Obsolete blave
僕達を撫でる微風。
眼前に広がる緑。
遠く見える威容。
勝敗から先に言うと、僕達は勝った。
奴らに気付かれる事無く、無事に関所越えを果たしたのだ。当然ながら、関所を越えるにはイヴが魔物である事を何とか隠し通す必要があった。
世界最大の信教国であるレスカティエに魔物の出入りはご法度だ。だから、魔物が出入りする際には別のルートを使ったり、魔法で人間に化けたりする事が多い。事実、教国領にも魔物が棲みついているのだから、僕の知らないルートがあると踏んだ方が妥当だ。
ただ、教国領に棲む魔物は討伐に来た騎士団を返り討ちにしてやろうという血気盛んな者が多く、イヴの様な小さな子が一人でいることは稀だ。どこかにイヴの母親であるサキュバスがいるのだろうが、関所を越えた今、教国領に棲んでいるのだとしたら、彼女には気の毒だ。僕のほとぼりが冷めるか、イヴが教国領に出入り出来る様な年齢になるまで待たなければならないのだから。
子供であるイヴはまだ魔物が入ってくるルートは知らないだろうし、僕も無論だ。関所を通るとなれば、イヴの羽やら角やら尻尾は確実に衛兵の目に付く。だから、それを隠してしまえばいい。イヴがそういう魔法を習得していれば話は早いのだが、彼女はまだそこまでの技術は無かった。
ではどうしたのかと言うと、至極単純だった。僕が付けているマントをフード付きのローブとして適当に見繕い、それをイヴに被せるだけ。イヴが羽と尻尾を畳めば、一目でこれが魔物だとはバレなくなる。後はイヴに、関所を越えるまでは絶対に喋ってはならないと言いつけておけばいい。
問題は衛兵がそれを怪しまないかという事で、その場でイヴの正体がバレようものなら、僕達は強行突破する以外の方法が無くなってしまう。
僕はそればかりを気にして関所を通った。衛兵に呼び止められた時には心臓が口から飛び出そうになったくらいだ。
衛兵は勿論フードを被ったイヴを訝しんで声を掛けたわけだが、僕は咄嗟に「恥ずかしがりな子なんです」、などと大嘘を吐いて何とか丸め込んだ。幸い、衛兵は強引にフードを外したりする事も無く、僕の素性に気付いたわけでもなかった。
こうして僕達はギリギリの逃走劇に勝利を収め、永世中立国であるカルベルンに足を踏み入れた。ここまで来れば一先ずは安心出来るだろう。
レスカティエがカルベルンに僕達の捕縛を要請したとしても、カルベルンはそれを聞き入れはしない。それはカルベルンの永世中立国という肩書による。魔物側に付いた人間はレスカティエでは大罪人も同然だが、カルベルンでもそうだとは限らない。それはそうだ、強盗などの本当の罪を犯したわけではないのだから。
カルベルンでは人も魔物も平等だ。どちらにも贔屓せず、どちらにも嫌厭しない。だから、僕達が身を隠すには最適な場所だ。
僕達は首都であるフロウトゥールを目指して歩いていた。霞むほど遠くに見える岩壁がそれだ。このまま行けば、昼下がりくらいには到着するだろう。そこで一旦宿を取って、その先は……
「エリスー……疲れたよぉ……」
魔物とは得てして普通の人間とは比べものにならない程の身体能力を備えているものだが、幼体にもそれが当てはまるというわけではない。好例が僕のすぐ後ろにいる。
最初は初めて体験する外界に目を輝かせていたイヴも、今は脚を震わせてだれていた。関所を越えて歩き始めてからもう大分経つし、僕は僕であの家から逃げ出してからというもの、ロクに休んでいない。勇者だった僕にも疲れが溜まってきているのも確かだった。
「……そうだな。少し休憩しようか」
「やったぁ!」
イヴが期待していたであろう返答をすると、イヴはその場でぴょんと飛び跳ねた。飛び跳ねる体力は余っているらしい。
僕達は手頃な木片の上に並んで腰を下ろした。辺りは開けた草原で、近づいてくるものがいれば、直ぐに分かる。
遥か遠くの連峰。空と原が織りなす、青と緑のコントラスト。逃げ疲れた心を癒してくれる様な気がして、僕は顎に拳を当てた。
始まってしまった僕達の旅。これから、どうしたものか。
取り敢えず、首都に着いたら宿を取って、それから依頼を探そう。
急いで逃げてきたものだから、家に残っていた食料はそのままだ。いくらか持って来れれば良かったのだが、出来なかった以上は今持っている分で軌道に乗せていくしかない。幸い、暫くは食べていけるくらいには残っている。
イヴの里親を探して、それと、イヴが両手に抱いている、不思議な本……それに、イヴ本人が何者なのかも気になる。
目下の指標はそれの解明になりそうだ。
「……エリス! エリスってば!」
「ん、ああ、ごめん。どうかした?」
イヴは深く考え込んだりはしない。それは僕の役目だ。だから、熟考しているところを遮るのはイヴの役目だ。
隣のイヴが少し不安げな目をしていた。
「ううん、エリス、難しい顔してたから」
「はは……何の準備も無しに逃げてきたからね」
「エリスって、騎士団の人に追いかけられてたの?」
「ああ」
「どうして?」
どうして。たった一言の疑問で僕の苦笑いがふっと消えた。どう説明していいのか分からなかったし、そもそも僕は追いかけられていた理由についてあまり説明したくもなかった。
僕は顔に影を落としそうになって、前の方を向いた。
「…………僕が、悪い人だからかな」
「エリスが悪い人?」
「ああ」
「でも、エリスは優しいよ?」
「……そうかな」
「うん! エリスは悪い人なんかじゃないよ!」
僕は今、イヴの方を見る事は出来そうもない。退廃した勇者である僕には、時にイヴの純粋さが眩しすぎて、直視が出来なくなる。
出会って長くもない奴を、どうしてそこまで信じられるのだろう。僕は確かに世間的に見れば悪い事をしたわけじゃないのだろうが、イヴが僕を悪くないと思う根拠は何なのだろう。
僕はイヴが何なのか分からなくなった。
「…………どうして?」
「エリス、言ったじゃない。『僕を信じて』って」
僕はイヴの方を向いて目を丸くした。彼女の碧眼は一点の曇りも無く、僕の眼を捉えている。
草原に爽風が吹き渡る。背の低い草がさわさわと揺れる。
「ふ、ふふっ……あははははは!」
僕は込み上げてくる笑いを堪えられなかった。口を開ければ、腹の捩れと共に、止めどなく笑いが溢れてくる。
勇気を出させる為の方便を、イヴはこんなところで持ち出してきたのだ。幾多の魔物と戦った僕が、こんな子供一人にしてやられたのだ。これほど可笑しい事があろうか。
迷いは無いと思っていたが成程、僕はまだ覚悟が出来ていなかっただけなんだ。そうだ、イヴは僕を信じてくれている。だから、僕もイヴを信じればいい。……今はそれでいいんだ。
突然笑い出した僕に、今度はイヴが目を丸くしていた。
「そうだ。僕が言ったんだよね。ごめんごめん」
僕は一頻り笑って、安堵の表情でイヴの頭に手を乗せた。
「ありがとう、イヴ」
「どういたしまして!」
きっとイヴは、僕が本当は何を思って、何に対して感謝したのかも分かっていないのだろう。それで良かったから、僕はイヴの頭をくしゃくしゃ撫でて、にへらと頬を緩める彼女を見ていた。
「さ、休憩は終わりだ。行こう」
「うん!」
僕達は立ち上がって、その場を後にした。風が僕達の背中を押していた。首都フロウトゥールまでは、もう少しかかる。
僕達は喧騒の中に居た。魔物に襲撃される事も考えられたが、何事も無くフロウトゥールへ到着した。少し遅くなってしまったが、誤差の範囲内なので良しとする。
フロウトゥールは周囲を円形の鉄壁で守られた要塞都市だ。壁の高さは20mにも及び、南北の門からしか入る事は出来ない。他国との同盟を結ばないカルベルンでは、自分の身は自分で守るのがモットーだ。
無骨な外観とは対照的に、街の中は活気づいている。カルベルンの中心であり、凡その主要な施設は揃っている。中央政府や主なギルドの本部も設置されているのもここだ。当然、人口もカルベルンでは最も多い。外観から勘違いされやすいが、野生の魔物であっても、正式な手続きを踏めば定住する事が可能となっている。
イヴは初めて見るであろう人と魔物の往来にはしゃいでいた。
「すごいすごい! 人がいっぱいだよー!」
「迷子になるなよ」
はぐれない様に僕と手を繋ぎながらも、伝えなくてもいいことを伝えてくる。人がいっぱいなんて、そんな事は見れば分かるが、逆に言うと、イヴはそんなものですらも見た事が無かったのだろう。
人目も憚らずに騒ぐイヴを、周囲は好奇の目で見る。視線が僕にも突き刺さっている様で恥ずかしかったが、イヴの感動を壊してしまうのも気が引けたので、僕は我慢して宿を探した。
『INN』の看板がメインストリートの奥まった場所に見える。僕は早くこの視線に差され続ける状態から脱出したかったので、早足でイヴの手を引いた。
「エリス! エリス!」
イヴが僕の手を引き返した。今度は何を伝えてくるつもりだ。
「なんだよ」
「あれ、ほしいの!」
溜め息交じりに訊いてみると、報告ではなく催促だった。イヴが左手で指差す先……目を遣ると、そこは露店。アイスクリーム屋だった。収入も安定していない今、無駄な出費は控えた方が良い。
そう考えてはいたが、まあ、このくらいなら別に買ってあげても良いのかもしれないと考えてもいた。
アイスを食べていれば、口も塞がって、イヴも大人しくなるだろう。
「……仕方ないな」
「やったー!」
万歳をして満面の笑みを零すイヴ。彼女は、感情を隠すということを知らない。……案外、僕もこの笑顔が見たくて承諾したのではないか。……まさか。
イヴを静かにする代わりに、対価として小銭を払う。理に適っている。それだけのはずだ。
僕が買ってもいいと言うや、イヴは僕の手を離して露店の方へ駆け出した。
僕はやれやれと溜め息を吐いて後を追う。
イヴはショーケース越しに張り付いて、ケースに収められた色とりどりのアイスを見ていた。ここまで来てしまったら、買わずに帰る事は有り得ないだろう。
「いらっしゃいませ!」
「全く……どれが欲しいんだ?」
「えっとね……これがいい!」
にこやかに接客する店番の女性。トレードマークのサンバイザーが陽光に照らされて光った。イヴが指差したのはストロベリーフレーバーのアイス。他にも様々なフレーバーが用意されていたが、彼女は割とシンプルな選択をした。
バニラではなくイチゴを選ぶのは、女の子の性なのだろうか。
「じゃあ、ストロベリーを、シングルで」
「えっ、エリスは食べないの?」
イヴは僕も頼む事を前提としていたらしく、きょとんとした様子で僕の方を見た。
「……すいませんが、バニラのシングルを追加で」
「かしこまりました!」
僕は食べる必要も無かったし、出費も嵩むだけなので断ってもよかったのだが、何となくその場の雰囲気に押されて、追加を頼んでしまった。これ幸いと、店番は白い歯を光らせた。
店番はコーンを二つ用意して、それぞれに手際よく、大型のディッシャーを使ってアイスを乗せていく。30秒もしない内に、僕達のアイスは用意された。
「お待たせしました!」
「ありがとう」
「可愛い妹さんですね!」
「え? あはは……どうも」
僕は不意打ちの勘違いに動揺した。否定する間も無く乾いた笑いが口を突いて出てきて、咄嗟に僕は畏まって会釈をしてしまった。
代金を渡して、アイスを手渡しで受け取る。その内の一つをイヴに手渡して、僕達は店先に置いてある一組のテーブルとイスに対面して座った。
僕は流れ行く雑踏に漠然と目を通しながら、店番の勘違いを頭の中で反芻していた。
可愛い妹さんですね、か。
僕とイヴは……並んでいると、兄妹に見える。店番が言ったのは、そういうことだ。
齢にして、18と10。僕はイヴの身長までは知らないが、僕の身長が179cmで、それを鑑みると、イヴは僕より30cm程小さい。兄妹に見えたとしても、無理ではない。
けれど、実際には、違う。
そう勘違いされたのなら、穏やかに否定すればいい。のだけれども、僕の中には何処にあるのか分からないむず痒さがあった。
向かいのイヴは、これまた初めてのストロベリーアイスに魅了されていた。冷たさと酸っぱさに眉を寄せて、甘さに頬を緩ませて、表情には落ち着きが無い。
少なくとも、見ていて飽きるものではなかった。
「おいしい!」
「良かったね」
「ねぇ、エリスのも食べていい?」
僕がバニラで、イヴはイチゴ。イヴは僕のも食べてみたいと言い出した。それなら注文する時に言えば良かったのだろうが、隣の芝生は青いという諺を知っている僕は、嫌がらずにそれを認めた。
「ん? ああ、いいよ……はい、口開けて」
「あーん」
スプーンにアイスを掬って、イヴの口元に運ぶ。スプーンに乗せたアイスは、イヴの口の中に消えていった。
「んー! これもおいしいよ!」
「そうだろうね」
どこでも売ってる様なものだろうに、イヴはご馳走でも食べたかの様にそれを美味しいと言う。子供の味覚であれば、アイスクリームは凡そ美味しく感じるのだろう。甘いものが苦手でもない限り、お菓子は大概美味しいと思えるものだ。
僕だってそうだ。甘いものを食べれば少なからずリラックス出来る。
僕は依然崩れないイヴの笑顔を見ながら、自分のアイスを口に入れた。
ひんやりとした甘さ。溶ける様に広がるクリームの舌触り。けれど、誰かとこうして一緒に食べるのは矢張り久しい。そして、何だか懐かしい。
「エリス!」
「今度は何……」
「あーんして」
僕を呼ぶ声の後、スプーンが僕の言葉を遮る様に突き出された。
イヴが使っていたそれの上に載っているのは、赤い果肉の混ざったアイスクリームだった。
「僕はいいって……」
「エリス、わたしにくれたでしょ? だから、お返し!」
「でも……」
僕がアイスを分けたから、そのお返しに自分のアイスも分ける。何もおかしい話ではないのだが、僕は年下の女の子に食べさせてもらうという行為に何か得体の知れない気恥ずかしさがあった。
どうしてかは分からないが、僕はイヴの厚意を素直に受け入れる事が出来なかったのだ。
「イチゴもおいしいよ!」
「いや、そうじゃなくて……」
「ほら、あーん!」
「……あーん」
僕は顔を背けて拒んでいたものの、やがてこれに応じなければイヴの気が治まらない事に気付くと、甘んじて受け入れた。受け入れざるを得なかった。
バニラとは違う、独特の酸味が口の中に広がる。思惑通りとなったイヴはどこか満足げに、甘酸っぱさを味わう僕を見ていた。
「おいしいでしょ?」
「……ああ」
「えへへ……」
「何だよ、急に」
