『瞳の玉塩』 / 甘口 / 図鑑世界(中世)
「おう、よしよし」
私が自分の書斎にある揺り椅子に座っていると、レティナがふよふよと膝元に寄ってくる。
レティナというのはこのゲイザーという魔物に私が付けた名前だが、最近は名前を呼ぶとちゃんと反応してくれるようになった。
黒い”球体”の身体に大きな赤い瞳の目玉、大きな口とぎざぎざした歯、身体からそこから伸びる無数の触手という姿はまさに魔物。
見る者によっては嫌悪すら催すだろうが、慣れというのは恐ろしいものだ。
「ご主人様、お茶、を……ひっ!」
ノックをして、ティーポットを持ってきたメイド――それも一週間ほど前に雇ったばかりの新人は、私の膝に座るゲイザー、つまりレティナを見て顔をあからさまに強張らせた。
一応彼女にも説明はしておいたはずだが、仕方がない。
「大丈夫だ、レティナは悪い子じゃないと言っただろう」
「……し、しかし……」
メイドは恐る恐るポットを机に置いて、すぐさま後ずさってしまう。
怪訝な目つきでメイドに睨まれたレティナは触手にある目でメイドを、身体の目で私を見たまま、私にすりすりと身体を寄せてくる。
「で、では、お屋敷の掃除もありますのでっ」
早口でそう言ってメイドはまた屋敷に引っ込んでしまった。
レティナも興味を失ったのか、メイドを見ていた触手を私の身体に巻き付けるようにして身体を密着させてきた。それからその大きな口で私の指を何本かかぷっと含む。それは敵意を持った行動ではなく、自慢のぎざっ歯を立てない柔らかな甘噛みだ。勿論痛みはないが、少しくすぐったい。
これもレティナなりの愛情表現、とでも呼ぶべきだろうか。
「まったく。相場の何倍もの給金が出せるのは誰のおかげだと思っているんだろうな」
そう言いながら、私はレティナの体を少し撫でた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話は少し昔にさかのぼる。
私達一族はもともとゲイザーを飼いならしていたわけではなく、むしろ逆。ゲイザーを退治することが生業だった。
いや、厳密には違う。
退治と言えば聞こえはいいが――相手は強大な魔法を使う恐ろしい魔物。
対する私達の家系は死を恐れぬ勇者たちの集まりでも、類稀な才能の魔法使いたちでもない。
少しばかり込み入った手順で作った薬毒を使うだけ。
つまり私達がするのは、ゲイザー達に『不愉快な外敵がいる』と思わせ、住処を追い出すぐらいのことだ。
それでもゲイザーはそれを嫌がるのか、二度三度繰り返せばその地域からは離れてしまう。プライドの高い種族だからとか、彼らの持つ力がかえって外敵に対して警戒心を強くしたとかいう説も聞くが、彼らと世間話をしたことはないので分からない。
もちろん根元を絶やしたわけではないので名は売れないし報酬はいくぶん下がるが、貰う額はいつも手間賃として十分すぎるものだった。
こうして、表沙汰にはなりにくい形で私達一族は粛々と代を重ねていった――らしい。
我ながらせせこましい話である。
では、それがどうして今ゲイザーを手懐けるようになったのか。
きっかけは一つの偶然だった。
我が一族の祖先が『瞳の玉塩』という、珍しい塩の製法を発見したからだ。
『瞳の玉塩』。
それはまさしく塩だが、ひとつまみで金貨一枚の価値と噂される、幻の塩である。
宝石のように美しい外見から玉、つまり宝石という名が付いたそうだ。
他の塩とは次元の違う味を持ち、玉塩を独占するためだけに他国が攻め入ろうとした、なんて話まであるが――。
今現在、その生成方法を見つけて作り出しているのは私である。
では、どうやってその塩が生成されるのかというと――。
暗い地下室の中。
催涙用の目つぶし粉が入った袋を私が見せると、レティナはふよふよと近寄ってきた。
「今日も頼むぞ……レティナ」
そう、ゲイザーの涙から作られるのだ。
もちろん故意にゲイザーを泣かせることになるので、最初はどうやっても嫌がってしまう。
しかし終わった後に魔力の籠った石を食べさせることで、『ご褒美が貰える』という条件付けになったらしく、今では刺激薬の袋を見せるだけでも泣くふりをする。
製法を私に教えてくれた、今は亡き祖父や父たちは、魔物達に決して隙を見せなかったうえに「魔物と共生関係を結ぶなど以ての外だ」と言っていた。
だが、私は違った。
子供の頃、父の目を盗んで地下にいるゲイザーと何度か遊んだこともある。
