三
目の前には、やわらかそうな尻尾。
畳の上で、その尻尾は横たわった僕をあやすように、時折ぱたり、ぱたりと動いている。
本当の赤ん坊みたいに、僕はいつもより重い手を不器用に伸ばして、その尻尾を掴んでみたくなる。
でも、水桶から、祐がこちらへ向き直るのに合わせて、尻尾は体の後ろに隠れてしまった。
とっさに額を擦り、行き場のなくなった手をごまかした。
こういう時、赤ん坊なら泣いてむずかることもできるのだろうけど。
代わりに、胸の奥から突き上げるように、耳障りな咳が三度ほど。
祐に咳がかからないよう、必死に顔をそむける。
喉を上下する痰がわずらわしく、強いて呑み込もうとすれば腫れた喉に響いた。
祐の左手が、掛け布の上から僕の胸にあてがわれた。
すると、そこを中心にして、きれいな水がゆっくりと体の内にしみこんでいくような感じがした。
そっと祐の指が動き、優しく胸を撫でる。
ざわざわ、むずむずしていた胸が、不思議と鎮まり、痰にふさがれた喉がすうっと通った。
これも、あの時のおまじないみたいなものだろうか。
気持ちいい。
「手当て」とは、こういうことを言うのだろうなと思った。
触れてもらえるだけで、とても救われる気がするというのに、不思議なおまじないまで施されて、なんだかもったいない。
咳が収まり、息が整うのを見計らって、新しい冷たさを抱えた藤色の手拭が額に乗せられた。
余分な水気をよく切ってあり、吐く息までもが熱い今の僕には心地よかった。
「おなか、すいてない?」
そう聞かれたが、特に食欲は感じない。風邪のひき始めは、いつもそうだ。
とはいえ、何も食べずにいても体力は落ちるばかりだから、夕飯時に少しだけを無理やり押し込むのが常だった。
今は、まだお日様も真昼の高さにある。
どこか近くの木に油蝉でもとまっているらしく、わんわんと鳴くのを聞いていると嫌でも体温が上がるような気がしてくる。
まだ朝を抜いただけだから、だいじょうぶ、と、僕は答えた。
だが、祐は目を丸くして、ほんとに? と念を押す。
「丸一日食べてないから、大変でも何かお腹に入れておいた方がいいよ。」
丸一日、と聞いて驚いた。僕が熱を出してからもう二日目になっているという。母のもとへ「風邪をひいた」と告げに行ったのは、既に昨日のことなのだ。
そして再び床に入ってから、そのまま日が沈み、また昇って、昼にやっと目を覚ます。そしたら祐が僕の脇で舟を漕いでいた、ということになる。
確かに、熱がひどいときなど、昼の間寝入ってしまい、気がつけば夕方や夜になっていたことは、今までにもあった。
でも今度のように、日の入りとその次の日の出を丸ごと寝過ごす、といったためしはなかったので、にわかに実感できない。
そう聞くと、ちゃっかり腹の虫が鳴き出してきそうだった。
とりあえず、もう少し経ったらお腹も減ってくると思うから、と祐には答えておいた。
「無理しなくて、いいよ。ゆたかのとと(父)様もかか(母)様も、お夕飯時まで戻ってこられないから。」
そのあいだ、面倒を見ておいてくれるように、僕の家族からことづかっているのだと、祐は教えてくれた。
「だから、何でも言って。」
と、自分の胸を指す祐。
妙に家族と慣れ親しんでいるような物言いをするので、父や母と祐は知り合いなのかと尋ねてみた。
まさかとは思ったけれど。
その大きな耳の生えた頭を縦に振り、実に当然のように、そうだよと頷かれては、やはり驚く。
自分が浦島太郎になっていたことよりも、驚きだった。
祐は、既に昨日のうちから家を訪れ、外の仕事で忙しい家族に代わって、僕を看てくれていたのだった。昨夜は家に泊まってさえいたらしい。
見舞いに来るのも、今日が初めてのことではないのだそうだ。
僕が熱を出して、それこそ今みたいに長く寝込んでしまうほど症状がひどい時など、どこからともなくやってきて、僕が眠っている間にこうやって頭を冷やしたり、目を覚ました時に腹に入れるものをこさえてくれたりしていたという。
