遭遇編
自分が安全な地面に立っていると、足元以外の地面も安全なのだと思い込む。
周り一帯に安全で平坦な地面が広がっていて、この先も続いているものだと。
しかし、往々にしてそれは錯覚で。
実際には切り立った山の上の細い尾根を踏み外さないように歩を進めているだけなのだと、菊池雅史(きくち まさふみ)は思い知っていた。
「……ひっ……ひっ……ひっ……」
本当は叫び出したいのに、喉から漏れるのはそんな悲鳴とも嗚咽ともつかない掠れた声だけだ。
走って逃げ出したいのに、膝は小鹿のように震えるばかりで言うことを聞かない。
薄暗い路地に立つ菊地に出来ることは何もない。
「……ごにょ………ごにょごにょ………ごにょ………」
その立ち竦む菊池の前で、ふらふらと上体を揺らしながら少しずつ歩み寄って来るのは背広姿の男。
中肉中背のその姿は一見すると普通のサラリーマンか何か。
だが、その顔が普通ではない。
欠けている。
障害によってそうなっているとか、そういうレベルではなく。
右半分がそっくり無くなっている。
今しがた凄惨な事故にあったかのように、断面からどくどくと血を流している。
そして、その左半分だけになった口で。
「ごにょ………ごにょ………ごにょごにょ………」
聞き取れない何かを呟きながら、フラフラと菊地に近付いてくるのだ。
(どうして……どうしてこんな事に……)
脂汗を流しながら菊池は考えても仕方のない事を考える。
部活で遅くなった一人の帰り道だった。
いつも何となく嫌な感じがしていた帰り道にある路地裏から、何かが聞こえた気がした。
それは人の声のようだった。
呻き声のようなそれは、何か助けを求めているようにも聞こえた。
本当はそこには近付きたくなかったが、もしかしたら誰かが倒れているかもしれないと思ってその路地裏に入って行ったのだ。
そうしたら、背広姿のそれが立っていた。
見た瞬間に体が動かなくなった。
後から考えると「金縛り」というやつなのだろう。
ほんの少し帰り道を逸れただけなのに、帰ったらやりたいゲームもあったのに。
どうして、こんなモノと向かい合う事になってしまったのか。
「ごにょ………ごにょ………」
男はいよいよ数メートル先にまで近付いて来ている。
相変わらず体は動いてくれない。
よく聞く怪談のオチみたいにいっそ気絶したかったが、恐怖に震えながらも頭ははっきりとしており、男から漂って来る血の臭いまではっきりと感じる。
濁った瞳孔が、菊池を見ている。
(誰か……!)
パン!
路地裏に乾いた音が鳴り響いた。
飛び上がるほど驚いて音のした方を振り返ると、一人の少女が立っていた。
身長の高い方でもない菊池の胸くらいまでの小さな背に、短めのお下げをうなじに垂らした髪型。
(……善治さん……?)
善治依江(ぜんじ よりえ)
一瞬、クラスの同級生だと見て気付かなかった。
いつもはぱっちりと大きい瞳が薄く細められたその表情は、クラスで見せたことのない表情だ。
何だか仏さまみたいな表情だ、と思った。
(どうしてここに……?)
と、その手が合掌の形になっているのを見て、ようやく今しがたの音が善治が柏手を打った音だと気付いた。
呆気に取られて見つめる菊池をよそに、善治は柏手を打った姿勢のまま言った。
「お引き取り下さい」
これもまた、教室で聞いたことのない低い声だ。
女の子の声でありながら荘厳というか、不思議な威厳を感じさせる声だった。
と、あの存在の事を思い出して慌てて振り返る。
「あれっ」
目の前にあるのはただの寂れた路地裏の風景。
あの血にまみれたおぞましい存在は影も形も無い、地面に血痕も残っていない。
立て続けに起こる事態に呆然としていると、善治に強く腕を引かれた。
「行こう」
そう言われて初めて自分の体が動くようになっていると気付いた菊池は、腕を引かれるままに善治に付いていった。
がやがやと人々が行きかう夕暮れの大通りに出て、ようやく頭が働き始める。
「あ、あの善治さん」
「この辺ならもう、大丈夫」
強く掴んでいた腕を離して善治が言う。
「あのね、菊池君」
(あ、名前知ってるんだ)
善治はクラスの中でもどのグループにも属さない、ちょっと浮いた存在だった。
なので、自分の名前を知ってる事が意外だった。
「嫌な感じのするところにはなるべく近寄らないようにした方がいいよ」
そう言って、立ち去ろうとする。
「あ、あの、善治さん」
「さん付けなくていいよ」
振り返って善治が言う。
「ぜ、善治、今のって、あの、その、善治が助けてくれたんだよな?」
「別に」
別にって事はないだろう。
あの場に善治が来なかったら今頃どうなっていたかわからない。
「何かお礼させてくれよ!恩人なんだから」
「大げさだよ」
「いやでも……」
菊池が粘ると、善治はちょっと考えた。
「じゃ、お茶しようか」
そう善治が言って、二人はコーヒーショップに入った。
まるで自分がナンパしたような状況に若干戸惑いつつ、二人でコーヒーを注文して座った。
「あの……ほんとにありがとう……あれって……」
言いながら、菊池の目は思わず善治の手元に引き寄せられる。
スティックシュガーが四本。
まさか全部入れるつもりだろうか、と思っていたら善治は四本纏めて封を切り、一気にコーヒーに流し込んでいく。
黒い液体に白い滝のようにざあざあ注がれる顆粒をきっちり最後まで入れ切ると、丹念にスプーンでかき混ぜていく。
「甘すぎない……?」
「体力使ったから」
思わず突っ込んだ菊池に淡々と答えながら、それを美味しそうに啜る。
「体力って……やっぱりあれ撃退したのって、善治?」
「撃退じゃないよ、お願いしただけ」
「お願い……?でも、こう、手を叩いて……」
善治は眉を寄せてどう説明したものか、というような顔をした。
「確かにちょっと脅かしたけど、そもそもあの人は怖がらせようとして近付いた訳じゃないよ」
「ええ……?」
あれが恐ろしい存在でなくて何なのか、としか菊池には思えなかった。
そもそも「人」と呼べるものなのか。
「ああいうのって大体話聞いてもらいたいだけなんだよ、自分はこんなに苦しい思いをした、自分はこんな不幸な目に遭ったって」
