抱き止めた者
もうこのホテルでどのくらい働いているのだろう。
15歳のころからアルバイトとして働いていることも含めれば、それなりの年月になるはずだ。
それだけ働いていれば、嫌なカンも働く。
「いらっしゃいませ、当ホテルへようこそ」
いつものように琴葉は入ってきた客に挨拶する。
「1泊2日でチェックインをお願いします」
その客が琴葉に伝える。
『・・・なんやろか、この客さん・・・妙や』
応対しながら、その客の見えないところで琴葉は違和感に顔を曇らせた。
その客は太い縁のめがねをし、ダークグレーのスーツを身にまとっている。
年齢は30歳前後と言ったところか。
髪型は丁寧に横分けされていた。
一見、ごく普通のサラリーマン。
だが、彼の荷物はこのホテルに来たにしては妙だった。
宿泊するというのに、ビジネスバッグ一つだ。
下着や着替えのことを考えれば、荷物が少なすぎることは明らかだ。
加えて、今日は平日の水曜日・・・この田舎町で羽を伸ばして過ごすような日でもゴルフで遊ぶような日でもない。
一度疑いだすと止まらない。
彼の顔は病的とまではいかないが青白く、やつれているように見える。
目も少し充血していて、最近安眠した様子がない。
「では、こちらがお部屋の鍵となります。お荷物をお預かりしましょうか?」
「っ・・・いや、コレくらいは自分で運ぶよ、ありがとう」
かすかではあったが、その客は狼狽した。
『・・・怪しいわなぁ』
その客が上の階へ姿を消すのを見届けてから、琴葉は母の美琴を呼んだ。
そして今の客がどこか怪しいのを伝えた。
「ふ〜ん、そら確かに怪しいな。危なっかしいわ」
琴葉の報告に美琴は頷いた。
「大丈夫やろか?」
「安心し。うちがなんとかするさかい」
目をぱちくりさせる琴葉に美琴は不敵に微笑むのだった。
「ん? 戻って来はったか」
日付が変わろうとするころ・・・一通り仕事を終え、従業員の部屋でくつろいでいた美琴の前で紙切れがまるで意思を持っているかのように舞い踊る。
紙切れようだが、これは彼女が放っていた式神だ。
特殊な呪文を書き込んだ人型の紙に自分の魔力を込め、自立性をもった分身のように操ることが出来る。
本体が紙切れゆえにできることは限られているが、自分が何かをしている間に監視役とすることくらいは造作もない。
「ほな、うちが直接出向くとするわ」
私物である赤袴の巫女装束に身をつつみ、美琴は従業員室を出る。
そして、例の客が宿泊している部屋の前に行き、気配を殺しながら、妖術・千里眼で中の様子を伺った。
「こんなところか・・・」
斉藤 幸男は静かに万年筆を置いた。
書いたものを封筒に丁寧にしまう。
そしてかばんをごそごそとあさってあるものを取り出す。
それは包丁であった。
彼は絶望していて、今、自らの命を絶とうとしていた。
先ほど書いていたのは遺書だ。
「ろくなことなかった人生も、これで終わりだな」
包丁を逆手に持ち、自分に向けたそのとき
「失礼します」
京都訛りの女性の声が部屋に響き、返事も待たずにふすまが開いた。
そして青く光っているものがものすごい勢いで跳んできて、幸男が持っている包丁を弾き飛ばす。
「な・・・なんだ君は!?」
死のうとしていたところを邪魔した侵入者を幸男は睨む。
見て驚く。
