前編
薄っすらと目を開くと薄暗い洞窟の天井が目に入り、澄んだ冷涼な空気を肌に感じる。何千何万と繰り返してきた眠りからの目覚め、いつもと変わらない感覚だった。
ドラゴンはその巨躯を天井にぶつけないようにのっそりと首を持ち上げた。
「……?」
最初に違和感を感じたのはその時だった、天井がいつもより遠いように感じる、身を屈めなくとも頭がつっかえない。
「ううむ……」
まだ寝ぼけているのかと何度か頭を振ってみるが奇妙な違和感は拭い去れない。
ふと自分の手が目に入る、鱗に覆われ、鋭い爪を備えた強靭そうな手。その手もいつもと変わらないように見えてどこか違う。
「……」
しばし自分の手をじっと眺めてみて気付いた、サイズだ、背景になっている景色と比べて明らかに小さい。
そこで初めて自分の体を見下ろし、ようやく気付いた。サイズだけではない、何もかもが変わってしまっている。
一言で言うならばまるで人間のような姿に自分は変貌していた、かといって完全に人間と同じではなく所々に以前の名残を残すように鱗、爪、翼、尻尾が備わっている。
手足の末端以外、胴体から頭部にかけては人間のものになっている、足元を見るのが難儀なほどに大きく突き出した乳房と股間の感覚によるとどうやら雌のようだ。
気の遠くなる年月を生きてきた自分の記憶の中にもこんな珍妙な生き物は見たことも聞いたこともない。
ドラゴンはいつもの癖で立派に生えた顎鬚をごつい手で擦ろうとしたが、手に触れる感覚は産毛の一本も感じないつるりとした顎の輪郭だ。
「むむ……」
その慣れない感覚にまたドラゴンは眉をひそめる。
ふいと思い立ったドラゴンは立ち上がって洞窟の奥に歩いて行った。
広い、この洞窟はなんと広いのか、そしてこの体はなんと軽いのか、そんな感慨を覚えながら洞窟の奥に辿り着くとそこには大きな地底湖が広がっていた。
ドラゴンは鉱石の影響でうすぼんやりと青く光るその水面を覗き込んで見る。
釣り気味の目をした気の強そうな美貌が映る、人間の男が見たなら誰もが見惚れるような美しい顔立ちだった。
もっともドラゴンである彼女には人間の醜美の感覚などわからないのでただ「人間の雌の顔だ」としか認識しなかったが……。
ドラゴンは身を乗り出して水面に自分の体を映し、角度を変えてまじまじと観察する。
一通り見終わると湖のほとりにどっかと座り込み、またいつもの癖で何も生えていない顎を擦りながら地面を眺め始める。
そのまま長い長い時間が過ぎた。悠久の時を生きるドラゴンは人間のように日一日をあくせく生きたりはしない、その気になれば何か月も飲まず食わず寝ずで過ごすことも出来る。
そうやってほぼ一日の間地面を眺めて過ごしたドラゴンは日が暮れる頃にようやく立ち上がると、次に準備体操のような動きをし始めた。
自分の新しい体がどう動くのか、関節はどのくらいの範囲を可動するのか、力はどのくらい出るのか。
一通り試した後、大きく息を吸うと力を込めて思いきり吐き出した。
その口から白い炎が迸り、薄暗かった洞窟内が一瞬ぱあっと明るく照らされる。
一瞬の明るさの後すぐに暗闇が戻り、後には焦げ臭い匂いが漂う、ドラゴンの目の前の鉱石には舐めたように黒く変色した跡が残った。
炎が吐ける事を確認すると次にドラゴンは翼を羽ばたかせ、洞窟内の空間を飛び回り始めた。
以前の巨体ならば不可能な事だったが人間サイズに縮んだその体ならば飛行能力を試せるくらいに洞窟内は広かった。
そうして自分の体を調べ終わったドラゴンは湖のほとりに座り込むとまた丸一日地面を眺めて過ごした。
今の現状をきちんと理解して受け入れるのにそれだけの時間を要した。
変化の朝から三日程が経過した頃、ドラゴンはその姿になって初めて言葉を発した。
「うーん……そういう事もあるか……」
そう言って、また何も生えていない顎を擦った。
悩ましい顔でその言葉を自分に馴染ませるように何度か頷いた後、何かを思い出したような顔になった。
「そう言えば今日は……今日だったか?」
