ひとかじり
彼女はゲイザーでありながら、これまで一度も精を口にした事がないと言った。
それは一体どれほど稀有な例なのかと知り合いに問うと、「白ご飯を食べたことがない日本人」ぐらいだそうだ。食に関心の強いグールである彼女らしい答えだと思う。
つまりそれは懇ろになった相手もいないし、そういう行為を行った相手もいないという事だ。
本来ゲイザーは男性の精を糧にする好色な魔物娘のはずなのに。
「じゃあ、子供の頃は?」
「さあ。薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたような気もしますね」
読書好きな彼女らしいごまかし方ではぐらかされて、それから彼女が続ける。
彼女の外見で最も目を引くであろう、赤く大きな一つ目が僕を眺めていた。
「私が食べてきたのはたぶん人間が口にするような食べ物ばかりでしたけど、今の所健康に異常はありません。
人間にも野菜しか食べない人がいるそうですから、偏る、という事自体は魔物である私にも有り得る話です」
研究室のベランダにある手すりから彼女はどこか遠くを眺めた。
キャンパスから外向きにあるここからは穏やかな風が吹いて、周りを囲む山や木々などの豊かな自然が見える。彼女が住んでいたという洞窟がこの近くであるのをふっと思い出した。
ふっと風が吹き、黒く長い髪が緩やかに揺れる。
飾り気のない真っ黒なジャケットを彼女がそっと脱いで椅子に掛けた、上着の下には地肌と同じくらい白いブラウスを着ている。雪のように白い彼女の肌はとても異質で、人間の肌とはまた違った艶めかしさがあった。
「もしかすると、」と彼女は付け加え、
「体の構造そのものが変化しているのかもしれません。
魔力というのを、実は私自身もよく分かっていなくて――それを意識したことが今まで、私の人生になかったんです。
私の一つ目には、それはそれは不思議な力があるらしいですけれど……知っていますか?」
もちろん、と僕は答える。
ゲイザーという種族は本来、その一つ目で男性に暗示を掛けて好意を持たせることで精を得る。
糧を得る為の武器、ライオンの牙と同じようなものだ。
「私は、それを使った事がありません。本を読んで初めて知りました。
だから人間と同じみたいに、人間の食べ物を食べていても飢えなかった、かもしれませんね。
魔力という物をそもそも意識していないのですから」
同じようにベランダから景色を眺めていた僕は彼女の言葉へ耳を傾ける。
手すりに添えられた彼女の手は真っ白で、僕が昔に本で見たゲイザーの姿とは異なる。
本来ゲイザーは魔力の保護膜で体を守っており、手足はその膜のせいで真っ黒いはずなのに彼女は違う。その差異は彼女の口から言われずとも分かった。
「……でも、自分の事さえ知らないのに、これから誰かと愛し合う事が出来るんでしょうか。
自分の力もよく分からないまま、大事な何かをいつか逃してしまうんじゃないかって――。
それだけがずっと、不安で」
いつも控えめな声はさらに小さくて、風に掻き消されてしまいそうだった。
初めて彼女と会ったのは、ぼくが大学に入って一年後のことだ。
魔物娘という存在はぼくが子供の頃に認知された存在だそうで、昔は色々と騒ぎがあったと聞いている。でも、なにぶん子供の時なのでよくは覚えていない。
中高と学校に通うあいだも魔物娘を見かけることはあったけど、僕にとってはたまに見かける外国人程度の意識でしかなかった。
大学生になった僕は実家を離れ一人暮らしをしながら大学に通い、心理学科の専攻を取っていた。二回生に上がってゼミに入った時、僕は初めて彼女と出会った。
大学に通う魔物娘、というのもそれなりに珍しいのだけど、それがゲイザーという種族なら尚更だろう。
彼女は普段から人間と同じような服を着て、特徴的なその黒い触手は(どういう方法かは分からないが)見えなかったし、派手な格好もしていなかった。真っ赤な一つ目だけは目立っていたけれど、それ以外はまるで人間のようだと、僕はそう思っていた。
だから、精を口にした事がないという彼女の話は意外に思いつつも納得できたのだ。そして「珍しい」という印象もあって、一つ目の女の子、という程度には彼女を覚えていた。
教室に来ればいつも真面目に講義を聞いている、誠実そうな女の子だったということも。
彼女と初めて話したのは僕が研究室にいた時の事で、そのときは一人でレポートに取り掛かっていた。
「すみません。少し見学してみたいんですが、その、よろしいでしょうか」
ノックをしてから丁寧にお辞儀をして、彼女はそう言った。
体つきは他の女の子と比べても細く小さく、背丈は僕の肩ほど。それに一つしかない目が大きいせいか顔が小さく見えて、より幼く感じる。平凡なシャツの上に、いつもの地味な黒のジャケットを羽織っていて、その下はモノクロのスカート。肩に下げた飾り気のない鞄は使い込まれている。
上着よりも黒い髪の毛は長くまっすぐ両肩に流れていてセミロング程度。前髪はその一つ目の半分が隠れそうなほどの長さだった。
「見学? うん、自由に見てもらっていいけれど……。
ごめんね、今は僕一人しかいなくて。簡単でいいならここの紹介はするけれど」
雰囲気も外見もとても大人しそうな子で、密やかな声は細く、緊張しているように見えた。
普通の学生は何人かで、もっと軽い感じで見学をしに来る事が多いので、彼女のように一人でやってくるのは珍しい。 それが魔物娘であるならことさらにだ。
このゼミによほど興味があるのか、一人で行動するのが性に合っているのかのどちらかだろう。
「差支えないなら、ぜひお願いします。……あ、申し遅れました。
はじめまして。明(めい)と申します」
彼女はそういって、また大きくおじぎをする。長い髪が揺れて、ふわと香りが舞った。
それから彼女はよく研究室に来るようになった。
大学の規則としては入るゼミを決定するのが二回生からなので、まだ正式にはゼミ生ではない。しかし加入していると言っても過言ではないぐらいに熱心だった。
魔物娘の学生というのは、伴侶をこれから見つけるにしても、もう相手がいるにしても、勉学に関して少々不真面目なきらいがあるが彼女はそうでない。
ぼくよりも真面目に講義を受け、いろんな本を読み、知識を得ようとしていた。
そしてそんな彼女の事が僕は段々と気になりだした。
彼女はどうしてこの大学へ真面目に通っているのか。
魔物なのに精を口にしない理由はあるのか。
それまでは「同じ研究室の仮ゼミ生」という認識だった彼女を、少しずつ、知りたくなったのだ。
「私が勉強する理由、ですか?」
「いつも一生懸命だからね。少し、気になって」
今日も真面目に研究室に来た明へコーヒーを淹れるついでに、ぼくは思い切って聞いてみた。
「ありがとうございます」と言いながら彼女が頭を下げる。彼女には僕の席の横にある椅子を借すことにした。その場所は普段ベルという名前の、グールの女の子が使っている席なのだが、普段からほとんど来ないため、驚くほど物が少なく、置いてある物もお菓子の方が圧倒的に多い。
小さな体をつつましく椅子に座らせた明は、考えるような仕草をしながら大きな目玉をぐるんと動かした。
最初は彼女の一つ目に対し、鳥よけの風船を見るかのようにもの珍しげな視線を僕は送っていたが、最近は慣れたのか好きになったのか、彼女のチャームポイントに思えてきた。
「……前に私、自分の力は使った事がないって言いましたよね。
けど本でそれを知ってから、自分に備わっている『暗示』っていう力が一体何なのか。
それがずっと気になってたんです。でも、どうすればいいか分からなくて……」
「それで勉強を? なんだか、変な話にも聞こえるけれど……」
「かもしれませんね。
ただ、私の力って、それはそれは強いものだそうです。……自慢みたいになりますけど。
そんな物を扱うからには、しっかりした知識が必要だと思いまして、それで」
魔物娘としての力の使い方を学ぶ為に勉強する、というのはかなり変な話だが、普段の素行を見れば彼女が真面目にそう思っているのは確かだ。心理学というものが暗示の力とどう結びつくのかは僕にも分からないけれど、彼女なりに考えがあるのだろう。
ぼく自身、ゲイザーの暗示という物は見たことがないから、どれほどの物か想像もつかない。
催眠術のような眉唾なものか、本当に意思がすり替わってしまうのか、ぼくにも興味があった。
「でも、不安もあります」
「不安?」
「自分の学んでいる事を……自分の力を、役に立てるのかどうか。
……あ、いえ。ごめんなさい、聞かなかったコトにしてください」
「?」
そう言うと彼女は、何かまた考え事を始めるようにうつむいていた。
「明さんってよく一人でいるけど……彼女、人付き合いは苦手なの?」
「んー、人当たりは良いほうだと思うけどねぇ」
明がゼミに来るようになってから、二週間ほど経った頃のこと。
偶然大学のカフェで会った、僕と同じゼミの生徒で同期のベルさんに彼女の事を聞いてみた。
勉学はともかく、人間関係に関して彼女は非常に顔が広い。
「でもあの子、他の女の子からの誘い、みーんな断ってるじゃない?
フツーの魔物娘さんだとそれって『彼がいるから誘わなくていい』ってゆーサインと同じなのよ。
だから周りは一人だと思ってないだろうし、彼女も自分から探す気がない、ってわけね」
ベルさんはグールという種族でなにやら物々しい感じはするが、見てくれは陽気な女性であり、フットワークの軽い女性だ。
クリーム色の長い髪と、抜群なプロポーションはまるで海外女優のようである。グールの性(さが)なのか、いつも何かを口にしていること以外は取り立てて変な所もない。
でも大学ではあまり見かけたことがないので、魔物娘の例に漏れず恐らく彼氏さんと忙しいのだろう。実際どうなのかは聞いた事がないが。
「そうなのか……それだと大変だな、あの子も」
「どーかしらねえ。あの子のコト、ちゃんと分かってるんならそれで正解だと思うけど。
今の彼女はつまり、ダイエットしすぎた女の子なわけよ。
まあ本人に自覚があるかないかは分からないけど――少しでも食べ物を見せちゃったら飛びつかれるわけね」
ベルさんは大きな苺パフェをつつきながら、意味ありげな言葉を言う。
明の事が知りたいという下心を巧みに使われ、その見返りとして上手にデザートをせがまれたぼくはその真意をくみ取ろうと必死だった。
「それは、どういう?」
「あら、分かんないの? まあそういう所もお似合いよね。
けど彼女、いいかげん寂しがってるからさ。どっか遊びにでも行ってあげたほうがいいんじゃないかな」
「でも、僕が誘っても……」
「向こうもそう思ってたら、そのまま進まないよ?」
「……」
僕の想いはどこまで見抜かれているのか。魔物娘という種族の強かさをまた知った気がする。
パフェを食べ終わったベルさんは「ごちそうさまでした」と手を合わせたあと、ポケットから棒付きキャンディを取り出した。これだけ甘い物を食べていて彼女の体格が崩れないのは何故だろう。
一度聞いてみたい気もするが、まともに答えてくれそうにはないと思ったので止めておいた。
「んー、パフェまで奢って貰っちゃったのに、なんか役に立たないアドバイスばっかりでごめんねぇ」
「あっいや、そういうつもりじゃあ、」
「おっと、そうだったっけ?
