一つ目は問うに落ちず
私の家には、夜な夜な一つ目の少女がやってくる。
初めて彼女と会ったのは昨日の、雨脚が強い夜の日だった。
ちょうど私が自分のアパートで晩酌をしていると、こんこんと玄関を叩く音が聞こえた。
チャイムを鳴らすわけでもなく、ただ何度か扉をノックをしただけの音。
ちょうど酔いも回りだしてぼうっとしていた私は、覗き窓も使わずいきなり玄関の扉を開ける。
濡れそぼってそこに立っていたのが、その一つ目の少女だった。
いくら酔っていたとはいえ、私もさすがに驚く。
そこに居たのはどこから見ても人間ではない、別の生物だったのだから。
まずその肌が、陶器を通り越して雪のように白い。そして肌の所々には黒い結晶のような何かが張り付いていて、その黒い何かで手足の先は手袋や足袋のように包まれている。
身体の輪郭だけで言えば、その人外は少女のようにか細く整った肢体で、それが彼女を”少女”と称する理由になった。
なのでここまでなら、仮装をした幼い子供のようだと言えなくもない、だろうか。
しかし更に不審なのは、彼女の黒髪に似た、背中から伸びる真っ黒い触手だ。その先端には目玉があって、時折こちらをぎょろりと睨んでくる。
しかも下に目をやると、どういうわけか彼女は地面に立っておらず、ほんの少しだが宙に浮いているのだ。
極めつけは、黒い前髪で見え隠れする、宝石のように煌めく赤い一つ目だった。
私が絶句したまま黙っていると、何かを伺うように、彼女はちらちらとこちらを上目遣いで見てくる。
雨は多少弱まっていたが、まだすぐには止みそうもない。それに加えて風も強く、どこか軒下に入った程度では雨を凌げないだろう。特に彼女の長い黒髪はびっしょり濡れていて、重そうだ。
とりあえず家に入るよう手招きをしてみると彼女にも伝わったらしい、おずおずとした態度のまま、玄関の縁に座った。
彼女に付いた雨粒がぽた、と落ちて床を濡らす。
大きなタオルを押入れから持ってきて私が渡す――というよりも押し付けたような感じだったが――、彼女は驚いたような顔をしながらも受けとり、身体を拭き始めた。
私は体を拭いている彼女を玄関に放っておいたまま、部屋へ戻る。
常人がその場にいれば、私を狂人だと、とんでもない阿呆だと非難したかもしれない。
人ならざる少女がそこに居たというのに、まあ雨宿りにでも来たのだろう――と、私は自分でもよく分からない判断を下していたのである。
だから、身体を拭き終えた彼女が部屋に入ってきて、そのまま静かに私の前へ座っても――どこかそれが、自然な事のようにさえ感じたのだ。
結局その日、彼女はほんの少しだけ私を見つめた後、何一つ言わずまた玄関へ戻って、そこに座っていた。
その背中と黒い触手をを眺めながら、彼女は一体何者なのかと考える。
一番先に思いついたのは、私の幻覚、という答えだ。
朝になって雨が止んだ頃には、たっぷりと濡れたタオルだけが玄関に畳んで置かれていた。
その時の事だけなら、狐にでも化かされたのだろうと一笑に付せるかもしれない。
しかし昨日に続いて、今日も一つ目の少女は私の家を訪ねてきた。
不思議なものだ、と零しながら、私は梅酒の入ったグラスを傾ける。からんと氷が転がる音がして、味わい深い梅の匂いが鼻をくすぐる。
部屋の真ん中にあるテーブルを挟んで私の向かいにいる彼女が、私の顔を見ながらゆっくりとまばたきをした。
私の部屋の白い壁にもたれた彼女は、何が言いたいんだ、と問うように小首を傾げる。
「一体何が面白くて、何度も私の家に来るのか」
テーブルにあるノートパソコンのキーを叩きながら、独り言のように私は言った。
彼女は少し笑ったような顔をして、返事代わりのように何本か触手をくねらせた。表情を確かめるために顔を見ると、否が応にもその赤い目に気が入ってしまう。
しかし、彼女の思惑は読めない。何も話そうとしないからだ。
一つ目の下には鼻も口もちゃんとあるし、私の言葉も理解しているはずなのに、言葉を発しない。
そのせいもあって、見た者を威圧するような触手を伸ばしているくせに、彼女の印象はおとなしい小動物のようだった。
「毎日毎日、そうたくさんの眼で睨まれると、気になってしょうがない」
一口酒を飲み、アルコールの刺激を鼻腔から逃がしながら、私は言った。
すると、黒い触手が丸まるように内を向いたり、先端の目玉が私から目を逸らしたりして、私を眺めるのが顔の一つ目だけになったのだ。
適当に口に出しただけでその目玉たちを別段私は気にしているわけでもないが、これは彼女なりに気を遣った、という事なのだろうか。
身体だけ見れば人間のような面影もあるので、多少の感情表現は私にも察せる。しかし深い所までとなると、さっぱりだ。
ぎらぎらしたその大きな瞳で見つめられると、何かを求めているようにも、もの珍しげに観察されているようにも思えてしまう。
この人外をなんとなしに家に上げる私も私だが、毎日のようにやってくるこの少女も少女だ。
一体どんな精神状態になれば、こんな珍妙な妄想が生まれるのやら。