呟いたそばから耳の形は変わっても鋭さは変わらない聴覚が洞窟の入り口付近から響いて来る人間の足音を捉える。
「今日だったか……困ったな」
言いながらよっこらしょと腰を上げて尻をぽんぽんと叩く。
「体が軽いのは立ち上がるのが楽だな……うむ」
そんな事を言いながら足音の元へと歩みを進めた。
その洞窟は「虎の顎」と呼ばれていた、入口付近で大小の鍾乳石が上下から伸びている様が獣の口のように見える事からそう呼ばれるようになった。
麓の人々が決して近付かないようにしているのは高度の高い山頂付近という危険な場所にあるからではない、ドラゴンが住み付いているからだ。
そんな洞窟の入口に一人の騎士が立っていた。
通常、このように大気が薄くなる程高度が高い場所に登るのは軽装である事が望ましい。
だというのにその騎士は戦場で着込むような甲冑を身に付けており、オーガを思わせる禍々しい角をあしらったフルフェイスの兜まで装着している。
腰には一振りの剣、背中には等身大はあろうかという盾、相当の重装備だ。
それを着たまま、もしくはそんな重量の荷物をここまで運んで霞むような山の山頂にまで辿り着いたと言う事だ、それだけでこの騎士が常人でない事が伺える。
騎士は登山の疲れを感じさせない足取りで鍾乳石の隙間を潜って巨大な洞窟に入って行った。
鈍い銀の鎧を鉱石の発する薄青い光に照らされながら奥に進んで行くと、騎士は足を止めた。
ゆっくりと背負っていた盾を構え、すらりと剣を抜き放つ。
「勝負!!」
騎士は声を発した、兜の下からであっても洞窟中に響き渡るような声だった。
しばしその声の残響が洞窟内に響いていたが、やがて洞窟の奥から足音が聞こえて来た。
「……?」
騎士は微かに首を傾げる、いつものドラゴンの歩く音では無い、重量感が感じられない。
戸惑う騎士の目に飛び込んできたのは一人の女だった。
いや、人間の女ではない、鱗や翼など体の所々にドラゴンの特徴を持っている。しかし今まで見た事も無い生き物だ。
騎士は構えていた盾を下ろし、また構えて下ろしを何度か繰り返した後、とうとう両手を下げてしまう。
「じぶっ……」
言いかけて面甲の蝶つがいを上げて顔を露出させる。
年の頃は青年くらい、瞳孔が極端に小さい三白眼のお陰でどことなく人相が悪く見える、何より特徴的なのは目と鼻の間を真一文字に通る傷跡だ、その傷のお陰で余計に悪そうに見える。
青年はまじまじと変わり果てたドラゴンの姿を見ると。
「ええ?自分、ドラゴンなん?」
と、きつい訛りのある言葉で言った。
「そうだな、ドラゴンだ」
ドラゴンは冷静な声で答える。
「この傷付けた?」
青年は顔の傷を指でなぞって見せながら言う。
「そうだな、それは私が付けたな」
「俺の名前は?」
「バラダ・アミエンツ」
「あー、やっと覚えてくれたんや」
「毎回毎回名乗られていれば、嫌でも覚える」
「そらよかった、毎回毎回名乗った甲斐があったわ……いや、いやいや、違うねん、せやなくて……」
青年……バラダは俊回するように地面と天井に視線を行き来させた後、口を開いた。
「何でそないなんなっとんの?アレか?作戦?べっぴんさんに化けて油断させようとしたけど変身しきれへんかったみたいな……ちゃうやんなあ、そんな小細工する必要あらへんもんなあ」
「当たり前だ」
ドラゴンはむすっと不機嫌そうな表情になる。
「怒らんといてや……とりあえずその……何かしらんけど元に戻ってえな、その、やり辛いわその格好やと」
「戻れん」
「えっ」
「色々試したが戻れんのだ」
「何で」
「恐らくだが……魔王の身に何かあったのだろうな、それ以外考えられん」
「えー、そんなん……困るわあ……」
バラダは困り果てた様子で頭を抱える。
「安心しろ、姿は変わったが力は変わらん、お前如きに遅れは取らんから安心して掛って来るがいい」
「そういう問題とちゃうねん!」
顔をがばっと上げてバラダは叫ぶとやにわに懐に手を入れてごそごそとし始める。