祐の口からそう聞かされた僕は、しばらくぽかんとしていた。
「どこからともなく」などと言われても、何だか煙に巻かれているみたいだ。
今日はうっかり僕の横でうつらうつらしてしまったため、帰る前に、目を覚ました僕に見つかってしまったようだ。
「ゆたかはよく風邪ひくから、とと様、かか様とはもう、すっかり仲良しになっちゃった。」
そう言って祐はころころと笑う。
目が覚めてからというもの、初めて知ることばかりだ。
あの社で祐と会ったその日、別れ際の言葉におかしいなと思いはしていたが、やっぱりあれが初めてではなかったのだ。
「『ゆたか』の、字の書き方が分かったのは、その時が初めてかな。」
祐はなぜか嬉しそうに、そう言うのだった。
「でも、どうして僕が寝ている間しか来ないの。」僕は尋ねてみた。
祐は小首をかしげて、うーんと考え込むようなしぐさをしてから、悪戯っぽく微笑んで、
「人知れず助ける、っていうの、かっこいいかな、と思って。」
と、雲をつかむような答えを返してきた。
知らなかったのは僕だけなんだけど。
思わず、僕も笑う。弱った体なりの小さい笑いだったが、笑える気力は残っていた。それも祐のおかげなのか。
それにしても、父母、弟妹からも、お稲荷様の知り合いがいるなんて聞いたことが無いのはどうしてだろう。
祐に聞いてみると、もう一度小首をかしげてから、
「『様』なんて呼ばれるような、大層なことはしてないよ。」
と言って、照れたように笑う。
それはもはや、はぐらかしているとしか思えなかったが、今の僕はまだ、あまり長い時間頭を考えごとに費やすのは向かないようだった。
話し過ぎたせいか、驚きすぎたせいか、軽い目眩を感じ、僕は頭を祐の方から天井へと向け、少し目を閉じた。
頃合いを見てとった祐が、僕の額の手拭を水に漬け直してくれた。
「いい子で寝ていれば、熱も咳も、お喉が痛いのも、すぐに峠を越してくれるから。」
祐の声。優しくて涼しげで、これもまた気持ちいい。
「がんばろうね、ゆたか。」
手拭をもう一度乗せながら、それは何の気なしに言った言葉だったかもしれない。
そのまま聞いていれば気持ちいいはずの言葉が、そのときふと心に引っかかった。
思わず僕は、ぱちっと目を開くと、そのまま目だけで祐の顔を見た。
包み込んでくれそうな声の主に似つかわしい、和らいだ笑顔。
でも、僕と目が合うと、その顔は少しだけ曇った。
きっと、よほど情けない顔でもしていたに違いない。
どうしたの、と言いたげに、顔が僕の方にやや近づく。
「頑張る」って、どうすればいいんだろう。
と、ばかばかしいことを、熱にやられた僕の頭は思った。
答えが、見つからない。僕には、出来ない。そうとしか思えなかった。
思ったことがすぐ顔に出るのは、僕の嫌いな癖の一つだ。
あまつさえ僕は、祐の顔を見ながら、かすかに首を右に左に振ってもいた。
今まで、僕は何を頑張ったっけ。
その何かを思い出そうとするが、一向に浮かんでこない。
田畑の仕事の手伝いも、体が音を上げるのが早すぎて駄目。
へとへとになるまで鍬を振ったのに、耕した畝の数は弟に及ばない。
いじめられれば早々と泣きべそ。
まともなけんか一つ、したことが無い。
「頑張った」と認められるために、こなさなければならないこと。
その量は、これこれこういうことを、どれだけやるべしと決まっているのだろうか。
何を、どれだけこなせば、皆は僕を「頑張った」と思ってくれるんだろう。
どうすれば、僕は自分を「頑張った」と思えるんだろう。
そんなこともわからないのは、僕だけなのか。
皆はその「頑張った」に必要な量を、ちゃんと心得ているのだろうか。
頭の中のぬかるみが大きく、思ったよりも深くて、足を取られ抜くことができない。
笑顔でない祐の顔を、初めて見た気がする。
せっかく励ましてくれたのに。
素直にうんと頷いておけばよかったんだ。
言うに事欠いて「頑張り方が分からない」とは。
