狂っているのかもしれない
「……また来てんのか」
買い物から帰った義朗は玄関に学生靴があるのを見て美香が部屋にいることを悟った。
出かけている時に入れ違いで訪れたのだろう。美香には合鍵を渡しているのでそういう場合は先に部屋に入っている事も珍しくない。
(大丈夫なのかあいつ……)
人の心配ができるような身分ではないのだが思わずそう考える。近頃美香が義朗の元を訪れる頻度が明らかに増えてきている。
そうして掃除やら炊事やら義朗の世話を焼いていく、以前からたまに顔を出す事はあったがここの所は通い詰めていると言って過言でない。
「暇だから」と美香はいつも言う、しかしそんなにいつも暇なはずはない。
成績がいい美香は勉強も真面目にしているし人付き合いも多い、仕事の方もますます人気が出てきて忙しくないはずはないのだ。
「……」
「すう……すう……」
部屋に上がると美香が布団の上で身体を丸めて寝息を立てていた。
テレビがついている所を見ると部屋を片付けた後も義朗が帰ってこないのでテレビでも見て待っていようと考えたのだろう。
「ほら見ろやっぱ疲れてるんじゃないか……」
ひとりごちながら毛布をかけてやる。
(ありがたいけど……コイツのためにならないよな……)
正直助かっている、だが疲れている美香の負担になっているのだとしたらそれに甘えるのは戸惑われる、いや、すぐに遠慮するべきなのだろう。
(でも……なあ……)
助かっているのは食事や身の回りの世話ばかりではない。精神的な面でも美香には大きく救われているのだ。
受験は一人の戦いだ、どうしても孤独になりがちで精神的なストレスが大きい。
誰か腹を割って話せる友人か受験仲間でもいればいいのだろうが生憎義朗に親しい友人はいない。
最大の助けになってくれるはずの両親はもはや自分の事を諦め気味で顔を合わせるのも辛い。
実質美香の訪問が唯一の心の支えと言って差し支えない。
その美香に「もう来なくていい」と言うのは辛い、何より自分が苦しい。
ワハハハハ
考え込む義朗の思考を現実に戻したのはテレビから聞こえる芸人の笑い声だった。
気付けば寝ている美香のそばに立ち尽くしてぼんやりとしていた、これでは美香の言う通り怪しい兄だ。
「んん……んぅ……」
寝返りをうつ美香を見てどきっとする、みじろぎした拍子に胸元がはだけてブラが見えている。
咳払いをしてそっと胸元を直してやる。
「……」
眩しい、眩しいくらいに白い肌だ、ミルクを練り上げて出来ているんじゃないだろうか。
(……エステ、続けてるんだっけか)
確かにその話を聞いた時から美香は更に綺麗さに磨きをかけている、そりゃあ人気も出るだろう。
それは肌の色艶や髪質だけの問題ではない、何か、全身に纏う雰囲気が少しづつ変化している気さえする、妖艶、というか……。
気付けば胸元を直してやった義朗の指は美香の髪を払いのけてその頬に触れていた。
吸い付く感触が指に伝わる。
その心地いい感触をもっと楽しもうと指が徐々に頬を滑り降り、首筋に届く、なんて滑らかな感触だろう。
「んー……ん……」
と、美香がくすぐったそうにみじろぎした、我に返って慌てて指を引っ込める。
「んんぅ……んふふ……」
何の夢を見ているのか口元に微笑が浮かぶ。
義朗は呆然として立っていた、呆然として美香のその笑顔を見た後に視線を下に向けた。
はち切れんばかりになってズボンを押し上げる自分のモノが見えた。
(……嘘だろ)
もう一度美香の方を見る、起きている時には見せないあどけない表情。
「……」
記憶が遡る。
自分が何歳の時か覚えていない、でもベッドの中で眠る赤ん坊の美香を覗き込んだ時の事をよく覚えている。
こんなに人形みたいに小さな生き物がやがてはお父さんやお母さんみたいに大きくなるというのがすごく不思議だと思った。
子供ながらに頑張ろう、と思った事も覚えている。
自分はお兄ちゃんになるんだ、妹を守ってやるんだ、と。
もう一度見下ろしてみる。
下半身に蠢いているのはむき出しの獣欲。
あどけない美香の、妹の顔を見て、性欲を覚えている。
性欲を。
義朗の全身からどっと冷たい汗が吹き出た。
・
・
・
(……寝ちゃってたや)
美香は布団から身体を起こして目をごしごしと擦った。
「んー……」
何かとてもいい夢を見ていた気がする。内容は思い出せないが……。
部屋を見回してみると机に向かう義朗の背中があった。
ちゃぶ台の上には空になったカップ麺が置かれている。
「もう夕飯食べたの?」
「ああ」
振り返らずに義朗は答える。
「起こしたら作ってあげたのに」
「ああ」
「……?」
美香は違和感を覚える。
「兄さんどうかした?」
「なあ、美香」
「うん?」
「もうここには来るな」
ずっと振り返らないまま義朗は言った。
「何で?」
「お前も忙しいだろ」
「そうでもないよ」
「疲れて寝てただろ」
「ちょっと昨日寝るの遅かっただけ、それに私兄さんと違って要領いいし?」
ばりばりと義朗は頭を掻いた。
「父さんや母さんも怒るだろ」
「あの人らが怒ろうがどうしようが私に関係ないよ」
義朗はまた頭をばりばり掻いた。
「お前がいると俺の勉強だって進まないんだよ……」
おかしい、美香は義朗の後ろ姿をじっと見た。
「変だよ兄さん」
「変じゃっ……あの、なあ……」
義朗の手はばりばりと止まらない、悩んでいる時の癖、それも深刻に。
義朗は机から振り返った。
ひどく辛そうな顔をしていた、無理に何かを押し込めているような表情だ。
「とにかく……ここにはもう来るな、俺は大丈夫だから……」
「全然大丈夫そうに見えない」
「あのなあっ!!」
義朗は突然大声を出す、美香は動じない。
「俺はっ……俺はなあ!人の役に立てるような人間にはなれないかもしれないけど……!」
頭を抱えながら言う。
「せめてっ……せめて人さまに迷惑をかけないように……!迷惑をかけない人間にっ……!」
その後も何かを続けようとしていたが、結局言葉が見つからない様子で義朗はくしゃくしゃの頭をもっとくしゃくしゃにする。
「……なにそれ」
義朗が顔を上げると美香はじっと義朗を見ていた。
「その「人さま」って、私のこと?」
「そう、だ」
「家族じゃん」
「いいから!!出て行けよ!!」
「……」
義朗は顔を隠すように覆った。
「すまん……大声出して……でもな、とにかくもう来ないでいい、大丈夫だから……俺は本当に大丈夫だから……」
「……」
