『魔物が出る島』
年の暮れも越えて、豆をまく節句になる頃、だったと思う。
きっかけは至極つまらないことで、それはオカルト関係を取り扱う胡散くさいブログの記事だった。
その投稿者いわく、『魔物が住む島』が日本の離島にあるのだ、と。
冗談交じりに記事を読んでいると、多少伏せられてはいたが記事で出てきた地名に覚えがあった。
投稿者が道中で撮ったという写真からして見覚えがあったし、もう少し読み解くと、その島というのがここから車で行けるぐらいの場所だとも分かった。
――にしても『魔物』とは、なんてアバウトな表現だろう。
それでもなけなしの好奇心をくすぐられた僕は、長い休みが取れた時期ということもあって、その場所へ行ってみようと模索した。
たまには細かい予定など立てず、ぶらぶらと出歩いてみたくなった、ということだ。
『魔物が住む島』には、ちゃんと船も出ている――と投稿者は書いていた。
しかし、そんな地名の入った便はどのホームページに記載されていなかったし、検索しても出てこない。
なのでまず僕は現地へ向かい、地元にあった地図を見たり、近くに住む人に聞いて、存在する場所かどうかを確かめてみた。
その結果、どうやら投稿者の述べた地名は旧名らしく、今は違う呼ばれ方をしているそうだ。
その名前は、『慧鎖島』。
こっちの地名では地元の地図(それでも少し古いものだ)に記載されていたが、手持ちの携帯電話で検索してみても、ほとんど情報は出ない。
元々小さな島だからな、と思いながら、フェリー乗り場まで僕は足を運び、そこで話を聞いてみることにした。
数えるほどしか客の来ない閑散とした乗船券売り場は静かで、受付の女性も暇そうにしている。誰もいないと思ったのか、大きなあくびをしていたところで僕に気付いて、恥ずかしそうに下を向いていた。
にしてもこの片田舎で、こんな若くて綺麗な受付さんが働いているなんて珍しい。
「すいません、慧鎖(けいさ)島、っていう所に行きたいんですが……。
そちらに行く船とか、この辺にありますか?」
「あ、はい……えっと、慧鎖……ですか? あー……その、少々お待ちください。
確認してみます」
「? 分かりました」
受付は奥に引っ込むと、どこかに電話を掛けている。
定期船が出ているとは思えないので、確認でもとっているのだろうか。
「失礼しました。……えっと、慧鎖島ですけど。
申し訳ありませんが、こちらの場所からは便が出てませんね」
「うーん、そうですか……」
「ただ、最寄りの発着場をお伝えする事はできますけども……」
「本当ですか? それって、ここからどれくらい掛かります?」
「そうですねえ、歩いて十分、くらいでしょうか」
「じゃあ、そちらまでの道を教えていただけますか」
「ええ、かしこまりました」
受付さんの話と、投稿者の写真を頼りに船着き場らしき所まで来たものの、進めば進むほど人の気配は薄れていく。
さっきの乗船券売り場よりもさらに、だ。
教えられたとおりに歩いて行くと、海沿いに白い小さな小屋があり、そこから突き出た桟橋に十人乗りぐらいの船が泊まっていた。
小屋と桟橋にはあまり古めかしさがない。つい最近できたものなのか、何度も建て替えられているのか。
ともかくこの小屋は、乗船券の券売所らしかった。ぱっと見では気づかなかったが、看板らしきものに『船着き所』と書いてある。
入口はどこだろうと小屋に近づいてみると、覗き窓――というよりは穴のような――僕の手が入るか入らないかぐらいの小さなそれに気づいた。
するとそこから、
「中に、入って、ください」
抑揚のない、密やかな声が聞こえた。
その小さな窓からは小屋の中にいる人の口元しか見えないけれど、繊細そうな響きからして、それは女性の声だと分かる。
言われるまま、僕は小屋の入口を探して、そのドアをぎい、と開けた。
小屋の中は驚くほど暗く、どんよりと湿った感じがした。電気は付いておらず、明かりの一つもない。覗き窓の向かいにはガラスの窓があったが、大きなシェードが被さっている。
覗き窓から零れるほんの僅かな明かりに照らされて、真っ黒い服を着た女性がいた。僕の方に足を向けて、椅子らしい何かに座っている。
「失礼……しました。窓を、すぐ、開けますので」
すっ、と女性が立つと、日光に照らされた埃が舞った。
窓の横に垂れ下がる紐を握ったところで、女性は動きを止めて僕を見た、ような気がする。何しろ暗いので、よく分からない。
「……一応、お伺いしますが、」
僕は彼女の方を見て目を合わせようとしたけれど、顔はよく見えなかった。なのに、ぞくり、と鳥肌が立つような、寒気が走った。
なんだろう。何かが、おかしいような気がしたのだけど。
「あなたは、あちらの……慧鎖島へ、お伺いになる方、ですよね」
「ええ」
どうやら話は通されているらしい、さっきの受付さんが電話を掛けていたのも多分この小屋だろう。
「なぜ、あの島へ?」
いつか聞かれる気がしていたが、案外早かった。僕は一応用意していた答えを返す。
「観光、というよりは取材ですかね。
仕事柄、現地の雰囲気を味わいたいところがありまして、直接訪ねてみようかと」
深くつつかれるまでは、何をしに来たかはっきりと言わないことにした。『魔物が出る』という噂を聞いてやってきただなんて、良い心象を与えるわけがない。
とはいえ悪事を働きに行くわけでもないのだから、そんなに警戒する必要もないとも思うが。
「そうですか。 ……では、」
あっさりとした返答の後、彼女がシェードの紐をぐいと上げた。陽の光がいっぺんに入ってきて、部屋の中を照らし上げる。窓の外には海だけがどこまでも広がり、穏やかに波打っている。
同時に、女性の姿が浮かび上がった。
癖のある長い黒髪が前にも後ろにも伸びていて、前髪は小さな鼻あたりまで、後ろは腰のあたりまで垂れている。はっきり言って、客と接する従業員の髪型ではないし、愛想が良いとは決して思えない。
けれど、その下にちらちらと見える瞳は丸く、綺麗だ。
「……すみません。わたし、あまり人と会う事がないもので……。
もし、粗相がありましたら……お詫び、いたします」
「いえ、そんなことは」
さっきの受付さんと比べると表情に乏しいが、配慮を捨てているわけでもないし、ぶっきらぼうというわけでもないようだ。
