連載小説
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後編

 独特な薬品のような匂いが染み着いた、病院の中。
 部屋の前のプレートに部長の名前が入っているのを確認し、小さな個室の扉をノックしてから、声を出して呼びかける。

「いいですか」
「……ああ」

 感情も抑揚もない、ただ音を出しただけのような声。
 それでも返事が聞こえたのを確認して、俺は病室に入った。

「……間違っていたら、すまない……亮真君か?」
「はい、部長」

 両目に白いアイマスクのような物をつけた部長はゆっくり上半身を起こし、俺の方を向く。
 病院着の下の、元から痩せていた体型は、さらに細く白くなったように見える。
 彼女の背もたれになるよう俺はベッドをリクライニングさせたあと、ベッドの隣に丸椅子を持ってきて腰掛けた。

「そうか……意外と、私の耳も捨てたものではないらしいね。
 君の声だけは、聞き間違えたくないから」

 病院に搬送されてから数日後、部長はなんとか平静を取り戻したらしい。
 俺が声を掛け続けてなだめるまで彼女は、言葉にならない悲痛な呻き声を漏らし、ずっと錯乱していた。そんな部長を見ているだけでも、俺には耐えられなかった。
 
「ああ、部長。そういえば、その。
 つまらない物ですが、お見ま……贈り物を、持ってきたんです」
「えっ? ……そうか、ありがとう。他でもない君のプレゼントだ、喜んで受け取るよ」

 そんなことを話しながら、俺は今日、朝にあった出来事を思い出していた。



―――――――――――――――――――――――――――



 朝起きて簡単に朝食を済ませ、俺はすぐに出かける支度をする。
 今日は休日なので、いつもより長く部長の傍にいられるだろう。
 そしていざ外に出ようとしたところで、お見舞いの品を何も用意していないことに気づいた。

「……部長の、好きなもの」

 その時、俺はようやく気付いた。
 俺は部長の事を、奈津愛という女性の事を何も知らない。
 あんなに長く顔を合わせて、彼女を見ていて、一緒にいたはずなのに。

「……ああ、そうか」

 俺もまた、彼女を見ようとしない者の一人だった。
 好き勝手な噂と色眼鏡で彼女を見るだけの周囲と何ら変わらなかった。
 彼女は絵描きであるずっと前に、女性で、まだ十代の女の子であることさえ、俺は忘れていたのだ。

「分かるわけがない……か」

 それでも手ぶらで行くことはできず、自転車に乗りながら思案する。
 部長と言えば何か。
 絵具。キャンバス。新しいスケッチブック。
 一瞬だけ絵に関するものが浮かんで、すぐに却下する。
 ――そんなもの、今の彼女に渡せるわけがない。

 結局俺ははっきりと答えが出せず、病院までの道筋にあった果物屋に寄った。
 自転車から降りて店先に立つと、すぐに店主らしき大人の女性が出てくる。

「いらっしゃーい。何にします?」
「……えっと。高校生ぐらいの女の子に渡すつもりなんですが、どういったのがいいでしょうか」

 それを聞いたところで、この店主に正解が分かるわけがない。
 俺はそんな事すら思い至らず、言ってから自分を恥じた。

「うーん、どういう贈り物かしら?ただのプレゼント?」
「いえ、お見舞いの品です。その、目の病気で、入院してまして」
「まあ……それは大変ね」
「……もう目が治ることはないだろうと、医者が言ってました。
 だから、その、何を渡すべきか思いつかなくて」

 言うべきではないかもしれないが、ついそんなことまで口走ってしまう。
 俺が店主から視線を外すと、うーん、と少し唸ってから彼女は言った。

「病院へのお見舞いなら、賞味期限とか衛生のこととか、色々問題があるの。生の果物は止めておいた方がいいわねぇ。
 ウチは一応フルーツジュースも扱ってるから、それを持っていくのはどうかしら」
「……そうですね、そうします」

 そう言って店主は奥のほうにあるコーナーへ俺を呼んで、色んなフルーツジュースが入った箱を紹介してくれた。

「これなら、細かい好みが分からなくても大丈夫かもね」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、これをください」

 お金を払い、箱を紙袋に入れてもらったところで、店主が言った。

「――そうそう。もし興味があるなら、これも」
「え?」

 そう言って彼女が取り出したのは、二つ折りのパンフレットのようなものだった。
 
「この世界には、医学では治せないものもたくさんあるわ。
 でもね、信じる者はちゃんと救われるようにできているのよ。
 あなたがお見舞いに行くその女の子も、きっと良くなるわ――」

