Are you lady?
これは――夢の中だと僕にはわかる。
けれど現実にあったこと。
今でも僕はたまにこの夢を見る。
「照。あなたは、私と一緒に来るわよね?」
母が、僕に声を掛ける。
「お父さんと一緒にいても、あなたは苦労するだけよ。幸せになんかなれないわ。
そんな思い、照には絶対にさせたくない。
何しろあの人は×××××で、私と付き合う前から×××××をしていたんだから。
私を愛していたというのも、どうせウソなの」
僕が聞きたくない言葉は、まるでノイズが走るようにかき消される。
昔は嫌でも聞こえていたはずなのに、いつの間にかそれは起きるようになった。
でも何を言われたかはまだ、忘れていない。忘れることができない。
「ぼくは、父さんと一緒にいるよ」
僕が言う。
今、本当に助けを求めている人は、父さんのほうなんだ――、
けれどその言葉を言いきる前に、母は大声で怒鳴った。
「なんで……!なんであなたまでそんな事を言うの?!
最初に裏切っていたのはあっちなのよ!
いくら結婚する前には別れてたからって、×××××と付き合っていたことも隠して、素知らぬ顔で私を好きだと言って!
頭がおかしいのよ!あなたのことだってヘンな目で見ているかもしれないのよ!」
僕の横には父さんが立っていて、何かを言おうとする。
でも、やっぱり何も言わない。その顔はもう、諦めを悟ったような表情で。
「行こう、照」
僕は父さんが伸ばした手をぎゅっと握り、母に背を向けて二人でどこかへ行く。
後ろから、耐え難いほどの罵声が飛んでくる。
「ああ、やっぱりそう!あなたの息子だから、その血が流れてるのね!
この×××××親子!二度と私の前に現れないで!気持ち悪くて仕方ないわ!」
父さんは一度だけ僕を見て、無理をしたように笑った。
「照。父さんは間違ってるかもしれないが、一つだけ聞いてくれ。
誰かを好きになるのに、愛するのに……理由が分かる人もいるし、分からない人もいる。
理由を求める人がいる。理由を求めない人がいる。
照がどちらなのかは、父さんにはまだ分からないけれど。
照も、誰かを、自分を、愛せる子でいてほしい」
僕も父さんも、母の方を振り返ることはなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――
「――ん、」
携帯電話にセットした目覚ましアラームの音で目が覚める。
今日は燃えるゴミの日だから、朝の新聞を取る時に出しに行くのを忘れないようにしないと。
簡単に朝食の用意をして、スイッチを入れておいた炊飯器からご飯をよそい、冷ますために早めにお弁当に入れておく。
次におかずの下準備をしておいてから、朝の新聞を取りに行く。
ポストにはダイアル式の鍵が掛かっているけれど、僕がポストに用があるのは朝の新聞を取る時ぐらいなので、鍵の開け方は教えてもらっていない。
さてゴミ出しも終わって一息、という所で、まだ寝室から出てこない父さんを呼びに行く。
「また、かな」
目覚ましは父さんも掛けているはずだけど、ごくたまに起きてこない時がある。
一度だけこっそり扉を開けて中を覗いたら、その時は便箋を片手に手紙のようなものを読んでいた。
でも僕がそっと扉を閉め直してノックをすると、すぐに慌ただしい音とともにどこかへ隠してしまっていた。
だからきっと今日もそうだと思って、扉をノックしてから声を掛ける。
「父さん、朝ご飯できたよ」
「……ああ。ありがとう、照。すぐ行くから、先に食べててくれ」
僕は父さんの言うとおりに、先にダイニングに戻って用意をする。
そういう日に父が部屋で何をしているのか、聞いた事はなかった。
きっと聞かれたくない事だって、そう思っていたから。
「いただきます」
「いただきます」
それ以外は今日も、大体いつもの朝のルーチンワークだ。
二人で朝食を食べつつ父さんのお弁当の用意をしていると、父さんが話し始める。
「照ももうすぐ中学三年生か。あっという間だったな」
「うん」
昼も夜もなく働いている父さんとまともに話すのは、こうやって朝食を食べる時くらい。それも週に何回かあればいいほうだ。
もしかしたら仕事に没頭することで、忘れていたいことがあるのかもしれない。
けれどやっぱり、僕にそれを聞き出す勇気はなかった。
「それで、まだ早いかもしれないが、進路はどうするんだ?