「……」
「……わかった」
美香はそう言うとごそごそと身支度を始める、義朗は項垂れたまま美香の方を見ることができない。
足音が玄関の方へ移動し、靴を履く音がする。
「……」
「兄さん」
声をかけられてやっと顔を上げる。
「無理しないでね、いつでも電話して」
美香はいつもと変わらない表情で手を振った、義朗は力なく手を振り返す。
バタン
ドアの締まる音と共にいつもの静寂が帰ってくる、しかし義朗にはいつもよりもずっと重い静寂に感じられた。
どうして自分はこうなのだろう、もっとうまい言い方はなかったのか。声を荒げる必要があっただろうか。
美香は大人だ、親切心でやっている事を怒鳴られるという理不尽な対応をされたというのに怒りもせずにこちらを気遣ってさえくれた。
比べて自分は嫌になるくらい子供だ。
だけど。
子供だろうと何だろうと今の自分は美香に世話を焼いてもらう資格はない。
自分の意志の弱さは嫌になるくらい知っている。これから先ますます綺麗になっていく妹に対して「間違い」を犯さない自信はない。
自分が「そういう人間」だとわかってしまった。
もし「間違い」が起こってしまったなら、それは美香の心にどれほど大きな影を落す事になるだろう。
「……ミカ……」
義朗は机に向かう、手は動かない、目には参考書の内容はおろか白紙のノートすら映っていない。
ミカ
ミカ……お前にはきっと素敵な人生が待っている、きっと皆に愛される、素敵な人と出会って幸せな結婚が出来る。
俺とは違う。
俺なんかに気を取られないで欲しい、躓かないで欲しい、真っ直ぐに歩いて欲しい、俺はお前の幸せを手伝う事はできない。
だからせめて邪魔をしないようにするしか出来ない。
俺は、
俺はもう駄目みたいだ。
すまない、ミカ、こんな兄ですまない。
ごめんな、ごめんよ。
・
・
・
「ん〜〜〜〜今日もよく頑張りましたぁ〜〜〜〜」
「サロン・アルラウネ」のマッサージ師、森千佳子(もり ちかこ)はぐいぐいと伸びをすると閉店準備を始めた。
窓の外を見てみるとぱたぱたと雨の粒がぶつかって音を立てている。天気予報は外れのようだ。
「みんなにはちょうどいいですねー」
つんつんと店内を飾る花を指でつつくとその花は頷くように揺れて……。
ゾロゾロゾロ……。
いや、揺れているのではなく実際に頷いている、店内を覆うように生い茂っている草木がその胴体をゆっくりと動かしているのだ。
実は部屋に色とりどりに配置されている花達は沢山の種類がある訳ではなく、全てが一つの樹木から生えているものだ。
壁や地面に埋め込まれていて外見にはわからないが、この部屋は一つの大きな魔界植物にすっぽりと包まれた形になっている。
店で使われている香油やローション、薬品の類はほとんどこの魔界植物から採れたものを使っているのだ。
ついでにこの植物が留守の間の看守の役割も担っているのでセ○ムにお世話にならなくても安心である。
「それではー、お疲れさまー、明日もよろしくですー」
わさわさと揺れる花達に手を振ると森はサロンのドアに鍵をかけ、閉店のカードを下げた。
ポーン
と、フロアのエレベーターから到着音が鳴った。
「あらー?」
こんな遅くにこの階層に止まるのは珍しい。
がこん、と扉が開くと中に制服姿の少女が立っていた。
「あらあらー……モナカちゃん?」
「……」
「……モナカちゃーん?」
近頃常連になった少女の思わぬ訪問に驚きつつ声をかけてみるが、美香は何も答えない。
「……」
ただ、無表情でじっと俯いて立っている。
ピチャン……ピチャン……
水音で気付いた、よく見てみると全身がずぶ濡れで前髪やスカートから水滴が滴っている。
どうやら雨の中を傘もささずに歩いて来たらしい。
「もしも〜し?」
「……あっ……」
千佳子が目の前で手をぱたぱたと振って見せるとようやく目を瞬かせて千佳子の事を見た。
「……あれ……あっ……お店、あの……もう閉店ですよね?すいません」
濡れた髪を撫でつけながら美香は我に帰った様子で森に謝り始める。
そんな美香の髪に森はそっと触れる、芯まで冷えきっている。
「風邪をー、引いてしまいますよー?」
「ごめんなさい、すぐに帰って……」
「閉店はー、もう少し先にしますねー」
「え?」
そう言うと森は店のドアにかかっていた閉店のカードを取り外す。
「どうぞー」
「いえいえいえ、悪いですそんな……」
「お客さんをそのまま帰らせてー、風邪引かせちゃったらー、マッサージ屋さん失格ですからー」
「で、でも」
「いいですからー、はいはいー」
遠慮しようとする美香を森はにこにこしながらドアの中に押し込んでしまう。
・
・
・
美香はバスローブ姿でほう、と息をついた。
手には温かいハーブティーの入ったカップを持っている。
「落ち着きましたかー?」
「ありがとうございます、本当に……」
あの後、森は恐縮する美香を半ば強引にシャワールームに押し込んでとりあえず温まるように言いつけた。
いつものように間延びした優しい口調だったが何やら有無を言わさぬ迫力が感じられて美香は言われるままにシャワーを浴び、こうしてお茶までご馳走になってしまった。
「あの……お代は……」
「いいんですよー、これはサービスということでー」
「……すいません」
美香は俯く。
しばしの沈黙が続いた。
しゅんしゅんとストーブにかかったポットから蒸気の上がる音がし、窓からは変わらずぱたぱたと雨音がする。
それらの音と店に漂ういつもの森の香りで美香の心も少しづつ落ち着いていった。
「何かー、あったんですかー?」
さりげなく森は聞く。
「はい……」
美香はカップをさすりながら小さな声で言う。
「私……このお仕事……モデル……やめたいって思ってます……」
「あら〜……そうなんですかー」
「たくさん良くしてもらって……お給料も不相応なくらいに貰って……ちょっと人気なんかも出ちゃって……それは、嬉しいんですけれども……」
森はにこにこしながら美香の話に耳を傾ける。
「やっぱり進路の事とか……真面目に考える時期になってきて……そうなると、勉強とか……忙しくなってきちゃいますし……」
「うんうん」
「モデルも本業でやって行きたいという程には……情熱が持てているかというと……そうとは言えなくて……」
森はそっと空になったカップを美香から受け取った。
「あ、すいません……」
カップを洗い場に持って行きながら森はちょっとため息をついてみせる。
