連載小説
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 あつい。

 田んぼの泥の中みたいな、居心地の悪い眠りに引きずり込まれていく間、僕はただその言葉を頭の中で繰り返すことしかできなかった。


 つい二、三日前の事。
 僕は、山を歩いた。
 山中で、見覚えのない石段に興味をひかれ、ふらふらと知らぬ方向へ分け入ってしまい、行くも戻るもおぼつかないほどへとへとになった時、朽ちた社のような建物をみつけた。
 そこで、きつねの耳と尻尾の生えた、お稲荷様の女の子と出会った。
 女の子は、名前を祐といった。
 まるで姉に甘えるようなあのひと時を思い出すごとに、胸のあたりがむずがゆく、顔は熱くなった。


 でも、今、僕が、布団の中で、あついあついと唸っているのは、祐の事を思い出しているからではなくて。
  
 まだ、山歩きでこしらえた体中の痛みも抜けきらぬ、寝ぼけまなこの朝。
 僕は何の気なしに、起きぬけの喉を唾で湿そうとした。
 とたん、魚の小骨を二、三本まとめて引っかけたような痛みが喉の奥に走り、思わずぎゅっと首をすくめた。
 じくり、という音まで聞こえた気がした。
(ああ、始まった)
 と、すぐに思った。
 風邪にかかると、僕は決まって喉をひどく腫らす。
 治るまでの間、まともに飯も通らなくなり、水を飲むにも大変な苦労をしなければならない。
 痛みがどうにかひいていくと、更に気付くことがあった。
 畳や納戸の埃が醸し出す、いつもの家の匂いが感じられない。
 鼻も詰まっているようだ。
 息がしづらい。せいぜい片方の穴からしか、空気が通りぬけていかない。
 そして、この気持ちの悪いうすら寒さ。今は、夏の晴れた朝のはずなのに。
 それは多分、今の僕の体が、もっと熱いからなのだろう。
 これだけそろえば、嫌でも風邪だとわかってしまう。
 今日からまた、何日か床に伏せって、体の内側が溶けているかのような発熱にうなされることになるはずだった。
 もう毎月のことなので、割と心の準備がすぐ整う。
 そんな自分の性分が、いったい前向きなのやら、後ろ向きなのやらわからない。

 さて、風邪をひいたとなると、もう起きているはずの母親に事を伝えなければならない。
 月に一度、自分はこれこの通りの役立たずでございます、と宣言するというのは、ほんとの事だとしても、やっぱり気が重い。
 ふと、祐のことを思い出した。
 さよならの前に、風邪に気をつけてって言われていたのに。
 疲れないおまじないもかけてもらったのに、がんばれなかったな。
 と、自分がまるで罰当たりなことでもしでかしてしまったかのような、申し訳ない気持ちになった。


 立ち上がって歩きだすと、頭がぐらつく。
 台所に立っている母の後ろ姿に向かって、おかあさんと声をかけた。
 包丁を動かす手を止めて、振り返った母は、意外そうな顔をした。
 普段独りではなかなか起きてこない息子が珍しい、そういう顔。
 だが、僕の顔色を見てすぐに様子がおかしいことを察したらしく、母は包丁を置いて僕の前にかがみこみ、額に手を当てた。母の手のひらは、いましがた切ったばかりのネギの匂いがした。
 「あらら、こりゃあまた熱いね。風邪みたいだね。」
 そういや月が変わってからはまだだったかしらね、と母は続ける。
 母も僕と同じで、いつものことだからと、特にあわてた様子もないように見える。
 なのに、ちょっとだけ胸がちくりとした。その理由には心当たりがない。考えたくないのかもしれない。
 やっかいもの、と言う母の声が聞こえた気がしたのはどうしてだろう。
 母の顔を見る。気づかう者の表情。
 一応、そんなふうに見える。
 わざと、喉が痛むように生唾を呑んだ。
 こうやって、ありもしない、余計なことにばかり下らない思いをめぐらす自分が、好きになれない。
 そのつど、気を紛らすために他のことを考えたり、あるいは今みたいに手っ取り早く痛みに訴えかけて、そんな思いを散らすことにしている。
 でも、歳も十一を数える近頃になって、何となく気づいてきた。
 気を逸らしても、体を痛めたとしても、僕の心にあるよごれは、体の外へ洗い流すことはできず、ただ胸のあたりに澱のように沈むだけなのだということ。そして、何かのきっかけにそこを揺さぶられると、思い出したように浮き上がってくること。そんなふうにして自分が濁るのを見るのは、すこしやるせない。
 「ああ、喉も痛むかい? おっ父には話しておくから、床に戻って休んでおいで。」
 母に言われるまま、厠で小用を済ませつつ、ふらふらしながら寝床に戻った。

