連載小説
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探求編


 最後に見た日から数日間、何も起きなかった。
菊池はたまたま街で見かけた白い服の人に過敏に反応したり、窓際で揺れるカーテンに気を取られたりする以外は平凡に過ごした。
「大丈夫?」
「うん、あれ以来何もないよ」
「本当……?気配消えてないように見えるけど……?」
「大丈夫だって、本当だよ」
自分の事を心配する善治にも心配を掛けまいとそう答え、極力会わないようにした。
いや、正確に言うとその「何か」の正体を見たかっただけなのだ。
きっと絶対に駄目だ、と言われるだろう。
だから隠した。
そうして過ごしていたある夜。
ベッドの中でそれを感じた。

 ふわっ

 あの匂い。
そして、全ての音が遠くなるあの感覚。
(来た……!)
菊池はベッドの中で目を見開いた。
ドクンドクンと布団の中で心臓が跳ねるのを感じる。
(見たい……見たい……!)
その姿を見たい。
そんな思いに駆られて、菊池は異様に動きづらい首をギリギリと動かし、ドアに首を向けた。
そうして、わざと開けてあるドアの隙間を凝視する。
その白い姿を捜す。
(……?……)
その日は、過去二回の遭遇とは違った。
(空気……が……)
重い。
キィィーーン、と耳鳴りがする。
そして、匂いも濃い。
仄かに香るくらいだった匂いが、甘ったるく感じるほどに強い。
甘く、重い空気がずっしりと布団を圧迫するように感じる。
部屋の中が見えない何かで充満して、圧し潰されるような感覚。

 怖い。

(俺は馬鹿だ)
今更後悔する。
興味本位で姿を見たいだなんて思っていた事に。
善治に相談しなかった事に。
いや、善治には相談しなくてよかった。
「格が違う」
いつだったか善治が言った言葉。
あれは本当なのだと今ならわかる、本能でわからされる。
この部屋に現れようとしているのは、そういうものだ。
こんなものに善治が関わり合いにならなくてよかった。
どうすればいい?
どうにもならない。
ごめん。
父さん、母さん、ごめん。
善治、ごめん。
ごめんなさい……。

 「……ぁ……ぁぁ……ぁ……」

 何か、聞こえた。
最初は自分の荒い息遣いかと思った。
だが違う。
自分の声より明らかに高い……女の声。

 「ぁ……ぁ……ぁぁ……は……」

 有名な日本のホラー映画を思い出した。
霊が登場する予兆に、女の掠れた呻き声が聞こえるという演出。
(あれって本当にあるんだ)
ぐるぐる回る脳内で妙に冷静にそんな事を考える。
だが、その聞こえる声は呻き声、というより、まるで密やかな溜息のような……。

 「ぅぅん……ぁぁ……」

 体が動かない、ドアの隙間から目が離せない。
かっと目を見開いて凝視する。
来る。
あの白い姿が、あの、白い……。

 「……ぅぅ、ぅ、ぅ……」

 気付いた。
声が聞こえるのは廊下からではない。
部屋の中から聞こえている。
それも相当に近い。
ベッドの……。

 「……ぁぁ、はぁ、ぁ、ぁ、ぁ……」

 ドアを凝視していた視界の隅に映るベッドの縁。
その上に、白い何かが乗っている。
最初、芋虫か何かかと思った。
四匹並んで乗っている。
だが、すぐに気付いた。
窓からの月明かりを僅かに照らし返す虫の背中が「爪」である事に。
指だ。
白い指。
誰かがベッドの縁に手を掛けている。

 「ふぅ、ふ、ふ、ふふ、ふ」

 今の引き攣った笑い声は「それ」の声ではない。
菊池の喉から発された声だ。
恐怖がピークに達すると、人は笑うのだ。
黒いものがベッドの下から上がって来る。
はっきりと見えなくとも、それが頭である事がわかる。
黒髪の頭だ。
それの顔を見てはいけない、そう思っても、まるで視線が貼り付けられたように動かない。
「それ」の顔が、縁から現れる。

