読切小説
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罪を背負う者
 僕は一つ目の魔物――ゲイザーである彼女と、互いの唇を味わうようにキスをする。
 一方的に貪られるような口づけからは脱却できたが、愛撫が終わる頃にはいつものように彼女が主導権を握るだろう、と思った。
 綺麗なシーツのように白い肌と、幼子みたいに細いのに柔らかな肢体は圧倒的な手触りだ。
 しなやかな彼女の黒い指で性感帯をなぞられると、電気が走ったみたいに快楽が走る。

「へへっ、オマエのココ、もうこんなにカタくなってるじゃねえか。
 たまには焦らしてやりてェけど、こっちももうガマンできなくてよっ……♥。
 今日も意識が飛ぶまで、アタシ以外をぜーんぶ忘れるぐらいに愛してやる♥」

 結局の所、主導権なんてどうでもいい。
 どちらかが先に愛した分、また愛し返されるのだから。
 そう思いながら、僕は今日も彼女に搾り取られる。
 いつまでも慣れる事のない暴力的な快感とともに、僕を包みこんでくれるのだ。

「アタシが孕んで、オマエの子を産んで育てて。
 そんでその後も、その後も、その後も、その繰り返しだ。
 最後まで――付き合ってくれるよな」

 


―――――――――――――――――――――――――――――――





 賑わいを見せる大通りからは少し離れた、小さな本屋。
 ここは小規模ながらに小奇麗だし、本の種類も扱い方も申し分ない。
 喧しくもなく、人の出入りもそう多くなく、本を物色するのにはうってつけな場所だ。
 冒頭の部分だけを覗いて、気に入ったものがあれば買って帰る。読み終わればすぐに売る。
 いつものように僕は、そういう方法で本を探していた。

 今手に取った黒い装丁の本をぱらぱらと読んでみるが、出だしの展開が少し遅い。こういう本は判断するのに迷ってしまう。
 一度本を閉じ、棚に戻すべきか、買っていくかを悩んでいると、

「それ、面白いぜ」

 という声が聞こえた。少し低い声だが、少女らしきものだった。
 横にいたのは、目深に黒いフードを被って顔を隠した誰か。背丈はちょうど僕の目線の高さぐらい。肌のほとんど見えない黒の外套に、黒い手袋、黒い靴下。音の鳴りにくそうな革靴。ほとんど黒ずくめだ。
 こんなにあからさまに怪しい外見なのに、彼女からは敵意も警戒も感じられない。
 仕事柄、そういう物には敏感なつもりだが、それでも何も感じないのだ。

「どこまで読めばいい?」

 僕は彼女に返答してみる。

「二章から、本当の意味で物語が始まる。そこまでは読まないと損だ」

 それは一見落ち着いているが、どこか興味を抑えられないような声だった。 
 口ぶりからして、彼女はこの本を読んだことがあるのだろう。
 確証などあるはずもないが、疑うこともしない。

「じゃあ、読んでみる」

 そう言って、僕は他のものと一緒に手持ちの本を店主へ持って行く。
 滞りなく取り引きが終わってから、僕は少女がいたであろう場所へ視線を向ける。
 しかしそこにはもう誰もおらず、木製の玄関扉の閉まる音だけが聞こえた。




 三日後。
 買った本を読み終えた僕は、この前と同じ店に来ていた。売却もここで行えるからだ。
 店に入ると、店主よりも先にあの黒いフードを被った少女が目に入る。
 少し迷ったが、僕は件の少女に近づいて、この前買った黒い本を見せながら言った。

「ありがとう。この本はとても面白かった」

 フードの少女はやはり顔を隠したまま、こちらを向いて答える。

「だろ?」

 フードから覗く少女の口元は笑っていた。
 それで思わず、その本の感想まで口にしてしまう。

「ああ。聞いた事のない作者だから迷っていたけど、一人一人の考えや行動の書き方が丁寧で、主人公の人柄が特に印象的だった。
 それでいて、複雑な人間関係を分かりやすく書いている。
 二章が本当の始まりだと言われたけど、それさえも前座だったのには驚いた」
「あまり売れ行きが良くない本だからな、掴みが弱いのは明らかな欠点だ。
 しかしそれも覆すぐらいの展開が待っている。裏切られた気分だろ」
「良い意味でね。……ところで、君は本には詳しいようだけど」
「詳しいって程じゃない。他のヤツより読んでる時間がちょっと多いだけだ」

 謙遜するようにまた笑うと、特徴的なぎざついた歯がちらりと見えた。

「じゃあこの店で、他にオススメできる本を教えてくれないか」
「……そんなモン、どうしたってアタシの好みになるが、いいのか?」
「経験は狭量かもしれないけど、嘘はつかない。当てもなく探すよりはよっぽどいい」

 なるほどな、と言って少女はくつくつと笑った。



 一度溜まった本を売却してから、フードの少女と会話を交わす。
 彼女はその小さい外見からは想像できないほど、本について詳しく、真摯だった。
 僕と同じくフィクションの作品を好むのも運が良かったと言える。
 その日から、僕と少女は時間を決めて色々な本屋で待ち合わせをするようになった。

「――つまりこの作者は、家族だから無条件に愛情が生まれる、という書き方をしているわけじゃないと思う」
「そうだな。だからこそ苦しんでいる家庭を描いているんだろう」

 顔を合わせれば、その日までに読んだ本の感想や評価を言い合う。
 
「――この作品は幸せな終わり方を明示しないのがどうにも心残りだが、意思の力をあれだけ書いた後でこのエンディングだ。だからこそのぼかしなんだ」
「確かに、二転三転はしていたけれど、ほとんどが主人公の決意によって物語が動いていた。他の著者がこの作品を人間賛歌だと書いていたのは、そういう事なのかもね」

 互いの意見は言い終わるまで口を出さず、感情だけで頭ごなしの否定や肯定をしない。
 少なくとも、僕にとっては有意義な時間だった。

「”ゲイザー”という魔物は初めて見たけれど、『暗示』で相手の意思を操れるはずの彼等もまた、悩むことがあるのかな。
 万能な生き物なんてないと、作者は言いたいのかもしれないけど」
「いや、そもそも『暗示』なんてモンは、そんなに絶対的な強さを持っちゃいない。
 だが……そうかもな。なまじ相手の事が分かるぶん、より思考は複雑になるだろう。
 まあこの本みたいに、魔物に惚れるヤツがいるってんならの話だが」
「作者のあとがきにはスケッチのような絵が載せてあったね。
 でも、これは蛇足だと思う。この絵には文で描写していたような醜悪さが欠片もない。
 ちょっと魅力的に描きすぎたんじゃないかな」
「……そ、そっか。オマエも、相当な変わりモンなんだろうな」

