メウツリゲイザー
宿のチェックインを終わらせ、荷物を置き革鎧を脱ぐ。
久しぶりの柔らかいベッドに俺が座ろうとしたその瞬間、洗面所の方から、食器を割ったような大きな音が鳴った。
またやったのか、と頭を掻きながら、俺は洗面所への扉を開ける。
予想通り、洗面所の中にある一枚板の鏡には無数のヒビが入っていた。床の上に散らばった鏡の破片が電灯の明かりで煌めいている。
もうまともに物を映さなくなった鏡の前で、あいつはどこを見るでもなく、ぼーっと佇んでいた。
「――また、やっちゃった」
あいつは魔物であり、子供のように小柄で人間らしい体格と、人間ではあり得ない灰のような肌の色をしている。
服や下着は一枚も身に着けておらず、代わりのように胸や股間、腕や足には結晶のような黒い何かが付着している。その肘から手と太ももは、まるで手袋や足袋を着ているみたいに真っ黒い。
背中から何本も伸びる、先端に目玉のついた黒い触手もまた、人外である事を主張する。
極めつけに、顔の真ん中に埋まった赤く大きな一つ目。
どこから見ても人間ではないその顔が、黒髪の下でそっと俺を見た、ような気がした。
そしてそのまま俺の方に歩いて近寄ってこようとするので、俺は掌でそれを制する。
「いいから動くな。すぐに掃除するから、」
その時、誰かが駆け上がってくる音が聞こえた。
おそらくこの宿の人間だろう、あれだけ大きな音があったら確かめに来るのは当然だ。
部屋の扉が勢いよく開いて、さっきチェックインする時に会った、髭面で体格のいい主人が現れた。
「おい、なんだ今の音は!」
怒号のような大声が部屋に響いて、同時に洗面所からあいつがのっそり出てくる。
その表情は能面のようで、ばつが悪い顔も、悲しむような顔もしていなかった。
「鏡」
ぼそっとあいつが言って、洗面所の中をそっと指差す。
洗面所から出てきたあいつと、鏡が散乱した部屋の中を訝しむような顔で宿の主人が見比べる。
その事情を察したらしく主人はいかにも不機嫌そうな唸り声を出して、今度は俺を睨んだ。
「――ったく、だから俺は魔物を泊めるのはよせって言ったんだ。
おいアンタ、この鏡の弁償代見積もらせてもらうぜ」
「……『最初から、割れてた』」
「なに?」
あいつが主人の言葉に口を挟む。
睨みを効かした主人の鋭い目線と、あいつの赤い一つ目が、ばっちりと合っていた。
「『来た時には、もう、こうなってた』」
「……え、」
さっきまで怒っていた主人の表情が歪み、口が少し開いて、眉が曲がる。
自分がしようとした事を、これから何を言おうかを全て思い出せなくなったような、呆然とした表情をした。
ずい、とあいつが主人に詰め寄る。もう目は合っていない。
「早く、掃除してよね」
「す、すまん。忘れてたみたいだ。
いやあ、前の客がひどいヤツでな……ああ、今すぐ片づけるよ」
主人は小さく俺に頭を下げて部屋を出ていく。
それからすぐに掃除用具を持ってきて、散らばった鏡の破片を片づけだした。
言うまでもなく、鏡を割ったのはあいつだ。俺がさっき顔を洗った時は、鏡はちゃんとそこに嵌って俺を映していたんだから。
つまり、あいつが誤魔化した。
それが”ゲイザー”である彼女の魔物たる能力。記憶や思考を操る魔法をいとも容易く扱って、人間を惑わせる力だ。
彼女の一つ目と眼が合うと、それだけで”暗示”が刷り込まれてしまう。
主人は俺に小さく頭を下げて、集めた鏡の破片を袋に入れて持って行った。
あいつの一連の行動に口を挟むわけでもなく、俺はただ独りごちる。
「まったく」
―――――――――――――――――――
俺があいつと出会ったのは、確か一週間前ほどになる。
切っ掛け、というほどの事もない。
雨避けのために俺が洞窟の中へ入った時、そのほんの少し奥で、岩の上にあいつが座っていた。
暗がりな洞窟の中でも、背中から伸びる触手に付いた目達や、赤い一つ目は目立っていた。火が灯っているかのように、自分がそこに居ると眼が主張していた。
俺より先に気づいたはずのあいつは、俺を見ても何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
あいつが魔物である事も、それが”ゲイザー”という強大な魔物である事も知っていた。知っていたが、気づいた時にはもう目が合っていた。