私にはどうしても、生まれた時から魔物が人を食う恐ろしい生物であるとは信じられなかったからだ。
屋敷にいるゲイザー、つまりレティナは幼生のものを私が苦心して捕まえてきたのだが、ここまで人間に心を許すとは思わなかった。それに頭もいい、人間をしっかり区別できているし、そこらの動物よりよほど物覚えが早い。成熟する前に人の手から放すのが一族のしきたりではあるが、それがとても悲しい事にさえ感じられてしまう。
ただ、この魔物に私が操られているという可能性も有り得る――だがその時はその時だ。
何はともあれ『瞳の玉塩』のおかげで、私達一族はそれなりの財を築くことができた。
そして、それはいつまでも変わらないはずだった。
あの日までは。
「夜中は魔物を外に出さないでほしい」というメイドたちの要望により、レティナは屋敷の地下室に住まわせている。扉もちょっとやそっとでは壊せない頑丈なものだ。
私自身はそうやって閉じ込めてしまう事に賛成したくなかったが、魔物という存在を顧みればどうしようもない。暗い所は好きらしいので気に入っていたのが救いだった。
私はいつものように地下室を開けてやる。ぎぎ、と重たげな音を立てて扉は開いていく。
その瞬間、小さな子供のような人影が飛び出してきた。
「――!」
その子は私の腰にどん、と身体をぶつけてくる。その子の長い黒髪がふわっと揺れた。
私の胸元ほどしかない、小さな細い子だ。
一体誰だ、どこから入った――と、私が下を向いて気づく。
この子供には目が一つしかない。
片目しかないのではなく、顔の中心に大きな赤い瞳がたった一つしかないのだ。
ひどく見覚えのあるその赤い瞳、それはレティナと瓜二つ。
「……!」
しかも肌が人とは思えないほど白く、服の一枚も着ていないが体表には黒いゲルが両手両足と胸、局部のいたるところに纏っている。
何かを言おうとしているのか、その子は口をぱくぱくと開くものの、そこからは声も音も漏れず意図は汲み取れない。するとその子の背中からずるり、と何か黒い触手が這い出た。
ひどく見覚えのある、その赤く大きな眼と黒い触手。
つまり地下室に居たのは魔物ではなく――いや魔物かもしれないがそれすら判断できない、人間のような生き物。
「もしかして……」
一つの推測に行きあたる。
私の声は聞こえているらしい、おそらく私の声に対しその子――その少女は何かを喋ろうとしながら、上目遣いで私を見据える。
「レティナ、か?」
その少女は花が咲いたような笑顔で、何度も首を縦に振った。
とりあえず地下室から連れ出してみるとレティナは歩きにくそうにしていたが、すぐにふわっと宙へ浮かぶ。前の姿でもそうしていたように、空の飛び方を思い出したのだろう。
背中から伸びる触手は自由に出し入れができるらしく、今は何も無かったかのように鳴りをひそめていた。
「――、――♪」
一つ目の少女、いやレティナは楽しそうに私の首に両腕を回して背中へしがみついてくる。幼い子供がそうするように。その身体は驚くほど軽く感じた。
私に危害を加える様子はないし、こんな目をした人間がいるとは思えない。一体彼女に何が起きたのだろう?
それを聞いてみても彼女は、
「――?」
首を傾げて何か言おうとするものの、音にはなっても声にはならない。
元の魔物であったときのように、どうやって言葉を喋る方法が分かっていないのだろうか。 喋り方を教えてやればもしかしたら意志疎通もできるかもしれない。
「――、」
「……まあとりあえずは、メイドたちにも教えてやらないとな」
ということで全員のメイドを広間に集めて話を始めたものの、魔物だった時でも今の少女風貌でもメイド達が露骨にレティナを避ける態度は変わらなかった。むしろ人間を姿どっているせいか、向ける視線はさらに鋭くなっている気さえする。
当の本人のレティナも「一応顔を見せておいてやるか」とでも言いたげな目線をメイドに一瞥していた。
「ご、ご主人様……こっ、この子が……あの魔物、なんですか?」
まだ入ってきたばかりの新米メイドが質問してくる。変な噂の立ちやすいウチの屋敷では随分持ったほうだと思うが、いつ辞職願を出してもおかしくない面持ちだ。
「恐らく、だが。 とにかく仲良くしてやってくれ」
そうはいってもこのまま放っておいて扱いが変わるとは思えない。レティナが喋れるようになればそれも変わるのか?