私の親友に相談したら、どう答えるだろう。羨ましい話じゃないか、と笑うだろうか。
「邪魔だとは言わないが、そろそろここに来る理由の一つも聞かせてくれないか」
以前にした質問を再度ぶつける。
どうせ彼女は何も言わないだろうと思ったが、とても小さな声が聞こえた。
――品さだめ、と。
私をいつ、どう食べるか、その企みでもしているのか――と聞いてみたくなったが、そこまで口を滑らせてくれるとも思えない。
ふう、とため息を付いて、私はまたパソコンに目線を戻す。今日も日課は早々と終わりそうだ。
その次の日も、少女が私の家を訪れて来るのは変わらなかった。
心なしか彼女も、気兼ねをしなくなっている気がする。とはいえほとんど喋ることもないから、正確には分からないが。
私はその日――つまり最初に会ってから三日目の夜、少し遊び心を働かせ、グラスを二つ用意した。一つはもちろん私の晩酌用だが、もう一個は彼女に出すためのグラスだ。
テーブルに載せた両方のグラスに氷を多めに割って入れ、梅酒を注ぐ。これは私がよく嗜んでいる、ロックで割った梅酒である。
テーブルに着いた彼女の前にグラスをそっと置くと、自分に出された物だと感づいたらしく、おそるおそるといった感じでグラスに顔を近づける。梅と酒の匂いには慣れていないのか、鼻を近づけた途端に少女は一つ目をぱちぱちさせ、不安そうな目で私を見た。
何も言わず突然飲み物を出したのだ、もちろん警戒されているだろう。
毒の類でないことを証明するために、私は彼女に出した方の梅酒を少し飲んだ。氷を増やしたぶん私がいつも飲む物よりは薄いが、それでも確かな刺激がある。
それを見た彼女は、何度か匂いを嗅いだ後、黒い手でグラスをゆっくりと掴んだ。舌を伸ばして中身を舐めると、彼女はアルコールの刺激に顔を歪め、しばらくの間舌を出したりひっこめたりしていた。そわそわと蠢いていた触手の動きも乱れていたので、思ったより人間と同じような体の造りをしているのかもしれない。
それを見て僅かに笑いながら、私も自分の梅酒に口を付け始めた。
最初は水を舐める子猫のように慎重だった彼女も、慣れてきたのか、段々と一回に飲む量を増やしていき、グラスの中身が氷だけになる頃には、私と同じようなペースになっていた。
両方のグラスが空になったのを見計らって、梅酒の入った瓶を持って傾ける仕草で、私は彼女に尋ねる。
彼女が小さく頷いたのを確かめて、私は二杯目を彼女のグラスに注いだ。
酒の肴に買ったピーナッツも彼女の前に出してみると、彼女はゆっくり手に取って、そっと口に運んだ。それから、またひとつ、ふたつと手に取って、リスのようにぽりぽりと齧りだす。どうやら気に入ったらしい。
その見てくれこそは異様でも、どこか人間と同じような可愛らしさを、私はこの一つ目の少女に感じていた。
ああ、人外である彼女もまた、私達人間と同じように生活を営んでいるのだな、と。
二杯目が終わる頃、彼女の様子が変わりだした。真っ白だった頬は薄らと赤みを帯びて薄桃色に染まり、目つきもどこかとろんとしている。私も酒には強くないが、少女はその私よりも弱いらしい。
すると胡坐をかいて座る私の膝に、柔らかい何かが触れる。
すりすりと擦り寄ってくるそれは、彼女の黒い触手だった。青虫のような軟い感触――などと例えるのは、少女であるはずの彼女に失礼だろうか。
最初はちょんと触れる程度だったのに、慣れてきたのか、今度は蛇がとぐろを巻くように巻き付いてくる。
私を呼んでいるのかと思って彼女の顔を見ると、胸の前で両手をすり寄せながら、背を丸くして上目遣いでこっちを見ている。
犬や猫も気を許した相手には体をすり寄せるものだが、これもその一つなのだろうか。
試しに一つ、触手を左手で撫でてみると、少しだけ彼女全体の動きが止まり、驚いたような仕草をしたが、すぐにまたお返しをするように、私は触手に撫でまわされた。
ひとしきり体を触手に這い回られた後、少女はおぼつかない足取り(浮いてはいるが)で帰って行った。
少しだが、私に懐いたのかもしれない。
親しい人間なんて、もう一人もいない私なのに、こういう相手には好かれるのだろうか。
幻覚相手に何を馬鹿な――と、私は自嘲した。酒が入っていると、どうもよくない。
大きな一升瓶に入っていた梅酒も残り半分、という所だろうか。
いつもより早いペースで無くなっているのだから、彼女は幻覚などではないのだろうか。
空にするのにもう一週間は掛かると思っていたが、もっと早くなるかもしれない――と思うと、不思議な気分になった。
まあ、多少早まってもいい。
もうこれ以上に酒を飲むつもりもないのだから。
日が重なるにつれ彼女の、スキンシップとでもいうべき行動は、より深いものになっていった。
昨日のように酒を注いで、それを二人で静かに味わう。
二杯目を味わう頃には、真っ赤な一つ目が蕩け、表情の柔らかくなった少女が私へと近づく。しかし今日私に寄ってきたのは触手ではなく、彼女の身体そのものだった。
はじめ彼女は私の横に座り込んだだけで、表情を窺うようにちらちらと私の顔を確かめていた。
