連載小説
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「さあ、さあ、さあ。一目見てってくださいな。
 ここに並ぶは、海の向こうは千里彼方からやってきた、いずれ劣らぬ名品珍品。そんじょそこらの物とは違う、宝と呼んでも差し支えない品々でございます」

 昼下がりの町中をぶらぶらと歩いていたヤナギは、妙な拍子を付けたその文句に足を止めた。
 見れば、往来の傍ら、木箱に座って鈴を鳴らしている、緑の帽子を被った女が一人。
 地べたに擦れたござを敷き、なるほど、確かにジパングでは見ない品をそこに並べている。
 身なりからして行商人であろうと、ヤナギは目を細めた。

 この町は、それほど遠くない所に港があるためか、舶来品を売りに来る商人が少なくない。
 苦労して他所から品を仕入れた商人がやってくるたびにそれを冷やかすのは、ヤナギの性質の悪い趣味の一つであった。
 しかし、今回は少々都合が違っていた。

 足音を殺し、気付かれないように。
 その行商人の並べた品を、しゃがみこんで熱心に見ている後姿に声をかける。

「ほう。お前もそんなものに興味を持つようになったか」

 大柄な背中が、驚愕に跳ねた。
 手にしていた異国の髪飾りをつい握り締めてしまい、どこかが曲がらなかったか慌てて確かめる。
 そうしてから振り向いたその顔は、少しばかりばつが悪そうな、ともすると、悪戯が見つかった子どものようでもあった。

「……驚かすのは、やめてください」

 真剣な所を茶化してくる意地の悪い叔父に対し、男は辛辣な文句の一つでも言ってやろうかと考えたが、結局無難な答えを選んだ。
 一方で、ヤナギは「驚かすつもりなど無かったんだが」と、へらへらとした笑みを浮かべたまま、隣にしゃがみこんだ。
 了承も取らずに男が手に持っている物を横取りし、陽の光に晒して眺めはじめる。

 それは、べっこうで作られたかんざしにも見えるが、ジパングで一般的なそれとは少しばかり形が変わっており、足は二本、頭は扇状に開いている。
 だが、何よりも特徴的なのは、そこに嵌め込まれた宝石であった。

「なるほど、確かにこいつは良い品だ。土台は海の向こうに溢れたものだが、入っている石が良い。これは……水晶か?いや、しかしそれにしては随分透き通っているな。上等な氷のようだ」

 そんなヤナギの言葉に、行商人は少しばかり驚いたように手を叩いた。

「ほう、ほう。お分かりいただけますか。おっしゃるとおり、そいつは異国で取れる、水晶に似た宝石でして。採るにも手を加えるにも難儀する珍品でございます」
「そんな物をござの上に並べるのか?」
「ええ、ええ。なにぶん、あちらこちらへ流れる身ですから。破れ擦り切れ曲がろうと、このござ一枚以外には、構える店は持てないのですよ」
「そうか。まあ、行商ならば仕方あるまい」

 適当に切り上げ、再びかんざしを眺め始めたヤナギは、やがて、満足げに何度も頷いてみせた。
 そして、それを男に返すと、何食わぬ顔で懐から大金を取り出して行商人へと握らせた。

「これで足りるな?」
「……ええ、ええ。少々釣りが出るほどですね」
「いらん。今日のおれは気分が良い。釣りはとっておけ」
「では、遠慮無く」

 あまりにもあっさりと、決して安くはない買い物が成立した。
 手の中のかんざしをじっと見ていた男は、とんとん拍子で進んだ話に付いていけず、ぽかんと口の開いた間の抜けた顔でヤナギを見あげる。
 その反応を予想していたのか、ヤナギは愉快そうに肩を揺らして笑った。

「礼はいらんぞ。馬鹿真面目な甥がようやく女の味を知ったのだ。祝いの品をくれてやる甲斐性くらいおれにもある」
「しかし……」
「しかしもかかしも無い。どうせ、今日も見世に行くんだろう?ならばそれを持ってさっさと行ってくるんだな。女の機嫌を取る術も、ちっとは学んでくるがいい。ああ、孕ますのだけは気をつけろよ。それは籠の鳥を傷物にするのと同じだからな」
「……まだ、枕は共にしていませんし、そのつもりもありません。ですが、その……ありがとう、ございます」
「礼はいらんと言っただろう。ああ、それと……そうだな、据え膳食わぬは男の恥、というのだけは覚えておけ」