胸の澱が、これでまた少し増えるのだろうか。
そっ、と、僕の頬が冷えた。
祐の右手。
水桶につかって冷やされた手のひらが、僕の頬をさするように触れた。
胸は、濁らない。
「だいじょうぶだよ。」
祐の声は変わらず、むしろいっそう優しかった。
「ゆたかは、寝ているだけでだいじょうぶ。」
僕を見る祐の顔は、またいつもの微笑む顔。
ゆたかの体は、今とっても頑張っているの。
ゆたかに苦しい思いをさせてる、悪い風邪を、追い出そうとしてくれているところ。
熱かったり、寒かったり、痛かったり、つらかったりするのは、体と風邪がお互い争っているから。
でも、ゆたかが降参しちゃうと、ゆたかの体はもう頑張れなくなってしまう。
悪い風邪にすっかり取りつかれてしまうの。
だから、ゆたかの仕事は、それを我慢すること。
どれだけ体が苦しがっていても、じっと横になって、「負けないで」って言ってあげること。
寝ているだけかもしれないけれど、ほんとはとっても大変なこと。
僕にそう言い聞かせながら、頬に触れる祐の、指先がふと見えた。
指のお腹が、水にふやけて、しわになっている。
僕も、こういうふうになったことがある。お風呂に長くつかっていると、指先が水を吸ってそうなるんだ。
とすると、祐のこれは、水に手をつけて、僕の手拭を替えているうちにそうなってしまったのか。
では、今まで何度、祐は僕の手拭を替えてくれていたんだろう。
僕が丸一日以上寝ていた、その間に。
そもそも、その水の入った桶だって、井戸からつるべを引っ張り上げて、水をその中に移し、僕の寝ているここまで運んで来たもののはずだ。
その桶は、今まで何度、汲みなおされてきたんだろう。
僕が丸一日以上も寝ていた、その間に。
そういえば、さっき、祐は僕の隣で居眠りをしていた。
もしかして、僕が、起きなかった丸一日以上の間。
祐は、眠っていなかったのではないか。
そんな風に思えてならなかった。
「これまで、何度もそんな辛い目に遭ってるのに。」
僕を冷ましてくれる祐の手。それは、僕のせいで冷えてしまった、祐の手。
「ゆたかは、負けずに、ちゃんと頑張ってるね。」
少しの間、額から手拭を取って、僕の額から頭をなでた。
えらいえらい、と言うように。
瞬間、思い出した。
山の古びた社。
倒れないのが不思議なくらい疲れきった僕の頭を、同じように祐は撫でてくれたこと。
そして、僕にかけてくれた言葉が、
がんばったね。
だったことを。
思いだしたとき、僕に湧きあがった気持ちは、何なのだろう。
嬉しさ、淋しさ、悲しさともつかない、妙な気持ちだった。
ごめんなさい。
ありがとう。
どちらの言葉を、僕は祐に送ればいいんだろう。
あの時も、今この時も、僕は、祐からとても大事なものをもらっている。
そのくらいは、何となくでもわかる。
なら、返さなきゃ、と強く思った。
返すと言ったって、いらないから返す、というんじゃなくて、お返しとか、恩返しとか、そういうことをしたい。すぐじゃなきゃだめだ、とかなんとか、思ったのだった。
温めないと。
結果として、そんなことが頭をよぎった気がする。
あの時力をくれたおまじないのまねをするみたいに、僕は、祐の手にほてった頬を近づけた。
冷えた祐の指先が、だんだんと頬の熱に融けるようになじむのを感じて、安堵する。
頬で指先を温めるだけでは心もとなくて、今の祐と同じように、僕も右手をまわして、まだ冷たさの残る手の甲に触れる。
はたから見れば、本当の赤ん坊と変わらない。
まるで甘えているよう。もしや嗤われたりはしないだろうか。
と思っていると、僕の頬の上で祐は手を動かし、もっと温めてもらおうとするかのように、手のひらをより広く、僕の肌と重ねた。
「ありがとう。」
その祐の一言が、教えてくれた。
それでようやく、僕も「ありがとう。」を祐に返すことが、できた。
畳の上で、その尻尾は横たわった僕をあやすように、時折ぱたり、ぱたりと動いている。
