融和編
桃はバスに揺られながら、窓から朝日を見ていた。
駅からも遠い民宿近くのバス停は利用客も少なく、始発のこのバスに乗っているのは桃一人だけだ。
山を包む朝もやが日の光に照らされて白く輝いている。
清々しい自然の朝だが、それを見る桃は奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
(今日一日が終わった時……この日が落ちた時……私は……)
どうなっているのだろう。
普通に考えると、どうにもならない。
村を訪れても結局何も起きず、ただ普通に帰る。
そうなるはずなのだ、普通に考えたら。
桃はその普通の考えにむしろ縋っている自分に気付いた。
何も起きないはず。
でも、何かが起きたら?
何かって、何?
もし、何かが起こるとするなら。
それは自分の存在を根底から揺るがす出来事ではないだろうか。
それが自分の望みなのだろうか。
ずっと心惹かれているのはそれを望んでいるからだろうか。
(……帰ろうかな……)
ふと、そんな考えまでもが頭をよぎる。
このまま引き返して、元の日常に戻ったっていい。
誰かに強制されている訳でもない、自分の意思で来たのだから誰にも迷惑は掛からない。
「……」
桃は目を閉じた。
それはない、その選択肢はない。
多分、ここで引き返したとしても、自分はずっとこの場所に心を囚われたままになる。
辿り着いて何も起きなかったなら、「何も起きなかった」という結果を持ち帰らなければいけない。
ずっとこれを引きずったままでいる訳にはいかない。
「えー、次はー○○ー○○ー」
車内に響いた声に、桃は手元のメモに視線を落とす。
目的のバス停だ。
バスを降りると、盛大な蝉の鳴き声が出迎える。
今はまだ早朝なので気温も控え目だが、日中は昨日と同じくらいに上がるという予報だ。
桃は帽子を被り、これから進もうとする山道を見据えた。
「……ここって……」
デジャヴを感じた。
・
・
・
(おかしい……)
山道で、桃は奇妙な事に気付いた。
(静かすぎない……?)
山中に桃以外の人はいないが、それにしても静かすぎた。
鳥の声、動物の気配、何よりやかましく聞こえるはずの蝉の声さえない。
木々の一つ一つでさえ、音を立てないよう息を潜めているかのようだ。
山が、しいんと静まり返っている。
響くのは桃の息遣いと、足音のみ。
「そっか……」
小さく呟く。
何がそうか、なのかは自分でもわからない。
・
・
・
(ここ)
桃は立ち止まって周囲を見回した。
△△村。
とはいえ、ぱっと見は森と変わらない。
注意深く観察すると家屋の残骸らしきものが木の葉の下に埋まっているのが見える。
だが、桃はすぐにここだと分かった。
(おい、見ろ、六条の娘だ)
かつて村だったその場所を、桃は落ち葉を踏んで歩く。
ずっと静寂に包まれている山中に、桃の草を踏む音だけが響く。
(どの面下げて歩いてんだか……)
(全く困ったもんだ)
(やはり罰が当たったんだ、あの家は……)
朽ちた家屋を横目に、桃はかつては村の道だったであろうあぜ道を歩く。
(お前のお陰で我が家は……!)
(役立たず!)
