君ならずして誰かあぐべき(二)
「あ、エシェル、おかえり」
…つい数分前の自分が、まるで夢の中にいたよう。
あの思い出すのもためらわれるような、お風呂場でのふるまい。
夢だったとしても恥ずかしさに耐えられないのに、全部本当にしてしまったことだなんて。
なんだか、ルネをいじめて、汚してしまったようで、後ろめたい思いにあたしはさいなまれるのだった。
ルネが、かわいらしいパジャマ姿で、にっこり笑ってくれればくれるほど、その思いは強くなった。
だから、今のあたしは、非常に、ルネと目を合わせづらい。
こんなメドゥーサ、他にいるのかしらと自嘲した。
そして、身体の方は身体の方で、さっきママに変なところで邪魔…じゃない、止めてもらったものだから、気持ちとは裏腹に、なんというか、悶々とした感じが続いていた。
ルネは、食器を並べているところだった。
「…ママは?」
「えーと、さっきセルパおじさまが帰ってきたから、まだ玄関かな」
「…なんか、ごめん。手伝うわよ、あたしも」
「ありがと、エシェル。でも、こっちはだいたい並べ終わるから、座って待ってていいよ。
僕、お台所でお鍋かきまぜてくるね。
おばさまがお迎えに出たから、とりあえず蓋だけ取っといたんだけど」
「あ、ま、待ちなさいよ、それこそあたしがやるわよ!
ルネはお皿、さっさと並べちゃって」
あたしはルネを引きとめ、キッチンに向かった。
何かしてないと、申し訳なくて…なんて、言わなくてもいい、わよね…?
我が家の、パパとママの「おかえりなさい」のキスは……長い。たぶん、10分くらいは平気で玄関にいる。ルネがお家にいるときだろうが、控えるようなことはしない。
たまに、明らかに変な息遣いとか、ささやき声が聞こえることもあって、そのたびなぜか、あたしがルネに謝っている。
ママがお鍋を放ってパパのところへ行ったのを、お子様らしからぬ気配りで察し、ルネが代わって見てくれていたらしい。
「仲がいいのは、いいことだよ。うちはなかなかお互いの時間が揃わないから」
ルネは平然としたもの。あたしたち家族との三年の付き合いの間に慣れてしまったのか、もともと図太いんだか知らないけど、ここまで動じないとなんか、逆に不安になってしまう。
実の娘が、玄関先から漂ってくるあやしい空気に、ちょっとあてられそうになってるっていうのに。
それにしても、その空気にひとあし早く完全に酔っぱらって、ほいほいルネのもとに身体を伸ばしていこうとするこの蛇たち、どうしたものかしら。
ええい。ここはお鍋に集中して、余計なことを考えないようにするしか。
お玉を使って、お鍋の底が焦げないよう、ゆっくりかきまわす。
お鍋の中は、ルネの好物のラタトゥイユだった。
野菜がメインのお料理だから、あたしはあまり好きじゃなかったんだけど、ルネに付き合わされて食べさせられてるうちに、いつしか普通に食べられるようになっていた。
「ルネくんの好物ですものねぇ」
ママが以前、そう言って意味ありげな笑みを浮かべていたことを思い出す。
なんか、また腹が立ってきた。
…あたしは、ルネに、なにかしてあげたことなんて、あったっけ。
このお料理みたいに、おいしいもので喜んでもらったり、困ってるルネを助けてあげたり。
考えれば考えるほど、心当たりがない。
ルネに、つっけんどんなこと言ったりとか、逆のことだったらたやすく思い浮かぶんだけど。
ルネは、あたしが何を言っても、たいていにこにこ笑ってた。
あたしが何を着ても、何をしても、「かわいい」って言ってくれた。
あたしは、緩む頬を見られたくなくて、とげとげしい態度をとるばかり。
ルネと、けんかしたような覚えなんかない。
けんかにさえ、なってなかったんだわ。
たいてい、あたしがわがままを言って。大きな声を出して。
当たり前のように、ルネが笑って。そして、いつでもあたしは許されてきた。
…あたし、ありがとうの一言だって、喉につかえて出てこないってのに。
口先でお姉ちゃんを気取ってばっかりで。
…本当、甘えるにも程があるわよね。
あげく、お風呂場で、あんなことまで…
あたしってば、どこまで――
「んー、トマトのいい匂いしてきた」
あたしの横から、ルネがひょいと顔を出した。
「ひゃ!!?」
あたしは思わず、すっとんきょうな叫びをあげてしまう。
だって、だって。
あたしの、顔の、すぐそばに、ルネが。
さっき、お風呂場でさんざん……その、思い出してた顔が!
「おいしそうだね、エシェル?」
ルネは、そう言ってあたしのほうを見た。
首をかくんと縦に動かしたっきり、あたしは完全に身動きが取れなくなっていた。
あたし、メドゥーサなんじゃなかったっけ。
その魔の眼でひと睨みすれば、たちどころに相手を石のように、動けなくしてしまうんじゃないの?
なんで、あたしが石みたいになってんのよ!