 妹や弟に風邪をうつさないように、僕の寝床はいつからか一人離れた部屋にある。
 明るいうちにもぐる布団の寝心地には、未だに慣れない。
 布団の中で横になっていると、周りのものすべてがゆっくりと回っているような気がした。ふたつみっつ呼吸を繰り返したあたりで、僕はふたたび、眠りにとらわれ始めた。


 それからは、覚めかけては泥の中に引き戻される、その繰り返し。
 どうやら確かなのは、泥の底がだんだんと深くなっていることだった。


 あつい。


 顔の中、鼻の奥がずっしり重苦しい。
 針の穴ほどに狭まった鼻の穴に、更に水飴をじっとり吸った真綿でも詰められているみたいで、息をしたいのに、全然空気を通してくれない。
 それでも、息をしないわけにはいかないから、僕の口はずっと開いたまま。
 釣り上げられた鯉の顔を、なぜか思う。

 起きているのに眠っているようで、頭がはっきりとしない。
 今、僕の目は、開いているのか閉じているのか。よく分からない。
 目の前、あるいは瞼の裏側を、赤や黄色や緑の砂粒がちらちらする。その向こうに、黒ずんだ天井の梁がいつものように、滲んで見える、気がする。
 焦点を、どこかに合わせる気力も湧いてこない。

 でもすくなくとも、ある程度眠ることはできたらしい。
 変な夢を見ていたから。


 真昼だった。僕は家の近くを流れる沢にいる。
 蛙の姿をしていた。
 蛙というものが、僕は好きではない。餓鬼大将が田んぼの中から引っ掴んできた小さな雨蛙を顔に放り投げられただけで、泣き出してしまったことがあるほどだ。
 ましてや自分がその姿をしているとあっては、覚めるのを待つまでも無く、そこが夢の中であるとわかりそうなものだが、その時は蛙としての自分に何の疑いも持たなかった。
 いや、疑っている場合ではなかったのかもしれない。
 手足が全く動かない。
 そしてこの暑さは、いや、熱さはいけない。
 どこのいたずら小僧にやられたものか、河原で僕は捕らえられ、石を腹に抱かされて紐でくくりつけられていた。
 そのまま、かんかん照りの日なたに置き去りにされてしまっているのだった。
 
 じりじりと、日が背中を、焼けた石が腹を炙る。
 日なたを歩いただけでひっくり返ってしまうような僕に、こんな仕打ちはあんまりじゃあないか。

 
 でも、それもしょうがないのかもしれないねえ。
 どこからか声がした。
 布団だって、干さなけりゃ虫がわく。
 日陰で転がっているだけのお前も、同じ。

 これは母の声では。否、そんなはずが無い。


 そうか、これは虫干しなのか。
 これぐらいしないと、僕の汚れは落ちないのだろう。
 いっそこのまま干物になるまで。


 でも、やっぱりあついよ。くるしい。たすけて。だれか。
 このままでは、本当に。
 

 ひやり。


 と、そこに雨粒がひとつ。
 額に落ちかかった。
 諺に、蛙の面に何とやら、と言うが、あれは嘘だと思った。
 なぜって、たった一粒の水がこれほどまでにありがたいのだ。水が面に落ちて喜ばない蛙など、いるはずがない。
 どうか雨雲もやって来い。お願いだから、もっと雨を降らせて欲しい。
 願いに応え、また、ひやり。
 ああ、空気もなんだか冷えてきた。
 雨雲が来てくれたに違いない。これから本降りになってくれる。

 すると、石とお腹をくくっていた紐が、すうと緩んだ。
 これは思いもよらないことだった。
 誰か、僕を助けてくれたのか。
 降り始めた雨に石が湿って、焼けつきそうだった僕の腹もいっしょに冷えてゆく。
 気持ちいい。

 紐の解けた体を動かし、石の上に座りなおす。
 辺りを見回したけれど、僕を助けてくれた誰かの姿はもう見当たらない。
 見えない誰かにお礼を言いたくて、聞こえてくれよとばかりけろけろと唄っていた。