「……それも迷惑なんだけど……」
「だから、お引き取り願ったの」
ちょっと強引になったけど、とぼそりと付け加えたのを菊池は聞いた。
「あっ……そっか……善治って……」
「ん?」
「巫女さんだったっけ……」
噂で聞いた事があった、何か、生まれがすごい所だとかも聞いた気がする。
「通訳みたいなもんだよ」
「通訳……?」
「例えば今ので言うと、筋肉モリモリマッチョマンの外国人が知らない言葉で何かはやし立てて来たらびっくりするでしょ?」
「お、おう」
「そこに言葉のわかる私が入って「すみません、この人そっちの言葉わからないんです」って通訳したってだけ……」
「うん……ふふ、ふ」
「……何か可笑しいところあった?」
「いや……ごめん、その……ふふふ……」
近寄りがたい雰囲気の彼女が真面目腐った顔で「筋肉モリモリマッチョマン」なんて語彙を使うのが面白過ぎた。
「何よもう……」
眉を八の字にして善治はコーヒーを啜る。
「これからは気を付けたほうがいいよ、一回見えたら見えやすくなるって事もあるから」
「その、善治は……」
「うん?」
「いつもあんなのが見えてんの……?」
「うん」
普通の事のように、善治は答える。
「人には言わない方がいいよ」
「え、何で?」
「信じてもらえないし、変な子って思われるからね」
「ああ……」
菊池は少し黙り込んだ。
それは善治の体験談なのかも知れない。
「本当に気を付けた方がいいよ、菊池君、今まで見えてなかっただけで引き寄せやすいみたいだし」
「引き寄せる?」
「ああいうのを」
……聞き捨てならない事を聞いた気がする。
「え、嫌だよあんな怖いのに付きまとわれるとか」
「だから嫌な感じの所には近付かないようにした方がいいし、そういうのを見かけても無視するの」
「あんなの見てノーリアクション貫くの難しいって言うか……」
大丈夫、と言って善治はコーヒーを飲み干した。
「そのうち慣れるよ」
慣れたくない……。
と、顔に出てるのを読んだのか、善治は重ねて言う。
「本当に慣れるもんなんだよ、それよりも心配なのはそういうのに菊池君が同情しないかどうかだよ」
「同情って……ないない!あんなの怖さしかないよ……」
「でも、あの場所に近付いたのはどうして?」
「それは……何か声が聞こえて来て……誰か倒れてたら大変だと思って……」
「そういうところ」
ぴん、と善治は小さく菊池を指さした。
「菊池君ってそういう優しいっていうか、あったかい所あるんだから」
「あったかい?」
自分ではそんなつもりは毛頭ない。
「現に、私も今あったかく感じてる」
ずっと無表情だった善治は、そこで初めて少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「そんな人をストーブみたいな……」
「そんな感じ、ああいうのって寂しくて凍えてるからあったかいのに引き寄せられちゃうの」
ぷいぷいと指を振って善治は解説する。
小柄だから手も小さいな、と菊池はどうでもいい事に気付く。
「だから同情しない事、無視する事、そうしてれば今と何も変わらず過ごせるよ」
(……不安しかない……)
「どうしても困ったら……私に話して、相談に乗るくらいならできるから」
・
・
・
善治の言う通りだった。
その日を境に菊池は今まで目にしなかった奇妙な物を目にするようになった。
「それ」は明らかに異様な姿をしている事もあったが、普通の人間と変わらないようにも見えるものが大半だった。
菊池は善治に言われた通り、極力見えない振りをするようにした。
しかしこちらが見えないように振舞っても、あちらから接近してくる事もある。
善治は言った通り相談に乗ってくれた。
気にしすぎ、と言われるのが大半だったがあの時のように付きまとわれる事もあった。
そんな時善治は嫌な顔一つせずに「対処」してくれた。
対処、と言っても最初の時のように手を叩いたりもしない。
ただ、自分がそれと遭遇する時に傍にいてくれた。
そうして自分に近付こうとするそれをただじっと睨むのだ。
するとその輩はすごすごと退散し、二度と姿を現さなくなる。
そんな時は、この小さな同級生が見上げるほどに大きく見える。
あの時から思っていたが、このクラスメートはやっぱり只者ではないようだった。
しかし本人はそれに関しては聞かれたくないようだったので、菊池も深くは聞こうとしなかった。
それに何度もお世話になるのも悪いので菊池なりにそれらと関わり合いにならないようにして極力彼女の手を煩わせないよう気を付けた。
だが、どれだけ危険な場所を避けていても危険の方から来る事がある。
運命を呪うしかないような事態は常に起こりえるのだ。
・
・
・
「なー、お前って善治とデキてんの?」
「デキてねえって」
「えー?なんか仲よさそうじゃん、いつも」
「んな事ないって……」
連れだって歩く友人に適当に相槌を打ちながら、菊池は清涼な風の中を歩いていた。
修学旅行だった。
登山、と言うほどではないがちょっとした山道を歩く工程があった。
とはいえ道幅は広く、一応アスファルトで舗装された道だ。
道の両脇には道をトンネルのように覆う木々が葉を茂らせている。
木漏れ日を受けながら大勢でわいわい歩いているのだった。
「でも善治ってどうよ、地味すぎね?」
「何だよ、可愛いだろ」
「お?お?お〜〜〜?」
「うぜぇー……」
友達と駄弁りながらその山道をぶらぶらと歩く。
日は高く、周囲は騒がしく、空気は綺麗だった。
そんな中で、そんな中なのに、菊池はそれを見たのだ。
「……?」
道を脇を見た時ふと、木の向こう側に白いものが見えた。
遠くてはっきりとは見えない。
だが、緑の中にぽつん、と白いものがいた。
(あー……あれって……無視するべきやつかな……)
経験上から、菊池はそう考えた。
兎にも角にも怪しいのは無視するに限る。
でないと、また善治の手を煩わせる羽目になるかもしれない……。
ところが、どうにも目が離せない。
歩きながら見ているので、その白いものは木陰に隠れて途切れ途切れに視界に入る。
それを何故だか目で追ってしまう。
(……やっぱり……人……?)