別段嘘を吐く理由も無いので、イヴの問いかけには頷いておく。同意が得られただけにしては、イヴはやけに嬉しそうに笑った。
「ううん、何でもないの。エリスと一緒にいるとね、楽しいの!」
飾らない笑顔で、イヴはそう言ってのけた。この時に限らず、イヴの笑顔にはいつも混じりけが無い。心の底の喜や楽がそのまま表れた様な顔で彼女は笑う。そこには、僕を陥れようだとか、謀ろうだとか、そんな後ろ暗さの類は一切無い。少なくとも、僕にはそう見える。
僕は昨日の胸の奥の疼きがぶり返すのを感じた。イヴの寝顔を見た時のそれだ。
「……ありがとう」
僕は内心戸惑いながらも、彼女にお礼を言った。
取り敢えず、イヴが僕を褒めてくれているのは間違い無い。無いのだが。その度に、僕の胸が熱を持って疼くのはどうしてなのだろう。どうも、これはイヴへの背信とはまた違ったものであるらしかった。
流転する思考の中、僕は疼きの正体を必死に探した。アイスを食べながらだったが、ワッフルコーンを食べ終えても、僕は正体を見つける事が叶わなかった。
エリス・バーンズ。イヴ・アデレード。宿帳にペンを滑らせ、二人分の名前を記す。
二人部屋での宿泊手続きを済ませると、受付から部屋の鍵が渡された。僕達の部屋は二階への階段を上ってすぐの所にあった。
鍵を回して部屋に入り、一段落ついてベッドに腰を下ろす。そうして辺りを見回したのがおよそ午後4時半前後。夕飯は午後7時半からと宿屋の受付が言っていた。
このまま何もしないでいるには、少しばかり長い間だ。
座る僕の向かい側のベッドでごろごろしているイヴを見て、僕は一つ提案をした。
「夕飯までまだ時間があるから、街の見回りにでも行ってみる?」
「行く行くー!」
予想通りの答えに僕は頷いた。中に居るよりは、外に居る方が良い。イヴはそう思う年頃の子だ。
予想通りに、僕達は夕方の街へと繰り出すことになった。尤も、万が一にイヴが外出を拒んだとしても、僕は街に出るつもりではあった。イヴは街の観光、僕は依頼探し。目的は違えど、街に出るという点では同じだ。
陽が傾いてきて、街に到着した頃より、人影がまばらになってきている。隣のイヴは相変わらず、見たことの無いものに驚いたりしては、街の風景に目移りしていた。僕はイヴを置いて行かない様に、そして時々足を止めるイヴと手を繋いでいた。
暫く歩くと、僕達は、僕が目指していた場所に辿り着いた。大きな噴水が設置してある、街の中心に位置する広場だ。昼間は市民の憩いの場として機能している。黄昏の陽光を受けて輝く水飛沫に、イヴが目を輝かせていた。僕の目的はそこではない。
「きれい……」
「見るのは後で。来るのはこっちだ」
彼女の感動を邪魔するのは申し訳ない。僕は少しの後ろめたさを言葉に含ませて、イヴの手を引いた。
僕の目的はこの広場に設置されている、依頼掲示板だ。住民の投書を政府が受理して、ギルドや傭兵、勇者がそれを引き受けて、解決する。依頼に提示された期間内に解決すれば、依頼主から謝礼を受け取ることが出来るので、傭兵や勇者は主にその謝礼をやりくりして生計を立てるのだ。
フロウトゥールに寄せられる依頼は専ら希少素材の採取で、魔物討伐の依頼は殆ど無い。
僕は手近な依頼書数枚を見て、内容を大雑把に記憶した。後は、明日の朝に来て依頼の受諾を済ませ、依頼解決に取り掛かればいい。僕の用事は終わった。となれば、次はイヴの用事だ。
「待たせて悪かったね。じゃあ、見て回ろうか」
「うん!」
「どこを見たい?」
「おもしろいところ!」
中々難しい注文だ。
円形となっているフロウトゥールでは、確か4つのエリアに分かれていたはずだ。住民の家が立ち並ぶ居住区、各種店舗が軒を連ねる商業区、魔物の特性を考慮して建設された歓楽区、政府やギルド本部が設置されている政庁区。この中で、イヴを楽しませる様な区画は……普通に考えて、居住区か商業区だろう。政庁区はイヴには難しすぎるだろうし、歓楽区はイヴには早すぎる。だが……歓楽区に居るのは、当然ながら人と魔物の夫婦が殆どだ。よく探して歩けば、もしかすると、イヴの両親について、手掛かりだけでも掴めるかもしれない。
ただ……イヴをそこに連れて行っていいのか。魔物とはいえ、まだ子供なのに。
僕の心に葛藤が生じる。
「そうだな……じゃあ、あそこがいいかな」
「どこどこ?」
「付いてくれば分かるよ」
悩みすぎてイヴを待たせてしまうのも悪い。僕は生じた葛藤を振り払うと、イヴの手を引いて歩き出した。敢えて場所を秘する僕に、イヴは期待を膨らませた。考えていることが表情に表れるので、すぐに分かる。僕はとても不安だった。
歩くこと十数分。僕達はショッキングピンクのストリートを歩いていた。いよいよ日が落ちてきて辺りは薄暗くなり、この通りが本領を発揮し始める時間となる。ここぞとばかりに呼び込む娼婦、男娼。建造物群の内部に響くのは、嬌声の輪唱。
精を摂取して生き、夫との交わりを至上の喜びとする魔物娘。そんな彼女らの為に建設された区画、それが歓楽区だ。独り身の男性や魔物娘が一日の疲れを取るため、或いは夫婦の時間を過ごすための施設が、ずらりと立ち並んでいる。僕達は他でもない、そこを歩いていた。夜にこそ活発に回転するこの区は、今という時間に活気づいていた。
来てしまった。
「ここって、どういうところなの?」
勿論、イヴはここがそういうところだとは全く理解していない。理解していないからこそ、僕は心が抉られる思いだった。無垢な問いかけが、痛い。どう説明したらいいのだろう。僕は大いに悩んだ。最初にイヴをどこに案内するかを決める時以上に悩んだ。
「あー……えっと……恋人同士が来るところ、というか……」
「じゃあ、わたしとエリス、こいびとどうし?」
「あっ、いや! そういうわけでもない、か……? いや、違う違う!」
「ちがうの?」
イヴの表情がころころと変わるが、落ち着け、エリス・バーンズ。今は恋人が云々という話ではない。僕が何の為にここにイヴを連れて来たかを、包み隠さずに、彼女に教えてあげればいいだけの事だ。
「いや、そういうことじゃないんだ! ここにイヴの母親や父親がいるかもしれないんだ!」
「わたしのお母さんとお父さん?」
「ああ。もしかしたら、ここにいるかも……」
「ほんと!?」
「いや、分からない。いるかもしれないってだけで……」
「なんだぁ……」
「取り敢えず、探してみようか」
「うん!」
僕はイヴの前では見せたことの無い取り乱し方をしながらも、何とか彼女を納得させる事に成功した。僕は内心でほっと胸を撫で下ろして、改めてイヴを見た。
魔導街灯に照らされて影の落ちたその顔が、どこか残念そうに見えたのは、僕の気の所為だろうか。……僕もきっと、この空気に中てられているのだろう。しっかりするんだ。
僕はイヴの手を引いて、歓楽街を歩き出した。イヴの両親を探す為に。
引っかかるのは店先に出ている娼婦たちばかりで、僕は寧ろ彼女らの対応に苦戦した。客にしっかり楽しんでもらおうという心意気で、タブレットや菓子を配っている者も居る。何が含まれているのかは言うまでもない。肝心の僕も、使いどころなんて無いのに、つい一つ受け取ってしまった。2枚入りのクッキーが、小さな袋に詰められている。
「それ、なに?」
「何でも無いって。それより、イヴの両親を探さないと」
袋の中身を不思議に思ったイヴが訊いてくるが、彼女に説明するのはぞっとしない。僕は適当に誤魔化して、クッキーを胸のポケットに突っ込んだ。
探さないととは言ったものの、一体どうやって探すのかは、肝心の僕にも具体的な案が無かった。順当に考えれば、受付でサキュバスの夫婦が入っているかどうかを確かめればいいのだが、一つ一つ施設を調べていくのは恐ろしく非効率だ。仮にその夫婦が入っているのが分かったとして、夫婦で楽しんでいるところを邪魔し、挙句人違いだったとなれば後味が悪いどころの話ではない。
結局、僕達は賑やかな通りをうろうろしては、通り掛かったサキュバスに声をかけ、人違いだったらまた通行人に目を光らせる、という作業を繰り返すだけだった。目ぼしい話も聞けず、徒労は火を見るより明らかだった。
「……見つからないね」
イヴの虚しさを感じさせる口調がちくりと僕の胸を刺す。僕が考えたことは、余りに行き当たりばったりだった様だ。
「……ごめん、変に期待させて」
「エリス、わたしのことを考えてくれたんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「なら、わたしはうれしいよ」
僕は純粋に申し訳の無さを感じて謝ったが、イヴはそれを意に介さない。僕の胸は尚も縮こまる思いだった。僕が嘗て殺そうとしていた魔物の中には、こんなにも健気な者もいる。イヴの優しさに一矢報いたいところだったが、人魔の波は無情にも僕達の前を通り過ぎて行く。それぞれの想いを遂げるがために、愛の無い僕達を通り過ぎて行く。至る所で聞こえる誘惑の声が、耳に痛かった。
然したる成果も無いまま、夕食の時間が訪れた。僕達は宿に戻り、出された温かい食事を胃に詰め込んだ。イヴがどうだったかは分からないが、少なくとも僕は素直に食事を楽しむ気分にはなれなかった。夕食を終えて部屋へ上がり、入浴の準備を行う午後8時。僕達は入浴に使う道具一式を持って、一階の浴場へ向かった。当然、浴場の出入り口は二つ。男湯と女湯。この宿の浴場はジパングの温泉を参考に作られているらしい。露天風呂という、屋外に設置された風呂も楽しめると聞いている。
「先に上がったら、待っていてくれ」
一方が先に上がったら、もう一方が上がってくるまで待つ。男の僕の方が上がるのは早いだろうが、念のためにイヴには伝えておく事にした。僕が更衣室へと歩を進めようとしたその時、イヴが僕を呼び止めた。
「えっ……いっしょじゃないの?」
僕は絶句した。イヴはそうじゃなかったのかと言わんばかりに僕の前提を粉々に砕いてきた。僕とイヴが一緒に入浴すると。あまつさえ公共の場で。いや、公共の場でなくても断らなければいけないところだが。
「……風呂くらいは一人で入れるだろ?」
断らなければと、何とか言葉を絞り出す。あの家に居た時は恐らく、川で水浴びでもしていたのだろう。ならば、一人で湯浴みをするくらいは造作も無いはずだ。
「うん。でも……一人で入るの、こわい……」
「いや、他にも入ってる人がいるから……」
イヴは怖がりなのだろうか、少し不安げに僕を見つめてくる。僕はそうは思わない。怖がりだったら、崖下に倒れている人間を態々介抱したりはしないだろう。
仮にイヴが一人になるのを怖がっているとしても、今の時間なら他にも入浴している人がいても何らおかしくはない。僕と入らなければならないということはないはずだ。僕と一緒に入りたいなどと考えているのならば別だが。
「わたしは、エリスと一緒にに入りたいの」
「駄目!!」
僕は食い気味に叫んだ。
とうとうイヴは言ってしまった。それだけは言ってはいけなかったのに。気持ちは分かる。分かってはいけないが分かる。親しい人と時間を共にしたいというのは分かる。イヴにとっては恐らく、僕は記憶を失ってから初めて接した人間だったのだろう。だから風呂に入る時も一緒がいいと。そういう考えに至ったのは分かる。
だが……限度だ。これは限度だ。他の客に見られでもしたら、僕の沽券に関わる事案となってしまう。
「で、でも……」
突然声を荒げた僕にびくっとして、イヴは半泣きになりながらも、尚も食い下がる。でもじゃない。でもじゃないが、イヴの希望はなるべく叶えてあげたい気持ちもあるにはある。けれど、僕だって自分の立場は守りたい。残念だが、イヴには涙を飲んでもらうしか……
諦めかけたその瞬間、僕に天啓のごとき閃きが舞い降りた。僕の立場を失墜させず、かつイヴの希望を叶えるやり方が、一つだけ残っていた。
「……要するに、僕が傍に要れば良いんだな?」
「え? う、うん」
「……分かった」
「いいの!?」
イヴの表情に光明が差す。そこまでして僕と入りたかったのだろうか。別段、嬉しいというわけではなく、僕にべったりなイヴが少し心配だった。逸るイヴを制止して、僕は徐に告げた。
「少し遅くなるけど、我慢できるか?」
「うん!」
「じゃあ、部屋に戻ろう」
イヴに異論が無いというのなら話は早い。僕達は踵を返して、部屋に戻る事になった。
ここからは、時間潰しだ。僕とイヴが一緒に風呂に入るとなると、他の客の目に止まって、主に僕の立場が危なくなる。それは裏を返せば、他の客がいない状況であれば、その心配が無くなるという事でもあるのだ。だから、浴場の営業時間ギリギリ……他の客が寝静まる深夜に入れば、イヴは僕と入浴出来るし、僕は人の目を気にせず安心して入浴できるというわけだ。
僕達は部屋に戻ると、向かい合ってベッドに腰掛けた。宿泊のための部屋には、テーブルの上のスタンドライトを挟む様にしてベッドが二つ。荷物を入れておくためのクロゼットが一つ。後は洗面台が置いてあるくらいで、子供が走り回れる様なスペースなどあるわけがない。窓を見れば夜の闇が口を開けているだけ。僕には木の香りが心地良いが、イヴはまだそれを楽しめる年齢ではないだろう。必然的に、どうにかしてこの空いた時間を潰さなければならなかった。
時間潰しとは言え、何をしようという当てがあるわけでもない。今街に繰り出してもイヴには退屈だろうし、僕もこれ以上の外出はもう控えたい。僕は暇を持て余しても構わなかったが、問題はイヴだ。皆が寝静まる時間まで、退屈や睡魔に負けずにいられるかどうか。願わくば、このまま僕の気付かない内に眠りに落ちてくれるととても助かるのだが。
「エリスー……退屈だよ……」
時計の長針が幾分と刻まない内に、イヴは座ったまま両足をバタバタさせて、唇を尖らせた。これは勿論、僕の予想の範囲内だ。だからといって、彼女に何か解決策を提示してやるわけでもなかったが。
「我慢だよ。羊の数でも数えてれば、時間はすぐに来るさ」
「それですぐに来るのは朝でしょ!」
「じゃあ、天井のシミでも数える?」
「あ、それならいいかも!」
イヴにも真っ当なツッコミは出来るらしい。が、流石にそこまでの耳年増でもなかったようだ。こういう問答は嫌いじゃないが、僕の問いかけ次第ではイヴに良からぬことを吹き込みかねないので気を付けなければ。
「よくない」
「え、なんで?」
イヴが何の気無しに訊いてくる。そこで僕はイヴで楽しんでいるつもりが、いつの間にか墓穴を掘っていることに気が付いた。気を付けた矢先の出来事である。
