鍛冶師であるということ
ただ楽になりたいという思いに囚われるようになったのは、いつからだろう。
電気も付けず、ぴったりとカーテンの閉じた暗い部屋の中。
頭まで布団を被り、ベッドの中で眼を瞑ってじっとしていると、アパートの玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえた。
そして小さなノック音。数分ほど間を置いて、もう一度チャイムが鳴らされる。
その行動でいつものように彼女が来たのだなと確信した。
鉛のように重く感じる身体をひきずって、僕は玄関の扉を開ける。
「秀(しゅう)、おはよう」
女性にしては低い、静かで落ち着いた声でその女性が話す。
僕と同じくらいの背丈なので、やはり女性にしては大きいだろう。
「……おはよう」
飾り気のない長袖の白いシャツに、デニムのような生地の青いショートパンツと黒いストッキング。
薄赤いショートヘアに、頬を通る二つ結びのおさげ。
額から生えた一本角、そして僕をじっと見つめる薄紫色の大きな一つ目。単眼。
分かってはいたが、そこに立っていたのはやはり”サイクロプス”の蛍(ほたる)だった。
「今、起きたの?」
「いや」
「朝ごはんは?」
「……まだ」
「じゃあ……入るよ」
もういつもの事になってしまったから止める気にもなれず、彼女が家に入ってくるのを僕は黙って眺めていた。
「ごちそうさま」
「ん、どういたしまして……おかわり、いる?
「……いい」
食欲はほとんどないが、食べ物を無駄にはしたくない。蛍が作ってくれた目玉焼きと焼き鮭の朝食をさっさとかき込むと、僕はまたベッドの上に寝転ぶ。
そして彼女の顔を見てしまわないように壁を向いた。
「疲れてるの……秀?」
「……別に」
いつも低めな蛍の声のトーンがさらに落ちて聞こえる。
なのに僕はまた無機質な返事を繰り返してしまう。
「じゃあ……まだ、眠いの?」
「……そうじゃないけど」
「なら……洗濯する。うるさいと思うけど……いっぱい溜まってたから、しておかないと」
「……ああ」
こうして突き放そうとしているのに、蛍はそれについて何ひとつ文句を言わない。言ってくれない。
それどころか、僕の家に来る回数も、僕に言葉を掛ける回数もどんどん増えていくように感じた。
彼女は寡黙で、進んで自分から人と話したがる性分でもなかったはずなのに。
「……どうして、まだ僕に構うんだ……」
僕の呟きは洗濯機の稼働音に覆われ、かき消されていった。
「……」
「……」
洗濯が終わり、衣服を干し終えた後も蛍は黙ってベッドの傍に、つまり僕のそばにじっと座っているらしかった。
テレビをつけることもないから部屋の中は無音のままだ。
音を立てないよう慎重に寝返りを打って彼女の方を向いても、蛍は時おり視線を彷徨わせているだけで――
「……あ」
気づかれないように蛍の様子を見るつもりが、ちょうど蛍も僕を見ようとしていたらしい。
こっちを横目で見る彼女と目が合ってしまった。
僕の方から彼女に目を合わせたのは、何時ぶりになるだろう。
「……っ」
何かを言おうとして、無意識に口が開きそうになるけれど、それはまだ自分の意志で抑えられた。
彼女にこうやって見つめられていることさえ、居心地が悪い。
見ないでほしい。
だけど、それは口にしたくないと思ってしまい――また何も出来ないまま、少しだけ無音の時間が流れる。
「秀」
「……何」
「もう少し……そばに行っても、いい?」
もう蛍はすでに僕のベッドのすぐ横に座っている。
僕が寝転んだままでも、身体を近づけて手を伸ばせば届くぐらいの距離だ。
「……それは」
そんなことを蛍が言うのは、ここに来るようになってから初めてだったかもしれない。
これ以上近づくのは、僕に触れようとするのと同じ。
そんなことぐらい蛍だって分かって言っているはずだ。
「……秀」
蛍がゆっくりと身体を立たせ、僕の方へ手を伸ばそうとする。
「う……っ……」
彼女から、森の瑞々しさと僅かな金属の匂いが混ざったような、不思議な香りが漂ってくる。
それを意識した瞬間、蛍から目を逸らして僕は叫んだ。
「――やめてくれ!」
視界の端で、彼女の動きがぴったりと止まったのが分かった。
そして僕はもう何も見てしまわないようにと、ぎゅっと目を閉じる。
「これ以上、僕に構うな、」
水の入ったコップが床に落ちたかのように――感情が飛び散る。
「なんで、なんで僕なんかに構うんだ。何がしたいんだ!?