(うちの子じゃないよ、あんたなんか……)
「うるさい」
桃は顔を上げて言った。
無音、無風だった空間にさぁっと一陣の風が吹き、周囲に漂っていた囁き声のような何かはそれに吹かれて消えた。
桃が立っていたのは既に跡形も無くなり、定礎だけになっている屋敷の前。
恐らく、村で一番大きな屋敷だっただろう残骸。
「……さようなら」
それに冷たい一瞥を送り、桃はまた歩き出した。
(……何へのさよならなんだろ……)
歩きながら、桃は奇妙な感覚を味わっていた。
自分は間違いなく自分の意思で歩いているし、今の言葉も自分の意思で発した言葉だ。
だけど、何が「さようなら」なのかはわかっていない。
それでもその事に混乱もせず、自然に自分の行動を受け入れている。
そして、辿り着くべき場所がこの先にある事も分かっている。
どうして分わかるのかわからない、だけど分かる……。
桃は、崩れかけの鳥居の前で足を止めた。
足元を見ると、朽ちたしめ縄が落ちている。
「……」
桃には、普通と違う所がある。
人や動物から怖がられるのが一つ、加えてもう一つある。
桃は、鳥居をくぐれない。
修学旅行でもお寺の見学に行こうとした所で急に気分が悪くなり、入る事が出来なかった。
それ以外でも神社仏閣には同じ反応が出るので、必然的に近寄らないようにしていた。
何故か分からなかったが、今は分かる。
鳥居とは神域と俗界を隔てる結界のようなものなのだという。
つまり、桃はそこに立ち入る事が許されない存在なのだ。
だが……
(……ここは、違う)
桃は縄を踏み越え、生まれて初めて鳥居をくぐった。
何とも感じなかった。
当然だ、ここは神域などではない。
ここは、自分の檻だ。
(檻……そっか……私はここに……)
奇妙な感覚は続く。
知らないはずの事が、昔から知っている事を再認識するように頭に浮かんでくる。
浮かんで来たそれを再び自分が認識する。
知るはずの無い記憶を思い出していくような……。
その感覚に身を委ね、鳥居の奥の苔生した石段を登って行く。
「ふう……」
途中、タオルで汗を拭ってペットボトルから水を飲んだ。
随分歩いて来た、今はちゃんと「身体がある」のだから水分補給は大事だ。
「……「身体があるから」?……「無かった」の?」
浮かんだ思考に対して、自分で問いかける。
これこそ自問自答というやつか。
可笑しみを覚えながら、相変わらず無音の森の中を進む。
「うわあ」
不意に視界が開けた。
生い茂る森が途切れ、ちょっとした広場のようになっている。
その広場の中央に、苔と草に埋もれた自然石が鎮座している。
いや、ただの石ではない、自分はそれを知っている。
足首程に茂っている草を踏み分けて、桃はその石に近寄る。
石の表面には何がしかの文字が刻まれていたようだが、蔦に覆われてもう読む事はできない。
「……」
ふい、と振り返る。
石碑自体より、その前の広場に気が引かれた。
何だろう、何か、自分は何かを捜している。
しばらくの間周囲の草の上をうろつき、その何かを捜した。
「……あっ……」
これだろうか、いや、間違いない、これだ。
生い茂る草に隠れて見つけ辛くなっていたが、そこにあった。
首の細い形状の小瓶、とっくりだ。
苔が生えて緑色になっているが、元は白いようだ。
ああ、懐かしい。
あの時のお母さんは勇敢だったけれど、わたしは怖くなかった。
見えていたからだ。
お母さんの中にある願い、欲望。
お父さんへの想いが。
だから、それが利用できるって考えたんだ……。
「そう……うん……そう……」
呟きながら、頭の中を整理していく。
「……」
時間が掛かりそうだった。
今のもほんの一部。
まるでバラバラのパズルのようだ。
でも焦る事は無い、ここは「思い出す」のに最適な場所なのだ。
桃はリュックを肩から降ろすと中から携帯用の椅子を取り出し、それで石碑の前に座った。
「……」
ぷかり、ぷかりと、水泡のように記憶が浮かんで来る。
それらは油断するとするすると指の間を抜けるように滑り落ちて行く。
桃は焦る事なく、捕まえられる断片を捕まえて、それを掘り下げていく。
そうするとその記憶に関連した記憶が芋づる式に浮かび上がってくるのだ。
「………」
桃は椅子の上で目を閉じる。
山は、痛いくらいの静寂に包まれている。
・
・
・
ふと、桃は目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
いや、これを眠りと呼んでいいのかはわからないが……。
来た時はまだ午前中だったはずだが既に日は落ち、周囲は真っ暗だ。
見上げてみると夜空に月が浮かんでいる。
時計を見ると既に真夜中。
普通ならばかなり危険な状態だ。
麓とは言え、森の中で夜を明かすための装備も無い。
そして夜の山道は危険極まりない。
だが、桃は焦る事もなく椅子から立ち上がり、それをリュックにしまうとサクサクと草を踏み分けて元来た道を戻り始めた。