「あ、エシェル。そろそろ混ぜたほうがいいよ?」
ルネは、そう言うと、お玉を手に取った。
……あたしが、持ったままのお玉を。
あたしの、手ごと、その手のひらで包んで。
……あったかい。
ルネの、手。
さっきよりも、……気持ちいい。
石になったあたしは、しばらくルネのなすがまま、二人で一緒にお鍋を混ぜていた。
待ってましたとばかりルネにからみつこうとする、頭の蛇たち。
ルネは、「よしよし、待っててね、もうすぐできるよ」と彼女らをあやしているが、それだけじゃない。
なんだか、こっちのほうをちらちら見ているような気もする。
思いすごし、じゃないみたい。そしてだんだん、あたしの横顔を見る時間が伸びてきてる。
なんなのよ、いったい。
言っとくけど、ルネと顔をまっすぐ向き合わせる自信は、あたしにはない。
現に今だって、目が鍋の中をふわふわ泳ぎ回っているのに。
「ごめんね、エシェル」
ルネからの言葉は、あたしには意外なものだった。
「…何、よ。いきなり」
謝るなんて。
それ、あたしが、ずっとルネに言いたくて、言えなかった言葉じゃない。
むこうが懐いてきてるんだから大丈夫、このくらいなら嫌われないと高をくくって、甘えて、逃げてきた言葉。
「僕、エシェルにずっと、黙ってたことがあるの」
次に出てきた言葉は、あたしの想像を超えたものだった。
「……、な」
あたしは二の句が継げない。
黙ってたこと、って。
つまり、言わなかったこと。言えなかったこと。
隠しごと。
あたしに、ルネが隠すことって。
あたしの想像は、暗い方へとばかり翼を広げようとする。
……ぼく、エシェルのこと、きらい。だいきらい。
だとか、
……ぼくを、いじめてばっかりなんだもの。もう、あそびになんかきたくない。
だとか、
……ほかに、すきなこがいるの。
だとか。
ママの思いつきで、思いがけず降ってわいた、幸せな一日。
今日はそんな日じゃ、なかったのかしら。
お鍋の口が、悪魔か化けものの口のように、どんどん大きくなって、あたしを呑みこもうとする。
お鍋の底には、きっと地獄が広がっているのだろう。
…………それも、しかたないかもね、とあたしは思った。
そりゃ、ルネの好きな子って誰よ、って、大声で問い質したいのはやまやまよ? 胸倉つかみあげるぐらいはするかもしれないわ。いつもだったら、ね。
でも、ちょっと考えれば、それがあたしでないことは分かる。
あたしはルネに、いっぱいひどいことしたんだもの。
そんなの、照れ隠しじゃない? 好きな子に、ちょっかいを出しただけよ。
なんて、言い訳になるはずがない。
あたしにできることは、せめて最後くらい、素直にルネの言葉を受け止めること。
どんなにあたしが傷ついたって、それは今まで積み重なった借りを、正しく取り立てられる、ただそれだけのこと。
「……うん。それは、なに? ルネ」
あたしは、覚悟を決めて、ようやくルネをまっすぐ見ることができた。
意外にも、涙は出てこない。
あとで、寝る前くらいに思い出して泣いたりするのかしら。
このかわいらしく、まあるい瞳も、これで見おさめになるのか。
ああ、やっぱかわいいなあ。肌も色白で、すべすべだなあ。
男の子なのに、結構まつ毛長いなあ、この子、とか、最後なのにこんなことしか考えられないのが情けなかった。
ルネは、なんだか顔を赤くして、あたしの手を握る手の、力を入れたり抜いたりしている。やがて、すうっと息を吸い込んだ。来る、と思ってあたしは身構える。
「僕、ね。ほんとは――」
あたしも、そっと息を吸い込む。見えない力で殴られる衝撃に備えて。
「エシェルのことを、初めて見たときから、ずっと、好きだったの」
誰よその女、と口まで出かかった言葉を押さえるのと、エシェルって誰だっけと、あたしの記憶を総動員させるのと、そもそもルネの言葉の意味を理解しようとするのと、同時にこなすには、少しあたしは緊張しすぎていたのかもしれない。
結局、そのときあたしがしたことは、
「――……へ?」
と、世にも情けない返事をすることだけだった。
最後の言葉は、あたしが幾度も思い描いたものだったけれど、衝撃は想像をはるかに上回っていた。
ほぼ、あたしは放心していたものだから、そこからのくだりはあまりよく覚えていないんだけど。
ずっと、恥ずかしくて、言えなかった、って。ルネはそう言ってた。
……恥ずかしいって言ってる割には、たしか、初対面でいきなり「かわいい」攻撃を決めてくれたんじゃなかったかしら。
「ほんとは、あの時『好き』っていいたかったけど、恥ずかしかったから、『かわいい』しか言えなかったの」
ごめんなさい、とルネは付け加えた。
……いや、「かわいい」も普通どうかとは思うけど。まあ、う、嬉しかったわよ、それは。
にしても、普段は図太いとさえ思えるくらいなのに、「好き」の一言だけはこれほど言いづらいものなのかしら。
…そうよね、それはあたしだって同じか。
いつになく、ルネはたどたどしく、言葉を紡ぐ。
赤らんだり、下を向いたりするのが、いつもと違ってとても、かわいらしくて…えーと。
…うん。あたしは、この子が、好きだ、って強く思う。
「それで、今日、エシェルと一緒にお泊まりで、エシェルに巻いてもらって寝ることになったでしょ?
僕は、すごく嬉しいんだけど…その、エシェルの方は、どうなんだろうって思って。
……す、…好き、でもない人とそんなこと、したくないと思うから。
それで、もし、エシェルが僕のこと、きらいだったらって思ったら、どんどん不安になって、せめて最後に、…好、きだって、言おうって、――」
……ほんとに、覚えてないの。ほんとよ?