どうもそう見える。
真っ白なのは白装束……?
だとしたらぞっとしない。
こんな山の中でそんな服装をしている人間だなんて、生きていようがそうでなかろうが碌なものじゃない。
だから無視しなくては。
なのに、目は縫い付けられたようにその白い人影を追う。
「あっ……」
いくつ目の木陰だったか。
通り過ぎた時にふつり、とその白い人影は消えた。
「…………ぉぃ…………おぃ……おいって」
「え?」
声に振り返ると、怪訝な顔をした友人の顔があった。
「何か言った?」
「何かじゃねえよ、どうしたぼーっとして」
「ぼーっとって……俺が?」
「急に話しかけても何も答えなくなってさあ」
言われて気付いた。
あの白いものを見た時、友人の声も、周囲の喧騒も、木々の揺れる音も。
何も耳に届かなかった。
と、友人がキョロキョロと周囲を見回し始めた。
「どうした?」
「いやお前……」
すんすんと鼻を鳴らしながら友人が言う。
「香水とか付けてないよな?」
「付けるわけないだろ、何でだよ」
「いや、何かいい匂いする……」
「いい匂い?」
言われて菊地も息を吸い込むと、確かにいい匂いが周囲に漂っている事に気付いた。
友人は香水、と表現したが化粧品のような香りとは違う。
嗅いだことのない果実のようないい匂いだ。
強いて例えるなら桃、が近いだろうか。
思わず菊地も友人と同じように周囲を見回したがそんな匂いを発しそうなものは見当たらなかった。
「何なんだろうな」
「さあ……?」
その時は結局原因もわからず、首を傾げるしかなかった。
・
・
・
その日の夕食の時だった。
班ごとに別れて食卓を囲んでいると背中に視線を感じた。
振り返ると別の班で食事をしていた善治と目が合う。
(どうしたんだろ……?)
自分を見る善治の表情が普通ではなかった。
目を見開いて、何かとんでもないものを見ているような顔をしている。
自分ではなく自分の後ろに何かあるのかと振り返ってみても何もない、どう見ても菊地に焦点を合わせている。
(どうしたの?)
という意味を込めて首を傾げて見せると、食事を中断して席を立ち、こっちに足早に駆け寄って来た。
あまり一緒にいるとありもしない噂を立てられて迷惑になるだろうからと、互いに一定の距離を保つようにしていたのでこれには驚いた。
「何か見た?」
開口一番そう聞いてきた。
すぐに昼間に見たあの白い人影が思い当たったが、まさか周囲に他の男子もいる状況で堂々と相談出来る訳もない。
「いやえっと……」
「ちょっと来て」
しかし善治は回りを気にする様子もなく……と、言うより気にする余裕もないという感じで菊池の腕を掴んで引っ張っていく。
無論周りの男子達は見ているが、善治の様子が余りに真剣だったのではやし立てる者もおらず、皆呆然と見送るばかりだった。
「……浮気?」
「修羅場かな」
ぼそ、と誰かがかがこぼした言葉に何人かがくすりと笑った。
「あいつそんな甲斐性ある?」
「ははは……」
「なあ、何かさ」
「ん?」
「甘い匂いしない?」
・
・
・
食堂を出てすぐの廊下で善治は菊池の腕を離して向き直った。
「何か見た?」
そして、先程と全く同じ質問を繰り返した。
凄く真剣な表情も変わらない、血の気が引いて頬が青ざめている。
「……み、見たと言えば見たかもしれないけど……そんなにヤバそうには見えなかったけど……」
「どこで?どんなだった?」
「昼に歩いた山道で、森の中に何か白いのが立ってて……」
「……」
「そんなにヤバい奴だったの?俺が見たのって……」
「かなり」
青い顔をした善治にそう断言されるとぞわぞわと背筋に鳥肌が立つ。
「だ、だけどそこまで悪い感じは……」
これまで危険な目に遭った時は少なからず菊池にも感じる物があった。
彼女程ではないにしろ、悪意や敵意はある程度肌で感じれるようになっている。
しかし昼間に見たアレからはそのような悪い感覚は全くなかった。
「悪意があるのだけが厄介って訳じゃないんだよ」
善治が言う。
「気に入られたり、執着されたり、ある種好意的な感情でも、相手が大きすぎると危ない場合があるの」
「大きすぎる……?」
「虎やライオンにじゃれつかれたら相手に害意が無くても怪我するでしょ?」