ここからだと、○○高校が一番良いとは思うんだが……」
○○高校は有名な進学校で、求められる学力水準も高い。
ただ前に先生と話した結果だと、今のまま成績を維持できれば難なく行けるだろう、と太鼓判は押してもらっている。
家からの距離もそれなりに近いし、父さんに余計な負担を強いることも少ないはずだ。
だけどもし入れたとしても、それで僕は、ボクはいいのだろうか。
「そう、だね。でも、まだ時間はあるから。もうちょっとだけ考えてみるよ」
あの修学旅行の日から、僕と一真の関係はどこかぎくしゃくしていた。
不自然に目を逸らしたりはしなくなったけれど、それも悟られてはいないかといつも不安になる。
それに意識しているのは最初から僕だけで、一真は普通に振る舞っているのかもしれない。
ただ僕の方からは一真に声をかけづらくなった、という事しか分からない。
「それじゃ皆、またあした」
「照先輩、さよならー」
「さいならッス、せんぱーい」
”ボランティア部”の活動は終わった。
けど中学二年生最後のテニス部の大会が近い一真は、もう少し遅くまで練習をする予定だ。
そういう日は決まって僕一人だけで帰ることにしている。
でも、そうでなくても最近は一真と一緒に帰っていない日が、ずっと続いていた。
そんな一人の帰り道、人気のない通りで咲先輩が僕に声を掛けてきた。
「やあやあ照くん、お疲れ様。どう、調子は」
だいたい何でも着こなすであろう先輩は、大人っぽくて品格のあるシックな黒のピーコートがやはり似合っている。長い黒髪もさらさらのままだし、透き通った色白の肌も映える。
相変わらず遠目でも分かるぐらいにどこを見ても綺麗なままだし、今では僕が目指す○○高校に通うつもりらしいのがわかりやすい。
あの高校に制服指定はないけど、通学鞄は推奨されている物があって、殆どの人はそれを使っているからだ。
しかし合格が決まったとはいえ、まだ入学もしていないのにその高校の鞄をもう使っている、というのは変な話だ。
それも常識外れではあるが、先輩らしいと言えば先輩らしかった。
「あ、咲先輩。第一希望校の合格、改めておめでとうございます」
「……君はいつまで経っても咲ちゃんと呼んでくれないねえ。まあいいや。
にしても浮かない顔に見えるけど、どうかしたかな?」
「そう、ですね。また色々、悩んでることがありまして」
「ふーん……それって進路?それとも恋のこと?」
「え、えっと。 ……どっちも、です」
咲先輩に見つめられると、どうにも隠し事がしにくくなる。
実際、重要な事は隠しつつも悩みを話せるぐらいの関係ではあったし、いいアドバイスをくれるかもしれない、という期待は十分にあった。
「てコトは……ああ。好きな子と同じ学校に行けないかもしれないってハナシ?」
「!」
そうして的確に、まるで知っていたかのように先輩は僕の悩みを言い当ててくる。
「んー、でも自宅の距離はそんなに離れてないって言ってたよね?
じゃあそこまで悲観しなくても大丈夫じゃないかしら」
「それは、そうだと思います。でも、このままだとそれでもうまくいかなさそうで――」
「……ふうん。込めた力がちょっと弱すぎたのかしら。
まだまだ、殻を割れないヒヨコさんのようね」
「え?」
時折、咲先輩の言動が僕にはよく分からなくなる。
それにも深い意味があるのかもしれないけど、少なくとも今の僕にはうまく理解できない。
「とにかく、貴方の考えは早計だと思うわ。まだまだ匂いは色濃く残っている。
落ち着いて、一度ちゃんと話をしてみたほうがいいでしょうね」
「……はい」
先輩にそう言われて、ようやく僕には決心がつき始めた。
さらに咲先輩は、鳥肌が立ちそうな程に艶っぽい表情をしたかと思うと、僕の頬にそっと手を添える。
「もし、強引にでも全てを攫いたいというなら――ワタシが手伝ってあげてもいいケド?」
一度感じた覚えのある、妖しげな雰囲気。
人ではない何かに、手が触れるような――触れられるような。
なぜかは分からないけど、今はそれにもほんの少し、親しみを覚えた気がした。
「……いえ、大丈夫です。僕のことは、僕自身がなんとかします」
「あら。さすがに私が目を付けただけのコトはあるわ。
