前編
「ようコンラッド、腕試しをしようぜ」
訓練所で声を掛けられ、コンラッドは素振りを中断して振り向いた、視線の先にいたのは同期の中でも粗暴なことで有名な男だった。
「俺でよければ」
訓練所の中央で二人は対峙する、訓練所の中で訓練生同士が練習試合をすることなど珍しい事でもないが、片方がコンラッドである事がわかると周囲の目線が集まった、
それは好奇であったり嘲笑であったりしたが、いずれにしろコンラッドに対する呆れを含んだものだった。
「さぁて行くぜぇー」
男は嫌な笑みを浮かべると練習用の木刀で打ちかかってきた、
その太刀筋は決して洗練されているわけではない、そもそもこの男の実力は同期の中でも劣っている方だ、しかしコンラッドの方はそれを受けるのに精一杯といった様子だ、いくらも打ち合わないうちにコンラッドの木刀は手から弾き飛ばされてしまう。
「相変わらず弱ぇーなぁほんとに」
「ありがとうございました」
笑いながら一礼もせずに去る相手の背にコンラッドは礼儀正しく頭を下げた、
憂さ晴らしのような試合だった、その男はその試合の直前に自分より格上の相手に挑み、こてんぱんにやられた後だったのだ、この訓練所で囁かれていることだ、自信を無くした時にはコンラッドと試合をすればいい、彼になら必ず勝てるから調子が上がる。
「次は私と一試合願えますか」
立ち去ろうとした男の背に声が掛けられる、振り返った男はぎょっとした。
声を掛けたのは美しい少女だった、二つに結えた長い金の髪を揺らし、木刀を手にぴんと背筋を伸ばし、蒼い光を放つ瞳で男を見ている、気の強そうな顔立ちも相まって凛とした空気を纏っているが背筋を伸ばしているため練習着を押し上げる二つの豊かな膨らみが強調されて見える。
「い、いや少し、疲れちまってな、遠慮しとくわ」
「そうですか?彼と試合をしている時は随分威勢がいいように見えましたが」
「それはその・・・と、とにかく相手探すなら他を当たってくれ」
男はそそくさとその場を離れた。
相手をしたくないのも当然だ、その少女―ソラン・ストーサーの優秀さは学園の内外に知れ渡っている、講師も舌を巻く聡明さと師範を驚かせる武術的才能、加えて精霊との親和性も高く、すでに卒業後の彼女の就任先をめぐって教団の軍部内で激しいスカウト合戦が繰り広げられているという噂だ。
ソランは男の背に冷ややかな一瞥をくれた後、コンラッドに向き直った。
「ああいった申し出は断りたければ断って構わないと思いますが」
「別に断る理由はないです」
「ですが彼は・・・」
それ以上踏み込んで言うとコンラッドに対して失礼な物言いになってしまう事に気付き、ソランは途中で言葉を飲み込んだ。
コンラッドは軽く会釈をし、立ち去った。
その日の訓練と教義の時間が終わり、夕方の自由時間が訪れた。
生徒達は仲のいい者同士でスポーツやゲームに興じたり一人の時間を楽しんだり、
各々好きに時間を使う。
スポーツに使う運動場は訓練所とは別に設置されているのでこの時間帯の訓練所は基本的に無人である、その訓練所にコンラッドは居た。
コンラッドは地面に落ちている石を粗方拾い集めるとレーキを使って地面を丹念に平らに慣らしていく、隅々まで地面が整備されると次は練習用の道具の整備に取り掛かった、防具の留め具の緩みを締め直したり木刀の握りを確認したりし始める。
本来は月に一度の一斉点検以外に備品の整備は行われていないが、彼はほぼ毎日のように点検、整備を誰に言われるでもなく行っていた、それによって備品の故障や設備の不備によって起こっていた事故による怪我人の数は減少しているのだが、その事を知る者は学園には殆どいない。
薄暗い用具室の中で黙々と作業を続けるコンラッドの視界の端にふと人影が映る、入口にソランが立っていた。