なんで、自分がそんなことしたのか。
たぶん、放心しすぎて蛇に引っ張られたんじゃないかと思うんだけど。
気づいた時には。
ルネの言葉を遮るように。
あたしは、ルネと、唇を重ねていた。
離れる時、小さく、ちゅ、という音が聞こえたっきり、あたしたちは言葉もなかった。
顔に血が流れる音まで聞こえそうだった。
ルネがそそくさとかまどの火を小さくする。
なぜか、お互い何事もなかったように振る舞おうとしていた。
妙にてきぱきと、二人してお皿にお鍋の中身を盛り付けていった。
「エシェル、ルネくん、ただいまー」
腕に、とろけるような顔で蛇たちもろともからみつくママを連れて、パパが顔を見せた。
それで、はっとあたしの魂はこの世に戻ってきた。
あたしと、ルネ。両方にただいまを言ってくれる。
パパのそういう所は、ちょっといいなと思う。
食卓には、甘く煮込んだトマトに味付けされたラタトゥイユの、ほっぺたをくすぐる匂いが温かく漂い始めている。
夕食をよそり始めるタイミングと、キスが終わるタイミングがぴたり同じだったことに、あたしは呆れつつも感心した。
つい今朝方送り出したはずなのに、ママは「逢いたかったわ、あなたぁ」などと言いながら、早くもパパを寝室へと連れて行こうとしている。
さっきはお風呂に一緒に入るとか言ってたくせに…じゃなくて!
「ママ、ごはんまだ食べてないから!
ていうか、ごはん作ってたこと自体忘れてない?
ママがお鍋ほったらかしていっちゃうから、あたしとルネで準備したのよ、ここまで」
「まぁ、そうだったのぉ? そこまでして、愛し合うパパとママのために…。ありがとうねぇ、ふたりとも」
なんでなのかしら。お礼を言われてるのに、なぜか納得がいかないのは。
「ソシエ、せっかく二人が準備してくれた夕食なんだから、ありがたく頂こう。ごめんね二人とも、お腹すいたでしょう?」
「まあね」
「いえ、大丈夫です。おかえりなさい、おじさま」
素直に空腹を訴えるあたしと、殊勝なルネにむかって一度パパは微笑むと、いまだに名残惜しそうに腕を取るママをそっとほどこうとした。
最後には、まるで永遠の別れを告げる時みたいな、深いキスでようやく説得され、恋を夢見る少女のように頬を染めてママは食事の席に着いた。
…それさっき玄関でやってきたばっかでしょうが。
見せられる方の気持ちにもなれっていうのよ。
…でも、ひとのこと、言えないわね、あたしも。
思わずルネを見る。
心なしか、うつむくルネも顔が赤らんでいるみたいだった。
蜜でできた棘が、いつのまにかあたしの胸の中で、しくりと疼いた気がした。
客商売として、人と接する仕事をしているからなのか、パパの声は低いのにとても柔らかくて、そして優しい。仕事の癖が抜けないのか、たまにあたしたちにも丁寧な言葉遣いが出るときがある。
ママに言わせれば、「そこがたまらなくかわいらしいのよぅ」だそうだ。
……しゃくだから言わないけど、その気持ちはちょっと分かる。
パパにあの物腰で頼みごとされたら、たしかに断るのが難しい。
ちっちゃい頃は、パパにお使いを頼まれるのが、ちょっと嬉しくさえあったことを覚えている。
そのパパの、「いただきます」の声とともに夕食は始められた。
…たぶん、これからあたし、一生、ラタトゥイユを食べるたびに、ルネとのキスを思い出すんだろう。
(ごはん食べたら、すぐお休みの時間に――)
…ママの、さっきの言葉ともあいまって、トマトで甘酸っぱく煮込まれていたはずのラタトゥイユの味は、正直なところ、ほとんど分からなかった。
覚えているのは、柔らかい、ルネの唇と、ほっぺたのあたりをくすぐる息遣い、それから石鹸と一緒になったルネの匂いだけだった。
食後、疑わしいとは思っていたママからの申し出は、本当にあった。
「あなたぁ、今日は少し早いけど、これからエシェルちゃんたちを先に寝かせてしまってもいいかしら?」
台所で洗いものの手伝いをしていたあたしは、思わずパン皿を取り落としそうになる。
あたしの髪、ソフィー、フランソワーズ、アレクシア、ロクサーヌの四匹が、素早く皿に噛みついてそれを救った。
きた。
ほんとにきた。
じゃあ、やっぱり。
一緒に、……寝るんだ。あたしたち。
さっきのキスをまた思い出してしまい、顔がほてってくる。
パパは、ルネを相手にチェスを指していた。
昔は、あたしが相手に誘われていたのだが、あまりにもパパに勝てなくてへそを曲げてしまい、大泣きしてからはその役目から解放された。
ルネはまさに、飛んで火にいる夏の虫というか。
今度はパパも、折角の相手を失わないよう、押したり引いたり慎重に、ルネに指し方を教え込んだらしい。
いくつか駒を落として、という条件はあれど、今ではルネも、なんとかパパのお相手を務められるようにはなっている。
いつだったか、あたしがこっそりルネに、
「パパの相手、嫌じゃない? あたし、断ってあげるわよ」
とめずらしく気を遣ったら、
「ううん、そんなことないよ。チェスって、初めて覚えたけど、楽しいね」
と言われた。
…パパに、ルネを取られるんじゃないか。
子供みたいな、やきもちを焼いていたんだと、今なら分かる。
あんなに、ママの冗談だなんて、思っていたのに。
ルネとの夜が、現実味を増してくるにつれ、律儀にチェスを指すルネと、ルネを捕まえたままのパパに、今度は腹が立って仕方がない。
お皿洗いに、没頭しようとするあたし。
さっき対局が始まったばかりのチェスの盤上は、まだまだ序盤戦だったのだけど。
「あ、そうなんですか? 随分早いね。どうしたの、今日は?」
「実はねぇ。今日はエシェルちゃん、ルネくんに巻きついて、二人一緒におやすみしたいんですって」
あたしは慌てて声を出す。
「ちょっと、あたし別にそんな!」
