連載小説
[TOP][目次]
Vanity or sanity
 身を焼く背徳。
 押し込めた少女。
 蝕まれる僕。



「具合……悪いの?」
 汚れた口元を濯ぐ僕に、イヴが心配そうに訊いた。イヴからすれば、目の前の相手が突然吐いたのだから、そう訊くのも無理はない。僕は具合どころか、心持ちも決まりも全てが悪かった。最悪だった。だが、イヴに無闇に心配させたくもなかった。僕にそう思う資格は無いかもしれないが。
「大丈夫……大丈夫だから。朝ごはん、食べるんだろ? 行こう」
「でも……」
「遅れそうって言ったのはあんただろ? ほら、早くしないと」
 僕は作り慣れていない顔で微笑み、これ以上イヴに追求されないように急かした。イヴは釈然としていなかったが、要らぬ心配をするよりはマシだと僕は思っていた。僕はイヴの背中を押す様にして階段を降り、食堂へ向かう。
 ナイフやフォークが皿とかち合う。宿泊客が楽しげに談笑する。僕はそれらの音を何ともなしに耳に入れながら、イヴと並んで朝食を摂っていた。同時に、昨日を咀嚼していた。
 ……経緯はどうあれ、僕はイヴを犯してしまった。だが、イヴ本人はそれを覚えていない。ならば、僕には悔やんでいる暇すら無い。旅は既に始まっている。そして、これは途上で止めていいものでもない。僕がこれからしなければならない事とは……
 一階の食堂で朝食を摂る最中、僕を見ている者が居ることに気が付いた。僕は気付いていないふりをしていたが、その視線が何を意味しているのかは痛い程に理解していた。僕を刺している視線は、いずれも僕達の部屋の隣に宿泊している者からだった。昨晩の過ちが聞こえていたに違いない。今の僕には丁度良い辱めだった。イヴは恐らく、僕に視線が向けられていることには本当に気付いていなかったと思う。
 僕は見られていることを気にしているわけではなかったが、朝食は何を食べても味が分からなかった。そもそも、朝食に食べたものは何だったのだろうか。僕達は食堂を後にして、宿を出る準備のために部屋に戻った。
「イヴ、本はどうなってる?」
 僕が絵本について尋ねると、イヴが絵本を手に取ってページを捲り始めた。程無くして、イヴの表情が明るくなる。
「新しいページが描かれてるよ!」
 そう言ってイヴが僕に手招きをした。僕はイヴの後ろから本を覗き込んだが、絵本は昨日僕が見た時点から描き足されていなかった。……昨晩のことは綴られていないらしい。流石にそのまま描かれたら道徳的に良くないと思うが、幾らか婉曲されて描かれているのではないかと考えていた。僕の予想は外れたようだ。だとすれば、この本は僕達の行動と連動しているわけではないのだろうか。僕達が見ていない間……具体的にいつ描かれているかも分からない。そもそも、独りでに描かれていく本など、聞いた事すら無い。
「イヴ……あんたって、どこに住んでたのかは覚えてるのか?」
「ううん。でも……とっても楽しいところだった気がするの。どうして?」
「覚えてれば、イヴの両親を探すのも楽になるだろうし」
 イヴがどこに住んでいたかを覚えていれば、この旅ももっと気楽なものになるだろうに、当然そう都合良くはいかない。けれども、イヴは一つのヒントを僕に与えてくれた。そこは楽しいところだったと、彼女は言う。ヒントと言うには曖昧すぎて僕には中々想像が付かなかった。しかし、この本から推測するのだとすれば、一つ候補がある。イヴの言う楽しいところと、この面妖な魔法が掛かった絵本を組み合わせると、ある可能性が見えた。
「……ヴェルドラかもしれないな」
「べるどら?」
 これは街の名前なのだが、記憶が無いイヴは当然それを知らない。小首を傾げてオウム返しをするイヴに、僕は説明を続けた。
「ここから北の、アルマリークっていう国の中にある街だ。魔法の研究が盛んで、それを活かしたテーマパークなんかもある。覚えていないか?」
「……ダメ。思い出せない」
「そうか……けど、取り敢えずはそこを目指すから。いいね?」
「うん」
 イヴの楽しいところという記憶と、絵本が独りでに書き足されていくという、恐らくは魔法の仕掛け。これらを総合して判断すると、イヴの出身地候補は世界でも有数の魔法都市として名高いヴェルドラが僕の中で挙げられた。
