連載小説
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優性と劣性
 コトン、コトン、コトン、
最中義朗(もなか よしろう)は机に頬づえを付いてシャーペンで繰り返し白紙のノートの上を突いていた。
白い紙の上には無数の黒い点がばらまかれ、意味を成す文字も図形も書かれていない。
「……はあ」
深くため息をついて義朗はシャーペンを投げ出す。
勉強をしなくてはいけない、浪人生というのはこの世の誰よりも努力しなくてはいけない身分なのだ、白紙のノートの前でため息をついてるような猶予は一秒もない。
だが、意思に反して手も頭も働いてくれない。
自分が受かるビジョンがどうしても浮かばない、勉強しても勉強しても無駄に思える。

四浪

四浪だ、この就職難の時代に、そろそろ人に話しても笑い話にできない領域だ。
そして今も受かれる気が全くしない。
このまま受かれなかったらどうなるんだろう、自分はどうなってしまうんだろう。
真っ暗な谷の上に掛かるぼろぼろの吊り橋の上を歩いているような気分だ、必死に頼りない足場をつぎはぎしながら先に進もうとするが橋はどんどん脆く、細くなっていく。
落ちたらどうなるんだろう、谷の底に落ちたらどうなるんだろう。
どうもこうもない、完全な人生の敗者が一人出来上がるだけだ、誰にも存在価値を認めてもらえない、親にすら認めてもらえないゴミのような……。
「ああ、もう」
ばりばりと頭を掻き毟る、そんな事にならないために今頑張らないといけないんじゃないか、ほら、動かせ、手を動かせ、頭を働かせろ。
……ちくしょう、どうしてこんなに辛い事をしなくちゃいけないんだ……
雑念を捨てろ馬鹿、勉強を……勉強をするんだ。
ばりばりばり
また頭を掻き毟る、机の上のノートに髪の毛が落ちる。
「ああ、くそっ」
髪の毛をゴミ箱に払い落としながら悪態をつく、このままだといつかハゲになってしまう、親父も随分と後退してるしハゲは遺伝だっていうし……。
いやだからまた余計な事を考えてる暇があったら勉強を……。
ばりばりばり

