下
「鳥の幸福とは、何なのだろうな」
しばらくぶりに訪れた遊郭の宿屋にて。
じっと窓の外を見ていた男が、唐突に言った。
何の前触れも無い言葉の真意を探るべく、傍らに座っていたヨシノも外を見る。
しかし、日暮れの空には鳥など一羽も飛んでいない。ただ、顔を出し始めた星々が見えるだけであった。
それでもずっと空を眺め続けている男を不思議がって、ヨシノは首を傾げる。
「鳥、でございますか?」
「ああ。それも、人に飼われているような、籠の鳥だ」
諧謔とはかけ離れた、重苦しい声色。
眉間に皺を寄せ、どこか遠くを睨み付けている。
男が何かを腹に抱えているのは、誰が見ても明らかであった。
「……憂いを、抱いていらっしゃるのですね」
「そんな立派なものではない。ただ、買われていく鳥を見ていると時々思うのだ。食うに困らぬとは言っても、翼もろくに広げられずに生きるというのは幸福であるのか、とな」
どこか含みを感じさせながらも、今一つ真意のはっきりしない疑問だった。
それに倣うようにして、ヨシノも曖昧に、言葉を濁して答える。
「たとえ籠の中にあろうとも、寵愛を受けられるのならば……それが、幸福なのではないでしょうか」
「……そうか?」
「ええ。それに、籠の外も知らぬ鳥は、羽ばたく喜びなども知らないでしょう。私は、そう思いますよ」
「……成程」
納得したというよりも、単に会話を終えるためだけの首肯をして、男は引き続き窓の外を睨み付けた。
ヤナギ曰く、あの日鳥屋に集まっていた鳩たちは、ほとんどが知人の飼っている伝書鳩であったらしい。
何か事情でもあるのだろう。「近いうちに長く店を空ける事になるかもしれん」と言いながら、ヤナギはその知人と頻繁に手紙をやり取りするようになった。
そんな手紙を運ぶために慌しく往復を繰り返す鳩たちの中には、あの鳩もいる。
文鳥と歌う、奇妙な鳩。
仲間が餌をつついていても、一羽だけ都度都度文鳥の籠の足下までやってきては、しばしさえずりを交わし、やがて仲間を追って飛び去る。
信じがたい話だが、二羽の間に奇妙な絆があるのは気のせいなどでは無かったらしい。
「……籠の外が、恋しくはならんのか」
鳩と文鳥の事を考えていたはずであった男は、気付けばそんな事を口にしていた。
そして、それがまるで何かを責めるような口調であった事に驚いたのは、他ならぬ男自身であった。
取り繕おうと慌てて首を横に振り、眉間を押さえてため息をつく。
「いや、すまん。今日はどうも調子がおかしいようだ。忘れてくれ」
しかし、ヨシノは多少驚いた風ではあったものの、決して機嫌を損ねた様子は無かった。
落ち着き払い、ただ、男の隣で微笑む。
「……私が良く知る、一羽の鳥の話をいたしましょう」
そして共に外を見つめたまま、一つ二つと間を置いてから、語り出した。
「その鳥は、とある見せ物小屋の籠の中で生まれました。いえ、正確に述べますと、まるで湧いて出たように、気付いた時には籠の中にあったのです」
ヨシノの凛と澄んだ声が、静かな部屋に響く。
「雛として親鳥に育てられた記憶も無く、おぼつかない羽ばたきで巣立った覚えも無い。それでも、そこで生きるための振る舞いだけは教わらずとも知っておりました。すなわち、鳴き、踊り、楽しませるという事を。そのためでしょうか。籠の内に現れた鳥を見せ物小屋の主も訝しがりはしましたが、結局、その鳥を追い払うのではなく、籠に閉じ込める事にしました。他に飼っていた鳥たちと、同じように」
相槌も打たず聞き役に徹していた男が、横目でヨシノの顔を盗み見ようと試みた。
しかし、長い髪に隠された表情は隣からでは窺えず、今までの振る舞いから推す事しかできない。
滔々と語りながらも、僅かに俯いている。おそらく、目は閉ざしているだろう。
「見せ物小屋の中で、鳥はひたすらにさえずり、踊り続けました。ですが、鳥はそれを不幸とは思ってはおりませんでした。契機を迎えるまで、それ以外の事など知らなかったのですから」