私も横目で様子を見るだけだったが、少女は少しずつ私の方に体を寄せてくる。
しばらく時間が経った後、腫れ物を扱うような恐々とした手つきで、彼女が私のズボンに触れた。
彼女なりに気を遣っての行動だったのだろう、手が触れた後も、私の反応を見たまま動こうとしない。私からも何か、返事を返すべきなのだろうか。
あれこれ考えているうちに、触れる手先が足から腰へ、腰から胸板へと移っていく。服をなぞる程度から始まって、まるで私の体の形を探るように、彼女は少しずつ触れる深さを増やしていく。
彼女の黒い手は人間のそれと同じように柔らかく、艶めかしい。けれど、親の服を掴む幼子のような覚束なさもあった。
触手で撫でられる程度ならそれほど気にならなかったのだが、こうなると話は別だ。
半ば惰性でやっていた日課などもういいか、と、私はノートパソコンの電源を切り、蓋を閉じた。
同時に彼女の動きが止まって、不安げな表情を見せる。気に障ったのだろうかと、不安そうな様子で。
私はグラスに残っていた梅酒を飲み干すと、優しく彼女の黒い手を握った。
ぴくり、と少女の体と触手が跳ねる。
その柔らかさと温もりを咀嚼するように、掌や手首を撫でてみる。
緊張しているのだろう、息を潜めるように縮こまった少女の肩に私は手を載せ、そのまま背中まで滑りこませ、出来る限り優しく、抱きしめてみる。
幻のような心地でいて、幻のようにも思えない確かさ。その昔風俗店で、大人の女性を抱いた時の事を思い出す。
しかし少女の体はそれよりも遥かに柔く繊細な、心地よい人肌の感触がした。
私の肩元で少女は静かに吐息を漏らし、自身の体をすり寄せてくる。
梅酒の香りに交じり、甘い果実のような匂いが漂って、頭がぼんやりし始めた。
このまま私は――彼女を、抱くのか?
ほどなく我に返った私は、彼女から体を離す。
――何をやっているのだ、私は。
訳のわからない気分のまま、私は黙ってベッドの中に潜り込み、眼を閉じる。
一つ目の少女は布団の上から私に触れていたが、無視をする。
彼女は幻だ。あんな生き物がこの世にいるものか。
どうしてそんな幻想にしがみ付いてまで、自身を保っていなければならないのだ。
もう私は、自分の感覚さえ信用する気になれなくなった。
やがて部屋の電気が消え、玄関の閉じる音が聞こえて、静かになった。
次の日も、一つ目の少女は来た。
どこかその表情には陰りが見えたが、そんな事を気に掛ける余裕も私にはない。
グラスと梅酒だけは二人分テーブルに出したが、それ以上の接触をする気にはなれず、梅酒を二、三杯ほど勢いよく流し込むと、すぐに私はベッドへ潜ってしまった。
そのうちあの幻覚も帰っていくだろうと、ごろりと彼女に背中を向けて狸寝入りを決め込んでいると、布団の端でもぞもぞと何かが動いた。
上半身だけ動かして確かめてみると、彼女が布団の中へ入ってこようとしている所が見えた。
そっと背中に手が添えられて、少女のものらしい吐息が当たる。
どこか安堵するようなその心地も、全て幻なのだと思うと途方もなく虚しくなる。
もし彼女が幻でないなら、私の心境もどうなっただろうかと、考えずにはいられないのだ。
私はいつの間にか眠っていて、目覚めたその時、彼女はもうそこにいなかった。
ほんの少し梅酒が減っていた気がしたが、それも気のせいに違いない。
これが確か、四杯目、だろうか。
一升瓶の梅酒は底をつき、これが最後の一杯になった。
今日は何故か、一つ目の少女の姿も現れない。
最後になってようやく、私の精神も落ち着いたということだろう。
引き出しから薬瓶を取り出し、中身を確認する。
市販品ではそれに至らないので、わざわざその手の店から注文して取り寄せた品だ。
ゆっくり眠るようにとは行かないだろうが、それはその後の平穏と引き換えの苦しみだ、仕方がない。
私はもう一度、梅酒の入っていた瓶を眺める。
相当な高級品で、私の唯一無二の親友が送ってくれた酒だ。
いつもなら、質より量だ、などと意地を張って、私もあいつもこんな上等な酒を買った事はなかった。
だからこれをあいつが注文したと聞いた時、また馬鹿なことをしたな、と笑ったのを思い出す。
この酒を送ってきてくれた親友は、もうこの世にいない。
急に強い雨に降られるかのように突然事故に遭って、息を引き取った。
あまりにそれが唐突で現実感が無く、ぼーっと夢の中にいるような心境で、私は日々を過ごしていた。
昔から根が暗く、人付き合いが下手な私だったが、あいつは子供のころからずっと私と一緒に馬鹿をやっていた。
両親を早くに亡くし、私を時折襲うたまらない寂しさを埋めてくれたあいつの存在を、今になって一回り大きく感じる。
そんな友人の不幸に私は、涙が枯れるほど泣いたわけでもない。
一つの事象として、ありのままを受け入れることが出来たわけでもない。
けれど、熱を持てなくなったその残りの時間を、私はどう過ごせばいいか分からなくなった。
訳も分からず持て余す余剰なら、いっそ捨てて、眠ることに使えばいい。
呆然と決めたその答えだったが、それはとても魅力的に思えた。