彼女がその気になれば、俺は簡単に手玉に取られるだろう。自分でも分からないうちに――もしかしたら、もうすでに。
冷たい洞窟の空気が、緊張で熱くなった俺の額を撫でていた。
目が合ったのは、ほんの数秒だ。
すっと彼女が立ち上がって、俺に近づく。思わず力が入って俺は握り拳を作っていた。
まだ逃げおおせる可能性はある。少なくとも身体は動いているのだから。
しかし俺は背を向けて逃げ出す事も、恐怖に怯えて錯乱する事もなく、ただ彼女がそっと近づいてくるのを待っていた。それが暗示なのか、俺の意思なのかは分からない。
立ち尽くしたままの俺の前に彼女が近づく。すぐ傍まで来られると、その背と身体の小ささがより目立つ。背は俺よりも頭一つかそれ以上に小さい。
必然的に、俺が彼女を見下ろす形になる。
「ニンゲン、」
これからどう喋ろうか確かめるような、ひそっとした声。
彼女は俺の姿を今一度確かめるかのように、じろじろと全身を眺めていた。見たことがないおもちゃに興味を惹かれる子供のような、どこか愛想さえ感じる素振りだった。
けれど俺の顔には目を合わせない。目が大きい分どこを見ているかが正確には分からないから、俺の気のせいだったのかもしれない。
「ねぇ」
背中に回り込んだ彼女が、俺の後ろから再び声を掛けた。
黙って俺の死角に彼女を入らせたのは、油断や慢心の類からではない。
元より闘って勝てる相手でないと、はなから抗う気が俺に無かったのだ。
「逃げないの」
彼女の問いには答えず、もう一度俺は彼女の姿を一瞥する。
闇に溶けてしまいそうな彼女の黒い手が、革鎧の上から俺に触れる。
不思議と警戒心も、魔物に触れられる嫌悪感も感じなかった。
もしかすると、それも彼女が仕組んだ”暗示”だったのだろうか。しかし、それは俺が考えても分かる事ではない。
「逃げないんだ」
彼女の手が、俺の鎧のベルトに掛かる。
俺を食べるために、邪魔なものを脱がせようとしている? 魔物は往々にして人を食らう生き物だとは聞いたが、どこか、様子がおかしい。
魔物なのに、命を奪おうと言うような気迫を一切見せない。それどころか、どこか色めいた空気さえある。
「ふうん、そうかあ。ほんとに、逃げないんだ」
あっという間に革鎧は脱がされ、肌が洞窟のひやっとした空気に触れる。
肌着一枚の姿にされた俺の身体に、彼女の腕と、触手が絡みつく。
俺の両腕と両足にはぐねぐねとした感触が巻き付いて、そのまま強く引っ張る力で体勢を崩される。洞窟の床に尻もちを付いた俺の背中に、彼女の熱を持った身体が押し付けられた。
物理的にも彼女から逃れる事が出来なくなった所で、舌なめずりをする水音が聞こえる。
にゅるり。
温かくて、滑った何かが俺の耳をなぞる。おそらく彼女の舌だ。
俺の背中に幼い体を押し付けながら、彼女は舌で耳の外を、内を、その中を犯してくる。ぞわぞわとした感触が走って、身震いがする。だが身体は触手に押さえつけられたままなので、身をよじる事が出来ない。
何より俺は、彼女の行動に困惑していた。
まるで懇ろの男女がするようなその愛撫を受けて、ぞくりとした快感と、不可解な疑問だけが心に浮かぶ。
なんだ、俺は何をされているんだ。
「、んっ、むぅ、」
彼女の舌は耳だけでなく、頬をなぞりながら、顎へ、首筋へ。同時に黒い手が少し汗ばんだ俺のシャツをまくり上げ、外気に触れた肌をすりすりと撫でる。まるで感触を確かめるように、二度三度と。
俺の胸板をなぞって乳首に触れられると、たまらず俺も小さく声を出してしまった。
「♪」
んふっ、と耳元で笑うような声がして、彼女の手が胸からどんどん下へ下がっていく。
もうすでに下着の中で膨らんだ俺のペニスを、彼女がそっと撫でた。
「あは、こんなに、してる」
すっと彼女が俺の背中から離れて、支えを失った俺は仰向けに地面へ倒れる。もちろん触手は巻き付いたまま俺の身動きを封じているので、解放されたということではない。
彼女は仰向けに寝転んだ俺をまたいで座り、俺から背を向けるようにして、俺の腹の上に座った。小柄な体格は見た目通りの軽さで、さほど負担には感じない。
彼女の背中から伸びる触手の根元が俺の目に入って、尻尾のような彼女の黒い毛が俺の肌をわさわさと柔らかくくすぐった。