ソランは周囲を見回し、彼以外に人影が見えないのを確認し、彼のそばまで歩いてくると、座り込んで作業をする彼の隣にそっと腰を下ろした。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶を交わした後、ソランははにかむように少し笑った、その笑顔を見てコンラッドは何かを誤魔化すように頭を掻いた。
ソランはコンラッドの傍に山にして置かれている篭手を一つ取り上げると彼と同じように整備を始めた。
「その・・・俺がやりますよ」
「整備の練習をしてるんです」
「ソランさん整備の仕方なんて熟知してるじゃないですか」
「自由時間に何をしても個人の自由じゃないですか?」
「しかし・・・」
「それより聞きたい事があります」
「は、はい?」
ソランは手元に落としていた視線を一瞬コンラッドに向け、また落とした。
「悔しくはないんですか」
その一言で昼の訓練での事だと分かった。
「勿論悔しいですよ、これでも男ですから」
「だけど真剣に勝とうとしていないですね?」
コンラッドはまた頭を掻いた。
「むしろ相手に合わせるような・・・変な言い方をすると華を持たせるような負け方を意識してやっていませんか?」
コンラッドは何も言わない。
「図星ですか?そうですよね?いつもそうですよね?・・・どうしてそんなことをするんですか?」
ソランの声に感情の昂ぶりを感じ、コンラッドは彼女の方を見た。
強い眼差しが向けられていた、大きく表情は変わっていないが何故だかひどく悔しげな表情に見えた、何か別の言い訳をしようと考えていたがその顔を見て嘘が付けなくなった。
「俺との試合でモチベーションが上がってくれればいいって思ってます」
「・・・なんですかそれ」
「訓練で出来る俺の最大限の貢献です」
「自分が・・・」
ソランは最後まで言えなかった、自分が強くなればいい、と言いたかった、だが言えなかった、彼は決して自分が強くなるための努力を怠っている訳ではないのだ、むしろ誰よりも努力に努力を重ねているのは周知の事実だ、それでも、伸びないのだ、人の倍練習を積んでも周囲に追いつけない、三倍練習してようやく人並み、それはもう彼が致命的に武術に向いていない事を示している、誰よりも本人が分かっている。
黙り込んでしまったソランにコンラッドは微笑み掛けた。
「でも、そんな俺でも下を向かずに頑張れるのはソランさんのお陰なんですよ」
「私の?」
不思議そうな顔をするソランを見て、分からなくて当然か、とコンラッドは思う。
それは彼が入学し、自分の限界を知り、絶望の淵にあった時の話だ。
当時学園では抜きん出た実力を誇るベレラとクライブという二人の生徒がいた、二人は互いをライバル視し、どうにかして自分が一番になろうと躍起になっていた。
ある日、ベレラがやってはならないことをした、クライブの使う練習道具に細工を施し、練習中にクライブが怪我をするように仕向けたのだ、しかし使う前にそれに気付いたクライブは激昂し、真剣を持ち出してベレラに詰め寄った、ベレラも対抗して武器を持ち出し、一触即発の状態になったのだ。
コンラッドはその時の事をよく覚えている、月が明るい夜だった。
互いを腹に据えかねた二人は教師達の目を盗んで夜中の練習場で決闘を行おうとしていた、
周囲の生徒達も二人の真剣勝負に興味があり、教師に告発はしなかった、むしろ野次馬のように練習場の二人を遠巻きに固まって見守り、コンラッドもその群れの中に混じっていた、
そして、二人が剣を構え、いよいよ決闘が始まろうかという時に群衆の中から一人の少女が抜け出し、すたすたと二人に近付いた、ソランだった。
二人はソランを睨んだ。
「下がるんだ、巻き込まれて怪我したくないだろう」
「邪魔をするな!」
周囲からもそうだそうだ引っ込めなどと野次が飛んだが、ソランは意に介さず二人の間近まで近付き、言った。