入ってきた者は赤い袴の巫女装束を身にまとった女性であった。
現代のジパングの服にしては、ましてこのホテルで過ごす服としては少々場違いだ。
おかしいのはそれだけでない。
その女性は側頭部から黄金色の獣のようなとがった耳が生えており、腰からは同じく黄金色のふさふさの尾が5本生えていた。
コスプレにしてはリアルで、しかも動いている。
「だ・・・誰だ君は!?」
「うちはこのホテルに住む稲荷の美琴と申します」
癖が強い京都弁でその女性は答える。
『稲荷・・・?』
幸男は魔物のことは聞いたことはあるが見たことなどなく、伝承だけの存在なのではと疑っていた。
それが今目の前にいる。
『夢なのかな?』
頬をつねってみる。
痛かった。
『それでも夢なのかもしれない・・・稲荷といえば・・・そういえばこのホテルの中庭には稲荷神社があるんだっけ?』
幸男は考える。
「お客さん、何をしてはるんですか?」
美琴と名乗った稲荷が話しかけてくる。
いつの間にか包丁は彼女の手にあり、横では青い炎がぷかぷかと浮いていた。
どうやら幸男の包丁を弾き飛ばしたのはその炎だったようだ。
「くっ・・・返せ! 僕はここで自殺するんだ!」
幸男は美琴に襲い掛かったが、美琴はそれをふわりとかわす。
「なんや恐ろしいこと言いなはって・・・自殺なんかしたらあかんでっしゃろ?」
「うるさい! お前に何が分かる!」
幸男が怒鳴ると、美琴はもともと切れ長で鋭い目をさらに吊り上げて睨んだ。
思わず幸男は黙る。
「お客さんかてうちらの気持ちなっと分かっていないとちゃいますか? うちらがどないな思いでお客さんの死をおまわりさんに報告して、血みどろな布団や畳を洗っとるか、考えてくれはったか?」
美琴の言うとおりだ。
幸男はその場に崩れ落ちてしゃくり上げ始めた。
そんな幸男に美琴はそっとしゃがみこんで手をとり、訊ねる。
「良かったら話してくれまへんか?」
美琴は彼の話を聞いた。
彼は幼いころから心も身体も丈夫な方ではなく、学校を休みがちで、勉強についていけず、学校の生徒にいじめられていた。
母親も彼を出産した後の具合が良くなく、彼が4歳の時に息を引き取った。
弱い自分を産んだせいで母親は死んでしまった・・・自分のせいだ・・・どん詰まりの気分だった。
それでも一人努力し、なんとか三流ではあるが大学にも入って、欠席することも多かったがなんとか卒業した。
卒業して就職しようとしたが、また詰まる。
やはり病気で休みがちの人間を雇ってくれる会社はなかった。
就職するまではアルバイトで食いつなぎ、数年前にやっと就職できたかと思ったが、病欠しがちなことを理由に、クビにされてしまった。
肉親は仲の悪い兄のみ・・・彼は頼れない。
誰も頼れず、希望も見えない・・・絶望的だ。
だから自殺しようとしていた。
「そうか・・・難儀やったなぁ・・・」
泣きながら語る幸男の背中をさすりながら美琴はつぶやく。
「もう・・・もう僕は幸せになれないんだ・・・! 生きていたっていいことはもう何もないんだ!!」
幸男の血を吐くような言葉に美琴は胸を痛めた。
こんなとき、職業としてはただのホテルの従業員である自分の無力さにふがいなくなる。
カウンセラーの人とかならこういうときにどうするのだろう?
