山田春代は、嫉妬した。
それもただの嫉妬ではない、憤怒に近い。
気を抜けば全身から青白い嫉妬の炎を噴出してしまいそうだ。
エキドナの母に育てられ、嫉妬深い性格とも折り合いをつけられているつもりだった。
ほんの数分前までは、仕事が予定よりもかなり早く終わり、夫の待つ家に帰ることができると嬉しさばかり募ったというのに。
自宅に帰宅し現状を目にした瞬間、感情が荒ぶった。
元凶は、目の前で穏やかな寝息をたてる夫。
気持ちよさそうに体を弛緩させ、寝息をたてさせるのは、自分以外ありえない。
出会い、結ばれ、この日まで彼の安眠は春代の抱擁でなされてきたというのに！
なのに、今、夫は春代が帰宅したことにすら気が付かず爆睡している。
それほどまでに、安心し身を預けているのだ。
私の、数か月前に脱ぎ捨てた下半身の抜け殻に！
かつて私の一部だっただけのものに！





話は数時間前に遡る。
自宅のリビングで、山田利一は一人の刑部狸と相対していた。
「せやから、りっちゃん。ものはためし、ためしやん」
「いや、春代に確かめず勝手に使うのはいくら僕でも……」
「春ちゃんなら、姉ちゃんの私がいうたゆーたら納得してくれるって」
「うーん」
仕える龍神様や、先輩の白蛇達と今年の台風対策を話し合うため春代が神社へ出仕していたその日、春代の実姉である刑部狸が突然やってきた。
その手練手管で、有名商社の御曹司をモノにした義姉は、ときおりこうしてやってくる。
それも大抵、新商品を携えてやってくるのだ。
それは今日もそうだった。
新商品を本来は両親へプレゼントしたいのだが、念のため使い心地をテストしてくれないかというのだが
「な、春ちゃん几帳面屋から抜け殻の一枚や二枚、あるんやろ？」
その商品を試すため、妻である春代の脱皮した抜け殻、それもできるだけ全長のままのものを出してくれと言うのだ。
蛇の抜け殻は財布に入れれば金運が上がるなど、ご利益があるものとされている。
場所によっては神聖視される白蛇の抜け殻はその中でも珍重されるものらしく、妻は長い交尾を終え脱皮の興奮が覚めると、抜け殻を丁寧に処置し、保管していた。
知人や参拝客が求めれば、そこから適当なサイズに裁断し、お守りに入れ配っているそう。
だからこそ、それを勝手に持ち出すのはためらわれる。
今日は龍神様や諸先輩一同が会する神聖な仕事の為、妻はスマホを家に置いていた。
いつもであれば、連絡を入れ判断できるが、今日はそれもできない。
「なありっちゃん」
春代との結婚式の場で初めて顔を合わせて以来、りっちゃんりっちゃんと気さくに話しかけてくる義姉が、ぐっと顔を近づけてきた。
「頼む、せっかく家族になれたこのうちを助けると思って、力を貸してくれんやろうか」
顔の前で手を合わせ、大げさにウインクする義姉。
そのどこか憎めない態度に、いつも丸め込まれてしまう。
それが商売に特化する彼女のやり方だと分かっていても、妻の親族だという信頼感が利一を行動させた。
「なー頼むよぉ、りっちゃーん。りっちゃんだってうちのお父ちゃん、喜ばせたいやろぉ？」
「はあ、分かりました」
こちらに抱き付かんばかりに乗り出す義姉を制しつつ、利一は立ち上がる。
義姉のいうように、義父が喜んでもらえるのならば、確かに助力することは吝かではない。
「ただ、もし春代に怒られるようなことになったら、一緒に怒られていくださいね？」
「うんうん、一緒に頭下げたるわ！」
そう言って豪快に笑い飛ばす様をみつつ、肝心のことを説明されていないことに気が付いた。
「今更聞くのも何ですが、春代の抜け殻を何に使うんです？」
「んーそれは、実際に体験してみてのお楽しみ、やね♪」
「はあ」
「ほら、足が止まっとる。時は金や！」
先ほどまで頭を下げていたとは思えない、勢いよく手を叩き急かされた利一は、抜け殻が保存されている物置へと向かった。