 イヴ本人はピンときていないが、現地に到着してみれば、手掛かりの一つは得られるかもしれない。彼女もヴェルドラを目指す事には頷いてくれた。
 ……僕は何としても早くイヴの両親を見つけ、彼女の在るべき場所を探しださなくてはならない。僕はイヴの傍に居られるような人間ではないのだから。彼女が見たいという世界は、彼女の両親に見せてもらえば良い。きっと、その方が彼女は幸せなんだ。
「よし、出発だ。これを付けてみてくれ」
「何これ?」
 イヴ本人は昨日の出来事を覚えていない。それはある意味では怪我の功名と言える。犯されたという事実を感知しないでいられるのは、僕としても有難かった。だからこそ、僕はこれ以上彼女を不安にさせない為に、努めて明るく啖呵を切ったのだった。
 僕は昨日の夜に製作したものをイヴに手渡した。イヴからすればそれは何に使うのか分からない革製品だが、これは彼女の負担を減らすためのものだ。
「ブックポーチだ。腰に巻いてベルトを締めれば、後ろのポケットに本を入れられる。それなら両手が空くだろ?」
 僕達の絵本は子供が読むには少しばかり大きく、運ぶにしてもイヴでは小脇に抱えることが難しく、両腕で抱えるようにしなければ腕が疲れてしまう。その解決策として作ったのがこれだ。ボタンで蓋を留めておけば、激しく動いても本が落ちることも無い。尤も、昨日までのように僕が運べば良い話なのだが、どうせなら持ち主の傍に置いてあった方が良いだろう。
「すごーい! エリスが作ったの?」
「ああ、そうだ」
「ありがとう!」
「喜んでくれたのならいいさ」
 イヴは試しにポーチに絵本を入れて、振り返ったり、くるりと回ってみたりして使い心地を確かめている。とても嬉しそうな笑顔で、彼女は僕にお礼を言った。こういう時でなければ、僕は穏やかな気持ちで彼女の顔を見ることが出来たのだろう。この先、僕は純粋な気持ちで彼女の笑顔を見ることは叶わない。ずっと、この後ろめたさが付いて回ってくる。僕に対する刑罰としては適当だ。
 僕は穏やかな面持ちを作って、溌剌としたイヴを見ていた。彼女の言葉が、頭の中でやけに長く反響していた。



 フロウトゥールを出て二刻程が経っただろうか。僕達は鬱蒼とした木々の中を歩いていた。森林の奥深くの霊草を採取する為だ。日は高く昇っているが、ここでは申し訳程度の木漏れ日しか差し込んでこない。少し薄暗く思えるくらいだ。
「イヴ、疲れてはいないか?」
「ううん、大丈夫だよ」
「……そうか」
 手は、繋いでいない。ちら、と後ろを歩いているイヴの顔を見た。確かに声色は明るく、嘘を言っているようには見えない。疲労していないわけではないが、まだ休憩が必要な程でもない。そう判断した僕は、歩を止めなかった。
 草をがさりと踏み分ける音。小枝が踏まれてポキリと折れる音。僕は探索の最中、このようにイヴを気遣う時以外は話しかけることをしなかった。そうして訪れた沈黙を破るのは専らイヴだった。時々思い出したように、目に留まった木の実や生き物の名前を聞いたり、薄暗い森についての感想を言ってみたり。僕は今一つうわの空で彼女に言葉を返していた。魔物に対する警戒の為に、だった。
 フロウトゥールは外壁に囲まれて安全だが、ひとたび壁の外に出れば、野生の魔物がそこかしこに生息している。流石に街道沿いに出没することは稀だが、こうして道を外れると、彼女達に遭遇する可能性は高くなる。
 僕の脳裏には、イヴを一人にしてはならないという爛れた使命感が、タールのようにべっとりと張り付いていた。故に、僕はどうあっても魔物の手籠めにされることは避けなければならなかった。
「……多分、もう少しだと思う。この辺りで休憩しようか」
「でも、わたしはまだ疲れてないよ?」
 僕は辺りを見回して、休憩の提案をした。しかし、珍しくイヴが遠慮をする。昨日までなら、今頃は特に抵抗も無く休んでいたはずなのだが。加えてここは林道で足場が良いわけでもない。少なくとも、疲れていないと言うのは嘘になるだろう。
「それでもだ。無理をすると、肝心な時に体が動かなくなることもあるから」
「うん……」
 僕は休憩を推し進めたが、イヴの反応に違和感を覚えた。森に入ってからというもの、彼女はどこか所在無げでいる。
「どうかしたのか? どこか悪くしているんじゃ……」
「ううん、違うの。何でもない」
「……そうか」
