泣いたらいい
蛍が舞っている。
その蛍達の儚い光の中で二人は並んで座っていた。
香苗の説明は理路整然としていてわかりやすいものだったがどうにも言葉の意味が頭に染み入らず、信夫はただただ蛍の化身のように白い香苗の姿に見とれるばかりだった。
「まあ、大体そういう経緯だ」
「……」
「納得いかないか」
信夫は中空を見つめている、ぼんやりとした表情だ。
「……お前が言うなら本当なんだろう……現実感は沸かないが」
「私が幻覚だと思うかい?見えるし、聞こえるし、話せるだろう?おまけに触れる」
「……リアルな幻覚ならあり得るな……」
「ふうむ、困ったものだ」
香苗は両膝に肘を乗せて頬杖をついて首を捻った。
そうしてまたしばらく二人で黙って浮遊する蛍を眺めた。
「場所が悪い」
「うん?」
唐突に香苗が口を開いた。
「極力人目につかない場所を選んだんだが……この夜の廃工場という非日常的空間が余計に現実感を遠ざけている」
「……?」
「行こう」
「どこへ?」
「現実感のある場所へだ」
・
・
・
「テリヤキバーガーセット、ダブルバーガーセット、お二つともお飲み物はコーラでよろしいですね?」
「はい」
「はーい、少々お待ち下さーい」
店員の快活な声、店内に流れる軽快な流行歌、ポテトの匂い……。
「……どうしてバーガーショップなんだ」
「現実感あるだろう?」
困り顔の信夫とは対照的に香苗はちょっと浮ついた表情だ。
場所は24時間営業のバーガーショップ。二人は廃工場を出て車で都内にまで下りてここに入ったのだ。
確かに廃工場に比べると日常感のある場所であり、深夜でも開いている店といえばここぐらいしかない。
それにしても何というか、白ずくめで幻想的な香苗の姿はこの俗っぽい場所に不釣り合いだ、いや、現実感はあるのだが。
「お待たせしましたー」
「お、来た、来たぞ信夫、席は取ってあるぞ、早く行こう」
「わかったわかった」
トレイがカウンターに置かれると香苗は目を輝かせる、外の食事に連れてきてもらった子供のようだ。
信夫はトレイを持って店内の席に移動する。
「いただきます」
言うが早いか香苗はがさがさと包み紙を開き、大きく口を開けてテリヤキバーガーにかぶりつく。
「うん!……うん!想像してたほどうまくはないな」
ふと、信夫はその言葉で思い出す。
生前、生まれた時から食事制限を受けていた香苗はハンバーガーなんて物を食べた事がないのだ。
「でもこれはいいぞ、皆が普段食べているこれはこういう味がするという事がわかった、自由の味がする、うまい物もまずい物も何でも自分の舌で理解できる、素晴らしい」
「……死人なのに食って意味はあるのか?」
「内臓を稼働させればエネルギーとして活用する事はできる、生きてる時と違って食わなくても死にはしないがな」
ぱくぱくとポテトを口に放り込みながら香苗は答える
「それも一口もらえないか?」
香苗は信夫が手に持つダブルバーガーを見ながら言う。
「構わないが……」
返事を言い終わる前に香苗の手が伸びてハンバーガーを持つ信夫の手首を掴み、ぐいと自分の方に引き寄せた。
「あむ」
「……」
結構な量をいかれた。
「うん、こっちの方がうまいな」
「そうか」
「君との間接キスだという分を加味しての話だが」
「……ごほんっ」
「ふははっ」
香苗はニヤニヤしながらこっちを見ている、すごく嬉しそうだ。指が機嫌良さそうにたたんったたんっとテーブルを叩いている。
どうも様子がおかしい。
純度の高い才能を有する者には特有の稚気がある。香苗を見ているとそれを実感する事が度々あったのも確かだ。
しかし香苗がそういった子供っぽい本性を見せるのは希であり、普段は落ち着いた分別のある性格をしている。いや、巧みに装っている。
ところが今の香苗はどうも箍が外れたようにその本性を顕にしているようなのだ。
「……変だぞ、お前……」
「変だとも、もう箱は壊れてしまっているからな」
「……箱?」