「う〜ん、やっぱり私じゃダメかしらー」
「……はい?」
「本当の悩みはー、あまり人には言えないかもですけどー」
「……」
「親しい人よりもー、あまり付き合いの深くない人とかの方がー……例えば私とかー?」
「いえ、そんな……」
「ぽろぽろーっと言っちゃおうってならないかなー?」
「……」
「モナカちゃんは、好きな人はいないー?」
この質問はマッサージを受けながらの雑談の中で何度か聞かれた事だ。
「まだいないですね……今はそれよりも色々と……する事が多くてあまりそういう事考えられなくて……」
美香も何度か同じ返答を返した。今回も同じ答えを返す。
「むむ〜」
森は何故か首を傾げて困った顔になる。
椅子から立ち上がるとそっと美香の手を取って立ち上がらせる。
「あの……?」
「ちょっとー、予定を早めてー、スペシャルコースしちゃいましょうかー」
「スペシャルコース?」
森はにこっと笑ってみせる。。
「モナカちゃんはー、色々溜め込んじゃってますからー、スペシャルマッサージでー、老廃物と一緒に流しちゃいましょー」
「え、あ、あの、お代……」
「さーびすさーびす〜♪」
「いえあの、そこまでは、ちょっ」
森はシャワー室に押し込んだ時と同ように強引にマッサージルームに美香を引っ張り込んでしまった。
・
・
・
(……ちょっと、いつもと違う香り……)
部屋に通された美香は台に上半身裸でうつ伏せの状態になっていた。
相変わらず周囲はジャングルのように緑に囲まれ、アロマの香りがする。
その香りがいつもと少し違うように感じた、いつもは爽やかな森の香りだが、今回はもう少し果実に近いような甘い匂いがする。
「落ち着いてーくださいねぇー」
美香の真っ白な背中に軽いマッサージを施すいつもの森の声もちょっと違う気がする、何となく、だが。
「つらいことー、たくさんありますよねー」
「そうですね……」
いつもの心地よさにうっとりとなりながら美香は答える。
「とくにー、モナカちゃんくらいの年頃だとー、色々ありますからね〜」
「ええ……」
「わたしもー若い頃はいっぱい悩んだんですよー、悩み事なさそうってー、言われますけどねー」
「なさそうに見えますね……」
「あー、それはひどいですー」
「んふふ……森さん、若い頃って言うほどお年じゃないじゃないですか……」
「いえいえ〜、こう見えてーなかなかに〜……具体的な数字はー企業秘密ですけどねー」
「ふふ……」
森はこう見えてさりげない会話が巧みだ、合わせてついリラックスしてしまう。
「……森さんは、結婚してるんですか?」
「探してはいるんですけどねー」
「へえ……森さんくらい美人だったらいくらでも捕まりそうなのに……」
「モナカちゃんこそー、作らないんですかー?こいびとー」
「……」
これ関係の話はいつも適当に誤魔化している。
「……」
美香は何とも答えずに黙り込んだ。森もそれ以上は聞かずに黙って美香の身体を解していく。
「……」
「……」
「……森さん……」
「はいー?」
「人を好きになるって……どういう事なんでしょうか」
「うーん、大きな質問ですねー……人によって色々ですねー」
「……正しい人の愛し方って……あるんでしょうか……」
森は美香の顔を見る、美香は薄目を開けて虚空を見つめている。
「その人の幸せを願うのが、正しい愛し方なんでしょうか……」
「う〜ん……そればかりじゃないと思いますけどねー」
「例えば」
美香は感情のない声で言う。
「その人を傷付けてでも手に入れたいっていう思いは、その人の事を好きって言えるんでしょうか」
「むずかしいですねー」
「私、兄のことが好きなんです」
さらりと、何でもないことのように美香は言った。
「あらー、そうなんですかー」
「血の繋がった兄なんです、変ですよね」
「おかしいことじゃないですよー」
森は気付く、美香の背中がこわばって固くなっている。
「兄とセックスしたいって思ってもですか」
「ふふ……」
そのこわばりを解きほぐそうとしながら森は微笑む。
「おかしくないですよー」
「おかしい事です」
美香の声には相変わらず感情がこもらない。
「おかしい事だって世間では定理されてます」
表情も虚ろで目に光がない。
「民法七百三十四条」
「はいー?」
「「直系血族、又は三親等内の傍系血族の間での婚姻は認められていない」って、法律で決まってる事なんです」
「物知りですねー」
「調べました」
・
・
・
法律とか、常識とか、知らなかった頃は本気で兄と結婚したいって思ってたんです。
だから親から改めて言われた時も信じられませんでした。
小学校高六年生の時だったっけ。
親にリビングに呼び出されて真面目な顔で言われたんです。
「兄妹同士は結婚できないんだよ」って。
信じませんでした、からかってるんだと思いました。
どうしてそんな事を禁じられないといけないのかわからなかったんです。
私が兄の事を好きだっていう感情にどうしてホウリツとか何とか関係のないものが介入してきて「それはダメ」なんて決めるんだろう、って。
納得のいく答えが聞きたくて何度も「どうして?」って聞いてたらとうとう怒られました。
「それは異常な事だ」って。
ショックでした、自分の兄が好きという気持ちは「異常」だって言われたんです。
その場では納得した振りをしてましたけど心の中ではまだ希望を持ってました。
自分の両親がおかしいことを言ってるんだって、そんな理不尽がまかり通るはずがないって。
今思うとそう思い込みたかったんでしょうね。
だからネットとかで調べて、学校で先生に聞いて、法律を知って……。
本当なんだって、兄と結婚する事はできないんだって段々わかってきて……。
そのあたりで私の思いに気付いた両親は一つだった部屋を二人に分けて。
兄と極力接触しないように、会話も交わさないように仕向けたんです。早く兄離れできるようにって。
辛かったけれどわたしも「普通」にならなきゃって我慢したんですけど……。
そうしたら不思議な事が起こったんです、ある日ビルがマッチ箱に見えたんです。
いや、おもちゃ箱かな?何にしろ大きなただの箱のように見えたんです。
親もクラスメイトも先生もはりぼての人形みたいに見えて、人間と喋ってる気がしない感じがして……。
離人症、とか、現実感喪失症候群とかそういう病気になったらしいです。うつ病の一種……みたいな。
兄は多分知らないと思います、親に説明されてませんでしたから。
