アマゾネス:ある日の、ラミラの日記・第二頁
人里には、いわゆる「舞台」が無いと知ったときは、少なからず驚いたものである。
夫がいた町に集会場はあったというが、そこは法政令の発布を周知するのに人を集めたり、災害の時の避難に使われるのだそうだ。
婦夫の門出の契りを、村中の未婚の娘を集めて夜明けまで披露する、などということはただの一度も無いらしい。
「それでは、どうやって女と男のことを学ぶのだ」
私が尋ねると、セシリオは困ったような顔をして、
「それぞれの家で、子供が年頃になったら、それなりに教えてると思うよ」
と、実に歯切れ悪く答えた。
それなりとは何だ、とさらに突っ込む。
風習の違いというものはあるだろう。
この世には我らより他に女がいないわけではない。ところ変われば、そこに生きる女たちのありようも変わってゆくだろう。
たまたま、夫の町は「舞台」が生まれるべき歴史を歩まなかった。
その代わり、子供らに対する教育は、生んだ親自身に任されるというなら、それも有りだろう。
であれば、母と父がきちんと責任を持って、夜毎子供を床に招き、目の前で、婦夫の夜の過ごし方、互いを愛し合う技、子の成し方、自らの血を次に繋ぐ喜びを逐一見せて教える。
効率は悪いにせよ、それなら何とか納得できぬでもない。
夫は、自分の家では花の例えで教えられたと白状した。
これは実に衝撃的であった。
花の中には「おしべ」と「めしべ」というものがあって、くっつくと種ができてなどと、まるでおとぎ話のようなことを言い出す。
聞いているうちに、私の頭がどうにかなってしまうと思ったので、うるさい黙れと話をさえぎった。
「花など眺めていてどうするのだ。我々は女と男だぞ! 花を日が暮れるまで見ていたところで、上に向かって伸びる、時々蜂が飛んでくる以外に何が分かる。それならいっそ、盛りのついた野良犬や野良猫に教わるがいい」
まくし立てる私に夫は、牛や馬を飼っている家の子とかだったら、種付けを見て興味を持って覚えることもあるかもしれない、と言うが、ならば飼っていない家の子は皆、種付けを見せてもらいに行くのかというと、そんなこともしないらしい。
そもそも、獣の種付けなど見て覚えてしまったらどういうことになる。
あれは男と女の位置があべこべなのだぞ。あんな破廉恥な格好があるか!
村の娘があんな交わり方をしているのを見たら、私ならその場で叱りつける。
本来、女男の交わりというものは女が上になって行うものだ。私は姐様方からそう教わった。
戦い、狩り、傷を負うのは女の役目だ。
男は女の帰る家を守り、帰った女の傷を癒すが本分だ。
女は、男に感謝を忘れてはならぬとも教わった。
例えどれだけ夢中になって、貪るように男の体を味わう最中であっても、根底ではこれだけの悦びを与えてくれる夫に対し感謝と慈しみがなければならないと。
男は、女と違って、一度達すれば大きく疲労する。だから、男には極力横たわるのみにさせ、体力の消耗を抑える。
この一度をただ一度と思い、何よりも尊べ。
立たせて、腹の中で包み、煽り、迸らせる。その流れは女が司るものだ。
夫が喜んでいるかどうか、常に気を配れ。男の求めをよく聞いてやれ。
長く楽しみたい日、あるいは短く激しく燃えたい日、それぞれそのように導いてやるのが務めだ。
そうやって、男の口から「もう一度」とせがまれれば、女としてようやく一人前だ。
それが獣のやり方はどうだ。
女が四つ這いになって男に向かって尻を上げる。
男に立て膝をさせて尻のほうから入れさせる。
男に腰を使わせて、動かすのも、終わらすのも全て男に丸投げだ。
あれは女の誇りも全て捨ててしまった、まさに獣並みに堕する振る舞いだ。
それでも、獣並みだろうとまだましな方で、中には一切そういう知識を持たないまま一緒になってしまって、仕方がわからなくて困った、初めての夜に親にやり方を尋ねに行った笑い話もある、などと聞くに至って、私はいよいよ呆れ返った。
笑い事で済む話か!