私は頭を掻きながら彼女を見たが、
「♪」
その大きな口を歪ませてにやりと笑っただけだった。
「それで……ご主人様、」
「ん?」
「あれは、いえあの子は、これからも地下室に置いておいていただけるんですよね……?」
「む……」
それもそうだ、とまた私は頭を捻る。
レティナの身体が人間と同じ造りをしていたら――という可能性はハッキリ言ってほとんどないのだが――地下室に寝かせるわけにはいかない。
しかしメイド達はその結論を良しとしないだろう。
「空いている部屋は?」
「ふ、普通の客室はありますが、もし何かありましたら……」
今までそんな重大な事件が起きたことなんてないが、やはりもしもを問われるとメイドに返す言葉が思いつかない。
「次に良い場所となると、」
言い掛けた私のシャツの袖をレティナがくいっと引っ張る。
促されるままにそちらを向くと、伸ばした左腕の細い指で彼女はぴったり私のプライベートルームを指さしていた。そして付け加えるようにまたにぃっと笑う。
レティナも何度かそこには入ったことがあるので、きっと覚えているのだろう。そして地下室の次に頑丈な鍵が付いていて、かつ奥まった場所にあるのも確かだ。
「分かった、私の部屋に置いておこう」
「ご、ご主人様?」
「よく考えれば最初からこうすべきだった。
それにあの子が危険でないと改めてきみに証明できるだろう?」
「……はあ……」
新米メイドはそれ以上言葉を続けずに下がったが、私を心配するような目で見ている。私を狂人だと思っているのか、彼女なりに私の身を案じてくれているのかどちらかは分からない。
私の決定を聞いた他のメイドたちも万が一を心配はしているらしく、何人かは鍵と戸締りの点検を行いましょうと告げた。
戸締りの確認をメイドと鍵屋が終える頃には夜になり、私とレティナは自分の部屋に戻った。
私の部屋の扉は一つだけだが寝室は二つずつある。これは前の屋敷主の夫婦が引き取り手を探していたところで私が買い取ったからだ。
しかしレティナにそれを伝えようとしてもあまりうまくいかない、どうも彼女は私と一緒にベッドで寝ようと考えているらしい。
夕食を終えた後で彼女の様子を確かめてみると、レティナはベッドでぽんぽんと小さな体を跳ねさせ、メイドが整えたシーツをぐちゃぐちゃにしている。かと思えば、少し強い声を私が出しただけで察したように身を縮こまらせたりする。
「……、」
「まったく。勘だけはいいな」
まだ所帯を持つ気もないのに、もう小さな娘が出来た気分だ。これで喋り方まで覚えさせてしまったら一体どうなることやら。
だが懸念事も少しある。
今までレティナから採取していたゲイザーの涙のことだ。
彼女の身体が変化したように、その涙も変質していて『瞳の玉塩』が作れなくなったとしたら?
――私はその時、レティナを今と同じ目で見ていられるのか?
そんなつまらない思考は止めにしてベッドに入る。続くようにレティナが布団の間に挟まると草のような瑞々しい匂いがした。
まだ寒い季節ではないのにレティナは体をぎゅっと寄せてきて、ふんわりとした肢体の柔らかさと控えめな温もりが寝間着越しに伝わってくる。顔をすりすりと腕に擦り付けてくると、髪の毛も一緒になってこすれてくすぐったい。
眠りに落ちていくのはすぐだった。
それからおよそ三日後。
いまだレティナの涙を採取してみる気にはなれず、ただ彼女に言葉を勉強させる日が続いた。しかし当の彼女はあまり気乗りしないらしい、すぐに他の事をしたがる。
結局思うようにはいかず、レティナと遊んでいるだけになっていた。
その日の夜。
いつものように二人でベッドに入って寝ころんでいると、微かな物音がした。それに気づけたのはたまたまレティナの腕が当たって私が起きかけたからで、つまり完全な偶然である。
息を潜めて聞き耳を立てると、それが錠前を触る金属音だと気付く。
……賊かもしれない。
だが音を立てないということは荒事にする気はないはず、下手に暴れるのは下策だが――なぜ扉から入ってこれたのか?