僕は何とかこの質問に対し、イヴの純潔を汚さずに上手く答えなければならない。それは僕にとっての難問に他ならなかった。下手な上級魔導書を読むよりよっぽど難しいかもしれない。
「あ……いや……それは、恋人がすることだから」
「わたしとエリスはこいびとなの?」
僕の歯切れの悪い答えには、イヴの鮮やかな切り返しが飛んでくる。イヴはこういうことを一切の悪意も無く訊いてくるので、時にひどく性質が悪い。ばっさりと切り捨ててしまえばいいのに、僕には子供に対する情でそれが出来ない。そもそも、この質問に対して是か非で答えてしまうのは、そのどちらにおいても主に僕のきまりが悪くなりかねなかった。
「……どうだろうね」
「でも、エリスがきいたんだよ?」
だからこそ僕は目を逸らしてはぐらかしたのだが、イヴはそんなことはお構い無しで矢継ぎ早に疑問を浴びせる。僕はどうやら守勢に回ると酷く脆いのが分かった。それが戦闘にせよ、こういった問答であるにせよ、だ。僕は答えれば答えるほど泥沼に嵌まっていく様な気がした。
「……恋人ってのは、お互いがお互いを好きでないといけないんだ」
「わたしは、エリスのこと好きだよ?」
イヴがそう、忌憚無く僕への思いを述べた時、僕の胸の奥が、また再燃した。鼓動が僕の中で響く。イヴにまで聞こえてしまいそうな程に、強く激しかった。このタイミングで僕の胸が疼いたということは……僕はもう、この疼きの正体を突き止めてしまった。疼きの正体は、僕の予想を全く裏切る、凡そ僕には到底信じられないようなものだと、僕は突き止めた。だが、この疼きは恐らく、決して、癒えていいものではないことも、僕は同時に突き止めざるを得なかった。
僕はうなだれ、頭をがっくりと下げた。
「いや……その……イヴの言う好きと、恋人同士の好きってのは違うんだ」
「そうなの?」
「ああ。きっと、イヴが僕を好きっていうのは、恋人同士の好きじゃないと思う」
「でも、わたしはエリスのこいびとになってもいいよ?」
僕は少しの間、イヴが何を言っているのか分からなかった。唐突が過ぎたのだ。
どうして、彼女はこうも率直なのか。少しは僕を見習って回りくどくなりさえすれば、僕はこんな思いをすることも無いのに。
僕の精神は、イヴへの理不尽な八つ当たりに近かった。けれど、本当にイヴに当たっても、仕方が無い。僕は怒りを何とか逃がす様に、大きな溜め息を吐いた。
「……あんた、恋人の意味、解ってるのか?」
「うん。大好きな人ってことでしょ?」
僕は睨む様に強くイヴを見た。だが、イヴはそれに物怖じしなかった。僕が強く言えばイヴは大抵怯むはずなのに、彼女は僕の問いにいとも簡単に答えてしまった。
イヴの答えは間違っていない。恋人とは恋しいと思う相手、相思相愛の間柄だ。けれども、恋人という関係はいつでも成立するわけではない事を、イヴはまだ知らない。けれど、それをイヴに説明するのは、とても骨が折れる。それは恐らく、年を重ねる事によってしか理解出来ないだろうから。
「……ああ、そうだな」
「エリスは、わたしのこと、どう思ってるの?」
イヴの質問には、悪意すら込められている様な気がしてならない。勿論、本人にとっては悪意など微塵も無いのだろう。目を見れば、大体分かる。
僕はイヴの様にはなれないだろうから、この場でイヴの期待に応える事は出来ない。言ってしまえば、僕がどうなるか分かったものではない。
「……手の掛かる子だと思ってる」
「えー! ひどいよ!」
僕の毒舌に、イヴは心外だと言わんばかりに頬を膨らませている。事実、今これでもかと言わんばかりに手を焼いているのだから、嘘ではない。
「もっと利口になってくれれば良いんだけどね」
「わたし、お利口さんじゃないの?」
「それなら、少し眠ってな。時間が来たら、僕が起こすから」
「いいの?」
「いいから」
僕が答えをはぐらかした事には突っ込まれなかった様なので安心した。僕は何とか、首尾良くイヴを寝かしつけることに成功した。よく寝る子なのだから、最初からこうしておけばよかった。おかげで大損だ。
訝しがりながらもベッドに横になって、目を閉じたイヴを見つめて暫く。眠りに落ちたイヴを見ながら、僕は考えていた。
イヴは、ある意味では、僕の生きる意味だ。もしイヴがいなくなれば、僕はどうなるか分からない。それは、生きる目的が無いという意味でだ。僕は勇者を辞めた後の事を全く考えていなかった。特に何をしようというつもりも無く、ただ根無し草の様に放浪するだけの人間。そこに終着点は無い。
何か目的があるというのは楽なので、だから、イヴは大切にしたい。ただ、その延長で僕は……
僕は考えるのを止めて、テーブルに置かれた白紙の本を見た。手に取って、それを恐る恐る開く。
矢張り、絵本は描き足されていた。騎士が女の子に仕えると決めたところで終わっていた物語が、新たに刻まれている。
女の子は外の世界を見たことがありませんでした。
そこで、女の子は騎士に外の世界を見せるように命令します。
「わたしに、外の世界をみせてくれないかしら?」
「分かりました」
命令に従った騎士は、主の女の子と共に旅に出ます。
旅を通して、女の子に外の世界を見せようと考えたのです。
旅の途中、女の子は主として、騎士は仕える者として、ゆっくりと絆を深めていきました。
「あなたは強いのね」
「それほどでもありません」
「いいえ、強いわ。立派に私のことを守ってくれているもの」
「恐縮です」
「もっと楽しい人だといいのだけれどね」
「すみません」
「うふふ……冗談よ」
「…………」
旅は楽しいものでしたが、同時に辛いものでもありました。女の子との距離を縮めた騎士は、次第に、女の子のことが好きになってしまったのです。
主に恋をしてはならない。この想いは伝わってはならない。騎士は、誠実で、真面目で、悩んでいました。
ここで途切れている。僕は本を閉じて、テーブルに戻した。
違和感があった。この物語に登場する人物に、妙な親近感が湧いている。僕達をモデルにして描かれているのかと思うほどに、登場人物も、ストーリーも、僕達の足跡と似ている気がする。これは偶然なのだろうか。
ただ、僕達の行動によってこの絵本が描かれているのだとしたら、イヴがこの本を持っていた意味は何なのだろう。謎はまだ、謎でしかないらしい。
壁に掛けられている時計を見た。時間はまだ2時間程余っていた。思っていたより、時間は進んでいない。この時間なら……僕は荷物の入った袋を漁った。ベルトと、革と……針も要る。紐もあった方が良いだろうか。暇潰しには丁度良いだろう。
短針が良い塩梅に動いた頃、僕の作品も完成した。試しに本を収めてみる。サイズも丁度良い。これくらい出来れば満足だ。
「イヴ。……イヴ、時間だ。起きてくれ」
「んー……?」
僕は完成品をテーブルに置くと、眠り姫の肩を揺すって呼びかけた。そのまま眠ってくれていたら僕はこの後一人でのんびりと入浴出来たのだが、僕の淡い願いは砕かれた。
寝惚け眼をこすって、イヴがむくりと起き上がる。
「風呂だよ。入らなくて良いのか?」
「はっ! 入るよ!」
「なら、早く準備してくれ」
普通は寝起きなら風呂くらいは諦めそうなものだが、イヴにとっては寧ろ目が覚める程度には重要らしい。そこまで拘る必要も無いだろうに。僕達は入浴道具一式を持って、既に薄暗くなった廊下を進む。イヴも暗闇には弱いのか、両手で僕の腕を強く掴んでいた。
浴場の入り口に到着すると、途端に緊張が走ってきた。本当に誰も居ないのか、見つからずに済むのだろうか……深夜に年端も行かない少女を連れ込んで入浴とは、見られた瞬間を想像しただけでもぞっとする。
僕は意を決して男湯を進んだ。脱衣所に人影は無く、先ずは一安心といったところだ。
「誰もいないみたいだし、入ろうか」
「うん!」
僕はイヴと背中合わせにして入浴の準備を始めた。胸当てを外し、インナーを脱ぎ……後ろに同じ様に脱衣しているイヴが居るとは、考えないようにして。腰布を巻いて少し待った後、イヴに確認を取る。
「着替えは終わった?」
「終わったよ」
やれやれ着替え一つでこんなにも複雑な思いをしなければならないのか、と毒づきながら、後ろへ振り向いた。白くて長いタオルを体に巻いたイヴ。この布の下には彼女の肢体が……そんな飢えた妄想をするまでも無く、またも彼女は僕の前提をぶち壊しにした。
生まれたままの姿のイヴが、そこに居た。僕は反射的にまた後ろへ向き直り、彼女へ叫んだ。
「終わってないだろ!!」
「え? でも、服はぜんぶ脱いだよ?」
「そうじゃない! タオルを体に巻けと言っているんだ!」
「どうして?」
「僕が困るんだ! 頼むから!」
僕の必死な懇願に、イヴはここぞとばかりに恍けた返ししてくる。恐ろしいのは、この対応に含みの類が一切無いことだ。僕が局部を隠せと言った事にすら、彼女は僕にクエスチョンマークをぶつけてくるのだから悍ましい。彼女に羞恥心というものは無いのか。
僕に小洒落た返しをする余裕などあるはずも無く、どぎまぎする胸を抑え、破廉恥なものでも見た時の様に叫びまくることしか出来なかった。実際のところ、破廉恥でしかない。
「巻いたよ」
イヴの声を聞くと、僕は跳ねる心臓を落ち着かせて、もう一度後ろを振り向いた。胸までを白布で隠したイヴが、これでどうだと言わんばかりに立っていた。これで、今度こそは大丈夫だ。
僕は叫び過ぎたのか、ひどい疲労感を覚えて大きな溜め息を吐いた。これはここで注意しておかなければ、今後に問題が生じかねない。
「イヴ……誰かと一緒に風呂に入る時は、大事なところと胸を隠すんだ。分かったな?」
「でも、エリスはおむね、隠してないよ?」
「僕は男だから良いんだよ」
「えー、ずるーい」
何がだ。
「それで恥ずかしい思いをするのはイヴなんだ。だから、僕の言ったことをちゃんと守ってくれ」
「わかった!」
本当だろうか。不安しか募ってこないが、こればかりはイヴを信じるしかない。
僕は不安を振り払う様にして、浴場の中のドアを開けた。充満した蒸気が、僕達の身体を撫ぜる。浴場は作りこそシンプルだが、清潔感に溢れていた。蒸気に曇った白い照明を見ていると、心なしか安心する。
数基だが、シャワーも置かれている。中々進んだところの様だ。割増しに感じた分をこの辺りで取り返してきたというわけか。
体と髪を洗って湯に浸かったのは、僕が先だった。イヴが体を洗ってあげるなどと言い出しやしないかと危惧していたが、杞憂に終わって何よりだ。
折角の風呂なのだから気を緩めているべきなのだが、僕は全くと言って良い程それが出来なかった。何故か。
僕の目蓋の裏に、べったりと、ある光景が張り付いていたからだ。僕が最初に振り向いた瞬間の光景……イヴの、生々しい肢体。絹の様な白い肌。二点の桜色。毛の無い秘所。一本筋。ほんの一瞬しか見ていなかったはずのそれが、容易く、ありありと浮かんでくる。この感覚に、僕は油断ならなかった。
僕がイヴを意識してしまっているという事実は、もう逃れようが無い。けれども、僕の理性はとても優秀な事に、この気持ちを彼女に伝えることをしっかりと抑制出来ていた。僕はそれで良かった。この関係は、成立してはならないものだと、理解していたから。
ざぶん、という水音で思考が中断された。音のした方向を見れば、イヴが湯の熱さに耐えていた。顔をしかめて、ぐっと堪えて。じんわりと、身体の内から、熱が広がる感覚。それを身に受けてやっと、イヴは顔を綻ばせた。
「……ぷっ、年寄り臭いな」
「えー、いいでしょー!」
「ごめんごめん」
「もー、謝るつもりないでしょ!」
「あるよ」
「ないよ!」
「あるってば」
僕はそれを見て、思わず緊張が解れた。拗ねた表情をするイヴがまた面白くて、僕は口角を上げながらも謝った。年寄り扱いされたことが余程不服だったのか、イヴは飽き足らずに僕の正面に回って、突っ掛かってくる。閑散とした浴場に、言い合いの声がよく響く。今日染み出てきた膿が、全て湯の中に溶けていく気がした。
またも起こった押し問答の間も、僕はそれに集中していた。そうでないと、目線が下に降りてしまいそうだったから。これさえなければ、本当に穏やかな入浴だったのだが。
「すいませーん、ちょっといいですか?」
イヴが口を開こうとした瞬間、ガラガラと、浴場の戸が開けられる音がした。僕は跳び上がりそうになったが、そうするよりも先に、イヴの身体を引き寄せて、僕の身体に密着させていた。直後、僕のものでも、イヴのものでもない声が、背後から聞こえる。中年男性の声。清掃員か。
「は、はい!」
声の上擦りと震えを全力で抑え込み、返事を絞り出す。今、僕は伸ばした両脚の上にイヴを座らせた様な格好でいる。僕が影になって、清掃員からはイヴの姿が確認出来ない。清掃員もまだ、イヴが一緒に入っている事には気付いていないようだ。僕がしなければならない事は、彼がイヴの存在に気付かないように死力を尽くすこと。見つかれば、その先に待つ結末は我が身の破滅だ。
「そろそろ清掃を始めたいんですが、出てもらえますかね?」
「あ、はい、すいません。すぐ出ますから……」
「……お客さん一人だけですよね? 何か、女の子の声がしたんですが」
「み、見れば分かるじゃないですか。僕は夜の深い時に一人で入るのが好きなもので」
「ですよねぇ。じゃあ、早めに頼みますよ」
「はい、どうも……」
ガラガラ、という音で清掃員が出て行った後も、僕の心臓は乱舞していて、息が落ち着かなかった。清掃員がイヴに感付きかけた時には生きた心地がしなかったものだが、間一髪で難を逃れたらしい。
清掃員に見つからずに浴場から抜け出すのは骨が折れそうだが、今はこの場を凌げた事を喜ぼう。僕は今日で何度目かの溜め息を吐いたが、その時、ある変化に気付いた。
「ねぇ、エリス……」
「どうした?」
「これ、なに?」
「!!」
難は、まだ完全に去ってはいなかった。腰布越しにイヴの小振りな臀部に宛がわれている……イヴが遠慮がちに「これ」と言ったモノ。それは、血の上った僕の分身だった。
ほぼ裸の、自分が意識している相手と密着すれば、不可抗力とは言え、こうなるのはある意味必然だとすら言える。僕は再び跳び上がりそうに仰天した。
「いや、ちっ、違うんだ! ほら、早く上がらなきゃ!」
僕は思わずイヴを引き剥がして、何とも無く否定した。清掃員に見つかりやしないかという緊張と、図らずもイヴに劣情を抱いてしまった驚愕とで、僕の頭は大混乱を引き起こしていた。煩雑になった思考の中、僕は急いで湯から上がるように言えば、この事案は誤魔化せるのではないかと考えた。