中学二年くらいの頃だったかな、その年齢の子だと意外と珍しくないらしいです。
でも私の場合は症状が酷くて学校の後にカウンセリングとか受けて……それでも中々治らなくって……。
そこで先生が原因を探ったんです「何か長期に渡ってストレスを受けるような事をしていませんか」って。
分かりきった原因でした。
渋々両親が久しぶりに兄とちゃんと会わせてくれたんです、説明されてない兄には何が何だかわからなかったでしょうけど……。
そこで、ああ、恥ずかしいな、兄さん忘れてくれてないかな。忘れてないだろうなあ……。
兄に会った瞬間、ぱあっ……って視界が晴れたみたいになって……こんなに会いたかったんだって、会えなくて本当に辛かったんだって自分で初めてわかって。
わんわん泣き出しちゃって……人前で泣くの嫌いなのに……それだけじゃなくて。
その……お……お、おしっこまで……漏らしちゃって……すごく、大変で、恥ずかしかった……。
・
・
・
森の手のひらに美香の体温が伝わってきた。覗いているうなじまでほんのりと色づいている。
羞恥と、その時の感情を思い起こしているのだろう。虚ろだった目にも恥じらいが浮かんだ。
しかしそれらもすぐ瞳の暗い闇の中に沈み込んでいった。
・
・
・
それ以降はちゃんと節度を持って兄に接するように努めました。
もう、思春期の麻疹みたいな想いは引きずっていない、両親にそうアピールするためです。また引き離されるのは嫌だったので……。
でも兄は一人暮らしを始めてしまって……会える時間がますます減っていって……。
幸い兄はだらしない生活をしていたのでお世話をするって名目でたまに通う事もできたんです。
勿論、両親はいい顔をしませんけど。
私の「病気」が再発しやしないかって……あははっ、再発どころか一生治りようがないんですけどね。
それで私もずっと自分を騙し騙しやってきたんですけど……最近、ますます気持ちが膨らんでくるのがわかるんです。
たまに胸を掻き毟りたくなるような思いに駆られたりするようになってきて……つい、通う頻度が高くなっていって……。
まずいって事は自覚してたんです。
両親の目もそうだけど、兄は大事な受験の最中なんだからあくまで邪魔しない程度に抑えないといけないって……わかってたんですけど……。
……会いたくて……。
それで……今日……とうとう兄に言われちゃいました……もう来るなって……はっきりとは言いませんでしたけど……邪魔だったんだと……思います……。
・
・
・
森の触れている背中が波打った、大きなため息をついたらしい。
「あーあ……言っちゃった……」
「聞かせてもらえてー光栄ですー」
「森さんありがと……」
「はいー?」
「聞いてくれて……あと、肯定してくれて……」
「うふふー……本当にそう思っただけですよ〜、愛を妨げる権利は誰にも何にもありませんからねー」
美香は首を捻って森の方を見た。
「驚きました、結構情熱的なんですね」
「こう見えて私も魔物ですからねー」
「魔物?」
「あっ……えー、女の子はみんな魔物なんですよ〜」
「うふふっ……そう、ですね……」
美香は首を戻してぐったりと力を抜いた。
「ああ……私の体のどこかに……末期の癌でも見つからないかなぁ……」
「は、はいー?」
流石の森も唐突な言葉にびっくりする。
「もしも私が余命いくばくもないってわかったら……将来が無いってわかったら……兄にお願いできるかもしれないじゃないですか……「清い体のまま死にたくない」とか……」
美香はくすくす笑う。
「兄さん、優しくて優柔不断だから押し切れると思うんですよ……それに事の後に私は何も残さずに死ぬ訳ですから後腐れなくて兄さんの迷惑にもならないですし……」
陶酔した表情で美香は言う。
「それとか……隕石とかが降ってきて……あと数日で世界が終わっちゃうってなったら……世界はめちゃくちゃになりますよね……?そうなったら兄妹がどうとか、どうでもいい事になりますよね」
くすくす
「実際そうなったら兄さん怖がって錯乱しちゃうかも……そこで私が優しくしたりしたら……ああ……して、もらえるかも……」
美香は唇を舐めた。
「兄さんに、レイプしてもらえるかも……」
森は感じる、自分が触れている少女の肉体の内面から溢れ出る強烈な欲望、普段知性と理性で覆って外に見せない美香の生の欲望。
それはまるで……。
「狂ってますよね」
美香はまた森の方を見ていた。
泣いていた。
暗い笑みを浮かべながらその目からは涙が溢れてこぼれていた。
「だって、私兄さんの幸せを全然考えてない、相手を思いやるのが愛情なのに、私は兄さんとセックスできるなら皆が不幸になってもいいって思ってる」
「……」
「これって愛情なんて呼べる感情じゃないですよね……?ただの……」
「……」
「狂気なのかも……」
森は笑う、にっこり笑って答える。
「モナカちゃんはー、本当にお兄さんが好きなんですねー……おかしくなっちゃうくらいにー」
「はい……」
美香の目からはらはらと涙が落ちる。
「大好きです、好きすぎて、頭がおかしくなっちゃってるんです」
「もしー、世界が終わったらってー、言ってましたねー?」
「……?」
「うふふー……」
美香は違和感を覚えた。
最初に感じたのは匂い、部屋に満ちていた匂いが変わっている。
いつもと違う微かに果物のような香りが混じる匂いがしていたが、今では濃密と言っていいほどの甘い香りが部屋に満ちている。
「もしー……世界が変わっちゃったらー……どうしますー……?」
そして植物達、確かに観葉植物が大量に設置されていたが、こんなに身体に触れそうなほどに生い茂っていただろうか。
「森……さん……?」
そして、森の変化。
いつもと変わらない微笑を浮かべる森のその柔らかな髪が徐々に徐々に色を変えていくのを美香は見た。
黒髪から緑……いや、鮮やかなエメラルドグリーンに。
そしていつの間にかその身体に周囲の植物が絡みついている。
動いている、植物達が……。
美香は動けない。思考も停止してしまっている。
「もしもモナカちゃんが、人間で無くなったらー……?」
「……?」
「人間でないものになればー……法律は、関係ないですよねー?」
美香の思考が弾けた。
森さんは今何と言ったか。
自分が人間でなくなれば?……自分を人間でないものに森さんはすることができる?
そうしたらどうなる?どうできる?
