連載小説
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アマゾネス:ある日の、ラミラの日記
 私には、大切な夫がいる。


 
 今、私の中にある「思い」というものを、「言葉」というものに変え、紙の上に並べているところだ。

 日記、というらしい。
 夫に、楽しいからと勧められ、始めてみたのだ。
 始めてはみたのだが。

 存外、難しいものだ。
 書く、というのは、私にとっては魔法を操るに等しく思えてならぬ。
 剣なら簡単だ。
 剣は、振れば振った通りに物が斬れる。
 それがこの筆というやつは、爪楊枝ほどの重さしかないくせに、全く私の思い通りに動かせぬ。
 やっとのことで一太刀、振れたかと紙の上を見れば、初めに私が斬りたかったのとまるっきり違うところが斬れているのである。

 一番言うことを聞かぬのが、他ならぬ私自身の「思い」とは、何だかおかしな話だ。
 普段、狩りで追っている獣の方が、よほど、逃げているとはいえその動きはたやすく読める。
 「思い」という奴は、落ち葉か綿毛の如く、目と鼻の先をひらひら漂っているようで、私が掴もうとすると皮一枚ほどの差でするりと指の間を抜ける。
 
 夫など、寝る前にすらすら、今日あった出来事を書き記している。
 こんなことを毎日行うなど、私なら頭がおかしくなってしまう。
 だからいつも、焦れた私は、そんなものさっさと終わらせろ、早くこっちへ来いと夫を床へ呼ぶのだ。
 己ひとりの疼く体も抑えられず、夫のやりたいこともさせずに癇癪を起こす、器の小ささを恥じるべきだろう。
 妻として、女として未熟さを感ぜずにはおれない。
 
 
 器の小ささゆえか。
 私は、全く白いままの紙を目の前に、何日も机の前で唸る日々を続けた。
 こんなもの無理だ、と叫んでは投げ出すのを繰り返し。
 そうして庭でむしゃくしゃしながら剣を振っていると、夫が私にばれない程度の苦笑いを浮かべているのが見えた。
 年下のくせに生意気な、今夜どんな手管を使って泣かせてやろうかと思案を始めた私に向かって夫は、
「無理しないで。書きたいときに、ラミラの一番書きたいことを書けばいいと思うよ」
 と言ってきた。

 私に助言を与えているつもりらしい。
 ふんと鼻息を荒くするのも何だか大人げない。
 癪だったので、如何にも剣の訓練の邪魔をするなという雰囲気を漂わせながら「ああ」とぶっきらぼうに返事をしてやった。

 腹が立つので、夫の姿が見えなくなってから剣を置き、また机に戻った。
 いつもは夫が物を書くのに使う場所だ。


 「私には、大切な夫がいる」
 最初の一行は、そうして生まれた。
 ただなんとなくだ。
 深く考えた覚えもない。
 ありのまま、息をするように。
 先ほどまでの重さが嘘のように、拍子抜けするほどたやすく筆が動いたのだ。
 夫は、書きたいものを書けと言うが、書きたいものといっても、私にはそれしか思い当らなかっただけだ。
 この一行を、私はぽかんと、しばらく見つめ続けていた。

 これが、私なのか。
 私の、「思い」なのか。
 待て。ちょっと待てと、私は自分に向かって言った。
 足らぬ。なんだ、これは。
 短すぎる。まったくもって足らぬ。
 確かに、夫は私の全てだ。だが、それを「言葉」にするとこれだけの長さにしかならぬとは、信じがたい。
 私の「思い」は、今確かに私のこの胸の辺りにあるのだ。その大きさと、てんで釣り合わぬではないか。
 筆を振ろうとする私に、再び筆は、自らその重さを増した。
 やはり、斬れぬ。こんなに大きなものが斬れぬとは、不甲斐ない。

 
 夫の鍋から、夕飯の香りがやって来て、私の鼻に気取らない挨拶をし、胃袋に上がりこんで遊びまわり、腹をぐうぐう鳴らして騒いでいることに気がついた。
 私は驚いて机から顔を上げた。
 窓から見える家々に、生き生きと夕餉の煙。
 我ら狩人が家路を恋しくする、煙の白い匂いだ。
 