もう放っておいてほしいから、ぶっきらぼうな態度を取り続けてきたのに、まだ分かってくれないのか……!
言われなきゃわからないなら、今言ってやる!」
僕は何を言っているんだ。
「人の家に何度も何度も来て、世話を焼くだけ焼いて帰って!
僕の事情も何も、なにひとつ知らないくせに!どんな思いでいたかも知らないくせに!
そうやって黙って、そばに座っているだけで――!」
こんな事をして何になるんだ。彼女を罵倒して、傷つけて。
「それとも蛍は、今の僕が変だって思ってるのか?
こんなの僕じゃない、以前の僕じゃないから、嘘のはずだから、元に戻ってほしいって。
そうなんだろ?どうせ君も結局は、他の奴らと同じことを言いに来たんだろ?
頑張れって、努力しろって!お前ならできるって言うんだろ!
他のみんなもしてきたんだから、お前も味わえって!我慢して、頑張れって!」
そのくせその行為で自分さえ気持ちよくなれないくせに、ただありのままの醜い自分を晒して。
やっぱり僕は最低の、最悪じゃないか。
「そうじゃないんだよ!これが、今の僕が、ほんとの僕なんだよ!
何ひとつ存在する価値も理由もない、クズだ、塵だ!
そのくせこんな、人を罵って傷つけさえする――最低の存在だ!」
自分が何を言っているのか、思っているのか。
感情と理性がぐちゃぐちゃに混ざって、訳が分からない。
「そうだ、僕は、ぼくは……最低だ……!
才能もない、努力も出来ない、人並みの我慢さえできない。
救われるなんて思ってないし、救われたいとも思わない。
自分から助けてほしいと手も伸ばせない――これが屑じゃなくて、なんだ」
こんなことをしたって自分の価値も、纏わりつく罪悪感も、何ひとつ変わらないのに。
何のためにもならない無駄だって、それだけは分かっているのに。
「だから……だから、もう……分かっただろ?
止めてくれって、言っただろ。ちゃんと断っただろ。
僕の意思を、尊重してくれよ。このまま、楽にさせてくれよ……もう、嫌なんだよ」
「……だから、」
僕の怒声が止むと、また部屋は何事もなかったかのように静まり返る。
そして、何ひとつ返事をしなかった蛍のことが、気になった。
気になってしまった。
僕は僅かに目を開いてしまった。
「――っ」
そして。
小さな視界の中でも、蛍の大きな目から涙が零れていることだけは、はっきり分かった。
「……そ、んな……泣くぐらい、で……僕が……気を、変えるとでも……」
誰の前でも涙など見せたことのないはずの、気丈な蛍が、泣いている。
泣かせたのは僕だ。傷つくようなことを言ったのは、僕だ。
胸が痛んだ。比喩でなく、本当にずきずきと鈍く重い痛みを覚えた。
その痛みと罪悪感で頭の中がいっぱいになる。また意識が混濁する。
「……違う」
今喋ったのは僕ではない。
一瞬、僕にはそれが誰の声かすら分からなかった。
「違うよ……秀。あなたのせいじゃない」
呆然とする僕はいつの間にか目をしっかり開いていて、蛍のことをまた見ていた。
「わたしは……悲しいから泣いてるんじゃない。嬉しくて、泣いてるの」
しなやかな指で顔を伝う滴を拭いながら、蛍は続ける。
「やっと、秀がちゃんと話してくれた。自分の思いを話してくれた。
それが嬉しくて……泣いてたの」
震える声の、それでもはっきりとした語勢で、彼女はそう言った。
「なにを……言ってるんだ、蛍。僕が、言ったこと……聞いて、なかった、のか」
「ううん、聞いてた。聞き逃したりしないように、じっと待ってた。
ずっと……そばにいて、待ってた、から」
「……っ、どうして、僕を責めないんだよっ……」
「わたしはちゃんと聞いてた。だから……分かる。
秀がわたしの事を想ってくれてるのは、変わらないって」
「ば……馬鹿な、こと……言うなっ!」
困惑したままの僕にも分かる。顔を拭う手の下で、蛍はたしかに微笑んでいた。
「あんなに入れ込んでた、鍛冶の仕事まで投げ出して……僕の世話をしてたんだろ!