本当の赤ん坊みたいに、僕はいつもより重い手を不器用に伸ばして、その尻尾を掴んでみたくなる。
でも、水桶から、祐がこちらへ向き直るのに合わせて、尻尾は体の後ろに隠れてしまった。
とっさに額を擦り、行き場のなくなった手をごまかした。
こういう時、赤ん坊なら泣いてむずかることもできるのだろうけど。
代わりに、胸の奥から突き上げるように、耳障りな咳が三度ほど。
祐に咳がかからないよう、必死に顔をそむける。
喉を上下する痰がわずらわしく、強いて呑み込もうとすれば腫れた喉に響いた。
祐の左手が、掛け布の上から僕の胸にあてがわれた。
すると、そこを中心にして、きれいな水がゆっくりと体の内にしみこんでいくような感じがした。
そっと祐の指が動き、優しく胸を撫でる。
ざわざわ、むずむずしていた胸が、不思議と鎮まり、痰にふさがれた喉がすうっと通った。
これも、あの時のおまじないみたいなものだろうか。
気持ちいい。
「手当て」とは、こういうことを言うのだろうなと思った。
触れてもらえるだけで、とても救われる気がするというのに、不思議なおまじないまで施されて、なんだかもったいない。
咳が収まり、息が整うのを見計らって、新しい冷たさを抱えた藤色の手拭が額に乗せられた。
余分な水気をよく切ってあり、吐く息までもが熱い今の僕には心地よかった。
「おなか、すいてない?」
そう聞かれたが、特に食欲は感じない。風邪のひき始めは、いつもそうだ。
とはいえ、何も食べずにいても体力は落ちるばかりだから、夕飯時に少しだけを無理やり押し込むのが常だった。
今は、まだお日様も真昼の高さにある。
どこか近くの木に油蝉でもとまっているらしく、わんわんと鳴くのを聞いていると嫌でも体温が上がるような気がしてくる。
まだ朝を抜いただけだから、だいじょうぶ、と、僕は答えた。
だが、祐は目を丸くして、ほんとに? と念を押す。
「丸一日食べてないから、大変でも何かお腹に入れておいた方がいいよ。」
丸一日、と聞いて驚いた。僕が熱を出してからもう二日目になっているという。母のもとへ「風邪をひいた」と告げに行ったのは、既に昨日のことなのだ。
そして再び床に入ってから、そのまま日が沈み、また昇って、昼にやっと目を覚ます。そしたら祐が僕の脇で舟を漕いでいた、ということになる。
確かに、熱がひどいときなど、昼の間寝入ってしまい、気がつけば夕方や夜になっていたことは、今までにもあった。
でも今度のように、日の入りとその次の日の出を丸ごと寝過ごす、といったためしはなかったので、にわかに実感できない。
そう聞くと、ちゃっかり腹の虫が鳴き出してきそうだった。
とりあえず、もう少し経ったらお腹も減ってくると思うから、と祐には答えておいた。
「無理しなくて、いいよ。ゆたかのとと(父)様もかか(母)様も、お夕飯時まで戻ってこられないから。」
そのあいだ、面倒を見ておいてくれるように、僕の家族からことづかっているのだと、祐は教えてくれた。
「だから、何でも言って。」
と、自分の胸を指す祐。
妙に家族と慣れ親しんでいるような物言いをするので、父や母と祐は知り合いなのかと尋ねてみた。
まさかとは思ったけれど。
その大きな耳の生えた頭を縦に振り、実に当然のように、そうだよと頷かれては、やはり驚く。
自分が浦島太郎になっていたことよりも、驚きだった。
祐は、既に昨日のうちから家を訪れ、外の仕事で忙しい家族に代わって、僕を看てくれていたのだった。昨夜は家に泊まってさえいたらしい。
見舞いに来るのも、今日が初めてのことではないのだそうだ。
僕が熱を出して、それこそ今みたいに長く寝込んでしまうほど症状がひどい時など、どこからともなくやってきて、僕が眠っている間にこうやって頭を冷やしたり、目を覚ました時に腹に入れるものをこさえてくれたりしていたという。
祐の口からそう聞かされた僕は、しばらくぽかんとしていた。