 冗談めかして言い切ってから立ち上がり、軽く伸びをしてまたどこかへと歩いてゆく。
 そんなヤナギの後姿を見送り、再び、男はかんざしに視線を落とした。
 胸中で、これまで何度か夜を共にした遊女の姿を思い起こす。
 何か贈り物をと思ってはいたが、あの髪の美しさには、そこらにあるものでは到底足りない。
 そう思っていたところに、このかんざし。
 透き通った宝石は、確かに美しい。これならば、あれと比べても見劣りしないだろう。
 そこまで考えて、ふと気付く。

「……これは、どのようにして着ける物なんだ?」

 思えば、ジパングのそれも含めて、かんざしの付け方など知らない。
 こういった飾りになど、ろくに触れてこなかったのだ。海の向こうの物の事など、言うまでも無かった。

「おや、ご存じ無い?まあ良いでしょう。釣りを呑ませて頂いたのですから、それくらいのさぁびすはいくらでも致しましょう」
「さぁびす……?まあいい、頼む……」
「はい、はい。承りましょう。ああ、それと……」




「……と、まあ、そんな事があってな」
「左様でございましたか」

 布で包んでおいたかんざしを畳の上に置き、男はこれまでのいきさつをヨシノに語る。
 宵の口に入った遊郭では、着飾った太夫が通りを歩く花魁道中が始まっていた。
 それに伴う笛や鈴の音、囃す声が、男とヨシノの幾度目かの逢瀬に一風変わった華を添える。

「確かに、見慣れぬかんざしですね。その石は水晶……では、無いのですね?」
「うむ、そうらしい。俺にはよく分からなかったが、異国でも稀にしか取れぬ物だと言っていた」

 男はそう言いながら、思い悩むように、かんざしを見つめる。
 そのまま、男は唇を一文字に結んだままじっと考え込んでしまったが、ヨシノは決して急かそうとはせず、柔和な微笑みを浮かべたまま、黙って男の言葉を待った。
 ねだりもせず、乞いもせず。花魁道中の音が通り過ぎ去って消えてしまっても、まだ待ち続ける。

「……ヨシノ」

 ようやく、男が口を開く。

「この程度のもので、以前貰った髪に釣り合うとは思っていない。だが、それでも良ければ、これを貰ってくれないか。着けなくとも良い……ただ、持っていてくれるだけでいいのだ。そうだな、お前の言葉を借りるのならば……一人の男として、想われていたい……だろう、か。だから、俺がここを訪れなくとも、常にヨシノの……その、傍にあるために……」

 平静を装おうとして出来上がった、妙な仏頂面を貼り付けて。
 慣れない口説き文句をつっかえつっかえ口から零す。
 そんな不器用極まりない男の振る舞いに、ヨシノは堪え切れなかったとばかりに、口元を隠して上品に笑った。

「笑わんでもいいだろう……」
「ごめんなさい……ですが……」

 くすくすと笑い続け、ついには目の端にまで涙を浮かべるヨシノ。
 対照的に、男は恥ずかしさに赤くなった顔を隠すように、脇息に頬杖を付いて口をへの字に曲げた。
 そっぽを向いて、猪口に辛口の酒を注ぎ、ぐいと飲み干す。

「ああ、どうかお許しください……」

 袖で涙を拭ってから、謝罪の言葉と共にヨシノは男へと酌をした。

「そのように、言葉でお飾りにならなくてもよろしいのです。ただ、『これを着けていろ』と命じてくだされば……私は、喜んでそのかんざしを身に着け続けましょう」
「……たまには、気取った事も言いたくなったのだ」

 注がれた酒を飲み、そっぽを向いたまま呟く。
 ヨシノは、それにもまた、小さく笑みを零した。
 だが、その笑みは、ただおかしいと言うよりも、母性にも似た情愛を滲ませたものであった。