おもむろに、ヨシノは髪に差したかんざしに触れた。
遊女の飾りとしてはいささか小さなかんざしを、愛しげに撫でる。
「……とある方に、籠の内へと手を伸ばして語りかけられた時。その鳥は、自分が本当は何を望んでいたのか。何故籠の中にいたのかを、知りました」
そこで一度、言葉を切った。
別室で催されている宴席は、相当に興が乗っているらしい。
沈黙の訪れた部屋の中にまで、歌う声や踊る足音が聞こえてきている。
「……籠から逃げ出す事は、望まなかったのか?」
しばらく黙っていた男が、不意に尋ねた。
その問いかけに、ヨシノは首を横に振って否定する。
「……籠を開ける術も、そこから羽ばたく術も知らないというのもありましょう。しかし、飛び立つには、その鳥はあまりにも臆病なのです」
臆病。
果たしてそうだろうかと、男は考える。
あるいは、籠を開け放てば、野に住む鳥たちと同じように空を舞うのではないか。
「……それで、その鳥は今どうしているのだ」
「……籠の内で、幸福そうにさえずっております」
「幸福、か」
自虐的な響きに満ちたその言葉を聞き、男の顔に歪な作り笑いが浮かんだ。
そのまま、いつの間にか昇っていた満月を一瞥し、その明るさに目を細める。
橙色に光る置行灯と満月は、十分なほどに夜の宿を照らしてくれている。流れた髪の隙間から覗くヨシノの目も、しっかりと見える程度には。
「……その鳥は、籠から引きずり出されても幸福に暮らせると思うか?」
月を見つめたままの男の問いかけに、ヨシノは整った眉を八の字に曲げた。
それでいて、口元には微笑を浮かべたまま、愛らしく小首を傾げる。
「そればかりは、私にも……」
「そうか。それは、残念だ」
障子窓を閉め、僅かに暗くなった部屋の中。男は心底残念そうな口ぶりで言い、目を閉じて細く息を吐く。
しかし、その声とは裏腹に、波立っていた男の胸中は随分と落ち着いていた。
これは、あくまでもどこかの鳥の話である。
そう思い込むだけで、渦中にあった時とは比べ物にならないほど冷静に物を考えられる。
これが意図的な会話の運びであるのならば見習いたいものだと、感心すら覚える。
とにかく、そのおかげで言いたい事も、求めていた事もはっきりした。
目には見えない覚悟を決めて。
大きく息を吸い込み、一息で、男は言った。
「その鳥に最初に手を伸ばしたものは、今ではすっかり虜になって、無理やり連れ出してでも鳥を自分だけのものにしたいとまで思っている……ような気がするのだが」
「っ……」
ヨシノの切れ長の目が、驚きに丸くなる。
「それは……その……」
何かを言わなければ。でも、何と答えるべきか。
行灯の光だけでは説明が付かない程に頬を赤らめたヨシノは、そんな風に考えているように見えた。
その姿にささやかな優越感と達成感を得た男は、乾いたままだった猪口を手にして、微笑んだ。
「酌を、頼めるか?」
「……はい」
同じように優しく微笑んで、空の猪口にヨシノが酒を注ぐ。
小さな器を満たす、いつも通りの辛口の酒。
それは何かを反射するでも無く、ただ透き通っている。
「かんざし、着けてくれているのだな」
今のヨシノの髪を飾っているのは、かつて着けていた豪奢な髪飾りではなく、男が贈った異国の小さなかんざし一つだけ。
それも、手馴れている者が着けたのだろう。曲がっているような事も無いそれは、美しい髪に添えられた一本の華となり、互いを引き立たせている。
「一時も離さず、身に着けております」
「そこまで大事にされると贈った甲斐があるというものだ。だが、流石に風呂は床では外しているのだろう?」
「いいえ。万が一にもこれを失うような事があってしまえば、私は自らに刃を突き立てかねないほどの悔恨に苛まれるでしょうから」
「また随分と大袈裟だな、と言いたいところだが……」
間を置くために、男は猪口の中身を呷る。
それから、右手に巻かれた組紐へと視線を落として、口の端を吊り上げる不器用な笑みをこぼした。