 つい今しがたまで昼であったのに。
 もうそんなに時が過ぎていたのかと、しばし呆然とした。
 居眠りでもしていたのなら大変だ。
 またしても、夫に何やら子犬でも見るような甘ったるい目を向けられて、
「おはよう」
 などと優しい声を掛けられてしまうところだ。
 こちらが可愛がるならまだしも、逆はならぬ。
 頬が燃え上がってしまう。女として、示しがつかぬではないか。
 
 私は取りつくろうように背筋を伸ばした。
 きょろきょろ辺りを見回すが、夫の居た気配もしなければ、残り香もない。背中に毛布もかかっておらぬ。
 それもそうだ。今、夫は台所に居るはず。さもなければ、この夕飯の匂いの訳が立たぬ。
 台所は、神聖な男の戦いの場である。私に食欲をもたらしてくれる匂いを、日々生み出す夫を、私は誇りに思う。
 ……居眠りを気付かれなかったのを安堵したのは、秘密にしておこうと思う。


 しかし、私は一体、何を言い訳がましくなっているのか。
 これも、なまじ読み書きの好きな男など夫にした因果であろうか。

 女が振るうは唯、剣のみ。舌には非ず。
 舌を振るうは唯、宵の床。唯、夫の為にこそ在れ。

 姐様方から、そう教わったことを思い出す。
 剣は分かるが、夫に舌を振るうとはどういうことかと、幼い私が姐様に問うても、ただ「心配するな。大きくなれば勝手に覚える」と、意味ありげに笑われただけだった。
 男の可愛がり方のことだと知ったのは、私が初めて広場で夫婦の「舞い」を見た夜だった。


 駄目だ。
 気を抜くとどうしても、「思い」というものは私の手綱を離れてしまう。
 どんな暴れ馬を手懐けるよりも難儀だ。
 夫は、こんな魔法を日々、こともなげに操っていたのか。
 改めて私は、夫の持つ、目にこそ見えねども、確かにそこにある強さを感じていた。
 力だけでない。強さの形とは、様々なのだ。


 私は一行しか埋まらぬ紙を持って、居間に向かう。
 夫が、「お疲れさま」と声を掛けてきたので、私はうんと一言だけ発して食卓の椅子に就いた。
「集中してたみたいだったから、とりあえずご飯の準備終わってからもう一回呼びに行こうかと思ってたけど。声掛けるの遅くなって、ごめんね。疲れたでしょう?」
 夫の言い方からして、どうやら、私は居眠りはしておらず、ただひたすら時が経つのを忘れていたものらしかった。
「椅子に座っていただけだ。何も疲れてなどおらぬ」私はそう言って強がる。
 疲れていたのは確かだ。首から上だけで、半日も剣を振っていたような、今まで例のない疲れだった。
 椀を並べながら夫は尋ねた。
「どう、書けた?」
 私は、捨て鉢に「一行しか書けぬ」と答え、先ほどまで取っ組みあっていた紙を夫に突きつけてやった。

 夫は、その紙をじっと見ている。
 椀を並べる手がぴたりと止まっている。
 
 何なのだ。
 いつまで読んでいる。
 夫がいつも読んでいる本の方が、もっと書いてある文字は多かろうに、なぜそれほど読むのに時間がかかるのだ。
 焦れったい。逃げ足の速い獲物なら、向こうの山まで逃げて行ってしまうぞ。
 それとも。ああ、まさか。
 私は、この短い「言葉」の中に、何か夫をひどく傷つける呪いでも込めてしまったろうか。
 少なからず、私は不安におののいた。

 と、紙から顔を上げた夫が、こちらへ近づいてくる。
 こころなしか、目が赤いように見えた。
 どうした、なぜ泣いていると訊くより先に、


 私は、夫、セシリオに唇を奪われた。


 私は、自分を悔やむ。
 夫のしつけが足らぬ、自分を悔やむ。
 夫に易々と開いてしまう、自分を悔やむ。

 あまりのことに、魂が抜けたかと思った。
 ものの考え方をひととき見失った私の隙をつくようにして、夫は舌で以て、私を唇ばかりか、その奥まで攻め落としてゆくのだった。
 荒々しくはない。
 線の細い夫、まさにそのもの。花を手折るにも似た優しさが、全て。
 私より幾分か年下だからと、高をくくっていた油断が私にあったかも知れぬ。
 いつもなら、夫を高め、昇らせ、果てさせるまで私の思うままであるのに。
 それが今、頭を抱かれ、撫でられている。
 私の髪が、夫の指の間、一本一本に交わり、くぐりぬけてゆく。
 時折、指先が耳を掠める。