じゃあまた何でも聞いてよ。次はもっと豪華なレストランの前で会おうね」
ベルさんは、恐らく食べ物であろう何かで大きく膨らんだサイドバッグを持って、大学の本館とは別の方へ出ていった。まだ午後二時なのに講義はいいのだろうか。
そんな事を心配しながら、ぼくはまた明のことを考えていた。
彼女を誘う口実を。
「映画……ですか?」
「う、うん。もし予定が空いてるなら、どうかと思って」
研究室の中、僕は二人きりになるタイミングを待ち、彼女へようやくその話題を切り出した。
ただ遊びに行こうと誘うだけの事なのに、それは大企業への飛び込み営業と同じくらいに無謀かつ、困難に思えた。断られるだけならまだしも、気を遣わせて今後の雰囲気が変わってしまうことも怖かったから。
僕はコーヒーを飲むフリをしながら必死に心を落ち着かせて明の返事を待つ。
すっかり彼女のモノになってしまったベルの席で、明はそわそわと服の袖をいじっている。いつもの黒いジャケットだ。
「でも……先輩って、その。他に彼女とかいらっしゃるんじゃ、」
「いっ、いないよ、まだ!」
何故か少し大きな声になってしまった。大々的に言いたい事でもないのに。
「あ、えと、そうなん、ですか?」
明の声色がちょっと変わって微妙な空気が漂う。何と言ったらいいか分からない。
僕は自分の緊張をごまかそうと必死に机から資料を探すふりをしていた。
「あ、の……先輩、誘って頂けるのは、ありがたいんですけど……」
そう彼女に言われた瞬間、僕の血の気が引く。
やはり、あまりにも突然すぎたんだろうか。
「実は、わたし……お金が無くて。
服も、勉強道具も、みんな、他の方から貰ったものばかりで。
映画も、見に行くお金、無くて……行けないんです。ごめんなさい」
えっ、と思わず僕は声が出た。
そんな事を聞いたのは初めてだったし、それが僕の誘いを断る為の冗談にも聞こえなかったからだ。
嘘を言うなら言うで、彼女ならもっと良い言い訳が考えられるはずだから。
「じゃ、じゃあどうやって生活を?」
「……私、ご飯はほとんど、食べないんです。
家は、友達の家に泊まったり、昔住んでた洞窟に戻ったりを繰り返してて。
ここの研究室に居させて頂いた事も、何度か。
だから、お財布も持ってないんです」
そう言われればとばかりに、思い当る節はあった。
一年生の頃から熱心にゼミに通う理由と、いつも似たような地味な格好をしている理由。
それに、彼女は確かに熱心に大学へは来ていたが、試験の日にはまず見ていない。
「それに、」
突然、彼女がぐるりと周囲を見渡した。
おそらくは僕達の他に誰かいないかもう一度確認したのだろう。
「……私、ほんとうはここの学生じゃないんです。こっそり、勝手に来てるだけなんです。
幸いこの研究室の先生は、気にしないでいいって、そう言ってくれたんですけど……」
あまりに多くのコトを打ち明けられ、何が何だか分からなくなる。
しかもそんな風に言われてしまうと彼女の事がますます気にかかってしまう。
でも今、何よりも早く聞きたい事が一つあった。
「うーんと、じゃあお金の問題さえなかったら、一緒に行ってくれる、のかな」
「……はっ、はいっ」
不意を突かれたように彼女はびくっとして、大きな一つ目をぎょろりとさせた。
それならもちろん、僕の答えは決まっている。
「なら大丈夫だね。
元々貰い物のチケットだし、電車賃だって食事代だって、僕が出すから」
「そ、そんなわけにはいきません。先輩にどれだけご迷惑が掛かるか……」
「初めからそのつもりだったから」
「けど……」
「いいのいいの。じゃあ、今度の土曜の朝、大学から一番近い駅に来てもらってもいいかな」
「その、でも、」
「そんなの気にしなくていいよ、だから――」
結局、気を遣う彼女を説得するのにかなりの時間が掛かってしまった。
その間ずっと研究室に誰も入ってこなかったのは運が良かったのか、それとも他の皆も気が付いてくれていたのか。
どちらにせよ、ようやくこれで一歩進めた気がした。
「お、おはようございます、先輩。えっと今日は、お世話になります」
田舎なせいか休日なのに人の少ない駅の入り口に、明が立っていた。
控えめな恰好は大学にいる時と変わらないようで、いつもの黒のジャケットにギンガムチェック柄のスカートだった。
ぱっと見た感じでも、彼女は緊張している。遠出(というほどではないが)するのが苦手なのかもしれないし、二人きりで行動するのも初めてだから、そのせいかもしれない。
「うん、おはよう。随分早いね。まだ十分前だけど、どれぐらいに着いたの?」
「さ、三十分前には。
電車は時間に厳しいと聞いたので、遅れたらいけないと思って」
「そ、それはごめん、待たせちゃったね」
「いえっ、大丈夫です。その、楽しみだったので、つい」
固い表情が少し解けて、明がはにかんだ。
そう言ってもらえれば彼女を無理に誘ってしまったような気持ちも和らぐ。
「じゃあ、まだちょっと早いけど駅に入ろう」
「はっ、はい。 ……し、失礼しますっ」
そう言って彼女はおずおずと手を伸ばし、僕の右手の先っぽをそっと掴んだ。
僕の手を握る手は雪のように白くゲイザー特有の黒い膜はなく、僕の手よりも温かい。
突然の事に、少し驚いたまま彼女の顔と手を見比べるしか僕は出来ず、僕も彼女も黙ったまま妙な空気が流れていた。
「あ……、えっと、『こういう時』は、て、手を握るのが作法だと……ベ、ベルさんが。
ごめんなさい、こういうコト初めてなんで、よく分からなくて」
「だ、大丈夫だよ」
少し落ち込んだような顔をしたものの、恐る恐る握った僕の手を彼女が放すことはない。大きな瞳がぐるんぐるんと左右に動いていて、落ち着かない様子だ。
僕も女性に慣れているわけではないので、手が触れているだけでも気恥ずかしい。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
僕はそう言って、彼女の手をぎゅっと握り返す。
彼女の手が少しだけ強張ったけれど、すぐに彼女の方も握り直してくれた。
映画を見終わってから、僕たちは近くのお店に入ってお昼を取る事にした。
「私はいいですから」と言って彼女は断ろうとしたけど、そこは押し切って近くにある静かそうな店へ入った。
「映画館ってすごいですね。あんなに広い所で、すごい音で……びっくりしちゃいました」
「ってことは、映画を見に来たのは初めて?」
「はい、初めてなんです。友達の家でも色々見せてもらった事はあったんですけど、全然違いますね。
それにあの話が、あんなふうに再現されるなんて……」
電車に乗っている間は分かりやすく緊張していた彼女だったが、映画館に入ると好奇心が勝ったらしく、少しずつ饒舌になっていった。
今日の映画は彼女の知っている小説が原作だったため尚更だろう。
「そんなに楽しかったなら、僕も誘ったかいがあったな。
あんまりこの辺のお店知らなくて、適当に入っちゃったけど大丈夫?」
「だから私はいいですよ。お金もありませんから……」
「気にしないで、僕だけもぐもぐ食べてるのも味気ないし。
何か食べたいものとかある?」
「えっ……と、」
何度も了承したあと、ようやくメニューを受け取ってくれた明が中を開いてぺらぺらとめくる。
申し訳なさそうに彼女がそっと指さしたのは甘くておいしそうなフレンチトーストの写真だった。
「じゃあ、それにしようか」
「……本当に、いいんですか?頼んじゃっても……」
「大げさだなあ。あ、コーヒーか紅茶か選ぶみたいだけど、どっち?」
「え、えっと。コーヒーで」
頼んだ飲み物と料理が運ばれてくると、彼女が僕の様子をちらちらと伺いながらフレンチトーストを見ていた。僕が勧めてようやく彼女も手を付けたので、それから僕も頼んだサンドイッチを食べ始めた。
「わ、すっごく甘い……おいしいです、これ!」
「そうなの?ちょっと一口食べてみたいな」
と、僕が冗談交じりに言ってみると、
「はい、どうぞ」
切り分けたフレンチトーストをフォークに刺して、彼女は僕の口の前にそっと差し出す。
つまりは、彼女の手から僕に食べさせるような形で。
彼女自身は特にそれを気にしていないのか、フォークを出したまま微笑んでいる。
「えーっと……」
さすがに気恥ずかしすぎるので何か言おうとした瞬間、水晶玉のような彼女の赤い目と視線が合った。
その曇りのない瞳を見ていると何故か断れない、いや僕だってそれをしてもらうのは嬉しいけれど、まだ彼女になったわけでもないのに、という自制のような気持ちもあった。
しかし彼女の素直な目を見ていると断る為の言葉なんてどこにも見つけられそうにない。
「い、いただき、ます」
顔を真っ赤にしながら僕は顔を彼女のフォークに寄せ、フレンチトーストを唇で挟んでおそるおそる口の中へ入れる。こんな事自体が初めての経験なせいかとにかく顔が熱い。せっかく貰ったフレンチトーストの味なんてまったく分からない。
「どうです?」
「お、おいしいね。たしかに」
そうは言ったが、味わう余裕なんてどこにもなかった。
ドキドキする心をできるだけ鎮めようとしながら明の方をちらっと見るけれど、さっきの行動を特段気にしている様子はない。
彼女自身はこれが別に特殊な行為だとも思っていないのだろうか、少し確かめたくなる。
「そうだ、このサンドイッチも美味しいよ。一口どう?」
「えっ。いいんですか?」
僕は彼女が返事をすると同時に、卵のサンドイッチを彼女の前に差し出してみる。
手で受け取ろうとした彼女に対して僕は、
「た、食べさせてあげるよ」
「……え、っと、」
差しだされたサンドイッチを前に、彼女の大きな赤い目がぐりぐりと動いた。
食べさせてもらうのも食べてもらうのも初めてだったので、僕の声は大分上ずっていただろう。
しかし彼女はというと、さっきの僕よりうろたえている感じだ。
「これ……って、なんだか……恥ずかしい、ですね……」
「……うん」
さっき僕に食べさせた時は本当に無意識でやったのだろう、彼女はもじもじと落ち着かない様子を見せる。
なんだか無理強いをさせてるみたいで罪悪感すら感じるが、さっきも僕もされたので、なんだかお返ししてやりたい気分でもあるのだ。
「いただき、ます」
意を決したらしい彼女は小鳥が餌をついばむように、そっとサンドイッチの端を咥えた。
そのまま、
「……っ」
歯を見せないようにそっと齧った。
端っこしか食べていないので恐らく中身までは到達していないが、彼女にはそんなことを考える様子すらなさそうだ。
しかしこれは、小動物に餌付けしているみたいでなんだか楽しくなってくる。やる側としては。
「はい、もう一口。まだタマゴまで届いてないみたいだし」
「え、え、っと」
さらにおかわりを出す僕に、彼女はまたうろたえながらも口を近づける。
今度は少し千切って、ちゃんと中身の入っている部分をあげる。しかしその分、「食べさせている」という感じはより強い。
「んっ……ぐっ、」
さっきよりは落ち着いて口で受け取った彼女だが、顔は真っ赤でやはり味わう余裕はないだろう。
僕自身もさっきまでこんな感じだったかと思うと恥ずかしいが、これでイーブンだ。
落ち着くためにアイスコーヒーを流し込んでから彼女に聞く。
「どうかな、味は」
「おお、おいしい、でうっ」