「気持ちは、分からんでもない」
細く柔らかく、それでいて決して切れる事は無い。
上質な絹糸にも似たヨシノの髪で編まれたそれは、本来の持ち主を離れて久しいというのに未だに艶を失う気配は無い。
どうやっても外せない飾りとなってしまったのにもはじめは戸惑ったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。
「……少し、妬ましく思ってしまいます」
「……?」
突然、何を言い出すのか。
悲しげに目を細めて組紐を見つめているヨシノに、男は眉を顰めて疑問を呈した。
「妬ましい?」
「はい。私が独り自らを慰めている間も、その組紐はあなた様と共にある……そう思うと、自らの髪にすら嫉妬してしまいます」
「これも、ヨシノの髪だ。ならば、俺がこれを大事に思うのは、ヨシノを想っているのも同じ。そのつもりで、くれたのだろう?何を妬く事があるというのだ」
「それは、そうなのですが……」
どうにも歯切れの悪いヨシノの返事に、肩を竦める。
しかし、意図的に避けたが、若干引っかかりを感じた箇所に踏み込んで良いものだろうか。
ここは聞かなかった事にするべきか。
あまりにも平然と、「自らを慰める」などと言われてしまうと、それを邪な意味で取ってしまった自分が間違っているのではないか。
胸中の葛藤を押し隠して、男は曖昧な笑みを相槌代わりにしていたが、
「……その髪は、私の代わりに、あなた様の情欲を受けた事もあるのでしょう?」
その言葉に、空の猪口を持ったまま思わず肩を跳ねさせた。
確かに、この髪を見ていると時折妙な興奮を覚えてしまうことはあった。しかしその度に、それはあくまでもヨシノへの慕情であると自分を納得させていた。
髪に触れただけ。それも、本人から離れて飾りとなっているだけの物に獣じみた欲求を抱いてしまうなど異常であると、否定するのに躍起になっていた自覚はある。
なんにせよ、それをヨシノが知っているはずはない。
単なる冗談か、出任せか。しかし何と答えるべきか。
考えが纏まるまでの時間を稼ぐために、酌を求める。だが、待てども待てども一向に猪口が満たされる気配は無い。
「これは決して言うまいと、心に決めていたのですが……」
それどころか、膝立ちになったヨシノに猪口を取り上げられてしまった。
空いたその手に、細い指が絡む。
「私は、常に……あなた様に抱いていただく事ばかりを、考えておりました」
二人の手が離れないように、髪が巻きついてゆく。
その感触に、かつてヨシノの髪を穢した時の事が思い出されてしまい、男は唾を飲んだ。
このまま身を委ねてしまえば、間違い無くあの時と同じ悦楽に浸る事が出来るだろう。
あっという間に膨らんだ欲求に辛うじて耐えながら、声を震わせる。
「ま、待て、ヨシノ……こういう事は、その……なんだ、男の方からするものだろう?」
「はい。私もそう思い、あなた様から求めていただくのを、ずっと待っていました……」
布団の上に押し倒されながらの的外れな言葉も、何ら意味は為さない。
「しかし、いつまで経っても手を出していただけず……清い女が好みであるのかと、はしたない劣情も内に押さえ込んでいたというのに……」
腰に跨ったヨシノが、体を重ね合わせ、男の耳元で囁く。
「……『自分のものにしたい』などと言って、私の箍を外したのは、あなた様ですからね?」
熱く湿った吐息と共に、長く豊かな濡烏の髪が蠢く。
意志のある縄のように、それは男に絡みつき、縛り、撫でる。
「さあ、どのように愛し合いましょう。あの日のように、このまま髪で……と言うのも良いかもしれませんが……」
そう呟くヨシノは、今や発情した獣であった。
目には妖しく光を湛え、火照った体が触れ合うだけで快感に身を震わせている。
貪られるのも、やぶさかではない。
そんな考えも頭を過ぎった。
しかし、男はほんの僅かな、些細な意地のようなものから、腹を括り、名を呼んだ。
「……ヨシノ」
