1秒
二人が命のやり取りの約束をしてから、季節が一巡りした。
温かな陽気に街の雰囲気も華やぐ季節だが、その日の朝は雨雲に覆われた暗い朝だった。
しかしその雨も冬のように芯から冷える雨ではない。
芽吹き始めた新緑の匂いの混ざる優しい雨だった。
一人の青年がその雨の街を歩いている。
人目を引く青年だった。
簡易な装備と鞘に収まった剣を見れば、街の警備の者と言えなくもない。
しかし、警備というにはその剣のサイズは少々物々しい。
また、雨にも関わらず雨具の類を一つも身に着けていないその青年は頭から爪先まで濡れている。
そしてそれを気にした風でもなく、ぴしゃぴしゃと雨を歩く。
何より目を引くのがその容姿だった。
状況も合わせて月並みな表現だが、水も滴るという表現がまさに的を射ている。
長い金の髪もあって女と見まごう豪奢な顔立ち。
大きな瞳に長い睫毛、通った鼻筋に厚めの唇は、ともすれば性別の垣根を超えた妖しさすら漂わせている。
しかし、時折すれ違う住人達はその容姿に目を奪われながらも、声を掛けたり近寄ろうとしはしない。
身に纏う空気が人を寄せ付けない。
当人は凄んでいる訳でもない、むしろ穏やかな表情をしている。
それでも近寄ってはならない、関わってはならない。
そう肌に訴える何かが青年の周囲に張り詰めている。
この街の住人は知るよしもないが、当時を知る人間が見たなら驚いたであろう。
誰もが振り返る美貌、その美しさに見合わぬ不穏な空気。
血で血を洗う時代を生きた「暴風の騎士」トエント・オルエンド全盛の姿がそこにあった。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ
水を踏みながら、雨を浴びながら、トエントは物思いに耽る。
目的が変わったのはいつだったか。
当初、トエントの目的は介錯をしてもらう事だった。
死ぬべき時に死ねなかった自分を、あの時代を知る戦士に終わらせて貰う事。
それがどうだ、今の自分は。
浮き立つ心は、全身に満ちる高揚は。
斬り甲斐を求めた戦場で、自分が命を賭すに足る相手をずっと求め続けていた。
その求めていた相手に出会ったのだ、皮肉にも、こんな時代に。
最早死は目的では無くなっていた、死はただの結果に過ぎない。
今はもう、ただ。
ディムに会いたい。
会って、斬り合いたい。
命懸けで心を通わせたい。
こんなにも一人の人間の事で頭を一杯にした事は無かった。
ようやく、ようやく機が熟したのだ。
今の自分に出来る最高の自分に仕上がったのだ。
トエントは雨を受けながら、一歩一歩踏みしめるように街を歩く。
街の中心を離れ、郊外に差し掛かる。
道の塗装が荒くなり、足元が泥で汚れていく。
不意に道を外れて草地に足を踏み入れる。
街を見下ろすひときわ高い丘の上。そこが待ち合わせ場所だ。
雨音が建造物を打つぱちぱちした硬質な音から、植物に弾かれるざあざあという柔らかな音に変わる。
ぐっと植物の匂いが濃くなる。
芽吹き始めた新芽の、力強く爽やかな匂い。
それを胸一杯に吸い込みながら足を進める。
やがて、一際大きな木の麓に辿り着いた。
なだらかな丘からは雨にくすぶる街が一望できる。
死に場所は本来、どこでもよかった。
選ぶものでも無く、死んだらそこが死に場所だ。