語尾を噛んだ彼女の何とも言えない表情を見ると、満足感を得るのと同時に「自分の手から明に食べさせた」という事実を僕は再認識させられ、また恥ずかしさがこみ上げてくる。
店内にお客が少なく、変な目で見られなかったのが幸いだった。
結局その日のデートはそれなりの感じで終わり、彼女とまた一歩仲良くなった自信があった。
劇的に変わったという事もないが、確かな歩みを感じる。
それから数日は、彼女と打ち解けた感じで喋れていたのだが――
「明。おはよう」
「お、おはよう、ございます」
金曜日の朝。
研究室に行くと明がソファに座っていたので挨拶をしたが、ぎこちなく彼女は挨拶を返すと、僕の様子を伺いながらそのまま外へ行ってしまう。名実ともに九割は明の物になっているベルさんの机には飲みかけのコーヒーが置かれていた。湯気が立っているのでまだ淹れたばかりだろう。
デートの日から一週間ほど経ってから、何故か明の態度が変わった。
ほとんど自分から話しかけてこなくなったし、僕が話しかけてもうろたえることが多い。
以前から彼女には多少意識されていたつもりだったが、最近は意識され過ぎているような感じで常に警戒されているようにも感じる。
気づかないうちに何か悪い事でも言ってしまったのかと思ったが、にべもなく嫌われているという雰囲気でもない。
それでも、彼女と和やかに話が出来ないのは辛かった。
「……」
僕は集中できない頭のまま、今日のゼミについてのレポートを見直していた。
それから夜が更け、時計を見ると午後八時。
さすがに明も研究室には戻ってきていたが、あまり集中できていないのはお互い様らしい。
他の生徒はもう帰っていて、研究室は僕と明だけの沈黙した空間になった。
僕を避ける理由を聞きたかったが、原因がさっぱり思い当たらないのでどう言えばいいかも分からない。
結局僕は何も言わず、軽く挨拶だけして研究室を出ていく。
「おつかれさまです」という彼女の小さな声だけが聞こえた。
エレベーターを降り、玄関の扉を開けると一際強い寒風が吹いた。
まだ春になりかけの時期なので、外に出ると一段と肌寒く感じる。
最近よく着ている茶色のダッフルコートをちゃんと羽織ってきたのに、研究室の椅子に掛けたまま出てきてしまった。
今から戻るのは少し格好悪いが、研究室にいるのは明だけだ。そんなに気後れはしない。
廊下は照明が弱めになっていてかなり暗い。
明がまだいるはずだから研究室の明かりもついていると思ったら、予想は外れて真っ暗だった。
もう明は帰ったのか――と何気なく入り口の窓から部屋の中を覗き込むと、モニターや機器の小さなランプの光に照らされ、ソファの上に誰かが寝転がっているのが見えた。
誰かが仮眠を取っている? でもまだ八時だからその考えは不自然だ。
身体の大きさ的にもたぶん明なのだろうけど、こっちに背を向けて寝ているのでそうとは言い切れなかった。魔物娘の誰かが男を連れ込んでいるようにも見えない。
「……っ、んぅ……」
なのでいきなり入って起こすのも悪いと思い、出来る限りゆっくりと僕は扉を開ける。
「……ぱいっ……の、におい……」
中に入って扉を閉めようとした瞬間、か細い女の子の声がした。
な、なんだこの声? 苦しんでいるような、息苦しいような……。
びくっとした僕はドアノブから手を放してしまい、真っ暗な研究室の中、ばたんと音を立てて扉が閉まった。
同時に、
「っひゃあっ!?」
珍しい、明の大声が部屋に響く。
しまったと思いながら、僕はすぐさま照明のスイッチを弱めに付ける。
「ご、ごめん! 起こすつもりは……」
慌てて靴を脱いで上がった僕の目線の先には、ソファに寝転がったまま上着を握りしめている明の姿があった。
突然付いた照明に驚いたのか、彼女はすぐさま持っていた上着で顔を隠す。
「……あれ?」
動転していたけれど僕は何故かぱっと気がつく。
明が顔を隠すために握っている服が明自身の黒いジャケットではなく、茶色の上着だということに。
そんな服を明は着ていただろうか、と思いながら、自分の席をちらっと見る。
しかし、椅子に掛けてあったはずの僕のダッフルコートはどこにもない。
明に目線を戻すと、茶色のコートで顔を隠したままだった。
茶色の、ダッフルコート。
「えーっと……」
事態を飲み込むのに十秒ほどかかり、その間、明はソファでうずくまって顔を隠したまま何も言わなかった。
しばらくして、服の下でくぐもった嗚咽のような小さな声が聞こえてくる。
「……っ、ちがう……ちがうんです……」
それは今にも泣きだしそうな声だった。
肌寒いから勝手に僕の上着を借りて使っている――と思っていたのだけど、それにしては明の様子がおかしい。僕が怒ったわけでもないのにいきなり泣き出すなんて。
「これは……ちがうんですっ……」
あまりにも様子が変なので、顔を伏せたままの彼女に僕は恐る恐る近づいてみる。
すると、彼女のスカートと真っ白なショーツが膝あたりまで下がっているのに気づいて、慌てて目を逸らす。
でもつい気になって、またちらっと足の間を見てしまう。明は顔を隠しているから僕の方は見えないはず、という打算で。
すると明が顔を隠すことばかりに執心していたからか、その下にある白くて小さなお尻とその間にある割れ目が暗がりの中にひそっと見えて、それが僕の目に焼き付いてしまった。
「とりあえず、ふ、服、ちゃんと着直して……」
僕がようやくそれだけ言うと彼女はなおも片手で顔を隠し続けたまま、か細いうめき声と共にゆっくり服を直し始めた。
「それで……えっと」
数分後、明はようやく泣くのを止めた。しかしソファに座ってうつむいたままで、顔は長い前髪の下に隠れている。その横に座っている僕からは彼女の表情が覗けない。
一体明が何をしていたのか、何となく推測は出来る。できるが、そんなまさかという気持ちの方が強くて、にわかには信じがたい。そしてそれを明に問いただしてもいいのだろうか。
「……せんぱいは、やっぱり、イヤですよね……。
自分の物で、……こんなこと、されたら……」
僕の気持ちとは裏腹に、飛んできたのは直球の質問だった。
「そういうわけじゃないけど……」
「……分かってます。先輩は、やさしいから、そんなコト言わないって。
けどわたし……どうしようも、なくって、顔も合わせにくくて……」
もしかして、明の様子がおかしかったのはこのせいなのだろうか。
「じゃあ……たとえば僕が同じことしても許してくれたのかな」
「……えっ?」
「あ、いやっ」
意外そうな声を出して、明がわずかにこっちを向く。黒髪の端から赤い一つ目がちらりと見えた。
冗談のつもりとはいえなんてことを言ってしまったんだろう、と思ったのもつかの間で、
「せ、先輩、なら……いい、です……」
返ってきたのは罵倒でもなく冷ややかな目線でもなく、
「わたしも、同じ事、しちゃいましたから……」
真っ赤になりながら黒の上着を脱ぐ、彼女の姿だった。音も立てずジャケットを脱いで、彼女はそっと腕を降ろす。白いTシャツと、それよりも白く見える明の肌がほっそりした首元から覗く。
肉付きの薄い身体はとても細く白く、石膏のようで、上着を脱ぐと一回り幼い女の子に見える。
「……っ、」
準備はできたと言わんばかりに、ソファに座り直して上目遣いで僕を見上げて何かを待っている。
同じことをしてもいい、とは言ったけれど、どうすればいいかわからない。どこまで許してくれるのか。魔物娘のほとんどは好色で、そういう行為を好んでいるらしいけれど、目の前の少女は、明はどうなのだろう。
「いい、ですけどっ……で、でもわたし。シャワーもあんまり浴びられないですから……、
ほかの女の子みたいに、いいにおい、しないですから……ね?」
ごくりと唾を飲み込んで、そっと彼女のシャツに顔を近づけてみる。近くに座るだけでもふわっといい匂いがしていたけれど、顔を寄せていくとどんどん強くなる。香水のようにはっきりとした匂いではない、草のような瑞々しい匂い。
「……あ、ぅ、」
シャツ越しに、明の小さなお腹へ鼻を近づける。肌着に微かに残った洗剤らしき匂いがした。
思い切って僕は明のシャツをまくり上げて真っ白なお腹を露出させ、明の小さなお腹へ直に鼻を埋める。脂肪の少ないお腹は思ったより硬く弾力があって、布の匂いと明の肌の匂いと、それにほんのりと汗の香りがした。
今こうして嗅いでいる匂いが明の持つ匂いなのだと思うと、頭が痺れそうなほどドキドキする。
僕が深く呼吸をするたびに明は「んっ」とか「あっ」とか、くすぐったがるような小さな声を出すので、僕はますます変な気分になっていた。
「……んんっ、」
彼女の背中に手を回しながら、黒いソファにそっと明の身体を倒す。背もたれではなく座席のクッションへと。
「せんぱい……すこし、こわ、いです……っ」
ソファに寝転んだ形になった明へ覆いかぶさるように、僕は彼女の身体に顔を埋める。熱を持った肉体は温かくて、柔らかくて、触れているだけで心地がいい。
何分か経ってようやく僕は明のお腹から顔を離して、自分の体を起こす。彼女に覆いかぶさるような位置関係はそのままに、僕は上から彼女の顔を覗きこむ。
明は胸に手を当てたまま、きゅっと目を瞑っている。大きな瞼が綺麗なラインを描き、そこから細く長い睫毛がつつましく伸びていた。
「明、」
小さな声で彼女の名前を呼ぶと、明はホラー映画を見る子供のように恐々と目をぎゅっとしてつむり直す。
明が嫌がっているのか恥ずかしがっているのか分からない。けれど、何かを恐れているような、そんな仕草。
「……せんぱいっ、わたし……わたし、これ以上、はっ……」
絞り出したような明の声で、僕ははっ、と我に返った。
何をやっているんだ、僕は。たまたま彼女の秘密を見て、それを言い訳にして彼女を困らせて。彼女を欲望のはけ口にでもするつもりだったのか。
「……ごめん、」
罪悪感に苛まれながらも、僕の体はまだ止まらない。
それが彼女を傷つけることになるかもしれないと思いながらも止められず、僕は彼女の口元へ顔を近づける。
今にもまた泣き出してしまいそうな明の、さくらんぼのように赤い小さな唇へ丁寧に重ねるように、僕はそっと口を付けた。
まるでプリンに触れたような、弾力のある感触が弾んだ。
「――っ、んぱぃっ、……!」
僕の口で塞いだ唇から、一際熱い吐息と声。息の当たる感触さえ愛撫の様に感じて、理性が飛んでしまいそうだった。
「ん、むっ、ぁ、」
唇を離すと、苦しそうに明が口を開く。突然の事に驚いた僕は、すぐに明の肩を抱いて様子を確かめる。
「あ、ぁ、熱いっ、からだ、がっ、」
ただほんの少し口づけをしただけなのに、明の様子は明らかに変だった。
さっきまで弱々しく震えていたはずなのに、大きな一つ目がかっと開かれて、息苦しいみたいに何度も呼吸を繰り返す。
「め、明……? どうしたんだ?!」
「せん……ぱ、いぃ……ッ!」
突然跳ねるように身体を起こし、彼女が僕をぎゅっと抱きしめた。明にこんなに強く抱きしめられるのも、密着されるのも初めてだった。
すると、
「あ、ああ、せん、ぱいっ、怖い、こわいよっ、わた、わたしっ――」
ずるりと音を立てて、少し浮いた彼女の背中から黒い何かが顔を出す。一つではなく何本も、触手のような黒い何かが現れて、僕の背中を包もうとするかのように伸びてくる。その先端には彼女の顔にある赤い目とそっくりな眼が付いていた。