しかし途中でハッと我に返ったようにドラゴンの顔を見つめる。
「……笑わんといてや」
「……何か笑える事でもあるのか」
「ええから笑わんといてや」
「わかったわかった」
バラダは懐から一冊の小さな本を取り出した、変色した表紙を見るに長い年月が経っているようだが、丁寧に扱われているのか汚れてはいない。
「……これや」
「何?どれだ?」
「このページ……」
その本の一ページをこちらに開いて見せるのだが、なにぶん本が小さいので近付かないと見えない。
ドラゴンはかしゃかしゃと爪をならして近付いてそのページを覗き込んだ。
どうやら冒険小説らしいその本のページには一枚の挿絵が描かれている。
一人の傷だらけの騎士が倒れたドラゴンの上に乗り、天に向けて折れた剣を突き上げて勝ち鬨を上げている絵だった。
「これやねん……」
「この絵が?」
「ごっつかっこええやん……」
「……」
「俺なあ……この絵の騎士になりたかってん……こんな風になりたかってん……」
「ふうん……」
「今笑ろうたやろ!」
「別に笑ってない」
「嘘や!顔で笑わんでも心の中で笑ろたやろ!」
ドラゴンはもう答えるのも面倒臭くなったので顔をしかめて手をはたはたと振った。
「ふん、笑うなら笑ろとったらええねん、そのうち吠え面かかしたんねん」
「だから戦って倒せばいいだろう、さっきも言ったが姿は変わっても……」
「せやからちーがーうねんて!絵面の問題やねん絵面の!」
「絵面?」
「今の自分に勝ったかてなあ……これ……!」
バラダはどこからか取り出した紙とペンでかりかりと何かを描き始め、描き終えた物をドラゴンの鼻先に突き付ける。
「こないなんねん!」
紙には絵が描いてあった、べったりとうつ伏せに倒れたドラゴン娘の頭を踏み付けて勝ち鬨を上げるバラダらしき騎士。
「DVやん!」
「でぃーぶい?」
「ドメスティック・バイオレンスやん!」
「ドメ……?」
「ええとなあ……女に男が手を上げたらあかんのや!」
「何故?」
「何でもあかんもんはあかんの!」
「それを言うなら元々だろうに」
「そっ……元々?なに元々て」
「私は元々雌だ」
バラダはぽかん、と口を開けてドラゴンの顔を見る。
ドラゴンは真顔で見返す。
「めす?」
「うむ」
バラダはくるりとドラゴンに背を向けてそのあたりをふらふらとうろつき始め、洞窟の天井を見上げたり鍾乳石に手を付いて寄りかかったりした。
そうしてしばらく無意味に歩き回った後兜を完全に脱ぎ捨てた、短く刈られた赤毛が露わになる。
(……ほお、そんな髪型をしていたのか)
対峙する時には炎を防ぐために常に装備を外さなかったのでバラダの完全な素顔は初めて見る。
「何でそんな大事なこと最初に言わへんねん!?」
「聞かなかっただろう」
「そやけどその……女やったらもうちょい女らしくせえや!」
「どうしろと」
「そらぁ……パンティ穿くとか」
「それこそ絵面を想像してみろ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりと項垂れるバラダを見てドラゴンはすうっと息を吸う。
次の瞬間、洞窟内に怪鳥の雄叫びのような音が響き、洞窟内が真っ白になる程の閃光が走った。
ドラゴンがいきなりバラダに白い炎を浴びせ掛けたのだ。
もうもうと上がる鉄臭い煙の中から、盾を構えたバラダの姿が現れる。
完全な不意打ちだったにも関わらず手足もはみ出さない完全な防御体勢を取っていた。
長大な盾を木の葉のように軽々と扱う腕力と野生の勘を兼ね備えるバラダでなければ防げなかった所だ。
「安心した、腑抜けた訳ではないらしいな」
「洒落ならんで自分」
盾の端から微かにバラダの顔が覗く。
釣り上がった目が細くなり、三白眼の迫力がより一層増している。
「切っ掛けを与えてやっただけだ、脆弱な人間風情に性別がどうこうと気を使ってもらわずともお前に私が敗れるなど有り得ない」
無い顎鬚をなぞりながらドラゴンは冷徹な目でバラダを見やる。