知っていても、猿まねでは効果がないだろう。
だが・・・美琴は優しく話しかける。
「確かに難儀な人生やったなぁ。この先幸せになれる保障も今はたしかにないかもしれん」
「そ・・・そんな!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を幸男は上げた。
そんな幸男に美琴は笑いかける。
「せやけど、ええことがないって言うのはないと思うよ?」
美琴の言葉に幸男は不思議そうな顔をする。
そんな幸男を美琴は抱きしめた。
弱っているところに優しい言葉をかけられ、さらに母親のように抱きしめられた幸男は、子どもに戻ったかのように美琴の胸に顔をうずめた。
「うふふ・・・今は甘えてもええよ。うちには、あんさんよりは若いけど子どもがいてな・・・だから、困った子や可愛そうな子は放っておけんのや。今はうちを母親と思ってええよ。でも・・・」
美琴は胸にうずめられていた幸男の顔を上げさせてまた笑いかける。
しかしその笑みには優しさでなく、妖しさが満ち溢れていた。
「こないなことは、母親はしいへんけどね」
幸男のくちびるを美琴は奪った。
『なんでこんな展開になったかな?』
下肢から湧き上がる快感をこらえながら幸男はボーっと考えた。
確かに美琴に誘われ、自分も誘いに乗って胸に顔をうずめたりはしたが、いつの間にか美琴に口で愛されている。
考えようとするが・・・
「う・・・うあ・・・!」
美琴のぬめったくちびるに肉棒をしごきあげられ、声をあげてしまう。
友達が少なかった幸男は当然女性関係も少なかった。
そんな彼に美琴の口唇愛撫は強烈だった。
考えることなんてできない。
「んふふふふ・・・」
声をあげて反応する幸男に満足しているかのように、美琴は妖しげに笑う。
そして口を離すと身体を少し幸男の方にずり寄せた。
「ん・・・!? み・・・美琴さん・・・!?」
次の瞬間、幸男は驚いた。
彼の肉棒を美琴が母性あふれるその大きな胸で挟み込んでいた。
「どないや? 子を育てる胸で慰められとる感じは・・・?」
そう言いながら美琴は胸に両手を添え、左右から力を込めてくる。
美琴の胸はふんわりと軟らかく、そして温かかった。
そんなもので自分の分身を包まれ、幸男は快感で身体を震わせる。
「もっと気持ちようなって・・・」
そう言って美琴はよだれを自分の胸の谷間に、そこに挟まっている幸男の肉棒に垂らしていく。
そして胸全体を揺らすような動きで肉棒を刺激する。
幸男の肉棒と美琴の胸がこすれ合い、唾液によってにちゃにちゃといやらしい音が立つ。
その音は幸男が先走り汁をこぼしたことによってさらに大きくなる。
「で・・・出そう・・・!」
「ん? そうやな、そろそろやな。ほなら・・・」
美琴は仰向けになっている幸男にまたがり、花園を二本の指で開いて見せる。
幸男への愛撫で興奮していたのだろう。
そこはもうすでに蜜をとろりとこぼしていた。
「行きますぇ・・・ん・・・あふっ・・・!」
「う・・・うおお!」
ぬちゅっといやらしい音をたて、幸男が美琴に飲み込まれる。
「ああ・・・ええわ・・・ねぇ、幸男さんもええやろ?」
腰を動かしながら美琴が訊ねる。
「うん・・・いい・・・気持ちいい・・・」
「ほら、言った。『いい』って・・・やっぱり、ええことがなかったわけやないやないか」
熱に浮かされたように答えた幸男に美琴は動きを止め、にこりと笑いかけた。
『そうだ、その前は・・・』
ようやく自分が、自分の未来に絶望して自殺しようとしてこのホテルに来たことを思い出した。
しかし、そんなことなど今の快楽ですっかり忘れていた。
絶望の原因となる根本的な事態が解決されたわけじゃないが・・・
『確かに生きてさえいれば、なんとかなるかもしれないな・・・』
幸男は身体を起こす。
目には希望の光が一筋指していた。
その様子が分かったのか、美琴は優しく微笑む。
「もう、前を向いて歩けるな?」
「ああ・・・」
美琴はギュッと幸男を抱きしめた。
「幸男さんが元気になって、うち、嬉しい」
そう言いながら美琴は再び腰を動かし始めた。
「う・・・うああ・・・」
再び襲ってきた快感に幸男は美琴にしがみつく。
しがみつくと先ほど自分を愛撫していた母性の象徴が美琴の動きに合わせて目の前で揺れていた。
思わず、幸男はその胸の頂に吸いつく。
「ひゃん!」
突然乳首を吸いつかれて声を挙げた美琴だったが、すぐに嬉しそうにほほ笑む。
「ふふふ・・・大きなややこやなぁ・・・ええよ、たっぷり甘えよし」
許されたら止まらない。
母乳が出るわけではないが、咥えていると不思議と安心感が幸男を満たした。
幸男は夢中になって美琴の胸を吸う。
美琴も快楽におぼれているらしく、甘い吐息を漏らしながら幸男の上で腰を揺らし、踊っていた。
「んっ・・・んんっ・・・」
凄まじい快感で意識が持っていかれそうになる。
それは美琴も同じようだった。
上を向いて白い喉を見せて、喘いでいる。
「う・・・イキそう・・・」
迫ってくる射精感に幸男が声を漏らす。
「ええよ、そのまま出しても・・・一番気持ちいいときに出して・・・」
そう言って美琴は追い込みにかかった。
耐えられるはずもなく、幸男は美琴にしがみついて精を放つ。
「う・・・うあああっ!」
外に出すなんて余裕もなかった。
本当に母親かと錯覚したほど母性あふれる女性の体内に欲望を止め処なく吐き出す。
射精とともに意識がだんだん重たく、混濁していく・・・
だがその中で、幸男は美琴がまるで女神のように美しい微笑を浮かべて一言、自分に言うのを聞いた。
「きっと大丈夫・・・今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
チチチ・・・
「うっ・・・?」
爽やかな鳥の鳴き声で幸男は目を覚ました。
「ううん・・・」
突っ伏していた身体を起こして伸びをする。
・・・突っ伏していた?