ピンポーン

 思考の堂々巡りに陥っていた義朗を救ったのはアパートの玄関からのインターホンだった。
はっとして室内を見回す。
散らかってはいるがとりあえず見られてまずいものはない。
新聞の勧誘か何かだったら物も言わずにドアを閉めてやろうと思いながらドアを開く。
玄関先に立っていたのは制服姿の一人の少女だった。
マフラーを首に巻き、癖のないロングの黒髪に特徴的に大きなヘッドホンを付けている。
「……お疲れ」
「あ……ミカ?今日来る予定だっけか?」
「予定はなかったけど近くに寄る機会あったからついでに、兄さんどうせまたろくなもの食べてないだろって思って」
そう言って最中美香(もなか みか)は兄の背後の部屋の様子を覗いて顔をしかめる。
「ほらもう、部屋もすぐそんなんになるし……」
ため息をついて玄関に上がる。
「おい勝手に……」
「料理してあげようかと思ってたんだけど?」
手に下げていたスーパーの袋を掲げて美香が言う。
美香の料理の腕前はなかなかのものだ、加えてここの所まともな物を食べていない。
「あ、どうぞどうぞお入りください」
「現金なんだから……」
美香は少し笑って見せる。
(……相変わらず美人だなこいつ……)
美貌、と言っていいだろう。兄としての贔屓目を差し引いても同年代より少し大人びた顔立ちはどんな表情でも様になる。
いつも本当に同じ遺伝子の持ち主だろうかと疑う。
「普段何食べてるのホント」
溜まったゴミ袋を見ながら美香が言う。
「まあ……適当に色々」
「どうせカップ麺とかコンビニ弁当とかそんなんばっかでしょ」
「いいだろ、食いものに時間かけてる余裕ないんだよ」
「身体壊したら元も子もないよ?」
言いながらマフラーとヘッドホンを外してエプロンを身につけて台所に立つ。
「台所、私が前に使ってから一回も使った形跡ないし……忙しいのは知ってるけどさ」
「何作ってくれんの」
「肉じゃが」
「おおう、助かるわ……」
「座って待っててよ」
義朗は言われて勉強机に戻る、しかし台所から聞こえる包丁の音や漂ってくる匂いで集中できない、いや、何がなくとも集中はできないのだが。
結局またシャーペンをとんとんしているうちに料理ができてしまった。
盆の上に乗せられてやってきたのはサンマの塩焼きに肉じゃが、豆腐とわかめの味噌汁、炊いたご飯、スーパーで買ってきた漬物。
味気ない食事ばかりしていた義朗にとっては輝かんばかりに見える品々だ。
「マジで感謝!いただきまっす!」
「がっつかないでよもう……」
猛烈な勢いで食べ始める義朗に苦笑しながら美香は自分の分にも箸をつける。
「御馳走様でした!」
「早いよ、消化に悪いって」
食事を終え、美香が台所で食器を洗う後ろ姿を見ながら義朗はぼんやりと考える。
(劣性遺伝と、優性遺伝……)
いや、別に劣性遺伝というのは「劣った遺伝子」という意味ではなく、次の世代に受け継がれ辛い遺伝の事だと言うのは知っている。
しかし文字通りの「劣った遺伝子」と「優れた遺伝子」というのは間違いなく存在するのではないだろうか、美香の姿を見ているとそんな思いにいつも捕らわれる。
義朗は要領が悪い、小さな頃からずっとそうだ。
何をするにも人よりワンテンポ遅れるし、物覚えも悪い、夢見がちな性格で芯がふわふわしているというのもよく人から指摘される。
容姿も大して優れている訳ではない、というか最近ストレスからやつれ始めているため非常に不健康そうな顔色と顔つきになってきている、おまけに頭を掻く癖から若干髪の生え際が危険な事になってきている。
対して美香は幼い頃より要領がよく、何をしても人並みかそれ以上にこなして見せる、性格もしっかりしている。
小学校の時に皆が泣いて嫌がった予防接種の注射の時も泣き言一つ言わなかったのがとても印象に残っている、ちなみに義朗は仮病を使って学校を休もうとして親に怒られた。
雑誌の読者モデルにスカウトされた時も反対する親を有無を言わさず押し切って結局モデルになってしまった。
そう、モデルである、なんと言っても美香は容姿に優れている。
結構な頻度で仕事が来るようになったらしく、高校生のお小遣いというには少々大きすぎる金額が入るようになってきている。
かといって学業が疎かになっているかというとそうではなく、断る所は断って成績もしっかり上位をキープしているという。
これでは親も黙るしかなかった。
ここの所の自制心が最も両親からの信頼を得ている部分であり、義朗に足りていない部分でもある。
(……きっとあいつは俺みたいにはならないだろうな……受験でも何でもうまくこなして……ああ、やめやめ、比較してても落ち込むばっかりだ)
「お茶入れたよ」
ぐったりしながら勉強机に戻ろうとする義朗をお茶を乗せた盆を持って戻った美香が呼び止める。
「根詰めすぎてもよくないよ、少し休憩しなよ」
「……ああ」
ちゃぶ台に戻ってお茶を受け取った。
「あー……」
と、周囲を見回していた美香が部屋の隅に落ちている雑誌に目を留めてそれを拾い上げた、義朗は内心しまった、と思った。
美香が表紙を飾っているファッション雑誌だ、参考書を買いに行った先の本屋で見かけたのでつい買ってしまった。
「買ったんだコレ、どう?」
今年は○○系で決まり!などの煽り文句に囲まれた表紙の美香は壁に寄りかかって季節のお洒落着に身を包み、小首を傾げてカメラの方を見ている。
本当にカメラ栄えする姿だ。
「よく撮れてる」
「美少女でしょ」
「そりゃいいんだが……ちょっと表情固くないか」
「それがウケいいんだってさ」
中身を読むとそうらしい、「ドライ系女子高生」なんて肩書きを付けられているのを見た時は思わず笑ってしまった。
「こうして見ると印象違うな」
「営業用の顔してるからね」
ずず、とお茶をすする美香。
「でもなあ……」
「うん?」
「ああ、いや」
こうして表紙で固い表情をしている時よりそうしてリラックスしている時の方が可愛く見える、と、思ったのだが自分の妹をベタベタ褒めるのも気持ち悪いと思ったので言葉を濁して別の話題を探す。
「父さん母さんは元気にしてる?」
「いつも通りだよ、あの人らは」
(あの人ら、か……)
義朗は頭を掻く、要領のいい美香だが何故か両親との折り合いだけは悪い、いや、美香が一方的に親を嫌っている様子なのだ。
反抗期なのかもしれないが、どうも何か理由があって嫌っているように義朗には見えるのだ。
「ん……」
と、美香のスマホが振動した。
「もしもし……ん、兄さんのとこ……いいじゃない別に、はいはいはい、わかりましたー」
噂をすればというか、親からの電話だったらしい、まだ相手が喋っている途中だったが美香はさっさと切ってしまう。
「おいおい……ちゃんと話聞けよ」
「言う事わかりきってるんだもん、兄さんの所には行くなって」
「……母さんの言う通りあまり俺のところに頻繁に来なくていいんだぞ、忙しいんだろう?」
「私の勝手でしょ」
機嫌を損ねた様子で美香は立ち上がる。
「勉強の邪魔だって言うなら退散しますよーだ」
「あ、いや、俺は邪魔とは……」
「ま、ホントにいつまでも居座られてちゃ兄さんも勉強できないでしょ、そろそろおいとまするね」
「ああ……」
マフラーとヘッドホンを付けると美香は玄関に立つ。
「じゃあね、無理しないようにね?」
「ああ……メシ、ありがとうな」
「どういたしまして」
手をぱたぱた振ると美香は出て行った。
「……」
部屋はしいんと静まり返る。
(……寂しい、な……そういや、まともに人と会話したの久々だったな……おし、頑張らないと)
義朗は改めて机に向かった。