 
 そのあたりで、どうやら夢が終わっていた。
 目が開いたようでも、僕はまだ暫くぼおっと夢うつつ。
 物の姿は目に映るけれど、それが視えてはいないような。
 だから、いちばん先に目覚めたのは、頭ではなく肌の方だったと思う。
 額が、夢の中のまま、ひんやりしている。
 何か、水にぬれたものが、そこに乗っかっているらしいと感じる。
 あれ。おかしいな。あれは夢ではなかったっけ。
 手で触れて確かめようとするものの、体が動かない。
 ものすごく、だるい。
 いよいよ本格的に、風邪がとりついたらしい。
 息をするための胸、かろうじて開く目蓋。
 今の僕の自由になるものはそのくらい。

 ふと、嫌な考えが頭をよぎる。
 もしかしたら、僕は今、蛙なのではないか。
 腕はぬるりと緑色。
 腹はのろりと真っ白で。
 下手に大きく息を吸うと、ほら、顎の下が、ぷうっ、と。
 目蓋を絞らんばかりに強く閉じた、つもりだったが、力が入らない。

 ああ、起き上がって体を見ることができたら。
 いつもなら笑って終わりになる、他愛もない想像なのに。
 熱に浮かされたせいで、うつつの境から、夢を浸み出させてしまった。
 この布団を取らなければ。
 この目で首から下を確かめないと、夢から覚められない。そんな思いにとらわれた。
 家の者は、みんな外で仕事をしている頃か。それでは飯時まで帰っては来ない。
 今、何刻だろう。
 だるい。動けない。


 ふわり。


 金色の、絹の糸が流れて、僕の顔を軽く撫でた。
 開け放った縁側から、緩やかに風が通っている。
 母が開けていってくれたのだろうか。
 絹糸は、その風に吹かれているのだった。

 鼻なんて、全然利かないのに、この糸から僕は、確かな匂いを嗅いだ。
 この匂いには、なんだか覚えがあるような。
 仄かだけど、とても落ち着く匂い。
 いつだったか、同じ匂いを嗅いだ事がある。

 匂いもそうだけれど。
 この糸そのものにだって、見覚えがある。
 そういえば、これと同じ糸を、僕は間近で見たことがある。
 日に照らされ、金色に見えるけれど。
 この色は。

 目を上げ、糸を上にたどる。
 顔が、そこにある。
 
 金の絹糸と見えたものは、長い髪の毛だった。
 布団に垂れかかりそうなほど長く、偶に通る風の形をまねて緩やかになびく。
 顔は、女の子だった。
 間違いない。
 僕はこの子を知っている。
 あの日から幾日と過ぎていない。
 幾日、いやさ幾年過ぎたところで、祐の顔を、忘れたりなんかしない。 
 初めて祐と会った、あの寂びた社に、いつの間にか戻ってきたのかとさえ思った。
 僕の左手側で、祐は、正座をしたまま少し体を前に傾げて目を閉じている。

 すう、すう。

 穏やかな息遣いが聞こえる。
 時々、うつら、うつらと頭が揺れる。
 寝ている、ようにしか見えない。
 
 何が、どうなっているのか。
 僕の頭は、なかなかそれを考えようと動いてくれない。
 熱のせいもあるかもしれないけれど、なにより僕自身が、今ここにいる祐に安らいでいる。
 それでいいのだ、と。
 祐が近くにいる、ただそれだけで。
 蛙の夢もどこへやら。

 握った手のひらのあたたかさ。
 頬を撫でた髪の毛のくすぐったさ。
 体をあずけた衣のいいにおい。
 衣のむこうに感じた体のやわらかさ。
 あの時触れたものが、泥に浸った頭でも、はっきり、蘇ってくるから。