「あれ?」
幸男は自分の姿を見て驚いた。
自分はキチンと浴衣を着て、さらにその上から羽織まではおっている。
机の上には自分が夜中に書いていた遺書が置かれている。
『・・・遺書を書き終わったところで寝てしまったのか?』
頭を抱えて考え込む。
『そうすると・・・昨日のことは・・・夢?』
いや、そうとは思えない。
昨日のことは夢にしてはあまりにもリアル・・・
女性の抱きしめたときの柔らかさ、温かさ、肌の感じは身体に残っている・・・
『・・・っと思ったけど、具体的には思い出せない・・・やはり夢だったのかな?』
彼女の名前すら思い出せない。
だが、最後だけははっきりと覚えている。
薄れ行く意識の中、頭に黄金色の獣の耳を生やした美しい女性が、神々しい微笑を浮かべて自分に言ってくれたのを・・・
「きっと大丈夫・・・今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
これははっきりと覚えている。
『夢か幻か現実か・・・どれにせよ、あの稲荷が絶望の淵にいた僕を助けてくれたのは事実だな・・・』
窓に歩み寄り、中庭を見下ろす。
そこにはこのホテルの名物、稲荷神社があった。
『まさに神の使いってところだったかな・・・? お参りしていこうか』
ここに来たときの気持ちを振り切り、幸男は帰り支度を始める・・・
昨日の危うげな客が、すがすがしい顔でフロントに下りて来たことに琴葉は非常に驚いた。
琴葉を見てなぜか男も驚いた顔をするが、すぐにその顔は消える。
「いや、似ているけどちょっと違うな・・・」
と言った気がした。
「おはようございます」
「チェックアウトを頼みます」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
うまく行ったのだろうなと思いながら琴葉は清算など、チェックアウトの手続きを済ませる。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
「ありがとう。あ、それから・・・あの神社ってお参りできますか?」
「ええ、できますよ」
どうやら母は本当にこの客、斉藤 幸男を救ったらしい。
中庭に続くガラス戸をあけ、神社に案内する。
幸男は神社にお参りをし、お守りをひとつ買ってそのホテルを去った。
「・・・帰りはったよ、母さま」
玄関を出て歩きだした幸男を見ながら琴葉はフロントの奥に声をかけた。
そっと美琴が出てくる。
夢ということにしておいた記憶が蘇えられると困るため、隠れていたのだ。
「母さま、ほんまに救ったんやなぁ」
「当たり前や。うちを誰だと思ってるんどす?」
「このホテルを守っている稲荷どす」
「ん、よろしい」
「まぁ、どないな方法で救ったかは訊かんとおきやす」
琴葉の言葉を涼しい顔で受け流す。
多少みだりがわしかったとは言え、救えたことは事実だ。
美琴はもう見えない背中に向かってつぶやいた。
「きっと大丈夫・・・あんさんの名前は、幸男・・・幸せな男や。今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
15歳のころからアルバイトとして働いていることも含めれば、それなりの年月になるはずだ。
それだけ働いていれば、嫌なカンも働く。
「いらっしゃいませ、当ホテルへようこそ」
いつものように琴葉は入ってきた客に挨拶する。
「1泊2日でチェックインをお願いします」
その客が琴葉に伝える。
『・・・なんやろか、この客さん・・・妙や』
応対しながら、その客の見えないところで琴葉は違和感に顔を曇らせた。
その客は太い縁のめがねをし、ダークグレーのスーツを身にまとっている。
年齢は30歳前後と言ったところか。
髪型は丁寧に横分けされていた。
一見、ごく普通のサラリーマン。
だが、彼の荷物はこのホテルに来たにしては妙だった。
宿泊するというのに、ビジネスバッグ一つだ。
下着や着替えのことを考えれば、荷物が少なすぎることは明らかだ。
加えて、今日は平日の水曜日・・・この田舎町で羽を伸ばして過ごすような日でもゴルフで遊ぶような日でもない。
一度疑いだすと止まらない。
彼の顔は病的とまではいかないが青白く、やつれているように見える。
目も少し充血していて、最近安眠した様子がない。
「では、こちらがお部屋の鍵となります。お荷物をお預かりしましょうか?」
「っ・・・いや、コレくらいは自分で運ぶよ、ありがとう」
かすかではあったが、その客は狼狽した。
『・・・怪しいわなぁ』
その客が上の階へ姿を消すのを見届けてから、琴葉は母の美琴を呼んだ。
そして今の客がどこか怪しいのを伝えた。
「ふ〜ん、そら確かに怪しいな。危なっかしいわ」
琴葉の報告に美琴は頷いた。
「大丈夫やろか?」