だがあえてそれを選ぶ事が出来るならば、石ではなく土の上で死にたい、見晴らしのいい場所ならもっといい。
と、自分と反対方向から丘を登って来る人影が見えた。
雨具の類も持たず、自分と同じように雨に濡れるままに歩いて来る。
見間違えようもない、その姿。
来てくれた。
不意に、トエントは涙が出そうになった。
出会ってからたった一年間だ。
なおかつ、碌に顔も合わせていない。
だのに、何十年間ずっと焦がれ続けていた人に会えたような、そんな心地がする。
近付くにつれ、雨にけぶっていたその姿が鮮明になる。
自分と同じような軽装に、腰に二つ差された剣……。
そこで、今までと大きく印象が違う事に気付いた。
最初は何かわからなかったが、はっきりと姿が見えるようになってわかった。
その濡れた黒髪は短くなっていた。
以前は腰に届くまで長かった髪が、今は肩口に揃うくらいに短い。
きちんと切り揃えられているのではなく、まとめてざっくりと切り落としたように多少不揃いになっている。
少し痩せたようにも見える。
いや、実際には身体つきは変わっていないのかもしれない。
その身に着けている使い込まれた装備と、全身から放つ何とも言えない威圧感がそう見せるのかもしれない。
以前には纏っていなかった空気。
自分と同じように、人を寄せ付けない空間。
トエントは直観した。
あの姿こそは、ディムのかつての姿。
血で血を洗う時代を生き抜いたディムの姿なのだと。
目が合った。
いや、目視できるようになっただけで、ずっと互いに見つめ合っていた。
トエントは少し笑った、はにかむように。
ディムも笑った、少し恥じらうように。
互いに足を止めない。
まるで初心な恋人同士の待ち合わせのように。
微笑んだまま二人は距離を縮めていく。
ずちゃ、ずちゃ、と、草を踏む音が聞こえる。
まだ距離があって、なおかつ草を打つ雨音もしているというのに。
いや、身体を動かす時の衣擦れの音から、髪を伝って落ちる雫の音まで。
ディムの発する音だけが鮮明に聞こえる。
他の音が遠い。
時間の流れが奇妙に遅く感じる。
いや、遅い。
雨が見える。
二人の間に落ちる雨粒が。
繋がったり、分裂したりしながら空中を落ちる水滴の一粒一粒が見える。
その水滴を通して複数歪んで映るディムの姿さえ認識できる。
時間が極限に引き延ばされて行く、いや、凝縮しているのか。
空気を感じる。
まるで空間が急に質量をもったかのように。
手足を動かす度に、空気を押しのけていくのを感じる。
みっちりと隙間なく詰まった時間と空間に自らの身体でめりめりと押し入って行く。
雨音が消えた。
ディムの息遣いが聞こえる、心臓の音まで耳に届く。
違う、これは自分の心臓の音なのか。
それとも二人の心音が奇跡のようにシンクロして同時に聞こえているのか。
色が消えた。
周囲の景色から抜けるように色彩が無くなり。
その失われた彩度が全てディムの姿に凝縮される。
胸を覆う金属プレートの表面の細かな傷跡、それの傷に沿って流れ落ちる水流。
服の布地の生地の傷み具合、解れた箇所。
滑らかな黒髪から滴る水滴。
抜けるように白い頬を伝う水。
微笑を浮かべる唇。
濡れて光る黒い瞳、その中の瞳孔と虹彩。
そこに映る自分の姿。
美しい。
この姿を自分だけが見ていいのか。