スマートフォンの番号は覚えてるわよね?また悩みがあったらすぐに教えて、力になるから。
じゃーね、未来の後輩くん」
そして咲先輩は軽く手を振って、暗い夜道に消えていく。
こんな時間にどこへ行くのだろうとも思ったけれど、先輩ならどんな場所にいても違和感はなさそうだった。
中学三年生になって一か月が経った、五月のはじめ。
「ほなまた明日な、皆の衆」
「さっ、早く帰ってカラオケ行こうよー、修三くーん。もちろん二人っきりでー♪
その前に一緒に油揚げも食べに行こー、いい店知ってるんだぁ、うっふふー♪」
「おう、今日こそ棚の端から端までオトナ買――ん?なんかシャッターの音せんかったか?」
「えー?気のせいじゃないかなー。カメラ持ってる人なんていないよー」
「んまあええか、それよりはよ行かんとな!時はゼニなりや!」
修三くんと陽子さんが、とても仲良さげに腕を組んで、教室から出ていく。
あの修学旅行の一件で何があったかは、誰も詳細を知らないのか、それとも語らないだけなのか。とにかく真相は闇の中になった。
ただ、あの日から二人の関係ががらりと変わったのだけは確かだ。
それは僕と一真とは対照的で、ついまた意識してしまう。
「……ふたりとも、勉強は?」
三萩さんの声が廊下から聞こえる。どうやら三人で話しているらしい。
「まあまあ、そりゃ考えとらんわけやないよ。でも、ヤることヤッてからやないとな。
悶々としたまんまで勉強しても、身は入らんやろ?」
「そーだよー。三萩も早くしないと、他の誰かにあの人とられちゃうよー?」
「それは………………困る。行って、くる」
「応援してるで、三萩さん!」
「今日こそ勇気出して魚住(うおずみ)くんに告白だよー、ふぁいとー!おー!」
「……お、おおごえ、出しちゃだめっ……」
先生がやんわりと高校入試の話題を出したホームルームの後だけど、彼らにはあまり響いていないらしい。
僕はというと教室に残り、所用でボランティア部の書類を書いている。
十五分は掛かっただろうか。
そして提出しに行こうと席を立ってなんとなく周りを見ると、まだ教室には一真がいた。
「……あれ、一真。部活はどうしたの?」
自分の机に座ったままの一真に、僕は近づく。
そういえば、部活でずっと使っていたスポーツバッグを今日は持っていない。
「実は、前から決めてたことがあって。そろそろ伝えようと思ってたんだ」
「え……?」
いつもとは少し違うその声は真剣だと、僕にもわかった。
「この前の大会、惜しい所までは行ったけど、負けた。
あれで優勝できてたら、スポーツ推薦のきっかけぐらいにはなったかもしれないが――俺にはそこまでのセンスはないらしい。
まあ、飽きずに続けられてただけでも御の字かもな」
「……」
「だから、これからは勉強に専念しようと思ったんだ。
平均点スレスレがいつもの場所だったから、今さら頑張っても遅いかもしれないけど」
「テニス部……辞めちゃうの?」
僕自身は、一真がどの部活にいても、たとえ辞めても、想いを変えるつもりはない。
でも一真が自分でそう決めたことは、ほんの少しだけ寂しかった。
「ああ。まだ将来の夢が決まったわけじゃないけど、目標はできた」
「目標……って?」
一真は立ち上がって、僕の目を真っ直ぐ見る。
「照と同じ成績を、そして同じ高校を目指そうって、決めたんだ」
その真剣な眼差しに、僕は動くことができなかった。
「だから、一応塾にも通うつもりなんだけど、その。
もしよかったら、俺に勉強を教えてくれないか。余裕がある時だけでいい」
その言葉がまだ現実のものだと信じられず、少しだけ、僕はぼーっとしていた。
「――あ、」
そうして気が付いたら気が付いたで、鼻の奥がつんとなって、涙がこぼれてしまう。
嬉しかった。
一真はまだ僕を見てくれていたんだって。
泣くのを抑えようとしても、こみ上げてくる喜びは止められなかった。
「て、照?大丈夫……か?」
「……ん、だい、じょうぶ。 でもごめん、ちょっとだけ、待ってて」
ポケットのハンカチで滴をふき取ってから、僕はもう一度一真を見た。
「絶対、一緒に行こうね」
「ああ。約束だ」
その日、僕と一真は久しぶりに一緒に帰った。
そうして、僕たち二人は受験に向けて勉強を頑張っていた。
