君と食べるひとときを
突然、僕は味が何一つ分からなくなった。
大学生になり、独り暮らしを始めてから二年が経った頃。
僕には友人はおろか、一緒にご飯を食べる相手さえいなかった。
田舎から引っ越してきたばかりの僕に知人は一人もおらず、大学の雰囲気に馴染めずオロオロしている間に仲の良いグループはもう出来上がっていた。人見知りの僕はグループに割って入る勇気を持てず、必要最低限の事しか口にしない生活が続き、次第に僕の日常は色褪せていった。
だからもしかしたら、そのせいなのかもしれない。
レストランで口に運んだステーキが、何の味もしなくなったのだ。
まるで粘土を噛んでいるように味も匂いも感じられず、僕は呆然とナイフをテーブルに置いた。
それから何を食べても飲んでも、口の中を食べ物が通った事しか分からない。
病院に行ってもそれは栄養の偏りだなんだと言われるだけで、治る兆しを見せないまま、はっきりとした原因すら分からず、半年が過ぎた。
最初は、すぐに治るだろうと気に留めないようにしていた。痛いわけでも、栄養を取れないわけでもない、大丈夫だ、と。
けれど少しずつ、言いようのない憤りと不安が僕を襲ってくるのだ。
なぜ僕だけが、味気のない食事をしなければいけないのか。
レストランで仲良く食事をしている家族を、親密そうに話す男女を見るたびに、羨ましくなって、たまらなくなる。
僕も、ちゃんと美味しいと思いながら食事がしたい、と。
ある日の帰り道、月のない夜。
清掃のアルバイトを終えて、人気のない静かな路地を僕が歩いていると、大きなフードで顔を覆った誰かに突然、肩を叩かれた。
振り向くと、見覚えのない姿をした人が立っていた。暖かそうなもこもこしたコートを着ていて、フードが口より上をすっぽり隠している。背は僕より少し低く、顔はフードでよく見えないけれど、頬あたりまで伸びた黒髪が薄暗い街灯に照らされていた。
声とその外見から僕が分かるのは、それがおそらく女性、ということだけだ。
「ちょっといいかい、お兄さん」
背は小さいけれど、声は少し低くどこか凛々しい響き。微笑んだように歪んだ彼女の唇は、暗い夜道でもどこか艶かしく見える。
ほんの少し自分のフードをずらしながら、彼女が言う。
「行くトコなくてね、”知り合い”のよしみってコトでさァ、今日寄ってもイイか?」
「え?」
その下にある顔がちらりと見えた瞬間、何か違和感があったけれどよく分からない。
それに彼女は知り合いだと言ったが、僕にはまったく覚えがないのだ。
でも、
「あ、ああ……散らかったままだけど、いいかな」
「よーし、じゃあ行こうぜ」
誰かも分からないのに、いやそもそも彼女の顔さえ僕は見てないはずなのに、何故か二つ返事で僕は了承してしまった。
それどころか僕は彼女に、まるで幼馴染のような、奇妙な親近感を覚えていたのだ。
そんなのあり得ない事だと思いながらも、僕は疑問を口に出せなかった。
フードを被った女の子は僕の住むアパートに上がると、僕が何か言うより先にコタツテーブルに座って、お尻から下をコタツの中に潜らせている。彼女はきょろきょろと部屋の中を見回しながらも、僕が座るのを待っているように見えた。
彼女のことを不思議にも不自然にも思いながら、とりあえず二人分のお茶を出して僕もテーブルに着く。
一緒に、さっきコンビニで適当に買ってきたお弁当もテーブルに置いた。
「んー? それ、オマエの晩ゴハンか?」
壁にもたれながら彼女が言った。うん、と頷いて、僕は答える。
少し前までは自分で料理も作っていたけれど、味も何もわからないのに料理を続けようなんて気にはなれず、いつの間にかぞんざいな食事ばかり取るようになっていた。
どうせ、何を食べたって同じなのだから。
「なあんだそのわびしいメシ、もっと精のつくモンないのかよ」
「……ああいや、その。 食欲なくて」
「ったく、元気もなんかなさそうだなァ。
疲れてるヤツの方が”暗示”は掛けやすいけどさ、体力つけてもらわないと困るんだよ」
暗示、という言葉の意味はよく分からなかったけど、僕はそのまま続ける。
「……やっぱり、そう見えるかな。
最近何を食べても、味がしなくて……正直、何か食べるのも億劫なんだ。
身体はどこも、悪くないのに」
「あぁ? オマエ、そんなんで……んー、そうだ、良いコト思い付いた。
アタシが美味いモン、食わせてやるよ」
「え……、でも僕は、」
「いいからいいから――ちょっとこっち、見てみろよ」
どういう事だろうと思いながら、言われた通りに彼女を見ると、彼女は自分の大きなフードをゆっくりと外した。
癖の付いた長い黒髪がぱらりと舞って、その下にある顔が露わになる。
ぞくり、と鳥肌が立って、さっきの違和感の正体が分かった。
大きな、赤い彼女の眼が、じっとこっちを見つめる。
彼女には、目が一つしかなかったのだ。
「あ、……め、目が……」
「驚いたか? ま、もーちっとこっち見てろよ。そこにあるメシが、きっと美味くなるぜ」
言葉を失ったままの僕を見て、楽しそうに彼女が笑った。
その赤い瞳に僕は釘付けになって、目が離せない。
得体の知れない何かが目を逸らす事を許さず、金縛りにあったみたいに身体が動かせない。
「さァて、こんなモン、かな。
さ、食ってみろよ」
彼女がそう言ってフードを降ろすと、一つ目はすっぽりとその下に隠れていった。
緊張で強張っていた身体が解れて、ようやく脳の言う事を聞いてくれる。指先の震えが徐々に納まっていった。
同時に、僕の心境と感覚に、変化が生まれる。
「……う、あ、」
目の前にある変哲のない唐揚げ弁当が、とても豪華な、これ以上なく魅力的な食べ物に見える。
お腹の減りは普段と同じなのに、今は三日間絶食した後のような食欲を感じるのだ。
そして、感じる。揚げ物の匂い。
唐揚げの、香ばしい匂いを。
「あ、な、なんで……なんで?」
その刺激のせいで、異質であるはずの彼女の正体さえどこか遠い出来事のように気にならなくなって、涎が零れそうになる。
それよりも、早く、早く食べたい。
一体何か月ぶりに、まともに食べ物の匂いを嗅いだだろう。
僕はありったけ急いでナイロン袋からお弁当を取り出し、蓋を開ける。
「おお、すごい表情してるなァ。よっぽどだなこりゃ、はは」
僕が唐揚げ弁当を平らげるのは、まるで一瞬のことのように感じた。
……美味しかった。
近場にあるコンビニで買ってきただけのお弁当だけど、僕にはとてつもなく、心に残る味に感じた。
「どうだ、アタシの”暗示”が掛かったメシは。美味かっただろ?」
「うん、とっても」
温くなったお茶を飲みながら、僕は一息つく。今はこの麦茶の匂いさえ、すごく大切なものに感じられる。
でも、まだ足りない。
「今から、もうちょっとご飯作るよ。
パッとできるものがいいな、たしか玉ねぎに……そうだ、鶏肉も冷凍したままだった。
スープ……は時間が掛かるから、炒めものにしようかな」
頭の中で残っている食材を整理しながら、調理器具の準備をする。