永遠に切り取って保存しなければ世界の損失なのではないか。
阿呆のようにそんな事が頭をよぎる。
匂いを感じた。
新緑の匂いを掻き消して。
焦げの匂い。
火の匂い。
血の匂い。
ほんの一瞬、それを感じた。
一瞬だけですぐに消えた。
聴覚、触覚、視覚が極限を超えて研ぎ澄まされていく中で、嗅覚だけがほんの一瞬、幻影を嗅ぎ取った。
戦場の匂い。
そうだ、戦場だ。
麓の街は平和な朝を迎えようとしている。
職人たちが仕事の準備を進め。
怠惰な恋人たちは惰眠を貪っているのかもしれない。
そんな時代だ。
だが、この丘の上は。
ここだけは戦場だ。
あの、ずっと昔に失くしたと思っていた戦場が今、ここにある。
二人だけの、二人きりの戦場だ。
だから、言葉は交わさない。
戦場で戦うべき二人が出会ったなら、それはもう言葉の出番ではないのだ。
だけど、もう少しだけ、あともう少しだけ、この瞬間を味わっていたい。
この女神のようなディムの姿を見ていたい。
この女神に殺されるならば本望だ。
いや、本望だろうか。
惜しい気もする。
生まれた時代が、場所が、もう少し違ったなら、違う出会いをしていたなら。
そもそも、平和な時代に出会っていたなら。
もしかしたら俺は、この人を、この人の事を。
間合い、近い、もう近い、もう駄目だ。
神よ、もう少し、もう少しだけ待っーーーー
斬る
間合いに入った。
瞬間、全ての雑念は頭から消え失せ、トエントの思考はそれだけになる。
柔らかく
滑るように、そよ風のようにトエントの手がふうわりと剣の柄を撫でる。
撫でるように剣が抜き放たれ、長大な剣がまるでその重量が無いかのように奔る。
誰に学んだわけでもない、トエント自身が自らの剣を一度捨て。
考えに考え抜いて生まれた型。
「居合い抜き」
図らずも、その動きは東洋の抜刀術に酷似していた。
しかし、本来曲刀にて行う動きを直剣で、尚且つこれ程に長大な得物で行われるのは類を見ない。
トエントの非凡な才が凝縮した一撃。
それは想像もつかない距離から、想像もつかない速度でディムを襲う。
威力と裏腹に、春のそよ風のように柔らかな動きで、トエントの剣が振り抜かれる。
バターのようにディムの胸のプレートが二つに分かれる。
その下の布地が斜めに裂ける。
届かない。
肉には届いていない。
初見で躱すのはほぼ不可能なはずの一撃。
ディムは反応していた。
反射神経ではない。
勘、としか言いようのないものがディムを半歩下がらせた。
幾度となく死線を潜った者にしか備わらない感覚、それがディムを救った。
練り上げられた一撃を放った直後のトエントは剣を振り抜いた状態になっている。
今度はディムが風になった。
腰の剣の柄を握りながらトエントの懐に飛び込む。
トエントの背筋が総毛立つ。
死
殺され
ぶちん
トエントの中で何か太い物が切れた。
突然、トエントの動きだけが時間を飛ばしたかのように早くなった。
片手で抜き放った剣を両手に持ち直し、振り下ろす。
ディムが剣を抜き切らないうちの二つの動作。
柔らかさはない。
それはただただ身体能力。
力の流れを、無理やり怪力でねじ伏せる。
「暴風」が、ディムに降り注ぐ。
ディム!!!!
真っ白な頭の中で相手の名を叫ぶ。
穏やかな表情が剥がれ落ち。
強烈な笑みが浮かんでいる。
俺の物に!!!!