一真は元々努力家だったし、今まで勉強をさぼっていたというわけでもないので、本腰を入れて取り掛かれば成績が伸びるのもすぐだった。
三か月もすれば先生も驚くぐらいに点数を伸ばしていたし、今では僕と近い成績を取ることもある。
「すごいよ、一真!理科なんて、僕より良い点数!」
「ありがとう。照が効率のいい勉強法を教えてくれたおかげだな。
先生も面談で、この調子で行けば○○高校が十分に目指せるぞって言ってくれた」
「そっかぁ……。やっぱり、一真はすごいや」
「いや、部活をしてないぶん、時間が余ってるだけだ。
俺は家の事だって照みたいにはしてないしな」
それでも、そう簡単に好成績は取れるものじゃない。
努力を積み重ねられるのは、それだけでもすごい。
その上で結果を残せるのは、本当にすごいことだ。
僕たち二人は嬉しくなって、学校が半日で終わる今日は、久しぶりに息抜きをしようということになった。
「そういえば、二人でゲームをするのも久しぶりだね」
「ああ。最近はあんまりソフトも買ってなかったしな」
街に出てどこかに出かけてもよかったけど、夏の日差しは思ったより強烈で、いつも長袖を着る僕には辛い。
結局、僕の家でのんびりすることにした。
一真は勉強を見てくれた礼だと言いながら、僕の好きな桃や蜜柑にお煎餅、それにカルピスまで買ってくれて、荷物まで自分から持ってくれた。
「僕の好きな物、覚えててくれたんだ」
「だいぶ前だけど、照に晩ご飯を作ってもらった時、好きなおかずにしてもらったからな。
お返しのつもりだ」
制服の上着を脱いでリビングに座り、二人で寛ぎながらゲームを始める。
僕としては一真と一緒に居られれば、どこだって大差ない。
こうやってまた、二人でいることが出来て嬉しい。
僕は、このまま、これでいい。
――君は、こうしているだけでいいの?
僕の心に、何かがささやく。
その言葉を無視することができず、僕は心の中だけで答える。
そうだ。僕はこれでいい。
せっかく元に戻れそうなんだ、もう二度と、一真との関係を崩したくなんかない。
――君はそうやって、ウソばっかり。
本当は、修三くんと陽子さんや、三萩さんと魚住くんみたいになりたいくせに。
”あの人”に言われた言葉を、今でも引きずったままでしょ。
だけどね、目を逸らすなんてこと、君にはできないんだ。分かってるよね?
目を逸らしてる……わけじゃない。
ただ、一真に迷惑を掛けたくないだけだ。
僕なんかが、この気持ちを正直に伝えて何になるっていうんだ。
――君は、傷つくのを恐れているだけだよ。それはごまかしだ、本当はそうじゃない。
だから伝えようともしない。最初から諦めて、現状を変える努力もしない。
誰かに言われるまま、流されてきただけじゃないか。
”なりたい”なんて欲望だけは立派に持っているくせに。
……。
――君を責めたいわけじゃないんだ。
君はあの時、父さんを選んだ。その気持ちはウソじゃなかった。
それは『ボク』にだってわかってる。
だけど、もうイヤなんだよ、こうやって『ボク』が押さえつけられるのも。
好きな人に、想いを伝えられないのも。
……。
――それとも。
君が惹かれた相手って、そういう人だったの?
……違う!一真は、”あの人”なんかとは違う!
じゃあ、自分の気持ちを隠す必要はないよね?
……きっと、一真なら。僕の事を受け入れてくれる、かもしれない。
だけど、もし万が一、”あの人”と同じように言われたら。拒絶されてしまったら。
僕は父さんのように耐えられる自信がない。
いや父さんだって、深く傷ついていた。僕の前では隠していただけだ。
きっと、そうだ。
――どうやらまだ君は、傷つくことを心から恐れてるみたいだね。
自分を認めることも出来なくて、苦しんでいる。
でもそんな『僕』を、『ボク』は、認めないよ。
『ボク』は、今よりずっと、一真の大切な人になりたいんだ。
……分かったら、早く出て行ってよ。
僕だって、一真の大切な人になりたいに決まってる!
だから、何も言わずに、口を閉じていようとしてるのに……!
元はと言えば、ぜんぶ『ボク』のせいじゃないか!
『ボク』さえいなければ、こんな、こんな……っ!!
