誰がカニッツァを結ぶのか
名前も知らない高層マンションをふっと僕は見上げる。階段は鍵が無くても上がれるようだ。
綺麗に掃除されたマンションの階段を登っている間、不思議と何も考えなかった。
何も考えようと思わなかった。
一度だけ、そっと地上を覗いてみる。
色んな光が流れる夜景は幻想的で、宝石のように綺麗だった。
◆◆◆
僕が十二歳だった冬の日。
父さんが仕事帰りに拾ってきた仔犬が、その日で三歳になった。
いつ生まれたのか正確には分からないから、拾ってきた日の誕生日だ。
散々ペットを飼うのを反対した母さんが結局名づけ親で、オスなのに名前は「いちご」。
いちごは散歩が好きで僕がそのお供役になっていて、いちごと僕はよく一緒に遊びに行った。
その日もいちごと出掛けて、初めて行く森や空き地とか、とにかく初めての場所を探検していた。
窮屈そうな縄を放してあげて、いちごを自由にしてあげるのはいつもの事。
変なモノを食べたり舐めたりしようとするいちごを笑いながら、僕といちごは走り回った。
泥んこになって母さんに怒られるのも心配しないぐらいに。
でも、家に帰ったいちごは床にごろんとなったまま動かず、エサも食べなかった。
その日はずっと元気だったのに。
きっと走り過ぎて疲れたんだ、と僕も両親も異変に気付かなかった。
けれど一日経っても、いちごはご飯を食べずに寝転がったまま。
病院に連れて行こうにも、休日だから空いていないと言われてどうしようもない。
月曜の朝すぐに病院に行って、いちごが病気だと分かった時にはすでに遅かった。
何を食べて悪くなったのか検査をしても、もう分からないだろう――、
先生はそう言って、いちごを楽にしてあげるべきだと続けた。
父さんはその日、気付いてやれなくてごめん、といちごに言った。
母さんはずっと黙っていたけれど、自分の部屋でこっそり泣いていたのを僕は知っていた。
僕は泣けなかった。
僕のせいだと知っていたはずだから。
僕だけが知っていたはずだから。
いちごのお墓の前で、僕はただ一言を繰り返していた。
許して。
僕が十四歳だった冬の日。
冬休み、友達と遊びに出かけて帰って来ると、僕の部屋の物がきっちり綺麗に片づけられていた。
大掃除をしたから――と母さんは言う。
色々見られると困るものがあるから「勝手に入らないで」と僕は言っていたのに。
そして僕がお風呂に入ろうとしてタンスを開けた時、異変に気付く。
母さんが僕の服を勝手に捨ててしまっていたのだ。
もう汚れていたから、サイズが小さいから、もっと綺麗な服があるから。
母さんが言うことに何一つ納得ができなくて、何度も何度も僕はお母さんを罵った。
「それは前の学校の友達と交換した服なんだ」と言ってようやく、母さんは黙った。
だけど、服は返ってこない。返ってこないに決まってる。
怒りながら、泣きながら、僕は家から出て行ってしまった。
僕が帰ってきた次の日。
捨てた服を探しに行った母さんが、トラックと正面衝突に遭ったと聞き――、
二度と母さんに会えなくなった事を、一週間後になってようやく、僕は理解できた。
その時僕は泣いただろうか。
泣いていたかどうかさえ覚えていない。
覚えてない。
許して。
僕が十五歳だった冬の日。
何かを忘れるように、ただひたすらに勉強した僕は、難関高への入学試験をなんとか合格した。
「もしその高校に入れたら、一人暮らしをさせて欲しい」――。
そういう約束を二年も前から父さんと、そして母さんと決めていた。
父さんの実家と近い場所にある高校だから、もし何かあった時も大丈夫だろう、と。
そう言ったのは、母さんがいなくなる前だったのだけど。
僕の住むアパートが決まった、翌日の月曜日。
父さんは夜遅くに帰ってきて、母さんが好きだった苺のショートケーキを買ってきた。
一つしか買ってきてくれなかったので僕がどうしてかと聞くと、
「ごめんな、母さんにあげようと思って」と言った。
そういうことならと僕は何も言わず、自分の部屋に戻る、ふりをした。
僕は気になって、父さんの部屋を覗いていたのだ。
母さんの写真立ての前にケーキを置いたまま、ご飯も食べずに父さんはそこに座っていた。
僕が自分の部屋に戻るまで、ずっと座っていた。
ずっと座っていた。
次の日、父さんは部屋から出てこなかった。
帰ってきてからずっと疲れたような目をしていたから、特別に僕は驚かなかった。
でも僕は、どうしようか、どうしていいのか、分からなかった。
僕は部屋の前で、ただ父さんが出てきてくれるのを待っていた。