「……それで、そのかんざしを頂けるのですか?」
「そうだ。四六時中着けていろとまでは言わん。だが、何があろうとも持っていろ……これでいいか?」

 羞恥と酔いに耳まで紅潮させた男の言葉に、ヨシノは満足げに頷いた。

「では……」

 一歩下がり、男に背を向けてから、髪に差していた豪奢な櫛を外す。
 ふわり、と髪が広がり、流れ、一つに纏まる。
 既にヨシノの髪は見慣れたつもりであった男も、その様子にはつい見惚れてしまった。

「……着けて、いただけますか?」
「あ、ああ……」

 ヨシノの流し目に、男の声が裏返る。
 気持ちを落ち着けるために、二、三深呼吸を繰り返し、かんざしを手にする。
 更に、一つ、二つと呼吸を挟んでから、濡羽色の髪に指を入れた。

「っ……」

 髪を割った指先が首筋に触れると、ヨシノは小さく声を漏らし、体を震わせた。
 だが、それを気遣えるほど、男に余裕は無い。
 髪を弄び、かつてそうしたのと同じく、穢してしまいたいという欲求を押し殺し、無心でかんざしの付け方を記憶から引き出す。
 柔らかく手触りの良い髪を手繰り、時折指に絡みついてくるそれに思わず唾を飲む。

「……いかんせん、不恰好だが」

 そう言ってかんざしを付け終えた頃には、男の表情には疲労の色すら滲んでいた。
 まだ髪の感触が残っている自分の手から目を逸らし、手鏡でかんざしを見るヨシノの反応を待つ。

「それでだな、そのかんざしに付いている石というのが、何やら眉唾物で……」

 男は間を持たせるために、行商人から聞いた話をそっくり語ろうとしたが、ヨシノの表情を見るなり口を閉ざした。
 確かに、長く多い髪に曲がって差されたかんざしは、酷く不恰好である。
 それでも、ヨシノはとても嬉しそうに顔を綻ばせていた。
 何度も何度も、自分の手でかんざしを撫で、鏡の中のそれを見つめている。

「……どうしましょう」
「や、やはり、何か不都合があったか……?」
「いいえ……どうしたら、この喜びを表せるのか、私には分からないのです……本当に、嬉しくて、胸が張り裂けそうで……」

 口を手で覆ってあちらこちらに視線を彷徨わせる様は、喜びを越え、もはや戸惑っているようにしか見えない。

「ああ、ああ……こんな……あぁ……」

 言葉も忘れ、感嘆の声を漏らし続ける。
 そんなヨシノの姿に、男も若干の困惑を感じはしたが、拒絶はされなかった事にとりあえず安堵した。
 何やらぐねぐねと動いている髪の事からは意識を逸らして、緊張に渇いた喉を酒で潤す。

「まあ、その、喜んでもらえたのならば何よりだ」
「喜ぶどころではありません。これほどまでに……」

 何か相応しい言葉を探そうとする事すら止め、ヨシノは男に抱きついた。
 それ以上に感情を表現できる術が分からないとばかりに、自分の髪までも用いて体を密着させる。
 男としても流石にそこまでされてしまうと目は逸らせず、たまらず持っていた猪口を置いて、ヨシノを窘めるように背を撫でた。

「お、おい。落ち着け。気持ちは十分に分かったから、少し落ち着け」
「これが落ち着く事などできましょうか……このかんざしは死ぬまで共に……いいえ、墓の下まで持って行きましょう」
「そこまで言われるのは、送った身としても喜ばしいが……」

 単なる髪飾りでしかないのに、女の気持ちとはよく分からないものだ。あれだけ上品だったヨシノが、こんな風に感情を露わにして喜ぶとは。
 思わず、今まで見てきたヨシノの姿と、腕の中で微笑む今の姿を重ねてしまう。
 そして、その差異に、男は堪えきれず吹き出した。

「なるほど。意図せずとも、笑ってしまうな。これは」

 いかにも愉快そうに肩を揺らしながら、男はヨシノの髪を指で梳く。
 らしからぬ振る舞いをする事がどれだけ可笑しく、愛おしいか。期せずして、分からされてしまった。
 だが、それだけではない。

「笑ってしまうが……それ以上に、困るな」
「あら、何か、お困りになる事が?」
「ああ。そのような無邪気な姿を見せられてしまうと、今まで以上に別れが惜しくなってしまう」
「まあ……」