 パンフレットを見ていた目線を店主の顔に戻すと、そこにはさっきと同じ人物とは思えないほど妖艶な、かつ獰猛な顔つきがあった。
 美しいとしか形容しようがない、人間ではないのかと思うほど、ただただ端正な顔立ち。

「どうかしらぁ?」
「……せっかくですが、お断りします」

 俺はパンフレットを突き返し、ジュースの入った紙袋だけを受け取る。
 どんなに美人の誘いであろうと、さっきの誘い文句は怪しい宗教のそれとしか思えない。たとえ一切の希望がないのだとしても、部長をそんなものに縋らせたくはなかった。

「……そう。なら仕方ないわ、気が変わったら、また声を掛けてねぇ」

 手短に頭を下げ、俺は店を出て行って、病院に向かおうとする。
 しかし病院の入り口前で、いきなり誰かに声を掛けられた。

「ん、……ちょっと、待って」

 最初は俺の事を呼んでいるのだとは分からず、素通りしそうになる。しかし背中から上着の裾を掴まれてから、俺は振り向いた。
 背の小さい女の子で、小学生ぐらいだろうか。その子は抑揚のない声と仏頂面な顔で、俺に突然質問してきた。

「あなたは、彼女を助けたい?」
「……え?」

 あまりにも唐突で、しかしその意味がどこかで分かってしまう言葉。

「君は、誰だ?」
「……あの人を助けられるのは、きっとあなただけ」
「君が……一体何を言ってるのか、分からないんだが」
「無理強いはしないよ。でも、あなたもまた、覚悟しないといけないの」
「……まさか、君も誘いを掛けてくる一人の……いや、でも、こんな小さい子が?」

 俺の遠回しな問いには答えず、女の子は続ける。

「きっと、わたしだけでは無理なんだと思う。あなたにも、手伝ってもらうかも」
「だから、一体何を言って――」

 俺が訳の分からない憤りでその子の顔を睨んだその時、きっと気のせいだとは思うが――瞳が赤く煌めいた――気がした。

「……それじゃあ。また、来るから」

 それだけ言い残して、その女の子は病院の外へ出て行った。



――――――――――――――――――――――――――――



 医学では治らなくても、信じる者は救われる――。
 そんな風に人の弱みに付け込んでくる奴らに、ただ腹が立って仕方がなかった。

「果物屋で買ってきた、フルーツジュース……を……」

 しかし。
 病室を見渡して、俺は気づいたのだ。

「……どうした?亮真君。急に声が途切れたが……」

 ――俺が果物屋で見たそのパンフレットが、病室にも置いてあったことを。

「……あ、ああ……すみません、考え事を。
 そういえば……今日は俺以外に誰か、ここに来ましたか」
「今日は、ええと……もちろん医者や看護師と、私の両親と……ああ、もう二人ほど、誰か来ていたが」
「二人……? 先輩の友人ですか?」
「……いや。どちらも私の知っている人物ではなかったはずだよ。
 一人は、そうだな……ただの勧誘だったよ。
 信じる者は救われる、そう言って私の手に紙を押し付けてきた。
 ありがたいことに、ちゃんと文言を読み聞かせまでしてくれてね」
「……っ」
「もちろん、追い返したが。もう間に合っているんだ、そういうものは」

 その返事を、俺はどうとっていいか分からなかった。
 恐らくは俺に声を掛けてきた者と同じ団体であろうそのパンフレットは、病室に置いてあるのだから。
 ……いや。
 今の部長にはその紙をごみ箱に入れることも難しいだろうし、彼女に「必要ない」と言われても、誰かが勝手に置いていったのかもしれない。
 だが、その紙はぎゅっと握りしめられた跡があるのに、彼女の傍に置かれている。だからそれ以上、俺に聞くことはできなかった。

「もう一人は……たぶん、女の子かな。
 言葉少なだったからよく分からなかったが、たぶん病室を間違えただけだろう」
「……そうですか。わかりました」
「ああ、水分はさっき取ったから……君が持ってきたジュースは、食事の後にでも飲ませてもらうよ」
「はい、じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
「すまないが、頼む」

 冷蔵庫にジュースを入れる作業が終わってから、俺はまた椅子に戻って座る。
 会話が途切れた後、わずかな静粛を置いて、ベッドの上にある部長の手が俺の方へ少しずつ伸びてきていた。