「貴方方がここに入学した理由はなんですか」
二人は無視して始めようかとも考えたが、少女の間合いが近すぎて巻き込む可能性があり、始められなかった、何よりその少女は不思議と無視できない存在感を放っていた。
「強くなりたいからですか?偉くなりたからですか?周りに自分を認めてもらいたいからですか?お金が欲しいからですか?」
その語り口調は感情の籠らない淡々としたものだったが、その言葉の裏に火のような意志が宿っていることがまざまざと伝わった。
気付けば二人はその少女から目を離せなくなっていた、月明かりに照らされる美しい顔に蒼い瞳が光っている、月の光を反射しているというより、その瞳の内に燃え盛る青白い炎が揺れているようだった。
「その剣は何のために取ったのですか、今から何を討とうとしているのですか、・・・今までの努力はそんなことをするためのものだったのですか」
その言葉は大きな声で語っている訳ではないにも関わらず、二人にだけではなく、周囲に集まっていた生徒達にまで染み渡った。
「守るためじゃないんですか?一人でも多くを救うためじゃないんですか?・・・思い出して下さい先輩、どんな気持ちで入学したんですか?」
いつしか二人の手は下がっていた、周囲の生徒達も皆、俯いていた。
その頃のソランは今のように名が知れている訳ではない、注目を浴び始めていはいたが、まだまだ新米の域といっていい、そんな少女が学園トップの二人と多くの上級生達をその気迫のみで説き伏せてしまったのだ、そして、コンラッドもその夜の彼女の言葉に大きな衝撃を受けていた。
その頃の彼も上昇志向に取りつかれていた、父を見返すために何とかして成績を上げようと躍起になっていた、だがそもそも勇者になりたいと思った動機はそんなものではなかったはずだ、幼い頃に聞いた英雄譚で聞いた危険を顧みず弱きものを助ける善の使途、そういうものなりたかったのではないのか・・・。
そして気付いた、彼女こそは幼い頃自分が憧れた・・・
「ソランさんは・・・皆に大きな影響を与えることができます、俺も与えられた一人です、俺にしか出来ない事はないけれど、俺にでも出来る事はいくらでもあるってことに気付いたんです」
そう言うコンラッドの眼差しを受け、ソランは少し居心地悪そうに身じろぎした。若干頬が赤らんでいる。
「私は・・・そんな大層な・・・」
「早く片付けないと日が暮れちゃいますね」
コンラッドは残りに取り掛かり始める、それを見てソランも慌てて作業を再開した。
コンラッドは必死に目を閉じた、見てはいけない、決して。
「いいわね・・・貴方、とても素敵・・・」
コンラッドは耳を塞いだ、聞いてはいけない、決して。
「ほら、目を開いて?」
コンラッドは息を止めた、嗅いではいけない、決して。
「傍に来て・・・」
コンラッドは離れた、触れてはいけない、決して。
「ほら・・・怖くないから・・・」
そっと肩に触れられた、それだけでもう駄目だった。
触れられた箇所がぼんやりと熱を持ち、魔法を掛けられたように声の主に吸い寄せられる、近付くとふわりといい匂いがする、今まで嗅いだ事のない、果実のような蜜のような・・・何にも例えられない脳髄にまで染み込むような香りがする、力が抜け、耳を塞いでいた両手が落ちる。
「そう・・・力を抜いて」
無防備になった耳元に囁き声が注がれる。瞼が持ち主の意志を離れ、開かれる。
「ね♪名前を教えてくれないかしら?」
妖艶さと無垢さ、相反する二つの魅力が違和感なく同居する美貌が目に焼き付けられる。
(ソラン・・・さん・・・)
暴風のような欲情に侵食される脳内でコンラッドは勇者の名を呼んだ。
騎士学校には生徒を実戦に慣れさせるための「課外授業」がある、未熟な生徒でも被害が出ないようなごく簡単な魔物退治のクエストをさせるのだ。