「はい……っ!?」
こちらの目を見るためにヨシノが顔を上げた瞬間。
繋がれていなかった手で、ぐいと頭を引き寄せ、唇を重ねた。
それは、強引で短い、稚拙な接吻だった。
無理やり引き寄せたために歯がぶつかり痛みに呻くほどの、情緒も何も無い行為。
それでも。
顔を離したヨシノは、そんな拙い行為にすっかり惚けてしまっていた。
「こういうのは、口吸いから始めるものだろう……?」
「あ……ぅ……」
僅かな間に得られた感触を確かめるように、ヨシノは指で自分の唇に触れる。
肉感的な赤い唇を白く細い指がなぞる様は、酷く蠱惑的であった。
その姿に興奮を覚えながらも、さあここからどうするかと男が思った直後。
「もう一度……いえ、一度と言わず……」
体中に髪が巻き付き、頬に手を添えられ、あっという間に身動ぎ一つ出来なくなっていた。
半端な抵抗は逆効果でしかなかったのだと、その時ようやく理解した。これならば、大人しく身を任せるべきだったかもしれないとまで思ってしまう。
だが、そんな後悔も、ヨシノに唇を奪われた瞬間に消え去った。
「んぅ……ふ……っ」
時折漏れる声と、濡れた柔らかい唇の感触。
不慣れでありながらも情熱的な口付けに、心が溶かされる。
「は、ぁ……ん……っ!」
やがて、唇を合わせるだけだったそれは、互いの舌を絡めあうものへと変わっていった。
余す所無く味わわんと、ヨシノの舌が口内を這う。舌を舐り、歯をなぞり、唾液を舐め取る。
そうしてしばらく口での繋がりを楽しんでいたヨシノが、不意に体を震わせた。
男の体に巻きつけた髪も締め付けを増し、繋いだ手にも力が篭る。
何かを我慢するように縮こまったかと思えば、弛緩しきった体を男に預け、間近でじっと男の目を見つめる。
「申し訳、ありません……私だけ、先に達して、しまいました……」
顔を離してそう言ったヨシノの顔は、今まで見たことが無いほどにだらしない笑みを浮かべていた。
呼吸も忘れて唇を貪っていたために肩で息をしてはいるが、それでも言葉は意志のままにはっきりとしている。
「今度は、あなた様も……」
我慢の限界とばかりに、ふらふらと上体を起こしたヨシノが帯を解き、花魁衣装の前を開く。
華美な着物に隠れていた、下着すら着けていない裸体は、興奮によってすっかり紅潮していた。
豊かで形の良い乳房も、桃色の先端も、隠す事無く曝け出す。
そして、細くくびれた腰や、見るだけで分かるほどにしとどに濡れた秘部も。
「……共に、酔いしれましょう」
もはや、順を追って脱がせる事すらもどかしいとばかりに、蠢く髪で男の着物を強引に肌蹴させてしまう。
無理やり外気に晒された、硬くそそり立つ男の肉棒を見下ろし、ヨシノはうっとりとため息をついた。
「あぁ、この瞬間を、どれほど夢見た事でしょう……」
陰茎に上を向かせるために巻きついた髪が、ついでとばかりに裏筋を撫でた。
それだけでも、口付けで十分に昂っていた男のものは面白いように震えて反応する。
静止の言葉を口にしようにも、男は歯を食いしばって、髪で弄ばれる快楽に耐え、あっさりと精を放ってしまいそうになるのを堪える事しかできない。
そんな男の状態を、ヨシノはしっかりと察していた。
悪戯っぽく微笑み、髪を男のものの根元に巻き付かせる。
「いけません。どうか……最初は、私の中で……」
そう言うと、腰を浮かせて、男のものの先端を自らの秘部に宛がった。
そして、一度、二度と深呼吸を繰り返し、一気に、腰を沈めた。
そういった行為の経験は無くとも、ヨシノのそこは、男を受け入れるには十分なほど解れていた。
媚肉を掻き分け愛液にまみれながら、芯の入ったように硬くなった男のものの先端が、こつ、と、ヨシノの一番奥を叩く。
「ひっ……ぐ……」
ただそれだけで、もはや嬌声よりも悲鳴に近い声が、ヨシノの口から零れた。
自慰で外側を弄っていた時とは比べ物にならない、気が狂いそうなほどの快感に目を白黒させる。