ああ、待ちきれない。何で味付けしようか。お弁当ばかりで栄養が偏ってたけど、せっかくだから濃い味付けにしちゃってもいいかな。
「なんでもいいけどよ、早く頼むぜ」
「うん。急いで作るね。えーと、炊飯器セットしてから、たまねぎだけ先に切っちゃってから――」
それから十五分ぐらい掛かって、鶏と玉ねぎを卵で綴じた簡単なおかずができた。お皿を二枚用意して、僕の分、彼女の分とをより分ける。
ご飯はまだ流石に炊けてないけど僕はもう我慢できない、すぐに食べよう。
「はい。有りあわせだけど、よかったら君も」
「へ? ……あ、ああ。
ま、せっかくだから食べてみるか」
いただきます、と一例をしてからすぐさま僕は料理を口に運ぶ。
ああ、美味しい。手の込んだ料理でも高い食材でもないけど、とても充実した味に感じる。
「ん。なんだ、意外といけるじゃん。
こーいうの初めて食べたけど、まあまあだなァ」
そしてあっという間に料理はなくなり、それなりに僕もお腹が膨れて満足だ。
まだご飯は炊けてないけれど、どうしよう。ちょっと無理してでも食べようか、冷凍にしておこうか。
「……それにしても、すごいなあ。一体どうやって、僕の異常を……?」
「そーだなぁ。そいつを教えてやってもイイが……ちょっとばかし、条件があるぜ」
「条件、って?」
「それはなァ。……つまりだ、」
お腹いっぱいで満足したままベッドにもたれ掛かっていた僕の方へ、彼女がすり寄ってくる。ほんのりと甘い、香水のような、今まで嗅いだことのない匂いがしてどきっとした。
足を延ばして座っていた僕の膝に彼女は手を置いて、下から僕の顔を見上げる。フードが傾いて、その下にある宝石のような赤い一つ目がちらりと見えた。
「今日のあたしのゴハンが、オマエってことさ」
もこもこしたコートのボタンを外しながら、彼女が言う。コートと一緒にフードを取ると、露わになった一つ目が僕を睨んだ。癖のある黒髪は前と後ろの両方に長く、前は鼻近くまで、後ろは腰辺りまで伸びていた。
突然のことに理解が追い付かないまま、僕は唾を飲み込む。
彼女は、コートの下に何も着ていない。が、驚いたのはそこだけじゃなかった。
「な、なにを……」
間近で見る彼女の裸体は息を呑むほど綺麗で、しかし人間とは違い、彼女の肌は雪のように白かった。
同時に胸の小さな膨らみや、細い首筋や鎖骨にも目がいって、心臓がどきどきする。人間で言う乳首のある場所には、黒い何かが張り付いていた。
人間かどうかは分からないけれど、それはまるで少女のような肢体だった。
膝に触れた彼女の手は墨のように黒く、でも柔らかく、人に触れられるのと同じような感触がする。
「なあに安心しな、取って食うワケじゃない。
『食べる』のには、変わりねェけどな」
彼女の背中から何かが伸びる。さっきまでは何もなかったはずなのに、黒いケーブルのような何か――黒の触手が伸びていた。その先端には彼女の一つ目と似た目玉があって、顔にある目と同じように、僕を見つめている。
そしてその触手達は僕のそばへ擦り寄ってきて、服の上から僕の身体を撫でる。
「ほおら、アンタが見るのはこっちだよ」
彼女の黒い両手が僕の頬に優しく添えられ、ゆっくり彼女の顔がある方向へと向けさせられた。甘い匂いがさらに強くなって、僕の鼻をくすぐる。
赤い瞳が僕をじっと睨んで、彼女がにい、と笑う。
裸体を見て火照っていた僕の頬がさらに彼女に触れられることで、ますます熱くなっていった。
「アタシはねえ、目があったヤツに”暗示”を掛けられるんだ。
さっきの弁当も、料理も、ちゃーんと味分かったろ? それはアタシの目を見たせいなのさ」
「暗示……? 目……? そんな、あり得ない……」
「ふふ、そうかもね。でももう頭ン中がぼうっとして、何にも考えられないよなァ。
さっきの”暗示”にイロイロ混ぜちゃったからよ」
「う……んん、」
彼女の言っている事はよく分からないが、微睡むように思考がぼんやりとする。
得体の知れない黒い触手が、彼女の真っ白な身体が、赤い瞳が、どんどん魅惑的に見えてきて、全身に力が入らない。目の前にいる彼女に、ただ、身も心も任せたい衝動に駆られていく。
「こういう時ニンゲンは……『いただきます』、って言うんだっけな。
安心しな、たぁっぷり、気持ちよくしてやるよ」
気が付いた時には僕のズボンも下着も脱がされ、下半身は彼女の前で露わになっていた。
大きく勃起した肉棒がこれ以上なく膨らんで主張し、刺激されるのを待ち望んでいる。
「ん、こっちは元気良さそうだなぁ……口と手、どっちがいい?」
「ちょっ、ちょっと、待って……」
「なんだ? そっか、両方がイイんだな、んふふ」
彼女は僕の横に座って身を屈ませると、亀頭を舌でぺろりと舐め上げた。
その光景がはっきりと僕の目に入ると、今起きている事がまるで夢みたいに思えてくらくらしてくる。
さらに彼女は、舌を伸ばして裏筋や先っぽをぐりぐり刺激したり、窄めた口の中に咥えこんで上下したり、遠慮のない愛撫を行ってくる。
そういう経験のない僕にとって、彼女の口淫はあまりに強烈で、まさしく溶けてしまいそうな快感だった。
「んっ、ちゅっ、ぷはっ。なんだ、気持ちよさそうなカオしてるじゃん?」
口の動きを止めて、そのままの姿勢で彼女が僕の顔を見上げると、彼女の一つ目と視線が合う。楽しいおもちゃを与えられた子供みたいに無邪気な顔で、舌を出しながら彼女が笑っていた。
すると、自分の黒い人指し指を咥え、ねっとりとした唾液を塗しながら彼女が言う。
「おっと、手も使って欲しいんだったっけなァ……じゃあ、こっちだ」
ぐにっ、と濡れた人差し指が僕のお尻の穴に擦りつけられる。そこからくりくりと表面を指先でなぞられると、くすっぐたいような気持ちいいような、変な感じがした。
「そ、そんな所っ……」
「気持ちイイだろ? ほら、トドメっ」
そう言って、彼女がまた僕の肉棒を口いっぱいに咥え込む。同時に、ぬめった人差し指をにゅるんと僕のお尻に差し込んだ。彼女は、口と舌で何度もじゅぽじゅぽと上下に肉棒を扱きながらも、僕のお尻の中をぐにぐにと指で掻き回していく。
亀頭をぬるぬるの舌で擦られる刺激と、お尻の中を愛撫されるという未知の快感が混ざり合って、僕をすぐさま絶頂に導く。
「ん、あぁ、で、出る……っ!」
その強烈な二重の責めに数分と耐えられず、僕は彼女の口の中に射精してしまう。
溜まっていた精液は勢いよく口内へ注がれていって、しかもそれを彼女が飲み込んでいく。口と舌の動きが射精したばかりで敏感な肉棒をさらに刺激する。
残った精液まで吸い出そうとするかのように、彼女がちゅうっと先っぽを吸い込む。腰が抜けてしまいそうな快感のせいで、勃起がいつまで経っても治まらないままだった。
「はぁっ、はぁっ……」
「んん、若いオトコの精はやっぱイイね、ごちそうさん。
けっこう美味しかったよ……アンタの、セイエキ♪」
ふうふうと息をつく僕の顔の前で、彼女がわざとらしく舌なめずりをした。
ピンク色の舌は白い肌のせいでより鮮やかに見えて、それがさっきまで僕の肉棒を愛撫していた舌だと思うと、ますます心臓の鼓動が早くなった。
