連載小説
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前編

「また作品のモチーフに、ですか」
「そう邪険にしないでくれ。どうせテスト期間だろうと勉学には勤しまないだろう」
「まあ、いつも以上に気を入れたりはしませんが」

 午後五時過ぎ。
 放課後の、特徴的な絵の具の匂いが立ち込める美術室。
 俺はもう何度目かも分からない呼び出しを受け、その美術部の部長と相対していた。

「本来なら謝礼を払いたい所だが、我が部も清貧な有様でね」
「それはそうでしょう。そもそも部長しか部員がいないんですから」

 すまないな、と笑いながら彼女はまたキャンバスに目を戻す。
 高校三年生である彼女は美術部の部長であり、名前は奈津愛(なつめ)という。
 背は俺と同じくらいで、女性にしては高く、スマートな体型。声色は低めで、落ち着いた印象を受ける。腰まである長い黒髪は癖っ毛な上にざっくばらんだが、前髪だけは目元にかからないよう短めに揃えている。指定制服である紺のブレザーは絵具や黒鉛で所々汚れており、独特の色味になりかけていた。
 そして絵を描く時だけはいつも、彼女は洒落っ気のない分厚い眼鏡を掛ける。特別に目が悪いわけではないと言っていたが、その眼鏡の奥からでもキャンバスをじっと睨むのは変わらなかった。

「今回ので、何枚目ですか」
「ん……ちょっと待ってくれ、少し描き直したいところが」

 キャンバスに集中しだすと部長は目を細める。俺は絵に関して大した知識を持っていないが、その眼光はいつだって真剣そのものに思えた。
 俺もモデルに慣れているわけではなく、それは彼女も知っている。だからそこまで厳密な物を求められているわけではないが、ポーズを崩さないよう気を付けながら返事を待つ。

「……よし。整ってきたな。ええと、何か言ってたか」
「今回で俺の絵は何枚目になるんです」
「記憶が確かなら、三十一枚目だな」

 事もなげにそう言い放つ部長は、俺とキャンバスを交互に見る。

「違う作品になるのは分かってますが、どうしてそう、同じ人物を描きたがるんです。
 素人の俺が言うのもなんですが、写真じゃ駄目なんですか」
「はは、面白い事を言うね。
 そんな事を言ったら、歌手の生歌を聞きたがるファンも、好きな曲をカラオケで歌いたがるファンも、みな変人だな」
「よく分かりませんが」
「描くというのは、何も紙に色素を付着させるだけの行為ではないのさ。
 少なくとも私にとってはね」

 そうして絵を描き続ける合間に、俺達は取り留めもない事を話していく。

「大体、君とこうして二人きりで居られる大義名分ができるんだ。
 それだけでも私は心から満足しているよ」

 常人ならはにかみそうなその台詞も、部長にとっては気にならないらしい。
 すると、部長がこめかみ辺りを片手で抑えて、小さく唸るのが聞こえた。

「……む、う……」
「部長?」
「……ああ。何でもない、気にしないでくれ」


―――――――――――――――――――――――――――――


 
「君を探していたんだ、亮真(りょうま)君」

 初めて彼女に声を掛けられたのは、本当に唐突だった。
 それなりの水準の公立高校に入学し、入る部活が正式に決まってすぐの翌日。
 教室から出た瞬間声を掛けられ、目を丸くしている間に手を掴まれた。

「私の為に、君の時間を分けてくれないか」
「……ええと。すみません、これから部活があるんですが」

 まっすぐに俺を見る瞳は気高くも、しなやかに。
 鉛筆を左手に持ち、右手で俺の手を握るその掌は、柔らかくも力強く。

「今日からすぐに、とは言わない。時間が空いて、気が向いたらでいい。
 美術室に来てくれれば、私はそこで待っている」

 それだけ言って俺から手を離し、悠然と彼女は歩いていく。
 最初はただの熱心な、かつどこかずれた美術部への勧誘だと思っていた。
 だが、節々に野暮ったさはあるものの、それなりに整った顔立ちの女性から声を掛けられた嬉しさもあった。
 そんな変人への興味本位もあっただろうが、俺はその当日から、適当に理由を付けて早めに部を抜け出し、美術室の扉を開けたのである。