たどたどしいその仕草は演技にも見えないし、それがかえっていじらしくも見えてくる。
「それで、その島への船なんですが……近日中に、出る予定はありますか?」
部屋の中には、木製の机と椅子、それと棚があるけれど、ほんの少しファイルがある程度で、ほとんど何も置かれていない。
僕が声を掛けると、女性はさっき座っていた椅子に戻って、開いたまま机に置いてあったファイルを棚に戻していた。
机の上には電話に筆記用具と、それにパソコンのような物も見えた。
「……では、今からに、しましょうか」
「え?」
僕が聞き直すと、声色を変えず彼女が言う。
「……申し遅れました。
そもそも……ですが、こちらの船は、定期便ではありません。
一応は船を出している……ものの、あくまで個人的な、民間のもの、です。
ただ……ふふっ、なぜかですが、観光に来られるという方が、多いので。
一人、係りの者を置いておこう……と、相成った、次第です」
「……そうですか。
しかし、よろしいんですか? 僕の方の都合で決めてしまって。
運転手の都合もあるでしょうし、それに船を動かすとなると、乗車賃の方も……」
便の時間が、客の都合で決められるなんて。
変な話だと思いながら僕が言うと、それを見て、彼女がにたりと笑う。営業スマイルのような張り付いた笑いではなく、心なしか綻んだ表情にも見えた。
「そちらは……問題ありません。
船は私が、操縦させて、いただきます。
お金の方も……場合による、のですけど……せいぜい、往復でも二千円、程度でしょうか。
それについては、本土へ帰ってきてから頂く、という事に……なる、予定ですが……。
まあ、その辺りは、どちらでも。……ふふっ」
「ずいぶん、お安いですね」
特別料金が掛かると踏んでいたのに、思ったよりも安い金額で逆に変だと感じてしまう。
すると気が付いたように彼女が、机にあったファイルから書類を取り出した。
「あ……そうでした、こちらにお名前と、ご住所、それに、非常用の連絡先を……お願いできますか。
それとできれば、連絡先は、ご家族の方で……」
僕は差しだされた書類とボールペンを受け取り、記入していく。
契約事項が何やら書かれているが掻い摘むと、船が民間の物である以上、何か起きても法律で定められたこと以上の責任は取れない、ということらしい。
読み流していったが、特に問題はなさそうなのでサインをする。
「……はい。夏目(なつめ)様……ですね。
確かに、受け取りました。……うふふ。
あと……そうですね、あちらに着くまでは、およそ三十分、掛かりますが、ご準備はよろしいでしょうか」
「分かりました。
僕の方は、いつでも大丈夫ですけど。……本当に、よろしいんですか?」
「ええ。……ん、ふふっ。
それでは、すぐに荷物を纏めます。夏目様は、小屋の外で、お待ちください。
お寒い時期ですので、船の方に先に入って貰っていても……構いません」
さっきの女性に促され、僕と彼女は泊めてあった船に乗り込んだ。
いわゆるプレジャーボートで、ちゃんとキャビン(船室)も付いている。
どうぞ、と彼女が言うので、僕は運転席のすぐ横にある椅子へ座った。
「……あ、夏目様。また、申し遅れました。
私の名前は、一重(ひとえ)……と、申します。よろしく、お願いします……ふふっ」
キャビンの扉を閉めると船の駆動音もそれほど気にならず、ゆったりと船は海上を走っていく。彼女の長い黒髪が、ばらばらと揺れていた。
しかしシートベルトのような物を彼女はしていないが、小型船というのはそういう物なのだろうか。背中もだいぶ背もたれから浮いているし、少し変な姿勢に見える。
「そういえば……さっき、観光客が多いと聞きましたけど。
あの島では、どういったものに人気があるんですか?」
定期便でもないのに、普通の運航船と値段はさほど変わらず、観光客が不思議と多い。それは明らかに、目的があって来る人間がいるということ。
あんな小さなブログの記事を見てやってくる人なんて知れたもののはず、ということは、何かしらの理由があって然るべきだ。
「……さあ。
大きな島でもありませんし、珍しいものが採れる、という話も聞きませんが……それでもなぜか、人がやって来る。
というのでは……答えに、なりませんでしたね」
無表情のままハンドルを握っていた彼女が少しだけ笑った。
長い前髪で顔はちらちらとしか見えないが、整った顔立ちなのは確かだ。
「という事は、理由は分からない、と」
「……私も、あの島に、住んでいますが……。
あの島に何かを求めて、来られる……という方は、少ないかと思います」
「ううん、たとえば、何か噂とかでもいいんですが、聞いた事はありませんか」
僕は少し冒険心を働かせ、記事にあった話を掘り下げてみることにした。
「噂……。そう、ですね。……ない事も、ないですが」
「本当ですか?」
「ええ。……どこから聞いた、とも言えませんけれど。
それはそれは――世にもおぞましい、『魔物が住む島』――などと、言われていたそうです」
僕はぴくりと反応した。まさしく、記事で読んだ話そのものじゃないか。
するとその時同時に、僕の足首に何かが触れた。
――蛇がやんわりと巻き付いてくるような、得体の知れない感触が足から昇ってくる。
しかし下を見ても、そこには何もいない。
「……よろしければ、お話しましょうか。退屈しのぎにでも……なればとは、思います」
すぐにその感触は消えてしまったので、気のせいだろうと思いながら僕は顔を上げる。
一重さんが、前を見ながらうっすらと微笑んでいた。
「是非、お願いします」
「では僭越ながら、、お話しさせていただきます……。
……あ、夏目様。もし船酔いなどでご気分が悪くなったら、すぐにお伝えくださいね……
――その昔、あの離島……慧鎖島は、罪人達の流刑地として使われていたそうです。
いわゆる……島流し、という罰になりますね。
しかもこの島は、特別でして。
通常、流刑地というのは、たとえ多くても、罪人の数が島人の一割、というのが慣例でした。
その他は地元の人であったり、お目付け役で住んでいる、だけなのです。
しかし……その島では、そのほとんどが囚人。
多いときは、その全てが囚人であるとも、されていました。
……何故か分かりますか?