 長い、長い口付けが終わったあとも、私は蕩けそうな自分のかたちを、なんとか保つのに精いっぱいだった。
 本当ならば、男から求めるなどとは何事だ、はしたないと一喝をくれてやらねばならないはずなのだが。
 あれ以上唇を許していれば、私はどうなっていたかわからない。
 そんな、ある種の恐ろしさを覚えるくらいに、私の下腹はまるで生唾を飲み込む喉のようにわなないている。

 夫は、一言だけ書かれた紙を、まるで宝物のように捧げ持ち、ありがとうと言った。涙ぐんでいるのは明らかだった。
 
 あってはならぬ。
 甘く疼き始めた体に鞭打つように、そう私は思った。
 夫を泣かせる妻に、妻を名乗る資格などない。
 もう、叱りつけるどころの騒ぎではなかった。
 何をいう。私はこれっぽっちしか書いておらぬのに。
 私はそんなことを言って、泣きだしそうな夫を不器用になだめようとしていた。

 夫は言う。
 ラミラがこんなに長い時間をかけて、初めて書いた言葉には、ラミラの気持ちが一杯に詰まっていると思うから。
 だから嬉しい。とても。

 その時の「思い」を、どう書けばいいのだろうか。
 報われた、というのだろうか。
 夫のこんな顔が見られたのなら、剣より重い筆も振りがいがあるというものだろう。
 そんな、なんとも不思議で、こそばゆいようでもありながら、確かにそこに幸せがあるのを、私は感じたのだった。

 今度は、私から。夫の頬を拭うように手のひらで包み、顔を引き寄せた。
 一欠片でもよい。そろそろ妻の矜持を取り戻しておかねばならぬ。

 勝手に唇を奪ったかと思えば、涙など見せおって。
 下手に出れば、随分な悪戯をしてくれる。
 まだ躾けられ足りないと見えるな。

 だがそんな私の声には、決して、咎めだてするような響きなど無い。
 潤みきった目を見合わせ、先ほど確かめあった舌の味とをそこに兼ねて思えば、もはや私たち二人にはこれ以上の言葉を重ねる必要もないのかもしれない。
 それでもなお、言葉もて伝えてみたい。
 私は、変わり者だろうか。

 息が、荒くなるのを抑えるのも、いい加減終わりにしたくなる。
 私は椅子からそっと立ち上がると、夫の手を取り、内腿へと招いた。
 唇が欲しいのを、必死に我慢する。
 あふれて、滴り落ちそうになった私のことを、夫の指に教えながら、残った方の手で私は夫を抱き寄せ、その耳に囁いた。
   
 私の気持ちが、詰まっているだと。
 私から言わせれば、まだまだ詰め込み足りない。
 だから、書きたいぞ。
 私はもっと書く。
 そうしたら、きっともう一度受け取れ。いいな。

 少しでも気を抜くと、人の言葉が獣の喘ぎに変わってしまいそうだった。
 ……馬鹿。私が、これだけ我慢しているというのに。
 誰が、そんな指の使い方をしろと言った。
 
 ああ、駄目だ。このままでは、もう私の両膝がもたない。
 妻として、そんなところを見せるわけにはゆかぬ。


 うっとりしたような顔で聞いている夫に、私はかすかに残った最後の理性を働かせて、夕飯の準備を命じた。

 ほら、鍋の中で飯たちが待ちぼうけを食わされているではないか。
 当たり前だ。せっかくのお前の手料理だぞ。味わうにきまっている。
 ああ、分かっているとも。
 治まりがつかぬのは、お互い様だ。今しがた触れあって分かっただろう?
 飯が終わったら、二人で舞台へ行くぞ。
 その後も、床の中でもお前を離さぬ。
 夜通し? 馬鹿を言うな。昇る朝日が何度沈もうと知ったことか。放っておくがいい。
 私のセシリオ。大切な夫。私の全て。
 その覚悟は、出来ているのだろうな。
14/08/09 01:07更新 / さきたま
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■作者メッセージ
拙く短いながらも、お読みいただけることが何よりの幸いと思っております。
ご覧頂き、誠にありがとうございます。

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