多少の怪我は仕方ないとしても間違っても死者などが出ないようにクエストは慎重に選ばれる、今回も近隣の森でスライムの目撃情報が入ったので追い払って欲しいという授業にはうってつけに難度の低いクエストだった、コンラッドもその課外授業に参加していた。
森に入った時点で生徒を引率していた教官は僅かな違和感を感じた。
森の空気がいつもと違うような気がしたのだ、しかし本当に僅かだったためもう暫く進んでから判断しようと考えた、それが命取りだった。
違和感を感じてから何メートルも進まないうちに一瞬にして周囲は濃密な魔力に包まれた、経験豊かな教官でさえ感じた事のない強力な魔力だった、
「逃げろっ!!」
今まで聞いたこともないような激しい声で生徒に怒鳴り、剣を抜く教官、生徒達は一瞬驚きで硬直するが、すぐさま来た道を全力で引き返し始める、しかし全ては遅すぎた。
教官が注意を向けていた方向とは逆、つまり生徒達が逃げ出した先に「それ」は出現した、ぐにゃりと空間が歪み、「それ」が現れた瞬間、生徒達はぽかん、と呆けた顔をして立ち止まってしまった。
「何をして・・・!」
振り返った教官までもが目を見開き構えを解いてしまう。
魔法を掛けられたような反応だったが、「彼女」は魅了の魔法を使った訳ではない、彼女のした事はただ、目の前に姿を現し、僅かに微笑んだだけだった。
それだけで生徒達は心を奪われてしまった、腰が砕け、へたり込んでしまう。
教官は何とか剣を構えるが、形だけでまるで力が籠らない。
誰もが恐怖と畏怖を感じると同時に痛いくらいに股間を張り詰めさせてしまっていた。
そう、「彼女」はリリムだった、幻想的に白く輝く長い髪、胸元も太股も露わな挑発的な服装、艶めかしい白い肌、男の欲望と理想を具現化したようなスタイル、らんらんと輝く深紅の瞳、本来禍々しい印象を与える角、羽、尻尾までもがその美貌に彩りを添えるようだった。
リリムは悠々とひとりひとりの顔を眺めながら生徒達の間を縫って歩き出した。
目を合わされた生徒はだらしなく表情を崩す、中にはそれだけで射精してしまう者までいた。
ふと、一人の生徒の前でリリムは足を止めた、その生徒は必死に目を閉じ、リリムの姿を目に映すまいと努力していた、コンラッドだった。
リリムはクスッと笑うと、コンラッドに話し掛け始めた。
課外授業から学校に帰還した一団から凶報が伝えられたのはそれから間もなくだった、
討伐に向かった先でリリムに遭遇し、男子生徒の一人が連れ去られてしまったのだ、生徒の名前はコンラッド・エバンス。
その日の夜、校舎の門の内側に馬の手綱を引いて立つ人影があった、フード付きのマントを身に纏っているので顔はよくわからない。
人影は手綱を手放し、門に近寄った。
門には丈夫な閂が掛けられている。
人影は呼吸を整えるように息を吐き、腰を落とすと、次の瞬間凄まじい速度で腰にさしていた剣を抜いた。
ぱんっと風船が割れるような乾いた音が響き、閂は綺麗に二つに分かれていた。
「おいっ何をしている!今は外出禁止だぞ!」
その時外の見回りをしていた教師が人影に気付いた。
振り向いた人影の顔がランタンの光に照らされ、フードで隠しきれない豊かな金の髪が煌めく、その体には先日コンラッドが整備した鎧を纏っている。
「ソランか!?」
ソランはものも言わず馬に飛び乗ると門を突き破るようにして外に走り出た、教師は慌てて後を追ったが、馬は風のように駆け去ってしまった。
ソランは馬を走らせながら口の中で囁くように呪文を唱えた。
すると、ぽう、と青白い人魂のような光が馬を先導するように灯った。
ソランは青白い光に照らされる道の先を思いつめたように見据えながら馬に鞭を入れた。
コンラッドが連れ去られたという森の方角に向けて。