とはいえ、酒はあちらに持っていけない。
せっかくの一級品だ、とりあえず感想だけでも伝えてやろうと、この酒が終わるまでは先延ばしにしていた。
実際、これほど上等な酒を平らげたのは初めてだったと思う。
本当ならこの部屋で一緒にあいつと飲むはずだったのに、結局私だけが独り占めするなんて。
――まあ、もしかしたら、私一人だけではなかったかもしれないが。
グラスを傾けて、芳醇な梅の匂いを楽しむ。
こんな物を一人で飲みほしてしまったと言うと、怒るだろうか。怒るだろう。まあ、詫びの言葉は会ってから考えればいい。
薬瓶の蓋を開けようとした瞬間、部屋の扉がゆっくり開いた。
そこに居たのは、一つ目のあの少女だ。
どうやらまだ、幻想は過ぎ去っていなかったらしい。
これも私の脳が作り出した、多少なりとも生きたいという欲望の表れなのだろうか。
どうでもいい、それもじきに消えるのだから。
グラスと薬瓶を手に取って口に流し込もうとしたその時、何かがぶつかって、私は床に倒れる。
手からグラスが離れて、中に入っていた梅酒がカーペットに染みを広げていく。
あの少女が飛び掛かってきたという事を理解するのに、そう時間は掛からなかった。
彼女は、考えられないくらいに激しく私を揺さぶった。
薄ら目を開けた私に顔を近づけて、何度も何度も首を横に振って。
落としたときに飛び散った、近くの床に転がっていた薬剤を、掴んでは投げ捨てて。
赤い一つ目に溜まった涙を溢れさせ、真っ赤に潤んだ一つ目で私を睨みつけて。
考えることを放棄しかけた私でも、彼女が何を伝えたいのかは、分かった。
――それをやっては駄目だと、訴えているのだ。
どこかで分かっていたはずなのに、幻想だ夢だと突き離して私は認めようとしなかった。
この幼気な少女さえ現実だと受け止めたくなくて、ずっと私は目を閉じていたのだ。
親友の死も、謎の少女も、何もかも現実と地続きにあったのに。
彼女は、彼女だけは、その大きな一つ目で、私をずっと見つめてくれていたのに。
この少女は、どうして私を助けようとしたのだろう。
ぼんやり、ぼんやりと思いを紡ぐ。
死ぬのに理由が無いなら、生きるのにだって理由はない。
はずだった。
歪む視界の中、目の前にある彼女の一つ目だけが輝き、ひときわ赤く色づいて見える。
同時に、整理出来ないまま手付かずだった心中から、誰かが語りかけた。
「彼女の為に生きたい」と。
何がその言葉を、想いを、揺り起したのかは分からない。
ただただ綺麗な、赤い一つ目だけが私の心に焼きついていた。
朝の陽射しで目が覚める。
体に重みを感じて見てみると、胸にしがみつくような形で一つ目の少女が乗っていた。
彼女はすぅすぅと寝息を立て、静かに眠っている。
顔だけ動かして周囲を確かめると、梅の匂いと、中の錠剤をぶちまけた薬瓶が転がっていた。
掃除するのに時間が掛かりそうだ――と思いながら、その温もりに身を任せようとしたが、どうやら彼女を起こしてしまったらしい。
長い黒髪を撫でてあげながら私が微笑むと、彼女もにっこりと笑ってくれた。
何か言おうとした矢先、ぐっと顔を近づけてきた少女に唇を重ねられる。
唇と唇が触れた瞬間、痺れるような甘い刺激が走って、頭が真っ白になり、何を言おうとしたかも忘れた。
赤くなった顔を隠すように、彼女は私の胸元へ顔を埋める。
無口なままの彼女の頭を撫でながら、ようやく私は彼女の存在を認めた。
それから一つ目の少女が私の家に住むようになるのに、さほど時間は掛からなかった。
彼女が何者なのかは生活を共にしながら聞いてみたものの、言葉で答えてくれた回数はごく一部だ。
ただ――名前も生まれた場所も、彼女自身は知らなかったらしい。
無口な彼女からようやく聞けたのは、彼女がゲイザーという『魔物』であるということ。
その大きな一つ目で、人間に暗示を掛けられること。
人間の精を餌に生きていて、男性を襲ってそれを得ようとすること――ぐらいだろうか。
特に最後の言葉は驚いたが、それを聞いた瞬間に彼女も耐えられなくなったらしい、その場で押し倒されてしまった。口には出されずとも、私の体の上に寝そべって、潤んだ瞳で懇願されると、その意図は容易に伝わる。
抵抗する気になれるわけもなく、本当に犯されたいのか、という質問代わりの愛撫に私は身を任せてしまった。
ただ――普段の姿からは想像もできないほど乱れ、嬌声を上げる彼女は、なにより淫らで可愛らしかったのも、確かだ。
濃密な交わりの行為が終わり、私も彼女も、荒くなった息を整える。
熱く火照った彼女の体を抱きしめ、さらさらした黒髪を指で梳かしながら、私は目を閉じてそっとささやく。
あの時、もし君が来てくれなかったら、どうなっていただろう。
そう思うと、どれだけ君に感謝しても足りない。
それがたとえ君の暗示でも、とても嬉しかった。
ふふっ、と彼女が微笑む。
私の言葉に続いて、珍しく彼女の声が聞こえた。
まだだよ、と。
私がその意味を聞き返すと、本当に珍しく、彼女がもう一度喋った。
まだわたし、暗示なんてひとつも掛けてない。
だから、あなたを好きになったの。
