リビングドールは佇んで
「中古品が計五点セットで、今やってるキャンペーンの価格で、六〇〇〇円になりまーす」
茶髪の若い女店員に丁度の金額を渡し、レシートともに人形やぬいぐるみの入ったレジ袋を俺は受け取る。
「あざっしたー」
店員に愛想を求めているわけではないが、この店は業務中に他の店員とどうでもいいことを大声でよく喋っていた。
まあ大型チェーンとはいえ、アルバイターだらけの店で買取をウリにしているらしいリサイクルショップなどそんなモノだろう。
俺は車で自宅の単身者用マンションに戻り、乱雑に靴や上着を脱いでからいつもの作業を始める。
「やれやれ、本当に無遠慮な奴らだ」
俺はひとりごちた後、シール剥がしの薬を、少しだけ剥がしたシールと箱の両方に塗る。それから少し剥がしまた薬品を塗る。剥がす。
丁寧に時間を掛けることで、シールの跡や値札の跡を出来るかぎり残さないようにする。
「やっぱりこれが最適……かな」
人形やぬいぐるみを粗末に扱う者は誰だろうと嫌いだ。
だがその中でも、彼らに、彼女たちに無遠慮に貼られる値札が一番嫌いだった。
他者の価値を決めつけるような傲慢さ。ただ流行や大多数からの人気だけで価値を解釈する身勝手さ。人間を避けたがる俺にとっては十分過ぎる理由だった。
俺はまさしくレッテルであるその値札を、丁寧に、決して跡が残ったりしないように剥がす。
時間を掛けてその作業を終わらせ、彼らの状態を改めてチェックしていく。
「このフィギュアは日焼け……だが、これだと今の俺じゃ無理だろうな」
手先は器用でも不器用でもないが、修繕と呼べるほどの技術は俺にはなかった。
たとえば日焼けには塗装が必要だが、その為のまともな道具を俺は所持していない。せいぜい黄ばみを落とすのに中性洗剤を使う程度の、素人レベルな手直しや軽い手入れが出来るくらいだ。
本来ならその手の知識や技術も習いたいところだが、仕事に追われていると中々そうもいかない。
それに今では何より、『あの子』への意識が薄れてしまう可能性が怖くて。
「ふう……やれるだけはやれた、そろそろ持っていこう」
さっき買ってきたフィギュアと、一時家に置いていた他の人形やぬいぐるみたちを俺は車に積み込む。
家からすぐ近場にあるレンタルボックス、つまり個人用の貸し倉庫に飾るためだ。
ここに住み始めたのは半年前だが、そういった点を満たすちょうどいい物件があったのは僥倖だった。
レンタルボックスの扉を開け、電気を付ける。
「そろそろ全員の点検をしなおす時期か……この分だと新しい貸し倉庫も考えておかないとな」
四畳のスペースにある無機質な壁と棚の中、虫除けやカビのないように置かれたカバーや乾燥材に、ずらりと並んだ人形、フィギュア、ぬいぐるみたち。
点検はまた今度だが、一応ざっと全員の様子を一瞥しておく。
俺にコレクターの気があるつもりはないし、金を余らせた富豪でもないので、気に入った者だけを集めていたつもりだったのにいつの間にかこんな量になっていた。
できれば全員家に飾ってやりたいが、なぜかそれは躊躇ってしまう。
多少は家にも置いてあるし、まだ置くスペースもないわけではないのに、何故か。
「……あ、そうだ。頼んでた彼女の服、取りに行かないとな」
スケジュールには入れていたものの、うっかり予定を忘れかけていた俺は、彼らを並び終えた後にまた車を回していく。
「ただいま」
専門店で注文していた『あの子』のためのドール用の衣装を受け取り、新しいアクセサリーの物見もそこそこにして自宅へ帰ってきた。
もちろん、ただいまなんて言っても独り身で住む俺に返事などあるわけがない。
今は。
「着替えは……夕飯とシャワーが終わってからのほうがいいな」
家事や身の回りの事を済ませ終える頃には、もう夜の九時になっていた。
俺の食事の質や外見などは最低限の水準があればいい。だが、『あの子』や他のぬいぐるみ達の事を鑑みると、部屋や自分自身の清潔さにはどうしても気を遣ってしまう。