生活を滅茶苦茶にされて、感謝もされず、罵倒までされて……!
なのにずっと、待ってるだけなんて……それで僕の事が、どうして分かるっていうんだ!
なんで笑ってられるんだっ……そんなの、変だ……どうかしてる!」
また語勢を荒げ始めてしまう僕に、蛍は動じない。
「……ごめんね。わたし、”ゲイザー”の子みたいに、便利な魔法は使えないから。
こうするしか、なかったのかもしれない。
でも、これも我儘だけどね、わたしの力で……なんとかしたかった。
わたしは、待つしか出来ないから。そうしたいって……思ったから」
蛍の、薄紫色の大きな瞳が僕を見つめる。
元々彼女の表情は変化に乏しいが、そこには侮蔑も怒りも感じられない。
その大きな瞳には、ひたすらに柔らかな光を湛えていた。
「なん、で……どうして、そんな、ことを……」
「それは……鍛冶と、同じ」
彼女から漂うふわりとした香りが、その目の光が、僕をまた惑わせる。視線が離せない。
「金属たちは、すぐに武器や道具になったりしない。
火を入れて、形を整えて、研削して、また形を整えて――何度も何度も形を変えてようやく、綺麗に輝く。誰かの為になるモノが……完成する。
出来上がった後も……点検や修繕が必要。それはどんな物でもそう、例外はない。
それが出来るまで、待つのが……わたしの仕事。だから待つのは……慣れてる」
放心していた僕の右手が、柔らかい何かで包まれる。
それは彼女の掌だった。
傷跡が多くて少しごつごつしているのに、しなやかで、そして優しく。
「そして、これも鍛冶。熱を持ったその時は、決して逃しちゃいけない。
形を変えられるその時を見極めて、打ち直すこと――」
ゆっくりと蛍が立ち上がって、僕に触れそうなほど身体を近くに寄せて。
「何より鍛冶は……一人だけじゃ、最高のものは作れない。
分担してくれる誰かや、手伝ってくれる誰かがいて、より良い物が作れる。
作業の合間に一緒に居て、話すことだって楽しい。話さなくたって楽しい。
だから――こうやってあなたがまた熱を持ってくれるまで、待ちたかった」
緩やかに、とても力強く、僕の身体は蛍に抱きしめられ。
「――っ」
ベッドの上に、お互いの身体が転がった。
「どんなに堅い金属だって……形を変えられるし、形は変わってしまう。
でも……”変わってしまう”ことがあるのなら、”変えていける”のと、同じ」
ずっと無気力なまま固まっていた自分が溶けていく。
人肌よりも熱く感じる蛍の体温が、まるで火のように熱く、毛布のように心地いい。
「そうやって変わることに、変わったことに……綺麗も醜いもない、良いも悪いもない。
だから、本当のあなたも偽物のあなたも、どこにもない。
すべてが、あなただから」
目が強く乾燥するような感覚と共に、燃えるような熱さを覚える。
僕の両目から垂れる滴は、目が一つしかない彼女の時と同じくらい、多かったと思う。
「わたしは、そんなあなたが好き。あなたのすべてを好きでいたい。
大好きだから、待っていられた。ただ……それだけ。特別なことじゃない」
彼女を抱きしめ返したいのに、その力さえうまく出せない。
僕が蛍を抱擁する権利なんてあるのかと、まだ疑ってしまう。不安になってしまう。