「……すまない、ちょっと待ってくれ。いま手が離せない」

 ノックをしても返事がなかったので誰もいないかと思っていたが、彼女は椅子に座ってそこにいた。
 眼鏡越しにキャンバスを睨むその姿と眼差しは、絵画の一部かと思うほど麗しく。
 此方に視線を一切くれずに、絵と向き合っていた。

「違うな、もう少し……そうだ、いいじゃないか」

 それから五分ほど経ってようやく、彼女は扉を開けた俺の方に目を遣る。

「待たせた、それでこんな所になんの……」

 その瞬間、気高さに溢れた厳粛な表情が、まるで子供のようなあどけない笑顔にぱあっと変わっていくのを、今でも俺は覚えている。

「――ああ!亮真君じゃないか!まさか、こんなに早く来てくれるとは思わなかった!
 待ってくれ、すぐに準備する!」

 彼女は跳ねるように慌ただしく、新しいキャンバスを準備室から引っ張り出してくる。
 何の目的でここへ来るよう俺に言ったのかは、俺が聞くまで答えなかった。

「もし部への勧誘なら、ちゃんと断っておこうと思って来たんですが」
「勧誘……?ははは、そうか。そういえば、会いに行くことばかりに気を揉んで、何も伝えられてなかったな。
 君を探していたと言ったのは、部員としてではないんだ。
 描かせたいのではなくて、描きたいんだよ。君の事をね」
「……俺を?」

 それから、彼女といる時間が始まった。



「奈津愛?ああ、知ってるぜ。美術部のあいつだろ」
「パッと見はイイ女だし、何回も賞を獲ってるって聞いたが、ちょっと素行はアレでな。
 噂じゃ、前の高校で暴力事件を起こして転校させられたとか――」
「親父が有名な画家だったけど、家庭内暴力を受けて離婚したってハナシも――」
「猫や子供を追い掛け回して、解剖しようとしてたとか――」

 クラスメイトや部活の先輩たちに聞くと、奈津愛部長は転入してきた生徒であり、以前の高校では有名な”変わり者”らしかった。
 今は幽霊部員を除けばただ一人しかいない美術部の部長で、出席も最低限。暇があれば美術室に籠っている。
 それでも部が存続し、かつ彼女がお咎めを受けていないのは、有名な画家である親の裏金とか、圧力とか、何度もコンクールで大賞を獲って実績を残しているからだとか。
 そんな興味本位と尾ひれだらけの噂話が、彼女を形作っていた。

「――はははっ。とても面白いじゃないか。
 そうだな、物事は見られ方によっても形成され得るからね。
 何と言ってくれても構わないさ。むしろ興味深くさえ感じるよ」

 当の本人はこの有様で、否定も肯定もしない。
 ただ、資料を調べれば彼女の名が入った作品はそれなりに見つかるため、度々賞を獲るほどの作品を描くのは事実である。
 そんな彼女だから、今からするこの質問も、きっとはぐらかされるのだろうと思いながら口に出した。

「どうして俺をモチーフに選んだんですか」
「そんなの決まっている。君の事を、愛しているからだよ」

 まるで昨日食べた夕飯の献立を話すような軽い口ぶりで、そう彼女は答えた。

「……へ?」
「あー、しまった。バランスが少し乱れたな……」
「い、いや。どうして、そんなことを」
「なんだ、妙に慌てているが。ポーズはできるだけ崩さないようにな」

 愛していると、確かにそう言った。聞き間違いではない。

「一目惚れ、ということですか」
「面白い事を言うね。外見は内面の一番外側だと主張する人もいるし、そういう事例もあって然るべきだろうな」
「……答えになってません。それとも、さっきのは冗談なんですか」
「冗談は苦手だよ。意味のない嘘を付くのも好きじゃない」
「なら、どうして」

 天衣無縫な彼女の本心を聞くのは、それこそ雲を掴むような話だと思える。

「まあ――覚えていなくても無理はない。
 君と話をしたのは、片手で数えられるほどだ。いや、それにも満たないぐらいか」
「つまり、俺の事を以前から知ってたんですね」
「ああ、勿論だとも。”問題児”とレッテルを張られた過去も――それが私を庇ってくれたからだというのも、よく知っている。
 君が当事者である私のことを覚えていないのは、とても残念と言えるがね」