結果から言えばそれは成功したが、不自然以外の何物でもなかったのは確かだろう。イヴでなかったら……そもそも幻滅されていたか。僕は未だ目をきょとんと丸くしているイヴの手を引いて、脱衣所へ出た。脱衣所に清掃員の影は無く、恐らくはスタッフルームにいるのだろう。僕達は濡れて火照った体を拭き、手早く着替えを済ませて浴場を去った。怪盗もかくやという仕事の早さだったと思う。
部屋に戻ると、僕はどっと息を吐いてベッドにどんと腰掛けた。イヴの目の丸さは変わっていない。
「だ、大丈夫?」
遂に見かねたのか、イヴが心配そうに訊いてきた。色々と大丈夫ではないのだが、ここで正直にそれを言うと、イヴが何をしでかすか分かったものではない。
「あ、ああ。掃除の人に急かされて、少し焦っただけだよ」
「クッキー食べる?」
「ん……ああ」
「はい」
「ありがとう」
随分と唐突にイヴは一枚のクッキーを僕に差し出した。特に他意は無いだろうし、僕の醜態を思いやってのことだろう。僕は躊躇わずに受け取って、それを口に放り込んだ。咀嚼すると、さくさくと甘さが拡散する。可も無く不可も無い味。不思議と何だか酸っぱい様な気がした。
イヴは小袋からそれを取り出して食べていた。2枚しか入っていなかったようだ。……どこかで見たことがあった。そう、気付いた時には、僕もイヴも、口の中は空で、僕だけが血の引くような寒気を感じた。僕は凄まじい焦燥に駆られて胸のポケットに手を突っ込んだ。僕達の口の中と同じく、空だった。
「イヴ……今のクッキーって……」
「うん。エリスのポケットに入ってたの。はんぶんこした方がいいでしょ?」
「……ああ、そうだな」
或いは、イヴは僕がこのクッキーを独り占めするのではないかと勘繰ってそうしたのかもしれない。知らぬは罪。僕は初めてそう思った。これは怒りか、喜びか、焦りか、恐れか。とにかく、僕が感知している限りでは四つ以上の感情が交錯していた。それが喉の奥で何かに押さえつけられていて、胸が突っ張るようだった。
僕はもう、イヴがしてしまったことの意味を彼女に説明する気すら失せていた。それくらいの心的余裕など、とうに潰えてしまっていた。僕は進退窮まって、ベッドの上に大の字で寝転がった。
歓楽区でもらったあのクッキーを、奇しくも用法通りに食べてしまった。僕はこれから、戦わねばならないのだろう。敗北するとしても、己の精神と、ただ只管に向き合って、その欲を突っぱねなければならないのだ。
やがてシミのように全身に広がっていく火照り。やけに回りが早いと思ったが、ああ、あれは魔界のものか。道理で早いはずだ。イヴも、そろそろ身体が帯びた熱に気付き始めているだろう。
「エリスぅ……」
「……なんだよ」
「わたし、なんか変なの。からだ、熱くて……おまた、じんじんするの。病気なのかな?」
声にも、その熱は混ざっていた。熱の篭もった、粘性の声が、僕の心を逆撫でしてくる。僕は起き上がって、イヴの方に複雑な視線を送った。全面的にあんたのせいだと怒鳴りつけてやりたかった。そんな気力も無い。あるのは、腹の中でボイラーみたいに熱くなっている劣情だった。それを抑えるので、僕は精一杯だった。
「大丈夫だ。我慢していれば、治る」
「ほんとう?」
「ああ」
「でも……やっぱり変なの。エリスを見てると、胸がどきどきするの。エリス、そっちにいってもいい?」
僕は、イヴからは見えていない左拳を握り締めた。的確に、無情に、僕を煽るイヴ。僕がどれほど辛い思いをしてこの疼きに堪えているか、彼女は当然知らない。
「……駄目だ」
「エリスと一緒なら、わたし、がまんできるよ」
僕は残り少ない理性を振り絞ったが、イヴはひどいジレンマを提示してきた。
イヴは僕の傍に居れば疼きに耐えられると言う。しかし、今彼女が僕と同衾しようものなら、僕はいよいよ自分の理性を壊してしまうに違いなかった。
……そもそも、イヴは自分自身の欲望に従って、僕との同衾を望んでいる。そう考えた方が自然だ。同衾して自分の欲が満たされれば、疼きは治まるのだと、きっとそう考えているのだろう。それは違う、と僕は否定しようとした。言葉が喉でつっかえて、出てこない。僕は蛇に睨まれた蛙のように、黙ってイヴに目を向けていた。
「お願い、エリス……」
イヴの懇願が、僕の理性に罅を入れる。僕は今にも気を違えそうだった。僕の頭の領域が、どんどんイヴへの想いで浸食されていく。
痺れを切らしたイヴが、一歩。また一歩と、僕のベッドに迫ってくる。
「や、やめろ……イヴ……やめてくれ……」
僕は首を横に振り、後ずさって、震える声でイヴを拒否した。僕は既に、僕自身がイヴをどうしたいのか理解している。それが何を意味するかも理解している。だから、拒んだ。それが、僕に出来る、最後の足掻きだった。
背中は、壁。イヴが、逃げ場を失った僕にしなだれかかってくる。
「えへへ……やっぱり、エリスってあったかい……」
僕の胸に顔をうずめてはにかむイヴ。欲望が氾濫する。その言葉を最後に、僕の理性の堤防が決壊した。
「イヴ……!」
「きゃっ」
次の瞬間、僕はイヴの腕を掴んで、仰向けに押し倒していた。僕はイヴの瞳を見覗き込んだ。食い入るように。碧く光る双眸。僕が、そこに映っていた。瞳がぎらぎらしていた。獣のようなそれが自分のものだとは思えなかった。
僕の眼を見たイヴは怯えていたが、同時に、満更でもなさそうだった。これから僕が何をするのかを、本能で感じ取っているのかもしれない。
ならば、話は早い。僕は覆い被さってイヴの唇を奪った。間髪入れずに、舌をイヴの口内へ滑り込ませる。
「んむぅ……!? ぁむ、ちゅ……ぇるっ……え、りしゅ……」
「ちゅっ、ちゅぅ……んぐ、じゅ、ぢゅるっ……イヴ……」
もう、後戻りは出来ない。僕は飢えた狼のようにイヴを貪った。媚薬で恐怖が麻痺しているのか、イヴも最初は強張っていたが、僕が舌をうねらせる度に、僕の動きに合わせるようになってきた。
イヴの桜のような薄い唇。細くて、けど柔かい舌。蒸気になって白く見えそうなくらい、熱く零れる吐息。全部、小さい子供のそれ。僕はそれにどうしようもなく興奮している。絡み合う舌が、途方も無い愉悦を齎す。口が溶けそうだ。
僕はイヴの口を溶かしながら、手で自分の分身を引き摺り出した。自分でも見たことがないくらいに大きくなっていた。イヴも、やおら取り出されたそれを見てぎょっとしている。
僕は気にせず、彼女のエプロンドレスの下をまさぐった。両脚の付け根に布の感触がある。その中心に触ると……
「むぅぅ!?」
イヴの体がびくんと跳ねて、高い声が流れた。声は僕の口内で吐息と霧散する。そこでやっと、僕はイヴの口を解放した。どちらのものか分からない唾液で、彼女の小さな唇が薄闇に光っていた。背筋が震えるようだ。
彼女の秘所はショーツ越しでも分かる程、びしょびしょに濡れていた。直に触れてもいないのに、僕の親指と人差し指の間で糸を引いている。僕はイヴのドレスを捲って、そこを露わにした。僕は、ショーツを脱がすのすら億劫で、急いていた。一秒でも早く、彼女を喰らい尽くしてしまいたかった。だから僕はショーツをずらして、赤黒く腫れた僕の怒張を、イヴの傷一つ付いていない桜桃に宛がった。
「な、なにするの……?」
「力、抜いて」
流石のイヴも不安げだったが、僕にイヴの問いに答える暇は無かった。僕はただ、行き場を失ってもがいている熱を、吐いてしまいたかった。
躊躇いをかなぐり捨てて、僕は腰を一気に押し出した。
「ひっ……ぐ、うぅぅ、んっ……」
「あ、ぁ……うあ、う……」
彼女は、僕を受け止めるにはあまりに小さい。破瓜の苦痛に歪み、歯を食い縛るイヴを見て、幾らか正気に戻った気がした。だが、今更正気に戻ったところで、どうこう出来るわけでもない。出来ることがあるとすれば、せめて、彼女を傷つけないように愛することくらいだ。
実際、僕とイヴの体格差は大きく、僕はイヴを抱き上げて、そのままきつく抱きしめた。イヴの痛みが落ち着くまで、ぴったりと。イヴの鼓動が、とくん、とくん、と伝わる。暖かで、しかし許されないぬくもり。僕が如何に彼女を労わっても、僕が背徳の快感に身を震わせているのは誤魔化せない。
僕は待ちきれずに、腰を上下し始めてしまった。狭く、きつく、火傷しそうなイヴのナカ。肉ヒダが絡みついて蠕動し、僕からありったけの精を搾り取ろうとしている。
「いっ……んっ、うあぁっ、ひぅ、あっ、あぁぁっ……」
媚薬のせいか、思ったよりイヴの反応は芳しかった。僕が彼女を突き上げている格好だから、イヴの奥を突くことは造作も無い。服を着たまま、獣のように交わって、イヴを喘がせている。イヴが快楽の波にさらわれそうになりながらも、意識にしがみつく傍らで、僕は背徳感の塊に押し潰されそうだった。
僕はもっと彼女を乱れさせたいとすら考えていた。もっと、熾烈で強烈な快楽に彼女を叩き落としたいと切に望んでいた。僕がそれを実行するのに、さほど時間は掛からなかった。つまるところそれは建前でしかなく、僕は単にもう辛抱が出来ないだけだった。
僕はイヴを抱く腕を緩めて、彼女をベッドに転がす。姿勢を整え、僕は抽送に没入した。突いては抜き、抜いては突き……乱暴に、それが段々と加速する。
「ひゃ、あっ……やぁっ、やめっ、ひゃめてぇ……!」
より激しい抽送にイヴの性感も加速していた。目尻から透明な筋を伝わせ彼女は止めてと言うが、止めてと言われて止められるものではない。寧ろ、この状況でそれを言うのは逆効果だ。僕の嗜虐心がイヴの言葉で増幅していくのが分かる。
僕の目に、二つの桜色が留まった。もっと強い快感を求め、僕はそれに手を伸ばす。
「ぁあ!? それ、やらぁっ……ぅあぁっ! こわい、くる……やらやらやら!」
「大丈夫だから……! イヴッ!」
小さいながらも興奮で尖り、硬くなったそれを、僕は摘まんだり、転がしたり、押し潰してみたり。色々試してみたが、この時では、どんな責めに対してもイヴはいやいやをした。僕はそれに応えて腰を前後させる速度を更に上げる。
既に呂律が回らなくなったイヴは、何かを必死に拒んでいた。僕の余裕の無さから鑑みれば、それが何なのかは考えるべくもあらず、本能的に理解出来る。
それは怖くないのだと説明したかったが、今の僕にはそれは出来そうもない。逸物が膨らんでいる。我慢の限界と悲鳴を上げている。下腹部が、焼ける。
「やっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁっっ!!」
「……っ、ぐっ、ぅうう……!」
打ち付け合う肉と肉。弾け飛ぶ愛液。お互いの身体ががくがくと痙攣する。目の前を白い光がチカチカと光り、瞬間、下半身が溶解したかのような絶頂に襲われた。逸物が溜まりに溜まったモノを吐き出しながら脈打っている。白濁が尿道を通る快楽が、僕の背筋を突き抜けた。イヴが悲鳴ともとれる絶叫で果てた。
僕はこの瞬間、イヴを穢していた。彼女の最奥を、僕のモノが白く塗りつぶしていた。危険な快感だった。どれぐらい続いたのかも分からないその波がゆっくりと引く頃、僕は全身に甘い気怠さを感じた。戦い終えた自分の得物を引き抜こうとすると、それでもイヴの膣が絡みついてきて、身震いする。まだ尿道に残っているものを絞られている感覚だった。
体が、重い。腕も、脚も、目蓋も。イヴも、余程刺激が強かったのか、気を失ってしまっている。きっとそうだ。人間の僕には、このクスリは強すぎたに違いない。僕はそのままイヴの横に崩れるようにして、意識を闇に放り投げた。射精の余韻に包まれながら落ちる眠りは、とても、幸福だった。
「…………ス! エーリースー!」
「……?」
重い目蓋を何とか開くと、イヴが僕を覗き込んでいた。明かりも点いていないのに部屋が明るい。窓から差し込む光を見て、僕は朝なのだと気付いた。体に掛かっていたキルトをどかして、半目で彼女を見た。
「イヴ……?」
「もう、エリスったらお寝坊さんね! 朝ごはんに遅れちゃうよ!」
口から間抜けな声が零れる。目を覚ましたにしては、僕はやけに頭の中が不明瞭だった。頭の奥に、ずきずきと鈍い痛みが溜まっているような感じがした。僕の昨日の行動に何か原因があったのか。
僕がそれを探そうとして頭を回した瞬間、昨日自分が何をしたか、そしてどうして今こんなにも体が重く感じるのか、それらを思い出した。目の前で頬を膨らましている彼女と、僕は交わったのだ。犯してしまった、と言った方が良いかもしれない。
そこに、僕は引っかかりを感じた。イヴが、やけに明るいのだ。いや、イヴが天真爛漫なのは今に始まった話ではない。ただ、処女を奪われた翌朝にしては、彼女はぎくしゃくした様子を億尾にも出さないのが奇妙だった。
僕に後ろめたさを感じさせないために? イヴがまだそこまで考えられるとも思えない。
「イヴ……」
「どうしたの?」
「何でも、ないのか?」
「え? 何が?」
僕はおずおずとイヴに問いかけてみたが、彼女の反応に手応えが無い。やはり、魔物にとっては交わりの一つや二つくらい、自然なことなのだろうか。僕は、僕だけが事実を深刻に見ているような気がして苛立った。
「だから……昨日だよ」
「きのう? エリスと一緒に寝たよ?」
僕と一緒に寝た。意味は通る。けれどおかしい。イヴが……こんな子供が、寝るという暗喩を使えるわけがないのだ。しかし、だとすれば、イヴは僕とただ同じベッドで睡眠しただけ、ということになる。そこに行為は跡形も無い。それもおかしい。
「覚えて……ないのか?」
「覚えてるよ! エリスの体、あったかかったもん」
僕は困惑しながらも更に突っ込んだ。だが、イヴは覚えていた。僕と寝たという事実を。僕と、寝た。それ以上でも、以下でもない。記憶の修正。イヴの言葉から判断するならそうだ。
……僕は恐ろしい事を考えた。もしも、昨晩の一連の出来事が、イヴの本意では無かったしたら。強い心的ショックによって記憶が都合の良いものに書き換えられてしまったとしたら。可能性はゼロではない。イヴを犯したという意識がある僕には、そう考えるのが自然だった。事実、当人であるイヴがそうなっているのだ。
合意も無しに。あまつさえ彼女のような幼い子を。僕は犯した。
媚薬のせい? 不可抗力? 僕は、言い訳を探す自分が酷く惨めだった。逃れられるものか。僕は小児性愛者で強姦魔……
「……っ、ごめん」
「あっ、エリス!」
胃の奥から酸っぱいものが込み上げて、僕は洗面所に走った。
吐いた。強かに。嗚咽と共に。苦痛に苛まれながら。
眼前に広がる緑。
遠く見える威容。