 白

 (白い……?)
最初、顔が無いのっぺらぼうなのかと思った。
そうではなかった、ベールのように白布が垂れ下がっている。
それで顔が覆い隠されて見えないのだ。

 「ぁぁ……ぁぁ……」

 しかし隠されていても、その布の奥から視線を感じる。
見ている、碌に首も動かせない菊池の顔を。
ゆっくりと「それ」の全身が露わになる。
それは、ある程度想像していた通り、白装束のような物を着ていた。
だから遠目から白く見えたのだ。
そして、女だった。
顔は見えないが、はっきりとわかった。
白装束はしっかりと着付けられているのではなく、帯も乱れ、ひどく着崩れている。
その乱れた胸元から、深い谷間が覗いている。
物凄く、大きい乳房だった。
月光に浮かび上がる二つのそれは、着物の下から異様な存在感を示している。
前がきちんと合わされていないため、その深い谷間の下に続いて小さな臍まで見える。
今にも解けそうな帯から覗くのは、月光に艶めかしく浮かび上がる太腿。
顔を白布で覆い隠し、白装束を着崩した豊満な肉体の女。
それが、菊池の見た「正体」だった。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」
菊池は気付いた。
自分の陰茎が、パジャマを突き破りそうになっている。
興奮している、自分はそれの姿に興奮している。
ベッドの傍らに立ったそれはゆっくりと、菊池に顔を近付けて来る。
結果として前かがみになり、豊かな房が今にも着物から零れ落ちそうに垂れ下がる。
しゃらら、と、垂れ下がったそれの髪が寝ている菊池の傍らを撫でる。
菊池の頬に、その髪が僅かに触れる。
ぴりぴりと痺れが走るような感覚。
未知の感覚、だが紛れもなくそれは快感。
髪がほんの僅か触れただけで、射精しそうになった。
甘い匂いが濃い、頭がくらくらする。
垂れ下がって、ゆらゆらと揺れる房の谷間から、嗅いでいるだけで眩暈がするような甘い香りがする。
その胸元を凝視すると、微かに湿っているように見える。
着物の生地も、濡れているように見える。
じっとりと濡れたその生地に、乳輪の形が浮き上がって見えそうだ。
胸元に指を引っ掛けて、それを露出させてしまいたい衝動に駆られる。
だが、視線を僅かに動かせるだけで相変わらず体はびくとも動かない。
「ふぅぅっ……、ふぅーーーっ……!」
拘束された獣のように、菊池は身を捩らせる。
それは微かに首を傾げ、そんな菊池を白布の下から見ている。
と、ゆっくりとその白い手で、震える菊池の身体を撫でるような動きをし始めた。
だが、実際に触れてはいない。
触れるか触れないか、ぎりぎりの所で手が泳いでいる。
触れそうになっている箇所がぴりぴり痺れる。
焦らされているような心地だった。
触れて欲しい、と、狂おしく思った。
ほんの僅かにでも触れられたら自分は射精してしまう、と思った。射精させて欲しい、と思ってしまった。
「……ぁ……ぁぁ……ぁ……」
それはゆるゆると手を菊池の下腹部にまで伸ばし、あろうことかはち切れそうになっている陰茎の上に手をかざした。
無論、触れてはいない、ギリギリの所をゆらゆらと揺れている。
菊池は必死に腰を突き上げてその手に陰茎で触れようとする。
だが、触れられない。
「ぁぁ……ぁぁ……ぁ、ぁ、ぁ〜〜〜……」

 触れたい
 
 触れたい

 触れたい

 触れて

 触れて

 触れて

 気が、変になる。

 カチカチと歯まで鳴らし始めた菊池の耳元に、その白布で隠された顔が近付く。

 「ねぇ……たねぇ……た、ねぇ……たぁ、ねぇ……」

 ほぼほぼ吐息のような、耳元に生ぬるく吹きかけられるような声で、そう聞こえた。
びりびりと、声を掛けられた側の耳から側頭部の毛が逆立った。

 「たぁ、ねぇ……た、ねぇ……」

 菊池は、気を失った。







 一見すると、菊池の様子は普段と変わらなかった。
授業を受け、友人と談笑し、部活の陸上に励む。
だが、少しでも彼と親しい人物はすぐ違和感に気付いた。
授業中も、休み時間も、いつでも。
ふとした拍子に周囲をきょろきょろと落ち着きなく見回し始める。
かと思えばぼんやりと放心状態になる。
どうしたのか、と問われても何でもないと生返事をするばかりだった。
「菊池くん」
「……え?」
そして今も、菊池は正面から近付いて来た善治に声を掛けられるまで気付かなかった。
直前まで中空を見つめ、ぼんやりとしていた。
「ちょっと話があるんだけどいい?」
「あー、うん……ここだと駄目?」
「ついてきて」
そう言うと、菊池を教室から廊下に連れ出していく、後ろから冷やかしの声が聞こえたが善治は無視する。
「……どうしたの?」
「こっちの台詞」
校舎の外にまで連れて来られた菊池が訪ねると、聞き返された。
「様子がずっとおかしいし、それに……あの問題、多分解決してないよね?」
「まあ……いや……」
菊池は曖昧に言う。
「あの件はその……大丈夫だから……」
「もう見てないの?」
「……うん……見てない……」
「本当に?」
善治がじっとその大きな瞳で見ると、菊池は目を逸らす。
「とにかく、大丈夫だから……」
「本当に見てないの?」
「大丈夫だから……」
ひたすらに大丈夫、を繰り返す菊池。
薄っすらと、周囲に漂う。
「大丈夫だって……」
桃の香り。
「あれは「悪い物」じゃないから……」

 パン!