ま…まあ、実際その通りなんだけど、なんか言わずにはいられなかったというか…。
「ああ、そうだったのか。じゃあ二人用のベッドがある部屋の方がいいね。そうすると一階の、ちょうどルネくんがいつも使ってる部屋でいいか」
ママだけならまだ分かるけど、パパもパパで、驚くほどすんなりと事情を呑みこんでしまった。
「ええ、そう思って、もうベッドメイクは終わってるわぁ」
「ありがとう、ソシエ。ルネくんは、それで平気ですか?」
「はい、いつもありがとうございます。何から何まで」
「いやいや、ここはもうルネくんのお家みたいなものだから。
何も気にすることはないですよ。
エシェルも、大丈夫? お部屋はいつもと違うけど、眠れそうかな?」
「……………………うん」
お皿洗いを終えてリビングに戻ってきたあたしは、そこでついうなずいてしまう。
眠れる自信なんて、全くありゃしないけど。
あたしが見ているうちに、話はとんとん拍子に進んでいった。
これは、あたしが何か言い返すだけ、もう無駄なのかもしれない。
「パ、パパ。でも、その、こんなこと、むこうのご両親がなんていうか…」
あたしは、力なく抗議を続けた。
盤上をにらんでいるルネのことを、「考えにふけるルネくんも、りりしくて素敵だわぁ」と言わんばかりに、さわさわすりすりしている蛇たちのせいで、全く何の説得力もないけど。
「あら、ママ言わなかったかしらぁ? 夕方、ルネくんのお母様と会ってお話したって」
「それは聞いたけど、でも泊まるっていうだけで、ふた、二人でなんて…」
「ええ。大丈夫、それもちゃんとご存じよぅ」
「…な」
続くママの言葉に、あたしは耳を疑った。
「『そうですわねえ、いずれはそうなることですしねぇ。早いか遅いかの違いでしかありませんから。わかりました。主人には私から連絡しておきます』って、フィーユさんおっしゃってたわ。
あ、そうだ。エシェルちゃんにね?『うちのルネは、初めてで右も左も分からない子ですから、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかよろしく教えてやってください』って。フィーユさんからの伝言よぅ」
……待て。待ってよ。何の話よ、それ!
とりあえず、何から突っ込んだらいいのよ!
「そうなる」ってどうなるのよ!
「わかりました」って何が分かったのよ!?
「初めて」って何が!?
「教えて」って誰が、何を教えるのよ!?
ていうかフィーユおばさま、それでいいの!?
その話が、もし本当なら、それって……
「うーん、簡単に言うと、『エシェルちゃんが優しくリードしてあげてちょうだいね。あと赤ちゃんの名前も考えておきましょうね』ってことかしらぁ」
あたしは、身体が、のけぞって倒れそうになるのを、テーブルの端を掴んで必死に耐える。
「あ、あ、あ、赤…ちゃんって」
「そうですか。ご両親も承知なら、大丈夫だね。よかったね、エシェル、ルネくん」
「いや、大丈夫って、え? え?」
意味が分かっているのかいないのか。ルネはいつもと変わらないニコニコ顔で、はいと返事をした。
「それじゃあ、ルネくん。対局は、いったん中断でもいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「うふふ、それじゃあなたぁ。あとは若い二人にまかせて、私たちもお風呂にしましょうよぅ」
そう言うママは、すでに「準備万端」を顔にでかでかと書き、何らかの期待に満ち満ちているように見えた。
「ああ、そうしましょう。じゃあ、エシェル。ルネくんをお部屋まで案内してあげて」
「…え、…」
「あの、それじゃぼく達、先に寝てしまっても?」
「ええ、大丈夫よぅ。ママたちは、ちょっと長めのお風呂になると思うから。ルネくんたちも遠慮なく、ね?」
「すみません、おじさま、おばさま。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ。エシェルもおやすみ」
ママが、あたしとすれちがうときに、こんなことを言い残した。
「エシェルちゃん。ママたちもお風呂終わったら隣のお部屋にいるから、もし何か分からないことがあったら、遠慮しないで聞きにいらっしゃい。
ママたちに分かることで良ければ、なんでも手取り足取り尻尾取り、教えてあげるから」
あたしは、もはや何も言うことがかなわず、お風呂場へと消える両親を見送った。
「じゃあ、寝る前に歯磨きしよ? エシェル」
そう言ってあたしの手を取るルネに、あたしはただ、うなずくことしかできなかった。
…つい数分前の自分が、まるで夢の中にいたよう。
あの思い出すのもためらわれるような、お風呂場でのふるまい。
夢だったとしても恥ずかしさに耐えられないのに、全部本当にしてしまったことだなんて。
なんだか、ルネをいじめて、汚してしまったようで、後ろめたい思いにあたしはさいなまれるのだった。
ルネが、かわいらしいパジャマ姿で、にっこり笑ってくれればくれるほど、その思いは強くなった。
だから、今のあたしは、非常に、ルネと目を合わせづらい。
こんなメドゥーサ、他にいるのかしらと自嘲した。
そして、身体の方は身体の方で、さっきママに変なところで邪魔…じゃない、止めてもらったものだから、気持ちとは裏腹に、なんというか、悶々とした感じが続いていた。
ルネは、食器を並べているところだった。
「…ママは?」
「えーと、さっきセルパおじさまが帰ってきたから、まだ玄関かな」
「…なんか、ごめん。手伝うわよ、あたしも」
「ありがと、エシェル。でも、こっちはだいたい並べ終わるから、座って待ってていいよ。
僕、お台所でお鍋かきまぜてくるね。
おばさまがお迎えに出たから、とりあえず蓋だけ取っといたんだけど」
「あ、ま、待ちなさいよ、それこそあたしがやるわよ!