「安心し。うちがなんとかするさかい」
目をぱちくりさせる琴葉に美琴は不敵に微笑むのだった。
「ん? 戻って来はったか」
日付が変わろうとするころ・・・一通り仕事を終え、従業員の部屋でくつろいでいた美琴の前で紙切れがまるで意思を持っているかのように舞い踊る。
紙切れようだが、これは彼女が放っていた式神だ。
特殊な呪文を書き込んだ人型の紙に自分の魔力を込め、自立性をもった分身のように操ることが出来る。
本体が紙切れゆえにできることは限られているが、自分が何かをしている間に監視役とすることくらいは造作もない。
「ほな、うちが直接出向くとするわ」
私物である赤袴の巫女装束に身をつつみ、美琴は従業員室を出る。
そして、例の客が宿泊している部屋の前に行き、気配を殺しながら、妖術・千里眼で中の様子を伺った。
「こんなところか・・・」
斉藤 幸男は静かに万年筆を置いた。
書いたものを封筒に丁寧にしまう。
そしてかばんをごそごそとあさってあるものを取り出す。
それは包丁であった。
彼は絶望していて、今、自らの命を絶とうとしていた。
先ほど書いていたのは遺書だ。
「ろくなことなかった人生も、これで終わりだな」
包丁を逆手に持ち、自分に向けたそのとき
「失礼します」
京都訛りの女性の声が部屋に響き、返事も待たずにふすまが開いた。
そして青く光っているものがものすごい勢いで跳んできて、幸男が持っている包丁を弾き飛ばす。
「な・・・なんだ君は!?」
死のうとしていたところを邪魔した侵入者を幸男は睨む。
見て驚く。
入ってきた者は赤い袴の巫女装束を身にまとった女性であった。
現代のジパングの服にしては、ましてこのホテルで過ごす服としては少々場違いだ。
おかしいのはそれだけでない。
その女性は側頭部から黄金色の獣のようなとがった耳が生えており、腰からは同じく黄金色のふさふさの尾が5本生えていた。
コスプレにしてはリアルで、しかも動いている。
「だ・・・誰だ君は!?」
「うちはこのホテルに住む稲荷の美琴と申します」
癖が強い京都弁でその女性は答える。
『稲荷・・・?』
幸男は魔物のことは聞いたことはあるが見たことなどなく、伝承だけの存在なのではと疑っていた。
それが今目の前にいる。
『夢なのかな?』
頬をつねってみる。
痛かった。
『それでも夢なのかもしれない・・・稲荷といえば・・・そういえばこのホテルの中庭には稲荷神社があるんだっけ?』
幸男は考える。
「お客さん、何をしてはるんですか?」
美琴と名乗った稲荷が話しかけてくる。
いつの間にか包丁は彼女の手にあり、横では青い炎がぷかぷかと浮いていた。
どうやら幸男の包丁を弾き飛ばしたのはその炎だったようだ。
「くっ・・・返せ! 僕はここで自殺するんだ!」
幸男は美琴に襲い掛かったが、美琴はそれをふわりとかわす。
「なんや恐ろしいこと言いなはって・・・自殺なんかしたらあかんでっしゃろ?」
「うるさい! お前に何が分かる!」
幸男が怒鳴ると、美琴はもともと切れ長で鋭い目をさらに吊り上げて睨んだ。
思わず幸男は黙る。
「お客さんかてうちらの気持ちなっと分かっていないとちゃいますか? うちらがどないな思いでお客さんの死をおまわりさんに報告して、血みどろな布団や畳を洗っとるか、考えてくれはったか?」
美琴の言うとおりだ。
幸男はその場に崩れ落ちてしゃくり上げ始めた。
そんな幸男に美琴はそっとしゃがみこんで手をとり、訊ねる。
「良かったら話してくれまへんか?」
美琴は彼の話を聞いた。
彼は幼いころから心も身体も丈夫な方ではなく、学校を休みがちで、勉強についていけず、学校の生徒にいじめられていた。
母親も彼を出産した後の具合が良くなく、彼が4歳の時に息を引き取った。
弱い自分を産んだせいで母親は死んでしまった・・・自分のせいだ・・・どん詰まりの気分だった。
それでも一人努力し、なんとか三流ではあるが大学にも入って、欠席することも多かったがなんとか卒業した。
卒業して就職しようとしたが、また詰まる。
やはり病気で休みがちの人間を雇ってくれる会社はなかった。
就職するまではアルバイトで食いつなぎ、数年前にやっと就職できたかと思ったが、病欠しがちなことを理由に、クビにされてしまった。
肉親は仲の悪い兄のみ・・・彼は頼れない。
誰も頼れず、希望も見えない・・・絶望的だ。
だから自殺しようとしていた。
「そうか・・・難儀やったなぁ・・・」
泣きながら語る幸男の背中をさすりながら美琴はつぶやく。
「もう・・・もう僕は幸せになれないんだ・・・! 生きていたっていいことはもう何もないんだ!!」
幸男の血を吐くような言葉に美琴は胸を痛めた。
こんなとき、職業としてはただのホテルの従業員である自分の無力さにふがいなくなる。
カウンセラーの人とかならこういうときにどうするのだろう?