「うぅ、あぁっ、」
黒い触手についた赤い目が何度か瞬きをしたかと思うと、その触手たちは僕の手や足へあっという間に巻き付いてきた。その内の何本かは僕の胴体にも巻き付いていて、それは彼女の身体ごと一緒にとぐろを巻いている。
「――っ、ふーっ、ふーっ……」
僕にしがみつきながら、肩で息をする明。
あまりに唐突すぎて、驚く暇さえなく僕は身動きが取れなくなる。
触手には黒いゲルのようなスライム状のものが付いていて、それは彼女の身体のように熱く、ぬるりとしていた。
「――あ、わ、たし……これ……って、」
ふと見ると明の様子はもう落ち着いていて、その大きな一つ目をぐりぐりと動かしながら、自分の背中から伸びる触手を不思議そうに眺めたり、触ったりしていた。
触手を撫でる明の手はいつの間にか黒く変色していて、それは触手に付いた黒いゲルが固まっているような色だった。
それは僕が本で読んだことのある『ゲイザー』の姿によく似ていて。
「……どうして、だろう。
今なら、わたし。言いたいコトぜんぶ……言えそうです」
「め、明……?」
明の顔も表情もさっきまでと変わっていなくて、大きな赤い一つ目もそのままだ。
けれどいつものようなおとなしい雰囲気がどこか変わっている。静かな口調はそのままなのに、男性を静かに誘う大人の女性のような色気が舞っていた。
そして明の表情を伺ったその瞬間、僕はアルコールを一気飲みしたようなくらっとした感覚に襲われる。
「……あっ、大丈夫、ですか? まだ、自分でもよく分からなくて。
でもこれって、私の力……だと、思うんです……」
見つめ合ったまま、明から目が離せない。
明のものとは思えないような力で僕と明の姿勢は真逆に入れ替えられ、今度は僕がソファに押し倒される形になる。ちらと見えた明の白いシャツは背中の部分が破れて、そこから触手が何本も伸びていた。
研究室のとても小さな照明の下、明がにこっと笑う。逆光になった明の表情は見えづらいけれどとても楽しそうで、獲物を見る猫のようで。
今までのお返しだ、と言わんばかりに彼女は積極的になっていた。
「ほんとに、暗示――って、効いてるんでしょうか?」
触手に巻き付かれて動けない僕の服の中に手を滑りこませ、胸板を指先でなぞる。
明の手で直に肌を触れられると、羽箒でくすぐられたみたいにぞくっとして鳥肌が立つ。同時に、軽く電気の走ったような快感もあった。
僕の口から思わず声が出て、あは、と喜んだような明の声が聞こえた。
「なあんだ、こんなにカンタンなんだ。
じゃあもう先輩、逃げられないんですね……えへへっ」
彼女が口にした通り、僕は動けない。
それは恐怖や麻痺ではなくて、強制される威圧を感じたからそうなったわけではない。
ただこうしていると心地が良くて、安心するような気持ちがして。勝手に体を動かされる感覚なんてどこにもない。もっと彼女の言葉を聴いていたい、彼女と温もりを共有したいという欲望が途切れることなく産まれてくる。
明を自分の物にしたい、けれど、身体は動かせないままでとてももどかしい。
「分かってるかもしれないですけど、先輩の服で、えっちなことしたの……これが初めてじゃないんです。
ばれちゃうかもしれないって思ったけど……気が付いたらにおい、嗅いでました。
そしたらなんかぼーっとして、ものすごくドキドキして……クセになっちゃって……」
普段の明からは考えられないほど饒舌で、大胆だった。
「今まではそこまででした。匂いを嗅いで、いやらしいことして……こっそり元に戻して。先輩、よく上着忘れるから……。
でも今日、先輩にあんなふうにくんくんされて、そおっとキスされた瞬間。
もっと欲しい――って思ったら、電気が走るみたいに身体が熱くなって――」
そう言いながらも明は僕の体をそっと触り続ける、首筋や鎖骨、腋の下から横腹まで、つーっと湯先でなぞるように。
「先輩、私がオナニーするところ……見ちゃいましたよね。
こんな所でしちゃった私も私ですけど、それでもすっごく恥ずかしかったんですから。
お返しに……先輩がおちんちん擦ってるところも、見せてくれますよね?」
明の口から卑猥な単語が出るたびに、さっきまでの明とのギャップにどきっとしてしまう。
そしてその行動も、いつもの彼女とは比べ物にならないほど積極的で。
「はい、下着は脱がせてあげましたよ。
先輩はいっつも、どんなことを考えながら気持ちよくなるんですか……?
ほら、ちゃんとしこしこしてください」
「う、うん……」
腕に巻き付いていた触手はいつの間にか離れていたので、僕は彼女の言うとおりに自分のモノを掴む。
明は笑顔のまま、ソファに寝転がる僕へ添い寝するような姿勢へ体を動かした。
そして、操られるようにペニスを扱きあげる僕の横から睾丸をふにふにと揉みしだいてくる。
「ふふっ、かわいいですよ、先輩っ……♪」
僕のシャツをまくり上げ、小さく隆起した乳首を舌で転がされるように舐められる。
同時に真っ黒な右手でもう片方の乳首もかりかりと擦られ、しかもその愛撫を受けている僕の表情をずっと明が覗き込んでくる。恥ずかしくて顔から火が出そうだけど、それでも自分の手が止められない。
「さっきまで襲おうとしてた相手に好きなようにされるのって、気持ちいいですか?
いいですよ、私もガマン出来なくなった先輩に、襲われてみたいです……」
またじっと明に見つめられ、その瞬間僕の右手の動きが止まる。
動かしてもっと快感を得たいはずなのに、なぜか動かそうと思えない。これももしかして、明の暗示の力なのか。
その真っ赤な瞳の輝きに魅せられるかのように、目線をずらすことができない。
「――せんぱい。もっと、もっと私のコト、好きになって。
まだ足りないんです、まだ――」
「あ、うっ……?!」
明が僕の目の前で囁くたびに体が火照り、ペニスがびくんと震える。とりとめのない欲望が湧きだしてきて、僕の意識を塗り替えていく。
明を愛したい、明を抱きしめたい、明を犯したい。
ともすれば獣になりかねないその情欲が止めきれない。
「せんぱ――ひゃっ?!」
触手に巻き付かれていたはずの僕の体はいつの間にかそれを振りほどき、明の体をソファの下へ、研究室の床へと押し倒した。
ケガをしないように手で明の頭だけは守ったが、触手がクッションになっていたのでその心配も杞憂だった。
「あっ、せ、せんぱ……」
僕の方にも異変があったのを察したのか、明の表情はさっきの余裕たっぷりなものではなく、少し怖がっているようにも見えた。
はぎ取るように僕は明の服を脱がせていき、自分のモノを彼女の股間にくっつける。つつましく膨らんだその割れ目はまるで子供みたいに小さい。
明は嫌がるような素振りは見せなかったけど、不安そうに僕を見ているのは理性の薄れつつある今でも分かった。
「めい、明っ……!」
僕たちは正常位の形で絡み合い、僕は彼女をまた見下ろす形になる。
彼女に了承を得る時間も惜しく、僕はそのとても狭い穴にペニスを突き入れる。もう十分なほど濡れていたけれどやはり抵抗は大きく、無理やりに突き入れると壊れてしまいそうなほど小さい。
それでも僕は容赦せず腰を一番奥まで突き入れる。明の小さな秘部は貪欲に僕のペニスを飲み込んでいき、そのままごりごりと奥を擦ってみると明の口から可愛らしい声が漏れた。
「せ、せんぱっ、そ……んな、いきなひっ、」
明の喘ぎ声を聞きながら、僕は止まることなく腰を動かし続ける。まだほんの少し突いただけなのに明の中はぬるぬるで、ペニスが溶けてしまいそうなほど熱かった。
ペニスを奥まで突き入れるたびにヒダが絡みついて、抜くたびにカリが膣の入り口で引っかかって刺激を与えてくる。
さっきまで焦らされていた僕はもう限界で、早くも絶頂を迎えてしまいそうだった。
「あっ、あっ、わ、わたし、もおっ……!」
その声で、明も限界が近い事が分かる。しかし僕はそんな事を気にせず、さらにピストン運動の速度を速めていく。
明の声が一際高くなったところで、一番奥へペニスを突き入れながら精液を流し込んでいく。
「ひゃあうっ! な、ナカに、……いっぱいぃ……っ!」
ほんの少し射精の余韻を味わった後、また僕は抽送を繰り返す。一回の射精では収まりきらない欲望が生まれて止められない。
僕の精液と明の愛液とでぐちゅぐちゅになった膣内はより滑りが良くなって、突くたびにいやらしい音がする。
まだまだ味わっていたい。明の中を。
「せっ、せん、ぱひぃっ、わ、わた、へ、ヘンに、なっ、あぁっ!」
絶頂を迎えたはずの明に僕は突き入れを止めず、ペースを落とさない。明の声が甲高くなるにつれ、呂律が回らず言葉にならなくなっていく。
それでも僕は速度を緩めることなく、また少し経つと射精欲がぶり返してくる。
これが彼女の暗示の力なのだろうとほんのわずかに残った理性の中で思いながら、また僕は彼女の中に勢いよく射精してしまう。
「ぁ、あ、ひぃ……、へ、んぱぁっ……ひぃ……」
それからも少し休んではまた射精するまでピストン運動を繰り返して、繰り返して。
彼女の膣口は貪欲に僕の精を飲み込みながら、絶え間ない快感を僕に与えていた。
数時間後の明の表情はもう蕩けきっており、言葉も定かでなく、意識も残っているか怪しいぐらいで――。
僕が慌てて彼女を介抱したのは、朝の四時になるころだった。
僕の意識が平静に戻った後はとてつもない気だるさに襲われたが、それでもなんとか後片付けはできた。もっとも、明の触手が突き破ってしまったシャツはどうにもならなかったが。
研究室に明一人残しておくわけにもいかず、僕は彼女の横でうたた寝をして待つことにした。
「……ん、あ、」
明が起きたらしい、その寝返りで僕も目が覚める。
起きたばかりの明はまだちゃんと目覚めていないのか、何も言わずに僕の顔と自分の体を交互に眺めていた。
「せんぱい。……わたしと、せんぱいは……もしかして?」
明はどこから覚えていないのだろうか。もしかすると昨日の出来事をすっぱり忘れているのかもしれない。
もっとも、僕が一方的に犯してしまったなんて僕の口からはとても言いにくい。
「うん。……しちゃった、ね」
「そう、ですか」
僕がそう言うと、彼女はソファの上で少しだけ身を起こし、いつもの明のような、小さな笑みを浮かべた。
「……わたし、その時のコト……あんまりよく、おぼえてないんですよね。頭の中がもう、バクハツしたみたいにぐちゃぐちゃで。
なんだか、ずるいです。それに……残念、です。初めてはもっと、大切にしようって思ってたのに」
その言葉に僕もズキンと良心が痛んだけれど、残念、という割には落ち込んだ様な顔はしなかった。それがほんの少し僕にとっては幸いだった。
一体何を言われるのだろうと、身構えた僕に彼女は、
「だから、先輩。
わたし……今日は、先輩のお家で、寝てみたいです……。
いい、ですか……?」
と、僕に目線を合わせないまま、恥ずかしそうに言った。
「い、いいけど、それって……」
思わぬ明からの提案に、僕は咄嗟に返事が出ない。
顔が赤くなるのを隠そうとして、僕が同じように彼女から目線を離す。
すると、
「今度こそ、優しく、してくださいね」