特に彼女の着替え前となると、普段の自分の汚れや臭いなど寸分も残したくない。
「さて、と。そろそろいいか」
いつものように一人掛けのソファに座った『あの子』をそっと抱き上げ、目を合わせる。
部屋の明かりに照らされて煌めく、綺麗としか言いようのない銀色の長い髪に、薄紫の瞳。
俺を見ているはずなどないのに、見てくれている。
誰が聞いても矛盾に聞こえるだろうが、俺にとってはそうだ、としか言えない。
「今回の服は、ヴィクトリアン調のメイドドレスだ。
あんまりデザインに凝るべきモノでもないが、前から欲しいって言ってたからな」
仕立ててもらった服を取り出し、彼女にも分かるようにくまなく見せる。
しかし彼女が話すことも動くこともないし、表情だって変わるはずもない。
だって『あの子』は人形なのだから、当然だ。
でも、今の俺にはそれでよかった。むしろそちらの方が俺にとっては落ち着く気さえした。
こうやって静かに彼女と居られる時間も、俺にとってかけがえのない時間なのだから。
「……よし……うん、できた。サイズも丁度いいし、とても似合ってる。
あの店はそれなりに信頼できそうだし、これからの候補にも入れておくか」
出来るかぎり他人と接したくなんてないが、俺一人で彼女にしてやれることなど高がしれている。それぐらいは俺にも分かっていた。
どうせ金なんて彼女と彼等以外には使う予定も時間もほとんどないのだから、使うべきところに使うべきだ。
だから『あの子』の為の衣装を、アクセサリーを、ソファを、家具を……と思ううちに、あの子のための部屋まで出来ていた。
「っと、もう十時過ぎだ……どうしよう?
そういえば、見たいアニメがあるって言ってたっけ。
つい最近にインターネットで配信され始めたらしいし、一緒に見ようか」
白と黒のエプロンドレスとカチューシャに身を包んだ彼女を改めて眺めながら、もう一度彼女用のソファに座らせる。
それからソファを動かして、俺がいつも使う椅子の横に来るようにした。
「……でもその格好だと、なんだかミスマッチかもな」
俺の肌に触れても彼女が汚れることのないよう、白いロンググローブも付けてあげたので自然に手を重ねられる。
その感触を味わいながら、ポストアポカリプスの中で二人の少年少女が織りなすラブロマンス作品を『あの子』と見ていた。
「ふー……どうだった?いや……聞くのは”後”でいいか」
ちょうど終わる頃には俺にも眠気が来ていたので、彼女をいつもの場所に戻してからベッドに転がり、眼を瞑る。
すぐに睡魔に襲われて、スイッチが切れるように眠りに落ちて。
「……え、けい……ねえ、慧」
「ん……」
掛け布団の下でもぞもぞと何かがうごめく。
普段と変わらない柔らかな感触と、この時以外には感じられない温もり。
「もー、何度も言ってるのに。寝るときぐらいそばにいたいって」
「……ああ」
仰向けに寝た俺に覆いかぶさるように、彼女がその小さな体で乗っかってくる。
そこにいるのは、いつも俺と一緒に居てくれる『あの子』であるのは明白だった。
つい数時間前に着せたばかりの、手触りの良いメイドドレスの生地が俺の肌に触れる。
「今日だってね、わたしの手を手袋の上から触るだけで、膝に置いてくれたりもしないし」
「それは……君を物みたいに扱うのが、イヤなだけで……」
「そんなこと言ったって……もう何か月も一緒に住んでるんだよ?
こうやって、”夢の中”ではちゃんとおはなしもしてるのに。
ほら、私の名前だって呼んでくれてないもん」
「ん……悪いな、シル」
「そうそう、それでいいの。今日の映画、わたしには面白かったけど……あんまり慧は楽しんでなさそうだったね」
そう言いながら彼女は白く細い指で俺の頬を撫でる。
自分で外したのか、白いグローブは両手ともに履いていなかった。
「そう……見えたかな?
