連載小説
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円熟編
 「娘さん幾つだったっけか」
「高校に入りましたね」
「かぁ〜高校かあ……しんどいだろう?」
「しんどい、ですか?」
仕事帰り、たまには付き合えと上司に誘われての居酒屋。
ビール片手に赤ら顔の上司はうんうんと頷いた。
「娘だと特にな、親父なんかゴミみたいなもんだからなあ……洗濯物分けろって言われたり、口も利いてくれなくなったりなあ」
「……そうですね」
「家を支えてんのは誰だ〜って言いたくもなるけど、家計握ってんのかあちゃんだしなあ……やってらんねぇってもんだなあ、なあ?」
「ははは……」
愛想笑いを浮かべながら、雅史は上司のグラスにビールを注ぐ。
(そうか、そういうものか普通は)
心の中でそう思いつつ少し携帯を気にする。
この分だと結構遅くなりそうだ。
夕食はいらなくなる、だけでなく先に寝ていてくれ、とも送っといた方がよかったか。
「嫁さん、おっかないんじゃないかい?」
「おっかない、ですか?」
「携帯気にしてるじゃないか」
「あ、すいません」
「遅くなるとうるさいんだよなあ……全く誰が稼いでると思ってんだか」
「そうですね」
(そういうものなのか……)
延々と続く上司の家族への愚痴を聞きつつ、雅史は心の中で思った。
世間一般に聞く「肩身の狭い父」の話。
自分はそれを経験した事がないから、上司の話を聞いていると本当に実在するものなのか、なんて感想を抱く。
結局、酔いつぶれた上司をタクシーで送り、自分も帰路についたのは十時も過ぎた頃。
帰りのタクシーの中でようやく携帯を見ると、ラインが複数来ていた。
妻の依江から一つ。
(気を付けて帰ってください)と、帰りが遅くなる旨の連絡に返信がきていた。
「……」
もう一つのラインは、娘の「桃」からだった。

(帰りいつになるの)

 スタンプも何もない、それだけのメッセージ。
桃はいつもそうだ、可愛いスタンプも何も使わず、シンプルに要件だけを言う。
そのシンプルなメッセージが、一時間おきに三通。

(帰りいつになるの)

(いつ帰る?)

(何時になる?)

「……」
それに返信する。
妻よりも先に、娘に。

(今から帰ります)

すぐさま、既読がついた。

(わかりました)

そう返信があった。
一息ついて携帯をしまう。
娘からのメッセージへの返信。
普通ならば娘とこうしてコミュニケーションを取れるというだけで御の字という年代。
だが、雅史はまんじりともしない表情をしている。
このままではいけない、ずっとそう思っている。
自分の心持ちの問題なのだ。
過去に、囚われている自分の……。







 「お帰りなさい」
帰ると依江が迎えてくれた。
「食べて来たんだよね?それとも何かいる?」
帰りが遅くなった事も特に気にしていない様子でそう言ってくる。
「あんまり食えなかったんだ……ちょっと貰えるかな」
「おっけ」
そう言うと夕食をレンジに入れて温める。
テーブルに座って食事をする雅史の前に座ると、テレビを付けて眺め始めた。
(……不思議だ……)
座ってテレビを見ている妻の姿を見て、改めて雅史は思う。
結婚して十数年経って、もう高校生にもなる娘がいるというのに。
依江は変わらない。
まるで結婚した当初のままに、なんなら少女の面影もそのままに、依江はずっと綺麗……というより、可愛いままだ。
「一児の母になれば少しは貫禄出るかな」
とは本人の弁だ。
年を経るにつれ、雅史と夫婦であると紹介するたびに珍し気な目で見られる事を気にしているのだ。
しかし娘の授業参観に行った折、親ではなく生徒と勘違いされたあたりで貫録とかには諦めがついたらしい。
何しろ中学生に間違えられたのだ、高校ならまだしも。
それを知った時には爆笑し過ぎて拗ねられてしまったが。
「なあに?」
「いや、お前老けないないなあって」
「どーも、お父さんも大概だと思うけどね」
依江程ではないにしろ、雅史も年齢不相応に若々しいとはよく言われる。
(アッチが元気だからかな……)
密かに、下世話な考えが頭をよぎる。
そろそろいい加減、落ち着いてもいいくらいだと思うのだが……。
いつまでも可愛い妻との性生活はいまだに落ち着く気配がない。
喜ばしいのだが、周囲の同年代のお父さん達の反応を見ると我が家はかなり特殊なようだ。
そんな風に、妻との関係は倦怠期などという言葉とは縁遠い。
しかし、家族仲が全て順風満帆かというと、そうではない。