待っていた。
待っていた。
許して。
スーツを着た知らない人が家に来た。
誰なんだろう。一体何をしに来たんだろう。分からない。
父さんの同僚だと言ったその人が何を話しているのか分からず、怖くて僕は家を飛び出した。
まだ父さんは部屋で寝ているはずなのに、僕は逃げ出してしまった。
逃げ出してしまった。
ごめんなさい、父さん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
許して。
許して。
許して。
緩やかな風を感じながら、僕はそっと目を閉じる。
ただ楽になりたくて、気が付くと僕はマンションの屋上から身を投げていた。
◆◆◆
身体に感じる、柔らかい感触。どこにも痛みは感じない。
ふわふわとしていてまるで雲に包まれているみたい。
空の上かと思ったけど、真っ暗でなにも見えない。
ここはどこだろう。
目が開かない。開けられない。
「悪いね、最初っから全部聞かせてもらってさァ」
男の子のような、女の子のような、中性的な優しい声。
「ホントは頭の中も、記憶も、触れちゃあいけない領域だ――。
どこまでもエゴだらけのチカラだって、自分でも分かってる」
その声は頭に響くみたいで、だけどどこから聞こえるのか分からない。
「それにオマエの話がどこまで本当なのかも、アタシには分からねェ」
今までたぶん聞いた事はなくて、でもどこかで、聞いたような。
「まァ、オマエがそうしたいんなら、そうすべきなんだろうよ」
僕に語りかけているはずなのに、僕の内から聞こえてくるような、不思議な声。
「だから止める権利なんざ、アタシにはない。 たぶんな」
けれどその声は地平線まで広がる草原のように澄んでいて。
「でも、」
僕の身体をぎゅっと包む感触に、人肌のような温もりを感じ、
「捨てるくらいなら、アタシにくれたっていいだろ」
僕を抱きしめるの生きている誰かだと分かって、
「なあ。 アタシのしてる事ってもしかしたら、消えちまうより残酷な事、なのかな。
そうだとしたら――そうだとしても、背負ってやるよ」
開けられなかったはずの僕の目が、ゆっくり開く。
「アタシが、オマエを許すから」
僕が見たのは、宝石のように綺麗な、真っ赤で大きい瞳。
「だからオマエも、アタシの事を。
アタシが忘れさせた事を、いつか――許してくれ」
吸い込まれそうなその瞳を、僕はただ眺めていた。
◆◆◆
次に目が覚めた時、僕は病院のベッドだった。
父さんがどうなったのかを、父さんの会社の人から聞いて、そして僕は何も言えなかった。
ただ、黙って泣くことしか出来なかった。
いちごも、母も、みんな”事故”で亡くなっていった。
父さんはきっと、度重なる別れに、そして僕が旅立ってしまう事に、耐えられなかったんだろう――
会社の人と親戚の人たちは、みんなそう言っていた。
父さんと母さんが残したお金と、そして親戚の人たちのおかげで、僕は高校に行ける、らしい。
でもその時はそれがどうでもよくて、病室から出ることさえ出来なかった。
お見舞いに来てくれた学校の子もいたけれど、愛想よく返事をすることもなかった。
僕の入院が始まって、一週間後。
特に大きな外傷はなかったらしく、うまくいけば僕はもう明日には出られるそうだ。
それと。
二人部屋で空きのあった僕の病室に誰かが入院してくる、という話を聞いた。
だから突然、知らない誰かが入ってきても仲良くしてあげてね――と、看護師さんが笑って言う。
女の子で目の病気を患っているらしいけれど、やはり関心は持てないままで。
話を聞きながら、部屋のテレビをただ眺めていることしかできなかった。
その日の深夜。
病室のカーテンを閉じてベッドに寝ていると、病室のドアが開く音がする。
けれど足音はなく、扉が開く以外に何の音もしない。
閉め忘れて開いたままの窓から射す満月に照らされ、病室のカーテンに影のシルエットが現れる。
そこに映るのは女の子のように細い人影と、ロープのようにうねうねで、でこぼこの影が何本か。
人間にしては、あまりにも歪なその影の形。
そのとき突然、開いた窓から強い風が吹きだした。
カーテンが大きくはためいて、その向こうにいる誰かの姿が一瞬だけ露わになる。
ほの白い肌、黒い触手、にっこりと笑った口元、鋭そうなぎざぎざの歯。
それはとても恐ろしい魔物のようにも、神秘的な女の子のようにも見えて。
「ほら、もうジューブン休んだだろ」
とても優しい声とともにカーテンが開き、
「アタシのトコに来る準備は、いいよな」