訓練所で声を掛けられ、コンラッドは素振りを中断して振り向いた、視線の先にいたのは同期の中でも粗暴なことで有名な男だった。
「俺でよければ」
訓練所の中央で二人は対峙する、訓練所の中で訓練生同士が練習試合をすることなど珍しい事でもないが、片方がコンラッドである事がわかると周囲の目線が集まった、
それは好奇であったり嘲笑であったりしたが、いずれにしろコンラッドに対する呆れを含んだものだった。
「さぁて行くぜぇー」
男は嫌な笑みを浮かべると練習用の木刀で打ちかかってきた、
その太刀筋は決して洗練されているわけではない、そもそもこの男の実力は同期の中でも劣っている方だ、しかしコンラッドの方はそれを受けるのに精一杯といった様子だ、いくらも打ち合わないうちにコンラッドの木刀は手から弾き飛ばされてしまう。
「相変わらず弱ぇーなぁほんとに」
「ありがとうございました」
笑いながら一礼もせずに去る相手の背にコンラッドは礼儀正しく頭を下げた、
憂さ晴らしのような試合だった、その男はその試合の直前に自分より格上の相手に挑み、こてんぱんにやられた後だったのだ、この訓練所で囁かれていることだ、自信を無くした時にはコンラッドと試合をすればいい、彼になら必ず勝てるから調子が上がる。
「次は私と一試合願えますか」
立ち去ろうとした男の背に声が掛けられる、振り返った男はぎょっとした。
声を掛けたのは美しい少女だった、二つに結えた長い金の髪を揺らし、木刀を手にぴんと背筋を伸ばし、蒼い光を放つ瞳で男を見ている、気の強そうな顔立ちも相まって凛とした空気を纏っているが背筋を伸ばしているため練習着を押し上げる二つの豊かな膨らみが強調されて見える。
「い、いや少し、疲れちまってな、遠慮しとくわ」
「そうですか?彼と試合をしている時は随分威勢がいいように見えましたが」
「それはその・・・と、とにかく相手探すなら他を当たってくれ」
男はそそくさとその場を離れた。
相手をしたくないのも当然だ、その少女―ソラン・ストーサーの優秀さは学園の内外に知れ渡っている、講師も舌を巻く聡明さと師範を驚かせる武術的才能、加えて精霊との親和性も高く、すでに卒業後の彼女の就任先をめぐって教団の軍部内で激しいスカウト合戦が繰り広げられているという噂だ。
ソランは男の背に冷ややかな一瞥をくれた後、コンラッドに向き直った。
「ああいった申し出は断りたければ断って構わないと思いますが」
「別に断る理由はないです」
「ですが彼は・・・」
それ以上踏み込んで言うとコンラッドに対して失礼な物言いになってしまう事に気付き、ソランは途中で言葉を飲み込んだ。
コンラッドは軽く会釈をし、立ち去った。
その日の訓練と教義の時間が終わり、夕方の自由時間が訪れた。
生徒達は仲のいい者同士でスポーツやゲームに興じたり一人の時間を楽しんだり、
各々好きに時間を使う。
スポーツに使う運動場は訓練所とは別に設置されているのでこの時間帯の訓練所は基本的に無人である、その訓練所にコンラッドは居た。
コンラッドは地面に落ちている石を粗方拾い集めるとレーキを使って地面を丹念に平らに慣らしていく、隅々まで地面が整備されると次は練習用の道具の整備に取り掛かった、防具の留め具の緩みを締め直したり木刀の握りを確認したりし始める。
本来は月に一度の一斉点検以外に備品の整備は行われていないが、彼はほぼ毎日のように点検、整備を誰に言われるでもなく行っていた、それによって備品の故障や設備の不備によって起こっていた事故による怪我人の数は減少しているのだが、その事を知る者は学園には殆どいない。
薄暗い用具室の中で黙々と作業を続けるコンラッドの視界の端にふと人影が映る、入口にソランが立っていた。