――ああ。出て行ってあげるよ、”君の意識”に、ね。
その瞬間、僕の思考がノイズにかき消されるように、途切れた。
けれど現実にあったこと。
今でも僕はたまにこの夢を見る。
「照。あなたは、私と一緒に来るわよね?」
母が、僕に声を掛ける。
「お父さんと一緒にいても、あなたは苦労するだけよ。幸せになんかなれないわ。
そんな思い、照には絶対にさせたくない。
何しろあの人は×××××で、私と付き合う前から×××××をしていたんだから。
私を愛していたというのも、どうせウソなの」
僕が聞きたくない言葉は、まるでノイズが走るようにかき消される。
昔は嫌でも聞こえていたはずなのに、いつの間にかそれは起きるようになった。
でも何を言われたかはまだ、忘れていない。忘れることができない。
「ぼくは、父さんと一緒にいるよ」
僕が言う。
今、本当に助けを求めている人は、父さんのほうなんだ――、
けれどその言葉を言いきる前に、母は大声で怒鳴った。
「なんで……!なんであなたまでそんな事を言うの?!
最初に裏切っていたのはあっちなのよ!
いくら結婚する前には別れてたからって、×××××と付き合っていたことも隠して、素知らぬ顔で私を好きだと言って!
頭がおかしいのよ!あなたのことだってヘンな目で見ているかもしれないのよ!」
僕の横には父さんが立っていて、何かを言おうとする。
でも、やっぱり何も言わない。その顔はもう、諦めを悟ったような表情で。
「行こう、照」
僕は父さんが伸ばした手をぎゅっと握り、母に背を向けて二人でどこかへ行く。
後ろから、耐え難いほどの罵声が飛んでくる。
「ああ、やっぱりそう!あなたの息子だから、その血が流れてるのね!
この×××××親子!二度と私の前に現れないで!気持ち悪くて仕方ないわ!」
父さんは一度だけ僕を見て、無理をしたように笑った。
「照。父さんは間違ってるかもしれないが、一つだけ聞いてくれ。
誰かを好きになるのに、愛するのに……理由が分かる人もいるし、分からない人もいる。
理由を求める人がいる。理由を求めない人がいる。
照がどちらなのかは、父さんにはまだ分からないけれど。
照も、誰かを、自分を、愛せる子でいてほしい」
僕も父さんも、母の方を振り返ることはなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――
「――ん、」
携帯電話にセットした目覚ましアラームの音で目が覚める。
今日は燃えるゴミの日だから、朝の新聞を取る時に出しに行くのを忘れないようにしないと。
簡単に朝食の用意をして、スイッチを入れておいた炊飯器からご飯をよそい、冷ますために早めにお弁当に入れておく。
次におかずの下準備をしておいてから、朝の新聞を取りに行く。
ポストにはダイアル式の鍵が掛かっているけれど、僕がポストに用があるのは朝の新聞を取る時ぐらいなので、鍵の開け方は教えてもらっていない。
さてゴミ出しも終わって一息、という所で、まだ寝室から出てこない父さんを呼びに行く。
「また、かな」
目覚ましは父さんも掛けているはずだけど、ごくたまに起きてこない時がある。
一度だけこっそり扉を開けて中を覗いたら、その時は便箋を片手に手紙のようなものを読んでいた。
でも僕がそっと扉を閉め直してノックをすると、すぐに慌ただしい音とともにどこかへ隠してしまっていた。
だからきっと今日もそうだと思って、扉をノックしてから声を掛ける。
「父さん、朝ご飯できたよ」
「……ああ。ありがとう、照。すぐ行くから、先に食べててくれ」
僕は父さんの言うとおりに、先にダイニングに戻って用意をする。
そういう日に父が部屋で何をしているのか、聞いた事はなかった。
きっと聞かれたくない事だって、そう思っていたから。
「いただきます」
「いただきます」
それ以外は今日も、大体いつもの朝のルーチンワークだ。
二人で朝食を食べつつ父さんのお弁当の用意をしていると、父さんが話し始める。
「照ももうすぐ中学三年生か。あっという間だったな」
「うん」
昼も夜もなく働いている父さんとまともに話すのは、こうやって朝食を食べる時くらい。それも週に何回かあればいいほうだ。
もしかしたら仕事に没頭することで、忘れていたいことがあるのかもしれない。
けれどやっぱり、僕にそれを聞き出す勇気はなかった。
「それで、まだ早いかもしれないが、進路はどうするんだ?