 菊池は乾いた音に飛び上がるほど驚いた。
善治に頬を張られたのかと思った。
しかし、目の前で合わされている小さな手を見て善治が柏手を打った音だと気付いた。
実際に思い切り平手打ちを食らったような気分だった。
ぼんやりともやの掛かっていた頭は眠りから覚めたようにすっきりしている。
そして、常に体に付きまとっているように感じていた甘い匂いは、清い風が吹いた後のように綺麗に無くなっている。
目をパチパチと瞬かせていると唐突にぽふ、と温かい感触が体の前面に広がった。
善治が菊池を抱き締めているのだった。
胸に届くかというくらいの身長差なので、実際には抱き締めるというより抱き着いている、という感じだったが。
当然、菊池の心拍数は跳ね上がり、瞬時に頭の中が善治の感触と困惑で一杯になる。
「え、あ?、ちょ、ぜ、ぜん……」
「菊池くん、気をしっかり持って」
「えっ?」
「こういう時、本人が気を強く持たないといけないの、負けたら駄目なの」
ぽんぽん、と回された手が背中を叩く。
「心を持っていかれちゃ駄目、連れていかれてしまったら駄目」
「……」
「お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、友達、誰でもいいから大事な人の事を思い浮かべて」
「……」
「連れていかれちゃったらもう会えなくなるんだよ?」
「……」
「そうなってたまるか、なるもんか、って、そういう気持ちを強く持って?」
「……」
「私だって菊池くんがそうなったら悲しいから私の事も少しは気にかけて?」
「あ、うん……」
「私も協力するから」
そこで、菊池は善治の肩に手を置いて体から引き離した。
「なあ、善治……お前、前に自分で言ったろ、手に負えないって」
善治の目を見ながら言う。
「やっぱり駄目だよ、善治が危険な目に遭うのは駄目だ」
善治は少し笑う。
「そういうところがあるから目を付けられちゃったんだろうね」
「なあ、俺は真面目に……」
「菊池くんの為だけじゃなくって、これは私自身の問題でもあるんだよ」
「善治の?」
「私の何ていうか……宿命、みたいな?かっこいい言い方すると」
「宿命って……」
「だから頼る事に罪悪感を覚えなくていいの、私からお願い、一緒に頑張ろう?」
「……うん……わかった……ありがとう……」
「よし」
ぎゅ、と小さな手で菊池の両手を掴んでぶんぶん、と振った。
「それでその、具体的にどうすれば……?」
「放課後空いてる?」