 カチャ

 台所のドアが開く音がして振り向くと、桃がいた。
「……おかえり」
「ああ、ただいま」
桃は高校生になった。
親の贔屓目抜きにしても美しい娘に成長した。
ただ、容姿の面で言うと両親のどちらにも似ていなかった。
ぱっちりと大きい依江の目とも、日本人らしい一重の雅史の目とも違う、切れ長の涼し気な目元。
依江のように小柄でもなく、雅史のように平均的でもない、学年で一番の長身に日本人離れしたすらりと長い手足。
唯一共通点を見出すとすれば、胸元を押し上げる早熟な膨らみは依江に近いかもしれない。
初めて制服を着た時、雅史は正直似合ってないな、なんて思った。
スタイルが良すぎる桃が制服を着るとアンバランスな感じを受けるのだった。
今はラフなシャツにハーフパンツを着ている桃は、すたすたと冷蔵庫に近付くと麦茶を取り出してコップに注ぎ、一息に飲み干す。
「こら、流しに置きなさい」
「ん……」
コップをテーブルに置いて行こうとする桃を依江が呼び止めると、面倒そうに返事をして流しにコップを置く。
「夜更かしするんじゃないよ?」
「んー」
背後に掛けられる母の声におざなりに返事をしながら、二階に上がって行ってしまう。
「……」
「どうしたの?」
知らずに溜息をついてしまった雅史に、依江が声を掛ける。
「最近、あまり話が出来てないな、ってな……」
「思春期の娘なんてそんなもんだよ」
「まあそれはそうかも知れないんだが……わからん」
「何が?」
「何を考えてるんだか」
そう言いながら、雅史は依江に携帯を見せた。
娘から送られてきた三通のラインだ。
「ファザコンだね」
「だとしたら帰った時にもう少し嬉しそうにしてもいいだろうに、いざ帰ってみるとあんな感じなのがなあ……わからん……」
「照れ臭いんじゃない?思春期なんだし、それかお風呂一緒に入らなくなったのまだ根に持ってるとか」
「おいおい……」
子供と一緒にお風呂に入るのを止めるのはいつか?
家庭によって色々だと思うが、雅史は早めがいいと思っていた。
やがては子供が恥ずかしがる時期は来る。
その時「お父さんと一緒はイヤ」と言われるとダメージが大きいので、そうなる前に止めたかったのだが……。
当時小学生だった桃はその提案を受け入れるのを相当ぐずった。
泣き出されるものだから渋々一緒に入り続けたが、四年生になった時にきっぱりと断るようにした。
それはもう大変に機嫌を損ねられて大変だった記憶がある。
とはいえそんな昔の事を根に持っているとは思えないし、高校生にもなって一緒にお風呂は流石にないだろう。
「ごちそうさま」
「はい」
食器を洗う依江の後ろ姿を眺めながら、雅史はテーブルに肘を付いてぼんやりしている。
「で、お父さん」
「え?」
洗い物を終えた依江が二人分のお茶を持って来ると、前に座り直した。
「何か悩み事?」
「……」
どうやら、妻に隠し事はできない。
「……」
「……」
雅史は何かを言い出そうとしては詰まるような仕草を何度か繰り返す。
依江は夫が切り出すのをじっと待っている。
「ちょっとぎくしゃくするのは、仕方ないというか、あの年頃は難しいっていうのは……まあ、当然なんだがその……」
また言葉を切り、お茶を一口啜る。
依江も啜る。
「ええと……少し距離を取った方が自然だとは思うし……あの子だってファザコンだなんて思われるのは嫌だろうし……」
夫の要領を得ない言葉を、依江は黙って聞いている。
本題に触れるまでじっと待っている。
「俺の態度は……おかしくないかな?」
「あの子への?」
「ああ、うん」
「そんなに変だとは思わないけど?」
「そっか……うん……」
「でもちょっと……」
依江は一口お茶を啜る。
「避けすぎじゃないかな、とは思うけどね」
「……」
痛い所を突かれたように、雅史は下唇を噛んで俯く。
「……こんな事を思うのは……いけない事だと思うし……お前にも心配掛ける事になるから言いたくないんだが……」
「言って、大丈夫だから」
そう後押しをされて、雅史は俯いたまま小さな声で呟いた。