人は年頃になれば、女も男も体だけは子を宿せるように仕上がっていくのに、肝心の子の作り方が分からんとは、何という体たらくだ。
このままでは近々、人間は滅びてしまうかもしれぬ。
聞けば、人間の中には神というものを信じている者もいる。国ぐるみで信じていることもあるという。
その神とやらいう奴の教えるところによると、人間は高潔に生きねばならぬのだそうだ。
話が小難しくなってきたので、半分がた鼻提灯を出しながら聞いていたのだが、要するに高潔というのは、女と男の間には、体を重ねたい、交わりあいたいという思いだとか、そういったことはまるで存在せぬかのように、またはあろうことか悪であるとみなして生きることらしい。
私はこの世に生まれて、また一つ賢くなれた気がする。
即ち、神という奴は、自分を生んでくれたものへの敬いの心一つ持たない、どうしようもない薄ら馬鹿の大間抜けか、そうでなければ人間を滅ぼすつもりの大悪党なのだ。
いいか、セシリオ。
私は、お前との夜の舞い以上に、心地よい悦びを知らぬ。
何もかも忘れて、愛する男とともに、時に嵐のように、また大河のように、己が体に備わる官能の求めるまま、互いを結びあい、愛の歌を思うまま叫びあう。
やがて時が来れば、自らの胎に、我が命の終わってからも、後を継ぎ歩いていくであろう新たな命の脈動を知る。
命の営みだ。それは私一人では未来永劫なし得ない、夫という宝なくしては得られないものだ。
この尊さを、身をもって教え伝えていくことは、女の使命であると思う。
それを言うに事欠いて、悪とは何だ。
女を、男をそこまで蔑む神とは、一体何様なのだ。
神の愚かさに気付かない人間の面倒までは見切れないが、今後もし私の目の前に神が現れて、寝とぼけたようなことを夫に吹き込むなら、遠慮なく剣の錆にしてくれる。
……日記と言うものをつけるようになって、少し口先が達者になってしまったらしく、「愛」などという言葉が昔よりすんなりと口から出てくるようになった。それが良い事なのか、まだよくわからぬ。
息巻く私を見て、セシリオははじめ苦笑いしていたが、いつしか真顔になって、
「やっぱり、僕はラミラに見初めてもらって良かった。本当に幸せ者だと思うよ」
などと言い、何にも知らない僕に優しく教えてくれて、ありがとう、と頭を下げた。
そして、初めてのときは、さすがに人の目が多くて戸惑ったけど、慣れって怖いねと悪戯っぽい顔で付け加える。
年下というやつは、どうしてこう、指も入れずに私の体の中をくすぐる術に長けているのだろう。
我々と人間との風習の違いをセシリオ一人にすべておっかぶせて、少々言い過ぎてしまったのではなかろうかという負い目もあるにせよ、だ。
だまされるな、私の話しぶりがだんだん熱してきたのを見て取って、あからさまに落としどころをはかっている。その手には乗らぬ、と必死に我とわが身に言い聞かせるのだが。
どうも夫と契ってより今日まで、私の腹の奥には、消えない種火が植えつけられているらしい。
こういう夫の表情や、言葉とは、いうなれば日に干した藁のようなものだ。私の中にひとたびくべられれば、たちまちのうちに赤々とした炎に育つ。
臍の下が熱く蕩けてゆく。
姐様に、濡れやすさを冷やかされたことを思い出す。
そそり立つ姿も愛らしい男のものと違って、女は衣に染みを作るから困る。放っておくと痒くなるからまた厄介だ。
私の目が、そういう色を湛えて潤ったのを悟ったか。
そっと、隣に腰掛けていたセシリオの肩が、私のほうに近づく。私がいつ求めても応じられるよう動いているのだ。
最近夫は、私の肩に頭をもたれかけるという甘え方を覚えた。
もうじきに夕餉の支度をさせなければならない頃合なのだが、……だめだ。
もう潮時だ。今日くべられた藁の束は、一際数が多い。
本当なら肩でも抱いてやれるぐらいの落ち着きがほしかったが。
私は長椅子から腰を滑り落とすと、夫の体の前に回って、膝を開かせる。
もどかしげに、そこにあるそれを引き出して、大きく口を開ける。顔をうずめる。
……そう馬鹿にしたものでもない。
分かっている。ここは舞台ではない。我が家の軒先にしつらえた縁台である。
これはあくまで下準備と、わきまえている。
本番はきちんと、舞台で行うだけの理性は持ち合わせているのだ。
夫が、腰の辺りをうごめく私の頭を、優しく撫でる。
このまま達したいという合図だった。