 僕たちはお互いの正体を詮索しなかった。暗黙の了解だった。
 彼女について僕が知っているのは、自分から名乗った”アムネス”という名前だけ。
 顔も素性も知らない、奇妙な逢瀬。
 そうでなければ、気兼ねなく彼女と話す事など出来なかっただろう。
 自分のしてきた「仕事」に特別な感情は持たないようにしてきたが、それが誰からも忌避される物である事ぐらいは理解している。
 異端であり、害悪であり、表立って肯定される事などあり得ない。
 だからこそ、たとえ一部でも自分を曝け出せるこの機会が、僕にとって特別なものになっていくのは当然だったのかもしれない。



 彼女と話を終えて、帰路につく。
 借家の玄関には、扉の隙間から通したらしい「仕事」に関する手紙が落ちていた。
 僕は色々な国を転々としてきたが、住むのは一定以上の規模がある街で、かつ社会の暗部を取り仕切る「組織」がある場所だけだ。
 そして街にあるその組織支部からの、初めての依頼。

 いつものように準備をして、警備や周辺地理の情報を集めて、必要な事を必要なだけ用意した上で、依頼を完了させる。
 なんら変わる事のない、一つのルーチンだ。



――――――――――――――――――――――――――――



 僕は五歳より昔の事は、何一つ覚えていない。

 物心ついた時にはもう僕に親はなく、育ての師匠がいるだけだった。
 両親の顔も愛も憶えていないから、たとえ生きていようと探す気もなかった。
 だから僕を育てたのも作り上げたのも、師匠ただ一人である。
 厳しい人だったが、理由なく怒る事も褒める事も一度もなかった。
 ただ、自分の持てる物を余さず教えてくれる人。それだけだった。

 師匠は何も持たない僕に最低限の教養と「生きる術」を教えてくれた。
 それはとても簡単に言えば「人を暗殺する技術」だ。
 幸か不幸か、僕にはその素養があったらしく、師匠から学べるだけの技術を全て学んだ。
 何故僕にそれを教えたのか、という事だけは最後まで教えてくれなかった。
 それ以外に教えられる物がなかったのか、そうでもないのか。それすら分からない。

 口癖のように、戒めのように師匠は「生きるためだけに殺せ」と僕に言った。
 それは正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。
 師匠が病気で亡くなってから何年が経っても、僕にはどちらか分からなかったが。

 生前の師匠が手回しをしていたのか、僕という存在の噂を聞きつけたのか、師匠が亡くなってからも暗殺の依頼は届いてきた。
 それを断ったことこそないが、喜んで、楽しんで何かを殺した事もまた、一度もない。
 相手が死に値するものかどうかを考えた事もない。
 依頼以外で誰かを殺した事もない。

 僕に言わせればどんな依頼も「仕事」であり「作業」だった。
 動物を食べるために殺すのと同じ行為。それ以上の罪悪感はない、はずだった。
 いつか僕の犯歴が暴かれようとも、僕がしてきたのと同じ事が自分に返ってくる、ただそれだけだと。

 依頼で得た金は多かったかもしれないが、生活に必需な物以外はほとんど買っていない。
 豪華な暮らしも食事も酒も女も興味がなかった。
 試したことはあっても、師匠の訓練のせいもあるのか、そんな物では自分を忘れて酔えなかった。
 同じ所に留まりすぎるのも危険だと教わったので、親密になった相手もいない。

 趣味と言えるものがあるとすれば「読書」だった。
 とはいっても、知識を得る為の本はあまり読まない。
 僕が読むのは、空想の物語を描いた本。
 自分ではない誰かの人生を体験できるような、そんな世界に引き込んでくれる本だ。
 暇が出来れば町の本屋を巡り歩く生活が、ここ何年も続いていた。
 
 そしてある日、あの少女に、アムネスと出会った。
 いつしかこんな時間がいつまでも続いてほしいと、祈ってしまっていた。
 生きて、彼女とまた会う為なら、心に降り積もる何かにも耐えられた。
 だからこそ「仕事」に、また赴く。
 








 
 しかし。
 結果だけを述べると、全ては失敗した。

 忍び込んだはずの潜入はたちどころに発覚した。
 そして僕は貴族の住む、巨大な城の地下廊下で、二人の「勇者」に前後を挟まれた。警備に雇うにしても、明らかに異常だった。
 勇者とは人でありながら人間を超える、特別な素養を持った者達だ。
 暗殺であればまだしも「戦う」事に関しては、一対一ですら彼らに及ばないだろう。

「薄汚い暗殺者め。お前は魔物以上の悪だ、捕えて見せしめに処刑台へ立たせてやる」
「もう逃げ場はない、抵抗しないのなら死に方ぐらいは選ぶ権利をやるぞ」
「……そうか」

 歴然とした武具を持っていない所を見ると、二人の勇者は魔法を主な武器としているらしい。今この場では僕を殺す気がないのも窺える。
 どちらにせよ、状況も戦力差も明らかだ。ここで運良く逃げ出せたとしても、この街を無事に脱出できる可能性は一割もないだろう。「組織」が僕を庇うとも思えない。
 どうせいつかはこうなると、心の中では分かっていた。早いか遅いかの違いだけだ。 
 僕は考える事を止めて、その場に立ち尽くす。

「ふん、所詮は不意打ちしか能のない殺し屋か。面白くもない」

 風魔法の一種だろう、空気を切り裂くような音と共に、背後から僕の足を何かが切り裂いていく。
 巨大な切り傷が足の至る所に付き、血が流れる。
 師匠から痛みを最小限にする訓練は受けたが、動作の支障を無くす事までは不可能だ。
 この足では回避行動も満足には出来ない。