ここからだと、○○高校が一番良いとは思うんだが……」
○○高校は有名な進学校で、求められる学力水準も高い。
ただ前に先生と話した結果だと、今のまま成績を維持できれば難なく行けるだろう、と太鼓判は押してもらっている。
家からの距離もそれなりに近いし、父さんに余計な負担を強いることも少ないはずだ。
だけどもし入れたとしても、それで僕は、ボクはいいのだろうか。
「そう、だね。でも、まだ時間はあるから。もうちょっとだけ考えてみるよ」
あの修学旅行の日から、僕と一真の関係はどこかぎくしゃくしていた。
不自然に目を逸らしたりはしなくなったけれど、それも悟られてはいないかといつも不安になる。
それに意識しているのは最初から僕だけで、一真は普通に振る舞っているのかもしれない。
ただ僕の方からは一真に声をかけづらくなった、という事しか分からない。
「それじゃ皆、またあした」
「照先輩、さよならー」
「さいならッス、せんぱーい」
”ボランティア部”の活動は終わった。
けど中学二年生最後のテニス部の大会が近い一真は、もう少し遅くまで練習をする予定だ。
そういう日は決まって僕一人だけで帰ることにしている。
でも、そうでなくても最近は一真と一緒に帰っていない日が、ずっと続いていた。
そんな一人の帰り道、人気のない通りで咲先輩が僕に声を掛けてきた。
「やあやあ照くん、お疲れ様。どう、調子は」
だいたい何でも着こなすであろう先輩は、大人っぽくて品格のあるシックな黒のピーコートがやはり似合っている。長い黒髪もさらさらのままだし、透き通った色白の肌も映える。
相変わらず遠目でも分かるぐらいにどこを見ても綺麗なままだし、今では僕が目指す○○高校に通うつもりらしいのがわかりやすい。
あの高校に制服指定はないけど、通学鞄は推奨されている物があって、殆どの人はそれを使っているからだ。
しかし合格が決まったとはいえ、まだ入学もしていないのにその高校の鞄をもう使っている、というのは変な話だ。
それも常識外れではあるが、先輩らしいと言えば先輩らしかった。
「あ、咲先輩。第一希望校の合格、改めておめでとうございます」
「……君はいつまで経っても咲ちゃんと呼んでくれないねえ。まあいいや。
にしても浮かない顔に見えるけど、どうかしたかな?」
「そう、ですね。また色々、悩んでることがありまして」
「ふーん……それって進路?それとも恋のこと?」
「え、えっと。 ……どっちも、です」
咲先輩に見つめられると、どうにも隠し事がしにくくなる。
実際、重要な事は隠しつつも悩みを話せるぐらいの関係ではあったし、いいアドバイスをくれるかもしれない、という期待は十分にあった。
「てコトは……ああ。好きな子と同じ学校に行けないかもしれないってハナシ?」
「!」
そうして的確に、まるで知っていたかのように先輩は僕の悩みを言い当ててくる。
「んー、でも自宅の距離はそんなに離れてないって言ってたよね?
じゃあそこまで悲観しなくても大丈夫じゃないかしら」
「それは、そうだと思います。でも、このままだとそれでもうまくいかなさそうで――」
「……ふうん。込めた力がちょっと弱すぎたのかしら。
まだまだ、殻を割れないヒヨコさんのようね」
「え?」
時折、咲先輩の言動が僕にはよく分からなくなる。
それにも深い意味があるのかもしれないけど、少なくとも今の僕にはうまく理解できない。
「とにかく、貴方の考えは早計だと思うわ。まだまだ匂いは色濃く残っている。
落ち着いて、一度ちゃんと話をしてみたほうがいいでしょうね」
「……はい」
先輩にそう言われて、ようやく僕には決心がつき始めた。
さらに咲先輩は、鳥肌が立ちそうな程に艶っぽい表情をしたかと思うと、僕の頬にそっと手を添える。
「もし、強引にでも全てを攫いたいというなら――ワタシが手伝ってあげてもいいケド?」
一度感じた覚えのある、妖しげな雰囲気。
人ではない何かに、手が触れるような――触れられるような。
なぜかは分からないけど、今はそれにもほんの少し、親しみを覚えた気がした。
「……いえ、大丈夫です。僕のことは、僕自身がなんとかします」
「あら。さすがに私が目を付けただけのコトはあるわ。
スマートフォンの番号は覚えてるわよね?また悩みがあったらすぐに教えて、力になるから。