初めて彼女と会ったのは昨日の、雨脚が強い夜の日だった。
ちょうど私が自分のアパートで晩酌をしていると、こんこんと玄関を叩く音が聞こえた。
チャイムを鳴らすわけでもなく、ただ何度か扉をノックをしただけの音。
ちょうど酔いも回りだしてぼうっとしていた私は、覗き窓も使わずいきなり玄関の扉を開ける。
濡れそぼってそこに立っていたのが、その一つ目の少女だった。
いくら酔っていたとはいえ、私もさすがに驚く。
そこに居たのはどこから見ても人間ではない、別の生物だったのだから。
まずその肌が、陶器を通り越して雪のように白い。そして肌の所々には黒い結晶のような何かが張り付いていて、その黒い何かで手足の先は手袋や足袋のように包まれている。
身体の輪郭だけで言えば、その人外は少女のようにか細く整った肢体で、それが彼女を”少女”と称する理由になった。
なのでここまでなら、仮装をした幼い子供のようだと言えなくもない、だろうか。
しかし更に不審なのは、彼女の黒髪に似た、背中から伸びる真っ黒い触手だ。その先端には目玉があって、時折こちらをぎょろりと睨んでくる。
しかも下に目をやると、どういうわけか彼女は地面に立っておらず、ほんの少しだが宙に浮いているのだ。
極めつけは、黒い前髪で見え隠れする、宝石のように煌めく赤い一つ目だった。
私が絶句したまま黙っていると、何かを伺うように、彼女はちらちらとこちらを上目遣いで見てくる。
雨は多少弱まっていたが、まだすぐには止みそうもない。それに加えて風も強く、どこか軒下に入った程度では雨を凌げないだろう。特に彼女の長い黒髪はびっしょり濡れていて、重そうだ。
とりあえず家に入るよう手招きをしてみると彼女にも伝わったらしい、おずおずとした態度のまま、玄関の縁に座った。
彼女に付いた雨粒がぽた、と落ちて床を濡らす。
大きなタオルを押入れから持ってきて私が渡す――というよりも押し付けたような感じだったが――、彼女は驚いたような顔をしながらも受けとり、身体を拭き始めた。
私は体を拭いている彼女を玄関に放っておいたまま、部屋へ戻る。
常人がその場にいれば、私を狂人だと、とんでもない阿呆だと非難したかもしれない。
人ならざる少女がそこに居たというのに、まあ雨宿りにでも来たのだろう――と、私は自分でもよく分からない判断を下していたのである。
だから、身体を拭き終えた彼女が部屋に入ってきて、そのまま静かに私の前へ座っても――どこかそれが、自然な事のようにさえ感じたのだ。
結局その日、彼女はほんの少しだけ私を見つめた後、何一つ言わずまた玄関へ戻って、そこに座っていた。
その背中と黒い触手をを眺めながら、彼女は一体何者なのかと考える。
一番先に思いついたのは、私の幻覚、という答えだ。
朝になって雨が止んだ頃には、たっぷりと濡れたタオルだけが玄関に畳んで置かれていた。
その時の事だけなら、狐にでも化かされたのだろうと一笑に付せるかもしれない。
しかし昨日に続いて、今日も一つ目の少女は私の家を訪ねてきた。
不思議なものだ、と零しながら、私は梅酒の入ったグラスを傾ける。からんと氷が転がる音がして、味わい深い梅の匂いが鼻をくすぐる。
部屋の真ん中にあるテーブルを挟んで私の向かいにいる彼女が、私の顔を見ながらゆっくりとまばたきをした。
私の部屋の白い壁にもたれた彼女は、何が言いたいんだ、と問うように小首を傾げる。
「一体何が面白くて、何度も私の家に来るのか」
テーブルにあるノートパソコンのキーを叩きながら、独り言のように私は言った。
彼女は少し笑ったような顔をして、返事代わりのように何本か触手をくねらせた。表情を確かめるために顔を見ると、否が応にもその赤い目に気が入ってしまう。
しかし、彼女の思惑は読めない。何も話そうとしないからだ。
一つ目の下には鼻も口もちゃんとあるし、私の言葉も理解しているはずなのに、言葉を発しない。
そのせいもあって、見た者を威圧するような触手を伸ばしているくせに、彼女の印象はおとなしい小動物のようだった。
「毎日毎日、そうたくさんの眼で睨まれると、気になってしょうがない」
一口酒を飲み、アルコールの刺激を鼻腔から逃がしながら、私は言った。
すると、黒い触手が丸まるように内を向いたり、先端の目玉が私から目を逸らしたりして、私を眺めるのが顔の一つ目だけになったのだ。
適当に口に出しただけでその目玉たちを別段私は気にしているわけでもないが、これは彼女なりに気を遣った、という事なのだろうか。
身体だけ見れば人間のような面影もあるので、多少の感情表現は私にも察せる。しかし深い所までとなると、さっぱりだ。
ぎらぎらしたその大きな瞳で見つめられると、何かを求めているようにも、もの珍しげに観察されているようにも思えてしまう。
この人外をなんとなしに家に上げる私も私だが、毎日のようにやってくるこの少女も少女だ。
一体どんな精神状態になれば、こんな珍妙な妄想が生まれるのやら。
私の親友に相談したら、どう答えるだろう。羨ましい話じゃないか、と笑うだろうか。