 立つのがやっとの僕に、前から氷柱のような何かが飛来してくるのが分かった。




 しかしその氷柱は空中で静止したかと思うと、溶けるように掻き消える。




 そして僕の目前に、見覚えのない――いや、いつか本で見た魔物が立っていた。
 背中から十本の触手と、黒い尾を生やして宙に浮いている。
 体格だけは幼子のようにか細く、癖の付いた長い黒髪と白い肌をした少女にも見える。
 本に書かれている内容が正しいのならそれは、”ゲイザー”の姿だ。

 少女を挟んでさらに先にいる勇者が、唐突に糸を失った操り人形のように倒れた。
 何が起こったのかは分からない。ただ、魔物の少女がこちらに振り向く。
 人間とは違いその顔には、大きな赤い目が一つあるだけだ。

「話はあとだ。あいつから計画を聞き出してからな」

 放心する僕でも、その声には聞き覚えがあるのは分かった。
 僕が振り返ると、狼狽するもう一人の勇者が魔法らしきものを放ってくる。
 だが雷も炎もまるで魔物の少女が受け止めるかのように掻き消えて、僕に届くことはない。
 ふわふわと浮いて近づいてくる魔物から、勇者は背を向けて逃げ出そうとする。
 しかし、その勇者の足の動きだけが突然止まって、思い切り全身を床に打ち付けた。

「逃げるのが遅すぎるぜ。”ゲイザー”についてはお勉強で習わなかったのか?
 どちらにせよ、魔法でアタシに勝とうなんて愚を通り越して賞賛したいぐらいだがな」
 
 魔物の少女――ゲイザーは、動けなくなった勇者の首根っこを掴むと、わざわざ僕の前まで連れてきて投げ出す。

「『アタシらに聞こえるように、今日までのお前らの計画を話せ』」

 魔物の凄む声は低く、脅すように。
 怯えた目で魔物の眼を見つめる勇者は、ゆっくりと言葉を吐き出していく。


 まず、今回の依頼はどう考えても偽物であり、いうなればマッチポンプだったこと。
 貴族である城主は僕の素性について知っていた。
 そして『暗殺者を革命派と称して捕え、処刑した上で自分たちの力を誇示し、民衆の反感を抑制させる』という目的で、偽の依頼をしたのだ。
 勇者たち――いや実際には「勇者崩れ」である彼等は、犯罪者を捕える事で金と名声を得るという、持ちつ持たれつの関係だったらしい。

 勇者崩れは「組織」がこの件に関与しているかどうかまでは知らないようだ。
 もっとも、以前から貴族と「組織」が裏で関係している可能性もあるし、知っていても見て見ぬふりをしたかもしれない。
 今回の件は公に出来ない「組織」への、牽制でもあったかもしれない。

「お、俺達は、雇われただけだ。金も名声も手に入る、悪い人間も始末できる、そう唆されて……」
「なるほど、な」

 魔物の少女が淡々とうなずく。

「そこまで聞けりゃもう用はねェ。イイ夢見せてやるぜ、『眠ってな』」

 その言葉と共に少女が一睨みすると、勇者崩れは意識を失ったようだった。
 そして彼女は僕の方を向く。

「……さて。これでオマエにも事情はわかっただろ?」

 赤い一つ目と、背中にある触手の先端についた十の目玉が僕を睨む。
 人外としか言えない姿だが、恐怖も嫌悪も感じない。
 見覚えがあるから、きっと僕が知っている誰かだから、なんて理由ではなく。

「二つだけ、聞きたい事がある。
 君は、ずっと僕と本の話をしていた、あのアムネスなのか?」
「ああ、そうだ」

 僕の質問に少女はただ答えた。

「もう一つ。今まで僕がやってきた事は知っていたはずだ。
 そうでなければ、こんな所に偶然現れるはずがない。
 なのにどうして、それも魔物が、僕の事を助けた?」
「……それは」
 
 明らかに言いよどんで、アムネスは僕から目を逸らす。
 そしてか細い声で言った。

「オマエに死んでほしくなかった。それだけだ」







 アムネスは、僕に遠く離れた親魔物領の国に移るようにと言った。
 僕の過去を知る者もなく、かつ「組織」の手が届かない場所だ。
 それについて僕は反論する事もなく、そして何の障害もなくスムーズに事が運んだ。
 僕のそばに彼女がいて、かつ周到な根回しをしていてくれたからだ。

 僕は最初、住処が決まってからも僕と一緒にいようとするアムネスを拒絶しようとした。
 
「ここまで面倒を見てくれてありがとう、幾ら礼をしても足りない。
 でも、後の事は僕一人でなんとかする。君はまた前と同じ生活に戻ってくれ」
「……イヤだね」
「君は僕と本の話がしたいだけだろう? それなら、一緒に住む必要なんてない。
 どこか適当な場所で決まった時だけ会えばいい」
「イヤだ」
「君には心から感謝している。だからこそ、これ以上余計なことで会いたくない。
 僕の歪んだ人生に、君を付きあわせたくないんだ。
 僕と一緒にいたら、君まで――」
「――っ、うるさいうるさいうるさいっ!
 『オマエはアタシと一緒に暮らす』んだ!分かったな!」

 アムネスの赤い目が光った、ような気がした。
 それとともに、彼女に反論しようという気持ちが失せていく。
 そうだ。彼女と過ごせるなら、こんな素晴らしいことはないだろう。
 心のどこかで芽生えていた感情が、どんどん膨らんでいく。

「……ああ、ごめん。本当は、君といたかった。
 ただどうしても、君の口からそれを聞きたくて……」
「……分かってるさ。オマエの面倒は、アタシがちゃんと見てやる」

 アムネスとの生活自体には、大きな問題はなかった。
 最初こそ互いの事が分からず手探りだったが、元々は二人とも一人暮らしだった事もあり、自分のすべきことは分かっている。
 彼女は僕の傍でフードを被ることはなくなっていき、微笑んでくれることも多い。
 やはり豪華な暮らしではなかったけれど、平穏な日々だった。
 そうして一緒に暮らしていくうちに、親密さはまた熱を帯びていった。
 やる事は二人で共有していったし、まっとうな仕事もこなせたし、農業も学んだ。

 ――だからこそ。
 僕がやってきた「仕事」は、どうしようもなく悪だと感じる。
 ”生きるためだけに殺した”なんて、虚偽も良い所だ。
 今の僕は、人の命も奪わずに生きられている。
 僕がやってきたのは結局、無意味で無価値な、命を奪うだけの行為でしかなかった。