そこからは、脱走する事が出来ないからです。
今でこそ、こんな小型でも船が出せますが……昔は島周りの海流が非常に荒く、二月に一度、船が出せるかどうか、でした。
周囲には崖が多く、うかつに海に飛び込んでしまえば……良くて島に逆戻り、運が悪ければ、岩肌に叩きつけられるか、溺れて魚の餌となるか……です。
……管理する者にとっても、これほど楽な話はありません。
なにしろ、監視の目を置く必要がないのですから。
それに。
離島でいて、しかも小さな島ですから。碌な食糧も取れず、飲み口に適う水もそう多くない。
ただ生き永らえることすら、当時の方達には精一杯、でした。
日々の楽しみすら見出せず、囚人達はただ疲弊していくのみ。
……そこである日、一人の囚人が言ったのです。
『魔物を見た』、と。
もちろん、他の囚人がそれを信じるわけが、ありません。
気を紛らわせるための冗談か、本当に気が触れてしまったのか。
そのどちらかだと、相手にしませんでした。
すると。
魔物を見た――と言った、その囚人は、忽然と姿を消してしまいました。
とはいえ、島に住む住人にとって、元々そんな言葉を吐く人間など心配される由も、それを心配するだけの余裕もありません。
しかし連鎖するように、不可解な事が起こります。
それを口にした人間が、また何人か現れて――。
そして皆、数日の間に、姿を消してしまうのです。
それでも、役所の者は当然のこと、囚人たちさえ、誰もそれを確かめようとは言いません。
ええ、勿論です。
元々、厄介者達の集まり。生きるか死ぬかの瀬戸際では、気も確かかどうか分からない。
しかしこれだけ不可解な事が起きたのだから、実は本当に、潜んでいるのではないかと囚人たちも疑ってしまう。
どこかで舌なめずりをしながら、自分たちを取って食おうと、待ちかねているかもしれない。
囚人たちに出来る事は、ただ一つ――
「――ただ一つ。それは一体?」
「それは……」
ごくり、と僕は唾を飲み込んだ。
「……できるだけ、早く、布団で寝てしまうことです」
「え?」
呆気にとられた僕は、おかしな声で相槌を打ってしまった。
「……ふふっ。実はこの話、ここまでは、島の人たちが子どもに言って聞かせる、お話みたいなものでして。
早く寝ない子供たちを、怖がらせるための方便として……伝えられた、そうですよ」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか。
はあ、驚きましたよ」
「本当はもう少し噛み砕いて、子ども達にも分かりやすくお話しするんですけれどね。
……それに実は、もう少しだけ……続きもあります」
「そこまで言われては、聞かないわけにも。
しかし……つまりこの話の一部は、真実だということですか?」
「……どうでしょうか。私も、それほど昔の事は分かりません。
それでは、話の続きですが……
それでも魔物の正体を掴もうと、躍起になった一人の人間がいました。
それは島の住人では珍しい潔白者で、本来は本島に住む立場で、罪人の葬儀を執り行う為にいた、僧侶なのですが。
彼は修行の一つだと言って、ずっと島の中で暮らしていました。
まあ、信心深い僧の考えることです。魔物のことは妖怪だとでも思っていたのでしょう。
囚人達も内心は、この男がどうにかしてくれないかと、藁にすがる思いでした。
ある、月のない夜。
見回りだと言ってうろついていた僧侶は、ふと周りに視線を感じました。
しかし棒きれになけなしの布を被せただけの松明は心許なく、一寸先も見えません。
すると、闇夜の黒に混じって突然、女のような姿が現れたのです。
長く、暗黒に溶けてしまいそうな長い黒髪と、灰のようにくすんだ色の服を着た女性。
……ええ、そうですね。
ちょうど私ぐらいの、髪でしょうか。 ......ふふっ。
僧侶はいち早く異変に気づきました。
それもそのはず、この島には、まず女性がいないからです。
さらによく見ると、灰色のそれが服ではないことに、僧は気づきました。
闇と混じるその灰色は、彼女の肌そのものだったのです。
驚きのあまり、僧は声を出すことも、逃げることもできませんでした。
すると女が、ゆっくりと前髪をかき揚げて、その下にある顔を見せたのです。
そこには……
……おや、もう、すぐ近くになりましたね。
そろそろ、降りる準備をお願いします……」
「え? ああ、もうそんなに経ちましたか」
「 では続きは……後ほど、ということで。 ふふっ……」
慧鎖島の船着き場も、桟橋と、小屋のような建物しか見当たらない。
さっきの話に出てきた流刑地というほど不穏な空気はないが、どこか物寂しく感じる。
聞こえるのは、波の音と、鳥が何羽か飛んでいく音だけ。
「……あまり回りくどいのは私も、好きではありませんので……。
さあ、こちらへ」
一重さんがゆっくりと歩き出したので、僕も倣う。
しかし彼女がよたよたとした歩き方をしていたので、どうにもそれが気になった。島の道はあまり舗装されていないが、歩くのに困るほどでもないはずだ。
それに彼女はこの島の住人だと言っていたのに、難儀するはずがない。
「……大丈夫ですか、一重さん? ご気分が悪い、とか……」
僕が声を掛けると、彼女はびっくりしたような顔で振り向いた。
「あ……ああ。すみません、歩くのは、あまり、慣れていなくて」
足が悪い、という感じでもないようだが、深く追求するのもばつが悪い。
「大丈夫です、ええ、だいじょうぶで……あっ、」
僕が後ろで不安そうに見ていると、案の定、段差につまずいて彼女が転びそうになった。
警戒していた僕はとっさに動いて、バランスを崩した彼女の身体を支える。
背中から掴んだ彼女の肩は華奢で、綿のように柔らかい感触だ。
「……し、失礼、しました。
ありがとう、ござい……ます」
「いえ、こちらこそ、女性の身体に気安く触ってしまって……。
それにしても本当に、大丈夫ですか」
「ええ。……とても、気分がよいぐらいです。
そう、私が思っている、以上、かも。ふふっ……くふふ……」
僕の方から一重さんの顔は見えなかったけれど、彼女が笑ったような声が、確かにした。
「……ああ、また失礼なことを。
それでは、先を、急ぎましょう……」
一重さんに付いて行った先にあったのは、それなりに大きなペンションだ。海沿いからでは、森に阻まれて見ることが出来ない所にある。
道中では民家さえ殆ど見なかったのに、その建物は三階ほどの高さまであって、とても存在感がある。いや、洋風の造りをしているので、どちらかというと浮いているのが正しかった。ここが普通の街だったなら、そう目立つ程のものでもないだろう。
「こちらは?」
「……宿、とでも申しましょうか。……どうぞ、お上がりください」
「え? いえ、僕は、」
「……では」
まだ、今日ここで宿を取るつもりはない――と言おうとしたのだが、そんな言葉は聞いていないかのように、一重さんは建物の中へ入ってしまった。
ここはおそらくこの島の民宿、ということになるのだろう。
ざっと風景を見渡しても、このペンション以外に目新しい建造物はない。
大きな樹が生い茂るばかりで、本当に人が住んでいる島なのか怪しんでしまうぐらいだ。
そもそも、こんな所に民宿が必要になるのだろうか――。
「……うん?」
ふと、目線を感じた。動物?それとも、この島に住む誰か?
――いやもしかすると、あの話に出てきた魔物か。
何を言っているんだと心の中で笑いながら、僕は建物の玄関を開ける。
下駄箱に靴を置いて中に上がるものの、やはり人気が無い。
カウンターらしきものはあるけれど、少し待っても誰かが出てくる気配はなかった。
いや、というより、誰かがここにいる息遣いも、生活感も見当たらない。
ソファやテーブル、テレビ。宿としての体裁は整っている感じはするのに、余計な物が、何一つ置いてないのだ。
明らかに、雰囲気がおかしい。
「すみません、誰か、いませんか!」
得体の知れない恐怖に、思わず僕は声を荒げた。
しかし僕の情けない声が部屋に木霊するばかりで、返事は帰ってこない。
落ち着け、考えすぎなんだ。少し顔でも洗って落ち着こう。
ちょうどそこに、手を洗う為の洗面所と、鏡がある。
勢いよく蛇口を捻る。冷たい水が溢れて、僕の手の中に溜まっていく。
水を顔に打ち付けると、夢心地だった意識が目覚めていく気がした。
顔を上げて、僕は鏡を見る。
濡れた僕の顔が、いつもと変わらない形で映る。
そこにある”目”の数はもちろん、二つ。
「夏目、様。
お待たせ、しました。ご準備が……できました」
不意に後ろから、声を掛けられる。一重さんの姿がすっと鏡に映る。
考えがたい、強烈な違和感があった。
いくら取り乱していたからといって、こんな静かな場所で足音を聞き逃す筈がない。
それに、鏡に映る彼女の頭が、さっきより高い位置にある。
僕と同じ程度の背丈だったはずなのに、明らかに、僕より、背が高くなっている?