「んん、美味し、そう」
俺の位置からは見えないが、どうやら下着を脱がされたらしい。
彼女の背が曲がって、小ぶりな白い尻が尻尾の下から見える。四つん這いの形になって彼女は俺の男根に顔を近づけていた。
さっきまでの愛撫で高まっていたペニスにぬるりとした、温かい感触が纏わりつく。ざらざらとしたそれはやはり彼女の舌だ。
亀頭の先っぽから竿まで丹念に、唾を塗りつけるように、にゅるり、にゅるりと舐められる。
ペニスが唾まみれになったかと思うと、今度は亀頭全体が温かな何かに埋め尽くされる。彼女の口内にペニスが飲み込まれたのだ。
丁寧に、かつ激しく、彼女は俺のペニスをじゅぽじゅぽと水音を立ててしゃぶり尽くした。
「んむっ、ふっ、んんっ」
俺に快楽を与えるというよりは、その味が堪らなくて舐めているような、激しい動き。
彼女の頬肉や、舌先で亀頭がにゅるっと擦られるたび、思わず声が出そうになる。
長い間性欲を処理していなかった俺は、たまらずその温い口内に精液を放出していた。
どくん、どくんとペニスが脈打って、彼女の口内で暴れる。
それを待ち構えていたように彼女は亀頭をちゅるりと吸い上げ、俺の出した精液を喉奥へと吸い込んでいった。
「――♪」
ご無沙汰だった俺の身体は射精の激しい快楽で痺れて、疲労感に包まれる。だが、ペニスは萎える兆しを見せない。
彼女は俺の身体に触手を巻き付けたまま、自分の腰を持ち上げ、俺の股間へと持って行く。
くちゅ、と柔らかい何かが亀頭に当たった。
「じゃあ、食べる、ね」
滑った柔肉が亀頭にくっついて、先端にぬるぬるとした液が零れる。もしやと思ったが、ペニスを刺激するそれは彼女の秘部だった。
淫らな液の匂いと彼女の体臭が混じりあって、ほどよく意識を混濁される。さっき出会ったばかりの魔物が仲睦まじく連れ添った恋人のように思えて、ほんの僅かな抵抗心さえ彼女の愛おしさに切り替わっていく。
ほんの僅かな無音の後、彼女はゆっくりと腰を落とし、小さな小さな穴から俺の亀頭をにゅるりと飲み込んでいった。
「――ぁ、うぅ、っ」
穴が小さいだけに、きゅうっと締め付ける力も大きい。ペニスをぎっちりと銜え込んで、もう離さないと言わんばかりに、愛液で濡れた膣肉がぐにゅぐにゅと動く。その腔内はとにかく熱く、ぬるぬるとしていた。
ぺたん、と彼女の尻肉が俺の腹に乗っかる。幼子のような彼女の小さな体の中に、俺のペニスが全部飲み込まれたのだ。
「んぁ、い、イイ、よぉっ、」
苦痛の意など一切ないかのように彼女が甘い声を上げる。同時にぐにぐにと膣内がペニスを責め上げた。
さらに彼女は腰をぐいと持ち上げ、俺のペニスを膣肉で擦りあげながら、また俺の腹に尻肉をぺちんと打ち付ける。膣肉のヒダでペニスを奥まで飲み込んで、咥える。その運動を繰り返す。
もっと奥までペニスを飲み込もうとするように、彼女は細い腰を揺らす。濃い匂いを放つ愛液がそのたびにペニスから溢れた。
早く出せと言わんばかりに、彼女の腰遣いは激しさを増していく。
きゅうきゅうと締め上げる膣内と、肉ヒダのたまらない摩擦で、俺はすぐさま絶頂を迎えてしまった。
「――ッ♪」
一際高い声を上げて、彼女が腰を逸らせる。びくびくと震えて、痙攣しているように見えた。
同時にきゅっと膣がペニスを締め付けて、俺が出した精液が飲み込まれていく。一滴残らず吸い出すような、腰が抜けてしまいそうなほど強く、甘い刺激。
触手があってそもそも動けないが、そうでなくても、もう暫くは身動きできそうになかった。
「……ん、ふぅっ……」
糸の切れた人形のように力を抜いた彼女は、少し身体を回して、俺の上半身に倒れ込む。
巻き付いたままの触手はそのままにして、彼女が俺の胸板へと顔を擦りよせる。
彼女は母の胸にすがりつく幼児のように、そのまま俺をぎゅっと抱きしめ、胸に顔を埋めた。
火が消えるように行為の余韻が去って、少しの沈黙の後。
彼女の寝息が聞こえるのに、それほど時間は掛からなかった。
それから。
俺も彼女もぐっすりと寝ていたらしく、彼女の身動きで俺も目が覚めた。
彼女は俺の目を見ず、何か言うこともなく、巻き付いていた触手を元に戻した。
人間の俺に、魔物である彼女の心境を察する事はできない。