でも君が、シルが居てくれるようになってからは随分調子がいいよ……馬鹿みたいな話だけれど」
「……わたしのこと、まだ怖い?」
「あ……」
労わるような不安そうな、トーンの落ちた物悲しい声。
生きているかのように声色も表情もめまぐるしく変わる。
これが俺の抱く『あの子』のイメージなのだろうかと思うと、いつもの事ながら非現実すぎて苦笑が零れる。
「……そうだな、まだ、怖がってるんだと思う。
母さんを喪ってからは俺を責め続けてきた親父の気持ちも、俺を不気味がった奴らの事も許せないはずなのに――どこかでその気持ちを分かってしまうし、少なからず納得もしてる。
俺は、人間に求められてない人間なんだって」
「……そんな、こと」
「いいんだ、俺だって他の誰かに何かを求めてるわけじゃないからおあいこだ。
今はまだ……このままで、いいんだ」
「……でも!慧は、わたしにはとっても優しいし、他の、あの子たちにだって……!」
いつもは淑やかな声を荒げて、彼女が俺を見つめる。
こうやって俺を護ってくれようとするのも――夢の中だから。
辻妻合わせにはそれが丁度いい理由だった。
「ああ……そうだね。本当に……馬鹿みたいな話だけど。
たまにだけど、想像するよ。
親父も皆も、俺の事を悪く言わなくて、俺もこんな風に歪んだりしないで。
それで君とはずっと前から出会っていて、君と仲良くする事を笑う人なんていなくて。
なのにシルは、寂しがりの俺を母さんみたいに甘やかしたがる……ささやかだけど、そんな微笑ましい日々」
「……」
「でもそんな夢も、その辺りまで考えたら分かってしまう。
俺はこうやって、自分にとってどこまでも都合よく解釈できる相手にしか気を許せない。
そんな、弱い人間なんだ」
「……っ、なんでっ……そんな、こと……いうのっ……」
彼女の小さな手が、俺の肩をぎゅっと握りしめた。
少し痛いほどのその強さにハッとして、思わず顔を下げて彼女の表情を確かめる。
「あ――」
仄暗く曇った表情のまま、彼女の潤んだ薄紫の瞳から小さな滴がつうっと垂れて。
「ご、ごめん!」
思わず動揺して、俺の声までも震える。
「そんな、君を悲しませるつもりじゃ――」
「……ふふっ」
かと思えば、思い出したかのようにくすっと彼女は微笑んで。
「ね……都合のいい存在なのに、泣かせちゃったら、謝るの?」
「!……それ、は……」
「大丈夫だよ。これは夢なんだから、わたしが泣いたことになんて……ならないよ。
……でもね、わたしが泣いてるところを見ちゃったからって……この時間以外でも、そのことでからかっちゃ……駄目だからね?」
どこかぎこちなく思える笑顔が、俺の気持ちにも棘を刺す。
俺は彼女の事を誤解しているのか。
――でも、それだって単なる俺の思い込みじゃないのか。
「……うん、夢の時間はそろそろおしまい。
明日もお仕事、がんばって。でも、ぜったいムリはしないでね」
「……ああ」
「それと……いつもどおり、夢の外では言えないこと、先に言っちゃうね。
『おはよう』、『いってらっしゃい』、『おかえりなさい』――」
彼女が人形でいてくれること、彼女が生物のように動いてくれること。
「あ……そうだ。今日からは……『めしあがれ』も、だった。
じゃあ……おやすみ、慧」
一体そのどちらが俺にとっては幸せなのか――そんな事を考えるうちに、意識は薄れていった。
「ん……朝、か」
目が覚めてすぐ目覚ましのアラームを止めると、俺は目を擦りながら身体を起こす。
そして操られるように彼女のいる部屋に入って、一人掛けのソファに視線を送る。
寝る前と同じポーズのまま、彼女は何事もなく静かにそこへ座っていた。
「……あれ」
違和感、というよりなにか違う、かすかな匂いに気づく。