跨ったまま動く事もできず、絶頂なのかどうかも分からない快楽の波に息が乱れる。
しかし、それは男もまた同じだった。
熱く柔らかい蜜壺は、ヨシノが動かずとも男の精を奪おうと貪欲に絡みついてくる。
今度ばかりは、耐えられるはずもなかった。
男はほとんど無意識の内に、腰を浮かしてヨシノの中を突き上げ、最奥に押し付けるようにして射精していた。
愛する者に「これは自分のものだ」と印を付けるように、大量の精を配慮も遠慮も無く流し込む。
「あっ、くぅっ……」
既に法悦に浸っていたヨシノにとって、それはあまりにも強すぎる刺激であった。
子宮口を押し上げられ無理やり精を受け入れさせられる、女としての悦びを一遍に与えられたヨシノは、体を仰け反らせてその快感を味わっていたが、やがて腰を抜かして男の上に倒れこんでしまった。
「は……う……」
男は着物にしがみ付かれ、大きく広がった髪に体中へと絡みつかれ、ヨシノの全てに繋がれ、もはや身動ぎ一つできなくなっていた。
それでもどうにかして落ち着きを取り戻そうと深く息をつく男の体に、ヨシノは啄ばむように口付けをした。
ぼんやりとしたまま、更なる快楽を求めて思い通りにならない体を無理やり揺する。
「もっと、もっと、お情を……」
ヨシノが体を揺するたびに、中に放たれた精液が破瓜の血と混ざり合い、結合部から零れ出す。
ぐちゅぐちゅと粘ついた音と、男の苦しげな呼吸。そして、ヨシノの喘ぎ声。
会話も無くなり、ただ、互いの心と体だけを求め合う。
別室から鳴り続けている宴の音も、今の男とヨシノの耳には入っていなかった。
汗ばんだ体を重ね、唇を合わせ、舌を絡め続ける。
理性まで溶かしてしまったような口付けにより、唇の間からは唾液が零れ、布団へと落ちてゆく。
そんな、激しさの欠片も無い緩慢に体を揺するだけの交合は、いつしか二人に溶け合うような快楽をもたらし始めた。
深く息を吸う音も、胸の鼓動も、もはや自分の聞いている物がどちらの物か分からない。
得られている快感も、「もうすぐ限界が近い」というのも、不思議な事に二人分の物に感じてしまう。
「共に……ん、ふぅっ……どうか、私と……」
ヨシノの囁きに、男は無言で頷いた。
快感と口付けで、ただ呼吸を繰り返す事で精一杯、言葉を発する事など到底できない。
体の内に抱えたどろどろとした熱は、今にも溢れ出しそうになっている。
自分のつがいに、自らの欲を全てぶちまけてしまいたい。子を孕ませてやりたい。
獣じみた欲望に男の目が濁る。
ヨシノも男の目を見つめながら、自らの欲望が高まるのを感じていた。
この人の物であると言う証を植えつけられたい。心身まで犯されてしまいたい。
幾度も浅い絶頂を迎えているのに満足しない卑しい体を、壊れるほどの快感で罰して欲しい。
そんな被虐欲にも近い感情が、熱いため息となって漏れ出す。
そして、申し合わせたように。
互いの呼吸が重なった瞬間、二人は共に限界を迎えていた。
ぎゅうと締め付けを増し、蠕動し、精を搾り取ろうとする蜜壺に、膨れ震える怒張がどくどくと精液を放つ。
「っ、んぅっ!」
流れ込んでくる熱い塊と、それがもたらす気が狂いそうな快楽に耐えるように、ヨシノは涙すら浮かべた。
黒髪を余す事無く男の体中に巻きつけ、離れてしまわぬように必死になってしがみ付く。
一度目の精液と、今まさに流れ込んできている精液で、体の奥が一杯になってしまう。
既にヨシノの中には収まらないような状態になっても、男の体は、つがいの雌を孕ませるために精を放ち続けた。
自らの子種で徹底的に犯してやろうとする本能に身を任せ、男はヨシノの体を突き上げる。
悦びのあまりヨシノが涙を零し、喉の奥から搾り出すような喘ぎ声を繰り返し、意識を失いかけた頃になって、ようやく、男のものは精を吐き出すのを止めた。
「ぁ……は……」
荒い息を繰り返す男の上に横たわって、ヨシノはだらしなく笑った。
それは、妖艶さも凛々しさも無い、ただ悦楽だけを求めた雌の顔だった。