もう少しだけ大きな音を立てた後、ゆっくりと扉が開いていくのが分かる。
「くー……くー……」
横で寝ているレティナの安らかな寝息が不自然なものにさえ聞こえる。
床を歩く音はほとんど聞こえず、月明かりしかない暗い室内で、かつ寝たふりの薄目では賊がどこに居るか探れそうにない。
するとまた違う場所で扉の開く微かな音。
どうやら私の寝室から続くところにある書斎に侵入しようとしているらしい。
これは好機と見た私は、そっとベッドを降りて護身用に使っている樫の杖を探り出す。暗い部屋の中で音がしないように取り出すのは意外と骨が折れた。
ひたひたと足音を殺し、私は書斎の扉に近づく。
そこからそっと中を覗き込むと、こそこそと棚を探っている人間の後ろ姿が見えた。窓から差す月光でぼんやりと浮かぶその禿頭には見覚えがある。
あれは先日、私の部屋を見に来た鍵屋の男だ。
なるほどそういうことか、と心の中で頷きながら、私はそっと背後から忍び寄っていく。
「……く、地下室でないなら……ここ以外に『塩』は……」
距離が縮まるごとに、焦ったような声が鮮明に聞こえてくる。どこで嗅ぎつけてきたのかはともかく、やはり瞳の玉塩が目当てなのだろう。
相手が賊とはいえ命まで取る気はないが、下手に反撃されるのはまずい。
私は音が立たないようにそっと杖を振り上げ――
「あぶナいッ!」
聞き覚えのない声が部屋を揺らし、直後にどさりと何かが倒れる物音が続く。
同時に私は思わず杖を鍵屋の男の禿頭に全力で叩きこみ、
「がっ!」
と呻いて鍵屋の男は動かなくなる。
すぐさま私が振り返って最初の声の主を確認するが――
「このっ、離せ、化け物がっ!」
「うるサい! さいショからオマエはあやしいと思っテタんだ!」
そこに絨毯の上で取っ組み合いをする女性と小さな子供の姿が浮かぶ。書斎で彼女たちが暴れる姿はどこか現実味がなくて夢にさえ思えた。
片方はどう考えても賊の片割れなのに、こちらは聞き覚えのある声。
「く、くそっ、この野郎っ!」
どうやら大きい方の姿は、まだレティナに慣れていなかったあの新米メイドらしかった。
その手に持った凶器をレティナに向けようとしてメイドは仰向けになり、二人の目がばっちりと合う。
「――オイっ、いいカゲんに『暴れるな』ッ!」
その言葉で、突然眠ったかのようにメイドの身動きが静止する。逃げようという気を完全になくしたかのように。
小さな子供はメイドに乗っかると、その頬を力いっぱいに両手でつねりだす。メイドはされるがままだ。
「こイツめ、こい、ツメ……? ア、」
私が近づく足音に気付いたのか、小さな子供が声を止める。
そして私の目前に浮かび上がるのは、真っ赤な一つ目をした白い肌の子供。
どう見ても、それはレティナである。
「……」
そして彼女が私の方を一瞥すると、
「――、――?」
いまさら喋れないふりをした。
新米メイドと鍵屋たちの賊以外に侵入者が居ない事を確かめ、(おおよそ二人とも満足に動けそうにはないが)二人を縄で縛り付ける。盗られたのも数点の貴金属程度のもので、『瞳の玉塩』については秘密を守り通すことができた。元々隠すほどのことも、盗られて困るほどのこともないのかもしれないが。
そうしてようやく私とレティナは、二人でベッドに腰掛けて話ができるようになった。ルームランプに照らされて、幼い彼女の白肌はどこか艶めかしく見える。
「レティナ?」
「――?」
「話せないふりはもういいから」
「……はイ」
私が諌めるとしょんぼりしてレティナが眉尻を下げる。幼さは残るが少し低い声だ。
「別に落ち込まなくていい、お前が喋れるのはむしろ私にとっても嬉しいことだ。
ただ……どうして、それを隠そうとしたのかは聞いておきたい」
「ダ、だっテ……」
問いただすような私の口調に、レティナはなおもびくびくしながら口を開く。その手は落ち着かなさそうに自分の黒髪をいじっている。
「……わかラナいふりしたホウが、きっトいいっテ思っタから」
「どうして?」
「そっちのホウが、ゴシュジンサマの……ホントのきもちがワカるって思ったカラ。
コトバなんてアタシ、すきジャない。
バケモノ、カイブツ。コトバの意味はよく分カラないケド……そう言っテミンな、アタシのことヘンな目でみル」
「……」
「デもっ」
張り切ったようにレティナが声を上げる。
「ゴシュジン、そンナこと言わナかった、そンナ目しなカった!