 俺が目線を逸らすと、ふう、と部長はため息を吐き、鉛筆を置いて眼鏡を外した。

「……ちょうどいい。休憩がてら、少し思い出話でもしようか。
 亮真君、私が君と出会い、そして君が事件を起こした、あの日のことをね」

 事件。あの日のこと。
 そう言われてパッと脳裏に浮かぶのは、初めて人を殴った感触だった。

「その日私は冬季休暇の宿題に、とある先生の肖像画を書いて提出した。
 名前は確か……まあいい、とにかく若手の女性教師だったよ。
 それはそれは、とても美しい容姿と肢体の持ち主でね。一番彼女を際だたせるのは一糸纏わぬ裸体だと思って、私は宿題の提出物である事を隠した上で、ヌードモデルを頼んだんだ。
 その当人は乗り気で引き受けてくれて、宿題だとも知られなかったが……いざ提出した際に、特別指導を受け持つ、年を取った一人の教師がどうにも反発してね。
 いざ提出の段階となったところで、私の絵を三階の窓から投げ捨てようとした――。
 まあ、今思えばあれを学校に出すなんて、我ながら浅はかな事をしたとは思っているけどね。
 ……ここまで話せば、思い出したかな?」

 怒号を張り上げながら、キャンバスを窓の外へ投げ出そうとする先生。
 それを必死で止めようと抵抗する女子生徒。
 その構図は、俺の過去の出来事とぴったり符号した。

「君が何を思ったかは推し量れないが……聞く耳を持たないあの教師を力ずくで止めたのは、揺るぎない事実だ。
 それこそ説得も聞かず、最終的には暴力を振るって、その結果退学の危機に晒されても。
 君は謝罪をしなかったと聞いた」
「……昔の話です。今だってそうですが、俺はただ子供だっただけです」

 あの時見た女子生徒はやはり華奢で、老いているとはいえ男の教師を止める力はなかった。
 俺はというと、中学生ながらに高校生と間違われる事が多く、背や体格には恵まれていたらしい。

「そうだったとしても、私を揺れ動かしたのもまた事実さ。
 他者の意見や目線など取るに足りぬと、大した興味を持たなかった私でも、ただ茫然としていた。
 自分の作品を受け入れられないことも、捨てられることも、今までになかったわけじゃない。
 ――だが。
 見ず知らずの相手を、私の絵を、見返りもなくそこまでして守ろうとしてくれたのは、君が初めてだったよ」

 他人の目に大した興味を持たないところは、俺も同じだった。
 だからこそあんな馬鹿な真似を起こし、親類や数少ない友人にも迷惑を掛けた。
 様々な意味で悪評が立つのを恐れた周囲は、事件をもみ消し、関係者を遠ざけることで鎮火させようとしたらしい。
 俺は遠方の親戚に預けられ別の学校に通っていたわけだが、その彼女とまた出会うことになるとは。

「それでまた、偶然会ったわけですか。この高校で」
「……偶然? いいや。残念だが違うんだ。私は巡り合わせというのが好きではなくてね。
 欲しい物は、自分で描くか、自分から探しに行くことにしている」
「……」
「この高校に来たのは、私自身の意志だ。
 君とまた出会って、君を描き、君に振り向いてもらうための、ね」

 その話が真実なら、正直なところ、もう部長が常人であるとは思えなかった。
 そんな手間を掛けてまで、そんな遠因の相手を追いかけて来る事自体が異常だろう。

「……俺を描いたところで、いや、俺を追いかけて来たところで、幻滅するだけです。
 俺はあなたほど並外れた人間でもないし、超然としてもいない。
 ただ一度、偶然に恩を売っただけだ。
 多少は恵まれた体格や力があるかもしれない。でもその中で一番になれる器も、その熱意もないです」
「そこは、男性と女性の考え方の差かもしれないね。
 私は、君が一番だから愛しているだなんて、言った覚えはないよ」
「……どういうことですか」
「私の考え方とはやや違うが、こう言う人もいる。
 『一番だから好きになるのではなく、好きになったから一番なのだ』とね。
 最初は口当たりがいいだけの陳腐な言葉だと思っていたが――今では驚くほど腑に落ちる」