「ま、美味いメシが食えるようにしてやったんだからさ、これぐらいは許してくれよな。
じゃ、そろそろおいとまするぜ」
彼女はそう言って、自分のコートを引っ掴んで立ち上がった。
……美味しい、ご飯。
そうだ、彼女のおかげで、僕の異常が治ったんだ。
「あ……ま、待って、くれ」
「んだよ、恨み言なら言うなって言っただろ」
キッチンに続く扉を開けようとしたところでくるりと向き直って、彼女が言う。
股間を露出して座ったままの僕はどうにも間抜けだ。けど今言わないと、彼女は本当に出て行ってしまう。
引き留めるなら、今、言うしかない。
「違うんだ。……君のおかげで、本当に久しぶりに、美味しい物が食べられたんだ。
味も匂いも何にも分からなくなってたのに、感覚が戻って、おいしくて……すごく嬉しかった。
だから、まだ、ここに居てほしいんだ――君に」
「……はあ? それ、ホンキで言ってんのか?」
赤い一つ目が怪訝そうな顔をして、僕を見る。
つかつかと彼女が歩み寄ると、僕の顎にその黒い手をそっと添えた。
「そんなコト言いたくなるよーな”暗示”は掛けた覚えないけどなァ。
……大体な、アタシの力はそんなに万能なモンじゃないぜ。
味だの匂いだのなんてややこしいの、”暗示”じゃすぐに消えちまうんだよ。
ずーっと掛け続けてりゃ、どうにかなるかもしれねェけど――それまでオマエのコト、付きっきりで面倒見ろってのか?」
「無茶苦茶を言ってるのは分かってるよ、でも、医者に聞いたって原因も分からなかったのに、君の力だけは、効果があったんだ。
お願いだ……もうちょっと、だけでも……」
僕は項垂れながら、目線を彼女から逸らす。
ふうん、と彼女が笑ったような声を出した。
「……ま、そこまで言うならココに居てやってもいいぜ。ただ、」
「た……ただ?」
「そうだな、まずアタシの分の寝床を用意して――それから毎日、オマエのセイエキをアタシに寄越せ。アタシが欲しいときはすぐに用意できるようにな。
でもって、アタシの命令はゼンブ、ちゃーんと聞く。
それが出来るってんなら、考えてやるよ」
その言葉を聞いて、僕は光が射すようにぱあっと気分が明るくなった。今まで使った事はなかったけれど、来客用の布団を押入れにしまってあるのを思い出したからだ。
なぜ彼女が精液を欲しがるのか、そもそも彼女が何者かもよく分からないけど、とにかく彼女の希望には答えられる。
彼女が居てくれるかぎり、僕は美味しい物が食べられるんだ。
「も、もちろん! それならいくらでも!」
「へえ、威勢がイイじゃねえか、そんなら交渉成立だ。たぁっぷり搾ってやるからな、カクゴしろよ?
モチロン、今日もだ――じゃ、さっきの続きといくかっ」
「え、ええ? あ、ま、待って――」
僕の情けない声と同時に、炊飯器の炊ける音が聞こえた。
それから、僕と彼女の奇妙な共同生活が始まった。
毎日一緒にテーブルを囲んで、一緒にご飯を食べる。
お昼は一緒に居られないからその時だけは苦痛なのだけど、夜と朝は、”暗示”のおかげでちゃんと味が分かる。どれもこれも、彼女の力のおかげだ。
彼女が言うには、しばらくの間”暗示”を掛けていれば、それが僕の感覚とすり替わって治るかもしれない、らしい。
保証はしねェけどな、と彼女に付け加えはされたけど。
「ただいまー。今日は肉じゃがだよ」
「にくじゃが? なんだ、ソレ」
「あれ、食べたことない? じゃあすぐ作るから、待ってて」
元々料理を作るのが好きだった僕は、より一層力を入れてご飯を作るようになった。
朝と夜は二人前分の料理を作って、一緒に食べるのが日課だ。
彼女は「人間と同じモンを食べる必要はない」と言ったけれど、それでも一緒に食べてくれたし、気に入った時には喜んでくれた。
「ふーん。前の『かれー』っていうのと似たようなモン使ってるのか。
んん、この肉ウマいな、柔らかくて」
「そう言ってもらえると、ひと手間加えた甲斐があるよ。
前は忘れてたけど、今日のは下味をつける前に、炭酸で柔らかくしておいたんだ」
「よく分かんないけど、美味いのはわかるぜ。
……でもこの赤いの、どうにかなんないのかよ。美味しくないんだよなァ、これ」
「ダメ。ニンジンもちゃんと食べてよ」
「ちぇっ」
人の多い所はイヤだと彼女が言うので、外食する時は個室で。
「ここのお刺身が美味しいんだ。ちょっと高いから、あんまり来れないけど……」
「確か、サカナの料理だっけか……ん、なんだこの薄っぺらいの?」
「それがお刺身だよ。この醤油っていう液を付けて、山葵を添えて、」
「どれどれ……んっ、むっ?! な、なんだ、これっ」
「あっ、ごめん! ツーンとするから気を付けて!」
「い、言うの、遅いってんだよ! ……んでも結構、美味いじゃないか。
そうだ、オマエの分もくれよ。ほら、これやるから」
「え、ちょ、ちょっと! それ大葉!」
そして彼女の望み通り、僕はほぼ毎晩、彼女に精液を捧げた。
聞いてみると、彼女は『ゲイザー』という魔物だそうで、男性の精液を糧に生きているらしい。
”暗示”という不思議な力が使えるのも、彼女が人間ではないからだろう。
でもそれを聞いて、彼女のことが怖くなるとか、戦慄するとか、そういう事はなかった。何より彼女は、僕の悩みを解決してくれたのだから。
彼女の手を煩わせたくない――というよりは、恥ずかしいという理由の方が大きいけれど、精液は自分で処理して渡すから、と言うと彼女は怒って、
「ばあか、アタシが搾るって言ってんだよ。
オマエは黙って、アタシの言うとおりにしな」
と言いながら、僕をベッドに押し倒した。
「で、でも。こういうコトは、その……」
「好きなヒト同士で――って言うんだろ。
じゃあオマエ、”暗示”がなくても、アタシを抱いてくれるのか?」
「そ……それは、」
その時、僕は言葉に詰まってしまった。
僕と彼女では、明らかにそれに対する意識が違う。
彼女にとってそれは食事だ。僕が料理を作って食べる事と、彼女にとっては同じなのだ。
しかしそうだとしても、その時、僕は無責任に頷くことが出来なかった。
「……それみろ。オマエは黙って搾られてりゃイイんだ。
手間取らせやしないからよ」
そしてその時確かに、彼女が言ったのを僕は聞いた。
「悪いな」、と。
彼女と初めて会ってから、二週間が過ぎた頃。
その日はずっと講義で、昼食は大学で食べることになった。
もちろん大学には彼女を連れてこれないので、昼は以前と同じく、味のしない状態で食べなければならない。
はずだった。
でも食堂に入った時から、微かに感じていた。ご飯の炊ける匂いや、肉が焼ける香ばしい匂いを。
もしかしたら、と思いながら、僕は震える手で親子丼を口に運ぶ。
その時口に運んだ卵は、確かにちゃんと味がした。
僕は周りの事を気にせず、涙を流しそうになった。自分がちゃんと味を感じられる人間に戻れたのが、嬉しくて仕方がなかった。
これで彼女が居なくても、僕は毎日おいしく食事ができる。
僕一人でも、おいしく食事ができる――本当に、そうだろうか?