「怖いんだ、あの子が」

 ふつり、と台所に流れていたニュースキャスターの声が途切れる。
依江がテレビの電源を消したのだ。
しいん、と痛いくらいの沈黙が部屋を包む。
「どうして怖いの?」
依江は子供に聞くような優しい口調で雅史に聞く。
「……似てるんだ」
「あの子が?」
小さく頷く。
「誰に?」
「……」
俯いていた顔を上げて、妻を見る。
依江は穏やかな顔をしている、仏のような。
その顔を見ると、雅史は心が昔に戻っていくような気がした、あの高校生の頃に。
同時に、日常に埋もれて霞んでいたあの記憶が鮮やかに蘇る。
あの、夏の記憶。
妻は確かに昔の伝手でそういう仕事もしている。
だが雅史自身はあれ以来、奇妙な物を見たり遭遇したりはしていない。
勉強や仕事や育児に追われているうち、あの出来事が本当にあった事だったのかを疑うくらいになっていた。
起きた事は事実でも、子供だった自分が大げさに記憶を脚色しているのではないか、と。
しかし、近頃になって……娘が綺麗になり始めてから、その過去が現在を侵食し始めたのだ。
そう、娘は似ている。
「た……」
その名前を口に出そうとして、また躊躇した。
「お前は……見た事が、あったっけ……?」
「何を?」
「「お隠し」の、下を……」
雅史は見た。
民宿での夜の事だ。
脳裏に焼き付くようなあの美貌を。
「私は知らないよ、あの伝承の絵は知ってるけどね」
「その……似てるんだ」
「タネコヒ様に?」
あっけなく、依江はその名を口にした。
雅史は思わず周囲を見回す。
明かりのついている台所から見える暗いリビングを、窓の外を。
ぎゅ、と手が握られた。
「大丈夫、彼女はもう悪いものじゃないよ」
安心させるように、依江は夫に言う。
それでも雅史は不安に揺れる目を妻に向ける。
「あの子は……俺にも、お前にも似てない、なのに……彼女に似ているんだ……本当に、そ、それに……それに……」
「それに?」
「気のせいだと思う、けど、でも……匂い……匂いも、するんだ」
「匂い?」
「桃……桃じゃない、けど、桃に似た……あぁ、あの匂い……」
村の跡で見つけたあの果実。
タネコヒ様が現れる時に必ず漂わせていた、あの甘い匂い。
「それが、あの子から……違う、家に、家全体から感じるんだ……そしたら、あの時の記憶が……」
「だから、怖いの?」
雅史は泣きそうな顔になる。
「可愛いって思ってる、愛しいよ、当たり前だ、娘なんだ、だけど、なのに……怖いんだ……」
「それだけじゃないよね」
「えっ……?」
「怖いのはあの子だけ、じゃないよね」
「……」
するり、と握っていた手が解かれて、テーブルの下に潜り込んだ。
しゅる
「−−−−−−!?」
妻の手が、股間に触れた。
誤魔化しようがないくらいに膨らんだそこに。
「本当に怖いのは自分、だよね?」
雅史の顔から血の気が引く。
どれだけ悩んでいても、これだけは悟られたくなかった事実。
あの記憶が蘇る度に、体を苛む衝動。
「大丈夫、わかってる、軽蔑したりしないから」
依江は優しく手を上下させながら、穏やかに声をかける。
「俺、は……」
「あの子に対してのものじゃない、記憶の中の彼女に対しての反応」
もう片方の手で夫の後頭部に手を回しながら囁く。
「だからあなたは異常じゃない、おかしくない、大丈夫、ね?」
「……」
心の内に封じていた最も大きい恐怖。
「娘に欲情を覚える自分」を看過され、それをも許された雅史は涙を流すしかなかった。
「ほら、落ち着いて」
「あっ……ありが、とう、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよね?」
「えっ……」
妻の顔を見ると、瞼の落ちたとろん、とした目になっていた。
「だったら……回数ちょっと増やさないとだね」
「そっ……溜まってるって訳じゃ」「行こっか」
食い気味に言うと、依江は雅史の手を引いて寝室に引っ張って行った。

20/08/19 18:50更新 / 雑兵
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