 日が落ちかかる夕暮れ時。
二人は市内の図書館にいた。
家に連絡を入れて学校の帰りにそのまま寄ったので、二人とも制服姿のままだ。
「で、これからするべき事」
「うん」
夕日の差し込む窓際のテーブルに座った二人は向かい合う。
「情報の整理」
ごそごそと鞄から筆記用具を取り出しながら善治が言う。
「あ……そういう……?」
「どういう事すると思ってたの」
「いや、おまじないとかお札とか、そういうのを教えてくれるのかと……」
「善治くんに付きまとってるのはそんなのでどうにかできるモノじゃないから……下手な対抗策は火に油だよ」
「……本当に、そんなにヤバい奴なのか……」
「本当にそんなにヤバい奴なの」
改めて善治の口から聞かされると、やはりぞっとしない。
「本当の事を答えて欲しいんだけど……見たんだよね?」
「……うん」
自分に憑くモノの姿の事だ。
「覚えてるだけでいいから、どんなだった?」
善治はノートを開き、ペンを片手に持って言う。
「着物着た女の人」
「どんな着物だった?」
「真っ白……長い黒髪の……」
聴きながら、善治はノートに「白装束」「女」「長い黒髪」と、箇条書きに記していく。
「顔は見えなかった?」
「顔に布が掛かって見えなかった」
「布?」
「こう……頭から下がってる……」
「天冠?」
「テンカン……って?」
「幽霊が頭に付けてる三角巾みたいなやつ」
「あれテンカンって言うんだ」
思わぬ雑学が増えた。
「あれと同じかどうかわからないけど……顔を隠すように下がってたから違うかも……」
「顔を隠す布……」
さらさらと書き込まれる。
「他に気付いた点は?着物が汚れてたとか」
「汚れてはいなかった、でも着物がすごく乱れてて……」
「うん……」
書き込む。
「……」
「他に何か特徴は?」
「……」
「もう無い?」
これは、言うべき情報だろうか。
先程着物の事を言った時に連想で思い出した。
別にそんなに重要な情報にもならない気がするが……。
「何でもいいよ、何が手掛かりになるかわからないから」
そう言われたので、言う事にした。
「その、大きかった……」
「何が?」
「む、胸が、大きかった」
「ほぉん」
あからさまに今までと違う相槌が返ってきた。
「どのくらい」
「え?」
「何カップくらいあった?」
「そ、そんなの見てわからないよ……!ただ……、ぐ、グラビアアイドルくらいあったような……いやそれ以上かも……」
「ほぉん」
さらさらと書き込まれる。
「巨乳」と。
何故かその単語に五重丸くらいぐるぐると印を付けている。
「じゅ、重要な情報なのかそれ」
「全然」
冷たく返された。
何故かいたたまれない気持ちにされる。
「それと、匂い、だよね」
「あ、ああ、そうだ、そうなんだ……やっぱり、わかってた?」
「他の人もそれには気付いてたからね」
書き込もうとして、ペンが止まる。
「何の匂いだと思う?」
「……うまく例えられないけど……桃……かな……?」
「うん……私も、そんな感じに思う、だけど……まあ、うん」
少し歯切れの悪い答えを返した後、項目に「桃の匂い」と書き加える。
「他にある?」
「ええと……」
また、口ごもる。
これも、手掛かりには関係ない可能性が高い。
「何でもいいのよ」
しかし再度促されて言う。
「ごめん、これはその……俺がただスケベなだけかもしれないんだが」
「男の子なら自然だよ」
平然と返されて余計恥ずかしくなる。
「そ、そいつが出てくる時……すごい、興奮する」
「興奮」
「ええと……大きくなる……」
「勃起」
避けていた表現をはっきり言われてしまい、穴が合ったら入りたい心地になる。
というか、年頃の娘が躊躇なく口にしないで欲しい。
また冷たい目で見られるのではないかと思っていたら、意外な事に善治はひどく真剣な表情になっている。
「……こ、これって重要な手がかりになるの……?」
「ソレが、菊池君に何を求めてるかって事」
「な、ナニ……?」
「ナニ」
だからさらっと言わないで欲しい。
「前も言ったけど動機だよ、誰かに恨みがあるのか、満たされないものがあるのか、ただ苦しみを知って欲しいのか……」
と、善治はテーブルに手をついてずい、と顔を近付けてきた。
怖い顔をしている。
「応えたら駄目だよ、絶対に」
「わ、わかってる」
「本当に気を付けて、見えてる事を隠したのもソレに会いたかったからだよね?」
うぐ、と図星を突かれて言葉に詰まる。
そう、一目見たその姿に若い欲望が刺激されてしまったのは事実だ。
あまつさえ触れたい、触れてほしいと切望してしまった。
その時点で魅入られていたのかもしれない。
それから今日、善治に目を覚まされるまではもう一度会いたい、しか頭になかった。
「欲に負けそうになったら大事な人を思い浮かべて、連れていかれるもんか、って強く想うの」
「わかった」
「何か対策が見つかるまでは菊池くんの意思の強さだけが頼りだから……私が、守ってあげれたらいいけど……」
一瞬、善治の顔に申し訳なさそうな表情がよぎる。
「大丈夫……頑張るから」
「お願い」
そう言って、善治は座りなおした。
「見た目はそんな所?」
「うん……」
「それじゃあソレを初めて見たのは……あの、修学旅行の時?……」
「うん、多分……いや、間違いない」
山の中で見た白い姿。
それが一番最初だ。
その時初めて友人に「匂い」を指摘された事を覚えている。
その後に食堂で善治に詰め寄られた事も。
「やっぱり、か……あの時行った場所は……山で見たって言ってたよね?」
「うん……あの時行ったのはえー……何だっけ」
「○○山」
「その場所で見たって事に意味あるのかな」
「場所は重要だと思う、その時を境に見るようになったっていう事はそこで見初められた可能性高いから」
「……○○山って、何かそんな怪しいいわれとかあったっけ」
「それを調べるための図書館、私本調べるから、菊池くんネットで調べてみて」
「わかった」
二人は動き始める、暗闇の中を手探りで進むように。
怪異に、立ち向かう為に。
20/03/02 18:33更新 / 雑兵
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