ルネはお皿、さっさと並べちゃって」
あたしはルネを引きとめ、キッチンに向かった。
何かしてないと、申し訳なくて…なんて、言わなくてもいい、わよね…?
我が家の、パパとママの「おかえりなさい」のキスは……長い。たぶん、10分くらいは平気で玄関にいる。ルネがお家にいるときだろうが、控えるようなことはしない。
たまに、明らかに変な息遣いとか、ささやき声が聞こえることもあって、そのたびなぜか、あたしがルネに謝っている。
ママがお鍋を放ってパパのところへ行ったのを、お子様らしからぬ気配りで察し、ルネが代わって見てくれていたらしい。
「仲がいいのは、いいことだよ。うちはなかなかお互いの時間が揃わないから」
ルネは平然としたもの。あたしたち家族との三年の付き合いの間に慣れてしまったのか、もともと図太いんだか知らないけど、ここまで動じないとなんか、逆に不安になってしまう。
実の娘が、玄関先から漂ってくるあやしい空気に、ちょっとあてられそうになってるっていうのに。
それにしても、その空気にひとあし早く完全に酔っぱらって、ほいほいルネのもとに身体を伸ばしていこうとするこの蛇たち、どうしたものかしら。
ええい。ここはお鍋に集中して、余計なことを考えないようにするしか。
お玉を使って、お鍋の底が焦げないよう、ゆっくりかきまわす。
お鍋の中は、ルネの好物のラタトゥイユだった。
野菜がメインのお料理だから、あたしはあまり好きじゃなかったんだけど、ルネに付き合わされて食べさせられてるうちに、いつしか普通に食べられるようになっていた。
「ルネくんの好物ですものねぇ」
ママが以前、そう言って意味ありげな笑みを浮かべていたことを思い出す。
なんか、また腹が立ってきた。
…あたしは、ルネに、なにかしてあげたことなんて、あったっけ。
このお料理みたいに、おいしいもので喜んでもらったり、困ってるルネを助けてあげたり。
考えれば考えるほど、心当たりがない。
ルネに、つっけんどんなこと言ったりとか、逆のことだったらたやすく思い浮かぶんだけど。
ルネは、あたしが何を言っても、たいていにこにこ笑ってた。
あたしが何を着ても、何をしても、「かわいい」って言ってくれた。
あたしは、緩む頬を見られたくなくて、とげとげしい態度をとるばかり。
ルネと、けんかしたような覚えなんかない。
けんかにさえ、なってなかったんだわ。
たいてい、あたしがわがままを言って。大きな声を出して。
当たり前のように、ルネが笑って。そして、いつでもあたしは許されてきた。
…あたし、ありがとうの一言だって、喉につかえて出てこないってのに。
口先でお姉ちゃんを気取ってばっかりで。
…本当、甘えるにも程があるわよね。
あげく、お風呂場で、あんなことまで…
あたしってば、どこまで――
「んー、トマトのいい匂いしてきた」
あたしの横から、ルネがひょいと顔を出した。
「ひゃ!!?」
あたしは思わず、すっとんきょうな叫びをあげてしまう。
だって、だって。
あたしの、顔の、すぐそばに、ルネが。
さっき、お風呂場でさんざん……その、思い出してた顔が!
「おいしそうだね、エシェル?」
ルネは、そう言ってあたしのほうを見た。
首をかくんと縦に動かしたっきり、あたしは完全に身動きが取れなくなっていた。
あたし、メドゥーサなんじゃなかったっけ。
その魔の眼でひと睨みすれば、たちどころに相手を石のように、動けなくしてしまうんじゃないの?
なんで、あたしが石みたいになってんのよ!