彼女の部屋から出て匂いの元を辿るとダイニングに行き当たった。
「……これは、」
ダイニングテーブルには作った覚えのない朝食が置かれている。
ベーコンエッグにサラダとコーヒー。
戸惑っている間に、たまに使っているトースターの音がして、焼けたパンが出てきた。
「朝飯なんて、食べてる日のほうがずっと少ないのに……はは」
そう呟きながらも、冷めてしまう前に食べたくてテーブルに着く。
少し焦げのある目玉焼きと切り方の曖昧なサラダだったけれど、その味はしばらく忘れられそうになかった。
「ご馳走様でした」
食べ終えて皿をキッチンに持って行くと、シンクにそこそこ溜まっていたはずの食器がぜんぶ綺麗に洗われて、水切りカゴに置かれていた。
「ああ……そうか。どうりで、ああいう服を欲しがってたわけか」
ようやく合点がいって、朝食で使った皿を片した後で寝室に戻る。
身嗜みを整え、仕事用の服に着替えなおして、それからまた彼女に会いに行った。
「……やっぱり、君なんだろうな。
まあ、勝手に朝食を作っていく空き巣と、夢遊病の一種で朝食を作るのと、自立して動く人形……どれが一番在りえるかって言われたら……答えにくい話だよ」
部屋には来たものの、彼女の目を見つめられないまま俺は呟く。
目を合わせた瞬間、その瞳がくるりと動いて俺を睨むのではないかと思うと、嬉しさよりも恐怖が勝ってしまった。
……今は。
「いつまでも……こうしてちゃいけないよな。
まだ人間を心から好きになれるなんて、言えないけど。
君が”本当に動いたって”怖がったりしなくなるまで……一緒に居てくれると、嬉しい」
結局彼女の目は見ないまま、俺は振り返って部屋を出て玄関へ向かう。
端正に揃えて置かれた革靴を履き、立ち上がってドアの鍵を開ける。
「じゃあ、行ってきます」
その時の俺には確かに、『いってらっしゃい』というあの子の返事が聞こえた。
茶髪の若い女店員に丁度の金額を渡し、レシートともに人形やぬいぐるみの入ったレジ袋を俺は受け取る。
「あざっしたー」
店員に愛想を求めているわけではないが、この店は業務中に他の店員とどうでもいいことを大声でよく喋っていた。
まあ大型チェーンとはいえ、アルバイターだらけの店で買取をウリにしているらしいリサイクルショップなどそんなモノだろう。
俺は車で自宅の単身者用マンションに戻り、乱雑に靴や上着を脱いでからいつもの作業を始める。
「やれやれ、本当に無遠慮な奴らだ」
俺はひとりごちた後、シール剥がしの薬を、少しだけ剥がしたシールと箱の両方に塗る。それから少し剥がしまた薬品を塗る。剥がす。
丁寧に時間を掛けることで、シールの跡や値札の跡を出来るかぎり残さないようにする。
「やっぱりこれが最適……かな」
人形やぬいぐるみを粗末に扱う者は誰だろうと嫌いだ。
だがその中でも、彼らに、彼女たちに無遠慮に貼られる値札が一番嫌いだった。
他者の価値を決めつけるような傲慢さ。ただ流行や大多数からの人気だけで価値を解釈する身勝手さ。人間を避けたがる俺にとっては十分過ぎる理由だった。
俺はまさしくレッテルであるその値札を、丁寧に、決して跡が残ったりしないように剥がす。
時間を掛けてその作業を終わらせ、彼らの状態を改めてチェックしていく。
「このフィギュアは日焼け……だが、これだと今の俺じゃ無理だろうな」
手先は器用でも不器用でもないが、修繕と呼べるほどの技術は俺にはなかった。
たとえば日焼けには塗装が必要だが、その為のまともな道具を俺は所持していない。せいぜい黄ばみを落とすのに中性洗剤を使う程度の、素人レベルな手直しや軽い手入れが出来るくらいだ。
本来ならその手の知識や技術も習いたいところだが、仕事に追われていると中々そうもいかない。