バラダの唯でさえ小さい瞳孔がきゅうっと小さくなる。
「おおきに」
低い声で小さく言うとつま先でこん、と脱ぎ捨てた兜を弾き上げて拾い、ドラゴンから目線を外さないまま被ると面甲を下ろす。
表情が隠れ、小さな隙間から小さな瞳孔が獣のように爛々と輝いてドラゴンを見据えている。先程まで表情豊かに喋っていた男と同一人物とはとても思えない。
やにわにバラダは盾を構えたまま猛然とドラゴンに向けて突進を仕掛ける。
ドラゴンは無造作に盾ごと蹴り飛ばそうとする。
蹴りは当たったがつま先は耳触りな音と共に火花を散らしながらバラダの盾の上を滑り、横に回り込まれる。
当たった瞬間に微かに盾の角度を変えて受け流したのだ、武骨な外観にそぐわない繊細な技術だ。
そのまま隙だらけになった側面に攻撃を加えようと剣を振り上げたが、寸前で剣を止め、後ろに大きく飛び退く。
先程までバラダのいた空間をドラゴンの尻尾が横殴りに通り過ぎた。
一旦二人の間に距離が開く。
互いに新鮮な感覚を味わっていた、バラダはこれまで繰り返しドラゴンに戦いを挑んだが、ドラゴンの巨体の周囲をバラダが動き回るというのが何時ものパターンだ。
こうして互いに小回りの効く体での立ち回りはそれまでとは全く感覚が違う。
「……この身体の使い方に慣れるには丁度いい」
「……」
ドラゴンは不敵な笑みを浮かべた、バラダはどうとも答えない、この男は一度戦いとなると本当に無駄口を叩かなくなる
そんな相手の態度に不敵な笑みとは違った嬉しそうな表情を一瞬だけドラゴンは覗かせる。
「……」
その時だ、バラダは一瞬身じろぎし、足の立ち位置を変えると剣を握り直した。
「?」
らしくない、とドラゴンは思った、今の一瞬バラダは明らかに集中が途切れた、何があっても戦いの最中に相手から意識を逸らす男では無いのだが。
気を取り直すようにして今度は盾を構えたままじりじりと前進して来るバラダ。
目の前に晒されている盾に迂闊に飛び込むと何があるか分からない。受けた盾でそのまま地面に押し付けて動きを封じたり、炎に紛れて盾だけを残し、本体が奇襲を掛けるなど様々なバリエーションの戦略を持っているのだ。
ここはバラダに先手を打たせたい。そう考えたドラゴンは羽根と両手を大きく広げて弱点である胴体を晒す。
この身体は手足の末端に比べて胴体や胸部の防御が薄い、バラダが気付いていないはずは無い。
効果は覿面だ、バラダの視線と意識が胸部に集中する、目を輝かせて見入っている。
ここでもうひと押し、自分の身体を色々調べている内に分かった事なのだが体の局部の鱗は自在に消す事が出来る、胸部の鱗を消したならば必ず攻撃に意識が向く。
何しろ弱点である心臓部が完全に無防備になるのだ、罠だとわかっていても意識せざるを得ない筈だ。
ドラゴンは胸部の鱗を消した。
たゆゆん♪
効果覿面……どころでは無かった。
カランカラーンと音を立てて剣と楯がバラダの両手から滑り落ちたのだ。
「!?」
流石にその反応は予想していなかったドラゴンは逆に呆気に取られる。
もしそれが作戦だとしたら大したものだった、弱点を晒した状態で意識まで無防備になってしまったのだから。
しかし残念ながらそれは作戦ではなかった。
ドラゴンがどれだけ大きな隙を見せようと武器と防具を取り落としたバラダは奇襲をかけるでも武器を拾うでもなく、ただただ棒立ちでドラゴンの胸部を凝視するばかりだ。
「……」
ドラゴンはそのままバラダにのしのし歩いて近付いて行く。
たゆん♪たゆん♪たゆん♪
バラダの目線は揺れるそれを追い続ける。
ドラゴンが握り拳を作って振り上げた時でさえバラダの視線は胸部に釘付けになっている。
仕方ないのでドラゴンはそのまま拳を振り下ろした。
ごちーーん
「おぼぶ」
兜の頭頂部をドラゴンの力で強打されたバラダは地面にめり込まんばかりの勢いで……いや、実際に地面の岩に頭をめり込まされてびくんびくんと痙攣する羽目になった。
「……何故?」
自分の行動がどうしてこのような結果に繋がったのかわからず、ドラゴンはただ首を傾げるしかなかった。