「持ってきましたよ……ってなんですか、それ」
丁寧にたたまれ、ビニール袋に入れられた妻の抜け殻を手に戻ると、何が入っているのか分からない黒く大きな袋を義姉が抱えていた。
「おお、これ？これが試してほしい商品やねん」
「これが、ですか」
「うん、ほら見てみ」
義姉が開けた袋の口から中身を覗いてみると、中には小さなビーズ状のものが沢山入っていた。
「なんです、これ」
「うちの会社で開発した、簡単にいえば緩衝材みたいなもんやね。耐久性、耐寒性、耐熱性、色んな魔術や魔法を使った特注品やねん」
手に取っていいと言うので、一粒摘まんでみるが、半透明で丸っこいただの粒にしか思えない。
「で、抜け殻をどう使うんです？」
「をじゃなく、にぃやね。つまり、これを抜け殻に詰めて、ラミアクッションを作ろうおもってるんよ」
「はあ……」
「普通はな、これを女郎蜘蛛はんが拵えた、肌触りのええ布で作ったカバーに入れて使うんや。幸いにも試作品の評判は上々。やけどな、そこでうちは考えた。上等な布でもリラックスできるんやったら、ラミア種の抜け殻を使えば、その配偶者たるインキュバスはもっと心地ええんやないかと！」
「なるほど、だからお義父さんにプレゼントする前に、僕らで実験を」
「せやねん。本当は同じエキドナ種の、一番上の姉ちゃんにお願いしたいんやが、男のえり好みが激しゅうて、未だに独身やし、他のラミア種の姉妹は遠くに住んどる……。すぐに実験できるんは春ちゃんとこのりっちゃんしかおらんねん」
「じゃあ、僕はこれを詰めた、春代の抜け殻クッションの使い心地をお義姉さんに伝えればいいんですね？」
「うん。うまくいけばお父ちゃんも喜んでくれるやろうし、商品のバリエーションが増えて万々歳や！」
満面の笑みを浮かべる義姉は早速始めようといい、取り出した抜け殻へと粒を入れ始めた。




「どう、りっちゃん」
「ああ、なんというか……絶妙、です」
中身を詰め、口を縛った抜け殻の上に利一は横たわる。
抜け殻とはいえほんのりと香る妻の優しい匂い。
触り慣れた、肌触りのいい妻の蛇肌。
その中に詰まる、あの小さな粒が、なんとも言えない反発力で体を支える感触が絶妙だった。
なんというか、生身の妻とはまた違った安心感がある。
身体を動かせば中身が柔らかく変形し、乗せた背中にフィットした。
身体が沈み込むのだが、沈むだけではなくしっかりと支えられることによる心地よさ。
それは想像を超えた快適さだった。
「これは、気持ちいい……です」
「やろー？」
閨で妻に躰を預けるように、四肢を弛緩させる。
全身をラミアの下半身で包まれるそれとは、また違った心地よさを感じた。
ぽつぽつとそんな感想を口にしていると、義姉のスマートフォンが着信を告げた。
「ええとこやのになんやねん……はい、もしもーし」
スマホはやはりケモ耳にあてるものなのかと、そんな益体もないことを考えつつ眺めていると、通話を終えた義姉は申し訳なさそうに手を合わせた。
「すまん、りっちゃん。末娘のことでちょっと保育園に顔を出さにゃいけんよーになってもーた」
「……はあ」
「そう時間はかからんやろうから、ちょっと行ってきてええやろうか？」
「……これはどうすれば？」
ビーズの詰まった抜け殻を優しく撫でながら尋ねる。
「よければ戻ってくるまで自由に使ってて」
「いいん……ですか？」
「むしろ、これで一休みしてもらって、どんな感じか教えてーな」
「分かりました……」
「ほんじゃ、ちょっくら行ってくるわ〜！」
言うやいなや、足早に部屋を出ていく義姉の後姿を見つつ、利一はさらに身体を弛緩させていく。
毎日、毎晩、結ばれて以来必ず行われる蛇の下半身を用いた妻の抱擁。
誰よりも自分を愛してくれているのだと実感する瞬間だ。
そしてそれはなにより気持ちがいいし、安心感を与えてくれる。
だが、これはそれと似た、新しい感情を利一に抱かせる。
こうしてはっきりと春代の存在を感じつつ、拘束されず自由にごろごろとするのは初めてだった。
足や手だけではなく、身体全体を蛇肌に擦り付けつつ、もぞもぞと動いてみる。
洗いたて、干したてのシーツや布団で意味もなく寝返りを打った幼いころの記憶を上書きするような心地よさを感じると共に、じんわりと睡魔が襲いかかってきた。
春代が帰宅するまでには少し時間があるはずだから、この心地よさと共にひと眠りするのも良いかもしれない。
既にぼんやりとし始めた脳内でそんなことを考え、利一はすりすりと頬を蛇肌に擦り付けつつ、いつもとは逆に妻の蛇体を抱き締めながらゆっくりと眠りの底へと落ちていった。