「こっちの話だ、だが君が可愛いことを言った事が原因で私がこうなっているというのは確かだ」
「可愛いこと?」
「「お願いしますから」だったか?」
「やめろ、忘れろ」
「嫌だ、忘れないね」
「頼む……」
顔を手で覆って信夫はぐったり項垂れる。
「ほらもう、それも可愛い……可愛いなあ君は本当に、キスしたいな、していいかい」
「おいばか」
テーブルに手をかけて身を乗り出してくる香苗を信夫は慌てて押し返す。
深夜でまばらとはいえ、店内には他の客の姿も点在している、その人々の視線が痛い。
「いいから落ち着け、本当に変だぞ」
「変にしたのは君じゃないか」
白い顔色に不釣り合いな程に目を輝かせて香苗が言う、微妙に会話が成立しない。
と、香苗は俯いて小声になる。
「……本当は「愛されボディ計画」が完了してからがよかったんだが……無理だな、これは……」
何やら香苗らしからぬ単語が聞こえた気がする。
「愛され……?」
「こっちの話だ気にするな」
「香苗」
「うん?」
信夫は真面目な顔でテーブルに肘をついて香苗を見る。
「説明を受けてそこそこに……俺なりに、理解はしたつもりだ」
「うん」
「生き返った理論は正直どうでもいい」
「正確に言うと生き返った訳ではなく……」
「それ含めてどうでもいい、お前とこうして喋る事が出来ている時点で生物学的に生きてるとか死んでるとかも関係ない」
「ふふん」
香苗はちょっとはにかむ。
「ただ確認したいのは……」
信夫の目が少し泳ぐ。
「もう、俺の前から居なくならないんだな?」
「ならないよ」
「本当にか」
「本当にさ、ああ、いや、今は病院を抜け出している身だからちゃんと戻って退院しないといけないんだが……」
「退院したらどうするんだ」
「家族の元に帰るさ」
「……帰れるのか」
「あっちでも色々とあった様子でな、私の存在の事ももう知っているはずだよ」
「色々?」
「色々さ」
香苗は意味深な笑みを浮かべてコーラをずずっと啜る。
「香苗は」
信夫は俯いて呟くように言う。
「帰って来たんだな……」
改めて事実確認をするように呟いた。
「うん」
香苗は頬杖をついて言う。
自分が蘇って帰ってきたという事は何度も説明した、何度説明されても信夫は何回も聞いてくる、香苗はそれに何度でも答えてやる。
「この通り、帰ってきたぞ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「トイレに、行ってくる」
黙り込んでいた信夫は唐突に席を立ってトイレに行ってしまう。
香苗はストローを咥えたままそれを見送った。
・
・
・
「……ごほっ……ごほっ」
信夫はトイレで洗面器に顔を伏せてむせていた。
全身が小刻みに震え、奇妙な汗が全身から滲み出る。
顔を上げて鏡を見てみるとひどく青い顔色の自分が映っている。
感情が制御しきれない、喜びと驚きと信じられないという気持ちと信じたいという気持ちと未だに夢を見ているのではないかという気持ちとあと分類できない気持ちと……。
それらが混じりあった奔流が胸と腹の中をぐるぐる回っている。量が多すぎて処理しきれない。
ガチャ
ドアの開く音に思わずそちらを向く。
今の有様を見られたら体調を崩していると勘違いされるだろう。
「……」
「……おい」
香苗がいた。
「ここは男子トイ」
言い終わる前に香苗はつかつかと信夫に近付いてぎゅぅっと抱き締めた。
肉付きは薄いが確かに女性の柔らかさを感じる体と香苗の匂いに包まれる。
「おい、何を……」
香苗は言葉を遮るようにキスをした、もう喋るな、と信夫に言い聞かせるような軽いキスを。
信夫は黙った。
そのまま香苗は信夫に肩を貸すような形でトイレから出る。
男性トイレから香苗が出てきたのを見て入ろうとしていた客はぎょっとしたが、肩を貸されている信夫を見て連れが体調を崩したのか、と理解した様子だった。
そのまま香苗は信夫を店の外にまで連れ出してしまう。
どうしたのか、と香苗を見ると今まで見たことのない表情で信夫の事を見ていた。