その瞬間、自分で想像もしていなかった内面がむき出しになった。
トエントには、女性経験は無い。
触れた事すらない。
何もかも、全てを剣に捧げたトエントにそんな暇は無かった。
トエントの感情表現は剣だった。
怒りも、悲しみも、喜びも、全てを剣に込めた。
結果として、あまりに歪んだ想いが発露した。
「殺す」事で「自分だけの物」にすると言う発想。
余りに稚拙で、未熟で、野蛮な想い。
その想いが、ディムの肩に食い込む。
肉の感触を感じる。
恍惚が脳を焼く。
がーーー。
それ以上入って行かない。
力が足りないのではない。
肉が、刃の動きに合わせて動いている。
ディムは風の中に踊る落ち葉のように、振り下ろされる刃に合わせて身体を回転させた。
力を逸らされた剣が地面を叩く。
地鳴りと共に地面が砕け散る。
力を受け流したディムは空中でコマのように回転しながら剣を抜く。
斬り込まれた肩口から迸ったディムの血が、空中に真っ赤な花を描き出す。
目が合った。
笑顔。
きっと、それはこの街の誰にも見せた事の無い顔。
普段のちょっと変わり者の顔、訓練の時の真剣な顔、任務の最中の冷静な顔。先程までの穏やかな微笑。
そのどれとも違う笑顔。
きっと、誰にも見せたくなかった。
裏の裏に仕舞いこんでいた顔。
人斬りの、顔。
トエントの右肩から左脇腹に熱い物が走った。
袈裟斬り。
深い。
鎖骨を絶ったその剣筋は、臓腑を深々と経由して、脇腹から抜けていった。
終わった。
良かった。
不思議とそんな感想が漏れた。
殺さなくて良かった、死んだのが俺で良かった。
何を、今更……。
ディムの回転はまだ止まっていない。
遠心力に任せて、もう一つの刃が抜かれる。
そうだ、双剣使いだったな。
いいぞ、完璧な止めをーーーー。
あれ?
何だい、それは。
その剣は……。
「きぇあああああああああ!」
ディムの裂帛の声が響く。
先程と全く同じ軌道でトエントの肩に刃が入り込んできた。
致命傷の太刀筋を綺麗になぞるように、紫色の「魔界銀」の輝きが走る。
鮮烈な熱さが、更なる熱さで上書きされて行く。
「鉄」と「銀」の二連撃。
背中まで抜ける衝撃。
どさっと、ディムの身体が地面に叩きつけられる。
無理な体勢で放った連撃により、着地ができなかった。
倒れたディムを見下ろすようにトエントは立っている。
目は遠くを見ている。
ぐるりと瞳孔が上を向き、すとん、と膝を着いて崩れ落ちた。
倒れたディムと座り込んだトエントに、温かな雨が降り注ぎ続ける。
二人の間合いが触れあった瞬間から、一秒の決着だった。
温かな陽気に街の雰囲気も華やぐ季節だが、その日の朝は雨雲に覆われた暗い朝だった。
しかしその雨も冬のように芯から冷える雨ではない。
芽吹き始めた新緑の匂いの混ざる優しい雨だった。
一人の青年がその雨の街を歩いている。
人目を引く青年だった。
簡易な装備と鞘に収まった剣を見れば、街の警備の者と言えなくもない。
しかし、警備というにはその剣のサイズは少々物々しい。
また、雨にも関わらず雨具の類を一つも身に着けていないその青年は頭から爪先まで濡れている。
そしてそれを気にした風でもなく、ぴしゃぴしゃと雨を歩く。
何より目を引くのがその容姿だった。
状況も合わせて月並みな表現だが、水も滴るという表現がまさに的を射ている。
長い金の髪もあって女と見まごう豪奢な顔立ち。
大きな瞳に長い睫毛、通った鼻筋に厚めの唇は、ともすれば性別の垣根を超えた妖しさすら漂わせている。
しかし、時折すれ違う住人達はその容姿に目を奪われながらも、声を掛けたり近寄ろうとしはしない。
身に纏う空気が人を寄せ付けない。
当人は凄んでいる訳でもない、むしろ穏やかな表情をしている。
それでも近寄ってはならない、関わってはならない。
そう肌に訴える何かが青年の周囲に張り詰めている。
この街の住人は知るよしもないが、当時を知る人間が見たなら驚いたであろう。
誰もが振り返る美貌、その美しさに見合わぬ不穏な空気。