そんなわけがない。
その日の夜、僕は彼女に打ち明けた。味覚も嗅覚も、ほとんど元に戻ったことを。
彼女は僕のベッドに腰掛けたまま、コタツに座った僕を見る。その表情はどこか元気がないようにも感じた。
「……そうか、良かったじゃないか。
まさかホントに治るなんて……思ってなかったけどよ」
「それで、話があるんだ」
「ああ、分かってるよ。もうアタシがいなくても、問題はねえってことだからな。
さっさと出て行くよ」
すっと彼女が立ち上がって、クローゼットからコートを取り出し始める。
僕はゆっくりその後ろに立つと、彼女は動きを止めて、両腕を腰の横に落とした。
「待って」
彼女の背中に近づくと、彼女の旋毛がちょうど僕の鼻元辺りにくる。シャンプーの香りに交じって、ほんのりと桃のような匂いがした。
「……なんだよ。最後に愚痴の一つでも言わせろってか」
「そうじゃないよ」
そっと彼女の両肩に僕は手を置く。ほんのりと温かくて、でも、少しだけ震えている。
静かな部屋の中では、彼女の息遣いさえはっきりと聞こえてきた。
「今は治ってる。でもこのままだときっと、また元に戻ってしまう気がするんだ。
ただずっと一人で、ご飯を食べ続けているだけだと……意味がないんだ」
「ここに……もうしばらく居ろ、ってことか?」
「違う、」
何か言おうとすると、頭の中が真っ白になって、心臓が張り裂けそうなほど脈打つ。きっと僕の手も、口も、彼女の身体と同じくらい震えている。
黒い触手がびくっ、と震えて丸まる。彼女の身体の震えが、おぼつかない触手の動きが、その心情を表している。触手は僕に触れようとして、でもそれ以上近づこうとしない。まるで腫れ物に触るみたいに、恐々と。
僕は、彼女の両肩から首元へ手を滑りこませ、そのまま、彼女をそっと抱き寄せる。
「しばらく、じゃない。
ずっと居てほしい。僕と」
少しの間だけ、僕と彼女は何も言わなかった。何も言ってはいけない気がした。
つい数秒前に自分が言った事が思い出せないほど頭の中はぐちゃぐちゃで、脳が溶けそうなほど身体が熱くなっていく。
「……バカ言うな。オマエはただ、独りで、寂しかっただけだろ。
オマエの傍にいるのがアタシじゃなきゃいけない必要なんて、どこにもないんだよ。
そう……アタシだってそうだ。誰から精を奪ったって、餌になるのは変わらない。
返したい恩があるからって、無理すること、ないんだ」
その瞬間自分でも驚くような声の大きさで、「違う」と僕は言っていた。
「そんなんじゃない。
寂しさを紛らわせるだけなら、他の誰かだっていい。
でも、君は違うんだ。ずうっと焼き付いてて、離れないんだよ」
僕は彼女からそっと両腕を離したあと、彼女をこちらに向き直らせる。
彼女はほんの少しだけ力を入れていたけれど、観念したようにこっちを向いた。でも、顔は俯かせたまま、目線を僕から逸らしている。
「独りでいたからとか、君に救われたからとか、そんな難しいことじゃない。
ただ、ふっと、思っただけなんだ。君と一緒にいたいって」
俯いた彼女の顔は、細い黒髪の束に埋もれて見えないまま。
そのまま、僕は続ける。
「今まで通りでいい。
いくらでも僕に指図したっていいし、精のことだって、今のままでいい。
君と、ずっと暮らしたい」
そっと彼女が僕の両肩に手を添え、ぎゅっと掴む。無言のまま彼女は僕の胸元へ顔を寄せて、僕の服に顔を埋めた。
熱を持った吐息が、僕の胸を温めていく。
「そんなコト……言われるなんて、思って……なかったんだ。
――なんて言ったらいいか、よく分かんないよ。熱くて、そわそわして、くすぐったくて。
もうオマエの、カオ、まともに、見れなく、なってて」
胸元でくぐもった彼女の声は弱々しく、掠れていた。
いつものような人を食った態度はどこにもなく、ふっと見るとその小さな身体は僕が抱きしめると折れてしまいそうなほど、儚く見える。
「けど……そうだ……”今のまま”じゃ、イヤだ」
小さな声で彼女が言って、同時に僕を抱きしめる両腕に、さらに力が入る。
「アタシのこと、ちゃんと愛してくれ。オマエからアタシを、求めてくれ。
滅茶苦茶にしたって、構わないから……っ」
その返事の代わりに、僕は彼女と一緒にベッドへ倒れ込んだ。
「抱いてくれるのか」という問いに答えられなかったあの日から、ずっと燻っていた感情が、僕を操るように動かす。
彼女と一つになるのなら、きっと優しく、丁寧に抱こうと思っていたのに――気が付けば僕は、目の前に居る彼女を、ただ欲望のままに犯し続けて、彼女の中に注ぎ込んでいた。
僕がようやく落ち着いたのは数回精を吐き出した後で、彼女は声にならない言葉を出しながら、もう離さないと言わんばかりに僕の身体へぎゅっとしがみ付いていた。
熱湯のように熱く感じる、彼女の奥底の体温を味わいながら、ただひたすらに、僕は彼女へ好意を呟く。
「――ッ、あ、ぅ。 こんなに、熱い、セイエキ、初めて、だよ。
頭、ぼーっと、して、……オマエの、ことしか、考えられなくてっ――」
うわごとのように僕の名前を呼び続ける彼女を、また僕は犯し続けた。夜の間、ずっと。
彼女の目の焦点が合わなくなるまで。
僕の意識が途切れるまで。
それから、一週間が経った。
あの日から何かが劇的に変わることはなく、僕と彼女はいつも通りに過ごしている。
変わったことと言えば……最近は、彼女も料理を作るようになった。
「おーい、チョコレートないか? 隠し味に使いたいんだけど」
「……この前みたいに一枚全部入れちゃダメだからね?