それに今では何より、『あの子』への意識が薄れてしまう可能性が怖くて。
「ふう……やれるだけはやれた、そろそろ持っていこう」
さっき買ってきたフィギュアと、一時家に置いていた他の人形やぬいぐるみたちを俺は車に積み込む。
家からすぐ近場にあるレンタルボックス、つまり個人用の貸し倉庫に飾るためだ。
ここに住み始めたのは半年前だが、そういった点を満たすちょうどいい物件があったのは僥倖だった。
レンタルボックスの扉を開け、電気を付ける。
「そろそろ全員の点検をしなおす時期か……この分だと新しい貸し倉庫も考えておかないとな」
四畳のスペースにある無機質な壁と棚の中、虫除けやカビのないように置かれたカバーや乾燥材に、ずらりと並んだ人形、フィギュア、ぬいぐるみたち。
点検はまた今度だが、一応ざっと全員の様子を一瞥しておく。
俺にコレクターの気があるつもりはないし、金を余らせた富豪でもないので、気に入った者だけを集めていたつもりだったのにいつの間にかこんな量になっていた。
できれば全員家に飾ってやりたいが、なぜかそれは躊躇ってしまう。
多少は家にも置いてあるし、まだ置くスペースもないわけではないのに、何故か。
「……あ、そうだ。頼んでた彼女の服、取りに行かないとな」
スケジュールには入れていたものの、うっかり予定を忘れかけていた俺は、彼らを並び終えた後にまた車を回していく。
「ただいま」
専門店で注文していた『あの子』のためのドール用の衣装を受け取り、新しいアクセサリーの物見もそこそこにして自宅へ帰ってきた。
もちろん、ただいまなんて言っても独り身で住む俺に返事などあるわけがない。
今は。
「着替えは……夕飯とシャワーが終わってからのほうがいいな」
家事や身の回りの事を済ませ終える頃には、もう夜の九時になっていた。
俺の食事の質や外見などは最低限の水準があればいい。だが、『あの子』や他のぬいぐるみ達の事を鑑みると、部屋や自分自身の清潔さにはどうしても気を遣ってしまう。
特に彼女の着替え前となると、普段の自分の汚れや臭いなど寸分も残したくない。
「さて、と。そろそろいいか」
いつものように一人掛けのソファに座った『あの子』をそっと抱き上げ、目を合わせる。
部屋の明かりに照らされて煌めく、綺麗としか言いようのない銀色の長い髪に、薄紫の瞳。
俺を見ているはずなどないのに、見てくれている。
誰が聞いても矛盾に聞こえるだろうが、俺にとってはそうだ、としか言えない。
「今回の服は、ヴィクトリアン調のメイドドレスだ。
あんまりデザインに凝るべきモノでもないが、前から欲しいって言ってたからな」
仕立ててもらった服を取り出し、彼女にも分かるようにくまなく見せる。
しかし彼女が話すことも動くこともないし、表情だって変わるはずもない。
だって『あの子』は人形なのだから、当然だ。
でも、今の俺にはそれでよかった。むしろそちらの方が俺にとっては落ち着く気さえした。
こうやって静かに彼女と居られる時間も、俺にとってかけがえのない時間なのだから。
「……よし……うん、できた。サイズも丁度いいし、とても似合ってる。
あの店はそれなりに信頼できそうだし、これからの候補にも入れておくか」
出来るかぎり他人と接したくなんてないが、俺一人で彼女にしてやれることなど高がしれている。それぐらいは俺にも分かっていた。
どうせ金なんて彼女と彼等以外には使う予定も時間もほとんどないのだから、使うべきところに使うべきだ。
だから『あの子』の為の衣装を、アクセサリーを、ソファを、家具を……と思ううちに、あの子のための部屋まで出来ていた。
「っと、もう十時過ぎだ……どうしよう?