勝敗から先に言うと、僕達は勝った。
奴らに気付かれる事無く、無事に関所越えを果たしたのだ。当然ながら、関所を越えるにはイヴが魔物である事を何とか隠し通す必要があった。
世界最大の信教国であるレスカティエに魔物の出入りはご法度だ。だから、魔物が出入りする際には別のルートを使ったり、魔法で人間に化けたりする事が多い。事実、教国領にも魔物が棲みついているのだから、僕の知らないルートがあると踏んだ方が妥当だ。
ただ、教国領に棲む魔物は討伐に来た騎士団を返り討ちにしてやろうという血気盛んな者が多く、イヴの様な小さな子が一人でいることは稀だ。どこかにイヴの母親であるサキュバスがいるのだろうが、関所を越えた今、教国領に棲んでいるのだとしたら、彼女には気の毒だ。僕のほとぼりが冷めるか、イヴが教国領に出入り出来る様な年齢になるまで待たなければならないのだから。
子供であるイヴはまだ魔物が入ってくるルートは知らないだろうし、僕も無論だ。関所を通るとなれば、イヴの羽やら角やら尻尾は確実に衛兵の目に付く。だから、それを隠してしまえばいい。イヴがそういう魔法を習得していれば話は早いのだが、彼女はまだそこまでの技術は無かった。
ではどうしたのかと言うと、至極単純だった。僕が付けているマントをフード付きのローブとして適当に見繕い、それをイヴに被せるだけ。イヴが羽と尻尾を畳めば、一目でこれが魔物だとはバレなくなる。後はイヴに、関所を越えるまでは絶対に喋ってはならないと言いつけておけばいい。
問題は衛兵がそれを怪しまないかという事で、その場でイヴの正体がバレようものなら、僕達は強行突破する以外の方法が無くなってしまう。
僕はそればかりを気にして関所を通った。衛兵に呼び止められた時には心臓が口から飛び出そうになったくらいだ。
衛兵は勿論フードを被ったイヴを訝しんで声を掛けたわけだが、僕は咄嗟に「恥ずかしがりな子なんです」、などと大嘘を吐いて何とか丸め込んだ。幸い、衛兵は強引にフードを外したりする事も無く、僕の素性に気付いたわけでもなかった。
こうして僕達はギリギリの逃走劇に勝利を収め、永世中立国であるカルベルンに足を踏み入れた。ここまで来れば一先ずは安心出来るだろう。
レスカティエがカルベルンに僕達の捕縛を要請したとしても、カルベルンはそれを聞き入れはしない。それはカルベルンの永世中立国という肩書による。魔物側に付いた人間はレスカティエでは大罪人も同然だが、カルベルンでもそうだとは限らない。それはそうだ、強盗などの本当の罪を犯したわけではないのだから。
カルベルンでは人も魔物も平等だ。どちらにも贔屓せず、どちらにも嫌厭しない。だから、僕達が身を隠すには最適な場所だ。
僕達は首都であるフロウトゥールを目指して歩いていた。霞むほど遠くに見える岩壁がそれだ。このまま行けば、昼下がりくらいには到着するだろう。そこで一旦宿を取って、その先は……
「エリスー……疲れたよぉ……」
魔物とは得てして普通の人間とは比べものにならない程の身体能力を備えているものだが、幼体にもそれが当てはまるというわけではない。好例が僕のすぐ後ろにいる。
最初は初めて体験する外界に目を輝かせていたイヴも、今は脚を震わせてだれていた。関所を越えて歩き始めてからもう大分経つし、僕は僕であの家から逃げ出してからというもの、ロクに休んでいない。勇者だった僕にも疲れが溜まってきているのも確かだった。
「……そうだな。少し休憩しようか」
「やったぁ!」
イヴが期待していたであろう返答をすると、イヴはその場でぴょんと飛び跳ねた。飛び跳ねる体力は余っているらしい。
僕達は手頃な木片の上に並んで腰を下ろした。辺りは開けた草原で、近づいてくるものがいれば、直ぐに分かる。
遥か遠くの連峰。空と原が織りなす、青と緑のコントラスト。逃げ疲れた心を癒してくれる様な気がして、僕は顎に拳を当てた。
始まってしまった僕達の旅。これから、どうしたものか。
取り敢えず、首都に着いたら宿を取って、それから依頼を探そう。
急いで逃げてきたものだから、家に残っていた食料はそのままだ。いくらか持って来れれば良かったのだが、出来なかった以上は今持っている分で軌道に乗せていくしかない。幸い、暫くは食べていけるくらいには残っている。
イヴの里親を探して、それと、イヴが両手に抱いている、不思議な本……それに、イヴ本人が何者なのかも気になる。
目下の指標はそれの解明になりそうだ。
「……エリス! エリスってば!」
「ん、ああ、ごめん。どうかした?」
イヴは深く考え込んだりはしない。それは僕の役目だ。だから、熟考しているところを遮るのはイヴの役目だ。
隣のイヴが少し不安げな目をしていた。
「ううん、エリス、難しい顔してたから」
「はは……何の準備も無しに逃げてきたからね」
「エリスって、騎士団の人に追いかけられてたの?」
「ああ」
「どうして?」
どうして。たった一言の疑問で僕の苦笑いがふっと消えた。どう説明していいのか分からなかったし、そもそも僕は追いかけられていた理由についてあまり説明したくもなかった。
僕は顔に影を落としそうになって、前の方を向いた。
「…………僕が、悪い人だからかな」
「エリスが悪い人?」
「ああ」
「でも、エリスは優しいよ?」
「……そうかな」
「うん! エリスは悪い人なんかじゃないよ!」
僕は今、イヴの方を見る事は出来そうもない。退廃した勇者である僕には、時にイヴの純粋さが眩しすぎて、直視が出来なくなる。
出会って長くもない奴を、どうしてそこまで信じられるのだろう。僕は確かに世間的に見れば悪い事をしたわけじゃないのだろうが、イヴが僕を悪くないと思う根拠は何なのだろう。
僕はイヴが何なのか分からなくなった。
「…………どうして?」
「エリス、言ったじゃない。『僕を信じて』って」
僕はイヴの方を向いて目を丸くした。彼女の碧眼は一点の曇りも無く、僕の眼を捉えている。
草原に爽風が吹き渡る。背の低い草がさわさわと揺れる。
「ふ、ふふっ……あははははは!」
僕は込み上げてくる笑いを堪えられなかった。口を開ければ、腹の捩れと共に、止めどなく笑いが溢れてくる。
勇気を出させる為の方便を、イヴはこんなところで持ち出してきたのだ。幾多の魔物と戦った僕が、こんな子供一人にしてやられたのだ。これほど可笑しい事があろうか。
迷いは無いと思っていたが成程、僕はまだ覚悟が出来ていなかっただけなんだ。そうだ、イヴは僕を信じてくれている。だから、僕もイヴを信じればいい。……今はそれでいいんだ。
突然笑い出した僕に、今度はイヴが目を丸くしていた。
「そうだ。僕が言ったんだよね。ごめんごめん」
僕は一頻り笑って、安堵の表情でイヴの頭に手を乗せた。
「ありがとう、イヴ」
「どういたしまして!」
きっとイヴは、僕が本当は何を思って、何に対して感謝したのかも分かっていないのだろう。それで良かったから、僕はイヴの頭をくしゃくしゃ撫でて、にへらと頬を緩める彼女を見ていた。
「さ、休憩は終わりだ。行こう」
「うん!」
僕達は立ち上がって、その場を後にした。風が僕達の背中を押していた。首都フロウトゥールまでは、もう少しかかる。
僕達は喧騒の中に居た。魔物に襲撃される事も考えられたが、何事も無くフロウトゥールへ到着した。少し遅くなってしまったが、誤差の範囲内なので良しとする。
フロウトゥールは周囲を円形の鉄壁で守られた要塞都市だ。壁の高さは20mにも及び、南北の門からしか入る事は出来ない。他国との同盟を結ばないカルベルンでは、自分の身は自分で守るのがモットーだ。
無骨な外観とは対照的に、街の中は活気づいている。カルベルンの中心であり、凡その主要な施設は揃っている。中央政府や主なギルドの本部も設置されているのもここだ。当然、人口もカルベルンでは最も多い。外観から勘違いされやすいが、野生の魔物であっても、正式な手続きを踏めば定住する事が可能となっている。
イヴは初めて見るであろう人と魔物の往来にはしゃいでいた。
「すごいすごい! 人がいっぱいだよー!」
「迷子になるなよ」
はぐれない様に僕と手を繋ぎながらも、伝えなくてもいいことを伝えてくる。人がいっぱいなんて、そんな事は見れば分かるが、逆に言うと、イヴはそんなものですらも見た事が無かったのだろう。
人目も憚らずに騒ぐイヴを、周囲は好奇の目で見る。視線が僕にも突き刺さっている様で恥ずかしかったが、イヴの感動を壊してしまうのも気が引けたので、僕は我慢して宿を探した。
『INN』の看板がメインストリートの奥まった場所に見える。僕は早くこの視線に差され続ける状態から脱出したかったので、早足でイヴの手を引いた。
「エリス! エリス!」
イヴが僕の手を引き返した。今度は何を伝えてくるつもりだ。
「なんだよ」
「あれ、ほしいの!」
溜め息交じりに訊いてみると、報告ではなく催促だった。イヴが左手で指差す先……目を遣ると、そこは露店。アイスクリーム屋だった。収入も安定していない今、無駄な出費は控えた方が良い。
そう考えてはいたが、まあ、このくらいなら別に買ってあげても良いのかもしれないと考えてもいた。
アイスを食べていれば、口も塞がって、イヴも大人しくなるだろう。
「……仕方ないな」
「やったー!」
万歳をして満面の笑みを零すイヴ。彼女は、感情を隠すということを知らない。……案外、僕もこの笑顔が見たくて承諾したのではないか。……まさか。
イヴを静かにする代わりに、対価として小銭を払う。理に適っている。それだけのはずだ。
僕が買ってもいいと言うや、イヴは僕の手を離して露店の方へ駆け出した。
僕はやれやれと溜め息を吐いて後を追う。
イヴはショーケース越しに張り付いて、ケースに収められた色とりどりのアイスを見ていた。ここまで来てしまったら、買わずに帰る事は有り得ないだろう。
「いらっしゃいませ!」
「全く……どれが欲しいんだ?」
「えっとね……これがいい!」
にこやかに接客する店番の女性。トレードマークのサンバイザーが陽光に照らされて光った。イヴが指差したのはストロベリーフレーバーのアイス。他にも様々なフレーバーが用意されていたが、彼女は割とシンプルな選択をした。
バニラではなくイチゴを選ぶのは、女の子の性なのだろうか。
「じゃあ、ストロベリーを、シングルで」
「えっ、エリスは食べないの?」
イヴは僕も頼む事を前提としていたらしく、きょとんとした様子で僕の方を見た。
「……すいませんが、バニラのシングルを追加で」
「かしこまりました!」
僕は食べる必要も無かったし、出費も嵩むだけなので断ってもよかったのだが、何となくその場の雰囲気に押されて、追加を頼んでしまった。これ幸いと、店番は白い歯を光らせた。
店番はコーンを二つ用意して、それぞれに手際よく、大型のディッシャーを使ってアイスを乗せていく。30秒もしない内に、僕達のアイスは用意された。
「お待たせしました!」
「ありがとう」
「可愛い妹さんですね!」
「え? あはは……どうも」
僕は不意打ちの勘違いに動揺した。否定する間も無く乾いた笑いが口を突いて出てきて、咄嗟に僕は畏まって会釈をしてしまった。
代金を渡して、アイスを手渡しで受け取る。その内の一つをイヴに手渡して、僕達は店先に置いてある一組のテーブルとイスに対面して座った。
僕は流れ行く雑踏に漠然と目を通しながら、店番の勘違いを頭の中で反芻していた。
可愛い妹さんですね、か。
僕とイヴは……並んでいると、兄妹に見える。店番が言ったのは、そういうことだ。
齢にして、18と10。僕はイヴの身長までは知らないが、僕の身長が179cmで、それを鑑みると、イヴは僕より30cm程小さい。兄妹に見えたとしても、無理ではない。
けれど、実際には、違う。
そう勘違いされたのなら、穏やかに否定すればいい。のだけれども、僕の中には何処にあるのか分からないむず痒さがあった。
向かいのイヴは、これまた初めてのストロベリーアイスに魅了されていた。冷たさと酸っぱさに眉を寄せて、甘さに頬を緩ませて、表情には落ち着きが無い。
少なくとも、見ていて飽きるものではなかった。
「おいしい!」
「良かったね」
「ねぇ、エリスのも食べていい?」
僕がバニラで、イヴはイチゴ。イヴは僕のも食べてみたいと言い出した。それなら注文する時に言えば良かったのだろうが、隣の芝生は青いという諺を知っている僕は、嫌がらずにそれを認めた。
「ん? ああ、いいよ……はい、口開けて」
「あーん」
スプーンにアイスを掬って、イヴの口元に運ぶ。スプーンに乗せたアイスは、イヴの口の中に消えていった。
「んー! これもおいしいよ!」
「そうだろうね」
どこでも売ってる様なものだろうに、イヴはご馳走でも食べたかの様にそれを美味しいと言う。子供の味覚であれば、アイスクリームは凡そ美味しく感じるのだろう。甘いものが苦手でもない限り、お菓子は大概美味しいと思えるものだ。
僕だってそうだ。甘いものを食べれば少なからずリラックス出来る。
僕は依然崩れないイヴの笑顔を見ながら、自分のアイスを口に入れた。
ひんやりとした甘さ。溶ける様に広がるクリームの舌触り。けれど、誰かとこうして一緒に食べるのは矢張り久しい。そして、何だか懐かしい。
「エリス!」
「今度は何……」
「あーんして」
僕を呼ぶ声の後、スプーンが僕の言葉を遮る様に突き出された。
イヴが使っていたそれの上に載っているのは、赤い果肉の混ざったアイスクリームだった。
「僕はいいって……」
「エリス、わたしにくれたでしょ? だから、お返し!」
「でも……」
僕がアイスを分けたから、そのお返しに自分のアイスも分ける。何もおかしい話ではないのだが、僕は年下の女の子に食べさせてもらうという行為に何か得体の知れない気恥ずかしさがあった。
どうしてかは分からないが、僕はイヴの厚意を素直に受け入れる事が出来なかったのだ。
「イチゴもおいしいよ!」
「いや、そうじゃなくて……」
「ほら、あーん!」
「……あーん」
僕は顔を背けて拒んでいたものの、やがてこれに応じなければイヴの気が治まらない事に気付くと、甘んじて受け入れた。受け入れざるを得なかった。
バニラとは違う、独特の酸味が口の中に広がる。思惑通りとなったイヴはどこか満足げに、甘酸っぱさを味わう僕を見ていた。
「おいしいでしょ?」
「……ああ」
「えへへ……」
「何だよ、急に」
別段嘘を吐く理由も無いので、イヴの問いかけには頷いておく。同意が得られただけにしては、イヴはやけに嬉しそうに笑った。
「ううん、何でもないの。エリスと一緒にいるとね、楽しいの!」