目の前で起こっている異常事態、常識を超えた事態。常識を壊す事態。
「壊してくれるんですか……?」
美香の一番欲しいものを禁じる「常識」
自分がずっと待ち続けていた事態、待ち続けていたチャンス。
決して来ないと思いながらずっと待ち焦がれていた光。
今、自分はそれを目の前にしているのかもしれない。
美香の体が震え始める。
恐怖でも怯えでもない、高揚からだ。
そんな美香の思考を見透かしているように森は微笑んでそっと美香の頬を撫でる。
「お兄さんとー、愛し合える身体になりませんかー?」
「なります」
一秒も迷わず答えた。
「もう、戻れませんよー?」
「構いません」
止まっていた涙がまた新しく溢れ出す。
「変えてお願い……何を引き換えにしてもいいから……いらないんです……兄さん以外は何も……」
森はよしよし、と美香の頭を撫でてやる。
「それではー「スーパー☆ラブボディコース」ですねー」
「……コースがあるんだ……」
買い物から帰った義朗は玄関に学生靴があるのを見て美香が部屋にいることを悟った。
出かけている時に入れ違いで訪れたのだろう。美香には合鍵を渡しているのでそういう場合は先に部屋に入っている事も珍しくない。
(大丈夫なのかあいつ……)
人の心配ができるような身分ではないのだが思わずそう考える。近頃美香が義朗の元を訪れる頻度が明らかに増えてきている。
そうして掃除やら炊事やら義朗の世話を焼いていく、以前からたまに顔を出す事はあったがここの所は通い詰めていると言って過言でない。
「暇だから」と美香はいつも言う、しかしそんなにいつも暇なはずはない。
成績がいい美香は勉強も真面目にしているし人付き合いも多い、仕事の方もますます人気が出てきて忙しくないはずはないのだ。
「……」
「すう……すう……」
部屋に上がると美香が布団の上で身体を丸めて寝息を立てていた。
テレビがついている所を見ると部屋を片付けた後も義朗が帰ってこないのでテレビでも見て待っていようと考えたのだろう。
「ほら見ろやっぱ疲れてるんじゃないか……」
ひとりごちながら毛布をかけてやる。
(ありがたいけど……コイツのためにならないよな……)
正直助かっている、だが疲れている美香の負担になっているのだとしたらそれに甘えるのは戸惑われる、いや、すぐに遠慮するべきなのだろう。
(でも……なあ……)
助かっているのは食事や身の回りの世話ばかりではない。精神的な面でも美香には大きく救われているのだ。
受験は一人の戦いだ、どうしても孤独になりがちで精神的なストレスが大きい。
誰か腹を割って話せる友人か受験仲間でもいればいいのだろうが生憎義朗に親しい友人はいない。
最大の助けになってくれるはずの両親はもはや自分の事を諦め気味で顔を合わせるのも辛い。
実質美香の訪問が唯一の心の支えと言って差し支えない。
その美香に「もう来なくていい」と言うのは辛い、何より自分が苦しい。
ワハハハハ
考え込む義朗の思考を現実に戻したのはテレビから聞こえる芸人の笑い声だった。
気付けば寝ている美香のそばに立ち尽くしてぼんやりとしていた、これでは美香の言う通り怪しい兄だ。
「んん……んぅ……」
寝返りをうつ美香を見てどきっとする、みじろぎした拍子に胸元がはだけてブラが見えている。
咳払いをしてそっと胸元を直してやる。
「……」
眩しい、眩しいくらいに白い肌だ、ミルクを練り上げて出来ているんじゃないだろうか。
(……エステ、続けてるんだっけか)
確かにその話を聞いた時から美香は更に綺麗さに磨きをかけている、そりゃあ人気も出るだろう。
それは肌の色艶や髪質だけの問題ではない、何か、全身に纏う雰囲気が少しづつ変化している気さえする、妖艶、というか……。
気付けば胸元を直してやった義朗の指は美香の髪を払いのけてその頬に触れていた。
吸い付く感触が指に伝わる。
その心地いい感触をもっと楽しもうと指が徐々に頬を滑り降り、首筋に届く、なんて滑らかな感触だろう。
「んー……ん……」
と、美香がくすぐったそうにみじろぎした、我に返って慌てて指を引っ込める。
「んんぅ……んふふ……」
何の夢を見ているのか口元に微笑が浮かぶ。
義朗は呆然として立っていた、呆然として美香のその笑顔を見た後に視線を下に向けた。
はち切れんばかりになってズボンを押し上げる自分のモノが見えた。
(……嘘だろ)
もう一度美香の方を見る、起きている時には見せないあどけない表情。
「……」
記憶が遡る。
自分が何歳の時か覚えていない、でもベッドの中で眠る赤ん坊の美香を覗き込んだ時の事をよく覚えている。
こんなに人形みたいに小さな生き物がやがてはお父さんやお母さんみたいに大きくなるというのがすごく不思議だと思った。
子供ながらに頑張ろう、と思った事も覚えている。
自分はお兄ちゃんになるんだ、妹を守ってやるんだ、と。
もう一度見下ろしてみる。
下半身に蠢いているのはむき出しの獣欲。
あどけない美香の、妹の顔を見て、性欲を覚えている。
性欲を。
義朗の全身からどっと冷たい汗が吹き出た。
・
・
・
(……寝ちゃってたや)
美香は布団から身体を起こして目をごしごしと擦った。
「んー……」
何かとてもいい夢を見ていた気がする。内容は思い出せないが……。
部屋を見回してみると机に向かう義朗の背中があった。
ちゃぶ台の上には空になったカップ麺が置かれている。
「もう夕飯食べたの?」
「ああ」
振り返らずに義朗は答える。
「起こしたら作ってあげたのに」
「ああ」
「……?」
美香は違和感を覚える。
「兄さんどうかした?」
「なあ、美香」
「うん?」
「もうここには来るな」
ずっと振り返らないまま義朗は言った。
「何で?」
「お前も忙しいだろ」
「そうでもないよ」
「疲れて寝てただろ」
「ちょっと昨日寝るの遅かっただけ、それに私兄さんと違って要領いいし?」
ばりばりと義朗は頭を掻いた。
「父さんや母さんも怒るだろ」
「あの人らが怒ろうがどうしようが私に関係ないよ」
義朗はまた頭をばりばり掻いた。
「お前がいると俺の勉強だって進まないんだよ……」
おかしい、美香は義朗の後ろ姿をじっと見た。
「変だよ兄さん」
「変じゃっ……あの、なあ……」
義朗の手はばりばりと止まらない、悩んでいる時の癖、それも深刻に。
義朗は机から振り返った。
ひどく辛そうな顔をしていた、無理に何かを押し込めているような表情だ。
「とにかく……ここにはもう来るな、俺は大丈夫だから……」
「全然大丈夫そうに見えない」
「あのなあっ!!」
義朗は突然大声を出す、美香は動じない。
「俺はっ……俺はなあ!人の役に立てるような人間にはなれないかもしれないけど……!」
頭を抱えながら言う。
「せめてっ……せめて人さまに迷惑をかけないように……!迷惑をかけない人間にっ……!」
その後も何かを続けようとしていたが、結局言葉が見つからない様子で義朗はくしゃくしゃの頭をもっとくしゃくしゃにする。
「……なにそれ」