「だめ……だよ……こんな、ぼくが……きみに、いっしょに……いたら……」
言葉にならない嗚咽を漏らす僕に、彼女は優しく、語りかけてくれる。
「いい……頑張らなくていいの、焦らなくてもいいの。
変わってもいいの。変われなくても、いいの。
他のみんながあなたを嫌いで、憎んでいたとしても、関係ない。
あなた自身が、あなたを大嫌いになってもいい。
わたしは好きなの。好きだから、あなたが嫌う以上に、あなたを愛してみせる」
僕を包む、逞しくも柔らかな肢体。
その中に感じる、どんな堅い鉱物も溶かさんばかりに熱い意思。
それは僕の脆弱な罪悪感も無気力も、瞬く間に溶解させていくかのように。
「……っ、あ、あぁ……っ、ほ……たるっ……」
「うん……大丈夫、大丈夫だよ、秀。わたしは、ここに、いるから……」
震える腕を蛍の背中に回し、力のままに抱き締め返す。
僕の意識もまた、彼女に触れる熱で融かされていくように消えていった。
ベッドで二人抱き合ったまま、どれだけ時間が流れたのか分からず。
明かりもなく、とっぷりと暗くなった部屋の中。
気が付くと僕の顔は蛍の豊かな乳房に挟まれていて、ひどく赤面してしまった。
「ほ……蛍、ちょっといいかな」
「うん」
その恥ずかしさが少しだけ落ち着いた後で、僕は顔を上げる。
「また……君の目が、見たくなって」
「……ん」
僕がささやくと、少しだけ彼女は上半身を離して、僕と顔を付き合わせる。
「……やっぱり、綺麗だ」
「そう、言われると……わたしもちょっと、は、恥ずかしい……」
暗がりでも彼女の頬が染まっていくのが見て取れる。
視線に晒されることの恐怖はもう大分和らいでいた。
彼女の大きな目になら、いつまでも見ていたいと、見られていたいと、そう思える。
「……ありがとう、ほたる」
暗い部屋の中で、彼女の薄紫色の瞳は、まるで小さな蛍のように淡く輝いて見えた。
電気も付けず、ぴったりとカーテンの閉じた暗い部屋の中。
頭まで布団を被り、ベッドの中で眼を瞑ってじっとしていると、アパートの玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえた。
そして小さなノック音。数分ほど間を置いて、もう一度チャイムが鳴らされる。
その行動でいつものように彼女が来たのだなと確信した。
鉛のように重く感じる身体をひきずって、僕は玄関の扉を開ける。
「秀(しゅう)、おはよう」
女性にしては低い、静かで落ち着いた声でその女性が話す。
僕と同じくらいの背丈なので、やはり女性にしては大きいだろう。
「……おはよう」
飾り気のない長袖の白いシャツに、デニムのような生地の青いショートパンツと黒いストッキング。
薄赤いショートヘアに、頬を通る二つ結びのおさげ。
額から生えた一本角、そして僕をじっと見つめる薄紫色の大きな一つ目。単眼。
分かってはいたが、そこに立っていたのはやはり”サイクロプス”の蛍(ほたる)だった。
「今、起きたの?」
「いや」
「朝ごはんは?」
「……まだ」
「じゃあ……入るよ」
もういつもの事になってしまったから止める気にもなれず、彼女が家に入ってくるのを僕は黙って眺めていた。
「ごちそうさま」
「ん、どういたしまして……おかわり、いる?