ソランは周囲を見回し、彼以外に人影が見えないのを確認し、彼のそばまで歩いてくると、座り込んで作業をする彼の隣にそっと腰を下ろした。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶を交わした後、ソランははにかむように少し笑った、その笑顔を見てコンラッドは何かを誤魔化すように頭を掻いた。
ソランはコンラッドの傍に山にして置かれている篭手を一つ取り上げると彼と同じように整備を始めた。
「その・・・俺がやりますよ」
「整備の練習をしてるんです」
「ソランさん整備の仕方なんて熟知してるじゃないですか」
「自由時間に何をしても個人の自由じゃないですか?」
「しかし・・・」
「それより聞きたい事があります」
「は、はい?」
ソランは手元に落としていた視線を一瞬コンラッドに向け、また落とした。
「悔しくはないんですか」
その一言で昼の訓練での事だと分かった。
「勿論悔しいですよ、これでも男ですから」
「だけど真剣に勝とうとしていないですね?」
コンラッドはまた頭を掻いた。
「むしろ相手に合わせるような・・・変な言い方をすると華を持たせるような負け方を意識してやっていませんか?」
コンラッドは何も言わない。
「図星ですか?そうですよね?いつもそうですよね?・・・どうしてそんなことをするんですか?」
ソランの声に感情の昂ぶりを感じ、コンラッドは彼女の方を見た。
強い眼差しが向けられていた、大きく表情は変わっていないが何故だかひどく悔しげな表情に見えた、何か別の言い訳をしようと考えていたがその顔を見て嘘が付けなくなった。
「俺との試合でモチベーションが上がってくれればいいって思ってます」
「・・・なんですかそれ」
「訓練で出来る俺の最大限の貢献です」
「自分が・・・」
ソランは最後まで言えなかった、自分が強くなればいい、と言いたかった、だが言えなかった、彼は決して自分が強くなるための努力を怠っている訳ではないのだ、むしろ誰よりも努力に努力を重ねているのは周知の事実だ、それでも、伸びないのだ、人の倍練習を積んでも周囲に追いつけない、三倍練習してようやく人並み、それはもう彼が致命的に武術に向いていない事を示している、誰よりも本人が分かっている。
黙り込んでしまったソランにコンラッドは微笑み掛けた。
「でも、そんな俺でも下を向かずに頑張れるのはソランさんのお陰なんですよ」
「私の?」
不思議そうな顔をするソランを見て、分からなくて当然か、とコンラッドは思う。
それは彼が入学し、自分の限界を知り、絶望の淵にあった時の話だ。
当時学園では抜きん出た実力を誇るベレラとクライブという二人の生徒がいた、二人は互いをライバル視し、どうにかして自分が一番になろうと躍起になっていた。
ある日、ベレラがやってはならないことをした、クライブの使う練習道具に細工を施し、練習中にクライブが怪我をするように仕向けたのだ、しかし使う前にそれに気付いたクライブは激昂し、真剣を持ち出してベレラに詰め寄った、ベレラも対抗して武器を持ち出し、一触即発の状態になったのだ。
コンラッドはその時の事をよく覚えている、月が明るい夜だった。
互いを腹に据えかねた二人は教師達の目を盗んで夜中の練習場で決闘を行おうとしていた、
周囲の生徒達も二人の真剣勝負に興味があり、教師に告発はしなかった、むしろ野次馬のように練習場の二人を遠巻きに固まって見守り、コンラッドもその群れの中に混じっていた、
そして、二人が剣を構え、いよいよ決闘が始まろうかという時に群衆の中から一人の少女が抜け出し、すたすたと二人に近付いた、ソランだった。
二人はソランを睨んだ。
「下がるんだ、巻き込まれて怪我したくないだろう」
「邪魔をするな!」
周囲からもそうだそうだ引っ込めなどと野次が飛んだが、ソランは意に介さず二人の間近まで近付き、言った。
「貴方方がここに入学した理由はなんですか」