 僕はイヴを心配して尋ねたが、彼女は特に具合を悪くしているわけではなさそうだった。ただ、彼女が首を横に振って何でも無いというのは、恐らく違う。けれども、僕はこれ以上の追求を止めた。掘り下げてはいけない気がした。
 僕達は木の幹に凭れ掛かるようにして腰を下ろした。自然と、野鳥の囀りが耳に入る。細流も近くにあるようだ。それだけだった。僕達の間は、沈黙が支配している。居心地が悪く感じて、僕は溜め息を吐く前にまた辺りを警戒し始めた。そうしている間は、この気まずさが紛れたのだ。僕の浮足立った心を嘲笑うかのように、森は何食わぬ顔で息づいていた。魔物の気配は、無い。全く。
 イヴは体操座りをして、前を見ていた。横顔がひどく虚ろに感じた。
「……はい」
「え?」
 僕は携帯している袋から果物を取り出して、イヴに渡した。僕の見立て通りに彼女はぼんやりしていたらしく、呆けた顔をして僕を見た。
「お腹、空いてないかと思ってさ」
「あ、うん。ありがとう」
僕が差し出している果物を認めると、イヴはその赤を受け取って、齧りついた。林檎の甘酸っぱい匂いが鼻を差してくると、彼女の堅く見えた表情が緩んだ。僕は少し安心した一方で、またイヴが分からなくなっていた。
「食べたら、出発するから」
「うん。エリスも食べる?」
「僕はいいよ」
 イヴが食べかけの林檎を見せて誘ったが、僕はそれに応じなかった。食べたいとは思っていなかったから、断っただけだ。それ以上に僕は、イヴについて考える方を優先したかった。結局、林檎が芯だけになっても答えは出ず仕舞いだったけれども。
 僕達は立ち上がって、その場を後にした。霊草の自生地を十合とするなら、もう七合くらいまでは来ているはずだ。魔物と、道に迷うのだけに気を付けておこう。



 僕の用心とは裏腹に、森に入ってから霊草を採取するまでの間、魔物は全くと言って良い程姿を見せなかった。これぐらいの深さの森なら、一度くらいは出くわしてもおかしくはないと考えていたのだが、僕の見通しが甘かったのだろうか。面倒事が起こらなくて済んだのだから、幸運には間違いないのだろうが、僕は何となく釈然としなかった。
 霊草の次は希少柑果の採取が続く。こちらは霊草とは別の依頼だが、対象となる柑果はこの森に自生しているので、序でとして受領しておいたものだ。可能であれば、出来るだけ多くの依頼をこなせた方が生活は楽になる。それで身に危険が及んでは本末転倒だが。
 僕達は先人が通って出来た林道に沿いながら、仄暗い森の中を進んでいた。恒常的とも思える程に、僕達が草を踏み分け、遠く細流がせせらぎ、猛禽が甲高い声を上げる。僕はそれらの合奏に紛れた隠密が潜んでいないかどうかに気を張り、一歩一歩が浮いたような感覚になっていた。
 そうして二刻程が経過した後、僕はあるものが視界に入って身を強張らせた。僕達が歩く延長線上のそれは、いつ辿り着けるのだろうかと待ち望んでいたものであり、同時に、出くわさないに越した事は無いものでもあった。
「エリス、あれ……むぐ」
「しっ……静かに」
 不用意に開いたイヴの口を慌てて塞いだ。僕は油の切れた歯車のように、イヴが指差した方向へ向いた。幸い、『彼女たち』には気付かれていなかったらしい。僕は心中で大きく息を吐いた。
「……あの子たちに、僕達の存在を気付かれてはいけないんだ。いいね?」
 声を潜め、イヴにしっかりと釘を刺しておく。イヴが恐々と目で頷くのを見て、僕は手を彼女の口から離した。僕達は近くの茂みに身を隠して、そこから彼女たちの姿を覗き見る。果実の群生地に着いたは良いが、そこには厄介な先客が陣取っていた。どこか蠱惑的で、見る者を惹きつける魅力のある二対の翅。衣服の様に身体を覆っているシスルの体毛。
 ……モスマンの群れに遭遇するとは。その数五人。モスマンは比較的穏やかな気性だから、出会い頭に襲い掛かるようなことは無いだろう。しかし彼女たちのお眼鏡に適った場合はその限りではなく、好意と共にあの翅から淫毒を含んだ鱗粉がこちらに向けられる。彼女たちがどれだけ伴侶に飢えているかにもよるが、最悪五人分の鱗粉が僕達を襲うことになる。吸引すれば最後……
「イヴ。あの子たちが飛ばす鱗粉を吸いこんでしまうと、僕達はひどい目に遭ってしまう。だから、もしもあの子たちに見つかってしまった時は、僕が合図をするから、思いっきり息を吸い込んで止めるんだ。出来るか?」