だカラずっと、そばにいようって思っテた。
……だケド、ゴシュジンサマは、アタシのナミダが、ホシイだけ……」
「レティナ、」
「イイの、分かっテル。マモノだったカラ、そンナことアキラメてた……マモノだったから。
それナノニ……コノ姿になってカラ、ずっとヘンなの。
カラダがズキズキして、シカタなくて……っ」
俯く彼女の目が潤んで、滴で光るのが分かる。
大きな一つ目から流れる涙はとても大粒で、まさしく宝石のように輝いていた。
「……そうか。じゃあ言葉なんて、いらないな」
私は優しくレティナの両肩へ手を置く。
そしてそのままベッドの方へゆっくり体を倒してやると、彼女の細く真っ白な肉体はシーツへ沈み込んでいく。
「あッ……」
レティナの細い体に覆いかぶさるように顔をゆっくりと近づけ、そっとその大きな口に這わせるように、唇を触れさせる。
果肉のように弾力のあるそれは柔らかく、潤いに溢れていた。
「……イイの? ゴシュジンサマ……?」
その問いにゆっくり私は頷いて、レティナの頭を撫でる。
私達が身体を交わらせるのに、それほど時間は掛からなかった。
「……ゴシュジン、サマ……♪」
愛の営みが終ると、にっこりほほ笑む彼女の目からもう一度大粒の涙が零れていた。
彼女にとって人一倍繊細なその眼を傷めないよう気をつけながら、目尻に溜まった涙をぺろりと舐めてみる。
「あうんッ、」
レティナが小さく声を上げる。交わりの最中にも似た甘い声だ。
「んン……? ゴシュジンサマ?」
その味を舌で確かめる私の脳裏に、雷のようにある確信がよぎる。
――きっとこの涙は以前の物より素晴らしい出来の塩になるだろう、と。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ふん、『目玉連れ』ってのがいるのはここか」
髭面で体格のいい男は乱暴に玄関のふすまを開け、ぶっきらぼうに言い放った。
二人とも盗賊や野党というほど風体も行動も荒くないが、上質とは言えない袴着物に刀。
ジパングにやって来てからこういう手合いの者は初めてだ。
『目玉連れ』の言葉を本当に理解しているのなら、そんな不用心なことはしないだろうから。
「……随分としけた部屋だが、ここには違いない。
そこにいる奴が『目玉連れ』だろう。おい、」
髭面の後ろにいた、立派な禿頭のこれまた厳つい男が喋った。
勝手に敷居を跨がれるのは些か気分が悪いが、客であるなら持てなすに越したことはない。
私は返事をして、読んでいた本に栞を挟んでから立ちあがった。
二人の男は私を睨んだまま、玄関先で続ける。
「お前が『瞳の玉塩』を作れると聞いたが、その噂は真実か」
私がこくりと頷くと、もう一人――髭面が目の色を変えた。
「ほ、本当か?!」
『瞳の玉塩』。
それはまさしく塩だが、ひとつまみで小判一枚の価値ともされる、幻の塩である。
宝石のように美しい外見からその玉、つまり宝石という名が付いたそうだ。
他の塩とは次元の違う味を持ち、玉塩を独占するためだけに他国が攻め入ろうとした、なんて話まであるが――。
「わざわざ足を運んできたのだ、大凡は分かっていよう。
断れば、我が国に仇なすと見なす。 だが受けるのであれば、相応の物は払おう。
もちろんその場合は、我が国にお忍びの下で来てもらうが」
禿頭の男は至って冷静に条件を提示してきた。
「丁度暇ができたところだ、受けてもよいが。 一つ、聞いておきたいことがある」
「何だ?」
「お主達は、すでに家庭を……妻を持つ身か」
「……」
私が聞くと二人とも口をつぐんだ。
すぐに返事が出来ないと言うことはつまり。
「み、皆まで言う必要があるか。大体、それとこれと何の関係がある」
それが大いに関係あるのだ。
私はそう返事をして、用意をするから付いて来て貰ってもよいか、と二人の男に声を掛ける。
男たちは訝しみながらも下駄を脱ぎ、私とともに奥の部屋へ入っていく。
奥部屋に続くふすまをあけた瞬間、後ろの男達が息を呑むのが聞こえた。
「――な、」
「まあ、久しぶりのお客さま!」
「おねえさま、そんなにはしゃぐとはしたないですよぅ……」
「わぁい!イイ匂いー!」
同時に私の『娘たち』はふわりと浮かび上がり、無邪気に笑いながら男たちへと飛び掛かる。
愛し子たちの嬉しそうな顔が見れて何よりだ。
「みんな、少し急だがお客様だ。 もてなしてやってくれ」
「はい、お父様っ」
――それから後。
『瞳の玉塩』はその名を世界に広め、筆舌に尽くしがたくうま味のある塩として親しまれていく。
その製造方法は決して語られる事のないままに。
15/04/14 19:28更新 / しおやき
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