ドラゴンはその巨躯を天井にぶつけないようにのっそりと首を持ち上げた。
「……?」
最初に違和感を感じたのはその時だった、天井がいつもより遠いように感じる、身を屈めなくとも頭がつっかえない。
「ううむ……」
まだ寝ぼけているのかと何度か頭を振ってみるが奇妙な違和感は拭い去れない。
ふと自分の手が目に入る、鱗に覆われ、鋭い爪を備えた強靭そうな手。その手もいつもと変わらないように見えてどこか違う。
「……」
しばし自分の手をじっと眺めてみて気付いた、サイズだ、背景になっている景色と比べて明らかに小さい。
そこで初めて自分の体を見下ろし、ようやく気付いた。サイズだけではない、何もかもが変わってしまっている。
一言で言うならばまるで人間のような姿に自分は変貌していた、かといって完全に人間と同じではなく所々に以前の名残を残すように鱗、爪、翼、尻尾が備わっている。
手足の末端以外、胴体から頭部にかけては人間のものになっている、足元を見るのが難儀なほどに大きく突き出した乳房と股間の感覚によるとどうやら雌のようだ。
気の遠くなる年月を生きてきた自分の記憶の中にもこんな珍妙な生き物は見たことも聞いたこともない。
ドラゴンはいつもの癖で立派に生えた顎鬚をごつい手で擦ろうとしたが、手に触れる感覚は産毛の一本も感じないつるりとした顎の輪郭だ。
「むむ……」
その慣れない感覚にまたドラゴンは眉をひそめる。
ふいと思い立ったドラゴンは立ち上がって洞窟の奥に歩いて行った。
広い、この洞窟はなんと広いのか、そしてこの体はなんと軽いのか、そんな感慨を覚えながら洞窟の奥に辿り着くとそこには大きな地底湖が広がっていた。
ドラゴンは鉱石の影響でうすぼんやりと青く光るその水面を覗き込んで見る。
釣り気味の目をした気の強そうな美貌が映る、人間の男が見たなら誰もが見惚れるような美しい顔立ちだった。
もっともドラゴンである彼女には人間の醜美の感覚などわからないのでただ「人間の雌の顔だ」としか認識しなかったが……。
ドラゴンは身を乗り出して水面に自分の体を映し、角度を変えてまじまじと観察する。
一通り見終わると湖のほとりにどっかと座り込み、またいつもの癖で何も生えていない顎を擦りながら地面を眺め始める。
そのまま長い長い時間が過ぎた。悠久の時を生きるドラゴンは人間のように日一日をあくせく生きたりはしない、その気になれば何か月も飲まず食わず寝ずで過ごすことも出来る。
そうやってほぼ一日の間地面を眺めて過ごしたドラゴンは日が暮れる頃にようやく立ち上がると、次に準備体操のような動きをし始めた。
自分の新しい体がどう動くのか、関節はどのくらいの範囲を可動するのか、力はどのくらい出るのか。
一通り試した後、大きく息を吸うと力を込めて思いきり吐き出した。
その口から白い炎が迸り、薄暗かった洞窟内が一瞬ぱあっと明るく照らされる。
一瞬の明るさの後すぐに暗闇が戻り、後には焦げ臭い匂いが漂う、ドラゴンの目の前の鉱石には舐めたように黒く変色した跡が残った。
炎が吐ける事を確認すると次にドラゴンは翼を羽ばたかせ、洞窟内の空間を飛び回り始めた。
以前の巨体ならば不可能な事だったが人間サイズに縮んだその体ならば飛行能力を試せるくらいに洞窟内は広かった。
そうして自分の体を調べ終わったドラゴンは湖のほとりに座り込むとまた丸一日地面を眺めて過ごした。
今の現状をきちんと理解して受け入れるのにそれだけの時間を要した。
変化の朝から三日程が経過した頃、ドラゴンはその姿になって初めて言葉を発した。
「うーん……そういう事もあるか……」
そう言って、また何も生えていない顎を擦った。
悩ましい顔でその言葉を自分に馴染ませるように何度か頷いた後、何かを思い出したような顔になった。
「そう言えば今日は……今日だったか?」
呟いたそばから耳の形は変わっても鋭さは変わらない聴覚が洞窟の入り口付近から響いて来る人間の足音を捉える。