宝石のように綺麗で、大きく真っ赤な一つ眼が僕を見ていた。
綺麗に掃除されたマンションの階段を登っている間、不思議と何も考えなかった。
何も考えようと思わなかった。
一度だけ、そっと地上を覗いてみる。
色んな光が流れる夜景は幻想的で、宝石のように綺麗だった。
◆◆◆
僕が十二歳だった冬の日。
父さんが仕事帰りに拾ってきた仔犬が、その日で三歳になった。
いつ生まれたのか正確には分からないから、拾ってきた日の誕生日だ。
散々ペットを飼うのを反対した母さんが結局名づけ親で、オスなのに名前は「いちご」。
いちごは散歩が好きで僕がそのお供役になっていて、いちごと僕はよく一緒に遊びに行った。
その日もいちごと出掛けて、初めて行く森や空き地とか、とにかく初めての場所を探検していた。
窮屈そうな縄を放してあげて、いちごを自由にしてあげるのはいつもの事。
変なモノを食べたり舐めたりしようとするいちごを笑いながら、僕といちごは走り回った。
泥んこになって母さんに怒られるのも心配しないぐらいに。
でも、家に帰ったいちごは床にごろんとなったまま動かず、エサも食べなかった。
その日はずっと元気だったのに。
きっと走り過ぎて疲れたんだ、と僕も両親も異変に気付かなかった。
けれど一日経っても、いちごはご飯を食べずに寝転がったまま。
病院に連れて行こうにも、休日だから空いていないと言われてどうしようもない。
月曜の朝すぐに病院に行って、いちごが病気だと分かった時にはすでに遅かった。
何を食べて悪くなったのか検査をしても、もう分からないだろう――、
先生はそう言って、いちごを楽にしてあげるべきだと続けた。
父さんはその日、気付いてやれなくてごめん、といちごに言った。
母さんはずっと黙っていたけれど、自分の部屋でこっそり泣いていたのを僕は知っていた。
僕は泣けなかった。
僕のせいだと知っていたはずだから。
僕だけが知っていたはずだから。
いちごのお墓の前で、僕はただ一言を繰り返していた。
許して。
僕が十四歳だった冬の日。
冬休み、友達と遊びに出かけて帰って来ると、僕の部屋の物がきっちり綺麗に片づけられていた。
大掃除をしたから――と母さんは言う。
色々見られると困るものがあるから「勝手に入らないで」と僕は言っていたのに。
そして僕がお風呂に入ろうとしてタンスを開けた時、異変に気付く。
母さんが僕の服を勝手に捨ててしまっていたのだ。
もう汚れていたから、サイズが小さいから、もっと綺麗な服があるから。
母さんが言うことに何一つ納得ができなくて、何度も何度も僕はお母さんを罵った。
「それは前の学校の友達と交換した服なんだ」と言ってようやく、母さんは黙った。
だけど、服は返ってこない。返ってこないに決まってる。
怒りながら、泣きながら、僕は家から出て行ってしまった。
僕が帰ってきた次の日。
捨てた服を探しに行った母さんが、トラックと正面衝突に遭ったと聞き――、
二度と母さんに会えなくなった事を、一週間後になってようやく、僕は理解できた。
その時僕は泣いただろうか。
泣いていたかどうかさえ覚えていない。
覚えてない。
許して。
僕が十五歳だった冬の日。
何かを忘れるように、ただひたすらに勉強した僕は、難関高への入学試験をなんとか合格した。
「もしその高校に入れたら、一人暮らしをさせて欲しい」――。
そういう約束を二年も前から父さんと、そして母さんと決めていた。
父さんの実家と近い場所にある高校だから、もし何かあった時も大丈夫だろう、と。
そう言ったのは、母さんがいなくなる前だったのだけど。
僕の住むアパートが決まった、翌日の月曜日。
父さんは夜遅くに帰ってきて、母さんが好きだった苺のショートケーキを買ってきた。
一つしか買ってきてくれなかったので僕がどうしてかと聞くと、
「ごめんな、母さんにあげようと思って」と言った。
そういうことならと僕は何も言わず、自分の部屋に戻る、ふりをした。
僕は気になって、父さんの部屋を覗いていたのだ。
母さんの写真立ての前にケーキを置いたまま、ご飯も食べずに父さんはそこに座っていた。
僕が自分の部屋に戻るまで、ずっと座っていた。
ずっと座っていた。
次の日、父さんは部屋から出てこなかった。
帰ってきてからずっと疲れたような目をしていたから、特別に僕は驚かなかった。
でも僕は、どうしようか、どうしていいのか、分からなかった。
僕は部屋の前で、ただ父さんが出てきてくれるのを待っていた。
待っていた。
待っていた。
許して。
スーツを着た知らない人が家に来た。