魔物にも欲求不満の類があるのか、それともただの気まぐれか。
少なくとも分かるのは――彼女が今ここで、俺の命を奪う意思がないという事だけ。
俺が洞窟を出ようとした瞬間、彼女は俺の手をそっと握った。
握った、だけだった。
洞窟の中に引っ張られることも、それが切っ掛けで囚われてしまうような暗示も、そこにはなかった。
そして。
事実として残ったのは、彼女が俺に付いてきた、ということだけだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――しかし、なんでだ。どうして鏡を割る」
俺が街で買ってきた夕食を部屋のテーブルで食べながら、俺はあいつに聞いた。
なぜ外で食べないかと言うと、理由の一つは、そもそもあいつが人間と同じ食事をしないからだ。
有り体にいうと、人間の精を食べる。
洞窟で俺と交わったのも、つまりそういうことらしい。
それともう一つ。魔物である彼女の姿が非常に目立つからだ。
すぐさま自警団に通報されないだけ、この辺りの地域はそのあたり寛容というか――むしろ無関心なのだろうが、どちらにしろ門前払いを食らわないだけ助かる。それにあいつ自身も人ごみを嫌っていた。
道中、彼女を見る人間の目つきは二つ。目を逸らして避けるか、恐怖に怯えた目で警戒するか。
それは彼女にとってはどんな気分か、聞いてみたくもなる。
「虫が、いたから」
俺の目から顔を背けながら、椅子に座ったあいつが言う。彼女の大きな赤い一つ目が、長い癖のある黒髪の下でひっそりと隠れている。
乙女心とやらをさっぱり理解できない俺でも、彼女の言葉が嘘である事は分かった。
「責めるつもりじゃないが、そう何度もされると気になるんだ」
「……ふんだ」
下を向いたまま、彼女はもう何も言わない。
黒髪の下にある表情を伺ってもちらちらとしか覗けず、覗いたところでその内は分からない。
「言いたくないなら、いいんだがな」
俺は干し肉を齧りながら、いつもよりうねうねと蠢く彼女の触手を眺めていた。
夜。
月明かりが窓から差し込んで、淡く部屋を照らす。今夜は満月のようだ。
寝支度を済ませて俺がベッドに潜り込むと、もう一つのベッドで寝転んでいた彼女がむくりと起き上がる。
そのままゆっくりと俺の方に近づいてきて、俺のベッドに潜り込もうとする。
言葉は発しなかったが、これも毎晩、いつものことだ。
彼女がもそもそと布団に潜る様子を眺めながら、俺も少し背を起こした。
「んっ、」
二人ともベッドに寝転んで、互いのいる方に向きあう。
大きな赤い一つ目をきゅっと閉じて、彼女が口元を寄せてくる。
まずは軽く口先を触れさせて、顔の角度を変えながら、より深く口づけを交わしていく。口内に入り込み、自分の物でない唾液を唇と舌で感じながら、奥を犯していく。
いつも通りだ。
接吻に関してだけ、いつも彼女は控えめで、何も知らない子供のように物怖じをする。
何故かは分からないが――、突然、ある考えが浮かんだ。
俺は半ば無理やりに口を離し、近すぎて見えなかった彼女の表情を確かめる。
「……?」
求める物が与えられなくなり、彼女が眉根を潜めるのが見えた。
けれど、きゅっと閉じた一つ目を開けることはない。
数秒経っても彼女は目を開けず、怪訝そうな顔をするばかりで、その一つ目で俺の顔や動きを確かめようとはしないのだ。
「目、開けてくれないか」
「――え、」
俺が聞くと、口元から漏れたようなか細い彼女の声。
ぴくっと彼女の身体が震えたのが、俺の腕を通して分かった。
「な、なんで、だよ」
目を閉じたまま、彼女は困惑した顔を見せる。素直に言う事を聞く気はないらしい。
彼女の一つ目に俺はそっと顔を近づけ、目尻のあたりを舌でなぞってみる。
「あ、うっ、」
過敏であろう目への刺激に反応して彼女が声を上げる。かたくなに閉じた目は開かないが、、嫌悪の表情はない。
困ったように、しかし待ち望むように、彼女は口元とまぶたを何度も揺らす。
「前から思ってたんだ。
あんまり俺の目を見ないから、顔を合わすのが嫌なのかと」
「――そうじゃないけど、」
「分かってるよ。けど、なら尚更気になるだろう」
もちろん、それぐらい俺だって理解している。何の理由も無くあの洞窟から付いて来るはずがない。ましてや、こうやって体を重ねてくるはずも。