じゃーね、未来の後輩くん」
そして咲先輩は軽く手を振って、暗い夜道に消えていく。
こんな時間にどこへ行くのだろうとも思ったけれど、先輩ならどんな場所にいても違和感はなさそうだった。
中学三年生になって一か月が経った、五月のはじめ。
「ほなまた明日な、皆の衆」
「さっ、早く帰ってカラオケ行こうよー、修三くーん。もちろん二人っきりでー♪
その前に一緒に油揚げも食べに行こー、いい店知ってるんだぁ、うっふふー♪」
「おう、今日こそ棚の端から端までオトナ買――ん?なんかシャッターの音せんかったか?」
「えー?気のせいじゃないかなー。カメラ持ってる人なんていないよー」
「んまあええか、それよりはよ行かんとな!時はゼニなりや!」
修三くんと陽子さんが、とても仲良さげに腕を組んで、教室から出ていく。
あの修学旅行の一件で何があったかは、誰も詳細を知らないのか、それとも語らないだけなのか。とにかく真相は闇の中になった。
ただ、あの日から二人の関係ががらりと変わったのだけは確かだ。
それは僕と一真とは対照的で、ついまた意識してしまう。
「……ふたりとも、勉強は?」
三萩さんの声が廊下から聞こえる。どうやら三人で話しているらしい。
「まあまあ、そりゃ考えとらんわけやないよ。でも、ヤることヤッてからやないとな。
悶々としたまんまで勉強しても、身は入らんやろ?」
「そーだよー。三萩も早くしないと、他の誰かにあの人とられちゃうよー?」
「それは………………困る。行って、くる」
「応援してるで、三萩さん!」
「今日こそ勇気出して魚住(うおずみ)くんに告白だよー、ふぁいとー!おー!」
「……お、おおごえ、出しちゃだめっ……」
先生がやんわりと高校入試の話題を出したホームルームの後だけど、彼らにはあまり響いていないらしい。
僕はというと教室に残り、所用でボランティア部の書類を書いている。
十五分は掛かっただろうか。
そして提出しに行こうと席を立ってなんとなく周りを見ると、まだ教室には一真がいた。
「……あれ、一真。部活はどうしたの?」
自分の机に座ったままの一真に、僕は近づく。
そういえば、部活でずっと使っていたスポーツバッグを今日は持っていない。
「実は、前から決めてたことがあって。そろそろ伝えようと思ってたんだ」
「え……?」
いつもとは少し違うその声は真剣だと、僕にもわかった。
「この前の大会、惜しい所までは行ったけど、負けた。
あれで優勝できてたら、スポーツ推薦のきっかけぐらいにはなったかもしれないが――俺にはそこまでのセンスはないらしい。
まあ、飽きずに続けられてただけでも御の字かもな」
「……」
「だから、これからは勉強に専念しようと思ったんだ。
平均点スレスレがいつもの場所だったから、今さら頑張っても遅いかもしれないけど」
「テニス部……辞めちゃうの?」
僕自身は、一真がどの部活にいても、たとえ辞めても、想いを変えるつもりはない。
でも一真が自分でそう決めたことは、ほんの少しだけ寂しかった。
「ああ。まだ将来の夢が決まったわけじゃないけど、目標はできた」
「目標……って?」
一真は立ち上がって、僕の目を真っ直ぐ見る。
「照と同じ成績を、そして同じ高校を目指そうって、決めたんだ」
その真剣な眼差しに、僕は動くことができなかった。
「だから、一応塾にも通うつもりなんだけど、その。
もしよかったら、俺に勉強を教えてくれないか。余裕がある時だけでいい」
その言葉がまだ現実のものだと信じられず、少しだけ、僕はぼーっとしていた。
「――あ、」
そうして気が付いたら気が付いたで、鼻の奥がつんとなって、涙がこぼれてしまう。
嬉しかった。
一真はまだ僕を見てくれていたんだって。
泣くのを抑えようとしても、こみ上げてくる喜びは止められなかった。
「て、照?大丈夫……か?」
「……ん、だい、じょうぶ。 でもごめん、ちょっとだけ、待ってて」
ポケットのハンカチで滴をふき取ってから、僕はもう一度一真を見た。
「絶対、一緒に行こうね」
「ああ。約束だ」
その日、僕と一真は久しぶりに一緒に帰った。
そうして、僕たち二人は受験に向けて勉強を頑張っていた。
一真は元々努力家だったし、今まで勉強をさぼっていたというわけでもないので、本腰を入れて取り掛かれば成績が伸びるのもすぐだった。