「あ、エシェル。そろそろ混ぜたほうがいいよ?」
ルネは、そう言うと、お玉を手に取った。
……あたしが、持ったままのお玉を。
あたしの、手ごと、その手のひらで包んで。
……あったかい。
ルネの、手。
さっきよりも、……気持ちいい。
石になったあたしは、しばらくルネのなすがまま、二人で一緒にお鍋を混ぜていた。
待ってましたとばかりルネにからみつこうとする、頭の蛇たち。
ルネは、「よしよし、待っててね、もうすぐできるよ」と彼女らをあやしているが、それだけじゃない。
なんだか、こっちのほうをちらちら見ているような気もする。
思いすごし、じゃないみたい。そしてだんだん、あたしの横顔を見る時間が伸びてきてる。
なんなのよ、いったい。
言っとくけど、ルネと顔をまっすぐ向き合わせる自信は、あたしにはない。
現に今だって、目が鍋の中をふわふわ泳ぎ回っているのに。
「ごめんね、エシェル」
ルネからの言葉は、あたしには意外なものだった。
「…何、よ。いきなり」
謝るなんて。
それ、あたしが、ずっとルネに言いたくて、言えなかった言葉じゃない。
むこうが懐いてきてるんだから大丈夫、このくらいなら嫌われないと高をくくって、甘えて、逃げてきた言葉。
「僕、エシェルにずっと、黙ってたことがあるの」
次に出てきた言葉は、あたしの想像を超えたものだった。
「……、な」
あたしは二の句が継げない。
黙ってたこと、って。
つまり、言わなかったこと。言えなかったこと。
隠しごと。
あたしに、ルネが隠すことって。
あたしの想像は、暗い方へとばかり翼を広げようとする。
……ぼく、エシェルのこと、きらい。だいきらい。
だとか、
……ぼくを、いじめてばっかりなんだもの。もう、あそびになんかきたくない。
だとか、
……ほかに、すきなこがいるの。
だとか。
ママの思いつきで、思いがけず降ってわいた、幸せな一日。
今日はそんな日じゃ、なかったのかしら。
お鍋の口が、悪魔か化けものの口のように、どんどん大きくなって、あたしを呑みこもうとする。
お鍋の底には、きっと地獄が広がっているのだろう。
…………それも、しかたないかもね、とあたしは思った。
そりゃ、ルネの好きな子って誰よ、って、大声で問い質したいのはやまやまよ? 胸倉つかみあげるぐらいはするかもしれないわ。いつもだったら、ね。
でも、ちょっと考えれば、それがあたしでないことは分かる。
あたしはルネに、いっぱいひどいことしたんだもの。
そんなの、照れ隠しじゃない? 好きな子に、ちょっかいを出しただけよ。
なんて、言い訳になるはずがない。
あたしにできることは、せめて最後くらい、素直にルネの言葉を受け止めること。
どんなにあたしが傷ついたって、それは今まで積み重なった借りを、正しく取り立てられる、ただそれだけのこと。
「……うん。それは、なに? ルネ」
あたしは、覚悟を決めて、ようやくルネをまっすぐ見ることができた。
意外にも、涙は出てこない。
あとで、寝る前くらいに思い出して泣いたりするのかしら。
このかわいらしく、まあるい瞳も、これで見おさめになるのか。
ああ、やっぱかわいいなあ。肌も色白で、すべすべだなあ。
男の子なのに、結構まつ毛長いなあ、この子、とか、最後なのにこんなことしか考えられないのが情けなかった。
ルネは、なんだか顔を赤くして、あたしの手を握る手の、力を入れたり抜いたりしている。やがて、すうっと息を吸い込んだ。来る、と思ってあたしは身構える。
「僕、ね。ほんとは――」
あたしも、そっと息を吸い込む。見えない力で殴られる衝撃に備えて。
「エシェルのことを、初めて見たときから、ずっと、好きだったの」
誰よその女、と口まで出かかった言葉を押さえるのと、エシェルって誰だっけと、あたしの記憶を総動員させるのと、そもそもルネの言葉の意味を理解しようとするのと、同時にこなすには、少しあたしは緊張しすぎていたのかもしれない。
結局、そのときあたしがしたことは、
「――……へ?」
と、世にも情けない返事をすることだけだった。
最後の言葉は、あたしが幾度も思い描いたものだったけれど、衝撃は想像をはるかに上回っていた。
ほぼ、あたしは放心していたものだから、そこからのくだりはあまりよく覚えていないんだけど。
ずっと、恥ずかしくて、言えなかった、って。ルネはそう言ってた。
……恥ずかしいって言ってる割には、たしか、初対面でいきなり「かわいい」攻撃を決めてくれたんじゃなかったかしら。
「ほんとは、あの時『好き』っていいたかったけど、恥ずかしかったから、『かわいい』しか言えなかったの」
ごめんなさい、とルネは付け加えた。
……いや、「かわいい」も普通どうかとは思うけど。まあ、う、嬉しかったわよ、それは。
にしても、普段は図太いとさえ思えるくらいなのに、「好き」の一言だけはこれほど言いづらいものなのかしら。
…そうよね、それはあたしだって同じか。
いつになく、ルネはたどたどしく、言葉を紡ぐ。
赤らんだり、下を向いたりするのが、いつもと違ってとても、かわいらしくて…えーと。
…うん。あたしは、この子が、好きだ、って強く思う。
「それで、今日、エシェルと一緒にお泊まりで、エシェルに巻いてもらって寝ることになったでしょ?
僕は、すごく嬉しいんだけど…その、エシェルの方は、どうなんだろうって思って。
……す、…好き、でもない人とそんなこと、したくないと思うから。
それで、もし、エシェルが僕のこと、きらいだったらって思ったら、どんどん不安になって、せめて最後に、…好、きだって、言おうって、――」
……ほんとに、覚えてないの。ほんとよ?