ほんのちょっとでいいんだから」
「大丈夫だっての。今度はハチミツも入れておいたからな」
「……入れすぎないでね」
でも一緒に美味しい食事を、というところまではまだ行かず。
今まであんまり人間の食事をしていなかったもあるのだろうけど、彼女はとにかく甘味を付けたがるのが困ったものだ。
「よーし。今回のは結構イイ出来だな」
「……う、うん。
ところで、これ、ハチミツ……」
「ああ、半分しか残ってなかったから、使い切っといたぜ」
前は肉じゃがを作ってもらったけど、案の定恐ろしいコトになってしまったので、とりあえずカレーから始めることにした。
ただ、中辛のルーを買っておいたはずなのに、とにかく甘い。
それでもちゃんと食べられる味に納まっている、さすがカレーの懐の広さは格が違った。
「……カレーにしといて良かったなぁ」
「ん?なんか言ったか?」
「えっと……その。
これからは出来るだけ、隠し味は入れないようにしようか。
それと、料理の本もちゃんと買ってくるよ……ごめんね」
「なっ、なんで謝るんだよ! おい!」
彼女の料理に関しては、「オマエが美味しいって言うまで止めないからな」だそうだ。
でもどれだけ失敗しても彼女は、僕に”暗示”を使うと言わなかった。
彼女の力があれば、どんな食べ物だって美味しくなるだろう。
けれど、彼女はそうしない。
それがなんだか、とても嬉しかった。
きっと彼女は今日もキッチンに立つだろう。
美味しいと言えるその日が来るのを、僕は心待ちにしている。
大学生になり、独り暮らしを始めてから二年が経った頃。
僕には友人はおろか、一緒にご飯を食べる相手さえいなかった。
田舎から引っ越してきたばかりの僕に知人は一人もおらず、大学の雰囲気に馴染めずオロオロしている間に仲の良いグループはもう出来上がっていた。人見知りの僕はグループに割って入る勇気を持てず、必要最低限の事しか口にしない生活が続き、次第に僕の日常は色褪せていった。
だからもしかしたら、そのせいなのかもしれない。
レストランで口に運んだステーキが、何の味もしなくなったのだ。
まるで粘土を噛んでいるように味も匂いも感じられず、僕は呆然とナイフをテーブルに置いた。
それから何を食べても飲んでも、口の中を食べ物が通った事しか分からない。
病院に行ってもそれは栄養の偏りだなんだと言われるだけで、治る兆しを見せないまま、はっきりとした原因すら分からず、半年が過ぎた。
最初は、すぐに治るだろうと気に留めないようにしていた。痛いわけでも、栄養を取れないわけでもない、大丈夫だ、と。
けれど少しずつ、言いようのない憤りと不安が僕を襲ってくるのだ。
なぜ僕だけが、味気のない食事をしなければいけないのか。
レストランで仲良く食事をしている家族を、親密そうに話す男女を見るたびに、羨ましくなって、たまらなくなる。
僕も、ちゃんと美味しいと思いながら食事がしたい、と。
ある日の帰り道、月のない夜。
清掃のアルバイトを終えて、人気のない静かな路地を僕が歩いていると、大きなフードで顔を覆った誰かに突然、肩を叩かれた。
振り向くと、見覚えのない姿をした人が立っていた。暖かそうなもこもこしたコートを着ていて、フードが口より上をすっぽり隠している。背は僕より少し低く、顔はフードでよく見えないけれど、頬あたりまで伸びた黒髪が薄暗い街灯に照らされていた。
声とその外見から僕が分かるのは、それがおそらく女性、ということだけだ。
「ちょっといいかい、お兄さん」
背は小さいけれど、声は少し低くどこか凛々しい響き。微笑んだように歪んだ彼女の唇は、暗い夜道でもどこか艶かしく見える。
ほんの少し自分のフードをずらしながら、彼女が言う。
「行くトコなくてね、”知り合い”のよしみってコトでさァ、今日寄ってもイイか?」
「え?」
その下にある顔がちらりと見えた瞬間、何か違和感があったけれどよく分からない。
それに彼女は知り合いだと言ったが、僕にはまったく覚えがないのだ。
でも、
「あ、ああ……散らかったままだけど、いいかな」
「よーし、じゃあ行こうぜ」
誰かも分からないのに、いやそもそも彼女の顔さえ僕は見てないはずなのに、何故か二つ返事で僕は了承してしまった。
それどころか僕は彼女に、まるで幼馴染のような、奇妙な親近感を覚えていたのだ。
そんなのあり得ない事だと思いながらも、僕は疑問を口に出せなかった。
フードを被った女の子は僕の住むアパートに上がると、僕が何か言うより先にコタツテーブルに座って、お尻から下をコタツの中に潜らせている。彼女はきょろきょろと部屋の中を見回しながらも、僕が座るのを待っているように見えた。
彼女のことを不思議にも不自然にも思いながら、とりあえず二人分のお茶を出して僕もテーブルに着く。
一緒に、さっきコンビニで適当に買ってきたお弁当もテーブルに置いた。
「んー? それ、オマエの晩ゴハンか?」
壁にもたれながら彼女が言った。うん、と頷いて、僕は答える。
少し前までは自分で料理も作っていたけれど、味も何もわからないのに料理を続けようなんて気にはなれず、いつの間にかぞんざいな食事ばかり取るようになっていた。
どうせ、何を食べたって同じなのだから。
「なあんだそのわびしいメシ、もっと精のつくモンないのかよ」
「……ああいや、その。 食欲なくて」
「ったく、元気もなんかなさそうだなァ。
疲れてるヤツの方が”暗示”は掛けやすいけどさ、体力つけてもらわないと困るんだよ」
暗示、という言葉の意味はよく分からなかったけど、僕はそのまま続ける。
「……やっぱり、そう見えるかな。
最近何を食べても、味がしなくて……正直、何か食べるのも億劫なんだ。
身体はどこも、悪くないのに」
「あぁ? オマエ、そんなんで……んー、そうだ、良いコト思い付いた。
アタシが美味いモン、食わせてやるよ」
「え……、でも僕は、」
「いいからいいから――ちょっとこっち、見てみろよ」
どういう事だろうと思いながら、言われた通りに彼女を見ると、彼女は自分の大きなフードをゆっくりと外した。
癖の付いた長い黒髪がぱらりと舞って、その下にある顔が露わになる。
ぞくり、と鳥肌が立って、さっきの違和感の正体が分かった。
大きな、赤い彼女の眼が、じっとこっちを見つめる。
彼女には、目が一つしかなかったのだ。
「あ、……め、目が……」
「驚いたか? ま、もーちっとこっち見てろよ。そこにあるメシが、きっと美味くなるぜ」
言葉を失ったままの僕を見て、楽しそうに彼女が笑った。
その赤い瞳に僕は釘付けになって、目が離せない。
得体の知れない何かが目を逸らす事を許さず、金縛りにあったみたいに身体が動かせない。
「さァて、こんなモン、かな。
さ、食ってみろよ」
彼女がそう言ってフードを降ろすと、一つ目はすっぽりとその下に隠れていった。
緊張で強張っていた身体が解れて、ようやく脳の言う事を聞いてくれる。指先の震えが徐々に納まっていった。
同時に、僕の心境と感覚に、変化が生まれる。
「……う、あ、」
目の前にある変哲のない唐揚げ弁当が、とても豪華な、これ以上なく魅力的な食べ物に見える。
お腹の減りは普段と同じなのに、今は三日間絶食した後のような食欲を感じるのだ。
そして、感じる。揚げ物の匂い。
唐揚げの、香ばしい匂いを。
「あ、な、なんで……なんで?」
その刺激のせいで、異質であるはずの彼女の正体さえどこか遠い出来事のように気にならなくなって、涎が零れそうになる。
それよりも、早く、早く食べたい。
一体何か月ぶりに、まともに食べ物の匂いを嗅いだだろう。