控えめな声が耳元を通り、頬に柔らかな感触を感じた。
それは一体どれほど稀有な例なのかと知り合いに問うと、「白ご飯を食べたことがない日本人」ぐらいだそうだ。食に関心の強いグールである彼女らしい答えだと思う。
つまりそれは懇ろになった相手もいないし、そういう行為を行った相手もいないという事だ。
本来ゲイザーは男性の精を糧にする好色な魔物娘のはずなのに。
「じゃあ、子供の頃は?」
「さあ。薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたような気もしますね」
読書好きな彼女らしいごまかし方ではぐらかされて、それから彼女が続ける。
彼女の外見で最も目を引くであろう、赤く大きな一つ目が僕を眺めていた。
「私が食べてきたのはたぶん人間が口にするような食べ物ばかりでしたけど、今の所健康に異常はありません。
人間にも野菜しか食べない人がいるそうですから、偏る、という事自体は魔物である私にも有り得る話です」
研究室のベランダにある手すりから彼女はどこか遠くを眺めた。
キャンパスから外向きにあるここからは穏やかな風が吹いて、周りを囲む山や木々などの豊かな自然が見える。彼女が住んでいたという洞窟がこの近くであるのをふっと思い出した。
ふっと風が吹き、黒く長い髪が緩やかに揺れる。
飾り気のない真っ黒なジャケットを彼女がそっと脱いで椅子に掛けた、上着の下には地肌と同じくらい白いブラウスを着ている。雪のように白い彼女の肌はとても異質で、人間の肌とはまた違った艶めかしさがあった。
「もしかすると、」と彼女は付け加え、
「体の構造そのものが変化しているのかもしれません。
魔力というのを、実は私自身もよく分かっていなくて――それを意識したことが今まで、私の人生になかったんです。
私の一つ目には、それはそれは不思議な力があるらしいですけれど……知っていますか?」
もちろん、と僕は答える。
ゲイザーという種族は本来、その一つ目で男性に暗示を掛けて好意を持たせることで精を得る。
糧を得る為の武器、ライオンの牙と同じようなものだ。
「私は、それを使った事がありません。本を読んで初めて知りました。
だから人間と同じみたいに、人間の食べ物を食べていても飢えなかった、かもしれませんね。
魔力という物をそもそも意識していないのですから」
同じようにベランダから景色を眺めていた僕は彼女の言葉へ耳を傾ける。
手すりに添えられた彼女の手は真っ白で、僕が昔に本で見たゲイザーの姿とは異なる。
本来ゲイザーは魔力の保護膜で体を守っており、手足はその膜のせいで真っ黒いはずなのに彼女は違う。その差異は彼女の口から言われずとも分かった。
「……でも、自分の事さえ知らないのに、これから誰かと愛し合う事が出来るんでしょうか。
自分の力もよく分からないまま、大事な何かをいつか逃してしまうんじゃないかって――。
それだけがずっと、不安で」
いつも控えめな声はさらに小さくて、風に掻き消されてしまいそうだった。
初めて彼女と会ったのは、ぼくが大学に入って一年後のことだ。
魔物娘という存在はぼくが子供の頃に認知された存在だそうで、昔は色々と騒ぎがあったと聞いている。でも、なにぶん子供の時なのでよくは覚えていない。
中高と学校に通うあいだも魔物娘を見かけることはあったけど、僕にとってはたまに見かける外国人程度の意識でしかなかった。
大学生になった僕は実家を離れ一人暮らしをしながら大学に通い、心理学科の専攻を取っていた。二回生に上がってゼミに入った時、僕は初めて彼女と出会った。
大学に通う魔物娘、というのもそれなりに珍しいのだけど、それがゲイザーという種族なら尚更だろう。
彼女は普段から人間と同じような服を着て、特徴的なその黒い触手は(どういう方法かは分からないが)見えなかったし、派手な格好もしていなかった。真っ赤な一つ目だけは目立っていたけれど、それ以外はまるで人間のようだと、僕はそう思っていた。
だから、精を口にした事がないという彼女の話は意外に思いつつも納得できたのだ。そして「珍しい」という印象もあって、一つ目の女の子、という程度には彼女を覚えていた。
教室に来ればいつも真面目に講義を聞いている、誠実そうな女の子だったということも。
彼女と初めて話したのは僕が研究室にいた時の事で、そのときは一人でレポートに取り掛かっていた。
「すみません。少し見学してみたいんですが、その、よろしいでしょうか」
ノックをしてから丁寧にお辞儀をして、彼女はそう言った。
体つきは他の女の子と比べても細く小さく、背丈は僕の肩ほど。それに一つしかない目が大きいせいか顔が小さく見えて、より幼く感じる。平凡なシャツの上に、いつもの地味な黒のジャケットを羽織っていて、その下はモノクロのスカート。肩に下げた飾り気のない鞄は使い込まれている。
上着よりも黒い髪の毛は長くまっすぐ両肩に流れていてセミロング程度。前髪はその一つ目の半分が隠れそうなほどの長さだった。
「見学? うん、自由に見てもらっていいけれど……。
ごめんね、今は僕一人しかいなくて。簡単でいいならここの紹介はするけれど」
雰囲気も外見もとても大人しそうな子で、密やかな声は細く、緊張しているように見えた。
普通の学生は何人かで、もっと軽い感じで見学をしに来る事が多いので、彼女のように一人でやってくるのは珍しい。 それが魔物娘であるならことさらにだ。
このゼミによほど興味があるのか、一人で行動するのが性に合っているのかのどちらかだろう。
「差支えないなら、ぜひお願いします。……あ、申し遅れました。
はじめまして。明(めい)と申します」
彼女はそういって、また大きくおじぎをする。長い髪が揺れて、ふわと香りが舞った。
それから彼女はよく研究室に来るようになった。
大学の規則としては入るゼミを決定するのが二回生からなので、まだ正式にはゼミ生ではない。しかし加入していると言っても過言ではないぐらいに熱心だった。
魔物娘の学生というのは、伴侶をこれから見つけるにしても、もう相手がいるにしても、勉学に関して少々不真面目なきらいがあるが彼女はそうでない。
ぼくよりも真面目に講義を受け、いろんな本を読み、知識を得ようとしていた。
そしてそんな彼女の事が僕は段々と気になりだした。
彼女はどうしてこの大学へ真面目に通っているのか。
魔物なのに精を口にしない理由はあるのか。
それまでは「同じ研究室の仮ゼミ生」という認識だった彼女を、少しずつ、知りたくなったのだ。
「私が勉強する理由、ですか?」
「いつも一生懸命だからね。少し、気になって」
今日も真面目に研究室に来た明へコーヒーを淹れるついでに、ぼくは思い切って聞いてみた。
「ありがとうございます」と言いながら彼女が頭を下げる。彼女には僕の席の横にある椅子を借すことにした。その場所は普段ベルという名前の、グールの女の子が使っている席なのだが、普段からほとんど来ないため、驚くほど物が少なく、置いてある物もお菓子の方が圧倒的に多い。
小さな体をつつましく椅子に座らせた明は、考えるような仕草をしながら大きな目玉をぐるんと動かした。
最初は彼女の一つ目に対し、鳥よけの風船を見るかのようにもの珍しげな視線を僕は送っていたが、最近は慣れたのか好きになったのか、彼女のチャームポイントに思えてきた。
「……前に私、自分の力は使った事がないって言いましたよね。
けど本でそれを知ってから、自分に備わっている『暗示』っていう力が一体何なのか。
それがずっと気になってたんです。でも、どうすればいいか分からなくて……」
「それで勉強を? なんだか、変な話にも聞こえるけれど……」
「かもしれませんね。
ただ、私の力って、それはそれは強いものだそうです。……自慢みたいになりますけど。
そんな物を扱うからには、しっかりした知識が必要だと思いまして、それで」
魔物娘としての力の使い方を学ぶ為に勉強する、というのはかなり変な話だが、普段の素行を見れば彼女が真面目にそう思っているのは確かだ。心理学というものが暗示の力とどう結びつくのかは僕にも分からないけれど、彼女なりに考えがあるのだろう。
ぼく自身、ゲイザーの暗示という物は見たことがないから、どれほどの物か想像もつかない。
催眠術のような眉唾なものか、本当に意思がすり替わってしまうのか、ぼくにも興味があった。
「でも、不安もあります」
「不安?」
「自分の学んでいる事を……自分の力を、役に立てるのかどうか。
……あ、いえ。ごめんなさい、聞かなかったコトにしてください」
「?」
そう言うと彼女は、何かまた考え事を始めるようにうつむいていた。
「明さんってよく一人でいるけど……彼女、人付き合いは苦手なの?」
「んー、人当たりは良いほうだと思うけどねぇ」
明がゼミに来るようになってから、二週間ほど経った頃のこと。
偶然大学のカフェで会った、僕と同じゼミの生徒で同期のベルさんに彼女の事を聞いてみた。
勉学はともかく、人間関係に関して彼女は非常に顔が広い。
「でもあの子、他の女の子からの誘い、みーんな断ってるじゃない?
フツーの魔物娘さんだとそれって『彼がいるから誘わなくていい』ってゆーサインと同じなのよ。
だから周りは一人だと思ってないだろうし、彼女も自分から探す気がない、ってわけね」
ベルさんはグールという種族でなにやら物々しい感じはするが、見てくれは陽気な女性であり、フットワークの軽い女性だ。
クリーム色の長い髪と、抜群なプロポーションはまるで海外女優のようである。グールの性(さが)なのか、いつも何かを口にしていること以外は取り立てて変な所もない。
でも大学ではあまり見かけたことがないので、魔物娘の例に漏れず恐らく彼氏さんと忙しいのだろう。実際どうなのかは聞いた事がないが。
「そうなのか……それだと大変だな、あの子も」
「どーかしらねえ。あの子のコト、ちゃんと分かってるんならそれで正解だと思うけど。
今の彼女はつまり、ダイエットしすぎた女の子なわけよ。
まあ本人に自覚があるかないかは分からないけど――少しでも食べ物を見せちゃったら飛びつかれるわけね」
ベルさんは大きな苺パフェをつつきながら、意味ありげな言葉を言う。
明の事が知りたいという下心を巧みに使われ、その見返りとして上手にデザートをせがまれたぼくはその真意をくみ取ろうと必死だった。
「それは、どういう?」
「あら、分かんないの? まあそういう所もお似合いよね。
けど彼女、いいかげん寂しがってるからさ。どっか遊びにでも行ってあげたほうがいいんじゃないかな」
「でも、僕が誘っても……」
「向こうもそう思ってたら、そのまま進まないよ?」
「……」
僕の想いはどこまで見抜かれているのか。魔物娘という種族の強かさをまた知った気がする。
パフェを食べ終わったベルさんは「ごちそうさまでした」と手を合わせたあと、ポケットから棒付きキャンディを取り出した。これだけ甘い物を食べていて彼女の体格が崩れないのは何故だろう。
一度聞いてみたい気もするが、まともに答えてくれそうにはないと思ったので止めておいた。
「んー、パフェまで奢って貰っちゃったのに、なんか役に立たないアドバイスばっかりでごめんねぇ」
「あっいや、そういうつもりじゃあ、」
「おっと、そうだったっけ?