そんな状態になってもヨシノの髪は絡みついたまま、男を放そうとはしない。
そうして体を重ねたまま、二人はしばらく余韻に浸った。
心地良い気だるさと体の火照りも、自然に冷めるに任せる。
だが、いくらか落ち着きを取り戻し、自分たちを冷静に省みる余裕が生まれてくると、途端に羞恥心が膨れ上がってしまった。
繋いだ手とそれを覆う髪だけはそのままに、ヨシノは男の上から降り、隣へと体を横たえる。
栓になっていた男の陰茎が抜けたことにより、秘裂からは愛液と精液の混ざったものが零れ出し、その感覚に思わず体を震わせた。
男もまた、落ち着きかけていた劣情がヨシノの動きで再び顔を出してしまい、わざとらしく大きく深呼吸をする。
そして、二人だけだった世界に、ようやく色々なものが戻ってきた。
相変わらずどこかの部屋では飲めや歌えやの宴が続いているようで、調子の外れた器楽の音が聞こえてきている。
その音に消されない、辛うじて聞き取れる程度の声を、ヨシノは乾いた喉から何とか絞り出した。
「本当に、何とお詫びすれば……」
「……まあ、後々の事を思えば、知らぬ姿は無い方が都合が良い……という事にしておこう」
肯定的な事を言いながらも「いささか驚きはしたがな」と男が付け加えたために、ヨシノは一層顔を赤らめ、髪と手でそれを隠してしまった。
かんざしを贈った時もそうだったように、平時は落ち着いていても、感情が昂るとそれを抑えきれない性質なのだろう。
男はそんなヨシノの不思議な二面性に、今更ながら微笑ましい物を感じていた。
しかし、ヨシノ自身は今にも消え入りそうな声で、自らの振る舞いを恥じる。
「はしたない、淫らな女だと……嫌いに、なられましたよね……?」
「別に、ヨシノがどれほど性に貪欲だろうと、今更それを理由に嫌ったりはしない」
「……まことですか?」
「惚れた弱み、とでも言うのか……そうした所すら、その……愛おしい、で良いのかは分からんが……」
男はそこまで言ってから、髪の隙間からヨシノがじっとこちらを見ていた事に気がついた。
潤んだ目に、紅潮した頬。
途端に自分の言葉が小恥ずかしいものだったと思えてしまい、男は視線を宙に彷徨わせてから、口をへの字に曲げた。
「……とにかく、そういう事だ」
照れ隠しに頬を掻こうとしたが、未だにヨシノの髪が巻きついたままの腕は思い通りに上がらず、仕方なく首だけを動かして顔を逸らした。
そして、聞こえてきたヨシノの控えめな笑い声に、もしやと眉を顰める。
「……謀ったな?」
「それは、少々人聞きの悪い言い方でございます。あなた様が真に思っていられる事を知りたい……そう思っただけです」
さも当然のように言いながら、髪を巻きつけ腕を絡めて、ヨシノは男にしがみ付いた。
「私は聡い女ではございません。ですから、言葉にしていただかないと不安になってしまうのです」
「また、そのような事を……」
もはやヨシノの手のひらの上と言った状況ではあるが、それにも決して不満を覚えたりはせず、男はむしろ楽しげに笑う。
これもまた、惚れた弱みか。あるいは、体に巻きつく髪の感触が不思議な安心感をもたらしているためかもしれない。
ヨシノに全身を捕われてしまい、もはや寝返りすら打てないが、何も問題は無い。
触れられている、触れている。
それだけで、以前は口にするのも憚られるほど不安だった言葉も紡げてしまう。
「なあ、ヨシノ」
「なんでございましょう」
「待つのは、嫌いか?」
「……いいえ。ですが、あまり待たされますと、それこそ不安になってしまい、いじけてしまうやもしれません」
「そうか。では、可能な限り急ぐとしよう」
互いに冗談めかした言葉を交わし、笑い合う。
「何を」とは口にせずとも、互いの意思を確認するには何も不便は無かった。
そうしてしばらく、二人は布団の上で何をするでもなく手を繋いでいたが、何か喉に詰まったように、唐突に男が咳払いをした。
「……少し、喉が乾いた」
「では、すぐにお水を……っ」