二人は無視して始めようかとも考えたが、少女の間合いが近すぎて巻き込む可能性があり、始められなかった、何よりその少女は不思議と無視できない存在感を放っていた。
「強くなりたいからですか?偉くなりたからですか?周りに自分を認めてもらいたいからですか?お金が欲しいからですか?」
その語り口調は感情の籠らない淡々としたものだったが、その言葉の裏に火のような意志が宿っていることがまざまざと伝わった。
気付けば二人はその少女から目を離せなくなっていた、月明かりに照らされる美しい顔に蒼い瞳が光っている、月の光を反射しているというより、その瞳の内に燃え盛る青白い炎が揺れているようだった。
「その剣は何のために取ったのですか、今から何を討とうとしているのですか、・・・今までの努力はそんなことをするためのものだったのですか」
その言葉は大きな声で語っている訳ではないにも関わらず、二人にだけではなく、周囲に集まっていた生徒達にまで染み渡った。
「守るためじゃないんですか?一人でも多くを救うためじゃないんですか?・・・思い出して下さい先輩、どんな気持ちで入学したんですか?」
いつしか二人の手は下がっていた、周囲の生徒達も皆、俯いていた。
その頃のソランは今のように名が知れている訳ではない、注目を浴び始めていはいたが、まだまだ新米の域といっていい、そんな少女が学園トップの二人と多くの上級生達をその気迫のみで説き伏せてしまったのだ、そして、コンラッドもその夜の彼女の言葉に大きな衝撃を受けていた。
その頃の彼も上昇志向に取りつかれていた、父を見返すために何とかして成績を上げようと躍起になっていた、だがそもそも勇者になりたいと思った動機はそんなものではなかったはずだ、幼い頃に聞いた英雄譚で聞いた危険を顧みず弱きものを助ける善の使途、そういうものなりたかったのではないのか・・・。
そして気付いた、彼女こそは幼い頃自分が憧れた・・・
「ソランさんは・・・皆に大きな影響を与えることができます、俺も与えられた一人です、俺にしか出来ない事はないけれど、俺にでも出来る事はいくらでもあるってことに気付いたんです」
そう言うコンラッドの眼差しを受け、ソランは少し居心地悪そうに身じろぎした。若干頬が赤らんでいる。
「私は・・・そんな大層な・・・」
「早く片付けないと日が暮れちゃいますね」
コンラッドは残りに取り掛かり始める、それを見てソランも慌てて作業を再開した。
コンラッドは必死に目を閉じた、見てはいけない、決して。
「いいわね・・・貴方、とても素敵・・・」
コンラッドは耳を塞いだ、聞いてはいけない、決して。
「ほら、目を開いて?」
コンラッドは息を止めた、嗅いではいけない、決して。
「傍に来て・・・」
コンラッドは離れた、触れてはいけない、決して。
「ほら・・・怖くないから・・・」
そっと肩に触れられた、それだけでもう駄目だった。
触れられた箇所がぼんやりと熱を持ち、魔法を掛けられたように声の主に吸い寄せられる、近付くとふわりといい匂いがする、今まで嗅いだ事のない、果実のような蜜のような・・・何にも例えられない脳髄にまで染み込むような香りがする、力が抜け、耳を塞いでいた両手が落ちる。
「そう・・・力を抜いて」
無防備になった耳元に囁き声が注がれる。瞼が持ち主の意志を離れ、開かれる。
「ね♪名前を教えてくれないかしら?」
妖艶さと無垢さ、相反する二つの魅力が違和感なく同居する美貌が目に焼き付けられる。
(ソラン・・・さん・・・)
暴風のような欲情に侵食される脳内でコンラッドは勇者の名を呼んだ。
騎士学校には生徒を実戦に慣れさせるための「課外授業」がある、未熟な生徒でも被害が出ないようなごく簡単な魔物退治のクエストをさせるのだ。