「……いい」
食欲はほとんどないが、食べ物を無駄にはしたくない。蛍が作ってくれた目玉焼きと焼き鮭の朝食をさっさとかき込むと、僕はまたベッドの上に寝転ぶ。
そして彼女の顔を見てしまわないように壁を向いた。
「疲れてるの……秀?」
「……別に」
いつも低めな蛍の声のトーンがさらに落ちて聞こえる。
なのに僕はまた無機質な返事を繰り返してしまう。
「じゃあ……まだ、眠いの?」
「……そうじゃないけど」
「なら……洗濯する。うるさいと思うけど……いっぱい溜まってたから、しておかないと」
「……ああ」
こうして突き放そうとしているのに、蛍はそれについて何ひとつ文句を言わない。言ってくれない。
それどころか、僕の家に来る回数も、僕に言葉を掛ける回数もどんどん増えていくように感じた。
彼女は寡黙で、進んで自分から人と話したがる性分でもなかったはずなのに。
「……どうして、まだ僕に構うんだ……」
僕の呟きは洗濯機の稼働音に覆われ、かき消されていった。
「……」
「……」
洗濯が終わり、衣服を干し終えた後も蛍は黙ってベッドの傍に、つまり僕のそばにじっと座っているらしかった。
テレビをつけることもないから部屋の中は無音のままだ。
音を立てないよう慎重に寝返りを打って彼女の方を向いても、蛍は時おり視線を彷徨わせているだけで――
「……あ」
気づかれないように蛍の様子を見るつもりが、ちょうど蛍も僕を見ようとしていたらしい。
こっちを横目で見る彼女と目が合ってしまった。
僕の方から彼女に目を合わせたのは、何時ぶりになるだろう。
「……っ」
何かを言おうとして、無意識に口が開きそうになるけれど、それはまだ自分の意志で抑えられた。
彼女にこうやって見つめられていることさえ、居心地が悪い。
見ないでほしい。
だけど、それは口にしたくないと思ってしまい――また何も出来ないまま、少しだけ無音の時間が流れる。
「秀」
「……何」
「もう少し……そばに行っても、いい?」
もう蛍はすでに僕のベッドのすぐ横に座っている。
僕が寝転んだままでも、身体を近づけて手を伸ばせば届くぐらいの距離だ。
「……それは」
そんなことを蛍が言うのは、ここに来るようになってから初めてだったかもしれない。
これ以上近づくのは、僕に触れようとするのと同じ。
そんなことぐらい蛍だって分かって言っているはずだ。
「……秀」
蛍がゆっくりと身体を立たせ、僕の方へ手を伸ばそうとする。
「う……っ……」
彼女から、森の瑞々しさと僅かな金属の匂いが混ざったような、不思議な香りが漂ってくる。
それを意識した瞬間、蛍から目を逸らして僕は叫んだ。
「――やめてくれ!」
視界の端で、彼女の動きがぴったりと止まったのが分かった。
そして僕はもう何も見てしまわないようにと、ぎゅっと目を閉じる。
「これ以上、僕に構うな、」
水の入ったコップが床に落ちたかのように――感情が飛び散る。
「なんで、なんで僕なんかに構うんだ。何がしたいんだ!?
もう放っておいてほしいから、ぶっきらぼうな態度を取り続けてきたのに、まだ分かってくれないのか……!
言われなきゃわからないなら、今言ってやる!」
僕は何を言っているんだ。
「人の家に何度も何度も来て、世話を焼くだけ焼いて帰って!
僕の事情も何も、なにひとつ知らないくせに!どんな思いでいたかも知らないくせに!
そうやって黙って、そばに座っているだけで――!」
こんな事をして何になるんだ。彼女を罵倒して、傷つけて。
「それとも蛍は、今の僕が変だって思ってるのか?
こんなの僕じゃない、以前の僕じゃないから、嘘のはずだから、元に戻ってほしいって。
そうなんだろ?どうせ君も結局は、他の奴らと同じことを言いに来たんだろ?
頑張れって、努力しろって!お前ならできるって言うんだろ!
他のみんなもしてきたんだから、お前も味わえって!我慢して、頑張れって!」
そのくせその行為で自分さえ気持ちよくなれないくせに、ただありのままの醜い自分を晒して。
やっぱり僕は最低の、最悪じゃないか。
「そうじゃないんだよ!これが、今の僕が、ほんとの僕なんだよ!
何ひとつ存在する価値も理由もない、クズだ、塵だ!
そのくせこんな、人を罵って傷つけさえする――最低の存在だ!」
自分が何を言っているのか、思っているのか。
感情と理性がぐちゃぐちゃに混ざって、訳が分からない。
「そうだ、僕は、ぼくは……最低だ……!