知っていても、猿まねでは効果がないだろう。
だが・・・美琴は優しく話しかける。
「確かに難儀な人生やったなぁ。この先幸せになれる保障も今はたしかにないかもしれん」
「そ・・・そんな!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を幸男は上げた。
そんな幸男に美琴は笑いかける。
「せやけど、ええことがないって言うのはないと思うよ?」
美琴の言葉に幸男は不思議そうな顔をする。
そんな幸男を美琴は抱きしめた。
弱っているところに優しい言葉をかけられ、さらに母親のように抱きしめられた幸男は、子どもに戻ったかのように美琴の胸に顔をうずめた。
「うふふ・・・今は甘えてもええよ。うちには、あんさんよりは若いけど子どもがいてな・・・だから、困った子や可愛そうな子は放っておけんのや。今はうちを母親と思ってええよ。でも・・・」
美琴は胸にうずめられていた幸男の顔を上げさせてまた笑いかける。
しかしその笑みには優しさでなく、妖しさが満ち溢れていた。
「こないなことは、母親はしいへんけどね」
幸男のくちびるを美琴は奪った。
『なんでこんな展開になったかな?』
下肢から湧き上がる快感をこらえながら幸男はボーっと考えた。
確かに美琴に誘われ、自分も誘いに乗って胸に顔をうずめたりはしたが、いつの間にか美琴に口で愛されている。
考えようとするが・・・
「う・・・うあ・・・!」
美琴のぬめったくちびるに肉棒をしごきあげられ、声をあげてしまう。
友達が少なかった幸男は当然女性関係も少なかった。
そんな彼に美琴の口唇愛撫は強烈だった。
考えることなんてできない。
「んふふふふ・・・」
声をあげて反応する幸男に満足しているかのように、美琴は妖しげに笑う。
そして口を離すと身体を少し幸男の方にずり寄せた。
「ん・・・!? み・・・美琴さん・・・!?」
次の瞬間、幸男は驚いた。
彼の肉棒を美琴が母性あふれるその大きな胸で挟み込んでいた。
「どないや? 子を育てる胸で慰められとる感じは・・・?」
そう言いながら美琴は胸に両手を添え、左右から力を込めてくる。
美琴の胸はふんわりと軟らかく、そして温かかった。
そんなもので自分の分身を包まれ、幸男は快感で身体を震わせる。
「もっと気持ちようなって・・・」
そう言って美琴はよだれを自分の胸の谷間に、そこに挟まっている幸男の肉棒に垂らしていく。
そして胸全体を揺らすような動きで肉棒を刺激する。
幸男の肉棒と美琴の胸がこすれ合い、唾液によってにちゃにちゃといやらしい音が立つ。
その音は幸男が先走り汁をこぼしたことによってさらに大きくなる。
「で・・・出そう・・・!」
「ん? そうやな、そろそろやな。ほなら・・・」
美琴は仰向けになっている幸男にまたがり、花園を二本の指で開いて見せる。
幸男への愛撫で興奮していたのだろう。
そこはもうすでに蜜をとろりとこぼしていた。