僕はありったけ急いでナイロン袋からお弁当を取り出し、蓋を開ける。
「おお、すごい表情してるなァ。よっぽどだなこりゃ、はは」
僕が唐揚げ弁当を平らげるのは、まるで一瞬のことのように感じた。
……美味しかった。
近場にあるコンビニで買ってきただけのお弁当だけど、僕にはとてつもなく、心に残る味に感じた。
「どうだ、アタシの”暗示”が掛かったメシは。美味かっただろ?」
「うん、とっても」
温くなったお茶を飲みながら、僕は一息つく。今はこの麦茶の匂いさえ、すごく大切なものに感じられる。
でも、まだ足りない。
「今から、もうちょっとご飯作るよ。
パッとできるものがいいな、たしか玉ねぎに……そうだ、鶏肉も冷凍したままだった。
スープ……は時間が掛かるから、炒めものにしようかな」
頭の中で残っている食材を整理しながら、調理器具の準備をする。
ああ、待ちきれない。何で味付けしようか。お弁当ばかりで栄養が偏ってたけど、せっかくだから濃い味付けにしちゃってもいいかな。
「なんでもいいけどよ、早く頼むぜ」
「うん。急いで作るね。えーと、炊飯器セットしてから、たまねぎだけ先に切っちゃってから――」
それから十五分ぐらい掛かって、鶏と玉ねぎを卵で綴じた簡単なおかずができた。お皿を二枚用意して、僕の分、彼女の分とをより分ける。
ご飯はまだ流石に炊けてないけど僕はもう我慢できない、すぐに食べよう。
「はい。有りあわせだけど、よかったら君も」
「へ? ……あ、ああ。
ま、せっかくだから食べてみるか」
いただきます、と一例をしてからすぐさま僕は料理を口に運ぶ。
ああ、美味しい。手の込んだ料理でも高い食材でもないけど、とても充実した味に感じる。
「ん。なんだ、意外といけるじゃん。
こーいうの初めて食べたけど、まあまあだなァ」
そしてあっという間に料理はなくなり、それなりに僕もお腹が膨れて満足だ。
まだご飯は炊けてないけれど、どうしよう。ちょっと無理してでも食べようか、冷凍にしておこうか。
「……それにしても、すごいなあ。一体どうやって、僕の異常を……?」
「そーだなぁ。そいつを教えてやってもイイが……ちょっとばかし、条件があるぜ」
「条件、って?」
「それはなァ。……つまりだ、」
お腹いっぱいで満足したままベッドにもたれ掛かっていた僕の方へ、彼女がすり寄ってくる。ほんのりと甘い、香水のような、今まで嗅いだことのない匂いがしてどきっとした。
足を延ばして座っていた僕の膝に彼女は手を置いて、下から僕の顔を見上げる。フードが傾いて、その下にある宝石のような赤い一つ目がちらりと見えた。
「今日のあたしのゴハンが、オマエってことさ」
もこもこしたコートのボタンを外しながら、彼女が言う。コートと一緒にフードを取ると、露わになった一つ目が僕を睨んだ。癖のある黒髪は前と後ろの両方に長く、前は鼻近くまで、後ろは腰辺りまで伸びていた。
突然のことに理解が追い付かないまま、僕は唾を飲み込む。
彼女は、コートの下に何も着ていない。が、驚いたのはそこだけじゃなかった。
「な、なにを……」
間近で見る彼女の裸体は息を呑むほど綺麗で、しかし人間とは違い、彼女の肌は雪のように白かった。
同時に胸の小さな膨らみや、細い首筋や鎖骨にも目がいって、心臓がどきどきする。人間で言う乳首のある場所には、黒い何かが張り付いていた。
人間かどうかは分からないけれど、それはまるで少女のような肢体だった。
膝に触れた彼女の手は墨のように黒く、でも柔らかく、人に触れられるのと同じような感触がする。
「なあに安心しな、取って食うワケじゃない。
『食べる』のには、変わりねェけどな」
彼女の背中から何かが伸びる。さっきまでは何もなかったはずなのに、黒いケーブルのような何か――黒の触手が伸びていた。その先端には彼女の一つ目と似た目玉があって、顔にある目と同じように、僕を見つめている。
そしてその触手達は僕のそばへ擦り寄ってきて、服の上から僕の身体を撫でる。
「ほおら、アンタが見るのはこっちだよ」
彼女の黒い両手が僕の頬に優しく添えられ、ゆっくり彼女の顔がある方向へと向けさせられた。甘い匂いがさらに強くなって、僕の鼻をくすぐる。
赤い瞳が僕をじっと睨んで、彼女がにい、と笑う。
裸体を見て火照っていた僕の頬がさらに彼女に触れられることで、ますます熱くなっていった。
「アタシはねえ、目があったヤツに”暗示”を掛けられるんだ。
さっきの弁当も、料理も、ちゃーんと味分かったろ? それはアタシの目を見たせいなのさ」
「暗示……? 目……? そんな、あり得ない……」
「ふふ、そうかもね。でももう頭ン中がぼうっとして、何にも考えられないよなァ。
さっきの”暗示”にイロイロ混ぜちゃったからよ」
「う……んん、」
彼女の言っている事はよく分からないが、微睡むように思考がぼんやりとする。
得体の知れない黒い触手が、彼女の真っ白な身体が、赤い瞳が、どんどん魅惑的に見えてきて、全身に力が入らない。目の前にいる彼女に、ただ、身も心も任せたい衝動に駆られていく。
「こういう時ニンゲンは……『いただきます』、って言うんだっけな。
安心しな、たぁっぷり、気持ちよくしてやるよ」
気が付いた時には僕のズボンも下着も脱がされ、下半身は彼女の前で露わになっていた。
大きく勃起した肉棒がこれ以上なく膨らんで主張し、刺激されるのを待ち望んでいる。
「ん、こっちは元気良さそうだなぁ……口と手、どっちがいい?」
「ちょっ、ちょっと、待って……」
「なんだ? そっか、両方がイイんだな、んふふ」
彼女は僕の横に座って身を屈ませると、亀頭を舌でぺろりと舐め上げた。
その光景がはっきりと僕の目に入ると、今起きている事がまるで夢みたいに思えてくらくらしてくる。
さらに彼女は、舌を伸ばして裏筋や先っぽをぐりぐり刺激したり、窄めた口の中に咥えこんで上下したり、遠慮のない愛撫を行ってくる。
そういう経験のない僕にとって、彼女の口淫はあまりに強烈で、まさしく溶けてしまいそうな快感だった。
「んっ、ちゅっ、ぷはっ。なんだ、気持ちよさそうなカオしてるじゃん?」
口の動きを止めて、そのままの姿勢で彼女が僕の顔を見上げると、彼女の一つ目と視線が合う。楽しいおもちゃを与えられた子供みたいに無邪気な顔で、舌を出しながら彼女が笑っていた。
すると、自分の黒い人指し指を咥え、ねっとりとした唾液を塗しながら彼女が言う。
「おっと、手も使って欲しいんだったっけなァ……じゃあ、こっちだ」
ぐにっ、と濡れた人差し指が僕のお尻の穴に擦りつけられる。そこからくりくりと表面を指先でなぞられると、くすっぐたいような気持ちいいような、変な感じがした。
「そ、そんな所っ……」
「気持ちイイだろ? ほら、トドメっ」
そう言って、彼女がまた僕の肉棒を口いっぱいに咥え込む。同時に、ぬめった人差し指をにゅるんと僕のお尻に差し込んだ。彼女は、口と舌で何度もじゅぽじゅぽと上下に肉棒を扱きながらも、僕のお尻の中をぐにぐにと指で掻き回していく。
亀頭をぬるぬるの舌で擦られる刺激と、お尻の中を愛撫されるという未知の快感が混ざり合って、僕をすぐさま絶頂に導く。
「ん、あぁ、で、出る……っ!」
その強烈な二重の責めに数分と耐えられず、僕は彼女の口の中に射精してしまう。
溜まっていた精液は勢いよく口内へ注がれていって、しかもそれを彼女が飲み込んでいく。口と舌の動きが射精したばかりで敏感な肉棒をさらに刺激する。