 すべて世は、こともなし。
 なんにも、心配いらない。

 手放しの安心をもたらしてくれる、そんな祐の寝顔。
 下らない夢を引きずってびくびくしていた自分が馬鹿らしいほど。
 
 この顔をいつまでも見ていられたらいいのに、と思う。

 声をかけて、起こしてみようか。
 とも思ったが、なんだか躊躇われる。
 もったいない、もっと見ていたい、という悪戯心が半分。
 残りの半分は、祐がこちらを向いて、目があった時、どんな顔をするのかが不安なのだった。
 蛙の顔をした自分を想像してしまい、胸が詰まる。
 またお前は、下らないことを、と自分を叱る。
 しばらく、そのまま寝息を立て続ける祐の寝顔を覗き見していたものの、だんだん、それはそれで何だかとても悪いことをしているようで、いたたまれなくなってきた。
 申し訳なさに押し流されるように、小さく「…ゆう。」と唇を動かしてみた。
 これくらいなら、祐にも聞こえないだろう。
 でも、それではいったい何のために呼んだのか、わけがわからない。
 その時。

 髪と同じ、ふんわり色の尻尾が、ぱたりと一度、畳を撫でた。
 頭の上の、これも柔らかそうで大きな耳が、くっと僕の方を向いた。
 そうだ。こんなに大きな耳ならば。

 金の糸の向こうで、ゆるゆると、祐の瞼が開いていく。
 朝もやの降りた川辺のようで、じっと見ていると、なんだかその目に吸い込まれてしまう気がした。

 やがて、瞳のもやは晴れ、僕をそこに映す。
 祐の表情が、ゆっくりと、驚きに変わった。
 思わず口を衝いて出たのか、祐は短く、いやだ、と小さな声を漏らした。
 片目をちょっと指で擦り、はにかむように笑うと、祐は寝ていたことを押し隠すように、努めて落ち着いた風を装い、

 「おはよう、ゆたか。」

 と、僕に声をかけた。最後の方が妙に間延びしているように聞こえると思うが早いか、祐は衣の袂で、あわてて口を覆うようにし、そっぽを向いた。
 はふ、と小さなため息のような音が聞こえる。
 ふたたびこっちを向いた祐の顔は、目が少し涙ぐんでいた。
 目が合った時、僕と祐のどちらからともなく、笑いあっていた。
 あくびを隠したのだと、僕にも分った。
 体はだるくて、きつくて起き上がるのも大変なのに、祐の仕草を見ていると僕の顔にも自然と笑みが浮いてくる。
 なによりも、祐にまた会えたこと、また僕に笑ってくれたことが、嬉しくてたまらなくて。風邪さえ引いていなかったら、舞い上がっていたかもしれなかった。
 だから、
 「祐も、おはよう。」と応える。
 かすれた喉から出る一言に、多くの気持ちが詰め込まれそうになるのがどうにも止められない。だから、あわてないように、せめてゆっくりと言葉を口にする。こんなに大事に言葉を扱うのは、もしかしたら初めてのことだったかもしれない。

 恥ずかしい、とこぼした祐の顔には、赤みが差していた。
 皮肉を言われた、と思ってしまったのだろうか。
 でも、その後祐が僕に向けたのは、柔らかな笑顔だった。
 「ゆたかのお見舞いに来たのに、起こされちゃった。」
 そういって、ころころ、と笑い声の鈴を鳴らした。
 「お見舞い、か。」
 僕はそうつぶやいた。
 お稲荷様の居眠りに、お見舞いだなんて、めったに見られるものじゃない。
 嬉しさと少しの可笑しさに、体の辛さをしばし忘れて、僕は祐と笑顔を交わした。

 
 「ぬるくなっちゃったかな。」
 と言うと、祐は、僕の額に手を伸ばし、何かをそこから持ち上げた。
 それは、水に濡れた手拭い。
 蛙の額に、落ちた恵みの雨は。
 あの社で、僕の額から流れる汗を吸い取ってくれたのと、同じ手拭いだった。
 

 いつの間にか枕元に置かれている、水の入った桶に手拭を浸す祐を、僕はぼおっと見ていた。
 さっき、夢で僕の紐をほどいてくれたかと、ふと尋ねたくなったのだけれど、恐い夢を見たことを祐に知られてしまうのが何となく照れくさかった。
 だから、何も言いだせないまま、僕はただ、ふわふわと毛並が風にそよぐ、祐の尻尾ばかりを見ているのだった。
11/05/26 23:41更新 / さきたま
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■作者メッセージ
相変わらずの粗さ、場面も大して動くでもなく、つじつま合わせ等で何度も書き直したり継ぎ足したりするかと思います。
懲りずにお読みいただいた方へ、深く感謝を申し上げます。
申し遅れましたが、しっぽは良いですね。正義だと思います。

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