あり得ない。
「お顔を洗っていましたが……大丈夫ですか?
ご気分が優れないなら、仰ってくだされば、よかったのに」
強張っていく全身を感じながら、僕は彼女の顔を、鏡越しに見る。
それは間違いなく一重さんだと、なぜかちゃんと、分かるのに、
鏡に映る彼女の目は、いくつだ?
「でも、もうほんの少し、です。すぐお部屋まで、お連れしますから」
「……っ?!」
不意に背中に抱きつかれ、驚いた僕は持っていた鞄を落としてしまう。
しかも柔らかい一重さんの身体がむにっと押し付けられて、生暖かい彼女の吐息が首のうなじに掛かる。
ぬちゅ、と僕の耳たぶに、ざらざらした熱い何かが触れた。ぺちゃ、にちゃ、と、水音を伴って僕の耳を這い回るそれは、どうやら舌だった。
「なっ、何を、」
「ああ、申し訳、ございません、部屋まで、我慢しようと思っていたのに……。
でも大丈夫です、もう構うことなど、ありませんもの。
すぐに……お連れします」
「一重さん、一体何を、」
強引に振り向こうとして、僕は身体を捻じる。
今まで見たことのないぐらいに楽しそうな、一重さんの顔がそこにあった。
「分かりませんか、夏目様。
男女が重なり合えば、起こる事など、もう一つしかありませんよ」
しゅるりと、僕の両足に、両手に、黒い何かが巻き付いた。
生き物のような柔さを伴って、ぐるぐると僕をがんじがらめにするように。
その時下を見て、彼女の背が高くなった理由にはっと気が付いた。
彼女は、宙に浮いているのだ。
「よそ見など、なさらないで」
真っ黒い彼女の手が僕の両頬を優しく包み、少しずつ彼女の方へ向けさせられていく。
ほんの少し力を入れれば振りほどけるかもしれないのに、抗おうとも思えない。
「私を、心の限り愛でてくださいませ」
彼女の蕩けた瞳と、上気して赤く染まった頬の色が、鮮やかに映える。
白と黒の入り混じった灰色の肌が艶めかしく想えて、これ以上ない色欲を掻き立てた。
彼女のことが、その姿が、その一つ目が可愛らしくてたまらない。
ああ、こんな麗しい女性にすり寄られて、平常でいられる男がいるものか。
「さあ。もっと私を、見てください――」
僕はその瞬間、”最初に”彼女を見た時と同じことを想った。
綺麗な綺麗な、赤くて円らなその”一つ目”に、吸い込まれてしまいそうだ、と。
布団だけが敷かれた、明かりのない、仄暗い和室の中。
いつの間にか僕は一糸まとわぬ姿にされて、同じく裸体となった一重さんが、掛け布団に潜ったまま、僕の上に覆い被さっている。
そして夏目さんの背中から伸びる黒の触手が、余すところなく僕を撫で回そうとするように、僕の全身に巻き付いていた。その触手で包まれるのは、羽毛の布団で全身を包まれているみたいに心地が良い。
絹のようにきめ細やかな一重さんの肌が汗に濡れて、甘い匂いが鼻をくすぐった。
「私の、中は……いかがでしょうか。
その様子では……んっ、お気に召して、いただいたようで。
ますます私も、身体が、燃え上がってしまいそうです……」
僕の愚息はすでに一重さんの柔らかな肉壺へと包み込まれ、絡みつかれて。その刺激に耐え切れるはずもなく、何度も僕は絶頂を繰り返していた。
さらに、れろり、ぬるりと、一重さんの熱い舌が僕の顔を這い回り、目元から耳へと蠢いて、その穴の中に侵入してくる。鳥肌が立つぐらいぞくぞくして、僕の口から思わず息が漏れてしまう。
「まだ『眼』を使ったのは、ほんの僅かなのに……こんなに、蕩けてくださる、なんて。
お母様は、普通なら一日掛かるだろうと、おっしゃっていたけど……。
きっと貴方は、夏目様は……元より、私達の事を、好いてくださっていたのでは、ないですか……?
私も、それに応えねば、なりません……うふふ」
声の通る耳が彼女の舌でしゃぶり尽くされ、脳が痺れてしまいそうなぐらいに刺激が走る。
あまりにも静かな部屋の中に、僕を愛撫する淫らな音だけが満ちる。
「……ああ、愛おしくて、狂おしくて、仕方がありません。
早く、あなたのすべてを、私の物に……してしまいたいです。
でも残念ですが、ここは私達が住む為の家ではありません……。
だから、ここでもう一晩ほど、愛し合った後……私の”故郷”へ参りましょう。続きは、それから。
とても素晴らしい、ところですよ。
そこでは、ずっと貴方と繋がることも、まどろみの中で愛を語り合うことも、できるのです……」
……ああ、いつの間に、僕は彼女に飲み込まれてしまっていたのか。
溶けた思考はぼんやりしたままで、ただ体の神経だけが鋭いまま、どろりとした快楽を受け入れる。
「この島にやってきた人を導くのが、私の仕事……。
でも気に入った方がいたら、連れて帰ってもよいと、お許しを貰っておりますから。
私もしばらく、お暇を頂くことにしましょう……」
びゅくん、と僕の愚息が脈打って、もう出し尽くしたと思っていた白濁液をほんの僅かに吐き出す。
もう何度、彼女の中に精を吐き出してしまったのか、分からない。
ただ目の前にいる女性が、一重さんが、ただ愛らしい。
もっと、もっと彼女の中を、自分の欲望で汚して、注ぎ込んでしまいたい。
心の中は彼女の想いで煮え滾るのに、疲労した身体はもうほとんど動かせず、僕は彼女の愛撫を受け止め続けるだけだった。
「ああ、また、私の中に、出ています……。
夏目様、子どもはいくつ、欲しいですか……?
たくさん、たくさん、作りましょう。貴方との、愛の証を、……うふふっ……」
……どうなさいました、あなた?
ええ、はい……。そうですね、今宵もそろそろ、……致しましょうか。
……そろそろ娘たちも、一緒に混ざっても良い頃合いですけれど……。
母とはいえ、まだ私も女……もうちょっとだけ、貴方を独り占めしたいのです……うふふ。
ではすぐ、あの子たちも、寝かし付けて参ります。
早く寝ない子には、怖い魔物がやってくるぞ……と。ふふっ。
……え?
ああ、そういえばこの話、貴方にも話しましたね。話の顛末……気になります?
さてどこまで、お話しましたかしら……?