そういうものか。
「って事は、昼間の奴って猛獣並みにヤバい奴……?」
「猛獣っていうか……格が違うっていうか……地球人とサイヤ人みたいな感じ」
「んふふ」
「笑いごとじゃないのよ」
「ご、ごめん」
そこで、善治は何か苦い顔になった。
「あのね……もし、それに本格的に目を付けられたら、今までとは違うの」
「違う?」
「私なんかでどうにもならない」
また、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
「ど、どうしたら……」
「する事は変わらない、無視する事、徹底して」
それなら大丈夫な気がする、今までもやってきた事だ。
「たまたま波長が合っただけで、相手がこっちに興味がなかったなら一番なんだけど……菊池君、その白いのって、菊池君の方を見てた?」
「……わからない、そもそも人影かどうかもわからなかったし……」
「何事もなかったらいいんだけど、もし……何かあったら、すぐに知らせて」
「で、でも、善治にもどうしようもないんだろう?」
「知っちゃったんだから放っておけないよ、いい?すぐ知らせるんだよ?」
善治は菊池の腕の当たりを掴んで(本当は肩を掴みたかったけど背が届かないらしい)顔を近付けると念を押すように言った。
ドキッとした。
それと同時に、彼女には何があっても伝えまいと密かに決心した。
もし自分のせいで彼女に何かあったら、悔やんでも悔やみきれないと思ったからだ。
・
・
・
滞りなく修学旅行は終わり、善治は家に帰りついた。
もしあの時の白い奴がまた見えたら……と、びくびくしていたが、何事も起きなかった。
(んー、よかった……ハラハラした)
自室のベッドに寝転がって、善治は息をつく。
多分、善治の説明にあった「たまたま波長が合っただけ」というやつだったのだろう。
それなら、もうあの土地から離れたのだからもう波長が合うとか何とかも起きないはずだ。
(……多分、あそこはもう二度と訪れない方がいいんだろうな……)
それだけは覚えておいた方がいい、と思いながら部屋の隅に放り出した荷物を片付けようとベッドから身を起こした。
ふわっ
「ん?」
不意に、甘い匂いが鼻をくすぐり、思わず声が出た。
嗅覚は記憶と密接に結びついている、と聞いたことがある。
だからか、以前その匂いを感じた時をすぐに思い出した。
(香水とか付けてないよな?)
(付けるわけないだろ、何でだよ)
(いや、何かいい匂いする……)
(いい匂い?)
果実のような、桃のような。
あの時の匂いだ、あれを見た時の匂いだ。
シュッ
衣擦れの音が聞こえた。
小さい音だったが、聞こえた、廊下の方から。
どうしてそんなに小さな音に過敏に反応したのか。
それしか聞こえなかったからだ。
気付けば車の音も、人の話し声も、周囲の生活音が全く聞こえなくなっている事に気付いた。
あの森の中の時と同じに。
シューッ
見てはいけない。
無視しなければいけない。
だが、その時の混乱している菊池にその判断はできなかった。
音のした方を見た。
部屋のドアは少し開いていて、隙間から廊下が見える。
そのドアの隙間をスッ、と白いものがよぎる。
白いものが通った直後に、ふわりと黒い物がひらめいて通った。
髪。
長い黒髪がたなびいて、白いものの後を追って通り過ぎたように見えた。
「雅史!いつまで寝てるの!」
母の声で、目が覚めた。
ベッドの上で身を起こしてしばらくの間呆然とした。
「……夢……?」
半ば願望を込めて呟いたが、部屋に漂う桃のような残り香がそれを否定する。
「……」
呆然としたまま、部屋から出て一階に降りる。
「あら?あんた、香水でも付けてるの?」
混乱する頭に母の言葉が突き刺さった。
自分にしか感じていないものであれば、あれは夢でこの匂いも気のせいだと強引に思い込む事もできたかもしれない。
だが、その可能性も否定されてしまう。
「……つけてないって……」
上の空で母に答えながら、頭で思った。
ついてきたんだ。
ろくに喉を通らない夕食の後、自室に籠って考えた。
見てしまった。
よりにもよって、自室で。
つまり、今こうしていてもいつ遭遇するかわからないという事だ。
どうする?
どうすればいい?
