ワーバット姉さんとの暮らし
前略。
僕の姉、影山 守子(かげやま もりこ)はワーバットである。
「ただいま〜っ、雄太ーっ?」
夜になって家に帰ってくるたび、姉さんは出迎える僕にばっと俊敏な動作で飛びついてくる。おそらくは玄関の明かりをつける暇を与えないためだろう。
案の定僕はそれを予期していても避けられない。
「あふ〜……疲れたカラダにはやっぱりこれぇ〜」
薄暗い玄関の中で、姉さんの感触が強く感じられる。
ワーバットらしい蝙蝠に似た薄い翼で覆うように抱きしめられると、肩まで伸びた、目元を完全に隠す青紫の髪がさわさわと僕の肌をくすぐった。
身体は痩せているほうだけど、お腹や太腿からはちゃんと女性らしい柔らかさも持っている。ただ、胸の感触は感じにくいし、そこが小さいことを指摘するとどんな状態でも泣き出しそうになるので禁句だった。
「わっ! だからその癖はやめてって言ってるでしょ、守(もり)姉さん!」
「ええーっ、雄太に早く会いたくて飛んで帰ってきたのにー」
翼での抱擁と同時に、おでこや頭にキスをしてくるのが分かる。
決して嫌な感情はないけど、朝や昼とはあまりにも態度が違いすぎていつも困惑してしまうのだ。
「ったくもう……ごはんの準備するから、早く離して」
「しょうがないにゃあ……あ、今日の献立は?」
「鶏肉のソテー」
「やたー!わたしの大好物!」
髪で隠れていても分かるぐらいに赤い目を一瞬妖しく光らせて、姉さんはにっこりと満面の笑みを浮かべた。暗いところでは興奮すると目が輝くらしく、本人曰く「野生の血が騒ぐ」そうだ。まあ、確かに元々は野生だったらしいけど。
「まだちょっと時間掛かるから、お風呂の準備しといて」
「んふー♪今日も一緒に入りたいの〜?こーこーせいにもなって、も〜」
「……そんなの一言も言ってない」
僕が顔を赤らめそうになると、また姉さんの眼が輝くのが分かった。
でもそれは無視して台所に行く。
「ご、ご……ごちそう、さま。 きょ、も、……おいし、かった。
おしごと……の、あとの、ごはん……かくべつ」
「うん、ありがと」
明かりがしっかり点いたダイニングでは、姉さんはこの有様だ。
僕の支障にならない程度に、さらに言うと姉さんが暴走しない程度に家の中はだいたい照明を弱くしているのだけど、姉さんのそれにちょうどいい塩梅というのはないらしく、0か1かのどちらかになってしまうらしい。
「そういえば……なんで急にアルバイトなんか始めたの?
僕も前から向いてそうな仕事を探して見せてたけど、あの時は『一緒に居る時間が減るのなんてヤダ』って、ちゃんと聞いてくれてなかったのに……」
「え……あ、そ、それ……は、ひ、ひみっ、ひみつ……」
「まあ、僕としてはそうなってくれて安心したからいいけど。
無理はしないでいいよ、僕が高校を卒業するまでのお金くらいは残ってるんだし。
……あ、姉さん、先にお風呂入ってて。後片付けがあるから」
「え……で、で、でも……い、いっしょ、に、……はいって……」
「……」
「わ、わかって、るよ……ごめ、ごめんね……うぅ……」
明かりがある場所ではこの調子なので、姉さんなのに背の高い妹のような気分になる。
かと思えば、電気を付けずに入ったお風呂場では楽しそうに鼻歌まで歌っていて――。
食器を洗い終えると僕は、またバスタオルを脱衣所に持って入るのを忘れている、ように見せかけている姉さんのために、乾いたタオルを置いておく。
「ほらー、ここまで来たんならいっしょにはいろーよー?」
「……いつも言ってるでしょ、それ」
そうしておけば、僕が脱衣所にまで来てくれることを期待しているのだろう。
かく言う僕もいつも通り、お風呂場のガラス越しに浮かび上がった姉さんの裸体を見ないよう、電気をつけたり目を逸らしたりでやりすごした。
姉さんがお風呂から上がると、僕が入る前に姉さんの身体を拭く。
これは姉さん一人だと全身を拭くのに長い時間が掛かってしまうので、湯冷めしてしまわないようにだ。
「はい、もういいよ、姉さん」
身体や髪を乾かしたあと、姉さんの着替えも手伝う。