光源も何も持たずに。
当然、僅かな月明かりが遮られる森の中は一寸先も見えない暗闇になる。
しかし桃は危なげなく石段を下り、暗闇の中を進む。
鳥居をくぐり抜け、真夜中の廃村にまで着く。
普通の人間であれば足が竦むような不気味な雰囲気に包まれている。
そんな中を桃は淀みない歩調で歩いて行く。
まるで自分の庭でも歩くような調子だ。
いや、実際そうなのだ。
何年も、何百年も、閉ざされ、彷徨い続けた場所。
ある意味では慣れ親しんだ忌まわしい場所。
迷うはずもない。
そして、暗闇も……前が見えない事にも恐怖は無い。
当然だ。
ずうっと、「お隠し」で何も見えないまま彷徨っていたのだ。
前が見えない状態なんて、桃にとってはそれが普通の事なのだ。
・
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・
〜某掲示板〜
今まで幽霊とかは信じた事はなかったけど、最近になってどう考えても不条理な出来事に遭遇したから、ここに書き込ませてもらう。
旅行好きな俺は長期休暇が取れたら車で色々な所を巡るのが趣味なんだ。
その日も大きな目的も決めず、とりあえず行った事の無い場所へ行きたいってんで○○県に出かけたんだ。
周囲にコンビニもないようなド田舎でさ。
でもいいキャンプ場があるし、観光地じゃない所に行くのが醍醐味だったからな。
で、釣りやらなんやらに夢中になってたら随分遅くなっちまってさ、旅館に向けてすっかり暗くなった道を車で走ってたんだ。
○○山の麓の道路だったかな。
その道を走ってる時、妙な感じがしてたんだ。
何かおかしいな、って。
でもその違和感の正体に気付く前に道路脇を人が歩いてるのに気付いたんだ。
最初何かわからなかったけど、スピード落として近寄ってみると女の子だった。
帽子被ってリュック背負った高校生くらいの女の子。
その子がふい、ってこっち向いた顔見たらすげえ可愛い子なもんで、思わず車止めたのよ。
いや、ちょっとしたスケベ心があったのは否定しないけど、何よりこんな山道を女の子一人で歩くの危ないって思ったからさ。
で、窓を開けて「こんなとこでどうしたの?」って声掛けたの。
何だったら送ってやろうって思ってさ。
女の子は黙ってじいってこっちを見てた。
警戒してんのかな、って思った、まあ当然か。
でも近くで見るとますます美人なんだよその娘、ちょと見た事ないくらいで、スラっとしてスタイルもいい。
でも、そこでおかしい事に気付いたんだ。
その山道って本っ当に田舎道で、外灯さえ設置されてないのよ。
車で走る時もヘッドライトだけが頼りで、かなりスピード落とさないと怖いくらい。
で、改めてその女の子見てみるとさ。
明かりを何も持ってないんだ。
懐中電灯も、スマホライトさえも持ってない。
考えられるか?
完全に暗闇の山道を、明かりも持たずに歩くって事あるか?
で、そこでもう一つの違和感に気付いたんだ。
それは道を走ってる時に感じた違和感だったんだけど。
音がしないのよ。
季節的に鈴虫でも鳴いてるのが普通なのに、車のエンジン音しか聞こえない。
もう、シーンってしてるの。
あり得ないくらいに。
そこに気付いた途端、ずわって鳥肌が立ってさ。
物も言わずに窓閉めて走り去ったんだ。
バックミラーで見てみると、その子はずっと立って走り去るこっちを見てた。
で、その姿がミラーから消えた瞬間、虫の声が聞こえたんだ。
リーンリーンリーン、って鈴虫の声ね。
本当だったら聞こえてないとおかしかった声だよ。
そこでまた鳥肌だよ。
あの子の周辺だけ虫が鳴いてない無音空間だったって事じゃない?
文章にしてみるとそんなだけど、実際経験した俺にとっては洒落にならない話だった。
今でも、もしあの時あの娘を乗せてたらどうなってたかって想像すると鳥肌が立つ。
・
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「なんなのもう……」
道路脇に立つ桃は走り去る車を見送ってぼやいた。
民宿までまだ結構距離があるから乗せてもらえたら助かると思った。
だけど危ない人ではないだろうか、と、声を掛けて来た運転手を観察していると急に真っ青になって走り出してしまった。
「……怖がらせちゃったかな」
本当に、この体質にも困ったものだ。
「うー、お腹すいた……」
リュックには軽い食料しか入れてこなかったので、お腹はペコペコだ。
「あー、生きてる……生きてるって素晴らしい……でも生きてる身体って不便……」
今更ながら生きた体の実感と不自由を感じながら、桃は真っ暗な夜道をせっせと歩くのだった。
20/10/04 17:43更新 / 雑兵
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