たち(目の前でピアノを弾いている住友もその一人)もでき、それなりに充実した大学生活を過ごしていた。
あの不思議な体験をして10年の月日が経っていた。
あれから彼は、上京するまで律儀にも毎日社に参拝した。それは朝夕の登下校のついでに行く事が多かったが、例え天気が悪くても、部活や受験勉強で時間が遅くなっても必ず参拝し、高校に入学して小遣いをもらえるようになってからは週に一回ほど油揚げを奉納した。幼い時分は、社に行くたびにあの像が現れないか心を躍らせたものだったが、それでもあの狐の像は一度として姿を現さなかった。
しかし、それでも彼は参拝する事をやめなかった。参拝をやめると言う事は、あの時の約束を反故にしてしまう。それはあの不思議な体験そのものを、自分の大切な思い出を否定してしまうといった想いがそうさせたのであった。
そんな事を考えながらピアノの音に耳を傾けていると、またぼんやりと過去の出来事に想いをはせていた事に気が付き、慌てて現実に神経を集中させる。すると実にタイミング良く授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「はい。それじゃあ次の授業までに言った課題をちゃんとしてくるようにね。」
厳しくも優しい教授の声が教室内に響き、関と住友は教室を後にした。
「真面目な関がぼんやりするなんて、珍しいな。」
授業から解放されたのが嬉しいのか、笑顔の住友がからかうように声をかけてくる。
「いや、少し昔の事を考えていて…油断したよ。」
「ふーん。そんで関はこれからどうするよ。俺はホールに寄ろうと思うけど。」
ホールとは各学年の各学部の学生に割り当てられた部屋の通称で、そこでは学生たちが好き好きに楽器を演奏したり、音楽談義を繰り広げたり、はたまた学生らしく馬鹿なことをテンション高く繰り広げる場所であった。その部屋の多くは電化製品や生活用品が学生の持ちこみで置かれ、そこで半ば生活しているような連中もいるらしい。
「うーん。それなら僕もホールに行くよ。」
先ほどまでの授業が今日ある授業の最後だったので直ぐに帰ろうかと思っていたが、今日はバイトも無く、期日が迫るレポートも無いので、自分もホールで寛ごうかと思い住友にホールへ行く事を告げた。
「よし、もう終わった連中もいるだろうし、行こうぜ。」
「おう。」
ホールに着くまで、住友と先ほどまでの授業の内容や、最近聞いた音楽の話などを話した。ホールに向かうまでの道中は何時も見る風景と変わりない。同じように授業を終えてのんびりくつろいでいる者、次の授業へと足早に歩いている者、楽器の練習に励む者、中庭ではしゃぐ者、それぞれが音大の日常を形成している。
だが、その日常は目的のホールへと到着する少し前に、非日常へと変貌した。
先ほどまでほとんど日が沈み、暗さを増していたとは思えないほど空が明るく輝き、そして見たこともないようなピンク色に空が染まっていた。
「こ、これは一体…。」
「お前にも見えてるんだよな?」
そんな空に驚きつつ住友を見ると、同じように混乱した視線をこちらに向けた後、住友は再び視線を空へと戻した。どうやらこれは自分や住友の見間違いでも幻覚でもないようだった。それを証明するように周りの人々も同じように呆然と空を見上げている。
だが、それから数分後に空は今までの様な夕闇へと姿を戻した。人々は口々に先ほどまでの異変を口にし、あるものは首を傾げ、あるものは既に先ほどまでの日常へと戻っていた。
「今のはなんだったんだろうな…」
声をかけながら隣にいる友人へと視線を移すが、その友人隣にいなかった。
「さあな、それよりホールに急ごうぜ。」
どうやら住友は既に興味を無くした様で、ホールへと向かって歩き出していた。そんな友人の後ろ姿に苦笑いしながら悠二もホールへと向かうことにした。
ホールの中は先ほどの異変の話題で盛り上がっていた。
というのも、ホールの中に置かれていたテレビが先ほどの異変について速報を流していたからであった。その速報は二人がホールに到着したときには流れ始めていて、数人の友人が見ていた。
「…観測された現象は、人為的なものではなくただの自然現象であり、今のところ人体への影響も、危険性もありませんので余計な混乱を引き起こさないようご注意ください。」
アナウンサーが慌ただしく原稿を読む姿を見ていた悠二は微妙な違和感を覚えていた。その様子に気がついたのか、ホールにいた友人の一人である高市が話しかけてきた。
「関君、難しい顔してどうしたの?」
「ああ、いや…。前例があるならまだしも、あの現象を単なる自然現象と断定するのが随分と早いなと思ってね。」
「確かにそうだけど…あれを人為的にどうにかするなんて無理でしょ。しかも広域にわたってだなんて。」
「そうそう、関は何でも難しく考えすぎ、それよりのんびりしようぜ〜。」
