一話 4月12日
あの事件から5年ほどたった。
私は今でも自分の店を5年前と同じように切り盛りしている。
変わったことと言えば赤ん坊だった娘が神学学校へと通い始めた。
私としては男の子に恵まれてほしかったのだがこれもきっと何か思し召しなの
だろう。
いつも通り明け方になると商品の仕込みをしなくてはならない。
今まではジパングの商品を棚に並べるだけでなんとかなっていたが、最近では
それだけでは大手の店に対抗できなくなってきた。
妻がパンを焼こうといいだし、技術を学び、それを売ることでなんとか
家族の生活費を養おうということだったのだ。
はじめはノウハウの外側にある技術だったので正直面倒でしかなかったのだが
作ってみるとこれがまた楽しい。
言い出しっぺの妻はすぐに飽きてしまったが最近ではこの作業も売り上げとか
お構いなしにいろんなものを試したくなっている自分がいた。
「ふむ…眠いな。」
窓を開ける。
そろそろこの窓も取り換えなければ。
雨ざらしになりすぎて木が腐ってしまいかねない。
新しい窓を買ってきてもらわなくては。
私は2階の窓から下を見下ろす。
…店の前に誰かいるな。
男の子と女の子。同い年くらい。娘の友達か何かだろうか。
早起きとはずいぶんと感心な子供たちだが…店を開ける前に来るもんじゃない。
しかしうちに用がある以上は相手をしなくてはな。
私はすぐさま1階へ降りドアを開ける。
「いらっしゃい。小さなお客さん。お店に何か用かな?」
「はい!パンを買いに来ました!」
「…あの…パンを…」
「ねえなんでだまってるのぉ?一緒に言おうっていったじゃん!!」
背丈は私の腰程度にしかない子供だった。
ぴょんぴょんと跳ねながら少女は少年を叱った。
さしずめこの子は姉なのだろうか。
胸にあしらった大きなリボンがふわふわと揺れる。
ここらでは見ない子だ。
「ご…ごめん…」
「もうーしょうがないなぁエミールお兄ちゃんはぁ。じゃあもういっかい!」
少年と少女は手をつなぎ満面の笑顔でこちらを向き直す。
「せーのっパンを買いに来ました!」
「パンを買いに来ました!」
「はい!よく言えましたー!エミールお兄ちゃん大好きー♪」
目の前で抱き合う。
仲がいいのかなんなのか。
まだ年幾ばくもない少年少女だからいいものの朝っぱらからそんな味付けの濃
い物を見せられるこっちはどうすればいいんだか。
「すまないねぇ、パンができるのにはもう少し時間が必要なんだ。これから焼
き始める時間でね。焼きたてを食べさせてあげるにはもう少し待ってほしい。」
「えー?だってこのお店が一番早く焼きたてが食べられるんでしょー?」
「そうなんだけどねぇ…」
返事に困ったところを助け船が出る。
家の奥からこの騒動を聞いた嫁が「焼いてあげれば?」と声を発していた。
少し面倒だが…まあこれ以上こじらせて帰らせるのも面倒か。
ため息をつきながらも私は笑顔を取り戻した。
「よぉーし!そこまでしてうちを選んでくれたからにはすぐに作るぞ!」
「ほんとに!?やったぁ!おじさん大好き!」
「ただし今日だけだからね。」
了承を告げると少女はリボンをゆらしぴょんと跳ねた。お腹がすいていたのだ
ろう。
私は少女と少年を家に上がらせミルクをふるまうとそのままパン工房へと入っ
て行く。
パンを焼くためにかまどに火をつけた時、私はふと思い返した。
エミールといった少年の名を。
過去に魔術師エミールは炎の中で焼け死んだ。
ジジイがかつて望んだインプとの青春。
それはかなわないまま終わった幻影。
揺れる炎を見つめながらそんなことを考える。
魔術師エミールの考えることはわからなくもなかった。
私にも憧れた女性の一人や二人、普通に居た。
その女性を手に入れたくて若いうちは無理や無茶を繰り返してしまう。
ただそれが魔物というだけで彼の人生は狂ってしまったのだ。
いや、そもそも狂ってしまうなどと言うのはおかしいかもしれない。
恋愛は総じて人を狂わせる。
誰にとってもそれはそういうものなのだ。
「おお!い、いかん!こげちまう!消さないと!」
パンを焼く火が強くなりすぎてしまうところをすんでのところで弱める。
どうしてだろうか。
あの少年とあの魔術師を重ね合わせてみてしまうのは。
彼の悲願を別の人間がかなえているように見えてしまう。
ただの少年と少女相手にそこまで考えるのは野暮か。
私はできたてのパンを調理するためキッチンへ足を運んだ。
「はいおまちどおさまー!特性クロワッサンと4枚切りパンのサンドイッチを
召し上がれー!」
そこからは普通だった。
普通に食事をして、普通におしゃべりをして。
普通に少女と少年は帰って行った。
ただ、少年は私の事を時折見上げてはまたすぐに視線をそらしていたのは覚え
ている。
「ごちそうさまでした!またきてもいい?」
「今度はお店が始まってから来てね…。」
「はーい!じゃあまたね!ほら!つぎいこう!」
「…う、うん!」
少女は少年の手を引っ張り料金も置いていかずにけたたましく去って行った。
いや、年端もない少年少女にこんなことを要求するのは野暮か。
私は小さなの来客の後片付けをすると部屋に戻ることにした。
今日はまだ自分の朝食をとっていない。
「だってはやくしないと!エミールおにいちゃん!」
何かをせかす少女の声が明け方の町に響き渡る。
この話はもう少しだけ続く。
17/07/30 20:27更新 / にもの
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