「それより……今日も……すまない。私に、触れていてくれないか」
「はい。もちろんです」

 力なくベッドに置かれた部長の左手を、そっと俺の両手で握る。
 ペンだこの出来た手はやはり細く、まだしなやかさが残っていた。

「……ふふ。やっぱり君の手は、温いな」
「部長は……少し冷たいですね。食事はちゃんと取れてますか」
「……手伝ってもらえれば、なんとか」
「もうすぐお昼です。下手でもいいなら、俺が付き添いますから」
「そうか……ありがとう。どう頼もうか、迷っていたんだ」
「気にしないでください」

 俺の手の感触を確かめるように、ときおり彼女の指が動く。そのたびに俺は、少しだけ力を入れて手を握った。

「それなら……恥の上塗りついでに、もう一つ……頼んでもいいか」
「ええ」
「どうにも、その……肌寒い、のかな。病院食では、体温が上がりにくいのかもしれない。
 それで……ああ、こんな事を頼めるのも、今だから、なのかも……だけど。
 笑わないで、聞いてほしい」

 少し血色の悪くなった部長の頬が、赤みを増す。
 言葉に詰まりうわずりかけた声は、また別の意味で弱々しかった。

「私の体を、強く抱きしめてくれないか」

 静かな病室では、その小さな声も響いて聞こえる。
 断ろうなんて、微塵も思わなかった。

「……はい。準備は、いいですか」
「あ、いや……ちょっと、待ってくれ。すー、はーっ……。
 よし、では……た、頼む」

 部長は身体を動かして、布団から出てベッドの縁に座った。
 あまりこういった経験はないが、努めて様になるように心がける。
 両腕の上から彼女を抱きすくめるように、背中に腕を回して、身体を密着させていく。
 スマートで痩せてはいるがしなやかで、確かな女性の柔らかさがある、圧倒的な感触。

「あ……っ、んぅっ……」

 病室特有の薬剤臭の中、わずかに彼女の肌の匂いが香る。
 部長の、癖のついた長い黒髪が二人の肌をくすぐるように撫でていた。

「ああ……ようやく、自分がまだ、生きていると……思えた気がするよ。
 でも、君にこうやって抱き締められたのは、初めてだから……ちゃんと分からないんだ。
 いるんだね? そこに君は、居てくれているんだよね……?
 他の誰かじゃない、君が……亮真君が、そこにいて、私をっ……」
「俺はここにいます……大丈夫、大丈夫ですから……部長」
「違う……ちがうよ、わたしの名前は……奈津愛だ。ちゃんと、そう呼んでくれ……」
「すみません、なつめ……奈津愛、先輩」
「は……ははっ。やっと、呼んでくれたね、ああ……亮真、亮真くんっ……」

 耳元から聞こえてくる、部長の、奈津愛先輩の声。
 おずおずと幼児のように、彼女もまた俺を抱き締めかえす。彼女の腕が、身体が、震えているのが伝わってくる。

「……なんで……なんでかな? こうやって、君に初めて、抱きしめてもらえて。
 君の手からごはんを食べさせてもらえるのが、とても楽しみなのに。
 嬉しいはずなのに……こみ上げてくるものが、止まってくれない。
 なぜ、君の姿が見えないんだ……? 何もかも、白くぼやけて、かすんで……見えない。
 ここは、本当に、私のいた世界なのか……?」
「奈津愛、先輩……落ち着いて。深呼吸してください」
「ああ、分かっているよ……君がいてくれるから、ちゃんと分かる。
 でも……もう、こんなことじゃ……何を描くこともできない。
 今まで描いてきた君も、これからの君も、今ここにいる君も……私にはもう、頭の中でしか見れないなんて……ただ命を奪われるより、ずっと、ずっと……苦しくて……っ」

 病院に運ばれてきた当初のような重い声が、ただ俺の心にも沈んでいく。
 言葉を掛けても、さらに強く抱き締めかえしても、彼女の震えは止まってくれない。

「いやだ……いやだよ……もう、絵が描けない……君を見れない。
 私……わたし、どうして、まだ、ここにいなきゃ、いけないの?
 何も出来ないままで、君に迷惑を掛けてただ生きるなんて……耐えられない。
 こんなの、わたし、生きてたって――」