じゃあまた何でも聞いてよ。次はもっと豪華なレストランの前で会おうね」
ベルさんは、恐らく食べ物であろう何かで大きく膨らんだサイドバッグを持って、大学の本館とは別の方へ出ていった。まだ午後二時なのに講義はいいのだろうか。
そんな事を心配しながら、ぼくはまた明のことを考えていた。
彼女を誘う口実を。
「映画……ですか?」
「う、うん。もし予定が空いてるなら、どうかと思って」
研究室の中、僕は二人きりになるタイミングを待ち、彼女へようやくその話題を切り出した。
ただ遊びに行こうと誘うだけの事なのに、それは大企業への飛び込み営業と同じくらいに無謀かつ、困難に思えた。断られるだけならまだしも、気を遣わせて今後の雰囲気が変わってしまうことも怖かったから。
僕はコーヒーを飲むフリをしながら必死に心を落ち着かせて明の返事を待つ。
すっかり彼女のモノになってしまったベルの席で、明はそわそわと服の袖をいじっている。いつもの黒いジャケットだ。
「でも……先輩って、その。他に彼女とかいらっしゃるんじゃ、」
「いっ、いないよ、まだ!」
何故か少し大きな声になってしまった。大々的に言いたい事でもないのに。
「あ、えと、そうなん、ですか?」
明の声色がちょっと変わって微妙な空気が漂う。何と言ったらいいか分からない。
僕は自分の緊張をごまかそうと必死に机から資料を探すふりをしていた。
「あ、の……先輩、誘って頂けるのは、ありがたいんですけど……」
そう彼女に言われた瞬間、僕の血の気が引く。
やはり、あまりにも突然すぎたんだろうか。
「実は、わたし……お金が無くて。
服も、勉強道具も、みんな、他の方から貰ったものばかりで。
映画も、見に行くお金、無くて……行けないんです。ごめんなさい」
えっ、と思わず僕は声が出た。
そんな事を聞いたのは初めてだったし、それが僕の誘いを断る為の冗談にも聞こえなかったからだ。
嘘を言うなら言うで、彼女ならもっと良い言い訳が考えられるはずだから。
「じゃ、じゃあどうやって生活を?」
「……私、ご飯はほとんど、食べないんです。
家は、友達の家に泊まったり、昔住んでた洞窟に戻ったりを繰り返してて。
ここの研究室に居させて頂いた事も、何度か。
だから、お財布も持ってないんです」
そう言われればとばかりに、思い当る節はあった。
一年生の頃から熱心にゼミに通う理由と、いつも似たような地味な格好をしている理由。
それに、彼女は確かに熱心に大学へは来ていたが、試験の日にはまず見ていない。
「それに、」
突然、彼女がぐるりと周囲を見渡した。
おそらくは僕達の他に誰かいないかもう一度確認したのだろう。
「……私、ほんとうはここの学生じゃないんです。こっそり、勝手に来てるだけなんです。
幸いこの研究室の先生は、気にしないでいいって、そう言ってくれたんですけど……」
あまりに多くのコトを打ち明けられ、何が何だか分からなくなる。
しかもそんな風に言われてしまうと彼女の事がますます気にかかってしまう。
でも今、何よりも早く聞きたい事が一つあった。
「うーんと、じゃあお金の問題さえなかったら、一緒に行ってくれる、のかな」
「……はっ、はいっ」
不意を突かれたように彼女はびくっとして、大きな一つ目をぎょろりとさせた。
それならもちろん、僕の答えは決まっている。
「なら大丈夫だね。
元々貰い物のチケットだし、電車賃だって食事代だって、僕が出すから」
「そ、そんなわけにはいきません。先輩にどれだけご迷惑が掛かるか……」
「初めからそのつもりだったから」
「けど……」
「いいのいいの。じゃあ、今度の土曜の朝、大学から一番近い駅に来てもらってもいいかな」
「その、でも、」
「そんなの気にしなくていいよ、だから――」
結局、気を遣う彼女を説得するのにかなりの時間が掛かってしまった。
その間ずっと研究室に誰も入ってこなかったのは運が良かったのか、それとも他の皆も気が付いてくれていたのか。
どちらにせよ、ようやくこれで一歩進めた気がした。
「お、おはようございます、先輩。えっと今日は、お世話になります」
田舎なせいか休日なのに人の少ない駅の入り口に、明が立っていた。
控えめな恰好は大学にいる時と変わらないようで、いつもの黒のジャケットにギンガムチェック柄のスカートだった。
ぱっと見た感じでも、彼女は緊張している。遠出(というほどではないが)するのが苦手なのかもしれないし、二人きりで行動するのも初めてだから、そのせいかもしれない。
「うん、おはよう。随分早いね。まだ十分前だけど、どれぐらいに着いたの?」
「さ、三十分前には。
電車は時間に厳しいと聞いたので、遅れたらいけないと思って」
「そ、それはごめん、待たせちゃったね」
「いえっ、大丈夫です。その、楽しみだったので、つい」
固い表情が少し解けて、明がはにかんだ。
そう言ってもらえれば彼女を無理に誘ってしまったような気持ちも和らぐ。
「じゃあ、まだちょっと早いけど駅に入ろう」
「はっ、はい。 ……し、失礼しますっ」
そう言って彼女はおずおずと手を伸ばし、僕の右手の先っぽをそっと掴んだ。
僕の手を握る手は雪のように白くゲイザー特有の黒い膜はなく、僕の手よりも温かい。
突然の事に、少し驚いたまま彼女の顔と手を見比べるしか僕は出来ず、僕も彼女も黙ったまま妙な空気が流れていた。
「あ……、えっと、『こういう時』は、て、手を握るのが作法だと……ベ、ベルさんが。
ごめんなさい、こういうコト初めてなんで、よく分からなくて」
「だ、大丈夫だよ」
少し落ち込んだような顔をしたものの、恐る恐る握った僕の手を彼女が放すことはない。大きな瞳がぐるんぐるんと左右に動いていて、落ち着かない様子だ。
僕も女性に慣れているわけではないので、手が触れているだけでも気恥ずかしい。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
僕はそう言って、彼女の手をぎゅっと握り返す。
彼女の手が少しだけ強張ったけれど、すぐに彼女の方も握り直してくれた。
映画を見終わってから、僕たちは近くのお店に入ってお昼を取る事にした。
「私はいいですから」と言って彼女は断ろうとしたけど、そこは押し切って近くにある静かそうな店へ入った。
「映画館ってすごいですね。あんなに広い所で、すごい音で……びっくりしちゃいました」
「ってことは、映画を見に来たのは初めて?」
「はい、初めてなんです。友達の家でも色々見せてもらった事はあったんですけど、全然違いますね。
それにあの話が、あんなふうに再現されるなんて……」
電車に乗っている間は分かりやすく緊張していた彼女だったが、映画館に入ると好奇心が勝ったらしく、少しずつ饒舌になっていった。
今日の映画は彼女の知っている小説が原作だったため尚更だろう。
「そんなに楽しかったなら、僕も誘ったかいがあったな。
あんまりこの辺のお店知らなくて、適当に入っちゃったけど大丈夫?」
「だから私はいいですよ。お金もありませんから……」
「気にしないで、僕だけもぐもぐ食べてるのも味気ないし。
何か食べたいものとかある?」
「えっ……と、」
何度も了承したあと、ようやくメニューを受け取ってくれた明が中を開いてぺらぺらとめくる。
申し訳なさそうに彼女がそっと指さしたのは甘くておいしそうなフレンチトーストの写真だった。
「じゃあ、それにしようか」
「……本当に、いいんですか?頼んじゃっても……」
「大げさだなあ。あ、コーヒーか紅茶か選ぶみたいだけど、どっち?」
「え、えっと。コーヒーで」
頼んだ飲み物と料理が運ばれてくると、彼女が僕の様子をちらちらと伺いながらフレンチトーストを見ていた。僕が勧めてようやく彼女も手を付けたので、それから僕も頼んだサンドイッチを食べ始めた。
「わ、すっごく甘い……おいしいです、これ!」
「そうなの?ちょっと一口食べてみたいな」
と、僕が冗談交じりに言ってみると、
「はい、どうぞ」
切り分けたフレンチトーストをフォークに刺して、彼女は僕の口の前にそっと差し出す。
つまりは、彼女の手から僕に食べさせるような形で。
彼女自身は特にそれを気にしていないのか、フォークを出したまま微笑んでいる。
「えーっと……」
さすがに気恥ずかしすぎるので何か言おうとした瞬間、水晶玉のような彼女の赤い目と視線が合った。
その曇りのない瞳を見ていると何故か断れない、いや僕だってそれをしてもらうのは嬉しいけれど、まだ彼女になったわけでもないのに、という自制のような気持ちもあった。
しかし彼女の素直な目を見ていると断る為の言葉なんてどこにも見つけられそうにない。
「い、いただき、ます」
顔を真っ赤にしながら僕は顔を彼女のフォークに寄せ、フレンチトーストを唇で挟んでおそるおそる口の中へ入れる。こんな事自体が初めての経験なせいかとにかく顔が熱い。せっかく貰ったフレンチトーストの味なんてまったく分からない。
「どうです?」
「お、おいしいね。たしかに」
そうは言ったが、味わう余裕なんてどこにもなかった。
ドキドキする心をできるだけ鎮めようとしながら明の方をちらっと見るけれど、さっきの行動を特段気にしている様子はない。
彼女自身はこれが別に特殊な行為だとも思っていないのだろうか、少し確かめたくなる。
「そうだ、このサンドイッチも美味しいよ。一口どう?」
「えっ。いいんですか?」
僕は彼女が返事をすると同時に、卵のサンドイッチを彼女の前に差し出してみる。
手で受け取ろうとした彼女に対して僕は、
「た、食べさせてあげるよ」
「……え、っと、」
差しだされたサンドイッチを前に、彼女の大きな赤い目がぐりぐりと動いた。
食べさせてもらうのも食べてもらうのも初めてだったので、僕の声は大分上ずっていただろう。
しかし彼女はというと、さっきの僕よりうろたえている感じだ。
「これ……って、なんだか……恥ずかしい、ですね……」
「……うん」
さっき僕に食べさせた時は本当に無意識でやったのだろう、彼女はもじもじと落ち着かない様子を見せる。
なんだか無理強いをさせてるみたいで罪悪感すら感じるが、さっきも僕もされたので、なんだかお返ししてやりたい気分でもあるのだ。
「いただき、ます」
意を決したらしい彼女は小鳥が餌をついばむように、そっとサンドイッチの端を咥えた。
そのまま、
「……っ」
歯を見せないようにそっと齧った。
端っこしか食べていないので恐らく中身までは到達していないが、彼女にはそんなことを考える様子すらなさそうだ。
しかしこれは、小動物に餌付けしているみたいでなんだか楽しくなってくる。やる側としては。
「はい、もう一口。まだタマゴまで届いてないみたいだし」
「え、え、っと」
さらにおかわりを出す僕に、彼女はまたうろたえながらも口を近づける。
今度は少し千切って、ちゃんと中身の入っている部分をあげる。しかしその分、「食べさせている」という感じはより強い。
「んっ……ぐっ、」
さっきよりは落ち着いて口で受け取った彼女だが、顔は真っ赤でやはり味わう余裕はないだろう。
僕自身もさっきまでこんな感じだったかと思うと恥ずかしいが、これでイーブンだ。
落ち着くためにアイスコーヒーを流し込んでから彼女に聞く。
「どうかな、味は」
「おお、おいしい、でうっ」