飾らない笑顔で、イヴはそう言ってのけた。この時に限らず、イヴの笑顔にはいつも混じりけが無い。心の底の喜や楽がそのまま表れた様な顔で彼女は笑う。そこには、僕を陥れようだとか、謀ろうだとか、そんな後ろ暗さの類は一切無い。少なくとも、僕にはそう見える。
僕は昨日の胸の奥の疼きがぶり返すのを感じた。イヴの寝顔を見た時のそれだ。
「……ありがとう」
僕は内心戸惑いながらも、彼女にお礼を言った。
取り敢えず、イヴが僕を褒めてくれているのは間違い無い。無いのだが。その度に、僕の胸が熱を持って疼くのはどうしてなのだろう。どうも、これはイヴへの背信とはまた違ったものであるらしかった。
流転する思考の中、僕は疼きの正体を必死に探した。アイスを食べながらだったが、ワッフルコーンを食べ終えても、僕は正体を見つける事が叶わなかった。
エリス・バーンズ。イヴ・アデレード。宿帳にペンを滑らせ、二人分の名前を記す。
二人部屋での宿泊手続きを済ませると、受付から部屋の鍵が渡された。僕達の部屋は二階への階段を上ってすぐの所にあった。
鍵を回して部屋に入り、一段落ついてベッドに腰を下ろす。そうして辺りを見回したのがおよそ午後4時半前後。夕飯は午後7時半からと宿屋の受付が言っていた。
このまま何もしないでいるには、少しばかり長い間だ。
座る僕の向かい側のベッドでごろごろしているイヴを見て、僕は一つ提案をした。
「夕飯までまだ時間があるから、街の見回りにでも行ってみる?」
「行く行くー!」
予想通りの答えに僕は頷いた。中に居るよりは、外に居る方が良い。イヴはそう思う年頃の子だ。
予想通りに、僕達は夕方の街へと繰り出すことになった。尤も、万が一にイヴが外出を拒んだとしても、僕は街に出るつもりではあった。イヴは街の観光、僕は依頼探し。目的は違えど、街に出るという点では同じだ。
陽が傾いてきて、街に到着した頃より、人影がまばらになってきている。隣のイヴは相変わらず、見たことの無いものに驚いたりしては、街の風景に目移りしていた。僕はイヴを置いて行かない様に、そして時々足を止めるイヴと手を繋いでいた。
暫く歩くと、僕達は、僕が目指していた場所に辿り着いた。大きな噴水が設置してある、街の中心に位置する広場だ。昼間は市民の憩いの場として機能している。黄昏の陽光を受けて輝く水飛沫に、イヴが目を輝かせていた。僕の目的はそこではない。
「きれい……」
「見るのは後で。来るのはこっちだ」
彼女の感動を邪魔するのは申し訳ない。僕は少しの後ろめたさを言葉に含ませて、イヴの手を引いた。
僕の目的はこの広場に設置されている、依頼掲示板だ。住民の投書を政府が受理して、ギルドや傭兵、勇者がそれを引き受けて、解決する。依頼に提示された期間内に解決すれば、依頼主から謝礼を受け取ることが出来るので、傭兵や勇者は主にその謝礼をやりくりして生計を立てるのだ。
フロウトゥールに寄せられる依頼は専ら希少素材の採取で、魔物討伐の依頼は殆ど無い。
僕は手近な依頼書数枚を見て、内容を大雑把に記憶した。後は、明日の朝に来て依頼の受諾を済ませ、依頼解決に取り掛かればいい。僕の用事は終わった。となれば、次はイヴの用事だ。
「待たせて悪かったね。じゃあ、見て回ろうか」
「うん!」
「どこを見たい?」
「おもしろいところ!」
中々難しい注文だ。
円形となっているフロウトゥールでは、確か4つのエリアに分かれていたはずだ。住民の家が立ち並ぶ居住区、各種店舗が軒を連ねる商業区、魔物の特性を考慮して建設された歓楽区、政府やギルド本部が設置されている政庁区。この中で、イヴを楽しませる様な区画は……普通に考えて、居住区か商業区だろう。政庁区はイヴには難しすぎるだろうし、歓楽区はイヴには早すぎる。だが……歓楽区に居るのは、当然ながら人と魔物の夫婦が殆どだ。よく探して歩けば、もしかすると、イヴの両親について、手掛かりだけでも掴めるかもしれない。
ただ……イヴをそこに連れて行っていいのか。魔物とはいえ、まだ子供なのに。
僕の心に葛藤が生じる。
「そうだな……じゃあ、あそこがいいかな」
「どこどこ?」
「付いてくれば分かるよ」
悩みすぎてイヴを待たせてしまうのも悪い。僕は生じた葛藤を振り払うと、イヴの手を引いて歩き出した。敢えて場所を秘する僕に、イヴは期待を膨らませた。考えていることが表情に表れるので、すぐに分かる。僕はとても不安だった。
歩くこと十数分。僕達はショッキングピンクのストリートを歩いていた。いよいよ日が落ちてきて辺りは薄暗くなり、この通りが本領を発揮し始める時間となる。ここぞとばかりに呼び込む娼婦、男娼。建造物群の内部に響くのは、嬌声の輪唱。
精を摂取して生き、夫との交わりを至上の喜びとする魔物娘。そんな彼女らの為に建設された区画、それが歓楽区だ。独り身の男性や魔物娘が一日の疲れを取るため、或いは夫婦の時間を過ごすための施設が、ずらりと立ち並んでいる。僕達は他でもない、そこを歩いていた。夜にこそ活発に回転するこの区は、今という時間に活気づいていた。
来てしまった。
「ここって、どういうところなの?」
勿論、イヴはここがそういうところだとは全く理解していない。理解していないからこそ、僕は心が抉られる思いだった。無垢な問いかけが、痛い。どう説明したらいいのだろう。僕は大いに悩んだ。最初にイヴをどこに案内するかを決める時以上に悩んだ。
「あー……えっと……恋人同士が来るところ、というか……」
「じゃあ、わたしとエリス、こいびとどうし?」
「あっ、いや! そういうわけでもない、か……? いや、違う違う!」
「ちがうの?」
イヴの表情がころころと変わるが、落ち着け、エリス・バーンズ。今は恋人が云々という話ではない。僕が何の為にここにイヴを連れて来たかを、包み隠さずに、彼女に教えてあげればいいだけの事だ。
「いや、そういうことじゃないんだ! ここにイヴの母親や父親がいるかもしれないんだ!」
「わたしのお母さんとお父さん?」
「ああ。もしかしたら、ここにいるかも……」
「ほんと!?」
「いや、分からない。いるかもしれないってだけで……」
「なんだぁ……」
「取り敢えず、探してみようか」
「うん!」
僕はイヴの前では見せたことの無い取り乱し方をしながらも、何とか彼女を納得させる事に成功した。僕は内心でほっと胸を撫で下ろして、改めてイヴを見た。
魔導街灯に照らされて影の落ちたその顔が、どこか残念そうに見えたのは、僕の気の所為だろうか。……僕もきっと、この空気に中てられているのだろう。しっかりするんだ。
僕はイヴの手を引いて、歓楽街を歩き出した。イヴの両親を探す為に。
引っかかるのは店先に出ている娼婦たちばかりで、僕は寧ろ彼女らの対応に苦戦した。客にしっかり楽しんでもらおうという心意気で、タブレットや菓子を配っている者も居る。何が含まれているのかは言うまでもない。肝心の僕も、使いどころなんて無いのに、つい一つ受け取ってしまった。2枚入りのクッキーが、小さな袋に詰められている。
「それ、なに?」
「何でも無いって。それより、イヴの両親を探さないと」
袋の中身を不思議に思ったイヴが訊いてくるが、彼女に説明するのはぞっとしない。僕は適当に誤魔化して、クッキーを胸のポケットに突っ込んだ。
探さないととは言ったものの、一体どうやって探すのかは、肝心の僕にも具体的な案が無かった。順当に考えれば、受付でサキュバスの夫婦が入っているかどうかを確かめればいいのだが、一つ一つ施設を調べていくのは恐ろしく非効率だ。仮にその夫婦が入っているのが分かったとして、夫婦で楽しんでいるところを邪魔し、挙句人違いだったとなれば後味が悪いどころの話ではない。
結局、僕達は賑やかな通りをうろうろしては、通り掛かったサキュバスに声をかけ、人違いだったらまた通行人に目を光らせる、という作業を繰り返すだけだった。目ぼしい話も聞けず、徒労は火を見るより明らかだった。
「……見つからないね」
イヴの虚しさを感じさせる口調がちくりと僕の胸を刺す。僕が考えたことは、余りに行き当たりばったりだった様だ。
「……ごめん、変に期待させて」
「エリス、わたしのことを考えてくれたんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「なら、わたしはうれしいよ」
僕は純粋に申し訳の無さを感じて謝ったが、イヴはそれを意に介さない。僕の胸は尚も縮こまる思いだった。僕が嘗て殺そうとしていた魔物の中には、こんなにも健気な者もいる。イヴの優しさに一矢報いたいところだったが、人魔の波は無情にも僕達の前を通り過ぎて行く。それぞれの想いを遂げるがために、愛の無い僕達を通り過ぎて行く。至る所で聞こえる誘惑の声が、耳に痛かった。
然したる成果も無いまま、夕食の時間が訪れた。僕達は宿に戻り、出された温かい食事を胃に詰め込んだ。イヴがどうだったかは分からないが、少なくとも僕は素直に食事を楽しむ気分にはなれなかった。夕食を終えて部屋へ上がり、入浴の準備を行う午後8時。僕達は入浴に使う道具一式を持って、一階の浴場へ向かった。当然、浴場の出入り口は二つ。男湯と女湯。この宿の浴場はジパングの温泉を参考に作られているらしい。露天風呂という、屋外に設置された風呂も楽しめると聞いている。
「先に上がったら、待っていてくれ」
一方が先に上がったら、もう一方が上がってくるまで待つ。男の僕の方が上がるのは早いだろうが、念のためにイヴには伝えておく事にした。僕が更衣室へと歩を進めようとしたその時、イヴが僕を呼び止めた。
「えっ……いっしょじゃないの?」
僕は絶句した。イヴはそうじゃなかったのかと言わんばかりに僕の前提を粉々に砕いてきた。僕とイヴが一緒に入浴すると。あまつさえ公共の場で。いや、公共の場でなくても断らなければいけないところだが。
「……風呂くらいは一人で入れるだろ?」
断らなければと、何とか言葉を絞り出す。あの家に居た時は恐らく、川で水浴びでもしていたのだろう。ならば、一人で湯浴みをするくらいは造作も無いはずだ。
「うん。でも……一人で入るの、こわい……」
「いや、他にも入ってる人がいるから……」
イヴは怖がりなのだろうか、少し不安げに僕を見つめてくる。僕はそうは思わない。怖がりだったら、崖下に倒れている人間を態々介抱したりはしないだろう。
仮にイヴが一人になるのを怖がっているとしても、今の時間なら他にも入浴している人がいても何らおかしくはない。僕と入らなければならないということはないはずだ。僕と一緒に入りたいなどと考えているのならば別だが。
「わたしは、エリスと一緒にに入りたいの」
「駄目!!」
僕は食い気味に叫んだ。
とうとうイヴは言ってしまった。それだけは言ってはいけなかったのに。気持ちは分かる。分かってはいけないが分かる。親しい人と時間を共にしたいというのは分かる。イヴにとっては恐らく、僕は記憶を失ってから初めて接した人間だったのだろう。だから風呂に入る時も一緒がいいと。そういう考えに至ったのは分かる。
だが……限度だ。これは限度だ。他の客に見られでもしたら、僕の沽券に関わる事案となってしまう。
「で、でも……」
突然声を荒げた僕にびくっとして、イヴは半泣きになりながらも、尚も食い下がる。でもじゃない。でもじゃないが、イヴの希望はなるべく叶えてあげたい気持ちもあるにはある。けれど、僕だって自分の立場は守りたい。残念だが、イヴには涙を飲んでもらうしか……
諦めかけたその瞬間、僕に天啓のごとき閃きが舞い降りた。僕の立場を失墜させず、かつイヴの希望を叶えるやり方が、一つだけ残っていた。
「……要するに、僕が傍に要れば良いんだな?」
「え? う、うん」
「……分かった」
「いいの!?」
イヴの表情に光明が差す。そこまでして僕と入りたかったのだろうか。別段、嬉しいというわけではなく、僕にべったりなイヴが少し心配だった。逸るイヴを制止して、僕は徐に告げた。
「少し遅くなるけど、我慢できるか?」
「うん!」
「じゃあ、部屋に戻ろう」
イヴに異論が無いというのなら話は早い。僕達は踵を返して、部屋に戻る事になった。
ここからは、時間潰しだ。僕とイヴが一緒に風呂に入るとなると、他の客の目に止まって、主に僕の立場が危なくなる。それは裏を返せば、他の客がいない状況であれば、その心配が無くなるという事でもあるのだ。だから、浴場の営業時間ギリギリ……他の客が寝静まる深夜に入れば、イヴは僕と入浴出来るし、僕は人の目を気にせず安心して入浴できるというわけだ。
僕達は部屋に戻ると、向かい合ってベッドに腰掛けた。宿泊のための部屋には、テーブルの上のスタンドライトを挟む様にしてベッドが二つ。荷物を入れておくためのクロゼットが一つ。後は洗面台が置いてあるくらいで、子供が走り回れる様なスペースなどあるわけがない。窓を見れば夜の闇が口を開けているだけ。僕には木の香りが心地良いが、イヴはまだそれを楽しめる年齢ではないだろう。必然的に、どうにかしてこの空いた時間を潰さなければならなかった。
時間潰しとは言え、何をしようという当てがあるわけでもない。今街に繰り出してもイヴには退屈だろうし、僕もこれ以上の外出はもう控えたい。僕は暇を持て余しても構わなかったが、問題はイヴだ。皆が寝静まる時間まで、退屈や睡魔に負けずにいられるかどうか。願わくば、このまま僕の気付かない内に眠りに落ちてくれるととても助かるのだが。
「エリスー……退屈だよ……」
時計の長針が幾分と刻まない内に、イヴは座ったまま両足をバタバタさせて、唇を尖らせた。これは勿論、僕の予想の範囲内だ。だからといって、彼女に何か解決策を提示してやるわけでもなかったが。
「我慢だよ。羊の数でも数えてれば、時間はすぐに来るさ」
「それですぐに来るのは朝でしょ!」
「じゃあ、天井のシミでも数える?」
「あ、それならいいかも!」
イヴにも真っ当なツッコミは出来るらしい。が、流石にそこまでの耳年増でもなかったようだ。こういう問答は嫌いじゃないが、僕の問いかけ次第ではイヴに良からぬことを吹き込みかねないので気を付けなければ。
「よくない」
「え、なんで?」
イヴが何の気無しに訊いてくる。そこで僕はイヴで楽しんでいるつもりが、いつの間にか墓穴を掘っていることに気が付いた。気を付けた矢先の出来事である。
僕は何とかこの質問に対し、イヴの純潔を汚さずに上手く答えなければならない。それは僕にとっての難問に他ならなかった。下手な上級魔導書を読むよりよっぽど難しいかもしれない。