そういえば、見たいアニメがあるって言ってたっけ。
つい最近にインターネットで配信され始めたらしいし、一緒に見ようか」
白と黒のエプロンドレスとカチューシャに身を包んだ彼女を改めて眺めながら、もう一度彼女用のソファに座らせる。
それからソファを動かして、俺がいつも使う椅子の横に来るようにした。
「……でもその格好だと、なんだかミスマッチかもな」
俺の肌に触れても彼女が汚れることのないよう、白いロンググローブも付けてあげたので自然に手を重ねられる。
その感触を味わいながら、ポストアポカリプスの中で二人の少年少女が織りなすラブロマンス作品を『あの子』と見ていた。
「ふー……どうだった?いや……聞くのは”後”でいいか」
ちょうど終わる頃には俺にも眠気が来ていたので、彼女をいつもの場所に戻してからベッドに転がり、眼を瞑る。
すぐに睡魔に襲われて、スイッチが切れるように眠りに落ちて。
「……え、けい……ねえ、慧」
「ん……」
掛け布団の下でもぞもぞと何かがうごめく。
普段と変わらない柔らかな感触と、この時以外には感じられない温もり。
「もー、何度も言ってるのに。寝るときぐらいそばにいたいって」
「……ああ」
仰向けに寝た俺に覆いかぶさるように、彼女がその小さな体で乗っかってくる。
そこにいるのは、いつも俺と一緒に居てくれる『あの子』であるのは明白だった。
つい数時間前に着せたばかりの、手触りの良いメイドドレスの生地が俺の肌に触れる。
「今日だってね、わたしの手を手袋の上から触るだけで、膝に置いてくれたりもしないし」
「それは……君を物みたいに扱うのが、イヤなだけで……」
「そんなこと言ったって……もう何か月も一緒に住んでるんだよ?
こうやって、”夢の中”ではちゃんとおはなしもしてるのに。
ほら、私の名前だって呼んでくれてないもん」
「ん……悪いな、シル」
「そうそう、それでいいの。今日の映画、わたしには面白かったけど……あんまり慧は楽しんでなさそうだったね」
そう言いながら彼女は白く細い指で俺の頬を撫でる。
自分で外したのか、白いグローブは両手ともに履いていなかった。
「そう……見えたかな?
でも君が、シルが居てくれるようになってからは随分調子がいいよ……馬鹿みたいな話だけれど」
「……わたしのこと、まだ怖い?」
「あ……」
労わるような不安そうな、トーンの落ちた物悲しい声。
生きているかのように声色も表情もめまぐるしく変わる。
これが俺の抱く『あの子』のイメージなのだろうかと思うと、いつもの事ながら非現実すぎて苦笑が零れる。
「……そうだな、まだ、怖がってるんだと思う。
母さんを喪ってからは俺を責め続けてきた親父の気持ちも、俺を不気味がった奴らの事も許せないはずなのに――どこかでその気持ちを分かってしまうし、少なからず納得もしてる。
俺は、人間に求められてない人間なんだって」
「……そんな、こと」
「いいんだ、俺だって他の誰かに何かを求めてるわけじゃないからおあいこだ。
今はまだ……このままで、いいんだ」
「……でも!慧は、わたしにはとっても優しいし、他の、あの子たちにだって……!」
いつもは淑やかな声を荒げて、彼女が俺を見つめる。
こうやって俺を護ってくれようとするのも――夢の中だから。
辻妻合わせにはそれが丁度いい理由だった。
「ああ……そうだね。本当に……馬鹿みたいな話だけど。
たまにだけど、想像するよ。
親父も皆も、俺の事を悪く言わなくて、俺もこんな風に歪んだりしないで。
それで君とはずっと前から出会っていて、君と仲良くする事を笑う人なんていなくて。
なのにシルは、寂しがりの俺を母さんみたいに甘やかしたがる……ささやかだけど、そんな微笑ましい日々」
「……」
「でもそんな夢も、その辺りまで考えたら分かってしまう。
俺はこうやって、自分にとってどこまでも都合よく解釈できる相手にしか気を許せない。
そんな、弱い人間なんだ」