なんで、自分がそんなことしたのか。
たぶん、放心しすぎて蛇に引っ張られたんじゃないかと思うんだけど。
気づいた時には。
ルネの言葉を遮るように。
あたしは、ルネと、唇を重ねていた。
離れる時、小さく、ちゅ、という音が聞こえたっきり、あたしたちは言葉もなかった。
顔に血が流れる音まで聞こえそうだった。
ルネがそそくさとかまどの火を小さくする。
なぜか、お互い何事もなかったように振る舞おうとしていた。
妙にてきぱきと、二人してお皿にお鍋の中身を盛り付けていった。
「エシェル、ルネくん、ただいまー」
腕に、とろけるような顔で蛇たちもろともからみつくママを連れて、パパが顔を見せた。
それで、はっとあたしの魂はこの世に戻ってきた。
あたしと、ルネ。両方にただいまを言ってくれる。
パパのそういう所は、ちょっといいなと思う。
食卓には、甘く煮込んだトマトに味付けされたラタトゥイユの、ほっぺたをくすぐる匂いが温かく漂い始めている。
夕食をよそり始めるタイミングと、キスが終わるタイミングがぴたり同じだったことに、あたしは呆れつつも感心した。
つい今朝方送り出したはずなのに、ママは「逢いたかったわ、あなたぁ」などと言いながら、早くもパパを寝室へと連れて行こうとしている。
さっきはお風呂に一緒に入るとか言ってたくせに…じゃなくて!
「ママ、ごはんまだ食べてないから!
ていうか、ごはん作ってたこと自体忘れてない?
ママがお鍋ほったらかしていっちゃうから、あたしとルネで準備したのよ、ここまで」
「まぁ、そうだったのぉ? そこまでして、愛し合うパパとママのために…。ありがとうねぇ、ふたりとも」
なんでなのかしら。お礼を言われてるのに、なぜか納得がいかないのは。
「ソシエ、せっかく二人が準備してくれた夕食なんだから、ありがたく頂こう。ごめんね二人とも、お腹すいたでしょう?」
「まあね」
「いえ、大丈夫です。おかえりなさい、おじさま」
素直に空腹を訴えるあたしと、殊勝なルネにむかって一度パパは微笑むと、いまだに名残惜しそうに腕を取るママをそっとほどこうとした。
最後には、まるで永遠の別れを告げる時みたいな、深いキスでようやく説得され、恋を夢見る少女のように頬を染めてママは食事の席に着いた。
…それさっき玄関でやってきたばっかでしょうが。
見せられる方の気持ちにもなれっていうのよ。
…でも、ひとのこと、言えないわね、あたしも。
思わずルネを見る。
心なしか、うつむくルネも顔が赤らんでいるみたいだった。
蜜でできた棘が、いつのまにかあたしの胸の中で、しくりと疼いた気がした。
客商売として、人と接する仕事をしているからなのか、パパの声は低いのにとても柔らかくて、そして優しい。仕事の癖が抜けないのか、たまにあたしたちにも丁寧な言葉遣いが出るときがある。
ママに言わせれば、「そこがたまらなくかわいらしいのよぅ」だそうだ。
……しゃくだから言わないけど、その気持ちはちょっと分かる。
パパにあの物腰で頼みごとされたら、たしかに断るのが難しい。
ちっちゃい頃は、パパにお使いを頼まれるのが、ちょっと嬉しくさえあったことを覚えている。
そのパパの、「いただきます」の声とともに夕食は始められた。
…たぶん、これからあたし、一生、ラタトゥイユを食べるたびに、ルネとのキスを思い出すんだろう。
(ごはん食べたら、すぐお休みの時間に――)
…ママの、さっきの言葉ともあいまって、トマトで甘酸っぱく煮込まれていたはずのラタトゥイユの味は、正直なところ、ほとんど分からなかった。
覚えているのは、柔らかい、ルネの唇と、ほっぺたのあたりをくすぐる息遣い、それから石鹸と一緒になったルネの匂いだけだった。
食後、疑わしいとは思っていたママからの申し出は、本当にあった。
「あなたぁ、今日は少し早いけど、これからエシェルちゃんたちを先に寝かせてしまってもいいかしら?」
台所で洗いものの手伝いをしていたあたしは、思わずパン皿を取り落としそうになる。
あたしの髪、ソフィー、フランソワーズ、アレクシア、ロクサーヌの四匹が、素早く皿に噛みついてそれを救った。
きた。
ほんとにきた。
じゃあ、やっぱり。
一緒に、……寝るんだ。あたしたち。
さっきのキスをまた思い出してしまい、顔がほてってくる。
パパは、ルネを相手にチェスを指していた。
昔は、あたしが相手に誘われていたのだが、あまりにもパパに勝てなくてへそを曲げてしまい、大泣きしてからはその役目から解放された。
ルネはまさに、飛んで火にいる夏の虫というか。
今度はパパも、折角の相手を失わないよう、押したり引いたり慎重に、ルネに指し方を教え込んだらしい。
いくつか駒を落として、という条件はあれど、今ではルネも、なんとかパパのお相手を務められるようにはなっている。
いつだったか、あたしがこっそりルネに、
「パパの相手、嫌じゃない? あたし、断ってあげるわよ」
とめずらしく気を遣ったら、
「ううん、そんなことないよ。チェスって、初めて覚えたけど、楽しいね」
と言われた。
…パパに、ルネを取られるんじゃないか。
子供みたいな、やきもちを焼いていたんだと、今なら分かる。
あんなに、ママの冗談だなんて、思っていたのに。