(何かあったらすぐ知らせて)
善治の言葉が頭をよぎるが、首を振る。
頼れない、彼女自身が手に負えないと言ったのだ。
自分の為に無理をさせられない。
それに……。
(本当に悪くないものなら、付きまとわれても大丈夫なんじゃないかな……?少なくとも今はうろつくだけで実害はないし……)
もう少し、様子を見よう。
それに相手をしなければ、そのうち飽きて離れて行くかも……。
この時、菊池は奇妙に楽観的になっていた。
危険を感じなかったからだ。
悪意、敵意に晒されると危険を感じるが、最初の時も部屋で見た時もそういう嫌な感じがなかった。
だから恐怖よりも好奇心が先行してしまった。
森の中で遠目に見たもの。
つい先ほどドアの隙間に見えたもの。
はっきりと見えないそれの正体を確かめたい。
そういう興味を抱いてしまったのだ。
周り一帯に安全で平坦な地面が広がっていて、この先も続いているものだと。
しかし、往々にしてそれは錯覚で。
実際には切り立った山の上の細い尾根を踏み外さないように歩を進めているだけなのだと、菊池雅史(きくち まさふみ)は思い知っていた。
「……ひっ……ひっ……ひっ……」
本当は叫び出したいのに、喉から漏れるのはそんな悲鳴とも嗚咽ともつかない掠れた声だけだ。
走って逃げ出したいのに、膝は小鹿のように震えるばかりで言うことを聞かない。
薄暗い路地に立つ菊地に出来ることは何もない。
「……ごにょ………ごにょごにょ………ごにょ………」
その立ち竦む菊池の前で、ふらふらと上体を揺らしながら少しずつ歩み寄って来るのは背広姿の男。
中肉中背のその姿は一見すると普通のサラリーマンか何か。
だが、その顔が普通ではない。
欠けている。
障害によってそうなっているとか、そういうレベルではなく。
右半分がそっくり無くなっている。
今しがた凄惨な事故にあったかのように、断面からどくどくと血を流している。
そして、その左半分だけになった口で。
「ごにょ………ごにょ………ごにょごにょ………」
聞き取れない何かを呟きながら、フラフラと菊地に近付いてくるのだ。
(どうして……どうしてこんな事に……)
脂汗を流しながら菊池は考えても仕方のない事を考える。
部活で遅くなった一人の帰り道だった。
いつも何となく嫌な感じがしていた帰り道にある路地裏から、何かが聞こえた気がした。
それは人の声のようだった。
呻き声のようなそれは、何か助けを求めているようにも聞こえた。
本当はそこには近付きたくなかったが、もしかしたら誰かが倒れているかもしれないと思ってその路地裏に入って行ったのだ。
そうしたら、背広姿のそれが立っていた。
見た瞬間に体が動かなくなった。
後から考えると「金縛り」というやつなのだろう。
ほんの少し帰り道を逸れただけなのに、帰ったらやりたいゲームもあったのに。
どうして、こんなモノと向かい合う事になってしまったのか。
「ごにょ………ごにょ………」
男はいよいよ数メートル先にまで近付いて来ている。
相変わらず体は動いてくれない。
よく聞く怪談のオチみたいにいっそ気絶したかったが、恐怖に震えながらも頭ははっきりとしており、男から漂って来る血の臭いまではっきりと感じる。
濁った瞳孔が、菊池を見ている。
(誰か……!)
パン!
路地裏に乾いた音が鳴り響いた。
飛び上がるほど驚いて音のした方を振り返ると、一人の少女が立っていた。
身長の高い方でもない菊池の胸くらいまでの小さな背に、短めのお下げをうなじに垂らした髪型。
(……善治さん……?)
善治依江(ぜんじ よりえ)
一瞬、クラスの同級生だと見て気付かなかった。
いつもはぱっちりと大きい瞳が薄く細められたその表情は、クラスで見せたことのない表情だ。
何だか仏さまみたいな表情だ、と思った。
(どうしてここに……?)
と、その手が合掌の形になっているのを見て、ようやく今しがたの音が善治が柏手を打った音だと気付いた。
呆気に取られて見つめる菊池をよそに、善治は柏手を打った姿勢のまま言った。
「お引き取り下さい」
これもまた、教室で聞いたことのない低い声だ。
女の子の声でありながら荘厳というか、不思議な威厳を感じさせる声だった。
と、あの存在の事を思い出して慌てて振り返る。
「あれっ」
目の前にあるのはただの寂れた路地裏の風景。
あの血にまみれたおぞましい存在は影も形も無い、地面に血痕も残っていない。
立て続けに起こる事態に呆然としていると、善治に強く腕を引かれた。
「行こう」
そう言われて初めて自分の体が動くようになっていると気付いた菊池は、腕を引かれるままに善治に付いていった。
がやがやと人々が行きかう夕暮れの大通りに出て、ようやく頭が働き始める。
「あ、あの善治さん」
「この辺ならもう、大丈夫」
強く掴んでいた腕を離して善治が言う。
「あのね、菊池君」
(あ、名前知ってるんだ)
善治はクラスの中でもどのグループにも属さない、ちょっと浮いた存在だった。
なので、自分の名前を知ってる事が意外だった。
「嫌な感じのするところにはなるべく近寄らないようにした方がいいよ」
そう言って、立ち去ろうとする。
「あ、あの、善治さん」
「さん付けなくていいよ」
振り返って善治が言う。
「ぜ、善治、今のって、あの、その、善治が助けてくれたんだよな?」
「別に」
別にって事はないだろう。
あの場に善治が来なかったら今頃どうなっていたかわからない。
「何かお礼させてくれよ!恩人なんだから」
「大げさだよ」
「いやでも……」
菊池が粘ると、善治はちょっと考えた。
「じゃ、お茶しようか」
そう善治が言って、二人はコーヒーショップに入った。
まるで自分がナンパしたような状況に若干戸惑いつつ、二人でコーヒーを注文して座った。
「あの……ほんとにありがとう……あれって……」
言いながら、菊池の目は思わず善治の手元に引き寄せられる。
スティックシュガーが四本。
まさか全部入れるつもりだろうか、と思っていたら善治は四本纏めて封を切り、一気にコーヒーに流し込んでいく。
黒い液体に白い滝のようにざあざあ注がれる顆粒をきっちり最後まで入れ切ると、丹念にスプーンでかき混ぜていく。
「甘すぎない……?」
「体力使ったから」
思わず突っ込んだ菊池に淡々と答えながら、それを美味しそうに啜る。
「体力って……やっぱりあれ撃退したのって、善治?」
「撃退じゃないよ、お願いしただけ」
「お願い……?でも、こう、手を叩いて……」
善治は眉を寄せてどう説明したものか、というような顔をした。
「確かにちょっと脅かしたけど、そもそもあの人は怖がらせようとして近付いた訳じゃないよ」
「ええ……?」