残った精液まで吸い出そうとするかのように、彼女がちゅうっと先っぽを吸い込む。腰が抜けてしまいそうな快感のせいで、勃起がいつまで経っても治まらないままだった。
「はぁっ、はぁっ……」
「んん、若いオトコの精はやっぱイイね、ごちそうさん。
けっこう美味しかったよ……アンタの、セイエキ♪」
ふうふうと息をつく僕の顔の前で、彼女がわざとらしく舌なめずりをした。
ピンク色の舌は白い肌のせいでより鮮やかに見えて、それがさっきまで僕の肉棒を愛撫していた舌だと思うと、ますます心臓の鼓動が早くなった。
「ま、美味いメシが食えるようにしてやったんだからさ、これぐらいは許してくれよな。
じゃ、そろそろおいとまするぜ」
彼女はそう言って、自分のコートを引っ掴んで立ち上がった。
……美味しい、ご飯。
そうだ、彼女のおかげで、僕の異常が治ったんだ。
「あ……ま、待って、くれ」
「んだよ、恨み言なら言うなって言っただろ」
キッチンに続く扉を開けようとしたところでくるりと向き直って、彼女が言う。
股間を露出して座ったままの僕はどうにも間抜けだ。けど今言わないと、彼女は本当に出て行ってしまう。
引き留めるなら、今、言うしかない。
「違うんだ。……君のおかげで、本当に久しぶりに、美味しい物が食べられたんだ。
味も匂いも何にも分からなくなってたのに、感覚が戻って、おいしくて……すごく嬉しかった。
だから、まだ、ここに居てほしいんだ――君に」
「……はあ? それ、ホンキで言ってんのか?」
赤い一つ目が怪訝そうな顔をして、僕を見る。
つかつかと彼女が歩み寄ると、僕の顎にその黒い手をそっと添えた。
「そんなコト言いたくなるよーな”暗示”は掛けた覚えないけどなァ。
……大体な、アタシの力はそんなに万能なモンじゃないぜ。
味だの匂いだのなんてややこしいの、”暗示”じゃすぐに消えちまうんだよ。
ずーっと掛け続けてりゃ、どうにかなるかもしれねェけど――それまでオマエのコト、付きっきりで面倒見ろってのか?」
「無茶苦茶を言ってるのは分かってるよ、でも、医者に聞いたって原因も分からなかったのに、君の力だけは、効果があったんだ。
お願いだ……もうちょっと、だけでも……」
僕は項垂れながら、目線を彼女から逸らす。
ふうん、と彼女が笑ったような声を出した。
「……ま、そこまで言うならココに居てやってもいいぜ。ただ、」
「た……ただ?」
「そうだな、まずアタシの分の寝床を用意して――それから毎日、オマエのセイエキをアタシに寄越せ。アタシが欲しいときはすぐに用意できるようにな。
でもって、アタシの命令はゼンブ、ちゃーんと聞く。
それが出来るってんなら、考えてやるよ」
その言葉を聞いて、僕は光が射すようにぱあっと気分が明るくなった。今まで使った事はなかったけれど、来客用の布団を押入れにしまってあるのを思い出したからだ。
なぜ彼女が精液を欲しがるのか、そもそも彼女が何者かもよく分からないけど、とにかく彼女の希望には答えられる。
彼女が居てくれるかぎり、僕は美味しい物が食べられるんだ。
「も、もちろん! それならいくらでも!」
「へえ、威勢がイイじゃねえか、そんなら交渉成立だ。たぁっぷり搾ってやるからな、カクゴしろよ?
モチロン、今日もだ――じゃ、さっきの続きといくかっ」
「え、ええ? あ、ま、待って――」
僕の情けない声と同時に、炊飯器の炊ける音が聞こえた。
それから、僕と彼女の奇妙な共同生活が始まった。
毎日一緒にテーブルを囲んで、一緒にご飯を食べる。
お昼は一緒に居られないからその時だけは苦痛なのだけど、夜と朝は、”暗示”のおかげでちゃんと味が分かる。どれもこれも、彼女の力のおかげだ。
彼女が言うには、しばらくの間”暗示”を掛けていれば、それが僕の感覚とすり替わって治るかもしれない、らしい。
保証はしねェけどな、と彼女に付け加えはされたけど。
「ただいまー。今日は肉じゃがだよ」
「にくじゃが? なんだ、ソレ」
「あれ、食べたことない? じゃあすぐ作るから、待ってて」
元々料理を作るのが好きだった僕は、より一層力を入れてご飯を作るようになった。
朝と夜は二人前分の料理を作って、一緒に食べるのが日課だ。
彼女は「人間と同じモンを食べる必要はない」と言ったけれど、それでも一緒に食べてくれたし、気に入った時には喜んでくれた。
「ふーん。前の『かれー』っていうのと似たようなモン使ってるのか。
んん、この肉ウマいな、柔らかくて」
「そう言ってもらえると、ひと手間加えた甲斐があるよ。
前は忘れてたけど、今日のは下味をつける前に、炭酸で柔らかくしておいたんだ」
「よく分かんないけど、美味いのはわかるぜ。
……でもこの赤いの、どうにかなんないのかよ。美味しくないんだよなァ、これ」
「ダメ。ニンジンもちゃんと食べてよ」
「ちぇっ」
人の多い所はイヤだと彼女が言うので、外食する時は個室で。
「ここのお刺身が美味しいんだ。ちょっと高いから、あんまり来れないけど……」
「確か、サカナの料理だっけか……ん、なんだこの薄っぺらいの?」
「それがお刺身だよ。この醤油っていう液を付けて、山葵を添えて、」
「どれどれ……んっ、むっ?! な、なんだ、これっ」
「あっ、ごめん! ツーンとするから気を付けて!」
「い、言うの、遅いってんだよ! ……んでも結構、美味いじゃないか。
そうだ、オマエの分もくれよ。ほら、これやるから」
「え、ちょ、ちょっと! それ大葉!」
そして彼女の望み通り、僕はほぼ毎晩、彼女に精液を捧げた。
聞いてみると、彼女は『ゲイザー』という魔物だそうで、男性の精液を糧に生きているらしい。
”暗示”という不思議な力が使えるのも、彼女が人間ではないからだろう。
でもそれを聞いて、彼女のことが怖くなるとか、戦慄するとか、そういう事はなかった。何より彼女は、僕の悩みを解決してくれたのだから。
彼女の手を煩わせたくない――というよりは、恥ずかしいという理由の方が大きいけれど、精液は自分で処理して渡すから、と言うと彼女は怒って、
「ばあか、アタシが搾るって言ってんだよ。
オマエは黙って、アタシの言うとおりにしな」
と言いながら、僕をベッドに押し倒した。
「で、でも。こういうコトは、その……」
「好きなヒト同士で――って言うんだろ。
じゃあオマエ、”暗示”がなくても、アタシを抱いてくれるのか?」
「そ……それは、」
その時、僕は言葉に詰まってしまった。
僕と彼女では、明らかにそれに対する意識が違う。
彼女にとってそれは食事だ。僕が料理を作って食べる事と、彼女にとっては同じなのだ。
しかしそうだとしても、その時、僕は無責任に頷くことが出来なかった。
「……それみろ。オマエは黙って搾られてりゃイイんだ。
手間取らせやしないからよ」
そしてその時確かに、彼女が言ったのを僕は聞いた。
「悪いな」、と。
彼女と初めて会ってから、二週間が過ぎた頃。
その日はずっと講義で、昼食は大学で食べることになった。
もちろん大学には彼女を連れてこれないので、昼は以前と同じく、味のしない状態で食べなければならない。
はずだった。
でも食堂に入った時から、微かに感じていた。ご飯の炊ける匂いや、肉が焼ける香ばしい匂いを。
もしかしたら、と思いながら、僕は震える手で親子丼を口に運ぶ。
その時口に運んだ卵は、確かにちゃんと味がした。
僕は周りの事を気にせず、涙を流しそうになった。自分がちゃんと味を感じられる人間に戻れたのが、嬉しくて仕方がなかった。
これで彼女が居なくても、僕は毎日おいしく食事ができる。
僕一人でも、おいしく食事ができる――本当に、そうだろうか?