 冗談めかしたその言葉に、ヨシノも笑った。
 ほとんど化粧をしていない白い頬が、微かに桜色に染まる。

「では、共に遊郭で暮らしましょうか?」
「そうもいかんだろう。だが……」

 ヨシノの返した冗談に何事かを言いかけて、男は首を横に振った。
 だが、何でしょう。
 その問いを、ヨシノは口にしない。
 ただ、ちらと男の顔を盗み見て、外へと向けられたその目が冗談とは程遠い、真剣なものである事を確かめる。
 そして、ただそれだけで、ヨシノは何かを察したように目を閉じた。

 そんな沈黙をしばらく共有してから。
 ヨシノは何事もなかったかのように、明るい声色で尋ねた。

「ところで、先ほど、このかんざしの石について何かを……」
「そうだ。言いそびれたが、その石が眉唾物でな――」

 曰く、これは人の心を映し出す鏡である。
 無垢な透明であるのはそのためで、誰かが触れると、たちまち触れた者の心の色に染まってしまう。
 そして、一度染まってしまった宝石は二度と元には戻らない。
 故に、扱いには細心の注意を払わなければならない。

「――と、これを売っていた商人が言っていた」

 男は「何とも胡散臭かったが」と最後に付け加えた上で、聞いた話をそっくりそのまま語り聞かせると、ヨシノは合間合間に打っていた相槌と全く同じように、二度三度と頷いた。

「なるほど。では、確かめてみてはいかがでしょう」
「そうだな。だから、ここに来るまでに迂闊に触れないように……何?」
「ですから、あなた様に触れて、確かめていただけたら、と……」
「……いや、せっかくの透き通った美しい石であるのに、わざわざ俺が触れて汚してしまっては意味が無いだろう」

 顔を顰めた男に対し、ヨシノは変わらず穏やかに語る。

「確かに、これは今でも十分に美しい品です。しかし……あなた様の色に染まると言うのならば、私にとって、それ以上に美しい物はありません」
「……しかし」

 言葉を返そうとして、男は以前にもこんなやり取りをした事を思い出した。
 誘惑も多分にあったとは言え、あの時もヨシノの提案を断れなかった。きっと、この場で問答をしても結果は同じ。

「……分かった。俺も、確かめてみたいとは思っていたからな。ただし、どのような色に染まってしまっても責任は取れんぞ」
「ええ。構いません」

 男に抱き寄せられたヨシノは、かんざしが見やすいように俯いた。
 ちょこんと差されたかんざしに付いている石は、やはり見事に澄んでおり、ヨシノの濡羽色の髪が透けて見えるほどである。

 己の心は、どのような色をしているのか。
 それをはっきりさせてしまう事に、多少なりとも不安はある。
 だが、それ以上の好奇心もあるのは、間違いない。

 男はその好奇心を満たすため、片手でヨシノを抱きしめたまま、もう片方の手で恐る恐る石へと触れた。
 磨き抜かれた傷一つ無い石に、指先を当てたまま、しばし待つ。

「……何も起こらんな」

 撫でてみてもつついてみても、石は濡烏を透かしているのみ。

「やはり、与太話だったのかもしれん」

 安堵と落胆が混ざったため息と共に、男が呟く。

「まあ、それで良かったのかもしれん。」
「……私は、少し残念です」
「俺はかえって安心した。薄汚れた石ころになりさがってしまうような事がなくてな」
「そんな。あなた様ならば、きっと綺麗な色になったでしょう。それに、たとえどのように変わろうとも、私はあなた様から頂いた物ならば喜んで身に着けます」
「……そうか。それなら……いや、どうだろうか」