「行きますぇ・・・ん・・・あふっ・・・!」
「う・・・うおお!」
ぬちゅっといやらしい音をたて、幸男が美琴に飲み込まれる。
「ああ・・・ええわ・・・ねぇ、幸男さんもええやろ?」
腰を動かしながら美琴が訊ねる。
「うん・・・いい・・・気持ちいい・・・」
「ほら、言った。『いい』って・・・やっぱり、ええことがなかったわけやないやないか」
熱に浮かされたように答えた幸男に美琴は動きを止め、にこりと笑いかけた。
『そうだ、その前は・・・』
ようやく自分が、自分の未来に絶望して自殺しようとしてこのホテルに来たことを思い出した。
しかし、そんなことなど今の快楽ですっかり忘れていた。
絶望の原因となる根本的な事態が解決されたわけじゃないが・・・
『確かに生きてさえいれば、なんとかなるかもしれないな・・・』
幸男は身体を起こす。
目には希望の光が一筋指していた。
その様子が分かったのか、美琴は優しく微笑む。
「もう、前を向いて歩けるな?」
「ああ・・・」
美琴はギュッと幸男を抱きしめた。
「幸男さんが元気になって、うち、嬉しい」
そう言いながら美琴は再び腰を動かし始めた。
「う・・・うああ・・・」
再び襲ってきた快感に幸男は美琴にしがみつく。
しがみつくと先ほど自分を愛撫していた母性の象徴が美琴の動きに合わせて目の前で揺れていた。
思わず、幸男はその胸の頂に吸いつく。
「ひゃん!」
突然乳首を吸いつかれて声を挙げた美琴だったが、すぐに嬉しそうにほほ笑む。
「ふふふ・・・大きなややこやなぁ・・・ええよ、たっぷり甘えよし」
許されたら止まらない。
母乳が出るわけではないが、咥えていると不思議と安心感が幸男を満たした。
幸男は夢中になって美琴の胸を吸う。
美琴も快楽におぼれているらしく、甘い吐息を漏らしながら幸男の上で腰を揺らし、踊っていた。
「んっ・・・んんっ・・・」
凄まじい快感で意識が持っていかれそうになる。
それは美琴も同じようだった。
上を向いて白い喉を見せて、喘いでいる。
「う・・・イキそう・・・」
迫ってくる射精感に幸男が声を漏らす。
「ええよ、そのまま出しても・・・一番気持ちいいときに出して・・・」
そう言って美琴は追い込みにかかった。
耐えられるはずもなく、幸男は美琴にしがみついて精を放つ。
「う・・・うあああっ!」
外に出すなんて余裕もなかった。
本当に母親かと錯覚したほど母性あふれる女性の体内に欲望を止め処なく吐き出す。
射精とともに意識がだんだん重たく、混濁していく・・・
だがその中で、幸男は美琴がまるで女神のように美しい微笑を浮かべて一言、自分に言うのを聞いた。
「きっと大丈夫・・・今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
チチチ・・・
「うっ・・・?」
爽やかな鳥の鳴き声で幸男は目を覚ました。
「ううん・・・」
突っ伏していた身体を起こして伸びをする。
・・・突っ伏していた?