義朗が顔を上げると美香はじっと義朗を見ていた。
「その「人さま」って、私のこと?」
「そう、だ」
「家族じゃん」
「いいから!!出て行けよ!!」
「……」
義朗は顔を隠すように覆った。
「すまん……大声出して……でもな、とにかくもう来ないでいい、大丈夫だから……俺は本当に大丈夫だから……」
「……」
「……」
「……わかった」
美香はそう言うとごそごそと身支度を始める、義朗は項垂れたまま美香の方を見ることができない。
足音が玄関の方へ移動し、靴を履く音がする。
「……」
「兄さん」
声をかけられてやっと顔を上げる。
「無理しないでね、いつでも電話して」
美香はいつもと変わらない表情で手を振った、義朗は力なく手を振り返す。
バタン
ドアの締まる音と共にいつもの静寂が帰ってくる、しかし義朗にはいつもよりもずっと重い静寂に感じられた。
どうして自分はこうなのだろう、もっとうまい言い方はなかったのか。声を荒げる必要があっただろうか。
美香は大人だ、親切心でやっている事を怒鳴られるという理不尽な対応をされたというのに怒りもせずにこちらを気遣ってさえくれた。
比べて自分は嫌になるくらい子供だ。
だけど。
子供だろうと何だろうと今の自分は美香に世話を焼いてもらう資格はない。
自分の意志の弱さは嫌になるくらい知っている。これから先ますます綺麗になっていく妹に対して「間違い」を犯さない自信はない。
自分が「そういう人間」だとわかってしまった。
もし「間違い」が起こってしまったなら、それは美香の心にどれほど大きな影を落す事になるだろう。
「……ミカ……」
義朗は机に向かう、手は動かない、目には参考書の内容はおろか白紙のノートすら映っていない。
ミカ
ミカ……お前にはきっと素敵な人生が待っている、きっと皆に愛される、素敵な人と出会って幸せな結婚が出来る。
俺とは違う。
俺なんかに気を取られないで欲しい、躓かないで欲しい、真っ直ぐに歩いて欲しい、俺はお前の幸せを手伝う事はできない。
だからせめて邪魔をしないようにするしか出来ない。
俺は、
俺はもう駄目みたいだ。
すまない、ミカ、こんな兄ですまない。
ごめんな、ごめんよ。
・
・
・
「ん〜〜〜〜今日もよく頑張りましたぁ〜〜〜〜」
「サロン・アルラウネ」のマッサージ師、森千佳子(もり ちかこ)はぐいぐいと伸びをすると閉店準備を始めた。
窓の外を見てみるとぱたぱたと雨の粒がぶつかって音を立てている。天気予報は外れのようだ。
「みんなにはちょうどいいですねー」
つんつんと店内を飾る花を指でつつくとその花は頷くように揺れて……。
ゾロゾロゾロ……。
いや、揺れているのではなく実際に頷いている、店内を覆うように生い茂っている草木がその胴体をゆっくりと動かしているのだ。
実は部屋に色とりどりに配置されている花達は沢山の種類がある訳ではなく、全てが一つの樹木から生えているものだ。
壁や地面に埋め込まれていて外見にはわからないが、この部屋は一つの大きな魔界植物にすっぽりと包まれた形になっている。
店で使われている香油やローション、薬品の類はほとんどこの魔界植物から採れたものを使っているのだ。
ついでにこの植物が留守の間の看守の役割も担っているのでセ○ムにお世話にならなくても安心である。
「それではー、お疲れさまー、明日もよろしくですー」
わさわさと揺れる花達に手を振ると森はサロンのドアに鍵をかけ、閉店のカードを下げた。
ポーン
と、フロアのエレベーターから到着音が鳴った。
「あらー?」
こんな遅くにこの階層に止まるのは珍しい。
がこん、と扉が開くと中に制服姿の少女が立っていた。
「あらあらー……モナカちゃん?」
「……」
「……モナカちゃーん?」
近頃常連になった少女の思わぬ訪問に驚きつつ声をかけてみるが、美香は何も答えない。
「……」
ただ、無表情でじっと俯いて立っている。
ピチャン……ピチャン……
水音で気付いた、よく見てみると全身がずぶ濡れで前髪やスカートから水滴が滴っている。
どうやら雨の中を傘もささずに歩いて来たらしい。
「もしも〜し?」
「……あっ……」
千佳子が目の前で手をぱたぱたと振って見せるとようやく目を瞬かせて千佳子の事を見た。
「……あれ……あっ……お店、あの……もう閉店ですよね?すいません」
濡れた髪を撫でつけながら美香は我に帰った様子で森に謝り始める。
そんな美香の髪に森はそっと触れる、芯まで冷えきっている。
「風邪をー、引いてしまいますよー?」
「ごめんなさい、すぐに帰って……」
「閉店はー、もう少し先にしますねー」
「え?」
そう言うと森は店のドアにかかっていた閉店のカードを取り外す。
「どうぞー」
「いえいえいえ、悪いですそんな……」
「お客さんをそのまま帰らせてー、風邪引かせちゃったらー、マッサージ屋さん失格ですからー」
「で、でも」
「いいですからー、はいはいー」
遠慮しようとする美香を森はにこにこしながらドアの中に押し込んでしまう。
・
・
・
美香はバスローブ姿でほう、と息をついた。
手には温かいハーブティーの入ったカップを持っている。
「落ち着きましたかー?」
「ありがとうございます、本当に……」
あの後、森は恐縮する美香を半ば強引にシャワールームに押し込んでとりあえず温まるように言いつけた。
いつものように間延びした優しい口調だったが何やら有無を言わさぬ迫力が感じられて美香は言われるままにシャワーを浴び、こうしてお茶までご馳走になってしまった。
「あの……お代は……」
「いいんですよー、これはサービスということでー」
「……すいません」
美香は俯く。
しばしの沈黙が続いた。
しゅんしゅんとストーブにかかったポットから蒸気の上がる音がし、窓からは変わらずぱたぱたと雨音がする。
それらの音と店に漂ういつもの森の香りで美香の心も少しづつ落ち着いていった。
「何かー、あったんですかー?」
さりげなく森は聞く。
「はい……」
美香はカップをさすりながら小さな声で言う。
「私……このお仕事……モデル……やめたいって思ってます……」
「あら〜……そうなんですかー」
「たくさん良くしてもらって……お給料も不相応なくらいに貰って……ちょっと人気なんかも出ちゃって……それは、嬉しいんですけれども……」
森はにこにこしながら美香の話に耳を傾ける。
「やっぱり進路の事とか……真面目に考える時期になってきて……そうなると、勉強とか……忙しくなってきちゃいますし……」
「うんうん」
「モデルも本業でやって行きたいという程には……情熱が持てているかというと……そうとは言えなくて……」
森はそっと空になったカップを美香から受け取った。
「あ、すいません……」
カップを洗い場に持って行きながら森はちょっとため息をついてみせる。
「う〜ん、やっぱり私じゃダメかしらー」
「……はい?」
「本当の悩みはー、あまり人には言えないかもですけどー」
「……」
「親しい人よりもー、あまり付き合いの深くない人とかの方がー……例えば私とかー?」