 その瞬間、勝手に俺の身体が動いていた。

「――あ、」

 先輩の、息が漏れるような声を聞きながら。
 俺は何も考えず、ただ力任せに彼女をベッドに押し倒して、覆い被さっていた。

「やめてください、先輩。
 それ以上は、言わないでください。俺のためにも……絶対に」
「う、あ……りょう、まっ……」

 数瞬の間を置いて、また言葉にもならない声が部屋を包む。
 俺の身体をがむしゃらに奈津愛先輩の手と腕が撫でてから、ぎゅっと抱きついてくる。

「あ、あ……あああ……うあぁ……っ」

 しばらくの間、出来る限りに彼女と肌を重ねて、ただ抱き締める。
 それ以外にできることは思いつかない。
 俺は何も言わなかった。何も言ってはいけない気がした。






 病院の面会時間が終わる数分前になり、俺は上着を着直して帰り支度をする。

「明日は……来てくれるか?」
「ええ。テストだけは受けますが、終わったらすぐに」
「……うん。待っているよ」

 どうにかまた平静に戻ってくれた先輩を見ながら、俺は病室を出て行く。
 しかし駐輪所に着いたところで時間を確認しようとポケットに手を入れたとき、携帯電話を病室に置いてきたのに気づいた。

「仕方ない、か」

 それぐらいなら面会時間外でも許されるだろうと思いつつ、俺はまた急いで病院内に戻る。
 そして病室の扉をノックしようとした所で、中から話し声が聞こえた。

「……ははは。面白い事を言うね、君も。たしか真子(まこ)と名乗っていたっけ。
 人間から魔物に、だなんて。ぜひ私が会ってみたかった相手だ。できるならもう少し前にね」
「ん……信じても、信じなくてもいい。はっきり言って、偶然とわたしの気まぐれだから。
 ……でもね。貴方の苦しみは、とてもよくわかるの。
 見えていたものが、見えなくなること。
 そこにあるのに、なくなってしまったと、思ってしまうもの」
「もう……いいよ。私の妄想でも、本物の魔物でも、何だっていい。
 どっちにしたって君を見ることも、絵にすることさえもできないんだ」

 誰かと話しているのだろう、二人分の声。
 一人はもちろん奈津愛先輩の声と、もう一人は抑揚の少ない、幼めの印象を受ける女の子の声。

「……そう。 でもそれは、困る。貴方の絵、見たことあるの。
 とっても格好いい歯の……そう、信司と同じくらい、見とれるような、ホホジロザメの絵。
 水槽に置けない代わりで、水族館に飾ってあったよ」
「サメ?……ああ。そんな絵を描いた覚えもあるな。
 あれだけ大きいものは初めてで流石に疲れたが、納得のいく出来だった。
 魔物にまで認めてもらえるとは光栄だね」
「うん。だから、貴方を助けたいと思って、ここに来た。
 あまり信司を待たせたくないから、手短に、だけど」
「……助ける、か。まるで天使か悪魔のような口を利くんだな」
「違うよ、どっちでもない。わたしは真子で、”ゲイザー”。それ以外じゃない」
「はっ……ははっ。目の見えない私とは、まるで逆だな、その名は!」
 
 先輩の知り合い――にしては、会話の内容が不自然かつ、奇妙すぎる。
 いや、彼女なら風変りな知人が何人かいても変ではないのだが。

「……いちおう、聞いておく。
 人間で無くなる事を受け入れてでも……貴方はまた、”眼”が欲しい?」
「そんなの……決まっている。
 また絵を描ける手足があって、この目を取り戻せるなら……喜んで何にでもなるさ!」

 先輩の張り上げられたその声は、耳を澄まさずとも聞こえてきた。

「……確かに聴いたよ、その言葉。
 さあ、目を塞ぐそれを捨てて、瞼を開けてこっちを見て。
 わたしと同じ、”眼”をあげる」

 そしてほんの数秒後、

「――うあっ?! あああッ――??!」

 驚きにも似た、悲鳴のような奈津愛先輩の声。
 
「最初は、頭の中がぐちゃぐちゃになるの。苦しくはないと思うけど、できるだけ手伝うから」

 一体、部屋の中で何が起きているのか。先輩と話す幼い声の主は何者なのか。
 肌でさえ感じる名状しがたい恐れを振り払うように、俺は乱暴に病室の扉を開けた。 

「先輩……っ?!」
「……あ。人が来ない時間まで待ってたのに、見つかっちゃった。まあ、いいけど」

 ベッドにいる奈津愛先輩の前に立っていた――いや浮いていたのは、あまりにも現実離れした姿の、少女らしき異形。
 奈津愛先輩と似た長い黒髪と、声のイメージに似合った幼い顔と体格。口から覗くサメのようにぎざっとした歯。臀部から生えた黒い尾のようなもの、先端に目玉が付いた、十本の触手。
 服は着ておらず、黒いゲルらしき何かが手足と局部に張り付いていて、おおよそ裸体といって差し支えない。
 しかし一番に目を引き、人外であることを主張するのは、とても大きな赤い目。
 顔の真ん中にたった一つだけしかない、赤い瞳だ。
 その目玉はごろりと動いて、体を動かさずに視線だけで俺を見た。