「邪魔だとは言わないが、そろそろここに来る理由の一つも聞かせてくれないか」
以前にした質問を再度ぶつける。
どうせ彼女は何も言わないだろうと思ったが、とても小さな声が聞こえた。
――品さだめ、と。
私をいつ、どう食べるか、その企みでもしているのか――と聞いてみたくなったが、そこまで口を滑らせてくれるとも思えない。
ふう、とため息を付いて、私はまたパソコンに目線を戻す。今日も日課は早々と終わりそうだ。
その次の日も、少女が私の家を訪れて来るのは変わらなかった。
心なしか彼女も、気兼ねをしなくなっている気がする。とはいえほとんど喋ることもないから、正確には分からないが。
私はその日――つまり最初に会ってから三日目の夜、少し遊び心を働かせ、グラスを二つ用意した。一つはもちろん私の晩酌用だが、もう一個は彼女に出すためのグラスだ。
テーブルに載せた両方のグラスに氷を多めに割って入れ、梅酒を注ぐ。これは私がよく嗜んでいる、ロックで割った梅酒である。
テーブルに着いた彼女の前にグラスをそっと置くと、自分に出された物だと感づいたらしく、おそるおそるといった感じでグラスに顔を近づける。梅と酒の匂いには慣れていないのか、鼻を近づけた途端に少女は一つ目をぱちぱちさせ、不安そうな目で私を見た。
何も言わず突然飲み物を出したのだ、もちろん警戒されているだろう。
毒の類でないことを証明するために、私は彼女に出した方の梅酒を少し飲んだ。氷を増やしたぶん私がいつも飲む物よりは薄いが、それでも確かな刺激がある。
それを見た彼女は、何度か匂いを嗅いだ後、黒い手でグラスをゆっくりと掴んだ。舌を伸ばして中身を舐めると、彼女はアルコールの刺激に顔を歪め、しばらくの間舌を出したりひっこめたりしていた。そわそわと蠢いていた触手の動きも乱れていたので、思ったより人間と同じような体の造りをしているのかもしれない。
それを見て僅かに笑いながら、私も自分の梅酒に口を付け始めた。
最初は水を舐める子猫のように慎重だった彼女も、慣れてきたのか、段々と一回に飲む量を増やしていき、グラスの中身が氷だけになる頃には、私と同じようなペースになっていた。
両方のグラスが空になったのを見計らって、梅酒の入った瓶を持って傾ける仕草で、私は彼女に尋ねる。
彼女が小さく頷いたのを確かめて、私は二杯目を彼女のグラスに注いだ。
酒の肴に買ったピーナッツも彼女の前に出してみると、彼女はゆっくり手に取って、そっと口に運んだ。それから、またひとつ、ふたつと手に取って、リスのようにぽりぽりと齧りだす。どうやら気に入ったらしい。
その見てくれこそは異様でも、どこか人間と同じような可愛らしさを、私はこの一つ目の少女に感じていた。
ああ、人外である彼女もまた、私達人間と同じように生活を営んでいるのだな、と。
二杯目が終わる頃、彼女の様子が変わりだした。真っ白だった頬は薄らと赤みを帯びて薄桃色に染まり、目つきもどこかとろんとしている。私も酒には強くないが、少女はその私よりも弱いらしい。
すると胡坐をかいて座る私の膝に、柔らかい何かが触れる。
すりすりと擦り寄ってくるそれは、彼女の黒い触手だった。青虫のような軟い感触――などと例えるのは、少女であるはずの彼女に失礼だろうか。
最初はちょんと触れる程度だったのに、慣れてきたのか、今度は蛇がとぐろを巻くように巻き付いてくる。
私を呼んでいるのかと思って彼女の顔を見ると、胸の前で両手をすり寄せながら、背を丸くして上目遣いでこっちを見ている。
犬や猫も気を許した相手には体をすり寄せるものだが、これもその一つなのだろうか。
試しに一つ、触手を左手で撫でてみると、少しだけ彼女全体の動きが止まり、驚いたような仕草をしたが、すぐにまたお返しをするように、私は触手に撫でまわされた。
ひとしきり体を触手に這い回られた後、少女はおぼつかない足取り(浮いてはいるが)で帰って行った。
少しだが、私に懐いたのかもしれない。
親しい人間なんて、もう一人もいない私なのに、こういう相手には好かれるのだろうか。
幻覚相手に何を馬鹿な――と、私は自嘲した。酒が入っていると、どうもよくない。
大きな一升瓶に入っていた梅酒も残り半分、という所だろうか。
いつもより早いペースで無くなっているのだから、彼女は幻覚などではないのだろうか。
空にするのにもう一週間は掛かると思っていたが、もっと早くなるかもしれない――と思うと、不思議な気分になった。
まあ、多少早まってもいい。
もうこれ以上に酒を飲むつもりもないのだから。
日が重なるにつれ彼女の、スキンシップとでもいうべき行動は、より深いものになっていった。
昨日のように酒を注いで、それを二人で静かに味わう。
二杯目を味わう頃には、真っ赤な一つ目が蕩け、表情の柔らかくなった少女が私へと近づく。しかし今日私に寄ってきたのは触手ではなく、彼女の身体そのものだった。
はじめ彼女は私の横に座り込んだだけで、表情を窺うようにちらちらと私の顔を確かめていた。
私も横目で様子を見るだけだったが、少女は少しずつ私の方に体を寄せてくる。