 それは――アムネスを愛したくて身体に触れようとする度に、嫌でも思い出す。
 人の命を奪う時の感覚。
 気づいた。
 僕が今まで自分から相手の身体に触れたのは、それが相手を殺す時だけ。
 そう気づいてしまった。
 
 殺人鬼のお前に、誰かを愛する資格はない。
 そう心の中で囁いたのは、きっと僕自身だった。
 

 しかし、ゲイザーであるアムネスに隠し事は不可能だった。


 察しのいい彼女に『暗示』を掛けられ、僕は己の心情を吐露させられる。
 そうして僕の内情と罪を知った彼女は、僕を連れて今まで住んだ場所を廻ろう、と提案してきた。

「カンタンな話だ。死んでしまったのなら、もう一度生き返らせればいい。
 そうすれば全部元通りになる。これ以上にシンプルな方法はねェ」

 アムネスに言わせれば、魔物にとって死んだ人間を生き返らせることは難度の差こそあれ、不可能ではない。
 実際、僕が過去に行った国にも親魔物領と成ったためにアンデッドが生まれるようになった所があるらしい。
 つまりその要領で今までで死んだ人間を救っていけばいいのだ、と。

「……本当に、そんな事が?」
「ああ、やろうと思えばアタシにだって出来る。壮大な準備はいるかもしれねェが。
 それぐらい、魔物にとって『死』は身近で、遠い何かじゃないんだ」
「……ごめん。また君を巻き込むことになる……」
「いまさら謝ったって、許してやらないぜ」

 そして僕とアムネスは旅に出た。
 はっきり言って、困難な旅ではなかった。
 どこもそれなりの規模の国だけあって、移動には彼女の転移魔法が使えたからだ。
 だが一番の理由は、僕が住んでいた国にはもうすでに、いつの間にか魔物たちが潜んでいたという事である。もっとも、彼女もまたそうやって生活していたのだから、不可解という程でもない。
 僕とアムネスは「仕事」の経験と魔法を生かして各地に潜入し情報を集め、主に斥候の一員として働いた。
 それから機が来たところで、それを扇動する役目を担っただけだ。
 国は一つずつ変わり、魔物娘たちと共存するようになり、それにより亡くなった人々も生き返っていった。

 そうして僕は、自分が殺した相手に謝罪をして回った。

「私は、恨まれて当然の人間だった。遅かれ早かれこうなっただろう」

「正直、死んだことよりもあの人に嫌われていた事の方がショックだよ……」

「え? あたし死んでたの? そっかー、どおりでなーんかふわふわしてたわけだー」

「この野郎、よくも俺を……いや。どうせお前も他の奴も、死んだって生き返れるんだろ?
 ……じゃあ、怒るのも疲れるだけで損だな。謝罪代わりに酒でも奢ってくれ」

 魔物と成った事もあって、亡くなった本人は誰一人として僕を強く責めなかった。
 当人の家族や周りの人間には僕を恨む人間もいたが、皮肉な事に死んだ本人がその矛を収めていた。



 全ての国を廻り、全ての人間を蘇生して、全ての相手に謝罪をした。
 そして僕とアムネスが暮らし始めた場所に、僕達の家にまた戻ってきた。
 寝る前になってようやく、僕と彼女はベッドの縁に座って話し始める。
 
「どうだ? これで、オマエの気も晴れただろ?
 過程はどうあれ、全部元通りになったんだ。だから――」
「……違う」

 ぽつり。アムネスの眼を見ずに、見れずにうつむいた僕が呟く。

「殺したけど生き返ったからいい、許されるだなんて、間違ってる。
 何もしないよりは全然良かった。本来届かないはずの謝罪だって受け入れてもらえた。
 でも、それがなんだ? 僕が人を殺した事実は、どうしたって絶対に消えない」
「そんな……辛い記憶なら、アタシが……」
「知ってるよ。君が毎日、密かに僕に暗示を掛けてくれている事も。
 それでも、それでも完全に忘れる事なんて出来ない。
 本来何かを殺すってことは、それぐらい重いものなんだ。そうでなきゃダメなんだ」

 彼女はゆっくりと僕の身体を抱こうとしたけれど、

「やめてくれ」

 僕が喋ったことで、その動きを止める。

「結局僕には、君に愛される資格も権利もない。
 あの勇者崩れたちに襲われた時、僕は死んでいれば良かった――」

 突然、僕の頬に重い衝撃が走る。
 鈍い痛みと、困惑。
 数秒経って、アムネスが僕の頬を平手で叩いたのだと分かった。

「……もう一回言ってみろ。次はこんなもんじゃ許さねェぞ」

 彼女の眼から、一筋の涙が零れている。
 それと同時に。
 爆音と衝撃が、僕達二人の身体を揺らした。

「な――」
「伏せろ!」
 
 彼女は僕を素早く床に突き飛ばす。
 色の付いた衝撃波のような何かが僕の身体の上を掠めて飛んでいく。
 それは部屋の一部を破壊し巻き込みつつ、遠くへと姿を消した。
 すぐに体勢を立て直してアムネスを探すが、さっきいたはずの場所にはもう姿がない。

「さすがに魔物だけあって、勘がいい。とはいえあの一瞬では転移できるはずもないか」

 壊れた壁の隙間から、目出し帽のような覆面を被った何者かの顔が覗く。
 そして残った壁を乱暴に蹴り壊しながら、魔法を放ってきたであろう相手が姿を見せた。
 僕は努めて冷静に、対話を試みる。

「お前は、誰だ」
「名乗る意味はない。お前が殺した人間の仇を取りに来た、用はそれだけだ」

 相手の顔は分からない。声だけでは誰の仇か判別しようもない。
 分かったとして、今この場で相手を無力化させる為の情報にはならない。

「彼女をどこへやった」
「彼女……? あの魔物のことか?
 魔法を避けきれずに喰らったのだろう、向こうに姿が転がっている。
 あの程度で死ぬとは思えんが、動かない所を見ると意識を失っているのかもな、好都合だ。
 殺すのは、一人だけでいい」