あの僧侶が、長い黒髪の、白い肌の魔物と会った……ああ、その辺り、でしたね。
ただ……残念ながら、あれで最後なのです。これ以上はお話できないのですよ。
なぜか、と申しますと……。
私のお母様が、これ以上話したがらなかったものですから。
さあ、どういう事かと聞かれましても……ふふっ。
ええ。
今なら、途中で話を止めてしまった母の気持ちが、よく分かりますよ。
私がお母様の立場だったら、きっと話せないでしょうねえ……。
愛する方との馴れ初めを、事細かに、だなんて。
きっかけは至極つまらないことで、それはオカルト関係を取り扱う胡散くさいブログの記事だった。
その投稿者いわく、『魔物が住む島』が日本の離島にあるのだ、と。
冗談交じりに記事を読んでいると、多少伏せられてはいたが記事で出てきた地名に覚えがあった。
投稿者が道中で撮ったという写真からして見覚えがあったし、もう少し読み解くと、その島というのがここから車で行けるぐらいの場所だとも分かった。
――にしても『魔物』とは、なんてアバウトな表現だろう。
それでもなけなしの好奇心をくすぐられた僕は、長い休みが取れた時期ということもあって、その場所へ行ってみようと模索した。
たまには細かい予定など立てず、ぶらぶらと出歩いてみたくなった、ということだ。
『魔物が住む島』には、ちゃんと船も出ている――と投稿者は書いていた。
しかし、そんな地名の入った便はどのホームページに記載されていなかったし、検索しても出てこない。
なのでまず僕は現地へ向かい、地元にあった地図を見たり、近くに住む人に聞いて、存在する場所かどうかを確かめてみた。
その結果、どうやら投稿者の述べた地名は旧名らしく、今は違う呼ばれ方をしているそうだ。
その名前は、『慧鎖島』。
こっちの地名では地元の地図(それでも少し古いものだ)に記載されていたが、手持ちの携帯電話で検索してみても、ほとんど情報は出ない。
元々小さな島だからな、と思いながら、フェリー乗り場まで僕は足を運び、そこで話を聞いてみることにした。
数えるほどしか客の来ない閑散とした乗船券売り場は静かで、受付の女性も暇そうにしている。誰もいないと思ったのか、大きなあくびをしていたところで僕に気付いて、恥ずかしそうに下を向いていた。
にしてもこの片田舎で、こんな若くて綺麗な受付さんが働いているなんて珍しい。
「すいません、慧鎖(けいさ)島、っていう所に行きたいんですが……。
そちらに行く船とか、この辺にありますか?」
「あ、はい……えっと、慧鎖……ですか? あー……その、少々お待ちください。
確認してみます」
「? 分かりました」
受付は奥に引っ込むと、どこかに電話を掛けている。
定期船が出ているとは思えないので、確認でもとっているのだろうか。
「失礼しました。……えっと、慧鎖島ですけど。
申し訳ありませんが、こちらの場所からは便が出てませんね」
「うーん、そうですか……」
「ただ、最寄りの発着場をお伝えする事はできますけども……」
「本当ですか? それって、ここからどれくらい掛かります?」
「そうですねえ、歩いて十分、くらいでしょうか」
「じゃあ、そちらまでの道を教えていただけますか」
「ええ、かしこまりました」
受付さんの話と、投稿者の写真を頼りに船着き場らしき所まで来たものの、進めば進むほど人の気配は薄れていく。
さっきの乗船券売り場よりもさらに、だ。
教えられたとおりに歩いて行くと、海沿いに白い小さな小屋があり、そこから突き出た桟橋に十人乗りぐらいの船が泊まっていた。
小屋と桟橋にはあまり古めかしさがない。つい最近できたものなのか、何度も建て替えられているのか。
ともかくこの小屋は、乗船券の券売所らしかった。ぱっと見では気づかなかったが、看板らしきものに『船着き所』と書いてある。
入口はどこだろうと小屋に近づいてみると、覗き窓――というよりは穴のような――僕の手が入るか入らないかぐらいの小さなそれに気づいた。
するとそこから、
「中に、入って、ください」
抑揚のない、密やかな声が聞こえた。
その小さな窓からは小屋の中にいる人の口元しか見えないけれど、繊細そうな響きからして、それは女性の声だと分かる。
言われるまま、僕は小屋の入口を探して、そのドアをぎい、と開けた。
小屋の中は驚くほど暗く、どんよりと湿った感じがした。電気は付いておらず、明かりの一つもない。覗き窓の向かいにはガラスの窓があったが、大きなシェードが被さっている。
覗き窓から零れるほんの僅かな明かりに照らされて、真っ黒い服を着た女性がいた。僕の方に足を向けて、椅子らしい何かに座っている。
「失礼……しました。窓を、すぐ、開けますので」
すっ、と女性が立つと、日光に照らされた埃が舞った。
窓の横に垂れ下がる紐を握ったところで、女性は動きを止めて僕を見た、ような気がする。何しろ暗いので、よく分からない。
「……一応、お伺いしますが、」
僕は彼女の方を見て目を合わせようとしたけれど、顔はよく見えなかった。なのに、ぞくり、と鳥肌が立つような、寒気が走った。
なんだろう。何かが、おかしいような気がしたのだけど。
「あなたは、あちらの……慧鎖島へ、お伺いになる方、ですよね」
「ええ」
どうやら話は通されているらしい、さっきの受付さんが電話を掛けていたのも多分この小屋だろう。
「なぜ、あの島へ?」
いつか聞かれる気がしていたが、案外早かった。僕は一応用意していた答えを返す。
「観光、というよりは取材ですかね。
仕事柄、現地の雰囲気を味わいたいところがありまして、直接訪ねてみようかと」
深くつつかれるまでは、何をしに来たかはっきりと言わないことにした。『魔物が出る』という噂を聞いてやってきただなんて、良い心象を与えるわけがない。
とはいえ悪事を働きに行くわけでもないのだから、そんなに警戒する必要もないとも思うが。
「そうですか。 ……では、」
あっさりとした返答の後、彼女がシェードの紐をぐいと上げた。陽の光がいっぺんに入ってきて、部屋の中を照らし上げる。窓の外には海だけがどこまでも広がり、穏やかに波打っている。
同時に、女性の姿が浮かび上がった。
癖のある長い黒髪が前にも後ろにも伸びていて、前髪は小さな鼻あたりまで、後ろは腰のあたりまで垂れている。はっきり言って、客と接する従業員の髪型ではないし、愛想が良いとは決して思えない。
けれど、その下にちらちらと見える瞳は丸く、綺麗だ。
「……すみません。わたし、あまり人と会う事がないもので……。