三か月もすれば先生も驚くぐらいに点数を伸ばしていたし、今では僕と近い成績を取ることもある。
「すごいよ、一真!理科なんて、僕より良い点数!」
「ありがとう。照が効率のいい勉強法を教えてくれたおかげだな。
先生も面談で、この調子で行けば○○高校が十分に目指せるぞって言ってくれた」
「そっかぁ……。やっぱり、一真はすごいや」
「いや、部活をしてないぶん、時間が余ってるだけだ。
俺は家の事だって照みたいにはしてないしな」
それでも、そう簡単に好成績は取れるものじゃない。
努力を積み重ねられるのは、それだけでもすごい。
その上で結果を残せるのは、本当にすごいことだ。
僕たち二人は嬉しくなって、学校が半日で終わる今日は、久しぶりに息抜きをしようということになった。
「そういえば、二人でゲームをするのも久しぶりだね」
「ああ。最近はあんまりソフトも買ってなかったしな」
街に出てどこかに出かけてもよかったけど、夏の日差しは思ったより強烈で、いつも長袖を着る僕には辛い。
結局、僕の家でのんびりすることにした。
一真は勉強を見てくれた礼だと言いながら、僕の好きな桃や蜜柑にお煎餅、それにカルピスまで買ってくれて、荷物まで自分から持ってくれた。
「僕の好きな物、覚えててくれたんだ」
「だいぶ前だけど、照に晩ご飯を作ってもらった時、好きなおかずにしてもらったからな。
お返しのつもりだ」
制服の上着を脱いでリビングに座り、二人で寛ぎながらゲームを始める。
僕としては一真と一緒に居られれば、どこだって大差ない。
こうやってまた、二人でいることが出来て嬉しい。
僕は、このまま、これでいい。
――君は、こうしているだけでいいの?
僕の心に、何かがささやく。
その言葉を無視することができず、僕は心の中だけで答える。
そうだ。僕はこれでいい。
せっかく元に戻れそうなんだ、もう二度と、一真との関係を崩したくなんかない。
――君はそうやって、ウソばっかり。
本当は、修三くんと陽子さんや、三萩さんと魚住くんみたいになりたいくせに。
”あの人”に言われた言葉を、今でも引きずったままでしょ。
だけどね、目を逸らすなんてこと、君にはできないんだ。分かってるよね?
目を逸らしてる……わけじゃない。
ただ、一真に迷惑を掛けたくないだけだ。
僕なんかが、この気持ちを正直に伝えて何になるっていうんだ。
――君は、傷つくのを恐れているだけだよ。それはごまかしだ、本当はそうじゃない。
だから伝えようともしない。最初から諦めて、現状を変える努力もしない。
誰かに言われるまま、流されてきただけじゃないか。
”なりたい”なんて欲望だけは立派に持っているくせに。
……。
――君を責めたいわけじゃないんだ。
君はあの時、父さんを選んだ。その気持ちはウソじゃなかった。
それは『ボク』にだってわかってる。
だけど、もうイヤなんだよ、こうやって『ボク』が押さえつけられるのも。
好きな人に、想いを伝えられないのも。
……。
――それとも。
君が惹かれた相手って、そういう人だったの?
……違う!一真は、”あの人”なんかとは違う!
じゃあ、自分の気持ちを隠す必要はないよね?
……きっと、一真なら。僕の事を受け入れてくれる、かもしれない。
だけど、もし万が一、”あの人”と同じように言われたら。拒絶されてしまったら。
僕は父さんのように耐えられる自信がない。
いや父さんだって、深く傷ついていた。僕の前では隠していただけだ。
きっと、そうだ。
――どうやらまだ君は、傷つくことを心から恐れてるみたいだね。
自分を認めることも出来なくて、苦しんでいる。
でもそんな『僕』を、『ボク』は、認めないよ。
『ボク』は、今よりずっと、一真の大切な人になりたいんだ。
……分かったら、早く出て行ってよ。
僕だって、一真の大切な人になりたいに決まってる!
だから、何も言わずに、口を閉じていようとしてるのに……!
元はと言えば、ぜんぶ『ボク』のせいじゃないか!
『ボク』さえいなければ、こんな、こんな……っ!!
――ああ。出て行ってあげるよ、”君の意識”に、ね。
その瞬間、僕の思考がノイズにかき消されるように、途切れた。
18/10/21 20:18更新 / しおやき
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