「な、何なんだ、お前は……?!」
「ん……ああ。貴方が例の、”亮真君”だったんだね。
 たしかに、背、高いし”匂い”もすごい。このヒトのでいっぱい」
「何を言って……いやそれよりも、先輩!」

 謎の少女を警戒しながらも、俺は慌てて奈津愛先輩に駆け寄る。
 失明が起きた発作の時ほど狼狽している様子はないが、先輩は背中を丸めて両手で顔を抑えたまま動かない。

「う、あ……ああ……君、か……?どうしたんだ、帰ったはずじゃ……?」
「それよりも!大丈夫ですか、体に異常は?!」
「い、いや……異常といえば……そうなのかもしれないが。
 おかしい、な……君が……なぜ、映っているんだ……?」
「え……?」

 映っている?どこに?何が?
 その答えを聞く前に、謎の少女が言葉を発した。

「すごい……! そんなに早いんだ。一日ぐらいは、掛かるのかなって思ったけど……。
 それなら、もう心配ないかな」

 視界の端で異形の少女がふわふわと宙を浮き、窓の方へ飛んでいく。
 逃げる気なのか――と、思わず目でそいつの方を追う。
 少女は窓を開けてから此方へ振り向いて、赤い単眼をぎらりと煌めかせた。
 そして口元からまたぎざっとした歯が覗き、同時に言葉を発する。

『面倒になるといけないから、他の誰かには言っちゃだめ』

 ただ口に出しただけだとは思えない、心に直接届いてくるような響き。
 その異質さに気圧されたのか、なぜか俺の意識が少しの間ぼやける。

「……あ。またサメを描いてくれたら、その時はぜったい、見に行くから。
 楽しみに待ってるね、奈津愛さん」

 それでも、窓から身を滑らせた異形の姿が、溶けるように闇に消えていくのだけは分かった。
 十秒ほど経ってようやく正気を取り戻せて、何より先に奈津愛先輩の様子を確かめる。

「先輩、奈津愛先輩っ!大丈夫ですか?!」
「……ああ。危害は何も加えられていないよ。もう意識も、感覚も、はっきりしてきた。
 ただ……どうやら、とんでもない事になっているようだね」
「とんでもない……?何、が……」

 ぴりりっ。
 繊維が大袈裟に破れる音が、何度か鳴り響く。
 それは確かに、奈津愛先輩のすぐ近くから。

「また、君に頼む事になるけれど……どうか、驚かないで……ただ、見ていてくれ」

 ずるり。
 粘液の付いた何かが引きずられるような、異様な音。
 白い病衣とは真反対の色味をした、墨のように黒い見覚えのある何かが、先輩の背中から覗く。

「やはり、呆然とした顔だね……ああ。どうしたって、気になってしまうだろうな」
「これは……え?い、今、俺の表情……どうして――」

 そこで言葉が止まる。
 じろり――と、緑色の目玉が俺の目前ににゅっと現れて、こっちを見つめた。
 さっきの異形とよく似た形のそれを見て、薄らと察する。

「まさか……先輩も、あの少女と、同じに……」

 緑色の目が先端に付いた触手――目の色だけは違っているが、全部で十本あるそれは、先輩の周りを眺めるように好き勝手にうねうねと動いていた。
 その内の一つが、奈津愛先輩の顔を覗くように見つめる。
 彼女の顔を覆っていた両手がゆっくりと、離れていく。


 先輩の顔には、ただ一つ。宝石のような大きな緑の眼があるだけだった。


「そう……きっと、そうだと思うよ。なるほど、同じ”眼”……。
 天使でも悪魔でもない……”Gazer”か。
 はっ、あははっ、ははははっ……!こんな……こんな事が起きるなんてっ……!!」
「せ……先輩……」