血で血を洗う時代を生きた「暴風の騎士」トエント・オルエンド全盛の姿がそこにあった。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ
水を踏みながら、雨を浴びながら、トエントは物思いに耽る。
目的が変わったのはいつだったか。
当初、トエントの目的は介錯をしてもらう事だった。
死ぬべき時に死ねなかった自分を、あの時代を知る戦士に終わらせて貰う事。
それがどうだ、今の自分は。
浮き立つ心は、全身に満ちる高揚は。
斬り甲斐を求めた戦場で、自分が命を賭すに足る相手をずっと求め続けていた。
その求めていた相手に出会ったのだ、皮肉にも、こんな時代に。
最早死は目的では無くなっていた、死はただの結果に過ぎない。
今はもう、ただ。
ディムに会いたい。
会って、斬り合いたい。
命懸けで心を通わせたい。
こんなにも一人の人間の事で頭を一杯にした事は無かった。
ようやく、ようやく機が熟したのだ。
今の自分に出来る最高の自分に仕上がったのだ。
トエントは雨を受けながら、一歩一歩踏みしめるように街を歩く。
街の中心を離れ、郊外に差し掛かる。
道の塗装が荒くなり、足元が泥で汚れていく。
不意に道を外れて草地に足を踏み入れる。
街を見下ろすひときわ高い丘の上。そこが待ち合わせ場所だ。
雨音が建造物を打つぱちぱちした硬質な音から、植物に弾かれるざあざあという柔らかな音に変わる。
ぐっと植物の匂いが濃くなる。
芽吹き始めた新芽の、力強く爽やかな匂い。
それを胸一杯に吸い込みながら足を進める。
やがて、一際大きな木の麓に辿り着いた。
なだらかな丘からは雨にくすぶる街が一望できる。
死に場所は本来、どこでもよかった。
選ぶものでも無く、死んだらそこが死に場所だ。
だがあえてそれを選ぶ事が出来るならば、石ではなく土の上で死にたい、見晴らしのいい場所ならもっといい。
と、自分と反対方向から丘を登って来る人影が見えた。
雨具の類も持たず、自分と同じように雨に濡れるままに歩いて来る。
見間違えようもない、その姿。
来てくれた。
不意に、トエントは涙が出そうになった。
出会ってからたった一年間だ。
なおかつ、碌に顔も合わせていない。
だのに、何十年間ずっと焦がれ続けていた人に会えたような、そんな心地がする。
近付くにつれ、雨にけぶっていたその姿が鮮明になる。
自分と同じような軽装に、腰に二つ差された剣……。
そこで、今までと大きく印象が違う事に気付いた。
最初は何かわからなかったが、はっきりと姿が見えるようになってわかった。
その濡れた黒髪は短くなっていた。
以前は腰に届くまで長かった髪が、今は肩口に揃うくらいに短い。
きちんと切り揃えられているのではなく、まとめてざっくりと切り落としたように多少不揃いになっている。
少し痩せたようにも見える。
いや、実際には身体つきは変わっていないのかもしれない。
その身に着けている使い込まれた装備と、全身から放つ何とも言えない威圧感がそう見せるのかもしれない。
以前には纏っていなかった空気。
自分と同じように、人を寄せ付けない空間。
トエントは直観した。
あの姿こそは、ディムのかつての姿。
血で血を洗う時代を生き抜いたディムの姿なのだと。
目が合った。
いや、目視できるようになっただけで、ずっと互いに見つめ合っていた。
トエントは少し笑った、はにかむように。
ディムも笑った、少し恥じらうように。
互いに足を止めない。
まるで初心な恋人同士の待ち合わせのように。
微笑んだまま二人は距離を縮めていく。
ずちゃ、ずちゃ、と、草を踏む音が聞こえる。
まだ距離があって、なおかつ草を打つ雨音もしているというのに。
いや、身体を動かす時の衣擦れの音から、髪を伝って落ちる雫の音まで。
ディムの発する音だけが鮮明に聞こえる。
他の音が遠い。
時間の流れが奇妙に遅く感じる。
いや、遅い。
雨が見える。
二人の間に落ちる雨粒が。
繋がったり、分裂したりしながら空中を落ちる水滴の一粒一粒が見える。
その水滴を通して複数歪んで映るディムの姿さえ認識できる。
時間が極限に引き延ばされて行く、いや、凝縮しているのか。
空気を感じる。