 今すぐにでも振り返って彼女の安否を確認したいが、隙を見せれば一瞬で終わる。
 そう感じるほどの執念と殺意を、この人間から感じた。

「……長かった。故郷を離れて何年も腕を磨いた。雲のようなお前の情報を集めた。
 安心しろ、抵抗しなければ惨たらしく殺す気はない。
 お前が全ての相手にそうしてきたように、一瞬で終わらせてやる。
 せめてもの慈悲だ」

 敵とは三歩ほどの距離だ。
 自分に武器はないが、相手は実戦経験には乏しいと見える。攻撃を避けるぐらいは出来るかもしれない。
 だが相手は細身の剣を持っている。魔法も準備している。両方のパターンを見切って完全に回避するのは難しい。
 それに、避けれたところで何の意味がある?
 ここまで追ってきた相手の怨恨がそう簡単に消えるとは思えない。

「……分かった。覚悟を決める」

 下手に僕が逃げれば、アムネスにまで――。

「さあ、死を味わえ」

 そうだ。これはきっと、贖罪の機会なのだ。
 僕が一度死んだとしたって、僕らがやってきた事のように、きっと生き返る事が出来る。
 それなら僕はここで殺されるべきだ。それがこの人も僕も納得させられる答えだ。
 素晴らしい。そう思うと、僕の身体はぴたりと動きが止まった。

 剣の切っ先が僕の心臓目掛けて突きだされる。淀みのない動きだ。
 後は目を瞑って、死ぬだけ。
 これでようやく僕の業が潰える。罪が終わる。















 だが、いつまで経っても痛みがない。刃の感触も、流れる血も感じない。
 










 
「黙って……聞いてれば、どいつもこいつも――勝手ばかり、抜かしやがって」

 すぐ近くで響く彼女の声。
 たまらず僕は目を開ける。
 僕に突き立つはずの剣の刃が、アムネスの背中から覗いている。
 
「『お前は、殺すべき相手の身体を剣で刺し貫いた』」

 剣から、彼女の身体から、血のような液体が滴り落ちる。

「『嘘じゃない。この感触は、確かに人を殺す勢いで突き刺さったものだ』――ぐっ、がぁッ」

 血で塗れた細身の剣がゆっくり引き抜かれていく。
 それと共に、凶器という栓を失ったアムネスの傷口からまた血が流れ出す。

「――『終わりだ。騒ぎを聞きつけて誰かが来る前に、ここから去るべきだ』」
「……ああ。さらばだ、殺人鬼。いつか地獄で会おう」

 覆面の人間はそう言うと、一瞬で姿を消した。
 同時に、彼女の身体がゆっくりと膝から崩れ落ちる。
 気が付くと、僕はアムネスに駆け寄っていた。

「バカな……なんてバカな事をしたんだ!
 あのままで良かった!僕が刺し殺されるだけで良かったんだ!
 どうして、どうして君が死ぬ必要があったっていうんだ?!」
「おい……勝手に、殺すんじゃ、ねえよ。
 ヒトなら、万が一でも、死ぬかもしれねえ、が、アタシは、魔物なんだ。
 急所は外した、あんな細え剣で、刺されたぐらいで、死ぬかよ。
 お前らを見てる間に、治癒魔法も、準備した。血はすぐに止められる、心配すんな」

 確かに、少しずつ傷口の血は止まっていっている。荒々しい息も収まりつつある。
 命に別状がない怪我なのは事実かもしれない。
 それでも、叫ばずにはいられない。

「そういう事じゃない!僕のしてきた罪と君は無関係じゃないか!
 君が僕の代わりに傷つく必要なんてどこにもない、それなのに……っ」
「知らなかったか? こう見えてもアタシは……お節介焼きなんだよ。
 復讐心をうやむやにする為には、暗示の上からあいつに虚偽でない「実感」を与えてやる必要があった。一時的にしか残らない暗示だけじゃあ、時間稼ぎがいい所だ。
 なんせ手に残った感触は本物なんだ、アイツはオマエみたいに悩むかもしれねェ。
 だからって……好きなヤツが傷つく所なんて、見たいワケないだろ?」
「ああそうだ!僕だってそうだ!僕は死んだっていい、でも君が傷つくのは――」

 そっと、アムネスの真っ黒い手が僕の頬を撫でる。

「また……言いやがったな。
 だがまァ、オマエも泣いてるんだ。今回は、仕方ねえってコトに、しておいてやる。
 きっと自分の痛みより、アタシの痛みの方がオマエには響くだろうからな」

 そう言われて初めて、僕の頬に涙が伝っているのに気づく。

「あ……」
「それに、やっと。お前のほうからアタシの事を抱きしめてくれたってワケだ」

 にやり、と彼女の口元が笑う。
 そんなこと、自分の怪我に比べれば些事なはずなのに。
 それでも、とても大切な事のように彼女は言った。

「……なあ。
 誰がどうしたって、オマエの苦しみを完全に知る事はできない。
 暗示でさえダメなら、きっとどうしたってその罪を取り除く事はアタシには無理なんだ。
 だけど、それを少しでも減らしたい。その為にはなんだってしてみせる。
 アタシに格好つけさせろって言ってんだ」
「……だからって……こんな、」
「ばぁか。
 本当にオマエが他人の痛みを理解しようともしないヤツなら、こんな事しねェよ。 
 でも……違うんだ。
 皮肉な話だが、暗示で消えない感情ってのはつまり、それを『消したくない』と奥底で強く願ってる事の裏返しでもある。
 こうやってアタシが傷ついた事にも泣いてくれる、オマエは立派なニンゲンだ。
 他の誰もが、オマエ自身がそう言わなくても、アタシだけは言ってやる。何度でも」

 剣で刺し貫かれてなお笑うその姿は、魔物らしさに溢れている。
 その時初めて、彼女を、アムネスを人外だと認識する。
 僕が思うよりずっと、彼女は何もかもが強かった。
 人間の僕が敵うはずもないのだ、と。

「ふうっ……落ち着いてきたから、もう一つだけ言っておくぜ。
 死んでしまったのなら、生き返らせればいい――それはそうすべきかもしれない。
 だがそれでチャラだなんて、アタシが本気で思ってるワケねェだろ。
 『自分は死ぬべきだ』なんて言うオマエに、本気で怒るかよ」