「あれ?」
幸男は自分の姿を見て驚いた。
自分はキチンと浴衣を着て、さらにその上から羽織まではおっている。
机の上には自分が夜中に書いていた遺書が置かれている。
『・・・遺書を書き終わったところで寝てしまったのか?』
頭を抱えて考え込む。
『そうすると・・・昨日のことは・・・夢?』
いや、そうとは思えない。
昨日のことは夢にしてはあまりにもリアル・・・
女性の抱きしめたときの柔らかさ、温かさ、肌の感じは身体に残っている・・・
『・・・っと思ったけど、具体的には思い出せない・・・やはり夢だったのかな?』
彼女の名前すら思い出せない。
だが、最後だけははっきりと覚えている。
薄れ行く意識の中、頭に黄金色の獣の耳を生やした美しい女性が、神々しい微笑を浮かべて自分に言ってくれたのを・・・
「きっと大丈夫・・・今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
これははっきりと覚えている。
『夢か幻か現実か・・・どれにせよ、あの稲荷が絶望の淵にいた僕を助けてくれたのは事実だな・・・』
窓に歩み寄り、中庭を見下ろす。
そこにはこのホテルの名物、稲荷神社があった。
『まさに神の使いってところだったかな・・・? お参りしていこうか』
ここに来たときの気持ちを振り切り、幸男は帰り支度を始める・・・
昨日の危うげな客が、すがすがしい顔でフロントに下りて来たことに琴葉は非常に驚いた。
琴葉を見てなぜか男も驚いた顔をするが、すぐにその顔は消える。
「いや、似ているけどちょっと違うな・・・」
と言った気がした。
「おはようございます」
「チェックアウトを頼みます」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
うまく行ったのだろうなと思いながら琴葉は清算など、チェックアウトの手続きを済ませる。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
「ありがとう。あ、それから・・・あの神社ってお参りできますか?」
「ええ、できますよ」
どうやら母は本当にこの客、斉藤 幸男を救ったらしい。
中庭に続くガラス戸をあけ、神社に案内する。
幸男は神社にお参りをし、お守りをひとつ買ってそのホテルを去った。
「・・・帰りはったよ、母さま」
玄関を出て歩きだした幸男を見ながら琴葉はフロントの奥に声をかけた。
そっと美琴が出てくる。
夢ということにしておいた記憶が蘇えられると困るため、隠れていたのだ。
「母さま、ほんまに救ったんやなぁ」
「当たり前や。うちを誰だと思ってるんどす?」
「このホテルを守っている稲荷どす」
「ん、よろしい」
「まぁ、どないな方法で救ったかは訊かんとおきやす」
琴葉の言葉を涼しい顔で受け流す。
多少みだりがわしかったとは言え、救えたことは事実だ。
美琴はもう見えない背中に向かってつぶやいた。
「きっと大丈夫・・・あんさんの名前は、幸男・・・幸せな男や。今まではそうやなくとも、生きていれば何かしら、きっと・・・」
11/05/12 19:11更新 / 三鯖アキラ(旧:沈黙の天使)