たとえ精を得る為であったとしても、その代わりはこの街にいくらでもいる。
「……目、」
「目?」
「合わせるのが、怖いから」
「どうして」
それだけ言うと、顔を隠そうとした彼女は俺の胸元に顔を埋めようとした。なので彼女の両肩を抑えることでそれを制する。
抵抗はされたが、彼女も諦めたらしく、少しずつ力を抜いていった。
「みんな、わたしから目を逸らす。
私のことなんか見たくないって、気持ち悪いって、思ってるから」
一つ目は閉じたまま、彼女がひっそりと呟く。
「だから、わたしも、怖い。自分なんて見たくない。
わたしは、わたしのこんな姿が、気に入らなくて、仕方ないんだ」
何も言わず、俺は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「そうか。そう思うなら仕方ない。
お前の言い分は分かった、だから、目を開けてくれ」
「……! だ、だから……」
「だから、なんだ?
お前がそう思うのは自由だ。でも俺には関係ない。お前がどう思っててもな」
「あ……暗示。わたしが目開けたら、暗示、掛けるぞ」
「好きにしろ」
痺れを切らした俺が、もう一度彼女の唇に舌を這わせる。
突然入ってきた異物に驚きながらも彼女は受け入れ、互いの唾液に塗れた舌を絡ませ合った。
「ん、ふぅ、んっ」
水音が大きくなるにつれ、彼女の目元にも変化が現れる。
赤色の瞳が少しずつまぶたの下から表れ、ごろんとした目玉を晒していく。
硝子のような、水晶玉のような、どこか神秘的にも思えるほどの大きさだった。
「……っ」
こじ開けられるかのように彼女の一つ目が全て露わになって、窓からの月明かりで煌めいた。
何故か頬を赤くして、何か言いたげに口をもごもごと彼女は動かすが、声は聞こえない。代わりのように熱い吐息を漏らすだけだった。
「俺も、ずっと怖いままだ。誰かに見られることが」
「……え、」
「少しだけ、昔の話をさせてくれ」
俺と彼女の目がばっちり合って、お互いに瞬きの回数が早くなる。
彼女の瞬きは目が大きいぶん、そよ風が起きそうなほど早い動きだった。
「もうどれくらい前の事か、分からない、
ある領主の奴隷だった俺は、戦争の混乱に乗じて逃げ出した。
その時からずっと、奴隷の身分を隠して逃げ続けて、そのために何回も罪を重ねたんだ。
誰かに暴かれるのが怖くて――どこにいても、他人が、他人の目が怖いままだった」
その途中で会ったのがお前だ、と俺は付け加えた。
少しだけ口を開けて、彼女は黙って俺の話を聞いていた。
「初めて会った時から覚悟してたよ。”ゲイザー”のお前が人間を操れるのは知ってたからな。
その時、また俺は『奴隷』に戻るんだろうって思ったんだ。
きっと俺はそういう運命で、一生誰かに使われ続ける――いくらでも代わりのいる、部品みたいな人間なんだって。
でも今は違う。……よくは分からないが、」
今度は俺の頬が熱くなる。
なぜ今俺はこんな事を言おうとしているのか、自分でも分からない。
夢の中にいるみたいに、もしくは酒をかっ食らったみたいにぼんやりとする。
「ほんの少しでもお前に求められる俺なら、『奴隷』でもなんでもいい、応えてやりたいって。
そんな風に、思うようになってたよ。
ああ、お前に操られてこんな事を言っているんだとしたら、俺はさぞかし滑稽だろうな」
突然の俺の独白に、彼女は何も言わなかった。
魔物である彼女が、奴隷であり、そして罪人である俺をどう思うかは分からない。
だがそんな事とは無関係に彼女の目は、俺が出会った誰よりも純粋に、優しく、俺を見てくれる気がした。
これも暗示か、俺には分からない。
「……ふん。
オマエがまっとうなニンゲンじゃない事ぐらい、分かってたさ。
”暗示”で問いただしてもよかったけど……そんなコト、わたしにとっちゃどうでもいいんだ」
「そう、か。それで、俺を操ってどうする? 何か企んでるのか」
今更それについて怒っているわけではない。もう既にそんな感情も湧かないようになっているだろう。
すると、また彼女は目をぱちくりさせて、一瞬だけぽかんとした顔になり、その後ゆっくりと笑い出す。
「――ふ、ははっ、あっはっはっ!