もし、粗相がありましたら……お詫び、いたします」
「いえ、そんなことは」
さっきの受付さんと比べると表情に乏しいが、配慮を捨てているわけでもないし、ぶっきらぼうというわけでもないようだ。
たどたどしいその仕草は演技にも見えないし、それがかえっていじらしくも見えてくる。
「それで、その島への船なんですが……近日中に、出る予定はありますか?」
部屋の中には、木製の机と椅子、それと棚があるけれど、ほんの少しファイルがある程度で、ほとんど何も置かれていない。
僕が声を掛けると、女性はさっき座っていた椅子に戻って、開いたまま机に置いてあったファイルを棚に戻していた。
机の上には電話に筆記用具と、それにパソコンのような物も見えた。
「……では、今からに、しましょうか」
「え?」
僕が聞き直すと、声色を変えず彼女が言う。
「……申し遅れました。
そもそも……ですが、こちらの船は、定期便ではありません。
一応は船を出している……ものの、あくまで個人的な、民間のもの、です。
ただ……ふふっ、なぜかですが、観光に来られるという方が、多いので。
一人、係りの者を置いておこう……と、相成った、次第です」
「……そうですか。
しかし、よろしいんですか? 僕の方の都合で決めてしまって。
運転手の都合もあるでしょうし、それに船を動かすとなると、乗車賃の方も……」
便の時間が、客の都合で決められるなんて。
変な話だと思いながら僕が言うと、それを見て、彼女がにたりと笑う。営業スマイルのような張り付いた笑いではなく、心なしか綻んだ表情にも見えた。
「そちらは……問題ありません。
船は私が、操縦させて、いただきます。
お金の方も……場合による、のですけど……せいぜい、往復でも二千円、程度でしょうか。
それについては、本土へ帰ってきてから頂く、という事に……なる、予定ですが……。
まあ、その辺りは、どちらでも。……ふふっ」
「ずいぶん、お安いですね」
特別料金が掛かると踏んでいたのに、思ったよりも安い金額で逆に変だと感じてしまう。
すると気が付いたように彼女が、机にあったファイルから書類を取り出した。
「あ……そうでした、こちらにお名前と、ご住所、それに、非常用の連絡先を……お願いできますか。
それとできれば、連絡先は、ご家族の方で……」
僕は差しだされた書類とボールペンを受け取り、記入していく。
契約事項が何やら書かれているが掻い摘むと、船が民間の物である以上、何か起きても法律で定められたこと以上の責任は取れない、ということらしい。
読み流していったが、特に問題はなさそうなのでサインをする。
「……はい。夏目(なつめ)様……ですね。
確かに、受け取りました。……うふふ。
あと……そうですね、あちらに着くまでは、およそ三十分、掛かりますが、ご準備はよろしいでしょうか」
「分かりました。
僕の方は、いつでも大丈夫ですけど。……本当に、よろしいんですか?」
「ええ。……ん、ふふっ。
それでは、すぐに荷物を纏めます。夏目様は、小屋の外で、お待ちください。
お寒い時期ですので、船の方に先に入って貰っていても……構いません」
さっきの女性に促され、僕と彼女は泊めてあった船に乗り込んだ。
いわゆるプレジャーボートで、ちゃんとキャビン(船室)も付いている。
どうぞ、と彼女が言うので、僕は運転席のすぐ横にある椅子へ座った。
「……あ、夏目様。また、申し遅れました。
私の名前は、一重(ひとえ)……と、申します。よろしく、お願いします……ふふっ」
キャビンの扉を閉めると船の駆動音もそれほど気にならず、ゆったりと船は海上を走っていく。彼女の長い黒髪が、ばらばらと揺れていた。
しかしシートベルトのような物を彼女はしていないが、小型船というのはそういう物なのだろうか。背中もだいぶ背もたれから浮いているし、少し変な姿勢に見える。
「そういえば……さっき、観光客が多いと聞きましたけど。
あの島では、どういったものに人気があるんですか?」
定期便でもないのに、普通の運航船と値段はさほど変わらず、観光客が不思議と多い。それは明らかに、目的があって来る人間がいるということ。
あんな小さなブログの記事を見てやってくる人なんて知れたもののはず、ということは、何かしらの理由があって然るべきだ。
「……さあ。
大きな島でもありませんし、珍しいものが採れる、という話も聞きませんが……それでもなぜか、人がやって来る。
というのでは……答えに、なりませんでしたね」
無表情のままハンドルを握っていた彼女が少しだけ笑った。
長い前髪で顔はちらちらとしか見えないが、整った顔立ちなのは確かだ。
「という事は、理由は分からない、と」
「……私も、あの島に、住んでいますが……。
あの島に何かを求めて、来られる……という方は、少ないかと思います」
「ううん、たとえば、何か噂とかでもいいんですが、聞いた事はありませんか」
僕は少し冒険心を働かせ、記事にあった話を掘り下げてみることにした。
「噂……。そう、ですね。……ない事も、ないですが」
「本当ですか?」
「ええ。……どこから聞いた、とも言えませんけれど。
それはそれは――世にもおぞましい、『魔物が住む島』――などと、言われていたそうです」
僕はぴくりと反応した。まさしく、記事で読んだ話そのものじゃないか。
するとその時同時に、僕の足首に何かが触れた。
――蛇がやんわりと巻き付いてくるような、得体の知れない感触が足から昇ってくる。
しかし下を見ても、そこには何もいない。
「……よろしければ、お話しましょうか。退屈しのぎにでも……なればとは、思います」
すぐにその感触は消えてしまったので、気のせいだろうと思いながら僕は顔を上げる。
一重さんが、前を見ながらうっすらと微笑んでいた。
「是非、お願いします」
「では僭越ながら、、お話しさせていただきます……。
……あ、夏目様。もし船酔いなどでご気分が悪くなったら、すぐにお伝えくださいね……
――その昔、あの離島……慧鎖島は、罪人達の流刑地として使われていたそうです。
いわゆる……島流し、という罰になりますね。
しかもこの島は、特別でして。
通常、流刑地というのは、たとえ多くても、罪人の数が島人の一割、というのが慣例でした。
その他は地元の人であったり、お目付け役で住んでいる、だけなのです。
しかし……その島では、そのほとんどが囚人。
多いときは、その全てが囚人であるとも、されていました。
……何故か分かりますか?