 今まで聞いたことのないような大袈裟な笑いは、どんな感情から出てきたものなのか。
 異形に変わっていくという感覚は、一体何を彼女にもたらしているのか。
 その全てに答えてやろう――と言わんばかりに、奈津愛先輩は唇の両端を釣り上げ、にいっと笑う。口内には肉食獣のように細かく尖った歯が無数に並んでいた。

「どうした……そんな顔をして?
 君が心配してくれているような懸念は、私にはもうないよ。
 ただ私の唯一にして、最大の不安は――変わってしまった私を、君が受け入れてくれるかどうか。それだけさ」

 ぎょろり。
 先輩が此方へ振り向くと、顔にある大きな緑の瞳が、俺をじいっと見る。
 そして光る、煌めく。一瞬だけ太陽に照り付けられたような閃光が、俺の眼を突き刺した。

「ぐっ……?!」
「でもね、それもどうやら杞憂かもしれない。
 陽だまりで微睡むような心地良さの中、ちょっとしたきっかけで、大切な記憶を連鎖のように思い出していくような……そんな感じだ。
 私自身が何に成って、何が可能になったのかを、この身体がちゃんと理解させてくれる」

 どこかぼやけていく俺の意識――この異変は、さっきの異形の少女を見たときと殆ど同じで、だがそれよりも強い。

「君にもすぐ分かってもらえるように、この”眼”で伝えよう。
 怖がらなくていい。だが、不快になったらすぐに言うんだ。
 今の私は君を操りたいわけじゃない、ただ知ってほしいだけだからね」
「あ……」

 身体が眠り、脳だけが起きて夢を見ているような錯覚の中。
 情報を直接脳に植え付けられて、それが染み込んでいく感覚。
 あの異形の少女は何者で、奈津愛先輩は何に成ったか。
 ”魔物”という言葉と”ゲイザー”という種の有様が、俺にもすとんと腑に落ちていく。

「人間では……無くなった。その結果が、今の先輩なんですか」
「ああ。ヒトという器はもうない、その代わりに得たのは――有り余る目と、理を超えた力。
 もっとも、今の私には”眼”以外のことは些事だ。
 目を開ければ君がいる!この手で君をまた描くことができる!
 これ以上の悦楽なんて、あるものか……!!」

 ぐわぁっと、背中から伸びた触手たちがさらに広がっていく。部屋のどこを見ても映るほどに伸びたそれらは、ゆっくりと俺を取り囲んでいく。

「――だからこそ、はっきりさせないといけない。
 身勝手な欲望に身をやつし続け、ヒトであることさえ辞めた私を……君は、どう思っている?
 狂っていると思うか? この姿を、”眼”を、恐ろしいと思うか……?」
「……理解はできても……まだ、整理がつきません。
 ただ、奈津愛先輩らしいな、と。 そう思えるぐらいで」

 触手たちは、俺を囲むだけで触れようとはしない。
 ただ全方位から視線を注ぎ、見ているだけ。
 その目は、キャンバスと俺を交互に睨む奈津愛先輩のそれと、とても似ていた。

「……違うよ。君から聞きたいのはそんな回りくどい答えじゃない、分かっているだろう。
 だが私は……怖い。
 今なら、無理やりにでも君の本心をその口から暴き出せる。君を私の言いなりにさせることさえ、できる。
 しかしそのどれをとっても、私が本当に欲しいものとは思えない。
 絵を描き、自分で作り出してきたそれとは、違う……まったく違うんだ」
 
 頭の中が鮮明さを少しずつ取り戻し、俺は先輩の顔にある大きな一つ目に視線を戻す。
 じっとこちらを見つめるその瞳は、どこか弱々しく、潤んだように見えた。

「私を私たらしめる物を失って、ようやく。君に触れてもらえた、あの時。
 はっきりと、また目が開いたかのように分かった。
 ――ただ、この痩せた身体が朽ちるまで、君を愛し、この想いに焦がれていたいと」