 部長は一度椅子から立ち上がり、後ろに置いてある自分の鞄の方へ歩いていく。
 その時、

「……う、ん? ……っと」

 ぐらり、と彼女の長い身体が揺れた。

「どうしました、部長」
「く……いや……ちょっと、立ちくらんで……頭痛がしただけだ。
 長く座りすぎていた、かな」

 少しの間片手で頭を抑えて唸ったあと、そのまま部長は自分の鞄からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。それを一口飲むと、ふうっと息をついて、眼鏡をかけ直す。暑い日でもないのに、汗を掻いているように見えた。

「そろそろ休憩は終わりだ。準備はいいかな」






 その翌日も、部長から誘いを受けて絵のモデルになった。
 おそらくはテスト期間が終わるまで毎日依頼をされるだろうし、俺がそれを断ることもないだろう。
 キャンバスに集中する彼女を眺めながら、そんな風にぼんやりと思っていた。

「……く、」

 本当はもっと前からその片鱗を見せていたかもしれない。
 切っ掛けを見つけられていたかもしれない。
 しかし、その時まで俺には気づくことができなかった、というのが事実だった。

「う……? あ、あたま、が……視界が、きゅう、に……ぐ、あ゛……!!」
「なっ……ど、どうしたんですか、部長?!」
「う……ぐっ。い、いや……何でもない。昨日からどうも、調子が悪いだけだ。
 ちょっと……遅くまで、技術書を読みふけりすぎたかもしれないが。
 一応内科の病院は受けてきたし、痛み止めも……飲んでいる。
 さあ、戻ってくれ。続きが……早く描きたい」
「……無理はしないでくださいよ」
「ふ……何を言う。君の貴重な時間を、使わせているんだ、無理も、するさ」



 

 そして、その翌日。
 いつものように二人で美術室で向かい合って、座っていたその時。
 俺の漠然とした不安は形を成し、現実となって牙を剥いた。

「……く、また……っ……あ、ぎっ……!!」
「部長!……今日はもう……!」
「だ、が……う、うあ……ぐっ、うえぇ……っ」

 部長が左手に持っていた鉛筆を取り落とし、床に落ちて、その手で口を押さえる。
 嘔吐らしき動作とともに、手で塞がった口元から胃の内容物が少しずつこぼれ出す。
 その異変をもってようやく俺は動いた。

「だ、大丈夫ですか、部長っ……!?」

 床や彼女の服を汚す吐瀉物にはいとわず、震える彼女の背中をさする。ちらりと見えた部長の目は赤みがかっていた。
 しかし背を擦る程度で症状は軽くなるわけがなく、片手で頭を抑えて目をぎゅっと瞑りながら、部長はまた嘔吐を繰り返す。

「あ、ぐっ……す、すまなっ……君を、よごし、て……っ、けほっ、」
「無理して喋らないで!くそっ……誰か!誰かいないかっ?!」

 俺一人ではどうにもならないと判断して、大声で助けを叫んだあと、携帯電話で救急へ緊急通話を掛ける。
 同時に職員室へ走って、彼女の異常をできる限り素早く伝えた。
 
 部長は保健室に連れて行かれる猶予もなく、駆けつけた救急隊員に運ばれていく。
 そのときの症状を説明するため、そして彼女をなるべく不安にさせないためとの事で、俺も救急車に同乗を頼まれ、病院へ向かう。
 部長の家族と会ったことは殆どなかったが、向こうの方は俺を知っていたらしく、医者の説明に同席する事を許可してもらえた。
 しかし大した医学の知識などない俺には、細かい説明は分からない。

 急性の緑内障は、四十八時間以上の放置で最悪の結果を招くこと。
 病状を誤認した事で間違った処置が施され、早急かつ適切な治療に失敗したこと。
 片目ではなく、両目ともの疾患であること。

 まだどれもが俺の考える現実から離れていて、まるで悪夢を見ているようだと思った。
 そうあって欲しいと願っていた。
 だけど、鉛のような重さを感じた、医者のその言葉だけははっきりと覚えている。

「現代の医学では、失われた視神経は元に戻りません。
 残念ですが、奈津愛さんの両目は、もう――」


18/11/25 11:39更新 / しおやき
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