そこからは、脱走する事が出来ないからです。
今でこそ、こんな小型でも船が出せますが……昔は島周りの海流が非常に荒く、二月に一度、船が出せるかどうか、でした。
周囲には崖が多く、うかつに海に飛び込んでしまえば……良くて島に逆戻り、運が悪ければ、岩肌に叩きつけられるか、溺れて魚の餌となるか……です。
……管理する者にとっても、これほど楽な話はありません。
なにしろ、監視の目を置く必要がないのですから。
それに。
離島でいて、しかも小さな島ですから。碌な食糧も取れず、飲み口に適う水もそう多くない。
ただ生き永らえることすら、当時の方達には精一杯、でした。
日々の楽しみすら見出せず、囚人達はただ疲弊していくのみ。
……そこである日、一人の囚人が言ったのです。
『魔物を見た』、と。
もちろん、他の囚人がそれを信じるわけが、ありません。
気を紛らわせるための冗談か、本当に気が触れてしまったのか。
そのどちらかだと、相手にしませんでした。
すると。
魔物を見た――と言った、その囚人は、忽然と姿を消してしまいました。
とはいえ、島に住む住人にとって、元々そんな言葉を吐く人間など心配される由も、それを心配するだけの余裕もありません。
しかし連鎖するように、不可解な事が起こります。
それを口にした人間が、また何人か現れて――。
そして皆、数日の間に、姿を消してしまうのです。
それでも、役所の者は当然のこと、囚人たちさえ、誰もそれを確かめようとは言いません。
ええ、勿論です。
元々、厄介者達の集まり。生きるか死ぬかの瀬戸際では、気も確かかどうか分からない。
しかしこれだけ不可解な事が起きたのだから、実は本当に、潜んでいるのではないかと囚人たちも疑ってしまう。
どこかで舌なめずりをしながら、自分たちを取って食おうと、待ちかねているかもしれない。
囚人たちに出来る事は、ただ一つ――
「――ただ一つ。それは一体?」
「それは……」
ごくり、と僕は唾を飲み込んだ。
「……できるだけ、早く、布団で寝てしまうことです」
「え?」
呆気にとられた僕は、おかしな声で相槌を打ってしまった。
「……ふふっ。実はこの話、ここまでは、島の人たちが子どもに言って聞かせる、お話みたいなものでして。
早く寝ない子供たちを、怖がらせるための方便として……伝えられた、そうですよ」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか。
はあ、驚きましたよ」
「本当はもう少し噛み砕いて、子ども達にも分かりやすくお話しするんですけれどね。
……それに実は、もう少しだけ……続きもあります」
「そこまで言われては、聞かないわけにも。
しかし……つまりこの話の一部は、真実だということですか?」
「……どうでしょうか。私も、それほど昔の事は分かりません。
それでは、話の続きですが……
それでも魔物の正体を掴もうと、躍起になった一人の人間がいました。
それは島の住人では珍しい潔白者で、本来は本島に住む立場で、罪人の葬儀を執り行う為にいた、僧侶なのですが。
彼は修行の一つだと言って、ずっと島の中で暮らしていました。
まあ、信心深い僧の考えることです。魔物のことは妖怪だとでも思っていたのでしょう。
囚人達も内心は、この男がどうにかしてくれないかと、藁にすがる思いでした。
ある、月のない夜。
見回りだと言ってうろついていた僧侶は、ふと周りに視線を感じました。
しかし棒きれになけなしの布を被せただけの松明は心許なく、一寸先も見えません。
すると、闇夜の黒に混じって突然、女のような姿が現れたのです。
長く、暗黒に溶けてしまいそうな長い黒髪と、灰のようにくすんだ色の服を着た女性。
……ええ、そうですね。
ちょうど私ぐらいの、髪でしょうか。 ......ふふっ。
僧侶はいち早く異変に気づきました。
それもそのはず、この島には、まず女性がいないからです。
さらによく見ると、灰色のそれが服ではないことに、僧は気づきました。
闇と混じるその灰色は、彼女の肌そのものだったのです。
驚きのあまり、僧は声を出すことも、逃げることもできませんでした。
すると女が、ゆっくりと前髪をかき揚げて、その下にある顔を見せたのです。
そこには……
……おや、もう、すぐ近くになりましたね。
そろそろ、降りる準備をお願いします……」
「え? ああ、もうそんなに経ちましたか」
「 では続きは……後ほど、ということで。 ふふっ……」
慧鎖島の船着き場も、桟橋と、小屋のような建物しか見当たらない。
さっきの話に出てきた流刑地というほど不穏な空気はないが、どこか物寂しく感じる。
聞こえるのは、波の音と、鳥が何羽か飛んでいく音だけ。
「……あまり回りくどいのは私も、好きではありませんので……。
さあ、こちらへ」
一重さんがゆっくりと歩き出したので、僕も倣う。
しかし彼女がよたよたとした歩き方をしていたので、どうにもそれが気になった。島の道はあまり舗装されていないが、歩くのに困るほどでもないはずだ。
それに彼女はこの島の住人だと言っていたのに、難儀するはずがない。
「……大丈夫ですか、一重さん? ご気分が悪い、とか……」
僕が声を掛けると、彼女はびっくりしたような顔で振り向いた。
「あ……ああ。すみません、歩くのは、あまり、慣れていなくて」
足が悪い、という感じでもないようだが、深く追求するのもばつが悪い。
「大丈夫です、ええ、だいじょうぶで……あっ、」
僕が後ろで不安そうに見ていると、案の定、段差につまずいて彼女が転びそうになった。
警戒していた僕はとっさに動いて、バランスを崩した彼女の身体を支える。
背中から掴んだ彼女の肩は華奢で、綿のように柔らかい感触だ。
「……し、失礼、しました。
ありがとう、ござい……ます」
「いえ、こちらこそ、女性の身体に気安く触ってしまって……。
それにしても本当に、大丈夫ですか」
「ええ。……とても、気分がよいぐらいです。
そう、私が思っている、以上、かも。ふふっ……くふふ……」
僕の方から一重さんの顔は見えなかったけれど、彼女が笑ったような声が、確かにした。
「……ああ、また失礼なことを。
それでは、先を、急ぎましょう……」
一重さんに付いて行った先にあったのは、それなりに大きなペンションだ。海沿いからでは、森に阻まれて見ることが出来ない所にある。
道中では民家さえ殆ど見なかったのに、その建物は三階ほどの高さまであって、とても存在感がある。いや、洋風の造りをしているので、どちらかというと浮いているのが正しかった。ここが普通の街だったなら、そう目立つ程のものでもないだろう。
「こちらは?」
「……宿、とでも申しましょうか。……どうぞ、お上がりください」
「え? いえ、僕は、」
「……では」
まだ、今日ここで宿を取るつもりはない――と言おうとしたのだが、そんな言葉は聞いていないかのように、一重さんは建物の中へ入ってしまった。
ここはおそらくこの島の民宿、ということになるのだろう。
ざっと風景を見渡しても、このペンション以外に目新しい建造物はない。
大きな樹が生い茂るばかりで、本当に人が住んでいる島なのか怪しんでしまうぐらいだ。
そもそも、こんな所に民宿が必要になるのだろうか――。
「……うん?」
ふと、目線を感じた。動物?それとも、この島に住む誰か?
――いやもしかすると、あの話に出てきた魔物か。
何を言っているんだと心の中で笑いながら、僕は建物の玄関を開ける。
下駄箱に靴を置いて中に上がるものの、やはり人気が無い。
カウンターらしきものはあるけれど、少し待っても誰かが出てくる気配はなかった。
いや、というより、誰かがここにいる息遣いも、生活感も見当たらない。
ソファやテーブル、テレビ。宿としての体裁は整っている感じはするのに、余計な物が、何一つ置いてないのだ。
明らかに、雰囲気がおかしい。
「すみません、誰か、いませんか!」
得体の知れない恐怖に、思わず僕は声を荒げた。
しかし僕の情けない声が部屋に木霊するばかりで、返事は帰ってこない。
落ち着け、考えすぎなんだ。少し顔でも洗って落ち着こう。
ちょうどそこに、手を洗う為の洗面所と、鏡がある。
勢いよく蛇口を捻る。冷たい水が溢れて、僕の手の中に溜まっていく。
水を顔に打ち付けると、夢心地だった意識が目覚めていく気がした。
顔を上げて、僕は鏡を見る。
濡れた僕の顔が、いつもと変わらない形で映る。
そこにある”目”の数はもちろん、二つ。
「夏目、様。
お待たせ、しました。ご準備が……できました」
不意に後ろから、声を掛けられる。一重さんの姿がすっと鏡に映る。
考えがたい、強烈な違和感があった。
いくら取り乱していたからといって、こんな静かな場所で足音を聞き逃す筈がない。
それに、鏡に映る彼女の頭が、さっきより高い位置にある。
僕と同じ程度の背丈だったはずなのに、明らかに、僕より、背が高くなっている?