「……っ、なんでっ……そんな、こと……いうのっ……」
彼女の小さな手が、俺の肩をぎゅっと握りしめた。
少し痛いほどのその強さにハッとして、思わず顔を下げて彼女の表情を確かめる。
「あ――」
仄暗く曇った表情のまま、彼女の潤んだ薄紫の瞳から小さな滴がつうっと垂れて。
「ご、ごめん!」
思わず動揺して、俺の声までも震える。
「そんな、君を悲しませるつもりじゃ――」
「……ふふっ」
かと思えば、思い出したかのようにくすっと彼女は微笑んで。
「ね……都合のいい存在なのに、泣かせちゃったら、謝るの?」
「!……それ、は……」
「大丈夫だよ。これは夢なんだから、わたしが泣いたことになんて……ならないよ。
……でもね、わたしが泣いてるところを見ちゃったからって……この時間以外でも、そのことでからかっちゃ……駄目だからね?」
どこかぎこちなく思える笑顔が、俺の気持ちにも棘を刺す。
俺は彼女の事を誤解しているのか。
――でも、それだって単なる俺の思い込みじゃないのか。
「……うん、夢の時間はそろそろおしまい。
明日もお仕事、がんばって。でも、ぜったいムリはしないでね」
「……ああ」
「それと……いつもどおり、夢の外では言えないこと、先に言っちゃうね。
『おはよう』、『いってらっしゃい』、『おかえりなさい』――」
彼女が人形でいてくれること、彼女が生物のように動いてくれること。
「あ……そうだ。今日からは……『めしあがれ』も、だった。
じゃあ……おやすみ、慧」
一体そのどちらが俺にとっては幸せなのか――そんな事を考えるうちに、意識は薄れていった。
「ん……朝、か」
目が覚めてすぐ目覚ましのアラームを止めると、俺は目を擦りながら身体を起こす。
そして操られるように彼女のいる部屋に入って、一人掛けのソファに視線を送る。
寝る前と同じポーズのまま、彼女は何事もなく静かにそこへ座っていた。
「……あれ」
違和感、というよりなにか違う、かすかな匂いに気づく。
彼女の部屋から出て匂いの元を辿るとダイニングに行き当たった。
「……これは、」
ダイニングテーブルには作った覚えのない朝食が置かれている。
ベーコンエッグにサラダとコーヒー。
戸惑っている間に、たまに使っているトースターの音がして、焼けたパンが出てきた。
「朝飯なんて、食べてる日のほうがずっと少ないのに……はは」
そう呟きながらも、冷めてしまう前に食べたくてテーブルに着く。
少し焦げのある目玉焼きと切り方の曖昧なサラダだったけれど、その味はしばらく忘れられそうになかった。
「ご馳走様でした」
食べ終えて皿をキッチンに持って行くと、シンクにそこそこ溜まっていたはずの食器がぜんぶ綺麗に洗われて、水切りカゴに置かれていた。
「ああ……そうか。どうりで、ああいう服を欲しがってたわけか」
ようやく合点がいって、朝食で使った皿を片した後で寝室に戻る。
身嗜みを整え、仕事用の服に着替えなおして、それからまた彼女に会いに行った。
「……やっぱり、君なんだろうな。
まあ、勝手に朝食を作っていく空き巣と、夢遊病の一種で朝食を作るのと、自立して動く人形……どれが一番在りえるかって言われたら……答えにくい話だよ」
部屋には来たものの、彼女の目を見つめられないまま俺は呟く。
目を合わせた瞬間、その瞳がくるりと動いて俺を睨むのではないかと思うと、嬉しさよりも恐怖が勝ってしまった。
……今は。
「いつまでも……こうしてちゃいけないよな。
まだ人間を心から好きになれるなんて、言えないけど。
君が”本当に動いたって”怖がったりしなくなるまで……一緒に居てくれると、嬉しい」
結局彼女の目は見ないまま、俺は振り返って部屋を出て玄関へ向かう。
端正に揃えて置かれた革靴を履き、立ち上がってドアの鍵を開ける。
「じゃあ、行ってきます」
その時の俺には確かに、『いってらっしゃい』というあの子の返事が聞こえた。
19/03/31 06:33更新 / しおやき