 周りから、誰かの声が遠くに聞こえる。
 いくら血が止まったとはいえ、早く彼女を医者に診せなければいけない。
 念のために自分の上着を使って傷口を抑えてから、僕はアムネスを抱きかかえる。

「誰だってアタシだって死にたくない。それにオマエが死ぬのはもっと見たくない。
 でも、オマエの罪悪感を癒してやりたくて……つい余計な事まで言っちまった。
 それが結果的には、オマエを追い詰めたんだ。
 だから、アタシを許してくれ。オマエを庇った分、おあいこって事でな」
「そんなの……不釣り合いだ。君が、僕のせいで、痛みを負うなんて……!」

 なおも涙が溢れるのを堪えながら、僕は人がいる方へ走っていく。

「おいおい、アタシへの気持ちと罪悪感をごっちゃにされるのは困るぜ。
 そう思うんなら、もっと心の底からアタシを受け入れてみろってんだ。
 ま、オマエの気持ちは本心だって分かったし、それなら暗示でどうにでもなる。
 覚悟しな、もうオマエはアタシの眼から逃げられないってよ――」






 その後。
 小さな診療所に運ばれてからたったの三日で、アムネスは傷をほとんど完治させた。
 療養中、僕はつきっきりで彼女を介抱し、精を補給し続けたからだ。
 「初めては特別にしたい」と言われたので実質的な性交こそまだだが、出来る限り身体を触れ合わせて、彼女に快感と精を送れるよう努力した。
 罪悪感が消えたわけではなかったが、彼女を治す為という大義名分と、あの一件で伝わったアムネスの覚悟が僕を後押ししてくれて、彼女の愛を拒否するような事もなかった。

「家が完全に直るのには、もう少し掛かるって。
 でも寝室は一番に修繕してもらったから、退院しても問題はないよ」
「そっか。なら、早く帰ろうぜ。
 その……ずっとお預けされてるみたいでさ、正直もう我慢できねェんだよ。
 今だってオマエの精液、ナカで受け止めたくて……子宮が疼いてるんだ」
「……ごめん。実は、僕もなんだ。すぐにだって、君と繋がりたい。
 君の身体を抱いていたあの時から、その手触りと心地よさが忘れられなくて……」

 互いの真っ直ぐな言葉に、どちらともなく失笑する。

「へっ、へへへっ」
「っ、あはっ、あははっ」



 それから子を授かるまでの日々はなんというか、堕落に満ちていた。
 眠る時間さえ惜しくて、朝から朝まで身体を重ねて、お互いを求めあうような日々。
 僕が人間からインキュバスへと成ったのもこの頃だ。
 思い出そうとしてもはっきりと思い出せないぐらい、ぐちゃぐちゃだった。
 体液で汚れたシーツが乾く暇もないぐらいに肉欲で塗れていた。



 そしてまた年月が経ち。
 初めて身体を重ねるようになってからおよそ二年後、アムネスが妊娠したと診療所の先生に報告を受けた。
 アムネスのお腹の中に、新しい命が宿ったのだ。
 今の所魔物から産まれるのは魔物、つまり女の子だけらしいが、近いうちに人間の男の子も産まれるだろうと期待されている。

「そっか……アタシ、お母さんになったんだ」
「僕も、お父さんになるんだね」

 彼女のお腹に耳を当てると胎動が感じれるようになった頃、こんな話をした。

「オマエは……今でも、自分の過去に苦しんでるだろ。
 隠してるつもりだろうけど、オマエは夢でうなされていない時の方が少ないぐらいなんだよ。
 安らかに眠れるように、寝る前には暗示を掛けてるのに、だ」

 彼女の言うとおり、僕はまだ悪夢に苛まれている。
 それは一人でいた頃より、彼女と過ごしてからの方が多かった。
 幸福を感じた分、他人の不幸にも敏感になったのだろう。

「……うん。過去にした罪も、また復讐が起きて君が傷つくのも、怖くて仕方がない」
「じゃあ、こうは考えられないか?
 確かに以前、誰かの命を奪う事はあった。でも、アタシたちは新しい命を作った。
 これを繰り返せば、長い目で見れば命が増える事になる。
 もっと長い目で見れば、どんどん子供が、命が増えていくんだ、って」

 この言葉だって、きっと本気では言っていない。慰めのための詭弁だ。
 どうやら、僕はまた彼女に気を遣わせてしまっているらしい。

「……いや。やっぱり、それは死んだ人に対しての償いにはならないよ。
 それぞれの命の重さを、別の命で代えることはできない。
 たとえ十人を産んだって、誰か一人を救った事にはできない」
「ああ、そうだろうな。それでも……少しくらいの罪滅ぼしをした気にはなれるだろ?」
「……ありがとう。君がそう言ってくれるだけでいいよ。
 だから、それ以上は求めない。求めちゃいけない気がするんだ」



 それからもあっという間に月日が過ぎて、アムネスは一人目の子供を産んだ。
 彼女に似て利発そうな顔立ちの、元気な子。
 人間とは違い、出産にリスクはほぼなかったし、子供は驚くほどすぐに成長した。半年も経てば一人で歩けて、宙を浮く程に育った。
 しかし子供を抱く度に思う。
 こんな穢れた手で我が子を抱き、愛する資格があるのか、と。

「オマエ、また余計なコト考えてるんだな。もうカオ見るだけで分かるぜ。
 だがな、何があったってこの子にもアタシにも、オマエが必要なんだよ。
 それとも、この子を父親のいない子供にしたいってのか?」
「いや。自分の子供達には、両親の存在が良い思い出になるようにしたい。
 かつての自分には手に入らなかったものを、教えてあげたい。
 ……でも、親の愛を知らない僕にでも、それが出来るだろうか」
「いくら悩んでもいい、その分はアタシがカバーする。
 でもその気持ちだけは、ずっと忘れないでくれ」



 そして一人目の子供が学校に入る頃、二人目が産まれて。
 家の中は一気に賑やかになっていった。

「おかーさん、わたし、お姉さんになったの?」
「ああ、そうだぞ。この子は静かだから、オマエより大人しい子になるかもな」
「むーっ、わたしうるさくないもん!おしとやか!」
「まあまあ、元気なのは良い事だよ。だからお姉さんとして、あの子を引っ張っていってくれ」