才能もない、努力も出来ない、人並みの我慢さえできない。
救われるなんて思ってないし、救われたいとも思わない。
自分から助けてほしいと手も伸ばせない――これが屑じゃなくて、なんだ」
こんなことをしたって自分の価値も、纏わりつく罪悪感も、何ひとつ変わらないのに。
何のためにもならない無駄だって、それだけは分かっているのに。
「だから……だから、もう……分かっただろ?
止めてくれって、言っただろ。ちゃんと断っただろ。
僕の意思を、尊重してくれよ。このまま、楽にさせてくれよ……もう、嫌なんだよ」
「……だから、」
僕の怒声が止むと、また部屋は何事もなかったかのように静まり返る。
そして、何ひとつ返事をしなかった蛍のことが、気になった。
気になってしまった。
僕は僅かに目を開いてしまった。
「――っ」
そして。
小さな視界の中でも、蛍の大きな目から涙が零れていることだけは、はっきり分かった。
「……そ、んな……泣くぐらい、で……僕が……気を、変えるとでも……」
誰の前でも涙など見せたことのないはずの、気丈な蛍が、泣いている。
泣かせたのは僕だ。傷つくようなことを言ったのは、僕だ。
胸が痛んだ。比喩でなく、本当にずきずきと鈍く重い痛みを覚えた。
その痛みと罪悪感で頭の中がいっぱいになる。また意識が混濁する。
「……違う」
今喋ったのは僕ではない。
一瞬、僕にはそれが誰の声かすら分からなかった。
「違うよ……秀。あなたのせいじゃない」
呆然とする僕はいつの間にか目をしっかり開いていて、蛍のことをまた見ていた。
「わたしは……悲しいから泣いてるんじゃない。嬉しくて、泣いてるの」
しなやかな指で顔を伝う滴を拭いながら、蛍は続ける。
「やっと、秀がちゃんと話してくれた。自分の思いを話してくれた。
それが嬉しくて……泣いてたの」
震える声の、それでもはっきりとした語勢で、彼女はそう言った。
「なにを……言ってるんだ、蛍。僕が、言ったこと……聞いて、なかった、のか」
「ううん、聞いてた。聞き逃したりしないように、じっと待ってた。
ずっと……そばにいて、待ってた、から」
「……っ、どうして、僕を責めないんだよっ……」
「わたしはちゃんと聞いてた。だから……分かる。
秀がわたしの事を想ってくれてるのは、変わらないって」
「ば……馬鹿な、こと……言うなっ!」
困惑したままの僕にも分かる。顔を拭う手の下で、蛍はたしかに微笑んでいた。
「あんなに入れ込んでた、鍛冶の仕事まで投げ出して……僕の世話をしてたんだろ!
生活を滅茶苦茶にされて、感謝もされず、罵倒までされて……!
なのにずっと、待ってるだけなんて……それで僕の事が、どうして分かるっていうんだ!
なんで笑ってられるんだっ……そんなの、変だ……どうかしてる!」
また語勢を荒げ始めてしまう僕に、蛍は動じない。
「……ごめんね。わたし、”ゲイザー”の子みたいに、便利な魔法は使えないから。
こうするしか、なかったのかもしれない。
でも、これも我儘だけどね、わたしの力で……なんとかしたかった。
わたしは、待つしか出来ないから。そうしたいって……思ったから」
蛍の、薄紫色の大きな瞳が僕を見つめる。
元々彼女の表情は変化に乏しいが、そこには侮蔑も怒りも感じられない。
その大きな瞳には、ひたすらに柔らかな光を湛えていた。
「なん、で……どうして、そんな、ことを……」
「それは……鍛冶と、同じ」
彼女から漂うふわりとした香りが、その目の光が、僕をまた惑わせる。視線が離せない。
「金属たちは、すぐに武器や道具になったりしない。
火を入れて、形を整えて、研削して、また形を整えて――何度も何度も形を変えてようやく、綺麗に輝く。誰かの為になるモノが……完成する。
出来上がった後も……点検や修繕が必要。それはどんな物でもそう、例外はない。