あれが恐ろしい存在でなくて何なのか、としか菊池には思えなかった。
そもそも「人」と呼べるものなのか。
「ああいうのって大体話聞いてもらいたいだけなんだよ、自分はこんなに苦しい思いをした、自分はこんな不幸な目に遭ったって」
「……それも迷惑なんだけど……」
「だから、お引き取り願ったの」
ちょっと強引になったけど、とぼそりと付け加えたのを菊池は聞いた。
「あっ……そっか……善治って……」
「ん?」
「巫女さんだったっけ……」
噂で聞いた事があった、何か、生まれがすごい所だとかも聞いた気がする。
「通訳みたいなもんだよ」
「通訳……?」
「例えば今ので言うと、筋肉モリモリマッチョマンの外国人が知らない言葉で何かはやし立てて来たらびっくりするでしょ?」
「お、おう」
「そこに言葉のわかる私が入って「すみません、この人そっちの言葉わからないんです」って通訳したってだけ……」
「うん……ふふ、ふ」
「……何か可笑しいところあった?」
「いや……ごめん、その……ふふふ……」
近寄りがたい雰囲気の彼女が真面目腐った顔で「筋肉モリモリマッチョマン」なんて語彙を使うのが面白過ぎた。
「何よもう……」
眉を八の字にして善治はコーヒーを啜る。
「これからは気を付けたほうがいいよ、一回見えたら見えやすくなるって事もあるから」
「その、善治は……」
「うん?」
「いつもあんなのが見えてんの……?」
「うん」
普通の事のように、善治は答える。
「人には言わない方がいいよ」
「え、何で?」
「信じてもらえないし、変な子って思われるからね」
「ああ……」
菊池は少し黙り込んだ。
それは善治の体験談なのかも知れない。
「本当に気を付けた方がいいよ、菊池君、今まで見えてなかっただけで引き寄せやすいみたいだし」
「引き寄せる?」
「ああいうのを」
……聞き捨てならない事を聞いた気がする。
「え、嫌だよあんな怖いのに付きまとわれるとか」
「だから嫌な感じの所には近付かないようにした方がいいし、そういうのを見かけても無視するの」
「あんなの見てノーリアクション貫くの難しいって言うか……」
大丈夫、と言って善治はコーヒーを飲み干した。
「そのうち慣れるよ」
慣れたくない……。
と、顔に出てるのを読んだのか、善治は重ねて言う。
「本当に慣れるもんなんだよ、それよりも心配なのはそういうのに菊池君が同情しないかどうかだよ」
「同情って……ないない!あんなの怖さしかないよ……」
「でも、あの場所に近付いたのはどうして?」
「それは……何か声が聞こえて来て……誰か倒れてたら大変だと思って……」
「そういうところ」
ぴん、と善治は小さく菊池を指さした。
「菊池君ってそういう優しいっていうか、あったかい所あるんだから」
「あったかい?」
自分ではそんなつもりは毛頭ない。
「現に、私も今あったかく感じてる」
ずっと無表情だった善治は、そこで初めて少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「そんな人をストーブみたいな……」
「そんな感じ、ああいうのって寂しくて凍えてるからあったかいのに引き寄せられちゃうの」
ぷいぷいと指を振って善治は解説する。
小柄だから手も小さいな、と菊池はどうでもいい事に気付く。
「だから同情しない事、無視する事、そうしてれば今と何も変わらず過ごせるよ」
(……不安しかない……)
「どうしても困ったら……私に話して、相談に乗るくらいならできるから」
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善治の言う通りだった。
その日を境に菊池は今まで目にしなかった奇妙な物を目にするようになった。
「それ」は明らかに異様な姿をしている事もあったが、普通の人間と変わらないようにも見えるものが大半だった。
菊池は善治に言われた通り、極力見えない振りをするようにした。
しかしこちらが見えないように振舞っても、あちらから接近してくる事もある。
善治は言った通り相談に乗ってくれた。
気にしすぎ、と言われるのが大半だったがあの時のように付きまとわれる事もあった。
そんな時善治は嫌な顔一つせずに「対処」してくれた。
対処、と言っても最初の時のように手を叩いたりもしない。
ただ、自分がそれと遭遇する時に傍にいてくれた。
そうして自分に近付こうとするそれをただじっと睨むのだ。
するとその輩はすごすごと退散し、二度と姿を現さなくなる。
そんな時は、この小さな同級生が見上げるほどに大きく見える。
あの時から思っていたが、このクラスメートはやっぱり只者ではないようだった。
しかし本人はそれに関しては聞かれたくないようだったので、菊池も深くは聞こうとしなかった。
それに何度もお世話になるのも悪いので菊池なりにそれらと関わり合いにならないようにして極力彼女の手を煩わせないよう気を付けた。
だが、どれだけ危険な場所を避けていても危険の方から来る事がある。
運命を呪うしかないような事態は常に起こりえるのだ。
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「なー、お前って善治とデキてんの?」
「デキてねえって」
「えー?なんか仲よさそうじゃん、いつも」
「んな事ないって……」
連れだって歩く友人に適当に相槌を打ちながら、菊池は清涼な風の中を歩いていた。
修学旅行だった。
登山、と言うほどではないがちょっとした山道を歩く工程があった。
とはいえ道幅は広く、一応アスファルトで舗装された道だ。
道の両脇には道をトンネルのように覆う木々が葉を茂らせている。
木漏れ日を受けながら大勢でわいわい歩いているのだった。
「でも善治ってどうよ、地味すぎね?」
「何だよ、可愛いだろ」
「お?お?お〜〜〜?」
「うぜぇー……」
友達と駄弁りながらその山道をぶらぶらと歩く。
日は高く、周囲は騒がしく、空気は綺麗だった。
そんな中で、そんな中なのに、菊池はそれを見たのだ。
「……?」
道を脇を見た時ふと、木の向こう側に白いものが見えた。
遠くてはっきりとは見えない。
だが、緑の中にぽつん、と白いものがいた。
(あー……あれって……無視するべきやつかな……)
経験上から、菊池はそう考えた。
兎にも角にも怪しいのは無視するに限る。
でないと、また善治の手を煩わせる羽目になるかもしれない……。
ところが、どうにも目が離せない。
歩きながら見ているので、その白いものは木陰に隠れて途切れ途切れに視界に入る。
それを何故だか目で追ってしまう。
(……やっぱり……人……?)