誰なんだろう。一体何をしに来たんだろう。分からない。
父さんの同僚だと言ったその人が何を話しているのか分からず、怖くて僕は家を飛び出した。
まだ父さんは部屋で寝ているはずなのに、僕は逃げ出してしまった。
逃げ出してしまった。
ごめんなさい、父さん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
許して。
許して。
許して。
緩やかな風を感じながら、僕はそっと目を閉じる。
ただ楽になりたくて、気が付くと僕はマンションの屋上から身を投げていた。
◆◆◆
身体に感じる、柔らかい感触。どこにも痛みは感じない。
ふわふわとしていてまるで雲に包まれているみたい。
空の上かと思ったけど、真っ暗でなにも見えない。
ここはどこだろう。
目が開かない。開けられない。
「悪いね、最初っから全部聞かせてもらってさァ」
男の子のような、女の子のような、中性的な優しい声。
「ホントは頭の中も、記憶も、触れちゃあいけない領域だ――。
どこまでもエゴだらけのチカラだって、自分でも分かってる」
その声は頭に響くみたいで、だけどどこから聞こえるのか分からない。
「それにオマエの話がどこまで本当なのかも、アタシには分からねェ」
今までたぶん聞いた事はなくて、でもどこかで、聞いたような。
「まァ、オマエがそうしたいんなら、そうすべきなんだろうよ」
僕に語りかけているはずなのに、僕の内から聞こえてくるような、不思議な声。
「だから止める権利なんざ、アタシにはない。 たぶんな」
けれどその声は地平線まで広がる草原のように澄んでいて。
「でも、」
僕の身体をぎゅっと包む感触に、人肌のような温もりを感じ、
「捨てるくらいなら、アタシにくれたっていいだろ」
僕を抱きしめるの生きている誰かだと分かって、
「なあ。 アタシのしてる事ってもしかしたら、消えちまうより残酷な事、なのかな。
そうだとしたら――そうだとしても、背負ってやるよ」
開けられなかったはずの僕の目が、ゆっくり開く。
「アタシが、オマエを許すから」
僕が見たのは、宝石のように綺麗な、真っ赤で大きい瞳。
「だからオマエも、アタシの事を。
アタシが忘れさせた事を、いつか――許してくれ」
吸い込まれそうなその瞳を、僕はただ眺めていた。
◆◆◆
次に目が覚めた時、僕は病院のベッドだった。
父さんがどうなったのかを、父さんの会社の人から聞いて、そして僕は何も言えなかった。
ただ、黙って泣くことしか出来なかった。
いちごも、母も、みんな”事故”で亡くなっていった。
父さんはきっと、度重なる別れに、そして僕が旅立ってしまう事に、耐えられなかったんだろう――
会社の人と親戚の人たちは、みんなそう言っていた。
父さんと母さんが残したお金と、そして親戚の人たちのおかげで、僕は高校に行ける、らしい。
でもその時はそれがどうでもよくて、病室から出ることさえ出来なかった。
お見舞いに来てくれた学校の子もいたけれど、愛想よく返事をすることもなかった。
僕の入院が始まって、一週間後。
特に大きな外傷はなかったらしく、うまくいけば僕はもう明日には出られるそうだ。
それと。
二人部屋で空きのあった僕の病室に誰かが入院してくる、という話を聞いた。
だから突然、知らない誰かが入ってきても仲良くしてあげてね――と、看護師さんが笑って言う。
女の子で目の病気を患っているらしいけれど、やはり関心は持てないままで。
話を聞きながら、部屋のテレビをただ眺めていることしかできなかった。
その日の深夜。
病室のカーテンを閉じてベッドに寝ていると、病室のドアが開く音がする。
けれど足音はなく、扉が開く以外に何の音もしない。
閉め忘れて開いたままの窓から射す満月に照らされ、病室のカーテンに影のシルエットが現れる。
そこに映るのは女の子のように細い人影と、ロープのようにうねうねで、でこぼこの影が何本か。
人間にしては、あまりにも歪なその影の形。
そのとき突然、開いた窓から強い風が吹きだした。
カーテンが大きくはためいて、その向こうにいる誰かの姿が一瞬だけ露わになる。
ほの白い肌、黒い触手、にっこりと笑った口元、鋭そうなぎざぎざの歯。
それはとても恐ろしい魔物のようにも、神秘的な女の子のようにも見えて。
「ほら、もうジューブン休んだだろ」
とても優しい声とともにカーテンが開き、
「アタシのトコに来る準備は、いいよな」
宝石のように綺麗で、大きく真っ赤な一つ眼が僕を見ていた。
18/09/21 10:28更新 / しおやき