 しかし一番騒がしくなったのは、三人目と四人目が同時に産まれたこの時期だろう。
 人間ほど育児に手が掛からないとはいえ、双子の子が産まれるとあっては出産から子育てまでてんやわんやだった。
 ついでに一番姉の子が学校で色恋沙汰を起こし始めたので、その対応にも追われたりした。
 最も忙しかった時期だと思うし、最も充実していた年代だったとも思う。


 いつしか五人目。
 六人目。
 七人目。
 八人目。
 九人目。
 そして、十人目。

 アムネスは出来る限りまで子供を産み続けて、育児をしてくれた。
 その魅力は衰える事なく、寧ろ年が重なるにつれて深みを増していくかのようだった。

 二十人目。
 三十人目。
 四十人目。
 ……五十人目。



 五十二人目の子が自立を迎えたところで――急激に彼女は年老いた様子を見せた。
 外見こそ変わらなかったが、以前なら簡単にできた事に時間が掛かるようになっていく。
 それでもわが子への世話を忘れる事など無く、最後に産まれた五十五人目が成長し、家を出るその瞬間まで、アムネスは子を育て続けてくれた。愛を注いでくれていた。
 時折、自立していった娘達から手紙が来たり、孫の顔を見せに帰ってくる子もいた。
 未婚のまま帰ってきた娘にはありがたい説教をしたりもしていたのだが。

 そして、最後の子が家から巣立っていくのを見送った日。
 恐らく初めて、僕にだけ聞こえるように言った。

「ああ、疲れた。子育てなんてコリゴリだ」

 と。

「お疲れさま」

 僕がそう返すと、

「そろそろ、二人だけでのんびりしてもいい頃だよな」
「そうだね」

 二人だけで笑って、それからは”最後”まで二人だけで過ごす事に決めた。
 死を看取りたがる人間の価値観とはズレているのかもしれないが、もうどうせ人間ではないのだ。
 『終わった後』の事は、然るべき業者に準備してもらっている。
 貴重なわが子たちの時間を年寄りが奪うこともない。
 まあそんなものは建前で、二人きりの時間が欲しかった。
 きっと理由はそれだけだ。




  
 暑さの引き始めた、心地よい晴れの秋の季節。
 僕らが初めて会ってから、もう何十年、何百年と経ったのだけれど、実感がない。
 人間としての寿命なんてとっくに超えているから、昔の僕を、人間のままで憶えている人はいないだろう。

「――それでも。罪というやつは消えないらしい」
「分かってる。どんなに穢れたモンだとしても、それがオマエの一部なんだ。
 この期に及んで、まだ受け入れられないなんて情けないコト言うなよ」
「うん。君にできて、僕にできないなんて話があるわけがない」
「その意気だ……ん?」

 玄関の呼び鈴が鳴っているのが聞こえる。

「今日は誰も来る予定じゃなかったはずだけど……何の用だろう。
 また娘が突然に夫婦喧嘩でもしたのかな」
「この前もあったしな。原因は子供の名前だったっけか」

 僕は立ち上がろうとするアムネスを制しながら、玄関扉を開けた。



 そこに立っていたのは、見覚えのある覆面の人間。
 あの時に僕達を襲った格好そのままで、そこに立っていた。

「――これは、驚いた」
「突然の来訪、失礼します。おまけに見苦しい姿で重ねてすみません。
 ですが、こうでもなければすぐに分かっていただけないと思いまして」

 そう、今僕の前に立っているのは、以前僕を殺そうと命を狙ってきた復讐者だ。
 過程はどうあれ、アムネスの身体に剣を突き刺し、傷つけた相手なのだ。
 彼女の機転でどうにかなったものの、誰かが死んでいてもおかしくなかった。
 だからこそ憎しみが――不思議なぐらいに湧いてこない。
 あの事件は廻り回った因果が戻ってきた、当然の結果だから。

「また命を奪いにきたって事は……あるわけないか。
 普通の人間のままなら、もう亡くなっているはずだし」
「とんでもない。ただ、ご挨拶が大変遅くなって申し訳ありません。
 一度は命を奪おうとした私が、また貴方の前に顔を出すこと自体、許されざる行為だと思います。
 それから悩みに悩んだ結果、あまりに長い期間が掛かってしまいました。
 そうして妻に過去を打ち明け、事実を知ったことで、私は全てに気付きました。
 今日来たのは、私の『伴侶』と『娘』を、どうか貴方に見てもらいたかったからです」

 自分の覆面を脱ぎ捨て、彼は傷跡のついた顔と禿頭の頭を曝け出した。
 掘りの深い男の顔立ちは、それだけで屈強そうな戦士の印象を漂わせる。
 男がそうしてから小さく笑って身を引くと、後ろにいる魔物たちが見えた。

「……え。ええ? いや……まさか、こうなるとは。本当に、驚きだ」
「あ、ああ。さすがのアタシもなんて言えばイイのかわかんねェな」

 いつの間にか、僕のすぐ後ろで様子を覗いていたアムネスが呟いた。

「同感です。まさか婚約を決めた相手が、貴方の娘さんだったとは。
 人生とは本よりも数奇なものですね」




 それから少しの間、家の中で談笑をした後。

「貴方が亡くなる前に、一度でも私の家族を見せられて良かった」

 彼はそう言って、踵を返そうとする。
 その背中に、思わず僕は問いかけた。

「君は、僕の罪を許したのか?」

 男は背を向けたまま首を横に振った。

「……貴方の罪を許すかどうかは、本来部外者である私が決めることではありません。
 私の大切な人を、貴方が奪った。
 でもその人は、私達のいる世界に戻ってきてくれた。
 そして、私にとって大切な相手を、貴方たちが産んでくれた。
 それだけが、揺るぎない事実です」

 禿頭の男はがっしりとした背中で語るように、そう言った。

「最後に、今だからこそ私が言えるのは。
 貴方がいてくれてよかった、ということだけです。どうか、長生きしてください」

 彼は自分の伴侶や娘たちに合図をすると、転移魔法で飛び去っていった。
 彼も、その妻、つまり僕の娘も、その子供も、幸せそうに笑っていた。
 
「あいつらも、幸せになってくれるよな」

 ぽつりと呟いたアムネスに、僕は返す。

「ああ。きっと長生きしてくれるよ」

 彼女は雲が増え始めた空を仰いで、独り言のように言う。 

「もうすぐ、冬が来るな」













 しんしんと雪の降る、冬の季節。
 終わりの訪れる季節。
 
 
 