どうもそう見える。
真っ白なのは白装束……?
だとしたらぞっとしない。
こんな山の中でそんな服装をしている人間だなんて、生きていようがそうでなかろうが碌なものじゃない。
だから無視しなくては。
なのに、目は縫い付けられたようにその白い人影を追う。
「あっ……」
いくつ目の木陰だったか。
通り過ぎた時にふつり、とその白い人影は消えた。
「…………ぉぃ…………おぃ……おいって」
「え?」
声に振り返ると、怪訝な顔をした友人の顔があった。
「何か言った?」
「何かじゃねえよ、どうしたぼーっとして」
「ぼーっとって……俺が?」
「急に話しかけても何も答えなくなってさあ」
言われて気付いた。
あの白いものを見た時、友人の声も、周囲の喧騒も、木々の揺れる音も。
何も耳に届かなかった。
と、友人がキョロキョロと周囲を見回し始めた。
「どうした?」
「いやお前……」
すんすんと鼻を鳴らしながら友人が言う。
「香水とか付けてないよな?」
「付けるわけないだろ、何でだよ」
「いや、何かいい匂いする……」
「いい匂い?」
言われて菊地も息を吸い込むと、確かにいい匂いが周囲に漂っている事に気付いた。
友人は香水、と表現したが化粧品のような香りとは違う。
嗅いだことのない果実のようないい匂いだ。
強いて例えるなら桃、が近いだろうか。
思わず菊地も友人と同じように周囲を見回したがそんな匂いを発しそうなものは見当たらなかった。
「何なんだろうな」
「さあ……?」
その時は結局原因もわからず、首を傾げるしかなかった。
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その日の夕食の時だった。
班ごとに別れて食卓を囲んでいると背中に視線を感じた。
振り返ると別の班で食事をしていた善治と目が合う。
(どうしたんだろ……?)
自分を見る善治の表情が普通ではなかった。
目を見開いて、何かとんでもないものを見ているような顔をしている。
自分ではなく自分の後ろに何かあるのかと振り返ってみても何もない、どう見ても菊地に焦点を合わせている。
(どうしたの?)
という意味を込めて首を傾げて見せると、食事を中断して席を立ち、こっちに足早に駆け寄って来た。
あまり一緒にいるとありもしない噂を立てられて迷惑になるだろうからと、互いに一定の距離を保つようにしていたのでこれには驚いた。
「何か見た?」
開口一番そう聞いてきた。
すぐに昼間に見たあの白い人影が思い当たったが、まさか周囲に他の男子もいる状況で堂々と相談出来る訳もない。
「いやえっと……」
「ちょっと来て」
しかし善治は回りを気にする様子もなく……と、言うより気にする余裕もないという感じで菊池の腕を掴んで引っ張っていく。
無論周りの男子達は見ているが、善治の様子が余りに真剣だったのではやし立てる者もおらず、皆呆然と見送るばかりだった。
「……浮気?」
「修羅場かな」
ぼそ、と誰かがかがこぼした言葉に何人かがくすりと笑った。
「あいつそんな甲斐性ある?」
「ははは……」
「なあ、何かさ」
「ん?」
「甘い匂いしない?」
・
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・
食堂を出てすぐの廊下で善治は菊池の腕を離して向き直った。
「何か見た?」
そして、先程と全く同じ質問を繰り返した。
凄く真剣な表情も変わらない、血の気が引いて頬が青ざめている。
「……み、見たと言えば見たかもしれないけど……そんなにヤバそうには見えなかったけど……」
「どこで?どんなだった?」
「昼に歩いた山道で、森の中に何か白いのが立ってて……」
「……」
「そんなにヤバい奴だったの?俺が見たのって……」
「かなり」
青い顔をした善治にそう断言されるとぞわぞわと背筋に鳥肌が立つ。
「だ、だけどそこまで悪い感じは……」
これまで危険な目に遭った時は少なからず菊池にも感じる物があった。
彼女程ではないにしろ、悪意や敵意はある程度肌で感じれるようになっている。
しかし昼間に見たアレからはそのような悪い感覚は全くなかった。
「悪意があるのだけが厄介って訳じゃないんだよ」
善治が言う。
「気に入られたり、執着されたり、ある種好意的な感情でも、相手が大きすぎると危ない場合があるの」
「大きすぎる……?」
「虎やライオンにじゃれつかれたら相手に害意が無くても怪我するでしょ?」
そういうものか。
「って事は、昼間の奴って猛獣並みにヤバい奴……?」
「猛獣っていうか……格が違うっていうか……地球人とサイヤ人みたいな感じ」
「んふふ」
「笑いごとじゃないのよ」
「ご、ごめん」
そこで、善治は何か苦い顔になった。
「あのね……もし、それに本格的に目を付けられたら、今までとは違うの」
「違う?」
「私なんかでどうにもならない」