我々婦夫の間では、交わりの最後は必ず腹の中で、というのが決め事になっている。
だから、この合図があれば、夫が二度以上の愉しみを求めていると分かる。
よその家の目ざとい小娘達が、もう何軒かの戸口や窓から顔を出していた。
こちらの様子をちらちらと、またはまじまじと伺う視線を感じる。
日記をつけるようになって、婦夫に会話が増えた。
それはもちろん良いことではあろうが、どうもその会話の行き着く先として、舞台に上がる回数が、少し……いや、かなり増えてしまったような気がしてならない。
今日の夕餉は、きっと我が家が村で一番遅くなる。
夫がいた町に集会場はあったというが、そこは法政令の発布を周知するのに人を集めたり、災害の時の避難に使われるのだそうだ。
婦夫の門出の契りを、村中の未婚の娘を集めて夜明けまで披露する、などということはただの一度も無いらしい。
「それでは、どうやって女と男のことを学ぶのだ」
私が尋ねると、セシリオは困ったような顔をして、
「それぞれの家で、子供が年頃になったら、それなりに教えてると思うよ」
と、実に歯切れ悪く答えた。
それなりとは何だ、とさらに突っ込む。
風習の違いというものはあるだろう。
この世には我らより他に女がいないわけではない。ところ変われば、そこに生きる女たちのありようも変わってゆくだろう。
たまたま、夫の町は「舞台」が生まれるべき歴史を歩まなかった。
その代わり、子供らに対する教育は、生んだ親自身に任されるというなら、それも有りだろう。
であれば、母と父がきちんと責任を持って、夜毎子供を床に招き、目の前で、婦夫の夜の過ごし方、互いを愛し合う技、子の成し方、自らの血を次に繋ぐ喜びを逐一見せて教える。
効率は悪いにせよ、それなら何とか納得できぬでもない。
夫は、自分の家では花の例えで教えられたと白状した。
これは実に衝撃的であった。
花の中には「おしべ」と「めしべ」というものがあって、くっつくと種ができてなどと、まるでおとぎ話のようなことを言い出す。
聞いているうちに、私の頭がどうにかなってしまうと思ったので、うるさい黙れと話をさえぎった。
「花など眺めていてどうするのだ。我々は女と男だぞ! 花を日が暮れるまで見ていたところで、上に向かって伸びる、時々蜂が飛んでくる以外に何が分かる。それならいっそ、盛りのついた野良犬や野良猫に教わるがいい」
まくし立てる私に夫は、牛や馬を飼っている家の子とかだったら、種付けを見て興味を持って覚えることもあるかもしれない、と言うが、ならば飼っていない家の子は皆、種付けを見せてもらいに行くのかというと、そんなこともしないらしい。
そもそも、獣の種付けなど見て覚えてしまったらどういうことになる。
あれは男と女の位置があべこべなのだぞ。あんな破廉恥な格好があるか!
村の娘があんな交わり方をしているのを見たら、私ならその場で叱りつける。
本来、女男の交わりというものは女が上になって行うものだ。私は姐様方からそう教わった。
戦い、狩り、傷を負うのは女の役目だ。
男は女の帰る家を守り、帰った女の傷を癒すが本分だ。
女は、男に感謝を忘れてはならぬとも教わった。
例えどれだけ夢中になって、貪るように男の体を味わう最中であっても、根底ではこれだけの悦びを与えてくれる夫に対し感謝と慈しみがなければならないと。
男は、女と違って、一度達すれば大きく疲労する。だから、男には極力横たわるのみにさせ、体力の消耗を抑える。
この一度をただ一度と思い、何よりも尊べ。
立たせて、腹の中で包み、煽り、迸らせる。その流れは女が司るものだ。
夫が喜んでいるかどうか、常に気を配れ。男の求めをよく聞いてやれ。
長く楽しみたい日、あるいは短く激しく燃えたい日、それぞれそのように導いてやるのが務めだ。
そうやって、男の口から「もう一度」とせがまれれば、女としてようやく一人前だ。
それが獣のやり方はどうだ。
女が四つ這いになって男に向かって尻を上げる。
男に立て膝をさせて尻のほうから入れさせる。
男に腰を使わせて、動かすのも、終わらすのも全て男に丸投げだ。
あれは女の誇りも全て捨ててしまった、まさに獣並みに堕する振る舞いだ。
それでも、獣並みだろうとまだましな方で、中には一切そういう知識を持たないまま一緒になってしまって、仕方がわからなくて困った、初めての夜に親にやり方を尋ねに行った笑い話もある、などと聞くに至って、私はいよいよ呆れ返った。
笑い事で済む話か!