「今日だったか……困ったな」
言いながらよっこらしょと腰を上げて尻をぽんぽんと叩く。
「体が軽いのは立ち上がるのが楽だな……うむ」
そんな事を言いながら足音の元へと歩みを進めた。
その洞窟は「虎の顎」と呼ばれていた、入口付近で大小の鍾乳石が上下から伸びている様が獣の口のように見える事からそう呼ばれるようになった。
麓の人々が決して近付かないようにしているのは高度の高い山頂付近という危険な場所にあるからではない、ドラゴンが住み付いているからだ。
そんな洞窟の入口に一人の騎士が立っていた。
通常、このように大気が薄くなる程高度が高い場所に登るのは軽装である事が望ましい。
だというのにその騎士は戦場で着込むような甲冑を身に付けており、オーガを思わせる禍々しい角をあしらったフルフェイスの兜まで装着している。
腰には一振りの剣、背中には等身大はあろうかという盾、相当の重装備だ。
それを着たまま、もしくはそんな重量の荷物をここまで運んで霞むような山の山頂にまで辿り着いたと言う事だ、それだけでこの騎士が常人でない事が伺える。
騎士は登山の疲れを感じさせない足取りで鍾乳石の隙間を潜って巨大な洞窟に入って行った。
鈍い銀の鎧を鉱石の発する薄青い光に照らされながら奥に進んで行くと、騎士は足を止めた。
ゆっくりと背負っていた盾を構え、すらりと剣を抜き放つ。
「勝負!!」
騎士は声を発した、兜の下からであっても洞窟中に響き渡るような声だった。
しばしその声の残響が洞窟内に響いていたが、やがて洞窟の奥から足音が聞こえて来た。
「……?」
騎士は微かに首を傾げる、いつものドラゴンの歩く音では無い、重量感が感じられない。
戸惑う騎士の目に飛び込んできたのは一人の女だった。
いや、人間の女ではない、鱗や翼など体の所々にドラゴンの特徴を持っている。しかし今まで見た事も無い生き物だ。
騎士は構えていた盾を下ろし、また構えて下ろしを何度か繰り返した後、とうとう両手を下げてしまう。
「じぶっ……」
言いかけて面甲の蝶つがいを上げて顔を露出させる。
年の頃は青年くらい、瞳孔が極端に小さい三白眼のお陰でどことなく人相が悪く見える、何より特徴的なのは目と鼻の間を真一文字に通る傷跡だ、その傷のお陰で余計に悪そうに見える。
青年はまじまじと変わり果てたドラゴンの姿を見ると。
「ええ?自分、ドラゴンなん?」
と、きつい訛りのある言葉で言った。
「そうだな、ドラゴンだ」
ドラゴンは冷静な声で答える。
「この傷付けた?」
青年は顔の傷を指でなぞって見せながら言う。
「そうだな、それは私が付けたな」
「俺の名前は?」
「バラダ・アミエンツ」
「あー、やっと覚えてくれたんや」
「毎回毎回名乗られていれば、嫌でも覚える」
「そらよかった、毎回毎回名乗った甲斐があったわ……いや、いやいや、違うねん、せやなくて……」
青年……バラダは俊回するように地面と天井に視線を行き来させた後、口を開いた。
「何でそないなんなっとんの?アレか?作戦?べっぴんさんに化けて油断させようとしたけど変身しきれへんかったみたいな……ちゃうやんなあ、そんな小細工する必要あらへんもんなあ」
「当たり前だ」
ドラゴンはむすっと不機嫌そうな表情になる。
「怒らんといてや……とりあえずその……何かしらんけど元に戻ってえな、その、やり辛いわその格好やと」
「戻れん」
「えっ」
「色々試したが戻れんのだ」
「何で」
「恐らくだが……魔王の身に何かあったのだろうな、それ以外考えられん」
「えー、そんなん……困るわあ……」
バラダは困り果てた様子で頭を抱える。
「安心しろ、姿は変わったが力は変わらん、お前如きに遅れは取らんから安心して掛って来るがいい」
「そういう問題とちゃうねん!」
顔をがばっと上げてバラダは叫ぶとやにわに懐に手を入れてごそごそとし始める。
しかし途中でハッと我に返ったようにドラゴンの顔を見つめる。
「……笑わんといてや」
「……何か笑える事でもあるのか」
「ええから笑わんといてや」