「どこからともなく」などと言われても、何だか煙に巻かれているみたいだ。
今日はうっかり僕の横でうつらうつらしてしまったため、帰る前に、目を覚ました僕に見つかってしまったようだ。
「ゆたかはよく風邪ひくから、とと様、かか様とはもう、すっかり仲良しになっちゃった。」
そう言って祐はころころと笑う。
目が覚めてからというもの、初めて知ることばかりだ。
あの社で祐と会ったその日、別れ際の言葉におかしいなと思いはしていたが、やっぱりあれが初めてではなかったのだ。
「『ゆたか』の、字の書き方が分かったのは、その時が初めてかな。」
祐はなぜか嬉しそうに、そう言うのだった。
「でも、どうして僕が寝ている間しか来ないの。」僕は尋ねてみた。
祐は小首をかしげて、うーんと考え込むようなしぐさをしてから、悪戯っぽく微笑んで、
「人知れず助ける、っていうの、かっこいいかな、と思って。」
と、雲をつかむような答えを返してきた。
知らなかったのは僕だけなんだけど。
思わず、僕も笑う。弱った体なりの小さい笑いだったが、笑える気力は残っていた。それも祐のおかげなのか。
それにしても、父母、弟妹からも、お稲荷様の知り合いがいるなんて聞いたことが無いのはどうしてだろう。
祐に聞いてみると、もう一度小首をかしげてから、
「『様』なんて呼ばれるような、大層なことはしてないよ。」
と言って、照れたように笑う。
それはもはや、はぐらかしているとしか思えなかったが、今の僕はまだ、あまり長い時間頭を考えごとに費やすのは向かないようだった。
話し過ぎたせいか、驚きすぎたせいか、軽い目眩を感じ、僕は頭を祐の方から天井へと向け、少し目を閉じた。
頃合いを見てとった祐が、僕の額の手拭を水に漬け直してくれた。
「いい子で寝ていれば、熱も咳も、お喉が痛いのも、すぐに峠を越してくれるから。」
祐の声。優しくて涼しげで、これもまた気持ちいい。
「がんばろうね、ゆたか。」
手拭をもう一度乗せながら、それは何の気なしに言った言葉だったかもしれない。
そのまま聞いていれば気持ちいいはずの言葉が、そのときふと心に引っかかった。
思わず僕は、ぱちっと目を開くと、そのまま目だけで祐の顔を見た。
包み込んでくれそうな声の主に似つかわしい、和らいだ笑顔。
でも、僕と目が合うと、その顔は少しだけ曇った。
きっと、よほど情けない顔でもしていたに違いない。
どうしたの、と言いたげに、顔が僕の方にやや近づく。
「頑張る」って、どうすればいいんだろう。
と、ばかばかしいことを、熱にやられた僕の頭は思った。
答えが、見つからない。僕には、出来ない。そうとしか思えなかった。
思ったことがすぐ顔に出るのは、僕の嫌いな癖の一つだ。
あまつさえ僕は、祐の顔を見ながら、かすかに首を右に左に振ってもいた。
今まで、僕は何を頑張ったっけ。
その何かを思い出そうとするが、一向に浮かんでこない。
田畑の仕事の手伝いも、体が音を上げるのが早すぎて駄目。
へとへとになるまで鍬を振ったのに、耕した畝の数は弟に及ばない。
いじめられれば早々と泣きべそ。
まともなけんか一つ、したことが無い。
「頑張った」と認められるために、こなさなければならないこと。
その量は、これこれこういうことを、どれだけやるべしと決まっているのだろうか。
何を、どれだけこなせば、皆は僕を「頑張った」と思ってくれるんだろう。
どうすれば、僕は自分を「頑張った」と思えるんだろう。
そんなこともわからないのは、僕だけなのか。
皆はその「頑張った」に必要な量を、ちゃんと心得ているのだろうか。
頭の中のぬかるみが大きく、思ったよりも深くて、足を取られ抜くことができない。
笑顔でない祐の顔を、初めて見た気がする。
せっかく励ましてくれたのに。
素直にうんと頷いておけばよかったんだ。
言うに事欠いて「頑張り方が分からない」とは。
胸の澱が、これでまた少し増えるのだろうか。
そっ、と、僕の頬が冷えた。