しばらく時間が経った後、腫れ物を扱うような恐々とした手つきで、彼女が私のズボンに触れた。
彼女なりに気を遣っての行動だったのだろう、手が触れた後も、私の反応を見たまま動こうとしない。私からも何か、返事を返すべきなのだろうか。
あれこれ考えているうちに、触れる手先が足から腰へ、腰から胸板へと移っていく。服をなぞる程度から始まって、まるで私の体の形を探るように、彼女は少しずつ触れる深さを増やしていく。
彼女の黒い手は人間のそれと同じように柔らかく、艶めかしい。けれど、親の服を掴む幼子のような覚束なさもあった。
触手で撫でられる程度ならそれほど気にならなかったのだが、こうなると話は別だ。
半ば惰性でやっていた日課などもういいか、と、私はノートパソコンの電源を切り、蓋を閉じた。
同時に彼女の動きが止まって、不安げな表情を見せる。気に障ったのだろうかと、不安そうな様子で。
私はグラスに残っていた梅酒を飲み干すと、優しく彼女の黒い手を握った。
ぴくり、と少女の体と触手が跳ねる。
その柔らかさと温もりを咀嚼するように、掌や手首を撫でてみる。
緊張しているのだろう、息を潜めるように縮こまった少女の肩に私は手を載せ、そのまま背中まで滑りこませ、出来る限り優しく、抱きしめてみる。
幻のような心地でいて、幻のようにも思えない確かさ。その昔風俗店で、大人の女性を抱いた時の事を思い出す。
しかし少女の体はそれよりも遥かに柔く繊細な、心地よい人肌の感触がした。
私の肩元で少女は静かに吐息を漏らし、自身の体をすり寄せてくる。
梅酒の香りに交じり、甘い果実のような匂いが漂って、頭がぼんやりし始めた。
このまま私は――彼女を、抱くのか?
ほどなく我に返った私は、彼女から体を離す。
――何をやっているのだ、私は。
訳のわからない気分のまま、私は黙ってベッドの中に潜り込み、眼を閉じる。
一つ目の少女は布団の上から私に触れていたが、無視をする。
彼女は幻だ。あんな生き物がこの世にいるものか。
どうしてそんな幻想にしがみ付いてまで、自身を保っていなければならないのだ。
もう私は、自分の感覚さえ信用する気になれなくなった。
やがて部屋の電気が消え、玄関の閉じる音が聞こえて、静かになった。
次の日も、一つ目の少女は来た。
どこかその表情には陰りが見えたが、そんな事を気に掛ける余裕も私にはない。
グラスと梅酒だけは二人分テーブルに出したが、それ以上の接触をする気にはなれず、梅酒を二、三杯ほど勢いよく流し込むと、すぐに私はベッドへ潜ってしまった。
そのうちあの幻覚も帰っていくだろうと、ごろりと彼女に背中を向けて狸寝入りを決め込んでいると、布団の端でもぞもぞと何かが動いた。
上半身だけ動かして確かめてみると、彼女が布団の中へ入ってこようとしている所が見えた。
そっと背中に手が添えられて、少女のものらしい吐息が当たる。
どこか安堵するようなその心地も、全て幻なのだと思うと途方もなく虚しくなる。
もし彼女が幻でないなら、私の心境もどうなっただろうかと、考えずにはいられないのだ。
私はいつの間にか眠っていて、目覚めたその時、彼女はもうそこにいなかった。
ほんの少し梅酒が減っていた気がしたが、それも気のせいに違いない。
これが確か、四杯目、だろうか。
一升瓶の梅酒は底をつき、これが最後の一杯になった。
今日は何故か、一つ目の少女の姿も現れない。
最後になってようやく、私の精神も落ち着いたということだろう。
引き出しから薬瓶を取り出し、中身を確認する。
市販品ではそれに至らないので、わざわざその手の店から注文して取り寄せた品だ。
ゆっくり眠るようにとは行かないだろうが、それはその後の平穏と引き換えの苦しみだ、仕方がない。
私はもう一度、梅酒の入っていた瓶を眺める。
相当な高級品で、私の唯一無二の親友が送ってくれた酒だ。
いつもなら、質より量だ、などと意地を張って、私もあいつもこんな上等な酒を買った事はなかった。
だからこれをあいつが注文したと聞いた時、また馬鹿なことをしたな、と笑ったのを思い出す。
この酒を送ってきてくれた親友は、もうこの世にいない。
急に強い雨に降られるかのように突然事故に遭って、息を引き取った。
あまりにそれが唐突で現実感が無く、ぼーっと夢の中にいるような心境で、私は日々を過ごしていた。
昔から根が暗く、人付き合いが下手な私だったが、あいつは子供のころからずっと私と一緒に馬鹿をやっていた。
両親を早くに亡くし、私を時折襲うたまらない寂しさを埋めてくれたあいつの存在を、今になって一回り大きく感じる。
そんな友人の不幸に私は、涙が枯れるほど泣いたわけでもない。
一つの事象として、ありのままを受け入れることが出来たわけでもない。
けれど、熱を持てなくなったその残りの時間を、私はどう過ごせばいいか分からなくなった。
訳も分からず持て余す余剰なら、いっそ捨てて、眠ることに使えばいい。
呆然と決めたその答えだったが、それはとても魅力的に思えた。
とはいえ、酒はあちらに持っていけない。