優しいような怖いような不思議な微笑を浮かべている。
「私の存在がまだ受け入れられないかい」
「……ああ……」
「じゃあ感じさせてあげよう、私がここに居るという事を」
すり、と信夫の腕に頬を寄せて香苗が笑う。
「これ以上ないくらいに」
・
・
・
信夫はベッドに座って壁を眺めていた。
淡いクリーム色の壁紙にそんなに見所がある訳では無論無い、かといって何か考え事をしているかというとそうでもない。
ただ、ラブホテルというのはもっと猥雑なイメージがあったが意外と綺麗なんだな、などとぼんやりと思うばかりだ。
ひた
裸足の足音が聞こえた、信夫はそちらに顔を向ける。
ぼんやりと光を放つ蛍のような香苗の白い裸体がバスルームの入口に立っていた。肌はおろか白く長い髪もが儚げな光を発しているようだ。
その姿にはやはりこの世に生きる者の生気が感じられず、「生きている訳ではない」という香苗の言葉が実感をもって伝わる。
そして何よりも。
(……綺麗、だ)
元々美しい少女ではあった、しかし生前のそれは死への抗いからくる燃え尽きる直前の火のような刹那的で儚い美しさだった。
今の香苗の美しさは文字通りこの世のものではなかった、口元に浮かぶ薄い笑い、どろりと深い漆黒の目。
自然の摂理を離れた異質の美を纏って一糸まとわぬ香苗はそこに立っている。
信夫はただ固まって香苗の裸体に見入るしかなかった。
「魅力的かい?」
小首を傾げて香苗が問う、信夫はかくかくと頷くしかない。
「そりゃあよかった、あまり女性的な体ではないから不安だったんだ」
確かに起伏に富んだ体型ではない。手足は頼りなく、腰は肋が浮いて見えそうに細い、胸元はお世辞にもふくよかとはいいがたい。
しかし性的魅力に乏しいかというとそうではない。その触れると壊れそうな華奢な身体からはむしろ壊してしまいたくなるような異様な艶が漂っている。
信夫はただ石像のように固まって香苗の裸体を目で追うしかできない。
本当はじろじろと見るのは失礼だと思うので見ないようにしたいのだが目線は縫い付けられたように香苗から離れない。
香苗はその視線を恥ずかしがるでもなくすっと近付き、信夫が腰掛けるベッドの隣に腰を下ろした。ぎし、とベッドが沈んで隣に香苗の重みを感じる。
「ん」
「うっ……?」
つい、と顎を指で引かれてキスをされた。
またされた。
廃工場でもファーストフード店でも自然にキスをしてくる、信夫はその度に反応する事すらできずにただ意識を飛ばされるしかできない。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅ
今度は一度では済まなかった、鳥がついばむように唇を何度も触れ合わせる。
合間に目をじいっと見て来る。
欲望と情愛と、そして香苗特有の知的好奇心に満ちた眼差しだ。
「冷たいか?」
「……ああ」
香苗の唇はひんやりと冷たい、触れた箇所から静かに熱を奪うようだ。
「すまない、体温を上げる事はできるんだが……これが平常の体温なんだ」
額をくっつけるような距離で瞳を見つめながら香苗が言う。
「上げてもいいんだが、君には私の平熱を知ってもらいたくてな……上げようか?」
「いや……これでいい」
「そうか」
笑ってまたキスをした。
「防腐剤の臭いはしないか?」
「しない」
「よかった、洗っても中々落ちなかったんだ」
「香水は付けているのか?」
「いいや?」
「なら、これは香苗の匂いか」
「気に入ったかい」
「ああ」
「落ち着いたかい」
「……ああ」
寄り添ってひそひそと言葉を交わしているうちに自然と緊張が解れていた事に信夫は気付く。
「うん、よかった、長年想ってきた相手との初体験なんだから緊張するのは仕方ないが折角なんだから楽しんでもらいたい」
「……長年想って……来た訳では……」
「違うかい?」
不安など微塵もない確信を持った口調で香苗が聞く。
「いや……間違っては……」