語尾を噛んだ彼女の何とも言えない表情を見ると、満足感を得るのと同時に「自分の手から明に食べさせた」という事実を僕は再認識させられ、また恥ずかしさがこみ上げてくる。
店内にお客が少なく、変な目で見られなかったのが幸いだった。
結局その日のデートはそれなりの感じで終わり、彼女とまた一歩仲良くなった自信があった。
劇的に変わったという事もないが、確かな歩みを感じる。
それから数日は、彼女と打ち解けた感じで喋れていたのだが――
「明。おはよう」
「お、おはよう、ございます」
金曜日の朝。
研究室に行くと明がソファに座っていたので挨拶をしたが、ぎこちなく彼女は挨拶を返すと、僕の様子を伺いながらそのまま外へ行ってしまう。名実ともに九割は明の物になっているベルさんの机には飲みかけのコーヒーが置かれていた。湯気が立っているのでまだ淹れたばかりだろう。
デートの日から一週間ほど経ってから、何故か明の態度が変わった。
ほとんど自分から話しかけてこなくなったし、僕が話しかけてもうろたえることが多い。
以前から彼女には多少意識されていたつもりだったが、最近は意識され過ぎているような感じで常に警戒されているようにも感じる。
気づかないうちに何か悪い事でも言ってしまったのかと思ったが、にべもなく嫌われているという雰囲気でもない。
それでも、彼女と和やかに話が出来ないのは辛かった。
「……」
僕は集中できない頭のまま、今日のゼミについてのレポートを見直していた。
それから夜が更け、時計を見ると午後八時。
さすがに明も研究室には戻ってきていたが、あまり集中できていないのはお互い様らしい。
他の生徒はもう帰っていて、研究室は僕と明だけの沈黙した空間になった。
僕を避ける理由を聞きたかったが、原因がさっぱり思い当たらないのでどう言えばいいかも分からない。
結局僕は何も言わず、軽く挨拶だけして研究室を出ていく。
「おつかれさまです」という彼女の小さな声だけが聞こえた。
エレベーターを降り、玄関の扉を開けると一際強い寒風が吹いた。
まだ春になりかけの時期なので、外に出ると一段と肌寒く感じる。
最近よく着ている茶色のダッフルコートをちゃんと羽織ってきたのに、研究室の椅子に掛けたまま出てきてしまった。
今から戻るのは少し格好悪いが、研究室にいるのは明だけだ。そんなに気後れはしない。
廊下は照明が弱めになっていてかなり暗い。
明がまだいるはずだから研究室の明かりもついていると思ったら、予想は外れて真っ暗だった。
もう明は帰ったのか――と何気なく入り口の窓から部屋の中を覗き込むと、モニターや機器の小さなランプの光に照らされ、ソファの上に誰かが寝転がっているのが見えた。
誰かが仮眠を取っている? でもまだ八時だからその考えは不自然だ。
身体の大きさ的にもたぶん明なのだろうけど、こっちに背を向けて寝ているのでそうとは言い切れなかった。魔物娘の誰かが男を連れ込んでいるようにも見えない。
「……っ、んぅ……」
なのでいきなり入って起こすのも悪いと思い、出来る限りゆっくりと僕は扉を開ける。
「……ぱいっ……の、におい……」
中に入って扉を閉めようとした瞬間、か細い女の子の声がした。
な、なんだこの声? 苦しんでいるような、息苦しいような……。
びくっとした僕はドアノブから手を放してしまい、真っ暗な研究室の中、ばたんと音を立てて扉が閉まった。
同時に、
「っひゃあっ!?」
珍しい、明の大声が部屋に響く。
しまったと思いながら、僕はすぐさま照明のスイッチを弱めに付ける。
「ご、ごめん! 起こすつもりは……」
慌てて靴を脱いで上がった僕の目線の先には、ソファに寝転がったまま上着を握りしめている明の姿があった。
突然付いた照明に驚いたのか、彼女はすぐさま持っていた上着で顔を隠す。
「……あれ?」
動転していたけれど僕は何故かぱっと気がつく。
明が顔を隠すために握っている服が明自身の黒いジャケットではなく、茶色の上着だということに。
そんな服を明は着ていただろうか、と思いながら、自分の席をちらっと見る。
しかし、椅子に掛けてあったはずの僕のダッフルコートはどこにもない。
明に目線を戻すと、茶色のコートで顔を隠したままだった。
茶色の、ダッフルコート。
「えーっと……」
事態を飲み込むのに十秒ほどかかり、その間、明はソファでうずくまって顔を隠したまま何も言わなかった。
しばらくして、服の下でくぐもった嗚咽のような小さな声が聞こえてくる。
「……っ、ちがう……ちがうんです……」
それは今にも泣きだしそうな声だった。
肌寒いから勝手に僕の上着を借りて使っている――と思っていたのだけど、それにしては明の様子がおかしい。僕が怒ったわけでもないのにいきなり泣き出すなんて。
「これは……ちがうんですっ……」
あまりにも様子が変なので、顔を伏せたままの彼女に僕は恐る恐る近づいてみる。
すると、彼女のスカートと真っ白なショーツが膝あたりまで下がっているのに気づいて、慌てて目を逸らす。
でもつい気になって、またちらっと足の間を見てしまう。明は顔を隠しているから僕の方は見えないはず、という打算で。
すると明が顔を隠すことばかりに執心していたからか、その下にある白くて小さなお尻とその間にある割れ目が暗がりの中にひそっと見えて、それが僕の目に焼き付いてしまった。
「とりあえず、ふ、服、ちゃんと着直して……」
僕がようやくそれだけ言うと彼女はなおも片手で顔を隠し続けたまま、か細いうめき声と共にゆっくり服を直し始めた。
「それで……えっと」
数分後、明はようやく泣くのを止めた。しかしソファに座ってうつむいたままで、顔は長い前髪の下に隠れている。その横に座っている僕からは彼女の表情が覗けない。
一体明が何をしていたのか、何となく推測は出来る。できるが、そんなまさかという気持ちの方が強くて、にわかには信じがたい。そしてそれを明に問いただしてもいいのだろうか。
「……せんぱいは、やっぱり、イヤですよね……。
自分の物で、……こんなこと、されたら……」
僕の気持ちとは裏腹に、飛んできたのは直球の質問だった。
「そういうわけじゃないけど……」
「……分かってます。先輩は、やさしいから、そんなコト言わないって。
けどわたし……どうしようも、なくって、顔も合わせにくくて……」
もしかして、明の様子がおかしかったのはこのせいなのだろうか。
「じゃあ……たとえば僕が同じことしても許してくれたのかな」
「……えっ?」
「あ、いやっ」
意外そうな声を出して、明がわずかにこっちを向く。黒髪の端から赤い一つ目がちらりと見えた。
冗談のつもりとはいえなんてことを言ってしまったんだろう、と思ったのもつかの間で、
「せ、先輩、なら……いい、です……」
返ってきたのは罵倒でもなく冷ややかな目線でもなく、
「わたしも、同じ事、しちゃいましたから……」
真っ赤になりながら黒の上着を脱ぐ、彼女の姿だった。音も立てずジャケットを脱いで、彼女はそっと腕を降ろす。白いTシャツと、それよりも白く見える明の肌がほっそりした首元から覗く。
肉付きの薄い身体はとても細く白く、石膏のようで、上着を脱ぐと一回り幼い女の子に見える。
「……っ、」
準備はできたと言わんばかりに、ソファに座り直して上目遣いで僕を見上げて何かを待っている。
同じことをしてもいい、とは言ったけれど、どうすればいいかわからない。どこまで許してくれるのか。魔物娘のほとんどは好色で、そういう行為を好んでいるらしいけれど、目の前の少女は、明はどうなのだろう。
「いい、ですけどっ……で、でもわたし。シャワーもあんまり浴びられないですから……、
ほかの女の子みたいに、いいにおい、しないですから……ね?」
ごくりと唾を飲み込んで、そっと彼女のシャツに顔を近づけてみる。近くに座るだけでもふわっといい匂いがしていたけれど、顔を寄せていくとどんどん強くなる。香水のようにはっきりとした匂いではない、草のような瑞々しい匂い。
「……あ、ぅ、」
シャツ越しに、明の小さなお腹へ鼻を近づける。肌着に微かに残った洗剤らしき匂いがした。
思い切って僕は明のシャツをまくり上げて真っ白なお腹を露出させ、明の小さなお腹へ直に鼻を埋める。脂肪の少ないお腹は思ったより硬く弾力があって、布の匂いと明の肌の匂いと、それにほんのりと汗の香りがした。
今こうして嗅いでいる匂いが明の持つ匂いなのだと思うと、頭が痺れそうなほどドキドキする。
僕が深く呼吸をするたびに明は「んっ」とか「あっ」とか、くすぐったがるような小さな声を出すので、僕はますます変な気分になっていた。
「……んんっ、」
彼女の背中に手を回しながら、黒いソファにそっと明の身体を倒す。背もたれではなく座席のクッションへと。
「せんぱい……すこし、こわ、いです……っ」
ソファに寝転んだ形になった明へ覆いかぶさるように、僕は彼女の身体に顔を埋める。熱を持った肉体は温かくて、柔らかくて、触れているだけで心地がいい。
何分か経ってようやく僕は明のお腹から顔を離して、自分の体を起こす。彼女に覆いかぶさるような位置関係はそのままに、僕は上から彼女の顔を覗きこむ。
明は胸に手を当てたまま、きゅっと目を瞑っている。大きな瞼が綺麗なラインを描き、そこから細く長い睫毛がつつましく伸びていた。
「明、」
小さな声で彼女の名前を呼ぶと、明はホラー映画を見る子供のように恐々と目をぎゅっとしてつむり直す。
明が嫌がっているのか恥ずかしがっているのか分からない。けれど、何かを恐れているような、そんな仕草。
「……せんぱいっ、わたし……わたし、これ以上、はっ……」
絞り出したような明の声で、僕ははっ、と我に返った。
何をやっているんだ、僕は。たまたま彼女の秘密を見て、それを言い訳にして彼女を困らせて。彼女を欲望のはけ口にでもするつもりだったのか。
「……ごめん、」
罪悪感に苛まれながらも、僕の体はまだ止まらない。
それが彼女を傷つけることになるかもしれないと思いながらも止められず、僕は彼女の口元へ顔を近づける。
今にもまた泣き出してしまいそうな明の、さくらんぼのように赤い小さな唇へ丁寧に重ねるように、僕はそっと口を付けた。
まるでプリンに触れたような、弾力のある感触が弾んだ。
「――っ、んぱぃっ、……!」
僕の口で塞いだ唇から、一際熱い吐息と声。息の当たる感触さえ愛撫の様に感じて、理性が飛んでしまいそうだった。
「ん、むっ、ぁ、」
唇を離すと、苦しそうに明が口を開く。突然の事に驚いた僕は、すぐに明の肩を抱いて様子を確かめる。
「あ、ぁ、熱いっ、からだ、がっ、」
ただほんの少し口づけをしただけなのに、明の様子は明らかに変だった。
さっきまで弱々しく震えていたはずなのに、大きな一つ目がかっと開かれて、息苦しいみたいに何度も呼吸を繰り返す。
「め、明……? どうしたんだ?!」
「せん……ぱ、いぃ……ッ!」
突然跳ねるように身体を起こし、彼女が僕をぎゅっと抱きしめた。明にこんなに強く抱きしめられるのも、密着されるのも初めてだった。
すると、
「あ、ああ、せん、ぱいっ、怖い、こわいよっ、わた、わたしっ――」
ずるりと音を立てて、少し浮いた彼女の背中から黒い何かが顔を出す。一つではなく何本も、触手のような黒い何かが現れて、僕の背中を包もうとするかのように伸びてくる。その先端には彼女の顔にある赤い目とそっくりな眼が付いていた。