「いえ、そんな……」
「ぽろぽろーっと言っちゃおうってならないかなー?」
「……」
「モナカちゃんは、好きな人はいないー?」
この質問はマッサージを受けながらの雑談の中で何度か聞かれた事だ。
「まだいないですね……今はそれよりも色々と……する事が多くてあまりそういう事考えられなくて……」
美香も何度か同じ返答を返した。今回も同じ答えを返す。
「むむ〜」
森は何故か首を傾げて困った顔になる。
椅子から立ち上がるとそっと美香の手を取って立ち上がらせる。
「あの……?」
「ちょっとー、予定を早めてー、スペシャルコースしちゃいましょうかー」
「スペシャルコース?」
森はにこっと笑ってみせる。。
「モナカちゃんはー、色々溜め込んじゃってますからー、スペシャルマッサージでー、老廃物と一緒に流しちゃいましょー」
「え、あ、あの、お代……」
「さーびすさーびす〜♪」
「いえあの、そこまでは、ちょっ」
森はシャワー室に押し込んだ時と同ように強引にマッサージルームに美香を引っ張り込んでしまった。
・
・
・
(……ちょっと、いつもと違う香り……)
部屋に通された美香は台に上半身裸でうつ伏せの状態になっていた。
相変わらず周囲はジャングルのように緑に囲まれ、アロマの香りがする。
その香りがいつもと少し違うように感じた、いつもは爽やかな森の香りだが、今回はもう少し果実に近いような甘い匂いがする。
「落ち着いてーくださいねぇー」
美香の真っ白な背中に軽いマッサージを施すいつもの森の声もちょっと違う気がする、何となく、だが。
「つらいことー、たくさんありますよねー」
「そうですね……」
いつもの心地よさにうっとりとなりながら美香は答える。
「とくにー、モナカちゃんくらいの年頃だとー、色々ありますからね〜」
「ええ……」
「わたしもー若い頃はいっぱい悩んだんですよー、悩み事なさそうってー、言われますけどねー」
「なさそうに見えますね……」
「あー、それはひどいですー」
「んふふ……森さん、若い頃って言うほどお年じゃないじゃないですか……」
「いえいえ〜、こう見えてーなかなかに〜……具体的な数字はー企業秘密ですけどねー」
「ふふ……」
森はこう見えてさりげない会話が巧みだ、合わせてついリラックスしてしまう。
「……森さんは、結婚してるんですか?」
「探してはいるんですけどねー」
「へえ……森さんくらい美人だったらいくらでも捕まりそうなのに……」
「モナカちゃんこそー、作らないんですかー?こいびとー」
「……」
これ関係の話はいつも適当に誤魔化している。
「……」
美香は何とも答えずに黙り込んだ。森もそれ以上は聞かずに黙って美香の身体を解していく。
「……」
「……」
「……森さん……」
「はいー?」
「人を好きになるって……どういう事なんでしょうか」
「うーん、大きな質問ですねー……人によって色々ですねー」
「……正しい人の愛し方って……あるんでしょうか……」
森は美香の顔を見る、美香は薄目を開けて虚空を見つめている。
「その人の幸せを願うのが、正しい愛し方なんでしょうか……」
「う〜ん……そればかりじゃないと思いますけどねー」
「例えば」
美香は感情のない声で言う。
「その人を傷付けてでも手に入れたいっていう思いは、その人の事を好きって言えるんでしょうか」
「むずかしいですねー」
「私、兄のことが好きなんです」
さらりと、何でもないことのように美香は言った。
「あらー、そうなんですかー」
「血の繋がった兄なんです、変ですよね」
「おかしいことじゃないですよー」
森は気付く、美香の背中がこわばって固くなっている。
「兄とセックスしたいって思ってもですか」
「ふふ……」
そのこわばりを解きほぐそうとしながら森は微笑む。
「おかしくないですよー」
「おかしい事です」
美香の声には相変わらず感情がこもらない。
「おかしい事だって世間では定理されてます」
表情も虚ろで目に光がない。
「民法七百三十四条」
「はいー?」
「「直系血族、又は三親等内の傍系血族の間での婚姻は認められていない」って、法律で決まってる事なんです」
「物知りですねー」
「調べました」
・
・
・
法律とか、常識とか、知らなかった頃は本気で兄と結婚したいって思ってたんです。
だから親から改めて言われた時も信じられませんでした。
小学校高六年生の時だったっけ。
親にリビングに呼び出されて真面目な顔で言われたんです。
「兄妹同士は結婚できないんだよ」って。
信じませんでした、からかってるんだと思いました。
どうしてそんな事を禁じられないといけないのかわからなかったんです。
私が兄の事を好きだっていう感情にどうしてホウリツとか何とか関係のないものが介入してきて「それはダメ」なんて決めるんだろう、って。
納得のいく答えが聞きたくて何度も「どうして?」って聞いてたらとうとう怒られました。
「それは異常な事だ」って。
ショックでした、自分の兄が好きという気持ちは「異常」だって言われたんです。
その場では納得した振りをしてましたけど心の中ではまだ希望を持ってました。
自分の両親がおかしいことを言ってるんだって、そんな理不尽がまかり通るはずがないって。
今思うとそう思い込みたかったんでしょうね。
だからネットとかで調べて、学校で先生に聞いて、法律を知って……。
本当なんだって、兄と結婚する事はできないんだって段々わかってきて……。
そのあたりで私の思いに気付いた両親は一つだった部屋を二人に分けて。
兄と極力接触しないように、会話も交わさないように仕向けたんです。早く兄離れできるようにって。
辛かったけれどわたしも「普通」にならなきゃって我慢したんですけど……。
そうしたら不思議な事が起こったんです、ある日ビルがマッチ箱に見えたんです。
いや、おもちゃ箱かな?何にしろ大きなただの箱のように見えたんです。
親もクラスメイトも先生もはりぼての人形みたいに見えて、人間と喋ってる気がしない感じがして……。
離人症、とか、現実感喪失症候群とかそういう病気になったらしいです。うつ病の一種……みたいな。
兄は多分知らないと思います、親に説明されてませんでしたから。
中学二年くらいの頃だったかな、その年齢の子だと意外と珍しくないらしいです。
でも私の場合は症状が酷くて学校の後にカウンセリングとか受けて……それでも中々治らなくって……。
そこで先生が原因を探ったんです「何か長期に渡ってストレスを受けるような事をしていませんか」って。
分かりきった原因でした。
渋々両親が久しぶりに兄とちゃんと会わせてくれたんです、説明されてない兄には何が何だかわからなかったでしょうけど……。
そこで、ああ、恥ずかしいな、兄さん忘れてくれてないかな。忘れてないだろうなあ……。
兄に会った瞬間、ぱあっ……って視界が晴れたみたいになって……こんなに会いたかったんだって、会えなくて本当に辛かったんだって自分で初めてわかって。