男に巻きつけていた髪を解き立ち上がったヨシノが着物を整えていると、からん、と軽い音がした。
行為中も終えた後も自在に動かされていたヨシノの髪。
そのせいで髪に差していたかんざしは少しずつ緩んでおり、着物を直すために髪を揺らした弾みでついに畳の上へと落ちてしまった。
言ってしまえばかんざしが外れただけであるのだが、ヨシノは相当に狼狽して、それを慌てて拾い上げて傷の無い事を確かめる。
「あぁ、こんな、落としてしまうなんて……」
「畳の上に落としただけだろう。そこまで慌てる事でもあるまい」
「ですが、傷でも付いてしまったら……」
はっと息を呑んで、ヨシノは言葉を切った。
「……どうかしたか?」
「いえ……いいえ。なんでも、ありません。本当に、なんでも……ふふっ」
数瞬前の狼狽ぶりはどこへ行ったのか、とても機嫌の良さそうな笑顔を見せたヨシノに、男は首を傾げる。
「お水、お水ですね。すぐに持って参ります……ふふっ、うふふ……」
「何なのだ、唐突に……」
男がある種の不安を覚えてしまうほどに上機嫌なヨシノの手の中。
かんざしに付いている石は無垢な透明ではなく、ヨシノの髪とまったく同じ、透き通る濡れ羽色に変わっていた。
…………
とある市井の端の端には、どこか肩身が狭そうに軒を構える小さな鳥屋がある。
何の変哲も無い種から、海の外から仕入れた変わり種まで。その店の規模と比べて、置いている鳥の数は豊富だった。
鳥屋の主は、常にどこか人を馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている、ヤナギという男……だったのだが、そのヤナギは数年ほど前に「ちょいとやる事ができた」とどこかへ旅に出てしまった。
他のものならいざ知らず、生き物である鳥たちのいる店を易々と潰すわけにもいかず、ヤナギは出立直前になって、前々から店を手伝わせていた甥に店を押し付けた。
半ば無理やり店を継がされたようなものだったが、それでも、ヤナギの甥である生真面目な男は、何か不満を漏らすような事は無かった。
それどころか、もしかするとヤナギが居た頃より、商いにも鳥たちの世話にも精を出すようになった。
その理由を詳しく知る者は、さほど多くない。しかし、わざわざ問う者もいない。
男が妻に迎えた女子を見れば、それだけで理由を察するには事足りていた。
町のどこかで鶏が鳴き、朝の訪れを報せはじめた頃。
鳥屋の二階、少しばかり窮屈な寝室で、その女子――ヨシノは目を覚ました。
「……」
とりあえず体は起こしてみたものの、まだまだ眠気は残っているようで、可愛らしいあくびを一つ。
長い黒髪を所々跳ねさせて寝ぼけ眼を擦る姿は、美しい顔立ちとは対照的にどこか幼さを感じさせた。
しばらくの間、寝起きの曖昧な意識のままぼーっと壁を眺めていたが、ふと隣を見て、そこに居るべき者が居ないことに気付いた。
一拍置いて跳ね起きたヨシノは、抱いて眠っていたかんざしを持ったまま、寝間着を脱いだ。
簡素で地味な着物に着替えている間にも、頭の後ろに添えたかんざしには独りでに髪が巻き付き、邪魔にならない程度に纏め上げられた。
あっという間に身だしなみを整えてしまってから、階段を駆け下り、店先に顔を出す。
いくつもの籠の中では、鶏の声を聞いて起き出していた種々様々の鳥たちがさえずっている。
そんな鳥たちに囲まれ、土間にしゃがみこんで鳥たちの食事を用意していた男が、慌ててやって来たヨシノを見上げて笑った。
雑穀を混ぜる手には、相変わらず濡烏の組紐が着けられたままであった。
「早いな。まだ寝てても良いのだぞ?」
「夫よりも早く起きて朝餉の支度をするのが良い妻だと、聞きましたのに……」
「気にするな。昨夜も随分……いやその、なんだ、疲れが残っていても仕方あるまい」
男は言葉を濁したものの、それだけでもヨシノには昨夜の事を思い出させるには十分であった。