姉さんのパジャマは上下ともに地味な黒一色で、僕の家に彼女が来てから最初に渡したそれを、ほとんど毎回着ている。ワーバットのような種族用に一人で着やすい寝間着は少ないながらも売っているらしいけど、頑なに買い替えようとはしない。
「あ、あり、がと……雄太。お、おねえ、ちゃん、つかれちゃった……から、はやく、ねよ?」
「そうだね……僕も眠いや。ふあ……明日は土曜だから、仕事もない?」
「う、うん。あしたは、やすみ」
なので僕はいつも着替えを手伝うことになる。ただ、明かりが少ない所ではそれをしないと取り決めているので、そのせいで突然襲われたりしたことはなかった。
僕はベッドの横の電灯を少し弱めに付けたまま、布団に入る。僕自身明かりがある方が寝やすいというのもあるが、半分は姉さんの抑制でもある。
「は、はいる、ね」
それから姉さんがおずおずと同じ布団に潜り込んできた。
僕と姉さんの部屋は別々で、どっちにもベッドは置いてある。でも、姉さんが自分の部屋のベッドで寝ることはほとんどない。いつも寝る時間になると僕の部屋に入ってきては、一緒のベッドに潜り込んでくる。
今となっては、もうどこで寝るかをいちいち聞くこともないぐらいだった。
「雄太……も、もう……いちねん、だね」
「え?」
「わわ、わたし、が……ここ、に、きてから……」
「……あ、そうだったね、姉さん」
「ずっと、き、きけなかった、けど……どう、して、わたしを……たすけて、く、くれた、の……?」
その返事をするのには顔を付き合わせるのが恥ずかしすぎて、僕は背を向ける。
「……母さんが、言ってたから。困ってる人には、優しくしなさいって」
「で、でも、わた、わたし、ヒトじゃないって……雄太、も、気づいてた……のに」
「人だったらやさしく、って話じゃなくて……ただ、雨の中で濡れてたのが……気になっただけで」
「でも、でも、う、うれし、かった。からだ、ふ、ふいて、もらったり、するたびに……もらった、なまえ、よ、呼ばれる、たびに……おもいだす、よ。あの時の、こと」
「……うん」
正直に言うと、それは僕も同じだった。
濡れそぼった姉さんの髪や身体を拭くたびに、今よりずっと痩せていた細い身体と、長い前髪の間から一瞬だけ覗かせた、不安そうに僕を見つめるその目を思い出してしまうのだ。
「あ、あめ、で……あな、くずれて……すむ、とこ、なくなって……どうしようって、おもってた、ときに……雄太が、来て、くれた、の。
わ、わたし、いまでも、こ、こんな、なのに……ちゃんと、はなし、きいて、くれ、た」
「それは……一人で家にいるのが寂しかっただけで、ただの……気まぐれだよ」
「う……雄太……」
僕が少し突き放したようにそう言うと、姉さんはもごもごと口籠ってしまう。
「姉さんは僕のこと、優しい子だって勘違いしてるかもしれない。
だけど、違うよ。僕はそんな子じゃない。昔から言われたこともなかった。
今になって突然母さんや父さんが帰ってきたとしても……そんな風には思ってくれてないよ、きっと」
「……っ」
布団の下、僕の背後で姉さんの身体がもぞもぞと動いて、僕のそばに近づいてくるのがわかる。
しかし腕や手が僕の肩と背中に触れるだけで、腕や翼で抱きしめることはしない。
部屋の中がもう少し暗ければ有無を言わさず襲われていただろう、でも姉さんの性格にはそこまでの差異があった。
「う……ぅ、」
おそらく、自分の中で考えすぎるあまりに、何か言おうにも言葉が浮かばないのだ。
僕にも経験のあることだから、その気持ちはよくわかっていた。
「さ、もう寝よう。疲れてる時に考え事するのはよくないよ」
「あ……ん、んん……」
「……おやすみ」
子犬のようなか細い声で姉さんが「おやすみ」と言ったのを聞いて、僕は瞼を閉じた。
「……ん、」
夢を見た記憶もないまま、身体が何かに包まれる感覚で目が覚める。
少し硬い場所があって、でも確かな柔らかさと、じんわりした温かさのあるもの。
「……雄太」
それはたとえ寝起きでも、暗闇に包まれた部屋の中でも、改めて確かめなくても姉さんの身体なのだと分かる。