「そんな頭が固いから彼女ができないんだよ」
だが、それは自分しか思っていなかったようで、友人たちはテレビから視線を外し、普段のように過ごし始めていた。そして最後の感想は余計だ、住友よ。
日がすっかり暮れ、暗闇に包まれる中、悠二は下宿への帰路についていた。
結局、あれから何が起こるでもなくいつもと変わらない時間が過ぎていった。悠二は住友や高市などと世間話や音楽談義をかわし、一時間ほどホールで時間をつぶした。空の色が変わるという現象も、発生してからすぐはテレビも慌ただしく伝えていたが、15分もすれば通常のプログラムに戻っていた。
「何だったんだろうな、あれは。」
そんな事を口にしても誰も答えてくれるはずもなく、自転車の車輪が回る音しかしなかった。
悠二の通う音大は都心から離れた場所に位置している。その地域は沢山の大学が隣接(といってもそんなに近いわけではないが)している影響もあって多くの学生や浪人生が住み、ベットタウンとも違った、独特な街を形成していた。特にこの周辺は音大生のために防音を施したアパートやマンションが多く立ち並び、地方から上京してきた学生たちのほとんどが大学の近くに住んでいる。悠二もそんな一人で、キャンパスから自転車で10分程度のところに悠二の住むアパートがある。築年数が自分の年を上回っているが一人で住む分には十分な広さもあり、防音もしっかりしているので悠二はそのアパートでの生活に不満を覚えた事は無い。
誰もいないこの状況で、これ以上考えても意味がないかと思考を切り替え、悠二は自転車を漕ぐ足に力を込める。そしていつも使う帰り道を使い、見えてきたアパートを見ながらこれからの段取りを考える。風呂の準備をし始めるか、それとも先に楽器の練習をしてしまうか。どちらとも決められないまま駐輪場に自転車を置き、一階の角部屋にある自分の部屋に向かう。
後になって思えば、この時点で気がつかない自分もそうとう防犯意識が無かったのだろうと思う。これから自分に起こる非日常を予測する事が出来なくても、せめて自分の部屋に明りがついている事に何故気がつかなかったのだろうか。
鍵を差し込み玄関を開けると…そこには見知らぬ女性が三つ指をついて頭を下げていた。
「!?」
誰でもそんな状況に陥れば、落ち着いていられないと思う。誰もいないと思っていた自分の部屋に人がいるのだから。
「御帰りなさいませ。お待ち申しておりました。」
そんな悠二の混乱を知ってか知らずか、目の前の女性は頭を下げたまま彼に声をかける。だがその言葉を聞くやいなや、悠二は勢いよく玄関の扉を開けて外に飛び出し扉を閉めた。
「なんなんだ、あの女性は。ま、間違いなく自分の部屋だよな。」
まず思った事は自分が部屋を間違えたのではないかという事。しかし、鍵に書かれている部屋番号と今いる部屋の番号は間違いなく自分が借りている104号室。その事実が余計に彼を混乱させる。これが間違いだったらどんなに良かっただろう。
「あの、どうかなさいましたか。もう夜も更けてまいりましたから中へお入りください。」
静かにドアが開き、おずおずと先ほどの女性が顔を出した。まるで自分が客で目の前の女性が家主の様な感覚に疑問を覚えつつ、混乱して戦慄く口からなんとか言葉を絞り出す。
「はあ…分かりました。」
「はい。そうなさってください。」
悠二の言葉が嬉しかったのか、満面の笑みで彼女は言葉を返す。その笑顔を見た瞬間、悠二は彼女に見惚れてしまった。その顔は今まで見た誰よりも美しく妖艶で、切れ長の眼の端や頬はほんのりと朱に染まり、可憐さを際立たせている。
そして今まで混乱してまともに見る事が出来ていなかった彼女をまじまじと見つめる。今では珍しい着物を身にまとい。その着物は薄紫で非常に美しく、素人目にも高級なものである事を思わせる。そして透けるような白い肌、この国の人間とは思えないほど美しい金色の髪、そして金色の瞳のコントラストがとても美しい。そしてじっと立っているだけなのにそれだけで強く自己主張しているようだった。
そんな彼女を目で追いかけつつ玄関で靴を脱ぎ、戸締りをしながらふと我に返る。
「ってあなたは誰なんですか。それにどうしてここにいるんです?」
「実は今日は貴方様にお願いがあってまいりました。」
混乱する彼とは対照的にのほほんと彼女は彼に話しかける。
「お願い、ですか?」
「ええ。貴方様にしか叶えていただけない重要な願いなのです。」
そこまで言うと目の前の女性は一つ深呼吸をして、何かを決心するかのように悠二の顔を見つめ口を開いた。
「関悠二様、私と結婚していただきたいのです。」
13/03/15 00:09更新 / 松崎 ノス
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