そんなわけがない。
その日の夜、僕は彼女に打ち明けた。味覚も嗅覚も、ほとんど元に戻ったことを。
彼女は僕のベッドに腰掛けたまま、コタツに座った僕を見る。その表情はどこか元気がないようにも感じた。
「……そうか、良かったじゃないか。
まさかホントに治るなんて……思ってなかったけどよ」
「それで、話があるんだ」
「ああ、分かってるよ。もうアタシがいなくても、問題はねえってことだからな。
さっさと出て行くよ」
すっと彼女が立ち上がって、クローゼットからコートを取り出し始める。
僕はゆっくりその後ろに立つと、彼女は動きを止めて、両腕を腰の横に落とした。
「待って」
彼女の背中に近づくと、彼女の旋毛がちょうど僕の鼻元辺りにくる。シャンプーの香りに交じって、ほんのりと桃のような匂いがした。
「……なんだよ。最後に愚痴の一つでも言わせろってか」
「そうじゃないよ」
そっと彼女の両肩に僕は手を置く。ほんのりと温かくて、でも、少しだけ震えている。
静かな部屋の中では、彼女の息遣いさえはっきりと聞こえてきた。
「今は治ってる。でもこのままだときっと、また元に戻ってしまう気がするんだ。
ただずっと一人で、ご飯を食べ続けているだけだと……意味がないんだ」
「ここに……もうしばらく居ろ、ってことか?」
「違う、」
何か言おうとすると、頭の中が真っ白になって、心臓が張り裂けそうなほど脈打つ。きっと僕の手も、口も、彼女の身体と同じくらい震えている。
黒い触手がびくっ、と震えて丸まる。彼女の身体の震えが、おぼつかない触手の動きが、その心情を表している。触手は僕に触れようとして、でもそれ以上近づこうとしない。まるで腫れ物に触るみたいに、恐々と。
僕は、彼女の両肩から首元へ手を滑りこませ、そのまま、彼女をそっと抱き寄せる。
「しばらく、じゃない。
ずっと居てほしい。僕と」
少しの間だけ、僕と彼女は何も言わなかった。何も言ってはいけない気がした。
つい数秒前に自分が言った事が思い出せないほど頭の中はぐちゃぐちゃで、脳が溶けそうなほど身体が熱くなっていく。
「……バカ言うな。オマエはただ、独りで、寂しかっただけだろ。
オマエの傍にいるのがアタシじゃなきゃいけない必要なんて、どこにもないんだよ。
そう……アタシだってそうだ。誰から精を奪ったって、餌になるのは変わらない。
返したい恩があるからって、無理すること、ないんだ」
その瞬間自分でも驚くような声の大きさで、「違う」と僕は言っていた。
「そんなんじゃない。
寂しさを紛らわせるだけなら、他の誰かだっていい。
でも、君は違うんだ。ずうっと焼き付いてて、離れないんだよ」
僕は彼女からそっと両腕を離したあと、彼女をこちらに向き直らせる。
彼女はほんの少しだけ力を入れていたけれど、観念したようにこっちを向いた。でも、顔は俯かせたまま、目線を僕から逸らしている。
「独りでいたからとか、君に救われたからとか、そんな難しいことじゃない。
ただ、ふっと、思っただけなんだ。君と一緒にいたいって」
俯いた彼女の顔は、細い黒髪の束に埋もれて見えないまま。
そのまま、僕は続ける。
「今まで通りでいい。
いくらでも僕に指図したっていいし、精のことだって、今のままでいい。
君と、ずっと暮らしたい」
そっと彼女が僕の両肩に手を添え、ぎゅっと掴む。無言のまま彼女は僕の胸元へ顔を寄せて、僕の服に顔を埋めた。
熱を持った吐息が、僕の胸を温めていく。
「そんなコト……言われるなんて、思って……なかったんだ。
――なんて言ったらいいか、よく分かんないよ。熱くて、そわそわして、くすぐったくて。
もうオマエの、カオ、まともに、見れなく、なってて」
胸元でくぐもった彼女の声は弱々しく、掠れていた。
いつものような人を食った態度はどこにもなく、ふっと見るとその小さな身体は僕が抱きしめると折れてしまいそうなほど、儚く見える。
「けど……そうだ……”今のまま”じゃ、イヤだ」
小さな声で彼女が言って、同時に僕を抱きしめる両腕に、さらに力が入る。
「アタシのこと、ちゃんと愛してくれ。オマエからアタシを、求めてくれ。
滅茶苦茶にしたって、構わないから……っ」
その返事の代わりに、僕は彼女と一緒にベッドへ倒れ込んだ。
「抱いてくれるのか」という問いに答えられなかったあの日から、ずっと燻っていた感情が、僕を操るように動かす。
彼女と一つになるのなら、きっと優しく、丁寧に抱こうと思っていたのに――気が付けば僕は、目の前に居る彼女を、ただ欲望のままに犯し続けて、彼女の中に注ぎ込んでいた。
僕がようやく落ち着いたのは数回精を吐き出した後で、彼女は声にならない言葉を出しながら、もう離さないと言わんばかりに僕の身体へぎゅっとしがみ付いていた。
熱湯のように熱く感じる、彼女の奥底の体温を味わいながら、ただひたすらに、僕は彼女へ好意を呟く。
「――ッ、あ、ぅ。 こんなに、熱い、セイエキ、初めて、だよ。
頭、ぼーっと、して、……オマエの、ことしか、考えられなくてっ――」
うわごとのように僕の名前を呼び続ける彼女を、また僕は犯し続けた。夜の間、ずっと。
彼女の目の焦点が合わなくなるまで。
僕の意識が途切れるまで。
それから、一週間が経った。
あの日から何かが劇的に変わることはなく、僕と彼女はいつも通りに過ごしている。
変わったことと言えば……最近は、彼女も料理を作るようになった。
「おーい、チョコレートないか? 隠し味に使いたいんだけど」
「……この前みたいに一枚全部入れちゃダメだからね?
ほんのちょっとでいいんだから」
「大丈夫だっての。今度はハチミツも入れておいたからな」
「……入れすぎないでね」
でも一緒に美味しい食事を、というところまではまだ行かず。
今まであんまり人間の食事をしていなかったもあるのだろうけど、彼女はとにかく甘味を付けたがるのが困ったものだ。
「よーし。今回のは結構イイ出来だな」
「……う、うん。
ところで、これ、ハチミツ……」
「ああ、半分しか残ってなかったから、使い切っといたぜ」
前は肉じゃがを作ってもらったけど、案の定恐ろしいコトになってしまったので、とりあえずカレーから始めることにした。
ただ、中辛のルーを買っておいたはずなのに、とにかく甘い。
それでもちゃんと食べられる味に納まっている、さすがカレーの懐の広さは格が違った。
「……カレーにしといて良かったなぁ」
「ん?なんか言ったか?」
「えっと……その。
これからは出来るだけ、隠し味は入れないようにしようか。
それと、料理の本もちゃんと買ってくるよ……ごめんね」
「なっ、なんで謝るんだよ! おい!」
彼女の料理に関しては、「オマエが美味しいって言うまで止めないからな」だそうだ。
でもどれだけ失敗しても彼女は、僕に”暗示”を使うと言わなかった。
彼女の力があれば、どんな食べ物だって美味しくなるだろう。
けれど、彼女はそうしない。
それがなんだか、とても嬉しかった。
きっと彼女は今日もキッチンに立つだろう。
美味しいと言えるその日が来るのを、僕は心待ちにしている。
14/03/27 10:00更新 / しおやき