わんわん泣き出しちゃって……人前で泣くの嫌いなのに……それだけじゃなくて。
その……お……お、おしっこまで……漏らしちゃって……すごく、大変で、恥ずかしかった……。
・
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森の手のひらに美香の体温が伝わってきた。覗いているうなじまでほんのりと色づいている。
羞恥と、その時の感情を思い起こしているのだろう。虚ろだった目にも恥じらいが浮かんだ。
しかしそれらもすぐ瞳の暗い闇の中に沈み込んでいった。
・
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それ以降はちゃんと節度を持って兄に接するように努めました。
もう、思春期の麻疹みたいな想いは引きずっていない、両親にそうアピールするためです。また引き離されるのは嫌だったので……。
でも兄は一人暮らしを始めてしまって……会える時間がますます減っていって……。
幸い兄はだらしない生活をしていたのでお世話をするって名目でたまに通う事もできたんです。
勿論、両親はいい顔をしませんけど。
私の「病気」が再発しやしないかって……あははっ、再発どころか一生治りようがないんですけどね。
それで私もずっと自分を騙し騙しやってきたんですけど……最近、ますます気持ちが膨らんでくるのがわかるんです。
たまに胸を掻き毟りたくなるような思いに駆られたりするようになってきて……つい、通う頻度が高くなっていって……。
まずいって事は自覚してたんです。
両親の目もそうだけど、兄は大事な受験の最中なんだからあくまで邪魔しない程度に抑えないといけないって……わかってたんですけど……。
……会いたくて……。
それで……今日……とうとう兄に言われちゃいました……もう来るなって……はっきりとは言いませんでしたけど……邪魔だったんだと……思います……。
・
・
・
森の触れている背中が波打った、大きなため息をついたらしい。
「あーあ……言っちゃった……」
「聞かせてもらえてー光栄ですー」
「森さんありがと……」
「はいー?」
「聞いてくれて……あと、肯定してくれて……」
「うふふー……本当にそう思っただけですよ〜、愛を妨げる権利は誰にも何にもありませんからねー」
美香は首を捻って森の方を見た。
「驚きました、結構情熱的なんですね」
「こう見えて私も魔物ですからねー」
「魔物?」
「あっ……えー、女の子はみんな魔物なんですよ〜」
「うふふっ……そう、ですね……」
美香は首を戻してぐったりと力を抜いた。
「ああ……私の体のどこかに……末期の癌でも見つからないかなぁ……」
「は、はいー?」
流石の森も唐突な言葉にびっくりする。
「もしも私が余命いくばくもないってわかったら……将来が無いってわかったら……兄にお願いできるかもしれないじゃないですか……「清い体のまま死にたくない」とか……」
美香はくすくす笑う。
「兄さん、優しくて優柔不断だから押し切れると思うんですよ……それに事の後に私は何も残さずに死ぬ訳ですから後腐れなくて兄さんの迷惑にもならないですし……」
陶酔した表情で美香は言う。
「それとか……隕石とかが降ってきて……あと数日で世界が終わっちゃうってなったら……世界はめちゃくちゃになりますよね……?そうなったら兄妹がどうとか、どうでもいい事になりますよね」
くすくす
「実際そうなったら兄さん怖がって錯乱しちゃうかも……そこで私が優しくしたりしたら……ああ……して、もらえるかも……」
美香は唇を舐めた。
「兄さんに、レイプしてもらえるかも……」
森は感じる、自分が触れている少女の肉体の内面から溢れ出る強烈な欲望、普段知性と理性で覆って外に見せない美香の生の欲望。
それはまるで……。
「狂ってますよね」
美香はまた森の方を見ていた。
泣いていた。
暗い笑みを浮かべながらその目からは涙が溢れてこぼれていた。
「だって、私兄さんの幸せを全然考えてない、相手を思いやるのが愛情なのに、私は兄さんとセックスできるなら皆が不幸になってもいいって思ってる」
「……」
「これって愛情なんて呼べる感情じゃないですよね……?ただの……」
「……」
「狂気なのかも……」
森は笑う、にっこり笑って答える。
「モナカちゃんはー、本当にお兄さんが好きなんですねー……おかしくなっちゃうくらいにー」
「はい……」
美香の目からはらはらと涙が落ちる。
「大好きです、好きすぎて、頭がおかしくなっちゃってるんです」
「もしー、世界が終わったらってー、言ってましたねー?」
「……?」
「うふふー……」
美香は違和感を覚えた。
最初に感じたのは匂い、部屋に満ちていた匂いが変わっている。
いつもと違う微かに果物のような香りが混じる匂いがしていたが、今では濃密と言っていいほどの甘い香りが部屋に満ちている。
「もしー……世界が変わっちゃったらー……どうしますー……?」
そして植物達、確かに観葉植物が大量に設置されていたが、こんなに身体に触れそうなほどに生い茂っていただろうか。
「森……さん……?」
そして、森の変化。
いつもと変わらない微笑を浮かべる森のその柔らかな髪が徐々に徐々に色を変えていくのを美香は見た。
黒髪から緑……いや、鮮やかなエメラルドグリーンに。
そしていつの間にかその身体に周囲の植物が絡みついている。
動いている、植物達が……。
美香は動けない。思考も停止してしまっている。
「もしもモナカちゃんが、人間で無くなったらー……?」
「……?」
「人間でないものになればー……法律は、関係ないですよねー?」
美香の思考が弾けた。
森さんは今何と言ったか。
自分が人間でなくなれば?……自分を人間でないものに森さんはすることができる?
そうしたらどうなる?どうできる?
目の前で起こっている異常事態、常識を超えた事態。常識を壊す事態。
「壊してくれるんですか……?」
美香の一番欲しいものを禁じる「常識」
自分がずっと待ち続けていた事態、待ち続けていたチャンス。
決して来ないと思いながらずっと待ち焦がれていた光。
今、自分はそれを目の前にしているのかもしれない。
美香の体が震え始める。
恐怖でも怯えでもない、高揚からだ。
そんな美香の思考を見透かしているように森は微笑んでそっと美香の頬を撫でる。
「お兄さんとー、愛し合える身体になりませんかー?」
「なります」
一秒も迷わず答えた。
「もう、戻れませんよー?」
「構いません」
止まっていた涙がまた新しく溢れ出す。
「変えてお願い……何を引き換えにしてもいいから……いらないんです……兄さん以外は何も……」
森はよしよし、と美香の頭を撫でてやる。
「それではー「スーパー☆ラブボディコース」ですねー」
「……コースがあるんだ……」
15/05/06 09:46更新 / 雑兵
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