「だろう?そうだろう?わかってるんだよ、君の気持ちはずっと感じて来たんだ、ずっと知ってたんだ」
信夫のうなじを撫でながら香苗は言う。
「応えてはいけないと思っていた、先が長くなかったからな……ずっと気付かないふりをして……」
「……」
「最後の最後に漏らしてしまったんだ……口惜しくてな……両思いだって事を知ってもらいたくて……知ったところで負担になるだけだというのに……」
香苗はちょっと鼻を鳴らして顔を上げた。
「湿っぽくなったな、今のは忘れてくれ」
「もっと言え」
「うん?……あ、ん……」
初めて信夫の方からキスをした。
「言いたい事がもっとあっただろう、我慢するな、する必要はもうないだろう」
信夫は香苗の細くて冷たい体を抱き締めた。
「そんなに気を使ってくれなくてもいいというのに」
「お前は俺の弱いところを見た」
「……ああ」
「お前も見せてくれ」
「……」
信夫は黙って香苗の背中を撫でている。
細くて小さな背中だ。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「うん……あの頃……私は、強い人間だって……皆言ってただろう?……もしくは変人だとか」
「……」
「強い訳ではないんだよなぁ……面の皮は厚い方ではあるかな……」
「……」
「……」
「……」
「恨んだよ、色々な物を……人を……」
「……」
「親を恨んだな……どうしてこんな風に産んだんだって……もっと健康に産んでくれなかったのかって……」
「……」
「見舞いに来る親戚も恨んだな……神妙な顔してても自分の苦しさの何百分の一も理解してないだろうこいつら、ってな……」
「……」
「医者を恨んだな……どうして治してくれないんだって……こんなに苦しいのに……医者なのに治してくれないのかって……」
「……」
「クラスメイトを恨んだな……千羽鶴なんて贈る側の自己満足の押し付けだ、なんてな……」
「……」
「看護婦を恨んだな……自分に繋がっているチューブを恨んだな……自分以外の健康な人間全部を恨んだな……神様を恨んだな……信じてもいなかったけど……」
「……」
「それよりも誰よりも」
ぶるる、と香苗の身体が一度震えた。
「君の事を一番恨んだよ」
「……」
「どうして私にこんな思いをさせるのか……って、君がいなければ私はこんなに死に対して悲観的にならずに済んだ、胸を掻き毟るような後悔も、未練も、死にたくないって思いも……抱かずに済んだだろうに、君さえ……」
「……」
「君さえいなければって……憎んだよ、愛するのと同じくらい憎んだよ……本当に……何度も……何度も……」
「すまなかった」
信夫は微かに震え続ける香苗の体を強く抱き締めて言った。
「……出鱈目な逆恨みに何を言っているんだ君は」
「そんな思いをさせてすまなかった」
「……」
「償わせてくれ」
細い肩に指が食い込む程強く抱きしめながら信夫は言った。
「そんな思いをさせた償いをさせてくれ」
「……」
「……」
「んふふっ……君はなぁ……君って奴はさぁ……」
「……」
「泣いていいかい?……この体は涙腺のコントロールも出来るんだが、敢えて泣きたいな、今は」
「泣いたらいい」
「ありがとう」
「……」
「……」
「……」
「んっ……うっ……うっく……」
「……」
「ごめんなさ……おと……さ……お母さ……」
「……」
「ごめ……のぶくん……ごめん……」
「香苗は、頑張った」
無愛想にも聞こえる声で信夫は言った。
「本当に……よく我慢した……よく頑張った……」
「うん……うん……辛かった……」
信夫は香苗の頭を撫でた。
「くすん……」
涙腺を開放した副作用か、死人の冷たさだった香苗の身体に少し熱が篭った。
信夫はその熱を愛おしむように抱きしめ、撫で続けた。
その蛍達の儚い光の中で二人は並んで座っていた。
香苗の説明は理路整然としていてわかりやすいものだったがどうにも言葉の意味が頭に染み入らず、信夫はただただ蛍の化身のように白い香苗の姿に見とれるばかりだった。