「うぅ、あぁっ、」
黒い触手についた赤い目が何度か瞬きをしたかと思うと、その触手たちは僕の手や足へあっという間に巻き付いてきた。その内の何本かは僕の胴体にも巻き付いていて、それは彼女の身体ごと一緒にとぐろを巻いている。
「――っ、ふーっ、ふーっ……」
僕にしがみつきながら、肩で息をする明。
あまりに唐突すぎて、驚く暇さえなく僕は身動きが取れなくなる。
触手には黒いゲルのようなスライム状のものが付いていて、それは彼女の身体のように熱く、ぬるりとしていた。
「――あ、わ、たし……これ……って、」
ふと見ると明の様子はもう落ち着いていて、その大きな一つ目をぐりぐりと動かしながら、自分の背中から伸びる触手を不思議そうに眺めたり、触ったりしていた。
触手を撫でる明の手はいつの間にか黒く変色していて、それは触手に付いた黒いゲルが固まっているような色だった。
それは僕が本で読んだことのある『ゲイザー』の姿によく似ていて。
「……どうして、だろう。
今なら、わたし。言いたいコトぜんぶ……言えそうです」
「め、明……?」
明の顔も表情もさっきまでと変わっていなくて、大きな赤い一つ目もそのままだ。
けれどいつものようなおとなしい雰囲気がどこか変わっている。静かな口調はそのままなのに、男性を静かに誘う大人の女性のような色気が舞っていた。
そして明の表情を伺ったその瞬間、僕はアルコールを一気飲みしたようなくらっとした感覚に襲われる。
「……あっ、大丈夫、ですか? まだ、自分でもよく分からなくて。
でもこれって、私の力……だと、思うんです……」
見つめ合ったまま、明から目が離せない。
明のものとは思えないような力で僕と明の姿勢は真逆に入れ替えられ、今度は僕がソファに押し倒される形になる。ちらと見えた明の白いシャツは背中の部分が破れて、そこから触手が何本も伸びていた。
研究室のとても小さな照明の下、明がにこっと笑う。逆光になった明の表情は見えづらいけれどとても楽しそうで、獲物を見る猫のようで。
今までのお返しだ、と言わんばかりに彼女は積極的になっていた。
「ほんとに、暗示――って、効いてるんでしょうか?」
触手に巻き付かれて動けない僕の服の中に手を滑りこませ、胸板を指先でなぞる。
明の手で直に肌を触れられると、羽箒でくすぐられたみたいにぞくっとして鳥肌が立つ。同時に、軽く電気の走ったような快感もあった。
僕の口から思わず声が出て、あは、と喜んだような明の声が聞こえた。
「なあんだ、こんなにカンタンなんだ。
じゃあもう先輩、逃げられないんですね……えへへっ」
彼女が口にした通り、僕は動けない。
それは恐怖や麻痺ではなくて、強制される威圧を感じたからそうなったわけではない。
ただこうしていると心地が良くて、安心するような気持ちがして。勝手に体を動かされる感覚なんてどこにもない。もっと彼女の言葉を聴いていたい、彼女と温もりを共有したいという欲望が途切れることなく産まれてくる。
明を自分の物にしたい、けれど、身体は動かせないままでとてももどかしい。
「分かってるかもしれないですけど、先輩の服で、えっちなことしたの……これが初めてじゃないんです。
ばれちゃうかもしれないって思ったけど……気が付いたらにおい、嗅いでました。
そしたらなんかぼーっとして、ものすごくドキドキして……クセになっちゃって……」
普段の明からは考えられないほど饒舌で、大胆だった。
「今まではそこまででした。匂いを嗅いで、いやらしいことして……こっそり元に戻して。先輩、よく上着忘れるから……。
でも今日、先輩にあんなふうにくんくんされて、そおっとキスされた瞬間。
もっと欲しい――って思ったら、電気が走るみたいに身体が熱くなって――」
そう言いながらも明は僕の体をそっと触り続ける、首筋や鎖骨、腋の下から横腹まで、つーっと湯先でなぞるように。
「先輩、私がオナニーするところ……見ちゃいましたよね。
こんな所でしちゃった私も私ですけど、それでもすっごく恥ずかしかったんですから。
お返しに……先輩がおちんちん擦ってるところも、見せてくれますよね?」
明の口から卑猥な単語が出るたびに、さっきまでの明とのギャップにどきっとしてしまう。
そしてその行動も、いつもの彼女とは比べ物にならないほど積極的で。
「はい、下着は脱がせてあげましたよ。
先輩はいっつも、どんなことを考えながら気持ちよくなるんですか……?
ほら、ちゃんとしこしこしてください」
「う、うん……」
腕に巻き付いていた触手はいつの間にか離れていたので、僕は彼女の言うとおりに自分のモノを掴む。
明は笑顔のまま、ソファに寝転がる僕へ添い寝するような姿勢へ体を動かした。
そして、操られるようにペニスを扱きあげる僕の横から睾丸をふにふにと揉みしだいてくる。
「ふふっ、かわいいですよ、先輩っ……♪」
僕のシャツをまくり上げ、小さく隆起した乳首を舌で転がされるように舐められる。
同時に真っ黒な右手でもう片方の乳首もかりかりと擦られ、しかもその愛撫を受けている僕の表情をずっと明が覗き込んでくる。恥ずかしくて顔から火が出そうだけど、それでも自分の手が止められない。
「さっきまで襲おうとしてた相手に好きなようにされるのって、気持ちいいですか?
いいですよ、私もガマン出来なくなった先輩に、襲われてみたいです……」
またじっと明に見つめられ、その瞬間僕の右手の動きが止まる。
動かしてもっと快感を得たいはずなのに、なぜか動かそうと思えない。これももしかして、明の暗示の力なのか。
その真っ赤な瞳の輝きに魅せられるかのように、目線をずらすことができない。
「――せんぱい。もっと、もっと私のコト、好きになって。
まだ足りないんです、まだ――」
「あ、うっ……?!」
明が僕の目の前で囁くたびに体が火照り、ペニスがびくんと震える。とりとめのない欲望が湧きだしてきて、僕の意識を塗り替えていく。
明を愛したい、明を抱きしめたい、明を犯したい。
ともすれば獣になりかねないその情欲が止めきれない。
「せんぱ――ひゃっ?!」
触手に巻き付かれていたはずの僕の体はいつの間にかそれを振りほどき、明の体をソファの下へ、研究室の床へと押し倒した。
ケガをしないように手で明の頭だけは守ったが、触手がクッションになっていたのでその心配も杞憂だった。
「あっ、せ、せんぱ……」
僕の方にも異変があったのを察したのか、明の表情はさっきの余裕たっぷりなものではなく、少し怖がっているようにも見えた。
はぎ取るように僕は明の服を脱がせていき、自分のモノを彼女の股間にくっつける。つつましく膨らんだその割れ目はまるで子供みたいに小さい。
明は嫌がるような素振りは見せなかったけど、不安そうに僕を見ているのは理性の薄れつつある今でも分かった。
「めい、明っ……!」
僕たちは正常位の形で絡み合い、僕は彼女をまた見下ろす形になる。
彼女に了承を得る時間も惜しく、僕はそのとても狭い穴にペニスを突き入れる。もう十分なほど濡れていたけれどやはり抵抗は大きく、無理やりに突き入れると壊れてしまいそうなほど小さい。
それでも僕は容赦せず腰を一番奥まで突き入れる。明の小さな秘部は貪欲に僕のペニスを飲み込んでいき、そのままごりごりと奥を擦ってみると明の口から可愛らしい声が漏れた。
「せ、せんぱっ、そ……んな、いきなひっ、」
明の喘ぎ声を聞きながら、僕は止まることなく腰を動かし続ける。まだほんの少し突いただけなのに明の中はぬるぬるで、ペニスが溶けてしまいそうなほど熱かった。
ペニスを奥まで突き入れるたびにヒダが絡みついて、抜くたびにカリが膣の入り口で引っかかって刺激を与えてくる。
さっきまで焦らされていた僕はもう限界で、早くも絶頂を迎えてしまいそうだった。
「あっ、あっ、わ、わたし、もおっ……!」
その声で、明も限界が近い事が分かる。しかし僕はそんな事を気にせず、さらにピストン運動の速度を速めていく。
明の声が一際高くなったところで、一番奥へペニスを突き入れながら精液を流し込んでいく。
「ひゃあうっ! な、ナカに、……いっぱいぃ……っ!」
ほんの少し射精の余韻を味わった後、また僕は抽送を繰り返す。一回の射精では収まりきらない欲望が生まれて止められない。
僕の精液と明の愛液とでぐちゅぐちゅになった膣内はより滑りが良くなって、突くたびにいやらしい音がする。
まだまだ味わっていたい。明の中を。
「せっ、せん、ぱひぃっ、わ、わた、へ、ヘンに、なっ、あぁっ!」
絶頂を迎えたはずの明に僕は突き入れを止めず、ペースを落とさない。明の声が甲高くなるにつれ、呂律が回らず言葉にならなくなっていく。
それでも僕は速度を緩めることなく、また少し経つと射精欲がぶり返してくる。
これが彼女の暗示の力なのだろうとほんのわずかに残った理性の中で思いながら、また僕は彼女の中に勢いよく射精してしまう。
「ぁ、あ、ひぃ……、へ、んぱぁっ……ひぃ……」
それからも少し休んではまた射精するまでピストン運動を繰り返して、繰り返して。
彼女の膣口は貪欲に僕の精を飲み込みながら、絶え間ない快感を僕に与えていた。
数時間後の明の表情はもう蕩けきっており、言葉も定かでなく、意識も残っているか怪しいぐらいで――。
僕が慌てて彼女を介抱したのは、朝の四時になるころだった。
僕の意識が平静に戻った後はとてつもない気だるさに襲われたが、それでもなんとか後片付けはできた。もっとも、明の触手が突き破ってしまったシャツはどうにもならなかったが。
研究室に明一人残しておくわけにもいかず、僕は彼女の横でうたた寝をして待つことにした。
「……ん、あ、」
明が起きたらしい、その寝返りで僕も目が覚める。
起きたばかりの明はまだちゃんと目覚めていないのか、何も言わずに僕の顔と自分の体を交互に眺めていた。
「せんぱい。……わたしと、せんぱいは……もしかして?」
明はどこから覚えていないのだろうか。もしかすると昨日の出来事をすっぱり忘れているのかもしれない。
もっとも、僕が一方的に犯してしまったなんて僕の口からはとても言いにくい。
「うん。……しちゃった、ね」
「そう、ですか」
僕がそう言うと、彼女はソファの上で少しだけ身を起こし、いつもの明のような、小さな笑みを浮かべた。
「……わたし、その時のコト……あんまりよく、おぼえてないんですよね。頭の中がもう、バクハツしたみたいにぐちゃぐちゃで。
なんだか、ずるいです。それに……残念、です。初めてはもっと、大切にしようって思ってたのに」
その言葉に僕もズキンと良心が痛んだけれど、残念、という割には落ち込んだ様な顔はしなかった。それがほんの少し僕にとっては幸いだった。
一体何を言われるのだろうと、身構えた僕に彼女は、
「だから、先輩。
わたし……今日は、先輩のお家で、寝てみたいです……。
いい、ですか……?」
と、僕に目線を合わせないまま、恥ずかしそうに言った。
「い、いいけど、それって……」
思わぬ明からの提案に、僕は咄嗟に返事が出ない。
顔が赤くなるのを隠そうとして、僕が同じように彼女から目線を離す。
すると、
「今度こそ、優しく、してくださいね」
控えめな声が耳元を通り、頬に柔らかな感触を感じた。
14/08/10 02:48更新 / しおやき