「あ……いや……それは、恋人がすることだから」
「わたしとエリスはこいびとなの?」
僕の歯切れの悪い答えには、イヴの鮮やかな切り返しが飛んでくる。イヴはこういうことを一切の悪意も無く訊いてくるので、時にひどく性質が悪い。ばっさりと切り捨ててしまえばいいのに、僕には子供に対する情でそれが出来ない。そもそも、この質問に対して是か非で答えてしまうのは、そのどちらにおいても主に僕のきまりが悪くなりかねなかった。
「……どうだろうね」
「でも、エリスがきいたんだよ?」
だからこそ僕は目を逸らしてはぐらかしたのだが、イヴはそんなことはお構い無しで矢継ぎ早に疑問を浴びせる。僕はどうやら守勢に回ると酷く脆いのが分かった。それが戦闘にせよ、こういった問答であるにせよ、だ。僕は答えれば答えるほど泥沼に嵌まっていく様な気がした。
「……恋人ってのは、お互いがお互いを好きでないといけないんだ」
「わたしは、エリスのこと好きだよ?」
イヴがそう、忌憚無く僕への思いを述べた時、僕の胸の奥が、また再燃した。鼓動が僕の中で響く。イヴにまで聞こえてしまいそうな程に、強く激しかった。このタイミングで僕の胸が疼いたということは……僕はもう、この疼きの正体を突き止めてしまった。疼きの正体は、僕の予想を全く裏切る、凡そ僕には到底信じられないようなものだと、僕は突き止めた。だが、この疼きは恐らく、決して、癒えていいものではないことも、僕は同時に突き止めざるを得なかった。
僕はうなだれ、頭をがっくりと下げた。
「いや……その……イヴの言う好きと、恋人同士の好きってのは違うんだ」
「そうなの?」
「ああ。きっと、イヴが僕を好きっていうのは、恋人同士の好きじゃないと思う」
「でも、わたしはエリスのこいびとになってもいいよ?」
僕は少しの間、イヴが何を言っているのか分からなかった。唐突が過ぎたのだ。
どうして、彼女はこうも率直なのか。少しは僕を見習って回りくどくなりさえすれば、僕はこんな思いをすることも無いのに。
僕の精神は、イヴへの理不尽な八つ当たりに近かった。けれど、本当にイヴに当たっても、仕方が無い。僕は怒りを何とか逃がす様に、大きな溜め息を吐いた。
「……あんた、恋人の意味、解ってるのか?」
「うん。大好きな人ってことでしょ?」
僕は睨む様に強くイヴを見た。だが、イヴはそれに物怖じしなかった。僕が強く言えばイヴは大抵怯むはずなのに、彼女は僕の問いにいとも簡単に答えてしまった。
イヴの答えは間違っていない。恋人とは恋しいと思う相手、相思相愛の間柄だ。けれども、恋人という関係はいつでも成立するわけではない事を、イヴはまだ知らない。けれど、それをイヴに説明するのは、とても骨が折れる。それは恐らく、年を重ねる事によってしか理解出来ないだろうから。
「……ああ、そうだな」
「エリスは、わたしのこと、どう思ってるの?」
イヴの質問には、悪意すら込められている様な気がしてならない。勿論、本人にとっては悪意など微塵も無いのだろう。目を見れば、大体分かる。
僕はイヴの様にはなれないだろうから、この場でイヴの期待に応える事は出来ない。言ってしまえば、僕がどうなるか分かったものではない。
「……手の掛かる子だと思ってる」
「えー! ひどいよ!」
僕の毒舌に、イヴは心外だと言わんばかりに頬を膨らませている。事実、今これでもかと言わんばかりに手を焼いているのだから、嘘ではない。
「もっと利口になってくれれば良いんだけどね」
「わたし、お利口さんじゃないの?」
「それなら、少し眠ってな。時間が来たら、僕が起こすから」
「いいの?」
「いいから」
僕が答えをはぐらかした事には突っ込まれなかった様なので安心した。僕は何とか、首尾良くイヴを寝かしつけることに成功した。よく寝る子なのだから、最初からこうしておけばよかった。おかげで大損だ。
訝しがりながらもベッドに横になって、目を閉じたイヴを見つめて暫く。眠りに落ちたイヴを見ながら、僕は考えていた。
イヴは、ある意味では、僕の生きる意味だ。もしイヴがいなくなれば、僕はどうなるか分からない。それは、生きる目的が無いという意味でだ。僕は勇者を辞めた後の事を全く考えていなかった。特に何をしようというつもりも無く、ただ根無し草の様に放浪するだけの人間。そこに終着点は無い。
何か目的があるというのは楽なので、だから、イヴは大切にしたい。ただ、その延長で僕は……
僕は考えるのを止めて、テーブルに置かれた白紙の本を見た。手に取って、それを恐る恐る開く。
矢張り、絵本は描き足されていた。騎士が女の子に仕えると決めたところで終わっていた物語が、新たに刻まれている。
女の子は外の世界を見たことがありませんでした。
そこで、女の子は騎士に外の世界を見せるように命令します。
「わたしに、外の世界をみせてくれないかしら?」
「分かりました」
命令に従った騎士は、主の女の子と共に旅に出ます。
旅を通して、女の子に外の世界を見せようと考えたのです。
旅の途中、女の子は主として、騎士は仕える者として、ゆっくりと絆を深めていきました。
「あなたは強いのね」
「それほどでもありません」
「いいえ、強いわ。立派に私のことを守ってくれているもの」
「恐縮です」
「もっと楽しい人だといいのだけれどね」
「すみません」
「うふふ……冗談よ」
「…………」
旅は楽しいものでしたが、同時に辛いものでもありました。女の子との距離を縮めた騎士は、次第に、女の子のことが好きになってしまったのです。
主に恋をしてはならない。この想いは伝わってはならない。騎士は、誠実で、真面目で、悩んでいました。
ここで途切れている。僕は本を閉じて、テーブルに戻した。
違和感があった。この物語に登場する人物に、妙な親近感が湧いている。僕達をモデルにして描かれているのかと思うほどに、登場人物も、ストーリーも、僕達の足跡と似ている気がする。これは偶然なのだろうか。
ただ、僕達の行動によってこの絵本が描かれているのだとしたら、イヴがこの本を持っていた意味は何なのだろう。謎はまだ、謎でしかないらしい。
壁に掛けられている時計を見た。時間はまだ2時間程余っていた。思っていたより、時間は進んでいない。この時間なら……僕は荷物の入った袋を漁った。ベルトと、革と……針も要る。紐もあった方が良いだろうか。暇潰しには丁度良いだろう。
短針が良い塩梅に動いた頃、僕の作品も完成した。試しに本を収めてみる。サイズも丁度良い。これくらい出来れば満足だ。
「イヴ。……イヴ、時間だ。起きてくれ」
「んー……?」
僕は完成品をテーブルに置くと、眠り姫の肩を揺すって呼びかけた。そのまま眠ってくれていたら僕はこの後一人でのんびりと入浴出来たのだが、僕の淡い願いは砕かれた。
寝惚け眼をこすって、イヴがむくりと起き上がる。
「風呂だよ。入らなくて良いのか?」
「はっ! 入るよ!」
「なら、早く準備してくれ」
普通は寝起きなら風呂くらいは諦めそうなものだが、イヴにとっては寧ろ目が覚める程度には重要らしい。そこまで拘る必要も無いだろうに。僕達は入浴道具一式を持って、既に薄暗くなった廊下を進む。イヴも暗闇には弱いのか、両手で僕の腕を強く掴んでいた。
浴場の入り口に到着すると、途端に緊張が走ってきた。本当に誰も居ないのか、見つからずに済むのだろうか……深夜に年端も行かない少女を連れ込んで入浴とは、見られた瞬間を想像しただけでもぞっとする。
僕は意を決して男湯を進んだ。脱衣所に人影は無く、先ずは一安心といったところだ。
「誰もいないみたいだし、入ろうか」
「うん!」
僕はイヴと背中合わせにして入浴の準備を始めた。胸当てを外し、インナーを脱ぎ……後ろに同じ様に脱衣しているイヴが居るとは、考えないようにして。腰布を巻いて少し待った後、イヴに確認を取る。
「着替えは終わった?」
「終わったよ」
やれやれ着替え一つでこんなにも複雑な思いをしなければならないのか、と毒づきながら、後ろへ振り向いた。白くて長いタオルを体に巻いたイヴ。この布の下には彼女の肢体が……そんな飢えた妄想をするまでも無く、またも彼女は僕の前提をぶち壊しにした。
生まれたままの姿のイヴが、そこに居た。僕は反射的にまた後ろへ向き直り、彼女へ叫んだ。
「終わってないだろ!!」
「え? でも、服はぜんぶ脱いだよ?」
「そうじゃない! タオルを体に巻けと言っているんだ!」
「どうして?」
「僕が困るんだ! 頼むから!」
僕の必死な懇願に、イヴはここぞとばかりに恍けた返ししてくる。恐ろしいのは、この対応に含みの類が一切無いことだ。僕が局部を隠せと言った事にすら、彼女は僕にクエスチョンマークをぶつけてくるのだから悍ましい。彼女に羞恥心というものは無いのか。
僕に小洒落た返しをする余裕などあるはずも無く、どぎまぎする胸を抑え、破廉恥なものでも見た時の様に叫びまくることしか出来なかった。実際のところ、破廉恥でしかない。
「巻いたよ」
イヴの声を聞くと、僕は跳ねる心臓を落ち着かせて、もう一度後ろを振り向いた。胸までを白布で隠したイヴが、これでどうだと言わんばかりに立っていた。これで、今度こそは大丈夫だ。
僕は叫び過ぎたのか、ひどい疲労感を覚えて大きな溜め息を吐いた。これはここで注意しておかなければ、今後に問題が生じかねない。
「イヴ……誰かと一緒に風呂に入る時は、大事なところと胸を隠すんだ。分かったな?」
「でも、エリスはおむね、隠してないよ?」
「僕は男だから良いんだよ」
「えー、ずるーい」
何がだ。
「それで恥ずかしい思いをするのはイヴなんだ。だから、僕の言ったことをちゃんと守ってくれ」
「わかった!」
本当だろうか。不安しか募ってこないが、こればかりはイヴを信じるしかない。
僕は不安を振り払う様にして、浴場の中のドアを開けた。充満した蒸気が、僕達の身体を撫ぜる。浴場は作りこそシンプルだが、清潔感に溢れていた。蒸気に曇った白い照明を見ていると、心なしか安心する。
数基だが、シャワーも置かれている。中々進んだところの様だ。割増しに感じた分をこの辺りで取り返してきたというわけか。
体と髪を洗って湯に浸かったのは、僕が先だった。イヴが体を洗ってあげるなどと言い出しやしないかと危惧していたが、杞憂に終わって何よりだ。
折角の風呂なのだから気を緩めているべきなのだが、僕は全くと言って良い程それが出来なかった。何故か。
僕の目蓋の裏に、べったりと、ある光景が張り付いていたからだ。僕が最初に振り向いた瞬間の光景……イヴの、生々しい肢体。絹の様な白い肌。二点の桜色。毛の無い秘所。一本筋。ほんの一瞬しか見ていなかったはずのそれが、容易く、ありありと浮かんでくる。この感覚に、僕は油断ならなかった。
僕がイヴを意識してしまっているという事実は、もう逃れようが無い。けれども、僕の理性はとても優秀な事に、この気持ちを彼女に伝えることをしっかりと抑制出来ていた。僕はそれで良かった。この関係は、成立してはならないものだと、理解していたから。
ざぶん、という水音で思考が中断された。音のした方向を見れば、イヴが湯の熱さに耐えていた。顔をしかめて、ぐっと堪えて。じんわりと、身体の内から、熱が広がる感覚。それを身に受けてやっと、イヴは顔を綻ばせた。
「……ぷっ、年寄り臭いな」
「えー、いいでしょー!」
「ごめんごめん」
「もー、謝るつもりないでしょ!」
「あるよ」
「ないよ!」
「あるってば」
僕はそれを見て、思わず緊張が解れた。拗ねた表情をするイヴがまた面白くて、僕は口角を上げながらも謝った。年寄り扱いされたことが余程不服だったのか、イヴは飽き足らずに僕の正面に回って、突っ掛かってくる。閑散とした浴場に、言い合いの声がよく響く。今日染み出てきた膿が、全て湯の中に溶けていく気がした。
またも起こった押し問答の間も、僕はそれに集中していた。そうでないと、目線が下に降りてしまいそうだったから。これさえなければ、本当に穏やかな入浴だったのだが。
「すいませーん、ちょっといいですか?」
イヴが口を開こうとした瞬間、ガラガラと、浴場の戸が開けられる音がした。僕は跳び上がりそうになったが、そうするよりも先に、イヴの身体を引き寄せて、僕の身体に密着させていた。直後、僕のものでも、イヴのものでもない声が、背後から聞こえる。中年男性の声。清掃員か。
「は、はい!」
声の上擦りと震えを全力で抑え込み、返事を絞り出す。今、僕は伸ばした両脚の上にイヴを座らせた様な格好でいる。僕が影になって、清掃員からはイヴの姿が確認出来ない。清掃員もまだ、イヴが一緒に入っている事には気付いていないようだ。僕がしなければならない事は、彼がイヴの存在に気付かないように死力を尽くすこと。見つかれば、その先に待つ結末は我が身の破滅だ。
「そろそろ清掃を始めたいんですが、出てもらえますかね?」
「あ、はい、すいません。すぐ出ますから……」
「……お客さん一人だけですよね? 何か、女の子の声がしたんですが」
「み、見れば分かるじゃないですか。僕は夜の深い時に一人で入るのが好きなもので」
「ですよねぇ。じゃあ、早めに頼みますよ」
「はい、どうも……」
ガラガラ、という音で清掃員が出て行った後も、僕の心臓は乱舞していて、息が落ち着かなかった。清掃員がイヴに感付きかけた時には生きた心地がしなかったものだが、間一髪で難を逃れたらしい。
清掃員に見つからずに浴場から抜け出すのは骨が折れそうだが、今はこの場を凌げた事を喜ぼう。僕は今日で何度目かの溜め息を吐いたが、その時、ある変化に気付いた。
「ねぇ、エリス……」
「どうした?」
「これ、なに?」
「!!」
難は、まだ完全に去ってはいなかった。腰布越しにイヴの小振りな臀部に宛がわれている……イヴが遠慮がちに「これ」と言ったモノ。それは、血の上った僕の分身だった。
ほぼ裸の、自分が意識している相手と密着すれば、不可抗力とは言え、こうなるのはある意味必然だとすら言える。僕は再び跳び上がりそうに仰天した。
「いや、ちっ、違うんだ! ほら、早く上がらなきゃ!」
僕は思わずイヴを引き剥がして、何とも無く否定した。清掃員に見つかりやしないかという緊張と、図らずもイヴに劣情を抱いてしまった驚愕とで、僕の頭は大混乱を引き起こしていた。煩雑になった思考の中、僕は急いで湯から上がるように言えば、この事案は誤魔化せるのではないかと考えた。