 「確かに彼女はいいですね、光るものがある」
昼間の喫茶店の席だった。
眼鏡を掛け、髭を蓄えた男とスーツ姿の妙齢の女性がテーブルに広げられた沢山の写真を頭を付き合わせて覗き込んでいる。
「やっぱり吉田(よしだ)君の撮影の手応えとしても彼女が他より抜けている印象なのね?」
「ええ、やっぱり妙子(たえこ)さんの目に間違いはありませんでしたよ」
妙子と呼ばれた女性はルージュを引いた唇を満足気な笑みの形にした。
テーブルの上にあるのは二人の注文したコーヒーカップが二つとと十数枚の写真、色々な服装やポーズを取っている一人の少女……美香を撮影したものだ。
二人はファッション雑誌「デビル」のスタッフ、美香が所属している雑誌だ。
路上で美香という原石を見つけたのが妙子、つまりスカウトしたのが彼女であり、美香の撮影を担当しているのカメラマンが吉田だ
吉田がそのうちの一枚を拾い上げてじっと見る。
「可愛い子はごまんといますけど特に彼女は自己管理ができているのが素晴らしいですね、こういう仕事では一番大事な事ですが彼女くらいの年齢だとそれが一番難しい……しかし……」
手の写真では美香が笑顔を見せている。
「彼女、笑うのが上手ね」
「ええ」
上手、とは言っているが二人の表情は晴れやかではない。
「家庭環境は?」
「特に問題があるようには見えなかったですけどね」
「そう……」
妙子はもう一枚の写真を拾い上げて見る。木陰で憂いを含んだ表情をする美香が映っている。
「こっちが恐らくより彼女の素顔に近い、だから惹きつけられるものがあるのね……」
モデルは笑顔だけではない、様々な表情を売る。
美香はより陰のある表情にこそ魅力があった。それは少々年不相応な魅力と言える。
「家庭環境じゃなくて……彼女……」
写真の中の美香の表情を見ながら妙子は考え込む。
「辛い……とても辛い恋をしたんじゃないかしら」
「どういう根拠ですか?」
「勘」
「だと思ってました」
妙子はいつでも有能だが、時折こういう無根拠な事を言う。
そしてそれが当たっていたりする。
「彼女の目、乾いてるもの」
「ドライ系ってやつですね」
ドライ系女子高生、妙子が美香につけたキャッチコピーだ。
「付けた時はもうちょっとかっこいい意味合いで付けたんだけどね、クールとかそっち寄りの意味で」
妙子はもう一枚の写真を拾う。
写真の中で美香は冷たい目で空を見上げている。
「でも、そんなに長くないけどちょっと付き合うと見えてくるものがあるじゃない?撮影するから比喩でなくよくその人の事を「見る」事になるんだし」
妙子は写真の中の美香の目に見入る。
「もう、一生分の涙を流し尽くしちゃったって目をしてるの」
「僕にはそこまでは分かりかねますけどね……」
「カメラマンの癖に」
「「魔物」の勘は僕には備わってないですからね」
妙子は頬杖をついて考え込む。そんな妙子を見て吉田は苦笑する。
有望とはいえ美香は契約したプロではなく、読者モデルの一人にすぎない。
深く首は突っ込まないのが普通だが「彼女達」はどうもこういった人間を見ると見過ごしておけない習性をしているらしい。
「よし……お節介かもだけど、ちょっとひと押ししてあげますか」