「わかったわかった」
バラダは懐から一冊の小さな本を取り出した、変色した表紙を見るに長い年月が経っているようだが、丁寧に扱われているのか汚れてはいない。
「……これや」
「何?どれだ?」
「このページ……」
その本の一ページをこちらに開いて見せるのだが、なにぶん本が小さいので近付かないと見えない。
ドラゴンはかしゃかしゃと爪をならして近付いてそのページを覗き込んだ。
どうやら冒険小説らしいその本のページには一枚の挿絵が描かれている。
一人の傷だらけの騎士が倒れたドラゴンの上に乗り、天に向けて折れた剣を突き上げて勝ち鬨を上げている絵だった。
「これやねん……」
「この絵が?」
「ごっつかっこええやん……」
「……」
「俺なあ……この絵の騎士になりたかってん……こんな風になりたかってん……」
「ふうん……」
「今笑ろうたやろ!」
「別に笑ってない」
「嘘や!顔で笑わんでも心の中で笑ろたやろ!」
ドラゴンはもう答えるのも面倒臭くなったので顔をしかめて手をはたはたと振った。
「ふん、笑うなら笑ろとったらええねん、そのうち吠え面かかしたんねん」
「だから戦って倒せばいいだろう、さっきも言ったが姿は変わっても……」
「せやからちーがーうねんて!絵面の問題やねん絵面の!」
「絵面?」
「今の自分に勝ったかてなあ……これ……!」
バラダはどこからか取り出した紙とペンでかりかりと何かを描き始め、描き終えた物をドラゴンの鼻先に突き付ける。
「こないなんねん!」
紙には絵が描いてあった、べったりとうつ伏せに倒れたドラゴン娘の頭を踏み付けて勝ち鬨を上げるバラダらしき騎士。
「DVやん!」
「でぃーぶい?」
「ドメスティック・バイオレンスやん!」
「ドメ……?」
「ええとなあ……女に男が手を上げたらあかんのや!」
「何故?」
「何でもあかんもんはあかんの!」
「それを言うなら元々だろうに」
「そっ……元々?なに元々て」
「私は元々雌だ」
バラダはぽかん、と口を開けてドラゴンの顔を見る。
ドラゴンは真顔で見返す。
「めす?」
「うむ」
バラダはくるりとドラゴンに背を向けてそのあたりをふらふらとうろつき始め、洞窟の天井を見上げたり鍾乳石に手を付いて寄りかかったりした。
そうしてしばらく無意味に歩き回った後兜を完全に脱ぎ捨てた、短く刈られた赤毛が露わになる。
(……ほお、そんな髪型をしていたのか)
対峙する時には炎を防ぐために常に装備を外さなかったのでバラダの完全な素顔は初めて見る。
「何でそんな大事なこと最初に言わへんねん!?」
「聞かなかっただろう」
「そやけどその……女やったらもうちょい女らしくせえや!」
「どうしろと」
「そらぁ……パンティ穿くとか」
「それこそ絵面を想像してみろ」
「……ごめんなさい」
しょんぼりと項垂れるバラダを見てドラゴンはすうっと息を吸う。
次の瞬間、洞窟内に怪鳥の雄叫びのような音が響き、洞窟内が真っ白になる程の閃光が走った。
ドラゴンがいきなりバラダに白い炎を浴びせ掛けたのだ。
もうもうと上がる鉄臭い煙の中から、盾を構えたバラダの姿が現れる。
完全な不意打ちだったにも関わらず手足もはみ出さない完全な防御体勢を取っていた。
長大な盾を木の葉のように軽々と扱う腕力と野生の勘を兼ね備えるバラダでなければ防げなかった所だ。
「安心した、腑抜けた訳ではないらしいな」
「洒落ならんで自分」
盾の端から微かにバラダの顔が覗く。
釣り上がった目が細くなり、三白眼の迫力がより一層増している。
「切っ掛けを与えてやっただけだ、脆弱な人間風情に性別がどうこうと気を使ってもらわずともお前に私が敗れるなど有り得ない」
無い顎鬚をなぞりながらドラゴンは冷徹な目でバラダを見やる。
バラダの唯でさえ小さい瞳孔がきゅうっと小さくなる。
「おおきに」
低い声で小さく言うとつま先でこん、と脱ぎ捨てた兜を弾き上げて拾い、ドラゴンから目線を外さないまま被ると面甲を下ろす。