一夜限りの事では無く日々繰り返されている事ではあるのだが、日の高い内から語るには、男もヨシノもまだ青い部分があった。
記憶と共に俄かに胸中に湧いてしまった感情は何とか抑え、ヨシノは悲しげに首を横に振る。
「ですが、あなたはそれでも早く起きられていますから……」
「起きた、と言うのはあまり正しくは無い。あまり、眠れなくてな」
「……どこか、お体がよろしくないのですか?」
「いや、そういう訳では無いのだが……」
歯切れの悪い返事と共に、鳥籠を開け、餌を振り分ける。
「ヨシノはもう慣れたのかもしれんが、俺はまだ……隣でヨシノが眠っていると思うと、妙に昂ぶりが収まらなくなることがあると言うか、眠れるほど落ち着けないと言うか……」
自分で言っておきながら、男は顔を赤くしていた。
その様子に、ヨシノは病などでは無かった事に安心しつつも、可笑しさを堪え切れずに吹き出す。
男も、以前もこんな事があったなと懐かしみ、同時に中々変わらないものだと苦笑した。
「笑い事ではない。お陰で、こちらは昼間から大欠伸をする破目になるのだぞ」
「では、今宵はあなたが満足されるまで……いえ、疲れ果てて眠ってしまうまで、致しましょうか。子守唄も、良いかもしれませんね」
妙な冗談を、と言おうとして男は顔を上げたが、ヨシノの目が冗談では無いのだと語っているのを見てしまい、口を噤んで顔を伏せた。
餌をつつく鳥に視線を戻し、まるで何とも思っていない振りをしてぶっきらぼうに告げる。
「……それはまあ、夜に改めて話そう」
「はい。じっくりと……床の中で、お話いたしましょう」
艶やかな唇に触れながら、ヨシノは微笑む。
そして、誘うような妖艶な流し目を見せてから、朝餉の準備の為に炊事場へと姿を消した。
取り残された男は、再び鳥のさえずりばかりになった店先で、自らの鼓動の音に顔を顰めた。
昔取った杵柄とでも言うのか、単に癖として残ってしまっただけか、遊郭を離れてしばらく経っても、ヨシノの立ち振る舞いには未だに遊女のそれが散見される。
時折思い出したように耳元で囁いてみせたり、しなを作り身を寄せたり。そして困った事に、そんな振る舞いは見事なまでにこちらを誘惑して止まないのである。
「……いかんな、本当に」
気持ちを鎮める為にも、男は無心で鳥の世話をする。
籠の中を掃除し、水も変え、見て分かる範囲で怪我や病を確かめる。
一通り鳥たちの様子を確認した頃、見計らったようにばさばさと無数の羽音が響いた。
一羽、また一羽と鳥屋の軒先へと降り立った伝書鳩たちが、くるくると鳴いて餌をねだり始める。
「ああ、少し待て、今用意してやる」
この伝書鳩たちにとって鳥屋は巡回箇所にでもなっているのか、手紙を持っていなくとも毎日飽きる事無くやってきては、餌を啄ばんで去ってゆく。
はじめは随分と不遜な鳩たちだと思っていた男も、今では鳩の餌を撒いてやるのにもすっかり慣れてしまっていた。
麻袋に入っている餌を撒いた後に、鳩たちが首を動かして啄ばんで回る姿を楽しむ余裕すらある。
最近では、一見同じに見える鳩にも、それぞれに若干の個性があるのだとも分かり始めた。
また、ここに来ているのは、食い意地の割りに中々優秀な鳩であるらしく、その顔ぶれはヤナギ宛ての手紙を運んできていた頃から、ほとんど変わっていない。
ただ、一羽だけ。しばらく前から顔を見せなくなった鳩がいる。
「……あいつらは、元気でやっているか?」
不意に、男は鳩たちに向かってそんな事を尋ねた。
無論、鳩たちが人の問いに答えるはずも無い。
「あなた、ご飯ができましたよ」
「ああ、今行く」
ヨシノの呼びかけに答えて、男は鳩たちに「食いすぎるなよ」とだけ忠告して茶の間へと入って行った。
途中で一瞥した空っぽの鳥籠には、そこにかつて小さな文鳥が居た跡だけが残されていた。
16/08/26 16:23更新 / みなと
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