 彼女の”眼”から、塊のように大きな滴が、ぽたりと落ちる。

「さあ、返事をしてくれ。許容も、もちろん拒否も、受け入れてみせる。
 君が離れていくのなら、この記憶の中にいる君を描くまでだ」

 とめどなく巡る思考の中、はっきりとした意識で俺は言う。

「……先輩は、あまりにも勝手です」

 わずかに彼女の顔が歪んで、少しだけ瞼が閉じられる。

「確かに、先輩は俺を見てきた。ずっと見てくれていた。
 でも、俺はあなたを見ていない。ただ、あなたの前に座っていただけだった」

 長い睫毛が揺れて、大きな瞼で眼がぴったりと塞がる。

「受け入れてくれと望むなら。
 あなたのことを、できる限り教えてください、先輩。
 ただ座っていることしかできなかった、物分かりの悪い俺にも分かるように」

 わずかに震えていた、今なお痩せて細い先輩の身体。
 その両肩にそっと手を置き、吐息の当たる距離まで俺は近づいて。

「奈津愛、先輩。俺にもあなたを見せてください」

 唇を重ねるだけの、拙い口づけを交わす。

「――っ」

 びくん、と先輩の身体が跳ねたのが手から伝わる。
 初めての感触や味を理解する余裕もないまま、俺は顔を少し離した。
 きゅっと閉じられていた先輩の瞳はゆっくりと開き、俺をまっすぐに見据える。

「……いい、のか? 一度見てしまったら、もう消えはしないぞ。
 いざその時になってから拒まれたりしたら、私は……どうすればいい?」
「なにも裏付けはできませんが、信じてください。
 ただひたむきに先輩が見てくれていた、俺の事を」
「ふっ……ふふっ、そうだな。初めての経験が重なりすぎて、少しばかり戸惑ったようだ。
 ああ、もう絵の続きが描きたくて仕方がない。ペンを持たずに数日も経ってしまったしな」

 俺が肩に置いていた手を離して降ろすと、奈津愛先輩はおずおずと俺の指に自分の手を添え、そっと握ってきた。

「……い、いや。その前に……モチーフの観察という課題が残っていてね。
 見ることは大事だが、それだけでは足りないことも……ある。
 ええと、その……分かってくれるか?」
「……つまり、」
「あ、ああ……こんな可愛げのない私に、みなまで言わせないでくれ。
 こんな痩せた身体以外に、君に捧げられる物はないが……それでもいいと、言ってくれるなら……」

 いじらしい少女のように控えめな誘いで、以前よりもさらに真白い肌の顔が赤らみ、恥じらいに溢れた先輩の表情。
 
「で……でも、しかし。この年で、それも病室で、いいんですか」
「ヒトではない私に、そんなものはもう関係ないよ。
 そして今の私なら、ここに誰かを寄り付かせないぐらい、瞬きをするうちにできるのさ。
 さあ、余計な心配はしなくていい。
 君のすべてを知りたい。今はそれだけしか、考えられない――」
「せ、せんぱっ……んむっ――」

 今度は彼女から、唇を塞がれる。
 俺のとは比べ物にならない、情熱的で、味わい尽くされるような口づけ。
 何分も時間を掛けて、互いの唾液で舌と味覚がいっぱいになっていく。

「あ、ああっ。……亮真っ、亮真ぁっ。愛してる、愛しているよ。
 私の身体がいっぱいになるまで、君のすべてを注いでくれっ――」

 ただ二人だけの、小さな部屋の中。
 俺と奈津愛先輩は一つになって交わり、互いを見て、互いだけを求め合った。




――――――――――――――――――――――――――――――――




 暮れかけた日の射しこむ美術室。
 俺は椅子から立ち上がり、カーテンを閉めて部屋の蛍光灯をつける。

「……ん。 ああ、ありがとう。
 あんな事があったというのに、また目を労わるのを忘れていた」
「それより、いいんですか? その”眼”で描いている所を誰かに見られても」
「ははっ。今さらどんな噂話が広まったところで怖がることもない、偏屈者の特権さ。
 君も私の傍にいてくれるのなら、それぐらいは覚悟してもらわないとな」
「そうですね。それより、もう一時間経ちました。少し休みましょう」
「ああ。わかった」

 椅子を動かして彼女の横に座り、俺がペットボトルを渡す。
 先輩はそれを受け取って一口飲んだ。

「……ふうっ。まったく、何が『また描いてくれたら』だ。
 一週間も経たないうちに催促しに来るとは」
「まあ、いいじゃないですか。今回は手ごろなサイズのようですし」
「とはいえ……キャンバスが小さくても、さほどメリットはなくてね。
 私が思うサメという生き物を表すなら、やっぱり以前ぐらいのサイズが欲しいよ」

 今の奈津愛先輩は、傍目には人間だった時の姿とそっくりな外見をしている。絵を描く時以外は、だが。
 彼女が変わったのを知る者は、俺とあの異形の少女以外にはいなかった。
 俺には未だに全容を理解できていないが、それも出来るようになった事の一つらしい。