面白いな、オマエは。何にも気づいちゃいないんだから。
ああ、でもそうだ。そうでなきゃ、付いて行ってやる気なんてなかったさ」
その言葉を聞くと、完全に彼女の手玉に取られているように思えて仕方がない。
そしてそれでもいいと、彼女につられて笑いそうになってしまう自分がいた。
「何を考えてるのか、やはり俺には分からないな。
いいさ、ちゃんと目を見てくれるようになっただけでも良しとしよう」
「……なんだその言い方。まるで私が、は、恥ずかしがってたみたいじゃないか」
「違うのか」
「ち、違うに決まってるだろ! ――え、あっ、」
頬を染めて抗議する彼女にもぞもぞと近づく。
そして布団を被ったまま、仰向けにした彼女の身体に俺がのしかかる。
「普通の人間は向き合ってするんだ。ほら、ちゃんとこっちを向いて」
体位でいうところの正常位。男女が営みをする際に、もっとも一般的な形だ。
だが俺と彼女は、今までこうやって行為をした事がない。
「わ、分かって、る。……でも、だって、慣れないんだ、これ。
だいたいオマエだって、見られるのが怖いとか、言ったばかりのくせに、」
温もりを持った彼女の裸体に、俺の身体がぴとっと触れる。白に寄った灰色の肌は餅のように柔らかく、ほどよい熱さを持っていた。
それから彼女の背の触手がベッドの中でうごめいて、布団と俺の間に入り込んでくる。
不満そうな事を言う割には、その仕草はいつもと同じ、いや、いつも以上に触れ合いを求めてくる。
「ああ。けど何故か、お前の目を怖いと思った事はないんだ。
お前のせい、かもしれないがな」
ふっと笑って、俺は彼女が絡ませてくる腕や足や触手を、そっと撫でてみる。
俺の言葉を聞いた彼女が、ほんの少し身体を震わせて、口を開く。
彼女の瞳が潤んでいた事に、俺はすぐに気づかなかった。
「……ふふ、ははっ。そうか、わたしのせい、か。
そうだな。そうなんだろうな」
少し震えた、彼女の声。
微笑んだ俺と彼女の目が合ったその時、大きな目の端から零れた涙が、彼女の頬を細く伝う。
彼女の瞳には俺が映っていた。俺の瞳には彼女が映っていた。
――ああ。
そんなコトもあったような気がするよ。
……なんで覚えてないって、言われてもな。
だいたい鏡を割るお前のクセ、あの後もあんまり直ってなかったろ。
え? そうでもない、って?
どうだったかな。
……そう怒るなよ、一体何年前の話だと思ってるんだ。
大体あの時だって、別に特別な事を言った覚えはないぞ。
ま……年を取ったせいも、あるかもな。
そうだな。
人間じゃなくなっても――やっぱり、お前ほどは長生きできないらしい。
そんな顔するなよ。
まさか孫が出来るまで生きてられるなんて、俺は思ってなかったんだ。
それもこんなに静かに、穏やかに。
十分すぎるぐらい、満足だよ。
……あ。
そうだ。まだ、聞いておきたいことが、あったな。
俺は――結局、どっちだった?
ここまで生きてきてまだ、自信がないんだ。
どこまで俺の選択に、俺の意思は残っていたんだ?
つまり。
お前と一緒に居た時間は、お前がそうしたのか、それとも――。
そう言うなよ。
最後なんだ、教えてくれたっていいだろ。
……
……
やっぱり、そうか。
ああ。なんとなく、そんな気はしたんだ。
滑稽だな、ほんとに俺は、最後まで。
なんだ、今さら。
もう泣くなって、言ったじゃないか。
……そんな顔で言われたら、断れないよ。
分かってる、お前も言ってくれたからな、本当のことを。
誰にも、お前にも――従ってなんかいない。
だから俺は、ただお前のことが好きだったよ。
14/05/08 23:15更新 / しおやき