それが出来るまで、待つのが……わたしの仕事。だから待つのは……慣れてる」
放心していた僕の右手が、柔らかい何かで包まれる。
それは彼女の掌だった。
傷跡が多くて少しごつごつしているのに、しなやかで、そして優しく。
「そして、これも鍛冶。熱を持ったその時は、決して逃しちゃいけない。
形を変えられるその時を見極めて、打ち直すこと――」
ゆっくりと蛍が立ち上がって、僕に触れそうなほど身体を近くに寄せて。
「何より鍛冶は……一人だけじゃ、最高のものは作れない。
分担してくれる誰かや、手伝ってくれる誰かがいて、より良い物が作れる。
作業の合間に一緒に居て、話すことだって楽しい。話さなくたって楽しい。
だから――こうやってあなたがまた熱を持ってくれるまで、待ちたかった」
緩やかに、とても力強く、僕の身体は蛍に抱きしめられ。
「――っ」
ベッドの上に、お互いの身体が転がった。
「どんなに堅い金属だって……形を変えられるし、形は変わってしまう。
でも……”変わってしまう”ことがあるのなら、”変えていける”のと、同じ」
ずっと無気力なまま固まっていた自分が溶けていく。
人肌よりも熱く感じる蛍の体温が、まるで火のように熱く、毛布のように心地いい。
「そうやって変わることに、変わったことに……綺麗も醜いもない、良いも悪いもない。
だから、本当のあなたも偽物のあなたも、どこにもない。
すべてが、あなただから」
目が強く乾燥するような感覚と共に、燃えるような熱さを覚える。
僕の両目から垂れる滴は、目が一つしかない彼女の時と同じくらい、多かったと思う。
「わたしは、そんなあなたが好き。あなたのすべてを好きでいたい。
大好きだから、待っていられた。ただ……それだけ。特別なことじゃない」
彼女を抱きしめ返したいのに、その力さえうまく出せない。
僕が蛍を抱擁する権利なんてあるのかと、まだ疑ってしまう。不安になってしまう。
「だめ……だよ……こんな、ぼくが……きみに、いっしょに……いたら……」
言葉にならない嗚咽を漏らす僕に、彼女は優しく、語りかけてくれる。
「いい……頑張らなくていいの、焦らなくてもいいの。
変わってもいいの。変われなくても、いいの。
他のみんながあなたを嫌いで、憎んでいたとしても、関係ない。
あなた自身が、あなたを大嫌いになってもいい。
わたしは好きなの。好きだから、あなたが嫌う以上に、あなたを愛してみせる」
僕を包む、逞しくも柔らかな肢体。
その中に感じる、どんな堅い鉱物も溶かさんばかりに熱い意思。
それは僕の脆弱な罪悪感も無気力も、瞬く間に溶解させていくかのように。
「……っ、あ、あぁ……っ、ほ……たるっ……」
「うん……大丈夫、大丈夫だよ、秀。わたしは、ここに、いるから……」
震える腕を蛍の背中に回し、力のままに抱き締め返す。
僕の意識もまた、彼女に触れる熱で融かされていくように消えていった。
ベッドで二人抱き合ったまま、どれだけ時間が流れたのか分からず。
明かりもなく、とっぷりと暗くなった部屋の中。
気が付くと僕の顔は蛍の豊かな乳房に挟まれていて、ひどく赤面してしまった。
「ほ……蛍、ちょっといいかな」
「うん」
その恥ずかしさが少しだけ落ち着いた後で、僕は顔を上げる。
「また……君の目が、見たくなって」
「……ん」
僕がささやくと、少しだけ彼女は上半身を離して、僕と顔を付き合わせる。
「……やっぱり、綺麗だ」
「そう、言われると……わたしもちょっと、は、恥ずかしい……」
暗がりでも彼女の頬が染まっていくのが見て取れる。
視線に晒されることの恐怖はもう大分和らいでいた。
彼女の大きな目になら、いつまでも見ていたいと、見られていたいと、そう思える。
「……ありがとう、ほたる」
暗い部屋の中で、彼女の薄紫色の瞳は、まるで小さな蛍のように淡く輝いて見えた。
19/01/10 19:52更新 / しおやき