「まあ、大体そういう経緯だ」
「……」
「納得いかないか」
信夫は中空を見つめている、ぼんやりとした表情だ。
「……お前が言うなら本当なんだろう……現実感は沸かないが」
「私が幻覚だと思うかい?見えるし、聞こえるし、話せるだろう?おまけに触れる」
「……リアルな幻覚ならあり得るな……」
「ふうむ、困ったものだ」
香苗は両膝に肘を乗せて頬杖をついて首を捻った。
そうしてまたしばらく二人で黙って浮遊する蛍を眺めた。
「場所が悪い」
「うん?」
唐突に香苗が口を開いた。
「極力人目につかない場所を選んだんだが……この夜の廃工場という非日常的空間が余計に現実感を遠ざけている」
「……?」
「行こう」
「どこへ?」
「現実感のある場所へだ」
・
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・
「テリヤキバーガーセット、ダブルバーガーセット、お二つともお飲み物はコーラでよろしいですね?」
「はい」
「はーい、少々お待ち下さーい」
店員の快活な声、店内に流れる軽快な流行歌、ポテトの匂い……。
「……どうしてバーガーショップなんだ」
「現実感あるだろう?」
困り顔の信夫とは対照的に香苗はちょっと浮ついた表情だ。
場所は24時間営業のバーガーショップ。二人は廃工場を出て車で都内にまで下りてここに入ったのだ。
確かに廃工場に比べると日常感のある場所であり、深夜でも開いている店といえばここぐらいしかない。
それにしても何というか、白ずくめで幻想的な香苗の姿はこの俗っぽい場所に不釣り合いだ、いや、現実感はあるのだが。
「お待たせしましたー」
「お、来た、来たぞ信夫、席は取ってあるぞ、早く行こう」
「わかったわかった」
トレイがカウンターに置かれると香苗は目を輝かせる、外の食事に連れてきてもらった子供のようだ。
信夫はトレイを持って店内の席に移動する。
「いただきます」
言うが早いか香苗はがさがさと包み紙を開き、大きく口を開けてテリヤキバーガーにかぶりつく。
「うん!……うん!想像してたほどうまくはないな」
ふと、信夫はその言葉で思い出す。
生前、生まれた時から食事制限を受けていた香苗はハンバーガーなんて物を食べた事がないのだ。
「でもこれはいいぞ、皆が普段食べているこれはこういう味がするという事がわかった、自由の味がする、うまい物もまずい物も何でも自分の舌で理解できる、素晴らしい」
「……死人なのに食って意味はあるのか?」
「内臓を稼働させればエネルギーとして活用する事はできる、生きてる時と違って食わなくても死にはしないがな」
ぱくぱくとポテトを口に放り込みながら香苗は答える
「それも一口もらえないか?」
香苗は信夫が手に持つダブルバーガーを見ながら言う。
「構わないが……」
返事を言い終わる前に香苗の手が伸びてハンバーガーを持つ信夫の手首を掴み、ぐいと自分の方に引き寄せた。
「あむ」
「……」
結構な量をいかれた。
「うん、こっちの方がうまいな」
「そうか」
「君との間接キスだという分を加味しての話だが」
「……ごほんっ」
「ふははっ」
香苗はニヤニヤしながらこっちを見ている、すごく嬉しそうだ。指が機嫌良さそうにたたんったたんっとテーブルを叩いている。
どうも様子がおかしい。
純度の高い才能を有する者には特有の稚気がある。香苗を見ているとそれを実感する事が度々あったのも確かだ。
しかし香苗がそういった子供っぽい本性を見せるのは希であり、普段は落ち着いた分別のある性格をしている。いや、巧みに装っている。
ところが今の香苗はどうも箍が外れたようにその本性を顕にしているようなのだ。
「……変だぞ、お前……」
「変だとも、もう箱は壊れてしまっているからな」
「……箱?」
「こっちの話だ、だが君が可愛いことを言った事が原因で私がこうなっているというのは確かだ」
「可愛いこと?」