表情が隠れ、小さな隙間から小さな瞳孔が獣のように爛々と輝いてドラゴンを見据えている。先程まで表情豊かに喋っていた男と同一人物とはとても思えない。
やにわにバラダは盾を構えたまま猛然とドラゴンに向けて突進を仕掛ける。
ドラゴンは無造作に盾ごと蹴り飛ばそうとする。
蹴りは当たったがつま先は耳触りな音と共に火花を散らしながらバラダの盾の上を滑り、横に回り込まれる。
当たった瞬間に微かに盾の角度を変えて受け流したのだ、武骨な外観にそぐわない繊細な技術だ。
そのまま隙だらけになった側面に攻撃を加えようと剣を振り上げたが、寸前で剣を止め、後ろに大きく飛び退く。
先程までバラダのいた空間をドラゴンの尻尾が横殴りに通り過ぎた。
一旦二人の間に距離が開く。
互いに新鮮な感覚を味わっていた、バラダはこれまで繰り返しドラゴンに戦いを挑んだが、ドラゴンの巨体の周囲をバラダが動き回るというのが何時ものパターンだ。
こうして互いに小回りの効く体での立ち回りはそれまでとは全く感覚が違う。
「……この身体の使い方に慣れるには丁度いい」
「……」
ドラゴンは不敵な笑みを浮かべた、バラダはどうとも答えない、この男は一度戦いとなると本当に無駄口を叩かなくなる
そんな相手の態度に不敵な笑みとは違った嬉しそうな表情を一瞬だけドラゴンは覗かせる。
「……」
その時だ、バラダは一瞬身じろぎし、足の立ち位置を変えると剣を握り直した。
「?」
らしくない、とドラゴンは思った、今の一瞬バラダは明らかに集中が途切れた、何があっても戦いの最中に相手から意識を逸らす男では無いのだが。
気を取り直すようにして今度は盾を構えたままじりじりと前進して来るバラダ。
目の前に晒されている盾に迂闊に飛び込むと何があるか分からない。受けた盾でそのまま地面に押し付けて動きを封じたり、炎に紛れて盾だけを残し、本体が奇襲を掛けるなど様々なバリエーションの戦略を持っているのだ。
ここはバラダに先手を打たせたい。そう考えたドラゴンは羽根と両手を大きく広げて弱点である胴体を晒す。
この身体は手足の末端に比べて胴体や胸部の防御が薄い、バラダが気付いていないはずは無い。
効果は覿面だ、バラダの視線と意識が胸部に集中する、目を輝かせて見入っている。
ここでもうひと押し、自分の身体を色々調べている内に分かった事なのだが体の局部の鱗は自在に消す事が出来る、胸部の鱗を消したならば必ず攻撃に意識が向く。
何しろ弱点である心臓部が完全に無防備になるのだ、罠だとわかっていても意識せざるを得ない筈だ。
ドラゴンは胸部の鱗を消した。
たゆゆん♪
効果覿面……どころでは無かった。
カランカラーンと音を立てて剣と楯がバラダの両手から滑り落ちたのだ。
「!?」
流石にその反応は予想していなかったドラゴンは逆に呆気に取られる。
もしそれが作戦だとしたら大したものだった、弱点を晒した状態で意識まで無防備になってしまったのだから。
しかし残念ながらそれは作戦ではなかった。
ドラゴンがどれだけ大きな隙を見せようと武器と防具を取り落としたバラダは奇襲をかけるでも武器を拾うでもなく、ただただ棒立ちでドラゴンの胸部を凝視するばかりだ。
「……」
ドラゴンはそのままバラダにのしのし歩いて近付いて行く。
たゆん♪たゆん♪たゆん♪
バラダの目線は揺れるそれを追い続ける。
ドラゴンが握り拳を作って振り上げた時でさえバラダの視線は胸部に釘付けになっている。
仕方ないのでドラゴンはそのまま拳を振り下ろした。
ごちーーん
「おぼぶ」
兜の頭頂部をドラゴンの力で強打されたバラダは地面にめり込まんばかりの勢いで……いや、実際に地面の岩に頭をめり込まされてびくんびくんと痙攣する羽目になった。
「……何故?」
自分の行動がどうしてこのような結果に繋がったのかわからず、ドラゴンはただ首を傾げるしかなかった。
13/01/13 16:23更新 / 雑兵
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