ルネとの夜が、現実味を増してくるにつれ、律儀にチェスを指すルネと、ルネを捕まえたままのパパに、今度は腹が立って仕方がない。
お皿洗いに、没頭しようとするあたし。
さっき対局が始まったばかりのチェスの盤上は、まだまだ序盤戦だったのだけど。
「あ、そうなんですか? 随分早いね。どうしたの、今日は?」
「実はねぇ。今日はエシェルちゃん、ルネくんに巻きついて、二人一緒におやすみしたいんですって」
あたしは慌てて声を出す。
「ちょっと、あたし別にそんな!」
ま…まあ、実際その通りなんだけど、なんか言わずにはいられなかったというか…。
「ああ、そうだったのか。じゃあ二人用のベッドがある部屋の方がいいね。そうすると一階の、ちょうどルネくんがいつも使ってる部屋でいいか」
ママだけならまだ分かるけど、パパもパパで、驚くほどすんなりと事情を呑みこんでしまった。
「ええ、そう思って、もうベッドメイクは終わってるわぁ」
「ありがとう、ソシエ。ルネくんは、それで平気ですか?」
「はい、いつもありがとうございます。何から何まで」
「いやいや、ここはもうルネくんのお家みたいなものだから。
何も気にすることはないですよ。
エシェルも、大丈夫? お部屋はいつもと違うけど、眠れそうかな?」
「……………………うん」
お皿洗いを終えてリビングに戻ってきたあたしは、そこでついうなずいてしまう。
眠れる自信なんて、全くありゃしないけど。
あたしが見ているうちに、話はとんとん拍子に進んでいった。
これは、あたしが何か言い返すだけ、もう無駄なのかもしれない。
「パ、パパ。でも、その、こんなこと、むこうのご両親がなんていうか…」
あたしは、力なく抗議を続けた。
盤上をにらんでいるルネのことを、「考えにふけるルネくんも、りりしくて素敵だわぁ」と言わんばかりに、さわさわすりすりしている蛇たちのせいで、全く何の説得力もないけど。
「あら、ママ言わなかったかしらぁ? 夕方、ルネくんのお母様と会ってお話したって」
「それは聞いたけど、でも泊まるっていうだけで、ふた、二人でなんて…」
「ええ。大丈夫、それもちゃんとご存じよぅ」
「…な」
続くママの言葉に、あたしは耳を疑った。
「『そうですわねえ、いずれはそうなることですしねぇ。早いか遅いかの違いでしかありませんから。わかりました。主人には私から連絡しておきます』って、フィーユさんおっしゃってたわ。
あ、そうだ。エシェルちゃんにね?『うちのルネは、初めてで右も左も分からない子ですから、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかよろしく教えてやってください』って。フィーユさんからの伝言よぅ」
……待て。待ってよ。何の話よ、それ!
とりあえず、何から突っ込んだらいいのよ!
「そうなる」ってどうなるのよ!
「わかりました」って何が分かったのよ!?
「初めて」って何が!?
「教えて」って誰が、何を教えるのよ!?
ていうかフィーユおばさま、それでいいの!?
その話が、もし本当なら、それって……
「うーん、簡単に言うと、『エシェルちゃんが優しくリードしてあげてちょうだいね。あと赤ちゃんの名前も考えておきましょうね』ってことかしらぁ」
あたしは、身体が、のけぞって倒れそうになるのを、テーブルの端を掴んで必死に耐える。
「あ、あ、あ、赤…ちゃんって」
「そうですか。ご両親も承知なら、大丈夫だね。よかったね、エシェル、ルネくん」
「いや、大丈夫って、え? え?」
意味が分かっているのかいないのか。ルネはいつもと変わらないニコニコ顔で、はいと返事をした。
「それじゃあ、ルネくん。対局は、いったん中断でもいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「うふふ、それじゃあなたぁ。あとは若い二人にまかせて、私たちもお風呂にしましょうよぅ」
そう言うママは、すでに「準備万端」を顔にでかでかと書き、何らかの期待に満ち満ちているように見えた。
「ああ、そうしましょう。じゃあ、エシェル。ルネくんをお部屋まで案内してあげて」
「…え、…」
「あの、それじゃぼく達、先に寝てしまっても?」
「ええ、大丈夫よぅ。ママたちは、ちょっと長めのお風呂になると思うから。ルネくんたちも遠慮なく、ね?」
「すみません、おじさま、おばさま。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ。エシェルもおやすみ」
ママが、あたしとすれちがうときに、こんなことを言い残した。
「エシェルちゃん。ママたちもお風呂終わったら隣のお部屋にいるから、もし何か分からないことがあったら、遠慮しないで聞きにいらっしゃい。
ママたちに分かることで良ければ、なんでも手取り足取り尻尾取り、教えてあげるから」
あたしは、もはや何も言うことがかなわず、お風呂場へと消える両親を見送った。
「じゃあ、寝る前に歯磨きしよ? エシェル」
そう言ってあたしの手を取るルネに、あたしはただ、うなずくことしかできなかった。
12/01/16 00:42更新 / さきたま
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