「「お願いしますから」だったか?」
「やめろ、忘れろ」
「嫌だ、忘れないね」
「頼む……」
顔を手で覆って信夫はぐったり項垂れる。
「ほらもう、それも可愛い……可愛いなあ君は本当に、キスしたいな、していいかい」
「おいばか」
テーブルに手をかけて身を乗り出してくる香苗を信夫は慌てて押し返す。
深夜でまばらとはいえ、店内には他の客の姿も点在している、その人々の視線が痛い。
「いいから落ち着け、本当に変だぞ」
「変にしたのは君じゃないか」
白い顔色に不釣り合いな程に目を輝かせて香苗が言う、微妙に会話が成立しない。
と、香苗は俯いて小声になる。
「……本当は「愛されボディ計画」が完了してからがよかったんだが……無理だな、これは……」
何やら香苗らしからぬ単語が聞こえた気がする。
「愛され……?」
「こっちの話だ気にするな」
「香苗」
「うん?」
信夫は真面目な顔でテーブルに肘をついて香苗を見る。
「説明を受けてそこそこに……俺なりに、理解はしたつもりだ」
「うん」
「生き返った理論は正直どうでもいい」
「正確に言うと生き返った訳ではなく……」
「それ含めてどうでもいい、お前とこうして喋る事が出来ている時点で生物学的に生きてるとか死んでるとかも関係ない」
「ふふん」
香苗はちょっとはにかむ。
「ただ確認したいのは……」
信夫の目が少し泳ぐ。
「もう、俺の前から居なくならないんだな?」
「ならないよ」
「本当にか」
「本当にさ、ああ、いや、今は病院を抜け出している身だからちゃんと戻って退院しないといけないんだが……」
「退院したらどうするんだ」
「家族の元に帰るさ」
「……帰れるのか」
「あっちでも色々とあった様子でな、私の存在の事ももう知っているはずだよ」
「色々?」
「色々さ」
香苗は意味深な笑みを浮かべてコーラをずずっと啜る。
「香苗は」
信夫は俯いて呟くように言う。
「帰って来たんだな……」
改めて事実確認をするように呟いた。
「うん」
香苗は頬杖をついて言う。
自分が蘇って帰ってきたという事は何度も説明した、何度説明されても信夫は何回も聞いてくる、香苗はそれに何度でも答えてやる。
「この通り、帰ってきたぞ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「トイレに、行ってくる」
黙り込んでいた信夫は唐突に席を立ってトイレに行ってしまう。
香苗はストローを咥えたままそれを見送った。
・
・
・
「……ごほっ……ごほっ」
信夫はトイレで洗面器に顔を伏せてむせていた。
全身が小刻みに震え、奇妙な汗が全身から滲み出る。
顔を上げて鏡を見てみるとひどく青い顔色の自分が映っている。
感情が制御しきれない、喜びと驚きと信じられないという気持ちと信じたいという気持ちと未だに夢を見ているのではないかという気持ちとあと分類できない気持ちと……。
それらが混じりあった奔流が胸と腹の中をぐるぐる回っている。量が多すぎて処理しきれない。
ガチャ
ドアの開く音に思わずそちらを向く。
今の有様を見られたら体調を崩していると勘違いされるだろう。
「……」
「……おい」
香苗がいた。
「ここは男子トイ」
言い終わる前に香苗はつかつかと信夫に近付いてぎゅぅっと抱き締めた。
肉付きは薄いが確かに女性の柔らかさを感じる体と香苗の匂いに包まれる。
「おい、何を……」
香苗は言葉を遮るようにキスをした、もう喋るな、と信夫に言い聞かせるような軽いキスを。
信夫は黙った。
そのまま香苗は信夫に肩を貸すような形でトイレから出る。
男性トイレから香苗が出てきたのを見て入ろうとしていた客はぎょっとしたが、肩を貸されている信夫を見て連れが体調を崩したのか、と理解した様子だった。
そのまま香苗は信夫を店の外にまで連れ出してしまう。
どうしたのか、と香苗を見ると今まで見たことのない表情で信夫の事を見ていた。
優しいような怖いような不思議な微笑を浮かべている。