 そう言って座りなおした男が猪口を持ち、ヨシノがそれに酌をする。
 辛口の酒を呷って、もう一杯、くいと飲み干す。

「……酒は、苦手だったのだがな。ヨシノに酌をされると、つい飲みすぎてしまう」

 空の猪口を見つめながら不意にそんな事を言った男に、ヨシノは頷き、次を注いだ。

「私も、お酒はあまり得意ではありません。すぐに酔うてしまいますから」
「ほう。ヨシノにも苦手なものがあったか」

 ヨシノが答えるなり、男は猪口をヨシノへと渡した。
 そのまま、どこか意地の悪い笑みを浮かべて、今度はヨシノの持つ猪口へと酌をする。

「……酔わせるおつもりですか?」
「それもある。が、先ほどの喜んでいた姿を思い出してな。他にも、色々な顔が見たくなった」
「そういう事でしたら……」

 両手で持った猪口をくいと傾け、白い喉を動かして酒を飲む。
 空になったところに、もう一杯、もう一杯と酒を注がれる。

「……どのようになっても、知りませんよ?」
「構わん。酷い酒乱でもなければな。なんだったら、飲み比べでもするか?酒に弱いもの同士、かえってちょうどいいかもしれん」




 飲み比べ、とまでは行かなかったが、興が乗ったままに互いが互いの酒を飲み続け、先に潰れたのは男の方であった。
 量としてはそれなりに飲んでいたはずだが、ヨシノは頬を紅潮させている程度で、酔っている気配は無い。
 むしろ、素面と同等に明瞭な様子で、膝の上で寝ている男の頭を優しく撫でてやっている。
 何も言わず、起こしもせず。夜更けを過ぎ、日の出が近付いても、ヨシノが眠る気配は無い。

「……」

 誰かが通りを歩く音がする。
 この遊郭において、遊女と客の別れる時間は、明六つの鐘が鳴る前と決まっていた。
 誰が示し合わせたのでもない。ただ、自然とそうなっていた。
 それ以上長く共にあれば、情が必要以上に育ってしまう。そんな事を、数多の遊女と客が無意識に理解してしまっているがためかもしれない。
 所詮、ここは感情の駆け引きを楽しむ場所であり、心の底から愛し合う者を探す場所ではない。
 しかし。
 遊女となって初めて取った客に対して、適切な距離感など計れるはずも無い。

「……?」

 眠ったままの男が身動ぎした拍子に、懐から何かが滑り落ちた。
 起こさぬように、ヨシノは静かに手を伸ばしてそれを拾う。

「……あ」

 思わず、声を漏らした。
 それは、組紐であった。
 ヨシノの髪で編まれた、黒一色の組紐。
 職人技とは行かずとも、中々に綺麗に編まれているそれを、ヨシノは濡れた瞳で見つめる。

 しばらくそうしていると、何を思いついたのか、ヨシノはおもむろに男の手を取った。
 そして、その組紐をそっと手首に巻きつけた。
 更に、少しばかり自分の髪を足して、結び目を隠してしまう。

「ん……ぅ?」

 奇妙な腕輪が出来上がるとほぼ同時に、男がぼんやりとした寝ぼけ眼をヨシノへと向けた。
 自分がヨシノの膝を枕に寝ていると理解するまで、数秒、見つめあう。
 それから、障子から透けて入る光に、呟いた

「……もう、夜明けか」
「はい……夜が明けて、しまいました」

 酔いが抜けきっていない体は、まだ惰眠を貪るべきだと訴えている。
 しかし、耳を澄ませば他の客たちが帰る足音が聞こえる。
 いつまでも、こうしている訳にもいかない。
 男は、自分に言い聞かせた。
 立ち上がり、一杯の水を酔い覚ましにして、細く開けた障子の隙間から外を見る。
 既に、他の宿から出た者たちがぽつぽつと見えていた。
 その中の一部には、客の見送りに出た遊女もいる。

「……帰る」
「……はい。では」

 短く、風情も何も無い言葉が交差した。
 身支度をして、宿を出て、共に歩く。
 どちらから言い出さずとも、男が帰るときには、ヨシノは必ず見送りをするようになっていた。
 そびえる大門、遊郭と外界の境界まで。
 他の遊女がそうするように、そこで立ち止まったヨシノに、男は振り向く。

「……また、な」
「……はい」

 そうして、門の内から、外へ。
 その日の別れも、とても、静かだった。




 歩いている内に、眠っていた町も少しずつ覚めていく。
 起きてきた近所の者に挨拶をし、朝帰りかと冷やかされ、鳥屋へ帰り着く頃には、市井はすっかり賑わいを見せ始めていた。
 そして、鳥屋の前には、騒がしく鳴く何羽もの鳩と、それに餌をやる者が一人。

