読切小説
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はじめまして、愛しています
 
 ――――長い長い、夢を見ていました。

 なんだかとても楽しい夢であったように思います。

 心が浮き立つような、そんな夢。

 すじ雲の流れる空の下、少し遠出した原っぱで。

 満たされた心で甘い午睡にまどろむ、そんな夢。

 おかしいでしょう?


 わたし、もう歩けませんのに。


 目が覚めたのは、規則正しい機械の音。
 わたしのろうそくの、残り時間を刻む音。

 こればっかりは、何度目を覚ましても慣れることができませんでしたね。

 最初はとてもその音が怖かったように思います。

 今は…………今も、まだ少しだけ怖さがあります。
 お恥ずかしながら。

 白い掛け毛布に隠されてはおりますが、シワシワな腕がびくりと怖さに震えるところを他人に見られれば、少しばかり情けない気分になってしまいます。

 ですので、わたしが目を覚ましたのはもっと、別の素敵な音であったのでしょう。

 たとえばそう、わたしの左手の側から聞こえる音。

 さりさりとリンゴの皮剥ぎをする音など、とても耳に心地よいものです。

 細いナイフが赤い実の周りをぐるりと巡るたび、ふわりと果実の香りが広がって。

 まるで風に流れる原っぱの草と、花の香りがまぶたの裏に浮かぶよう。

 ええ、これは間違いありませんね。
 わたしの寝覚めは、今度もやっぱり幸せなものでした。とっても、とっても。

 わたしが薄目を開ければ、彼はすぐ気付きました。
 果物ナイフがわずかに止まったの、わたしはしっかりとお見通しですよ。

 きっと彼はこちらが、何も察していないと思っているのでしょう。
 失礼ながらわたし、そこまでぼんやりではないのですよ?

 ……でも一度、目が覚めて間近に蜜柑があった事。
 あれにはたいへん驚かされてしまいました。

 果物の香りならきっと起きるだろう、ほら起きた……なんて、いたずらの言い訳にしてはひどい言葉です。
 わたしはそこまで食いしんぼうではありません。

 声ももう出せない身ですが、もし出来るならば隣のルームに聞こえるほどに元気に叱りつけていたことでしょう。

 まったく、わたしより歳は上なのに、とても子どもっぽいところは玉にキズかもしれませんね。

 もう、お互いによい歳なのですから。
 幼い子のような振る舞いは控えてほしいものです。

 今もまた、すり下ろしたリンゴのお皿をゆっくりと近づけてくる彼。

 わたしがご飯を前にしたネコのように飛びついてくるだろう……とでも思っているのでしょうか。

 そんなおふざけ、するハズがありませんのに。

 もし出来るのならばどんなに嬉しかったかと。

 一度くらい試して、彼の驚く姿を見るのも一興だったのかな、なんてちらりと思ったりも。

 ――そこで代わりに、ベッドの脇からこっそりと手を出して。

 あの人の差し出す腕の、ひじの辺りに触れてみます。

 残念、すぐに目論見は悟られてしまったよう。

 チェックのシャツの裾に触れれば、彼はそれを空いた手の方で包みこむようにして、ぎゅっと。

 お互い、しわくちゃな手でしたね。

 でも貴方の手は、とても温かくて。
 春のお日さまを思い出させてくれるような、わたしのお気に入りの温かさでした。

 あら、そんな顔が見たかったのではありませんよ?

 驚喜してくれ、とまでは言いませんが……。

 もう少しだけ楽しげな表情を、驚いたような表情を見せてほしいと。
 そうわたしは思うのです。

 そんな顔で、薬指を撫でないでくださいな。

 少しくらいはガマンするのが、頼れる殿方というものでしょうに。
 どうにも心配になってしまうではないですか。

 ここはやはり、妻としては毅然とした態度を取らなければ。
 いつまでも甘えてもらうばかりでは困りますから。

 ――そう奮起して、わたしの方から手を離すことにしました。

 こんな震える手ならば、気付かれることもないでしょう、と。

 …………やっぱり駄目、でしたね。

 彼が、老体とも言えるようなその身を、慌てて乗り出してくるのがはっきりと分かってしまいました。

 そんな動くと、またお腰を痛めてしまいますよ?
 わたし以外、誰があなたのマッサージをするのでしょう?

 そんなことを言ってみたいと思いました。

 もし、口が動くことが叶えば。

 もし、もう閉じた目をもう一度だけ開けるならば。

 ですがそろそろ、お時間のようですね。

 機械の音も、おさぼり気味になってきたようで。

 彼の後ろに先ほどから立っていた貴方、わたしはもう結構ですよ。
 お医者さまとも違うご様子の貴方、たいへんお待たせしてしまいましたね。

 はい。

 では、参りましょうか。


 ――願わくば、この彼が長く時を過ごせますよう。


 ――願わくば、また彼と長く時を過ごせますよう。



 ………………あら?

 こんなおばばのお祈りのまねごとにも頷いてくれるなんて、貴方、とってもお優しい子なのね?














 ――――長い長い、夢を見ていました。

 なんだかとても寂しい夢であったように思います。

 心が沈み込むような、そんな夢。

 白いお部屋、たくさんのチューブに囲まれた中で。

 夢うつつも曖昧に別れを告げる、そんな夢。

 おかしいでしょう?


 わたしこの方、ずっと一人ぼっちでしたのよ?


 目が覚めたのは、風に草原が逆らう音。
 舞い飛ぶ草に、静かに頬を撫でられる音。

 こればっかりは、どうにも飽いてしまいましたね。

 最初はとても気分が良かったのを覚えております。

 今は…………今は、少しだけ退屈です。
 お恥ずかしながら。

 身を包む甘い香りも、ただ流れて空に消えてしまうのみとなれば少々張り合いがなく、どこかもどかしい気分になってしまいます。

 ですので、わたしが目を覚ましたのはもっと別の、とっても騒がしい音であったのでしょう。

 たとえばそう、わたしの右手の丘から聞こえる音。

 ばたばたと革のブーツを鳴らしてくる音など、とても耳を傾けずにはいられません。

 足音のリズムが崩れるたび、ああ、草に足を取られて転びそうになったのかなぁ、なんて。

 まるで小さな子が、花の香りに誘われてやってきてしまったかのよう。

 ええ、これは間違いありませんね。
 わたしの寝覚めは、今度もやっぱり幸せなものでした。とっても、とっても。

 わたしが薄目を開ければ、近くで乱れた息を整える幼い彼の姿。
 そのチュニックに山高帽、ちょっとだけ大人びた服装を背伸びして着てみたのでしょうか?

 なんだか、名も知らぬ誰かに感謝しなければいけないような気がしました。
 こんなにもたくさん、願いごとを叶えてくれてありがとう、なんて。

 さてさてわたし、突然なにやら試してみたくなってしまいました。

 たいへん幸運なことにいま、彼はわたしが起きたことに気づいていないご様子。

 これはまたとない機会でしょうから。

 ふわりと綿毛を吹きかけてみましょうか?

 おっかなびっくり彼が触ろうとしている、橙色の蜜をフルフルと揺らしてみたりとか?

 それとも…………?

 ………………。

 ……ええ、決めました。

 ふふ、これならきっと彼も驚いてくれるはず。

 この人は、どんな表情を見せてくれるのでしょうか。


 わたしはパッと目を開けて、彼の方を向きました。


 もちろん、かける言葉は――――――


 
17/08/23 00:38更新 / しっぽ屋

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