そんなことを知る由もない春代はすぐに職場から帰宅した。
夫と会話を楽しむもよし、食事をするもよし、性行するならなお良し、要は利一と一緒にいられるのならなんだって春代は幸せなのだ。
そんな期待に胸を膨らませ、うきうき気分の春代がリビングで何者かの、ラミアの下半身に寄り添って眠る夫の姿を見た瞬間、全てが吹き飛んでしまった。
最初、その蛇体が自分以外のものなのかという考えがよぎるが、すぐにそれが自分の抜け殻だと分かり、ほんの僅かに溜飲を下げたが、それですべてが解決したわけではない。
何故このような状況になっているのかは分からなかった。
分からなかったが、かつて自分の一部だったもので心地よさそうに夫が眠っているのは、嫌だった。
自分の中で、急速に嫉妬の炎が燃え上がってしまっているのを痛感する。
それを必死に抑えつつ、春代は話を聞くべく、優しく利一の肩を揺すった。




「起きてください、旦那様」
「んぅ？」
突然肩を揺すられ、安眠を覚まされた利一は、一瞬自分が何をしていたのかを把握できなかった。
言葉にならないものをもにょもにょと口にしつつ、完全に覚醒できずに、ずっと身体を預けていた愛妻の蛇体、その抜け殻へ頬擦りをして寝返りを打とうとして、がっしりと肩を掴まれ、鼻と鼻がくっつくほど顔を近づけてきた春代の目と目が合った。
「……は、春代？」
「はい。貴方様の愛する、春代ですよぉ」
どこか底冷えするような声色で話す春代の声を聞いた瞬間、先ほどまでの眠気は一気に吹き飛んだ。
「おはようございますぅ」
「お、おはよう……ね、寝ちゃってたみたいだね」
「ええ。随分、気持ちよさそうにお休みやったんで、起こすのは悪いと思うたんですが、風邪を引いてはえらいことなので声をかけさせてもらいましたぁ」
妻は、にっこりと笑っていた。
普段利一に向けてくれる微笑に似ているが、固い笑みであることがなにより分かる。
この笑みは春代が珍しく怒っている証拠だった。
そしてそれは、先ほどまで自分が身を預けていたものが原因であることは間違いないだろう。
「ま、まずは説明させて、もらえるかな？」
肯定するでも、頷くでもなくにっこりと笑みを濃くした春代の表情に心胆を冷やしつつ、つっかえつっかえ経緯を説明した。
「なるほど、また姉さんの仕業ですか……」
「そうなんだ」
「全く困った人なんやから、姉さんは」
「本当にね、はは」
「うふふ、でもある意味でファインプレーかもしれんわあ」
「え？」
春代の言葉の真意が分からずほんの僅か気を緩めた瞬間、あっという間に生身の蛇体に体を抱きすくめられた。
「ちょ、春代！？」
「せっかくの機会やもん」
抱き付く力を増しつつ、獲物を捕らえた捕食者の笑みを浮かべ、優しく語りかけてくる。
「うちの抜け殻を使った“模倣品”と、本物のうちの素晴らしさを、改めて旦那様に実感してもらいましょうかぁ♡」
「お、お手柔らかに……」
「水臭いですよぉ…遠慮なんかせんといてください、旦那様ァ♡」
それからどれほど妻に愛されたのか、記憶が定かではない。
ただ、春代は抱きすくめるだけではなく、時折利一に蛇体を抱き締めるよう誘ってきた。それはまさに、模倣品との差を利一に知らしめるため。そして利一は、それを心行くまで堪能した。
途中、用事を終え戻ってきた義姉は、一目見ただけで全てを理解したらしく、そっと気配を消して退散した。
だが結局のところ、腹の虫がおさまるまで利一を貪り、一段落着いた春代の小言から義姉は逃れることはできず、雨霰のように容赦なく降りかかった。
その結果、義理の両親への贈り物は通常の商品と同じものが贈与されることとなったのだった。

■作者メッセージ
某お馬さんがクッションで寝ているCMと、その動画に対してこれは枕営業だというコメントを見て、一通りお腹を抱えて笑いまして。
そして同時に以前、抜け殻を寝袋にする話を書いたこともあり、あのクッションを白蛇さんの抜け殻でできないだろうかと思いつきました。ですが、たとえそれが自分の体の一部だったものでも、旦那さんが気持ちよさそうに使うのって、白蛇さんだと嫉妬しちゃいそうだなあと思わずにはいられませんでした(笑)。