多少の怪我は仕方ないとしても間違っても死者などが出ないようにクエストは慎重に選ばれる、今回も近隣の森でスライムの目撃情報が入ったので追い払って欲しいという授業にはうってつけに難度の低いクエストだった、コンラッドもその課外授業に参加していた。
森に入った時点で生徒を引率していた教官は僅かな違和感を感じた。
森の空気がいつもと違うような気がしたのだ、しかし本当に僅かだったためもう暫く進んでから判断しようと考えた、それが命取りだった。
違和感を感じてから何メートルも進まないうちに一瞬にして周囲は濃密な魔力に包まれた、経験豊かな教官でさえ感じた事のない強力な魔力だった、
「逃げろっ!!」
今まで聞いたこともないような激しい声で生徒に怒鳴り、剣を抜く教官、生徒達は一瞬驚きで硬直するが、すぐさま来た道を全力で引き返し始める、しかし全ては遅すぎた。
教官が注意を向けていた方向とは逆、つまり生徒達が逃げ出した先に「それ」は出現した、ぐにゃりと空間が歪み、「それ」が現れた瞬間、生徒達はぽかん、と呆けた顔をして立ち止まってしまった。
「何をして・・・!」
振り返った教官までもが目を見開き構えを解いてしまう。
魔法を掛けられたような反応だったが、「彼女」は魅了の魔法を使った訳ではない、彼女のした事はただ、目の前に姿を現し、僅かに微笑んだだけだった。
それだけで生徒達は心を奪われてしまった、腰が砕け、へたり込んでしまう。
教官は何とか剣を構えるが、形だけでまるで力が籠らない。
誰もが恐怖と畏怖を感じると同時に痛いくらいに股間を張り詰めさせてしまっていた。
そう、「彼女」はリリムだった、幻想的に白く輝く長い髪、胸元も太股も露わな挑発的な服装、艶めかしい白い肌、男の欲望と理想を具現化したようなスタイル、らんらんと輝く深紅の瞳、本来禍々しい印象を与える角、羽、尻尾までもがその美貌に彩りを添えるようだった。
リリムは悠々とひとりひとりの顔を眺めながら生徒達の間を縫って歩き出した。
目を合わされた生徒はだらしなく表情を崩す、中にはそれだけで射精してしまう者までいた。
ふと、一人の生徒の前でリリムは足を止めた、その生徒は必死に目を閉じ、リリムの姿を目に映すまいと努力していた、コンラッドだった。
リリムはクスッと笑うと、コンラッドに話し掛け始めた。
課外授業から学校に帰還した一団から凶報が伝えられたのはそれから間もなくだった、
討伐に向かった先でリリムに遭遇し、男子生徒の一人が連れ去られてしまったのだ、生徒の名前はコンラッド・エバンス。
その日の夜、校舎の門の内側に馬の手綱を引いて立つ人影があった、フード付きのマントを身に纏っているので顔はよくわからない。
人影は手綱を手放し、門に近寄った。
門には丈夫な閂が掛けられている。
人影は呼吸を整えるように息を吐き、腰を落とすと、次の瞬間凄まじい速度で腰にさしていた剣を抜いた。
ぱんっと風船が割れるような乾いた音が響き、閂は綺麗に二つに分かれていた。
「おいっ何をしている!今は外出禁止だぞ!」
その時外の見回りをしていた教師が人影に気付いた。
振り向いた人影の顔がランタンの光に照らされ、フードで隠しきれない豊かな金の髪が煌めく、その体には先日コンラッドが整備した鎧を纏っている。
「ソランか!?」
ソランはものも言わず馬に飛び乗ると門を突き破るようにして外に走り出た、教師は慌てて後を追ったが、馬は風のように駆け去ってしまった。
ソランは馬を走らせながら口の中で囁くように呪文を唱えた。
すると、ぽう、と青白い人魂のような光が馬を先導するように灯った。
ソランは青白い光に照らされる道の先を思いつめたように見据えながら馬に鞭を入れた。
コンラッドが連れ去られたという森の方角に向けて。
11/05/29 21:58更新 / 雑兵
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