祐の右手。
水桶につかって冷やされた手のひらが、僕の頬をさするように触れた。
胸は、濁らない。
「だいじょうぶだよ。」
祐の声は変わらず、むしろいっそう優しかった。
「ゆたかは、寝ているだけでだいじょうぶ。」
僕を見る祐の顔は、またいつもの微笑む顔。
ゆたかの体は、今とっても頑張っているの。
ゆたかに苦しい思いをさせてる、悪い風邪を、追い出そうとしてくれているところ。
熱かったり、寒かったり、痛かったり、つらかったりするのは、体と風邪がお互い争っているから。
でも、ゆたかが降参しちゃうと、ゆたかの体はもう頑張れなくなってしまう。
悪い風邪にすっかり取りつかれてしまうの。
だから、ゆたかの仕事は、それを我慢すること。
どれだけ体が苦しがっていても、じっと横になって、「負けないで」って言ってあげること。
寝ているだけかもしれないけれど、ほんとはとっても大変なこと。
僕にそう言い聞かせながら、頬に触れる祐の、指先がふと見えた。
指のお腹が、水にふやけて、しわになっている。
僕も、こういうふうになったことがある。お風呂に長くつかっていると、指先が水を吸ってそうなるんだ。
とすると、祐のこれは、水に手をつけて、僕の手拭を替えているうちにそうなってしまったのか。
では、今まで何度、祐は僕の手拭を替えてくれていたんだろう。
僕が丸一日以上寝ていた、その間に。
そもそも、その水の入った桶だって、井戸からつるべを引っ張り上げて、水をその中に移し、僕の寝ているここまで運んで来たもののはずだ。
その桶は、今まで何度、汲みなおされてきたんだろう。
僕が丸一日以上も寝ていた、その間に。
そういえば、さっき、祐は僕の隣で居眠りをしていた。
もしかして、僕が、起きなかった丸一日以上の間。
祐は、眠っていなかったのではないか。
そんな風に思えてならなかった。
「これまで、何度もそんな辛い目に遭ってるのに。」
僕を冷ましてくれる祐の手。それは、僕のせいで冷えてしまった、祐の手。
「ゆたかは、負けずに、ちゃんと頑張ってるね。」
少しの間、額から手拭を取って、僕の額から頭をなでた。
えらいえらい、と言うように。
瞬間、思い出した。
山の古びた社。
倒れないのが不思議なくらい疲れきった僕の頭を、同じように祐は撫でてくれたこと。
そして、僕にかけてくれた言葉が、
がんばったね。
だったことを。
思いだしたとき、僕に湧きあがった気持ちは、何なのだろう。
嬉しさ、淋しさ、悲しさともつかない、妙な気持ちだった。
ごめんなさい。
ありがとう。
どちらの言葉を、僕は祐に送ればいいんだろう。
あの時も、今この時も、僕は、祐からとても大事なものをもらっている。
そのくらいは、何となくでもわかる。
なら、返さなきゃ、と強く思った。
返すと言ったって、いらないから返す、というんじゃなくて、お返しとか、恩返しとか、そういうことをしたい。すぐじゃなきゃだめだ、とかなんとか、思ったのだった。
温めないと。
結果として、そんなことが頭をよぎった気がする。
あの時力をくれたおまじないのまねをするみたいに、僕は、祐の手にほてった頬を近づけた。
冷えた祐の指先が、だんだんと頬の熱に融けるようになじむのを感じて、安堵する。
頬で指先を温めるだけでは心もとなくて、今の祐と同じように、僕も右手をまわして、まだ冷たさの残る手の甲に触れる。
はたから見れば、本当の赤ん坊と変わらない。
まるで甘えているよう。もしや嗤われたりはしないだろうか。
と思っていると、僕の頬の上で祐は手を動かし、もっと温めてもらおうとするかのように、手のひらをより広く、僕の肌と重ねた。
「ありがとう。」
その祐の一言が、教えてくれた。
それでようやく、僕も「ありがとう。」を祐に返すことが、できた。
11/10/14 07:46更新 / さきたま
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