 「……」
美香は手にした紹介状に書かれた店名と目の前にある雑居ビルの看板に書かれている店名を見比べた。
「サロン・アルラウネ」
(……怪しいところじゃないよね?)
美香は常に用心深い。モデルにスカウトされた時も本当は相手にするつもりはなかった。
訳あって思い直した時にもその場では返事をせず、紹介された雑誌が実在するのか、本当に名刺の相手は在籍しているのか、説明に嘘はないか。
できる限りの範囲で調べた結果シロと判断して仕事を受けたのだ。そうして信頼を置いた仕事先が紹介した場所だから信頼できるはずだ。
少しばかりの不安を胸に美香はエレベーターの三階のスイッチを押した。
エレベーターを出てすぐに「サロン・アルラウネ」はあった。
(……森?)
店の印象はそれだった。
店内には沢山の観葉植物が置かれていた、いや、植木に植えられているものだけではなくどう見ても壁から自生しているようにしか見えないもの達。
それらが店外にまで溢れんばかりに生い茂っているのだ。
店内に足を踏み入れるとそれらの植物や花からのむっとするような濃厚な香りが美香を包んだ。
しかし不思議と不快には感じなかった、むしろその香りをもっと嗅ぎたくなるような感じがする。
(アロマかな……すごい凝ったインテリア)
「あらぁ……いらっしゃいませぇ……」
と、店内から声がかかった。見てみると店の奥のカウンターに店員らしき女性が座っている。
美香は少し緊張を解く、店員が男性だったら帰ろうかと思っていた所だった。
「ええとぉ……申し訳ありませんがぁ……当店は会員制でしてぇー……ご予約のないお客様はぁ……」
カウンターに座る店員はウェーブの掛かったふわふわとした髪に優しく目尻の垂れ下がった美しい女性だった。
非常に間延びした喋り方をする。
「はい、予約していた最中美香です」
美香は紹介状を見せながら名乗る。
「あらあら〜〜〜〜そういえば今日でしたねぇー……失礼しましたぁ……いらっしゃいませぇーようこそサロン・アルラウネへぇ……」
美香はぽりぽりと頬を掻いた、ちょっと苦手なタイプかもしれない。
「それではー、こちらにどうぞー」







 「ふう……う……」
数時間後、美香はふらふらと頼りない足取りで帰路についていた。
まだ肌寒い季節なのだが全身は火照り、普段は冷えやすい指先やつま先までぽかぽかと温かい。
整体、マッサージの類を受けたのは初めてだったがこれは正直……。
(プロって……すごい)
おっとりした物腰に少々不安を覚えていたがそこはやはりプロらしく、マッサージが始まると美香自身が意識もしていなかったような体中の凝りを見つけ出した。
そして全てを優しく、しかし徹底して解してくれたのだ。
最初は苦手に感じたあの間延びした口調も夢見心地の状態だと耳に心地よく、加えてあの森のような香りがより陶酔を深くする。
あのアロマはマッサージに使った香油にも入っているらしく、まだ体からあの香りが立ち上るのがわかる。
(いいお店紹介してもらっちゃったかも……でもちょっと……気を付けないと……)
実は心地良すぎて性的な快感に近いものを感じてしまったのも確かだ、変な目で見られてはいけないのでそこは注意しよう、そう思った。
「……」
駅について家の最寄り駅の切符を買おうとする、が、その手が止まった。
(……兄さんに会いたいな)
脈絡もなくぽかん、とそんな考えが浮かんだ。
考える間もなく指は兄の住むアパートの近くの駅の切符を購入していた。