「私の存在がまだ受け入れられないかい」
「……ああ……」
「じゃあ感じさせてあげよう、私がここに居るという事を」
すり、と信夫の腕に頬を寄せて香苗が笑う。
「これ以上ないくらいに」
・
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信夫はベッドに座って壁を眺めていた。
淡いクリーム色の壁紙にそんなに見所がある訳では無論無い、かといって何か考え事をしているかというとそうでもない。
ただ、ラブホテルというのはもっと猥雑なイメージがあったが意外と綺麗なんだな、などとぼんやりと思うばかりだ。
ひた
裸足の足音が聞こえた、信夫はそちらに顔を向ける。
ぼんやりと光を放つ蛍のような香苗の白い裸体がバスルームの入口に立っていた。肌はおろか白く長い髪もが儚げな光を発しているようだ。
その姿にはやはりこの世に生きる者の生気が感じられず、「生きている訳ではない」という香苗の言葉が実感をもって伝わる。
そして何よりも。
(……綺麗、だ)
元々美しい少女ではあった、しかし生前のそれは死への抗いからくる燃え尽きる直前の火のような刹那的で儚い美しさだった。
今の香苗の美しさは文字通りこの世のものではなかった、口元に浮かぶ薄い笑い、どろりと深い漆黒の目。
自然の摂理を離れた異質の美を纏って一糸まとわぬ香苗はそこに立っている。
信夫はただ固まって香苗の裸体に見入るしかなかった。
「魅力的かい?」
小首を傾げて香苗が問う、信夫はかくかくと頷くしかない。
「そりゃあよかった、あまり女性的な体ではないから不安だったんだ」
確かに起伏に富んだ体型ではない。手足は頼りなく、腰は肋が浮いて見えそうに細い、胸元はお世辞にもふくよかとはいいがたい。
しかし性的魅力に乏しいかというとそうではない。その触れると壊れそうな華奢な身体からはむしろ壊してしまいたくなるような異様な艶が漂っている。
信夫はただ石像のように固まって香苗の裸体を目で追うしかできない。
本当はじろじろと見るのは失礼だと思うので見ないようにしたいのだが目線は縫い付けられたように香苗から離れない。
香苗はその視線を恥ずかしがるでもなくすっと近付き、信夫が腰掛けるベッドの隣に腰を下ろした。ぎし、とベッドが沈んで隣に香苗の重みを感じる。
「ん」
「うっ……?」
つい、と顎を指で引かれてキスをされた。
またされた。
廃工場でもファーストフード店でも自然にキスをしてくる、信夫はその度に反応する事すらできずにただ意識を飛ばされるしかできない。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅ
今度は一度では済まなかった、鳥がついばむように唇を何度も触れ合わせる。
合間に目をじいっと見て来る。
欲望と情愛と、そして香苗特有の知的好奇心に満ちた眼差しだ。
「冷たいか?」
「……ああ」
香苗の唇はひんやりと冷たい、触れた箇所から静かに熱を奪うようだ。
「すまない、体温を上げる事はできるんだが……これが平常の体温なんだ」
額をくっつけるような距離で瞳を見つめながら香苗が言う。
「上げてもいいんだが、君には私の平熱を知ってもらいたくてな……上げようか?」
「いや……これでいい」
「そうか」
笑ってまたキスをした。
「防腐剤の臭いはしないか?」
「しない」
「よかった、洗っても中々落ちなかったんだ」
「香水は付けているのか?」
「いいや?」
「なら、これは香苗の匂いか」
「気に入ったかい」
「ああ」
「落ち着いたかい」
「……ああ」
寄り添ってひそひそと言葉を交わしているうちに自然と緊張が解れていた事に信夫は気付く。
「うん、よかった、長年想ってきた相手との初体験なんだから緊張するのは仕方ないが折角なんだから楽しんでもらいたい」
「……長年想って……来た訳では……」
「違うかい?」
不安など微塵もない確信を持った口調で香苗が聞く。
「いや……間違っては……」