あり得ない。
「お顔を洗っていましたが……大丈夫ですか?
ご気分が優れないなら、仰ってくだされば、よかったのに」
強張っていく全身を感じながら、僕は彼女の顔を、鏡越しに見る。
それは間違いなく一重さんだと、なぜかちゃんと、分かるのに、
鏡に映る彼女の目は、いくつだ?
「でも、もうほんの少し、です。すぐお部屋まで、お連れしますから」
「……っ?!」
不意に背中に抱きつかれ、驚いた僕は持っていた鞄を落としてしまう。
しかも柔らかい一重さんの身体がむにっと押し付けられて、生暖かい彼女の吐息が首のうなじに掛かる。
ぬちゅ、と僕の耳たぶに、ざらざらした熱い何かが触れた。ぺちゃ、にちゃ、と、水音を伴って僕の耳を這い回るそれは、どうやら舌だった。
「なっ、何を、」
「ああ、申し訳、ございません、部屋まで、我慢しようと思っていたのに……。
でも大丈夫です、もう構うことなど、ありませんもの。
すぐに……お連れします」
「一重さん、一体何を、」
強引に振り向こうとして、僕は身体を捻じる。
今まで見たことのないぐらいに楽しそうな、一重さんの顔がそこにあった。
「分かりませんか、夏目様。
男女が重なり合えば、起こる事など、もう一つしかありませんよ」
しゅるりと、僕の両足に、両手に、黒い何かが巻き付いた。
生き物のような柔さを伴って、ぐるぐると僕をがんじがらめにするように。
その時下を見て、彼女の背が高くなった理由にはっと気が付いた。
彼女は、宙に浮いているのだ。
「よそ見など、なさらないで」
真っ黒い彼女の手が僕の両頬を優しく包み、少しずつ彼女の方へ向けさせられていく。
ほんの少し力を入れれば振りほどけるかもしれないのに、抗おうとも思えない。
「私を、心の限り愛でてくださいませ」
彼女の蕩けた瞳と、上気して赤く染まった頬の色が、鮮やかに映える。
白と黒の入り混じった灰色の肌が艶めかしく想えて、これ以上ない色欲を掻き立てた。
彼女のことが、その姿が、その一つ目が可愛らしくてたまらない。
ああ、こんな麗しい女性にすり寄られて、平常でいられる男がいるものか。
「さあ。もっと私を、見てください――」
僕はその瞬間、”最初に”彼女を見た時と同じことを想った。
綺麗な綺麗な、赤くて円らなその”一つ目”に、吸い込まれてしまいそうだ、と。
布団だけが敷かれた、明かりのない、仄暗い和室の中。
いつの間にか僕は一糸まとわぬ姿にされて、同じく裸体となった一重さんが、掛け布団に潜ったまま、僕の上に覆い被さっている。
そして夏目さんの背中から伸びる黒の触手が、余すところなく僕を撫で回そうとするように、僕の全身に巻き付いていた。その触手で包まれるのは、羽毛の布団で全身を包まれているみたいに心地が良い。
絹のようにきめ細やかな一重さんの肌が汗に濡れて、甘い匂いが鼻をくすぐった。
「私の、中は……いかがでしょうか。
その様子では……んっ、お気に召して、いただいたようで。
ますます私も、身体が、燃え上がってしまいそうです……」
僕の愚息はすでに一重さんの柔らかな肉壺へと包み込まれ、絡みつかれて。その刺激に耐え切れるはずもなく、何度も僕は絶頂を繰り返していた。
さらに、れろり、ぬるりと、一重さんの熱い舌が僕の顔を這い回り、目元から耳へと蠢いて、その穴の中に侵入してくる。鳥肌が立つぐらいぞくぞくして、僕の口から思わず息が漏れてしまう。
「まだ『眼』を使ったのは、ほんの僅かなのに……こんなに、蕩けてくださる、なんて。
お母様は、普通なら一日掛かるだろうと、おっしゃっていたけど……。
きっと貴方は、夏目様は……元より、私達の事を、好いてくださっていたのでは、ないですか……?
私も、それに応えねば、なりません……うふふ」
声の通る耳が彼女の舌でしゃぶり尽くされ、脳が痺れてしまいそうなぐらいに刺激が走る。
あまりにも静かな部屋の中に、僕を愛撫する淫らな音だけが満ちる。
「……ああ、愛おしくて、狂おしくて、仕方がありません。
早く、あなたのすべてを、私の物に……してしまいたいです。
でも残念ですが、ここは私達が住む為の家ではありません……。
だから、ここでもう一晩ほど、愛し合った後……私の”故郷”へ参りましょう。続きは、それから。
とても素晴らしい、ところですよ。
そこでは、ずっと貴方と繋がることも、まどろみの中で愛を語り合うことも、できるのです……」
……ああ、いつの間に、僕は彼女に飲み込まれてしまっていたのか。
溶けた思考はぼんやりしたままで、ただ体の神経だけが鋭いまま、どろりとした快楽を受け入れる。
「この島にやってきた人を導くのが、私の仕事……。
でも気に入った方がいたら、連れて帰ってもよいと、お許しを貰っておりますから。
私もしばらく、お暇を頂くことにしましょう……」
びゅくん、と僕の愚息が脈打って、もう出し尽くしたと思っていた白濁液をほんの僅かに吐き出す。
もう何度、彼女の中に精を吐き出してしまったのか、分からない。
ただ目の前にいる女性が、一重さんが、ただ愛らしい。
もっと、もっと彼女の中を、自分の欲望で汚して、注ぎ込んでしまいたい。
心の中は彼女の想いで煮え滾るのに、疲労した身体はもうほとんど動かせず、僕は彼女の愛撫を受け止め続けるだけだった。
「ああ、また、私の中に、出ています……。
夏目様、子どもはいくつ、欲しいですか……?
たくさん、たくさん、作りましょう。貴方との、愛の証を、……うふふっ……」
……どうなさいました、あなた?
ええ、はい……。そうですね、今宵もそろそろ、……致しましょうか。
……そろそろ娘たちも、一緒に混ざっても良い頃合いですけれど……。
母とはいえ、まだ私も女……もうちょっとだけ、貴方を独り占めしたいのです……うふふ。
ではすぐ、あの子たちも、寝かし付けて参ります。
早く寝ない子には、怖い魔物がやってくるぞ……と。ふふっ。
……え?
ああ、そういえばこの話、貴方にも話しましたね。話の顛末……気になります?
さてどこまで、お話しましたかしら……?
あの僧侶が、長い黒髪の、白い肌の魔物と会った……ああ、その辺り、でしたね。
ただ……残念ながら、あれで最後なのです。これ以上はお話できないのですよ。
なぜか、と申しますと……。
私のお母様が、これ以上話したがらなかったものですから。
さあ、どういう事かと聞かれましても……ふふっ。
ええ。
今なら、途中で話を止めてしまった母の気持ちが、よく分かりますよ。
私がお母様の立場だったら、きっと話せないでしょうねえ……。
愛する方との馴れ初めを、事細かに、だなんて。
14/03/14 15:48更新 / しおやき