 ピンポーン
机の前で働かない自分の脳みそと苦闘している義朗の耳にインターホンの音が響いた。
(何だ……誰だ……)
目の下に隈が出来た顔、掻き毟ったためぼさぼさになった頭は多分酷く見えるだろうが外見を気にするような心境でもない。
ふらふらと机から立つとドアを開ける。
「お疲れ」
「何だ、またお前か」
「ひどくない?」
「まあ……いいや、上がれよ」
「おじゃましまーす」
美香が部屋に上がってきた時、ふと義朗の鼻をいい匂いが掠めた。
「何だお前、香水付けてるのか?」
「ん?違う違うアロマ油、スタッフの人の紹介でマッサージ店行ってきたんだ」
「マッサージ店?……おい、おい美香」
「何?」
「如何わしい店じゃないだろうなそこ」
「マッサージ店にどんなイメージ持ってんの?」
「いや、しかしその……美香の年で行くようなところでは……」
「大丈夫、店員さんも女の人でマッサージも本当にプロって感じだったよ」
「女性か、よかった……」
「兄さんAVの見すぎ」
「だっ……」
絶句する兄をよそに美香はマフラーとヘッドホンを外すと一人暮らしの狭い部屋に敷かれた義朗の布団にごろん、と寝転がる。
「何しに来たんだ……」
「ん〜……何となく?暇つぶし」
「と……」
父さんと母さんがまた怒るぞ、と忠告しようとしたがまた美香が機嫌を損ねるのが目に見えていたので言うのはやめた、それにどうせ言ったって耳も貸さない。
「邪魔だったら帰るけど?」
「いや、俺も煮詰まっててな……ちょっと気分変えたかったから丁度いい」
これは本当だ、勉強に行き詰まると陥るあの思考のループに入りかけていたところだった。
「茶でも出そうか」
「あたし入れるよ」
「いや、俺が入れるから待ってろ」
そう言って義朗は台所に行った。
「……」
兄の後ろ姿を見送った美香は義朗の枕を抱き締めて顔を埋めた。
「……」
息を吸うと義朗の匂いがする。
「……」
「……」
「……」
「……」
「何やってんだお前」
「兄さん枕臭い、頭洗ってる?」
「ほっとけっての」
二つのマグカップをちゃぶ台に置くと義朗は座布団に座る。向かいに美香も座る。
何となくテレビを付けると昼のワイドショーが流れ始めた。芸能人のだれそれが浮気したという話題でコメンター達が大真面目な顔をして議論している。
義朗はぼんやりとそれを眺めていたが、やはり美香の方から微かに漂うあの香りが気になった。
その美香の方を見てどき、とした。
美香は普段から色白で綺麗な肌をしているが確かに今日はその肌にほんのりと赤みが刺していてより滑らかに見える。
それだけではない、瞳も唇も黒髪もその隙間から覗くうなじもしっとりとした艶を帯びているように見える。
「効果あるでしょ」
「あ、ああ」
テレビの方に視線を向けたまま美香が言った、見ているのを気づかれているとは思ってなかった義朗は思わず動揺する。
「触ってみる?すっごいツヤツヤしてんの」
変わらず視線をテレビに向けたまま美香は袖を引いて手首を露出させるとすっと腕を義朗の方に伸ばした。
「……」
一瞬躊躇したが、必要以上に意識するのも逆に変だと思ったのでその手首を掴んでみる。
しとっ
「おおう」
思わず声を上げてしまった、吸い付くような感触とはこの事か。
「すごいなほんと」
「匂いもいいでしょ」
言われて手首に顔を近付けてみるとほんのりとあの香りがした、いい匂いだ、いつまでも嗅いでいたくなる。
「ふふふふふっ、ちょ、鼻息くすぐったいよ」
「あ、すまん」
腕を引いて掴まれていた箇所を押さえると美香はくすくす笑う。
「兄さん変態っぽい、やだこわいこわい私逃げなきゃ」
「人聞き悪ぃな!?」
「あはは」
笑いながら美香はマフラーとヘッドホンを取って玄関にまで逃げる。
「じゃ、私逃げるね、ばいばい」
「ホントに何しに来たんだお前」
笑いながらドアを閉める美香を義朗は苦笑で見送った。
残ったのは流れるどうでもいいテレビの音声と二つのマグカップ、そして美香の残り香。
「……アホか俺は」
すんすん、とその香りを名残惜しむように鼻を鳴らしている自分に気付いて義朗はまた頭をばりばり掻いた。







 美香は急ぎ足で帰り道を歩いていた。
ずっと、義朗に触れられた手首をさすっている。
その手が小刻みに震えていた、肩も微かに震えている。
「……」
感触を反芻するようににすりすり手首をさすりつづける。
美香はきゅっと指の第二関節を噛んだ。
歯の根まで震えてカチカチと音を立てそうだったからだ。
15/05/05 20:26更新 / 雑兵
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