まるで空間が急に質量をもったかのように。
手足を動かす度に、空気を押しのけていくのを感じる。
みっちりと隙間なく詰まった時間と空間に自らの身体でめりめりと押し入って行く。
雨音が消えた。
ディムの息遣いが聞こえる、心臓の音まで耳に届く。
違う、これは自分の心臓の音なのか。
それとも二人の心音が奇跡のようにシンクロして同時に聞こえているのか。
色が消えた。
周囲の景色から抜けるように色彩が無くなり。
その失われた彩度が全てディムの姿に凝縮される。
胸を覆う金属プレートの表面の細かな傷跡、それの傷に沿って流れ落ちる水流。
服の布地の生地の傷み具合、解れた箇所。
滑らかな黒髪から滴る水滴。
抜けるように白い頬を伝う水。
微笑を浮かべる唇。
濡れて光る黒い瞳、その中の瞳孔と虹彩。
そこに映る自分の姿。
美しい。
この姿を自分だけが見ていいのか。
永遠に切り取って保存しなければ世界の損失なのではないか。
阿呆のようにそんな事が頭をよぎる。
匂いを感じた。
新緑の匂いを掻き消して。
焦げの匂い。
火の匂い。
血の匂い。
ほんの一瞬、それを感じた。
一瞬だけですぐに消えた。
聴覚、触覚、視覚が極限を超えて研ぎ澄まされていく中で、嗅覚だけがほんの一瞬、幻影を嗅ぎ取った。
戦場の匂い。
そうだ、戦場だ。
麓の街は平和な朝を迎えようとしている。
職人たちが仕事の準備を進め。
怠惰な恋人たちは惰眠を貪っているのかもしれない。
そんな時代だ。
だが、この丘の上は。
ここだけは戦場だ。
あの、ずっと昔に失くしたと思っていた戦場が今、ここにある。
二人だけの、二人きりの戦場だ。
だから、言葉は交わさない。
戦場で戦うべき二人が出会ったなら、それはもう言葉の出番ではないのだ。
だけど、もう少しだけ、あともう少しだけ、この瞬間を味わっていたい。
この女神のようなディムの姿を見ていたい。
この女神に殺されるならば本望だ。
いや、本望だろうか。
惜しい気もする。
生まれた時代が、場所が、もう少し違ったなら、違う出会いをしていたなら。
そもそも、平和な時代に出会っていたなら。
もしかしたら俺は、この人を、この人の事を。
間合い、近い、もう近い、もう駄目だ。
神よ、もう少し、もう少しだけ待っーーーー
斬る
間合いに入った。
瞬間、全ての雑念は頭から消え失せ、トエントの思考はそれだけになる。
柔らかく
滑るように、そよ風のようにトエントの手がふうわりと剣の柄を撫でる。
撫でるように剣が抜き放たれ、長大な剣がまるでその重量が無いかのように奔る。
誰に学んだわけでもない、トエント自身が自らの剣を一度捨て。
考えに考え抜いて生まれた型。
「居合い抜き」
図らずも、その動きは東洋の抜刀術に酷似していた。
しかし、本来曲刀にて行う動きを直剣で、尚且つこれ程に長大な得物で行われるのは類を見ない。
トエントの非凡な才が凝縮した一撃。
それは想像もつかない距離から、想像もつかない速度でディムを襲う。
威力と裏腹に、春のそよ風のように柔らかな動きで、トエントの剣が振り抜かれる。
バターのようにディムの胸のプレートが二つに分かれる。
その下の布地が斜めに裂ける。
届かない。
肉には届いていない。
初見で躱すのはほぼ不可能なはずの一撃。
ディムは反応していた。
反射神経ではない。
勘、としか言いようのないものがディムを半歩下がらせた。
幾度となく死線を潜った者にしか備わらない感覚、それがディムを救った。
練り上げられた一撃を放った直後のトエントは剣を振り抜いた状態になっている。
今度はディムが風になった。
腰の剣の柄を握りながらトエントの懐に飛び込む。
トエントの背筋が総毛立つ。
死
殺され
ぶちん
トエントの中で何か太い物が切れた。
突然、トエントの動きだけが時間を飛ばしたかのように早くなった。
片手で抜き放った剣を両手に持ち直し、振り下ろす。
ディムが剣を抜き切らないうちの二つの動作。
柔らかさはない。
それはただただ身体能力。
力の流れを、無理やり怪力でねじ伏せる。
「暴風」が、ディムに降り注ぐ。
ディム!!!!