「おう、帰ったか」

 ヤナギが、珍しく朝早くから店を開けて、遊びに来ていたどこかの鳩にまで餌をやっている。
 その様子に男は驚きを隠そうともせず、立ち止まってしまった。

「なんだその顔は。ここはおれの店だぞ。おれが鳥の世話をしていて何が悪い」
「いえ……少し驚いただけです」
「おれだって、早く起きる日くらいある」

 道端に撒かれた餌をつつく鳩たちを見ながら、ヤナギはいつも通り、軽薄そうに笑う。

「ところで……どうだった?」
「どう、とは?」
「決まっているだろう。かんざしを贈って、何事も無く帰ってきましたとでも言うのか?」
「……」

 もしや、それを聞くためだけに早起きをしたのではないか?
 思わずそんな事を勘繰ってしまったが、かんざしを買う金を出してもらった以上は、余計なお世話だと言い放つ事もできない。
 しかし、だからと言ってヤナギが期待しているような話もできないのも事実である。
 適当に誤魔化そうかと男が言葉を考えていると、ヤナギはその手首に巻いてある組紐を見止める。
 そして、男がしている以上に眉を顰めた。

「それは、髪か?」

 言われて、ようやく男は組紐が手首に巻かれていたことに気が付いた。
 懐に入れていたはずのものが、どうして。もしや、眠っている間にヨシノがやったのか。
 推測しながら、巻かれたものを確かめて、切る以外に外しようが無い事に少しばかり戸惑う。

「……なるほど、なるほど。お前の女を見る目は、おれが思っていた以上に優れていたようだな」

 いきなり、合点が行ったとばかりに笑い出したヤナギに、男は組紐をいじる手を止めた。
 勝手に何かを言い出して、勝手に何かを納得して、楽しげに餌をばら撒く。
 まったくもってよく分からない叔父の行動を理解しようとして、すぐに諦めた。
 鳩の群れを避けて店に入り、籠の中で寝起きに歌う鳥たちを見る。

「……籠の掃除、まだですよね?」
「なんだ、寝なくていいのか?」
「はい」
「そうか。じゃあ後は任せた」

 ヤナギはそう言うと、大あくびをしながら、男に餌の入っていた皿を押し付けて店の奥へと消えていった。
 たちまち、鳩たちは次なる餌係りの足下へと集まってくる。それを「もう終わりだ」とあしらって、男は店内で籠の中に収まっている鳥たちの世話を始めた。
 朝餉の時間は終わりだと理解した察しのいい鳩から、ばさばさとどこかへと飛び去ってゆく。
 そうして、ほとんどが飛び立ってしまっても、一羽だけ、鳥屋の前から中々離れようとしない鳩がいた。

「……餌はやらんぞ」

 文鳥の籠を開けて中の掃除をしながら、男は諦めの悪い鳩に話しかける。
 無論、人の言葉で返事が返ってくるはずも無い。だが、それでもくるくると鳴き続ける鳩に、男も苦笑して見せた。

「仲間はもう行ってしまったぞ。お前も行かなくていいのか?」

 そう言い終えるや否や、唐突に、籠の中の文鳥が鳴き始めた。
 きゅ、きゅ、と、さえずる声に、鳩のくるくるという声が重なる。
 そんな、全く違った鳴き声を交錯させる奇妙な合唱をしばし続けてから、鳩は満足したように飛び去って行った。

「……まさか」

 そんなはずは無いだろうと思いつつも、男は文鳥に目を向ける。
 籠の中の止まり木の上、文鳥は何を言うでもなく、じっと掃除が終わるのを待っている。
 その黒く丸い目を見た所で、鳥の考えなど分かりはしない。

「考えすぎだな」

 鳩と文鳥の恋路など、あるはずないだろう。
 再び苦笑して、男は文鳥の籠を閉じた。

「……籠の鳥、か」

 文鳥を見つめたまま、呟く。
 どうやら、少しばかり感傷的になってしまっているらしい。
 男は、心のどこかでそう考えながらも、文鳥から目を離せない。
 その目には、たださえずる文鳥すら、どこか寂しげに見えてしまっていた。
16/08/07 23:24更新 / みなと
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