せっかくの一級品だ、とりあえず感想だけでも伝えてやろうと、この酒が終わるまでは先延ばしにしていた。
実際、これほど上等な酒を平らげたのは初めてだったと思う。
本当ならこの部屋で一緒にあいつと飲むはずだったのに、結局私だけが独り占めするなんて。
――まあ、もしかしたら、私一人だけではなかったかもしれないが。
グラスを傾けて、芳醇な梅の匂いを楽しむ。
こんな物を一人で飲みほしてしまったと言うと、怒るだろうか。怒るだろう。まあ、詫びの言葉は会ってから考えればいい。
薬瓶の蓋を開けようとした瞬間、部屋の扉がゆっくり開いた。
そこに居たのは、一つ目のあの少女だ。
どうやらまだ、幻想は過ぎ去っていなかったらしい。
これも私の脳が作り出した、多少なりとも生きたいという欲望の表れなのだろうか。
どうでもいい、それもじきに消えるのだから。
グラスと薬瓶を手に取って口に流し込もうとしたその時、何かがぶつかって、私は床に倒れる。
手からグラスが離れて、中に入っていた梅酒がカーペットに染みを広げていく。
あの少女が飛び掛かってきたという事を理解するのに、そう時間は掛からなかった。
彼女は、考えられないくらいに激しく私を揺さぶった。
薄ら目を開けた私に顔を近づけて、何度も何度も首を横に振って。
落としたときに飛び散った、近くの床に転がっていた薬剤を、掴んでは投げ捨てて。
赤い一つ目に溜まった涙を溢れさせ、真っ赤に潤んだ一つ目で私を睨みつけて。
考えることを放棄しかけた私でも、彼女が何を伝えたいのかは、分かった。
――それをやっては駄目だと、訴えているのだ。
どこかで分かっていたはずなのに、幻想だ夢だと突き離して私は認めようとしなかった。
この幼気な少女さえ現実だと受け止めたくなくて、ずっと私は目を閉じていたのだ。
親友の死も、謎の少女も、何もかも現実と地続きにあったのに。
彼女は、彼女だけは、その大きな一つ目で、私をずっと見つめてくれていたのに。
この少女は、どうして私を助けようとしたのだろう。
ぼんやり、ぼんやりと思いを紡ぐ。
死ぬのに理由が無いなら、生きるのにだって理由はない。
はずだった。
歪む視界の中、目の前にある彼女の一つ目だけが輝き、ひときわ赤く色づいて見える。
同時に、整理出来ないまま手付かずだった心中から、誰かが語りかけた。
「彼女の為に生きたい」と。
何がその言葉を、想いを、揺り起したのかは分からない。
ただただ綺麗な、赤い一つ目だけが私の心に焼きついていた。
朝の陽射しで目が覚める。
体に重みを感じて見てみると、胸にしがみつくような形で一つ目の少女が乗っていた。
彼女はすぅすぅと寝息を立て、静かに眠っている。
顔だけ動かして周囲を確かめると、梅の匂いと、中の錠剤をぶちまけた薬瓶が転がっていた。
掃除するのに時間が掛かりそうだ――と思いながら、その温もりに身を任せようとしたが、どうやら彼女を起こしてしまったらしい。
長い黒髪を撫でてあげながら私が微笑むと、彼女もにっこりと笑ってくれた。
何か言おうとした矢先、ぐっと顔を近づけてきた少女に唇を重ねられる。
唇と唇が触れた瞬間、痺れるような甘い刺激が走って、頭が真っ白になり、何を言おうとしたかも忘れた。
赤くなった顔を隠すように、彼女は私の胸元へ顔を埋める。
無口なままの彼女の頭を撫でながら、ようやく私は彼女の存在を認めた。
それから一つ目の少女が私の家に住むようになるのに、さほど時間は掛からなかった。
彼女が何者なのかは生活を共にしながら聞いてみたものの、言葉で答えてくれた回数はごく一部だ。
ただ――名前も生まれた場所も、彼女自身は知らなかったらしい。
無口な彼女からようやく聞けたのは、彼女がゲイザーという『魔物』であるということ。
その大きな一つ目で、人間に暗示を掛けられること。
人間の精を餌に生きていて、男性を襲ってそれを得ようとすること――ぐらいだろうか。
特に最後の言葉は驚いたが、それを聞いた瞬間に彼女も耐えられなくなったらしい、その場で押し倒されてしまった。口には出されずとも、私の体の上に寝そべって、潤んだ瞳で懇願されると、その意図は容易に伝わる。
抵抗する気になれるわけもなく、本当に犯されたいのか、という質問代わりの愛撫に私は身を任せてしまった。
ただ――普段の姿からは想像もできないほど乱れ、嬌声を上げる彼女は、なにより淫らで可愛らしかったのも、確かだ。
濃密な交わりの行為が終わり、私も彼女も、荒くなった息を整える。
熱く火照った彼女の体を抱きしめ、さらさらした黒髪を指で梳かしながら、私は目を閉じてそっとささやく。
あの時、もし君が来てくれなかったら、どうなっていただろう。
そう思うと、どれだけ君に感謝しても足りない。
それがたとえ君の暗示でも、とても嬉しかった。
ふふっ、と彼女が微笑む。
私の言葉に続いて、珍しく彼女の声が聞こえた。
まだだよ、と。
私がその意味を聞き返すと、本当に珍しく、彼女がもう一度喋った。
まだわたし、暗示なんてひとつも掛けてない。
だから、あなたを好きになったの。
13/12/09 07:03更新 / しおやき