「だろう?そうだろう?わかってるんだよ、君の気持ちはずっと感じて来たんだ、ずっと知ってたんだ」
信夫のうなじを撫でながら香苗は言う。
「応えてはいけないと思っていた、先が長くなかったからな……ずっと気付かないふりをして……」
「……」
「最後の最後に漏らしてしまったんだ……口惜しくてな……両思いだって事を知ってもらいたくて……知ったところで負担になるだけだというのに……」
香苗はちょっと鼻を鳴らして顔を上げた。
「湿っぽくなったな、今のは忘れてくれ」
「もっと言え」
「うん?……あ、ん……」
初めて信夫の方からキスをした。
「言いたい事がもっとあっただろう、我慢するな、する必要はもうないだろう」
信夫は香苗の細くて冷たい体を抱き締めた。
「そんなに気を使ってくれなくてもいいというのに」
「お前は俺の弱いところを見た」
「……ああ」
「お前も見せてくれ」
「……」
信夫は黙って香苗の背中を撫でている。
細くて小さな背中だ。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「うん……あの頃……私は、強い人間だって……皆言ってただろう?……もしくは変人だとか」
「……」
「強い訳ではないんだよなぁ……面の皮は厚い方ではあるかな……」
「……」
「……」
「……」
「恨んだよ、色々な物を……人を……」
「……」
「親を恨んだな……どうしてこんな風に産んだんだって……もっと健康に産んでくれなかったのかって……」
「……」
「見舞いに来る親戚も恨んだな……神妙な顔してても自分の苦しさの何百分の一も理解してないだろうこいつら、ってな……」
「……」
「医者を恨んだな……どうして治してくれないんだって……こんなに苦しいのに……医者なのに治してくれないのかって……」
「……」
「クラスメイトを恨んだな……千羽鶴なんて贈る側の自己満足の押し付けだ、なんてな……」
「……」
「看護婦を恨んだな……自分に繋がっているチューブを恨んだな……自分以外の健康な人間全部を恨んだな……神様を恨んだな……信じてもいなかったけど……」
「……」
「それよりも誰よりも」
ぶるる、と香苗の身体が一度震えた。
「君の事を一番恨んだよ」
「……」
「どうして私にこんな思いをさせるのか……って、君がいなければ私はこんなに死に対して悲観的にならずに済んだ、胸を掻き毟るような後悔も、未練も、死にたくないって思いも……抱かずに済んだだろうに、君さえ……」
「……」
「君さえいなければって……憎んだよ、愛するのと同じくらい憎んだよ……本当に……何度も……何度も……」
「すまなかった」
信夫は微かに震え続ける香苗の体を強く抱き締めて言った。
「……出鱈目な逆恨みに何を言っているんだ君は」
「そんな思いをさせてすまなかった」
「……」
「償わせてくれ」
細い肩に指が食い込む程強く抱きしめながら信夫は言った。
「そんな思いをさせた償いをさせてくれ」
「……」
「……」
「んふふっ……君はなぁ……君って奴はさぁ……」
「……」
「泣いていいかい?……この体は涙腺のコントロールも出来るんだが、敢えて泣きたいな、今は」
「泣いたらいい」
「ありがとう」
「……」
「……」
「……」
「んっ……うっ……うっく……」
「……」
「ごめんなさ……おと……さ……お母さ……」
「……」
「ごめ……のぶくん……ごめん……」
「香苗は、頑張った」
無愛想にも聞こえる声で信夫は言った。
「本当に……よく我慢した……よく頑張った……」
「うん……うん……辛かった……」
信夫は香苗の頭を撫でた。
「くすん……」
涙腺を開放した副作用か、死人の冷たさだった香苗の身体に少し熱が篭った。
信夫はその熱を愛おしむように抱きしめ、撫で続けた。
14/11/30 22:59更新 / 雑兵
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