結果から言えばそれは成功したが、不自然以外の何物でもなかったのは確かだろう。イヴでなかったら……そもそも幻滅されていたか。僕は未だ目をきょとんと丸くしているイヴの手を引いて、脱衣所へ出た。脱衣所に清掃員の影は無く、恐らくはスタッフルームにいるのだろう。僕達は濡れて火照った体を拭き、手早く着替えを済ませて浴場を去った。怪盗もかくやという仕事の早さだったと思う。
部屋に戻ると、僕はどっと息を吐いてベッドにどんと腰掛けた。イヴの目の丸さは変わっていない。
「だ、大丈夫?」
遂に見かねたのか、イヴが心配そうに訊いてきた。色々と大丈夫ではないのだが、ここで正直にそれを言うと、イヴが何をしでかすか分かったものではない。
「あ、ああ。掃除の人に急かされて、少し焦っただけだよ」
「クッキー食べる?」
「ん……ああ」
「はい」
「ありがとう」
随分と唐突にイヴは一枚のクッキーを僕に差し出した。特に他意は無いだろうし、僕の醜態を思いやってのことだろう。僕は躊躇わずに受け取って、それを口に放り込んだ。咀嚼すると、さくさくと甘さが拡散する。可も無く不可も無い味。不思議と何だか酸っぱい様な気がした。
イヴは小袋からそれを取り出して食べていた。2枚しか入っていなかったようだ。……どこかで見たことがあった。そう、気付いた時には、僕もイヴも、口の中は空で、僕だけが血の引くような寒気を感じた。僕は凄まじい焦燥に駆られて胸のポケットに手を突っ込んだ。僕達の口の中と同じく、空だった。
「イヴ……今のクッキーって……」
「うん。エリスのポケットに入ってたの。はんぶんこした方がいいでしょ?」
「……ああ、そうだな」
或いは、イヴは僕がこのクッキーを独り占めするのではないかと勘繰ってそうしたのかもしれない。知らぬは罪。僕は初めてそう思った。これは怒りか、喜びか、焦りか、恐れか。とにかく、僕が感知している限りでは四つ以上の感情が交錯していた。それが喉の奥で何かに押さえつけられていて、胸が突っ張るようだった。
僕はもう、イヴがしてしまったことの意味を彼女に説明する気すら失せていた。それくらいの心的余裕など、とうに潰えてしまっていた。僕は進退窮まって、ベッドの上に大の字で寝転がった。
歓楽区でもらったあのクッキーを、奇しくも用法通りに食べてしまった。僕はこれから、戦わねばならないのだろう。敗北するとしても、己の精神と、ただ只管に向き合って、その欲を突っぱねなければならないのだ。
やがてシミのように全身に広がっていく火照り。やけに回りが早いと思ったが、ああ、あれは魔界のものか。道理で早いはずだ。イヴも、そろそろ身体が帯びた熱に気付き始めているだろう。
「エリスぅ……」
「……なんだよ」
「わたし、なんか変なの。からだ、熱くて……おまた、じんじんするの。病気なのかな?」
声にも、その熱は混ざっていた。熱の篭もった、粘性の声が、僕の心を逆撫でしてくる。僕は起き上がって、イヴの方に複雑な視線を送った。全面的にあんたのせいだと怒鳴りつけてやりたかった。そんな気力も無い。あるのは、腹の中でボイラーみたいに熱くなっている劣情だった。それを抑えるので、僕は精一杯だった。
「大丈夫だ。我慢していれば、治る」
「ほんとう?」
「ああ」
「でも……やっぱり変なの。エリスを見てると、胸がどきどきするの。エリス、そっちにいってもいい?」
僕は、イヴからは見えていない左拳を握り締めた。的確に、無情に、僕を煽るイヴ。僕がどれほど辛い思いをしてこの疼きに堪えているか、彼女は当然知らない。
「……駄目だ」
「エリスと一緒なら、わたし、がまんできるよ」
僕は残り少ない理性を振り絞ったが、イヴはひどいジレンマを提示してきた。
イヴは僕の傍に居れば疼きに耐えられると言う。しかし、今彼女が僕と同衾しようものなら、僕はいよいよ自分の理性を壊してしまうに違いなかった。
……そもそも、イヴは自分自身の欲望に従って、僕との同衾を望んでいる。そう考えた方が自然だ。同衾して自分の欲が満たされれば、疼きは治まるのだと、きっとそう考えているのだろう。それは違う、と僕は否定しようとした。言葉が喉でつっかえて、出てこない。僕は蛇に睨まれた蛙のように、黙ってイヴに目を向けていた。
「お願い、エリス……」
イヴの懇願が、僕の理性に罅を入れる。僕は今にも気を違えそうだった。僕の頭の領域が、どんどんイヴへの想いで浸食されていく。
痺れを切らしたイヴが、一歩。また一歩と、僕のベッドに迫ってくる。
「や、やめろ……イヴ……やめてくれ……」
僕は首を横に振り、後ずさって、震える声でイヴを拒否した。僕は既に、僕自身がイヴをどうしたいのか理解している。それが何を意味するかも理解している。だから、拒んだ。それが、僕に出来る、最後の足掻きだった。
背中は、壁。イヴが、逃げ場を失った僕にしなだれかかってくる。
「えへへ……やっぱり、エリスってあったかい……」
僕の胸に顔をうずめてはにかむイヴ。欲望が氾濫する。その言葉を最後に、僕の理性の堤防が決壊した。
「イヴ……!」
「きゃっ」
次の瞬間、僕はイヴの腕を掴んで、仰向けに押し倒していた。僕はイヴの瞳を見覗き込んだ。食い入るように。碧く光る双眸。僕が、そこに映っていた。瞳がぎらぎらしていた。獣のようなそれが自分のものだとは思えなかった。
僕の眼を見たイヴは怯えていたが、同時に、満更でもなさそうだった。これから僕が何をするのかを、本能で感じ取っているのかもしれない。
ならば、話は早い。僕は覆い被さってイヴの唇を奪った。間髪入れずに、舌をイヴの口内へ滑り込ませる。
「んむぅ……!? ぁむ、ちゅ……ぇるっ……え、りしゅ……」
「ちゅっ、ちゅぅ……んぐ、じゅ、ぢゅるっ……イヴ……」
もう、後戻りは出来ない。僕は飢えた狼のようにイヴを貪った。媚薬で恐怖が麻痺しているのか、イヴも最初は強張っていたが、僕が舌をうねらせる度に、僕の動きに合わせるようになってきた。
イヴの桜のような薄い唇。細くて、けど柔かい舌。蒸気になって白く見えそうなくらい、熱く零れる吐息。全部、小さい子供のそれ。僕はそれにどうしようもなく興奮している。絡み合う舌が、途方も無い愉悦を齎す。口が溶けそうだ。
僕はイヴの口を溶かしながら、手で自分の分身を引き摺り出した。自分でも見たことがないくらいに大きくなっていた。イヴも、やおら取り出されたそれを見てぎょっとしている。
僕は気にせず、彼女のエプロンドレスの下をまさぐった。両脚の付け根に布の感触がある。その中心に触ると……
「むぅぅ!?」
イヴの体がびくんと跳ねて、高い声が流れた。声は僕の口内で吐息と霧散する。そこでやっと、僕はイヴの口を解放した。どちらのものか分からない唾液で、彼女の小さな唇が薄闇に光っていた。背筋が震えるようだ。
彼女の秘所はショーツ越しでも分かる程、びしょびしょに濡れていた。直に触れてもいないのに、僕の親指と人差し指の間で糸を引いている。僕はイヴのドレスを捲って、そこを露わにした。僕は、ショーツを脱がすのすら億劫で、急いていた。一秒でも早く、彼女を喰らい尽くしてしまいたかった。だから僕はショーツをずらして、赤黒く腫れた僕の怒張を、イヴの傷一つ付いていない桜桃に宛がった。
「な、なにするの……?」
「力、抜いて」
流石のイヴも不安げだったが、僕にイヴの問いに答える暇は無かった。僕はただ、行き場を失ってもがいている熱を、吐いてしまいたかった。
躊躇いをかなぐり捨てて、僕は腰を一気に押し出した。
「ひっ……ぐ、うぅぅ、んっ……」
「あ、ぁ……うあ、う……」
彼女は、僕を受け止めるにはあまりに小さい。破瓜の苦痛に歪み、歯を食い縛るイヴを見て、幾らか正気に戻った気がした。だが、今更正気に戻ったところで、どうこう出来るわけでもない。出来ることがあるとすれば、せめて、彼女を傷つけないように愛することくらいだ。
実際、僕とイヴの体格差は大きく、僕はイヴを抱き上げて、そのままきつく抱きしめた。イヴの痛みが落ち着くまで、ぴったりと。イヴの鼓動が、とくん、とくん、と伝わる。暖かで、しかし許されないぬくもり。僕が如何に彼女を労わっても、僕が背徳の快感に身を震わせているのは誤魔化せない。
僕は待ちきれずに、腰を上下し始めてしまった。狭く、きつく、火傷しそうなイヴのナカ。肉ヒダが絡みついて蠕動し、僕からありったけの精を搾り取ろうとしている。
「いっ……んっ、うあぁっ、ひぅ、あっ、あぁぁっ……」
媚薬のせいか、思ったよりイヴの反応は芳しかった。僕が彼女を突き上げている格好だから、イヴの奥を突くことは造作も無い。服を着たまま、獣のように交わって、イヴを喘がせている。イヴが快楽の波にさらわれそうになりながらも、意識にしがみつく傍らで、僕は背徳感の塊に押し潰されそうだった。
僕はもっと彼女を乱れさせたいとすら考えていた。もっと、熾烈で強烈な快楽に彼女を叩き落としたいと切に望んでいた。僕がそれを実行するのに、さほど時間は掛からなかった。つまるところそれは建前でしかなく、僕は単にもう辛抱が出来ないだけだった。
僕はイヴを抱く腕を緩めて、彼女をベッドに転がす。姿勢を整え、僕は抽送に没入した。突いては抜き、抜いては突き……乱暴に、それが段々と加速する。
「ひゃ、あっ……やぁっ、やめっ、ひゃめてぇ……!」
より激しい抽送にイヴの性感も加速していた。目尻から透明な筋を伝わせ彼女は止めてと言うが、止めてと言われて止められるものではない。寧ろ、この状況でそれを言うのは逆効果だ。僕の嗜虐心がイヴの言葉で増幅していくのが分かる。
僕の目に、二つの桜色が留まった。もっと強い快感を求め、僕はそれに手を伸ばす。
「ぁあ!? それ、やらぁっ……ぅあぁっ! こわい、くる……やらやらやら!」
「大丈夫だから……! イヴッ!」
小さいながらも興奮で尖り、硬くなったそれを、僕は摘まんだり、転がしたり、押し潰してみたり。色々試してみたが、この時では、どんな責めに対してもイヴはいやいやをした。僕はそれに応えて腰を前後させる速度を更に上げる。
既に呂律が回らなくなったイヴは、何かを必死に拒んでいた。僕の余裕の無さから鑑みれば、それが何なのかは考えるべくもあらず、本能的に理解出来る。
それは怖くないのだと説明したかったが、今の僕にはそれは出来そうもない。逸物が膨らんでいる。我慢の限界と悲鳴を上げている。下腹部が、焼ける。
「やっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁっっ!!」
「……っ、ぐっ、ぅうう……!」
打ち付け合う肉と肉。弾け飛ぶ愛液。お互いの身体ががくがくと痙攣する。目の前を白い光がチカチカと光り、瞬間、下半身が溶解したかのような絶頂に襲われた。逸物が溜まりに溜まったモノを吐き出しながら脈打っている。白濁が尿道を通る快楽が、僕の背筋を突き抜けた。イヴが悲鳴ともとれる絶叫で果てた。
僕はこの瞬間、イヴを穢していた。彼女の最奥を、僕のモノが白く塗りつぶしていた。危険な快感だった。どれぐらい続いたのかも分からないその波がゆっくりと引く頃、僕は全身に甘い気怠さを感じた。戦い終えた自分の得物を引き抜こうとすると、それでもイヴの膣が絡みついてきて、身震いする。まだ尿道に残っているものを絞られている感覚だった。
体が、重い。腕も、脚も、目蓋も。イヴも、余程刺激が強かったのか、気を失ってしまっている。きっとそうだ。人間の僕には、このクスリは強すぎたに違いない。僕はそのままイヴの横に崩れるようにして、意識を闇に放り投げた。射精の余韻に包まれながら落ちる眠りは、とても、幸福だった。
「…………ス! エーリースー!」
「……?」
重い目蓋を何とか開くと、イヴが僕を覗き込んでいた。明かりも点いていないのに部屋が明るい。窓から差し込む光を見て、僕は朝なのだと気付いた。体に掛かっていたキルトをどかして、半目で彼女を見た。
「イヴ……?」
「もう、エリスったらお寝坊さんね! 朝ごはんに遅れちゃうよ!」
口から間抜けな声が零れる。目を覚ましたにしては、僕はやけに頭の中が不明瞭だった。頭の奥に、ずきずきと鈍い痛みが溜まっているような感じがした。僕の昨日の行動に何か原因があったのか。
僕がそれを探そうとして頭を回した瞬間、昨日自分が何をしたか、そしてどうして今こんなにも体が重く感じるのか、それらを思い出した。目の前で頬を膨らましている彼女と、僕は交わったのだ。犯してしまった、と言った方が良いかもしれない。
そこに、僕は引っかかりを感じた。イヴが、やけに明るいのだ。いや、イヴが天真爛漫なのは今に始まった話ではない。ただ、処女を奪われた翌朝にしては、彼女はぎくしゃくした様子を億尾にも出さないのが奇妙だった。
僕に後ろめたさを感じさせないために? イヴがまだそこまで考えられるとも思えない。
「イヴ……」
「どうしたの?」
「何でも、ないのか?」
「え? 何が?」
僕はおずおずとイヴに問いかけてみたが、彼女の反応に手応えが無い。やはり、魔物にとっては交わりの一つや二つくらい、自然なことなのだろうか。僕は、僕だけが事実を深刻に見ているような気がして苛立った。
「だから……昨日だよ」
「きのう? エリスと一緒に寝たよ?」
僕と一緒に寝た。意味は通る。けれどおかしい。イヴが……こんな子供が、寝るという暗喩を使えるわけがないのだ。しかし、だとすれば、イヴは僕とただ同じベッドで睡眠しただけ、ということになる。そこに行為は跡形も無い。それもおかしい。
「覚えて……ないのか?」
「覚えてるよ! エリスの体、あったかかったもん」
僕は困惑しながらも更に突っ込んだ。だが、イヴは覚えていた。僕と寝たという事実を。僕と、寝た。それ以上でも、以下でもない。記憶の修正。イヴの言葉から判断するならそうだ。
……僕は恐ろしい事を考えた。もしも、昨晩の一連の出来事が、イヴの本意では無かったしたら。強い心的ショックによって記憶が都合の良いものに書き換えられてしまったとしたら。可能性はゼロではない。イヴを犯したという意識がある僕には、そう考えるのが自然だった。事実、当人であるイヴがそうなっているのだ。
合意も無しに。あまつさえ彼女のような幼い子を。僕は犯した。
媚薬のせい? 不可抗力? 僕は、言い訳を探す自分が酷く惨めだった。逃れられるものか。僕は小児性愛者で強姦魔……
「……っ、ごめん」
「あっ、エリス!」
胃の奥から酸っぱいものが込み上げて、僕は洗面所に走った。
吐いた。強かに。嗚咽と共に。苦痛に苛まれながら。
15/10/02 00:22更新 / 香橋
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