人は年頃になれば、女も男も体だけは子を宿せるように仕上がっていくのに、肝心の子の作り方が分からんとは、何という体たらくだ。
このままでは近々、人間は滅びてしまうかもしれぬ。
聞けば、人間の中には神というものを信じている者もいる。国ぐるみで信じていることもあるという。
その神とやらいう奴の教えるところによると、人間は高潔に生きねばならぬのだそうだ。
話が小難しくなってきたので、半分がた鼻提灯を出しながら聞いていたのだが、要するに高潔というのは、女と男の間には、体を重ねたい、交わりあいたいという思いだとか、そういったことはまるで存在せぬかのように、またはあろうことか悪であるとみなして生きることらしい。
私はこの世に生まれて、また一つ賢くなれた気がする。
即ち、神という奴は、自分を生んでくれたものへの敬いの心一つ持たない、どうしようもない薄ら馬鹿の大間抜けか、そうでなければ人間を滅ぼすつもりの大悪党なのだ。
いいか、セシリオ。
私は、お前との夜の舞い以上に、心地よい悦びを知らぬ。
何もかも忘れて、愛する男とともに、時に嵐のように、また大河のように、己が体に備わる官能の求めるまま、互いを結びあい、愛の歌を思うまま叫びあう。
やがて時が来れば、自らの胎に、我が命の終わってからも、後を継ぎ歩いていくであろう新たな命の脈動を知る。
命の営みだ。それは私一人では未来永劫なし得ない、夫という宝なくしては得られないものだ。
この尊さを、身をもって教え伝えていくことは、女の使命であると思う。
それを言うに事欠いて、悪とは何だ。
女を、男をそこまで蔑む神とは、一体何様なのだ。
神の愚かさに気付かない人間の面倒までは見切れないが、今後もし私の目の前に神が現れて、寝とぼけたようなことを夫に吹き込むなら、遠慮なく剣の錆にしてくれる。
……日記と言うものをつけるようになって、少し口先が達者になってしまったらしく、「愛」などという言葉が昔よりすんなりと口から出てくるようになった。それが良い事なのか、まだよくわからぬ。
息巻く私を見て、セシリオははじめ苦笑いしていたが、いつしか真顔になって、
「やっぱり、僕はラミラに見初めてもらって良かった。本当に幸せ者だと思うよ」
などと言い、何にも知らない僕に優しく教えてくれて、ありがとう、と頭を下げた。
そして、初めてのときは、さすがに人の目が多くて戸惑ったけど、慣れって怖いねと悪戯っぽい顔で付け加える。
年下というやつは、どうしてこう、指も入れずに私の体の中をくすぐる術に長けているのだろう。
我々と人間との風習の違いをセシリオ一人にすべておっかぶせて、少々言い過ぎてしまったのではなかろうかという負い目もあるにせよ、だ。
だまされるな、私の話しぶりがだんだん熱してきたのを見て取って、あからさまに落としどころをはかっている。その手には乗らぬ、と必死に我とわが身に言い聞かせるのだが。
どうも夫と契ってより今日まで、私の腹の奥には、消えない種火が植えつけられているらしい。
こういう夫の表情や、言葉とは、いうなれば日に干した藁のようなものだ。私の中にひとたびくべられれば、たちまちのうちに赤々とした炎に育つ。
臍の下が熱く蕩けてゆく。
姐様に、濡れやすさを冷やかされたことを思い出す。
そそり立つ姿も愛らしい男のものと違って、女は衣に染みを作るから困る。放っておくと痒くなるからまた厄介だ。
私の目が、そういう色を湛えて潤ったのを悟ったか。
そっと、隣に腰掛けていたセシリオの肩が、私のほうに近づく。私がいつ求めても応じられるよう動いているのだ。
最近夫は、私の肩に頭をもたれかけるという甘え方を覚えた。
もうじきに夕餉の支度をさせなければならない頃合なのだが、……だめだ。
もう潮時だ。今日くべられた藁の束は、一際数が多い。
本当なら肩でも抱いてやれるぐらいの落ち着きがほしかったが。
私は長椅子から腰を滑り落とすと、夫の体の前に回って、膝を開かせる。
もどかしげに、そこにあるそれを引き出して、大きく口を開ける。顔をうずめる。
……そう馬鹿にしたものでもない。
分かっている。ここは舞台ではない。我が家の軒先にしつらえた縁台である。
これはあくまで下準備と、わきまえている。
本番はきちんと、舞台で行うだけの理性は持ち合わせているのだ。
夫が、腰の辺りをうごめく私の頭を、優しく撫でる。
このまま達したいという合図だった。
我々婦夫の間では、交わりの最後は必ず腹の中で、というのが決め事になっている。
だから、この合図があれば、夫が二度以上の愉しみを求めていると分かる。
よその家の目ざとい小娘達が、もう何軒かの戸口や窓から顔を出していた。
こちらの様子をちらちらと、またはまじまじと伺う視線を感じる。
日記をつけるようになって、婦夫に会話が増えた。
それはもちろん良いことではあろうが、どうもその会話の行き着く先として、舞台に上がる回数が、少し……いや、かなり増えてしまったような気がしてならない。
今日の夕餉は、きっと我が家が村で一番遅くなる。
16/08/24 18:51更新 / さきたま
戻る
次へ