真っ白な頭の中で相手の名を叫ぶ。
穏やかな表情が剥がれ落ち。
強烈な笑みが浮かんでいる。
俺の物に!!!!
その瞬間、自分で想像もしていなかった内面がむき出しになった。
トエントには、女性経験は無い。
触れた事すらない。
何もかも、全てを剣に捧げたトエントにそんな暇は無かった。
トエントの感情表現は剣だった。
怒りも、悲しみも、喜びも、全てを剣に込めた。
結果として、あまりに歪んだ想いが発露した。
「殺す」事で「自分だけの物」にすると言う発想。
余りに稚拙で、未熟で、野蛮な想い。
その想いが、ディムの肩に食い込む。
肉の感触を感じる。
恍惚が脳を焼く。
がーーー。
それ以上入って行かない。
力が足りないのではない。
肉が、刃の動きに合わせて動いている。
ディムは風の中に踊る落ち葉のように、振り下ろされる刃に合わせて身体を回転させた。
力を逸らされた剣が地面を叩く。
地鳴りと共に地面が砕け散る。
力を受け流したディムは空中でコマのように回転しながら剣を抜く。
斬り込まれた肩口から迸ったディムの血が、空中に真っ赤な花を描き出す。
目が合った。
笑顔。
きっと、それはこの街の誰にも見せた事の無い顔。
普段のちょっと変わり者の顔、訓練の時の真剣な顔、任務の最中の冷静な顔。先程までの穏やかな微笑。
そのどれとも違う笑顔。
きっと、誰にも見せたくなかった。
裏の裏に仕舞いこんでいた顔。
人斬りの、顔。
トエントの右肩から左脇腹に熱い物が走った。
袈裟斬り。
深い。
鎖骨を絶ったその剣筋は、臓腑を深々と経由して、脇腹から抜けていった。
終わった。
良かった。
不思議とそんな感想が漏れた。
殺さなくて良かった、死んだのが俺で良かった。
何を、今更……。
ディムの回転はまだ止まっていない。
遠心力に任せて、もう一つの刃が抜かれる。
そうだ、双剣使いだったな。
いいぞ、完璧な止めをーーーー。
あれ?
何だい、それは。
その剣は……。
「きぇあああああああああ!」
ディムの裂帛の声が響く。
先程と全く同じ軌道でトエントの肩に刃が入り込んできた。
致命傷の太刀筋を綺麗になぞるように、紫色の「魔界銀」の輝きが走る。
鮮烈な熱さが、更なる熱さで上書きされて行く。
「鉄」と「銀」の二連撃。
背中まで抜ける衝撃。
どさっと、ディムの身体が地面に叩きつけられる。
無理な体勢で放った連撃により、着地ができなかった。
倒れたディムを見下ろすようにトエントは立っている。
目は遠くを見ている。
ぐるりと瞳孔が上を向き、すとん、と膝を着いて崩れ落ちた。
倒れたディムと座り込んだトエントに、温かな雨が降り注ぎ続ける。
二人の間合いが触れあった瞬間から、一秒の決着だった。
23/10/16 21:04更新 / 雑兵
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