また、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
「ど、どうしたら……」
「する事は変わらない、無視する事、徹底して」
それなら大丈夫な気がする、今までもやってきた事だ。
「たまたま波長が合っただけで、相手がこっちに興味がなかったなら一番なんだけど……菊池君、その白いのって、菊池君の方を見てた?」
「……わからない、そもそも人影かどうかもわからなかったし……」
「何事もなかったらいいんだけど、もし……何かあったら、すぐに知らせて」
「で、でも、善治にもどうしようもないんだろう?」
「知っちゃったんだから放っておけないよ、いい?すぐ知らせるんだよ?」
善治は菊池の腕の当たりを掴んで(本当は肩を掴みたかったけど背が届かないらしい)顔を近付けると念を押すように言った。
ドキッとした。
それと同時に、彼女には何があっても伝えまいと密かに決心した。
もし自分のせいで彼女に何かあったら、悔やんでも悔やみきれないと思ったからだ。
・
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・
滞りなく修学旅行は終わり、善治は家に帰りついた。
もしあの時の白い奴がまた見えたら……と、びくびくしていたが、何事も起きなかった。
(んー、よかった……ハラハラした)
自室のベッドに寝転がって、善治は息をつく。
多分、善治の説明にあった「たまたま波長が合っただけ」というやつだったのだろう。
それなら、もうあの土地から離れたのだからもう波長が合うとか何とかも起きないはずだ。
(……多分、あそこはもう二度と訪れない方がいいんだろうな……)
それだけは覚えておいた方がいい、と思いながら部屋の隅に放り出した荷物を片付けようとベッドから身を起こした。
ふわっ
「ん?」
不意に、甘い匂いが鼻をくすぐり、思わず声が出た。
嗅覚は記憶と密接に結びついている、と聞いたことがある。
だからか、以前その匂いを感じた時をすぐに思い出した。
(香水とか付けてないよな?)
(付けるわけないだろ、何でだよ)
(いや、何かいい匂いする……)
(いい匂い?)
果実のような、桃のような。
あの時の匂いだ、あれを見た時の匂いだ。
シュッ
衣擦れの音が聞こえた。
小さい音だったが、聞こえた、廊下の方から。
どうしてそんなに小さな音に過敏に反応したのか。
それしか聞こえなかったからだ。
気付けば車の音も、人の話し声も、周囲の生活音が全く聞こえなくなっている事に気付いた。
あの森の中の時と同じに。
シューッ
見てはいけない。
無視しなければいけない。
だが、その時の混乱している菊池にその判断はできなかった。
音のした方を見た。
部屋のドアは少し開いていて、隙間から廊下が見える。
そのドアの隙間をスッ、と白いものがよぎる。
白いものが通った直後に、ふわりと黒い物がひらめいて通った。
髪。
長い黒髪がたなびいて、白いものの後を追って通り過ぎたように見えた。
「雅史!いつまで寝てるの!」
母の声で、目が覚めた。
ベッドの上で身を起こしてしばらくの間呆然とした。
「……夢……?」
半ば願望を込めて呟いたが、部屋に漂う桃のような残り香がそれを否定する。
「……」
呆然としたまま、部屋から出て一階に降りる。
「あら?あんた、香水でも付けてるの?」
混乱する頭に母の言葉が突き刺さった。
自分にしか感じていないものであれば、あれは夢でこの匂いも気のせいだと強引に思い込む事もできたかもしれない。
だが、その可能性も否定されてしまう。
「……つけてないって……」
上の空で母に答えながら、頭で思った。
ついてきたんだ。
ろくに喉を通らない夕食の後、自室に籠って考えた。
見てしまった。
よりにもよって、自室で。
つまり、今こうしていてもいつ遭遇するかわからないという事だ。
どうする?
どうすればいい?
(何かあったらすぐ知らせて)
善治の言葉が頭をよぎるが、首を振る。
頼れない、彼女自身が手に負えないと言ったのだ。
自分の為に無理をさせられない。
それに……。
(本当に悪くないものなら、付きまとわれても大丈夫なんじゃないかな……?少なくとも今はうろつくだけで実害はないし……)
もう少し、様子を見よう。
それに相手をしなければ、そのうち飽きて離れて行くかも……。
この時、菊池は奇妙に楽観的になっていた。
危険を感じなかったからだ。
悪意、敵意に晒されると危険を感じるが、最初の時も部屋で見た時もそういう嫌な感じがなかった。
だから恐怖よりも好奇心が先行してしまった。
森の中で遠目に見たもの。
つい先ほどドアの隙間に見えたもの。
はっきりと見えないそれの正体を確かめたい。
そういう興味を抱いてしまったのだ。
20/03/07 20:41更新 / 雑兵
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