「なんにせよ、あの子にも謝礼はしておきたいからな。
 その間に君を描けないのは心苦しいが、これだけでは恩としても返しきれないからね」
「同感です。それで、彼女の入学祝いには間に合いますか?」
「ああ、せっかくだ。もう一、二枚描いてもいいくらいさ。
 さすがの私も、あの魔物がこの高校に入ってくる子だとは思わなかったよ」
「……それも同感ですね」

 先輩を魔物に変えた”真子”というゲイザーによると、他にも正体を隠して学校に通う者はかなりいるらしい。
 そろそろ大々的に認知されていくかもしれない――とは彼女の弁だ。

「ああ……せっかくだ。あの子が頼んでくれたのだから、ちゃんと実物を見ておきたい。
 二人で一緒に海外にでも行こうか」
「またそんな、突拍子もないことを……一応はまだ学生なんだと思い出してください」
「なに、旅情は味わえないかもしれないが、さほど時間は掛からないよ。今の私ならね。
 それぐらいはしないと、私は絵に思いを込められないからな」

 どこまで本気なのか分からない言葉を喋りながら、彼女は絵筆や鉛筆といった、絵具の手入れを始める。
 そして自分に言い聞かせるように、ぽつぽつとまた語り始めた。

「目に映る視界も、絵も、いつかは変わり、消える。
 この世に一秒たりとも同じものはない。
 だが心に焼き付く外見は、情景は、その者の中でずっと残る。
 私はそんな絵を描いてみせる。これからも君を描いて、描き続ける。
 君が傍にいない時も、目を閉じた時でも、夢の中でも、この身が朽ち果てても――。
 私自身に君を焼き付けて、満たされるように」

 しなやかな先輩の指が絵具を撫でるその様を、俺はじっと見る。

「それは……とても惹かれる目標ですね。
 奈津愛先輩。前から一つ頼みがあったんですが、いいでしょうか」
「おや、君からとは珍しいね。
 それはとても嬉しいが、あまり私をどぎまぎさせるような事を言わないでくれよ。
 道具を落としてしまっては大変だ」

 先輩は、軽い冗談のように微笑みながら言う。
 少しだけ言うべきかどうか迷ったが、俺も意を決した。

「俺にも、絵の描き方を教えてくれませんか」

 ぴたり、と絵具を触る先輩の手が止まる。

「――はははっ。まさか、そうくるとは。
 誰かに物事を上手く教えられる自信はまったくなかったが、今はこの”眼”があるからね。
 願ってもないことだ――試してみようじゃないか。君が描く絵を、とても見てみたい」
「授業ぐらいしか機会がなかったので、見れたものにはならないと思いますが。
 ……それでも、描きたいものがあって」
「何だってそうさ、私も初めは上手くいかずに地団駄を踏んだものだ。
 それで、描きたいものというのは何かな」

 俺はできる限り照れを隠しながら、小さな声で言う。

「奈津愛先輩を、描いてみたいです」

 ――かしゃんっ。
 小気味のいい音を立てて、先輩が持っていた絵筆が床に落ちた。

「…………え、と。それは……」
「以前の部長も、今の先輩も。どっちも俺にとっては魅力的で、描いてみたくて」
「わ……私は、描く側で……、それでも、モデルになれと、言うのか」
「はい。できれば”あの姿”の時には、裸体になってもらえると嬉しいですが」
「そ、それはっ……うむむ……。どこまでも物好きな男だよ、君は……」
「お互い様です」

 俺に表情が見えないようにか、先輩は大きく俺から顔を逸らす。
 口籠って何かをもごもごと呟きながら、落ちた筆を拾っていた。

「……まったく。どぎまぎさせるなと先に言っておいたのに。
 教本や道具は貸すが、ちゃんと絵を教えるのはこの作品が終わってからだ。いいね」
「そうですね。俺もそれまでに、少しでも自習しておきます」

 奈津愛先輩は椅子に一度座りなおし、大袈裟に深呼吸をする。
 その顔だけはもうすでに、魔物のものと成っていた。

「ああ。楽しみにしているよ」

 ぎょろり。
 顔の真ん中に、緑の瞳をした一つ目が現れて、キャンバスを睨む。
 じっと見つめるその目は、いつも先輩が絵を描く時にしていた真剣な眼差しそのもので。

「――さて、続けよう。描きたい絵はいくらでもあるんだ」

 見惚れるほど美しいその姿を、瞳を、俺は描けるようになりたいと思う。


18/11/25 11:47更新 / しおやき
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