 僕は隣に眠っているアムネスを、いつものように起こそうとする。





 けれど、起きない。その大きな赤い一つ目が開かない。
 声を掛けても、身体を揺らしても。
 眠ったまま。

 昼になっても、夜になっても、次の日になっても。



 目を、閉じたまま。



 アムネスの眼が僕を見ることは、もうない。
 身体が温もりを宿すこともない。
 こんなに安らかな、寝ているようにしか見えない表情なのに、もうそこに君はいない。
 
 そうだ。これが、大切な人を喪うということ。
 僕はようやく初めて、それを味わっているんだ。
 言葉にもならない、『悲しい』としか表せないような、見送る者の気持ち。
 折り合いなどつけようのない、重く苦しいほころび。

 同じ感情を味わえば、罪は消えたことになるのだろうか。
 同じモノを喪えば、贖罪になるのだろうか。
 彼女に問いかけてみるけれど、返事があるはずもない。
 そんな自己憐憫はどうだっていい。
 いつだって僕を支えてくれた君の声が、温もりがないだけで、消えてしまいたくなる。

 すぐにでも、また君と会いたい。話がしたい。

 僕の命ももうすぐ潰える。一ヶ月、いや一週間も持たない。
 君のいない世界で寿命以上に生き永らえたいとも思わない。
 けれど死んだ後、僕はまた彼女に会うことができるのだろうか?
 僕には、会う資格があるのだろうか?

 だから僕は、まだ残った本を読もうと思った。
 彼女は天国に行くだろうけれど、僕は地獄に堕ちる。
 それでもいつかまた会えた時のために、本を読む。あの時のように、話がしたい。
 そう思って過ごせれば、命を喪うのも、地獄で罪を洗い流すのも、きっと一瞬だ。
 君の大きな眼がまばたきをするヒマもないくらいに。



 少し落ち着いてふと気づくと、アムネスの傍には見覚えのある本がそっと置いてあった。
 これはまだ、君が魔物だと知らない時に薦めてくれた本だ。
 そこには一枚の紙が挟まっている。
 本を開いてみると、紙があるのは作者があとがきに書いた”ゲイザー”のスケッチがあるページだ。
 するとページの余白に、見覚えのない落書きが描かれているのに気付く。

 『そしてこのアムネスというゲイザーを魅力的だと言った、ヘンな男』

 という文字とともに、僕を元にしたであろう絵が描かれていた。
 いつ描かれたのかも判然としない、とても古い跡で。

 思い返すと、この本は僕が買ったものではない。珍しく彼女から貸してもらった本だ。
 スケッチの片隅に、とても見覚えのある彼女の字で”Amnes”と書いてある。
 さらには『私を描いてくれたある魔物と、ヘンな男に感謝する』と。
 借りて読んだ時は確実にこんな文字はなかった。書き足された文字だ。
 この本はたぶん、僕にとっても彼女にとっても、遠い思い出の品だったのだろう。

 挟まっていた紙にも、たどたどしい文字で文章が書かれている。
 それでも間違いなく、君が書いたものだと分かった。
 はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと文字をなぞる。

『面と向かっては恥ずかしくて言い出せなかった事だけ、伝えておきたい。
 どうしてアタシが本を読むようになったのかってコト。
 それはビックリするほどオマエと同じ理由だった。
 オマエがそう言ってたように、アタシはアタシ以外になりたかったのさ。
 見た目も、性格も、ずっと自信が持てなかった。
 そんな自信のなさを、薄っぺらい言葉やウソで誤魔化すクセがついた。
 
 でもオマエと出会って、本の話をする内に――いつの間にか、”自分”が話していた。
 最初はほんの一部だけだったのに、気が付くとウソのない本心を晒していたんだ。
 そしてそんなアタシを、オマエが受け入れてくれた。見た目も、中身も。
 きっと、オマエがいたことがアタシの救いだった。
 何度も言ってくれてたはずなのに、まだ改まっては言えてなかった事を書くよ。

 アタシといてくれて、ありがとう。
 ずっと愛しているよ。

 ただ。
 オマエの泣く顔は、もう見たくない。
 だから、自分勝手だと思われるかもしれないけど、先に行って待ってる よ
 いつだって いいカッコをしたがるアタシの さいこ の わかまま だ 
 』

 書く力さえ失っていったのか、最後の部分だけは特に字が乱れている。
 それでも必死に綴ったのは、手紙にしたのは、僕の前で弱みを見せたくなかったから。

「泣くわけ……ないよ。もう君を悲しませるのは、ごめんだ。
 少し、先に行くだけだろ? 泣いて、なんか……僕は……」

 泣いたってどうにかなる事じゃない。始まりがあれば終わりがあるのは当然のこと。
 でも何を考えようとしても、頬に伝う涙は止まらない。 
 きっと君が目の前に居たとしても、溢れるものがもう止められない。
 止められるわけがない。

「っ……ごめん。ウソだった。やっぱり、君が先で、よかったかも、しれない。
 こんな気持ち……君には、味わってほしく、ない。
 僕が、僕だけが……感じれば、いい」

 アムネスの事を想いながら、紙を本に戻して本を抱く。
 こんな悲しみもきっと、目を瞑っていれば薄れていく。
 そう祈って待とう。



 雪が、少しずつ積もり。 




 見慣れた景色は、すっかり白に染まっていって。




 いつしか、待ち望んだ終わりがやってきた。

 ぼやけるように、意識や感覚が消えていく。
 睡魔にも似ているけれど、解放されていくような瑞々しい感覚。

 僕の穢れが完全に消えるまで、どれくらい掛かるかは分からない。
 だからきっと君を待たせてしまうだろう。
 それだけは何よりも先に謝ろう。

 そして落ち着いたら、今まで言えなかった言葉を言う。
 多すぎて何から言えばいいか分からないけど、一つだけ決めておこう。















 
 君といられる時間の全てが、僕にとっての赦しであり、幸せでした。
18/09/25 07:34更新 / しおやき

■作者メッセージ
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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