「姉さん、電気消したの……?」
「うん……眩しいと、大事なこと言えないままだから」
思ったよりもとても落ち着いた声のまま、耳元で姉さんが囁く。
いつもなら暗い場所で僕と身体を触れ合わせるだけで興奮して、なだめる暇もないままに押し倒してくるのに、その仕草は弱気な時とあまり変わらないぐらいに思えた。
「昨日、言ってたよね。私がここに住んでもう一年……ううん、日の変わった今日で、ちょうど一年」
「ちょうど……そうだったの?」
「だからね、どうしても雄太にお返しがしたくて……お金をためてたの」
「……それで、あんなに怖がってた外にも」
姉さんはこくりと頷いたあと、ベッドのそばに置いてある綺麗に包装されたギフトボックスを僕に手渡す。結構な大きさがあって、確かな重さもある。
「開けてみて」
「う、うん……」
ゆっくりと包装のテープを外しながら、箱を開く。
中に入っていたのは巷で売っている中でも特に新しい機種のゲーム機だった。
「ゲーム機……?」
「そうだよ。わからない事ばっかりだったから、そふと?とかは、店員さんのオススメにしてもらったけど……」
「でも……僕、もう高校生だし……」
そう言った瞬間、ゲーム機の箱を持つ僕の両方の手に、姉さんが鉤爪のような手をそっと添える。
「ちがうよ。”まだ”高校生なの」
その細長い手が、爪を立てないように、だけどぎゅっと力が入って僕の手を掴む。
「雄太を初めて見た時から、わかってたの。
この子は一人でも大丈夫な子。
だけど、それは今まで一人で生きてこないといけなかったから。
家族がいないことに、慣れないといけなかったから」
「……」
「だから私は、あなたのお姉ちゃんになりたかった。
私は日の当たる場所じゃあんなだけど……それもきっと、ちょうどよかったのかも。
たまには雄太を支える格好いいお姉さんになれて、でもホントは気が弱くて頼りないお姉ちゃんで……そうやって雄太の家族になりたかった。
……なんて、私の弱みをごまかす言い訳みたいだけどね」
髪の下に隠れた赤い瞳がちらりと覗き、僕を優しく見つめる目が見えて。
「守……姉さん」
「そうだよ……まだ私、あなたのお姉ちゃんでいたいの。
たまにとても寂しそうな顔をする雄太が、甘え方をまた思い出せるように……」
そこまで言ってから、姉さんはゲーム機をそっと僕の手から外して、箱を部屋の片隅に置いた。
「ごめんね、朝が来る前に起こしちゃって。
もうちょっとだけ……一緒に、寝よ、雄太っ」
ベッドに寝転がって大きく腕と翼を広げ、飛び込んで来て、と言わんばかりに仰向けになる姉さん。
いつもの姉さんなら、もう興奮のあまり僕に襲いかかっているはずだろう。見え隠れする赤い瞳と赤く染まった頬が、今も我慢しているらしいことを語っていた。
「姉さん……こそ、無理しないでよ」
「え……?」
「素っ気ない態度をしてた僕も良くなかったけど……姉さんに、強引に求められるのも……もちろん、頼りない守姉さんだって……、
その、どっちも好きで。どっちも僕の姉さんだから」
僕自身もかあっと頬が熱くなるのを堪えつつ、寝転がった姉さんの身体にそっと覆い被さる。
姉さんと見つめ合うのが恥ずかしいあまり、僕は胸元に顔を埋めようとする――
が、
「そ……んな、こと、言われちゃったら……ガマン、したくても……
できなく、なっちゃう、っ……」
折りたたまれた翼が僕と姉さんの間に滑り込んで、僕の身体を少しだけ浮かして器用に持ち上げる。
運ばれるままに、僕の顔はもう姉さんの目前に来ていて。
「――っ、んむっ、」
翼で動かされていく僕の口は、ぷにっと柔らかい唇の感触で埋まった。
「あ、ぅ……はうっ……♥
がまんしてた、ぶん……すっごく、くらくらしちゃう……♪」
長い長いキスの後で、ようやく顔が離れたかと思うと、
「……――ごめんね、雄太。
やさしいお姉さんになるの、明日からにしちゃうね――」
それから、日が昇るまでの出来事は言うまでもなく。
僕たちは姉弟なのか恋人なのか、曖昧なまま寂しくない日々をまた過ごすのだった。
19/07/20 17:19更新 / しおやき