「……うん」
「よし。じゃあ、静かに彼女たちを見張っておくんだ……」
念には念を入れて、彼女たちに見つかってしまった際の対処法もイヴに声を潜めて教えておく。真剣な面持ちで注意する僕に、イヴは口を結んで頷いた。見つかるような事態に陥らないのが最善なのだが、魔物との対峙においては些細なミスが命取りになる。注意してし過ぎるということは無い。今は、彼女たちが去るのを辛抱強く待つことだ。
「薄暗くて良い日ねぇ」
「今日も良い日。でも、何か足りないわ?」
「何かしら?」
「それはそれはぁ……」
「愛する愛する旦那様っ」
 妙にテンポが良くて息の合ったかけあいをするモスマンの五人組。見ているこちらは気が気でない。相手側から見てこちらは認識出来ないはず。気付かれる要素は無い。そうは解っていても、誰にも気づかれてはならないという意識が緊張を助長する。森の息づきが大きく聞こえる。囀りもせせらぎも、自分の鼓動すらも、頭の中で拡張されて反響する。
「私の、私たちの旦那様……」
「でも、まだ見つからない……」
「だから、探しにいくわ私たち」
「きっとこの森のどこかにいるわ」
「あれぇ? 誰か、そこにいるの?」
 早鐘を打つ感覚がして、息が止まった。僕達が隠れていることに彼女らが気付いてしまったと思った。しかしそうではなく、彼女たちは僕達の方向を向いているわけではない。向いているのは、僕達とは逆の方にある茂み。そこががさりと音を立てて揺れたのだ。まさか、同業者がいたのだろうか。だとしたらとんだ不運だ。男性ならば鱗粉で籠絡。女性にしても魔物化。五対一では万に一つも勝ち目は無い。
 それでも無謀に、いや勇敢にもそれが彼女たちの前に躍り出る。血迷ったのではなく、そもそもそれは彼女たちに襲われる心配が無い者だったのだ。小さくつぶらな黒い瞳。彼女たちの足首ほどの身長から暫し睨むと、それは脱兎のごとく駆け出して、あらぬ方向へとまた消えてしまった。
「なんだぁ、リスじゃない」
「がっかりねぇ。旦那様かと思ったのに……」
「でも、これからきっと見つかるわ」
「探しに行きましょう。空から、あの人を」
「そうしましょうそうしましょうっ」
 走っていったリスを見て、僕達はどっと脱力し、彼女たちは落胆の声を上げた。どちらにせよ肩を落としたのは同じだが、彼女たちは僕達と違い、至って行動的であるらしかった。モスマンは他の魔物と比べて温厚である一方、思考は短絡的だったはずだ。放っておけば彼女たちはどこかへ行ってしまうだろう……その読みは的中したようだ。
 身の丈と殆ど同じ翅を震わせ飛翔する薄紫。翅を広げているからか、外見にしては威圧感が強い。飛翔に合わせて揺れる豊満な胸を気にする余裕も無く、彼女たちは僕達を置いて木々の合間へと消えていった。
「はぁ……何とか気付かれずに済んだみたいだな」
「わたし、静かにできてた?」
 五人組の姿が完全に見えなくなったのを確認して、僕達は茂みを出て果樹に近付く。大きく息を吐く僕に、イヴがおずおずと訊いた。出来てなかったら見つかっていると思うのだが。
「ああ、よく我慢出来たな」
「えへへ……」
 僕が頬を緩ませてイヴの頭にぽんと手を置くと、彼女も緊張の糸が切れたのか、ほっとしたように微笑んだ。取り敢えずこの場は凌いだが、またいつ彼女たちが戻って来るかも判らない。果実を採取して早く抜けてしまおうと、僕は足を速めた。
 依頼の品は大人の背丈程度の低木に生る。形質は手の平大の楕円体でミカンを彷彿とさせるが、その色は鮮やかな緑だ。サロティスと言うらしいが……先程のモスマンたちはこれを食べていたのだろうか。香りも瑞々しく爽やかで、どんな味がするのか少し気になる。僕は木に生るそれを依頼で採取する数より少し多くもいで、霊草が入っている袋の中に入れた。
「よし、これで全部だな」
「あとは帰るだけ?」
「油断しないようにね。依頼主から報酬を受け取るまでが依頼だよ……って、イヴに言っても判らないか?」
「うん」
「帰るまでがお出かけって事だよ」
「ああー!」
 イヴの疑問は氷解したらしく、曇った表情が明るくなった。先程の虚ろさを感じる表情が重なって、僕は心が安らぐ感じがした。イヴがどうしてあんな顔をしていたのか、それは分からないが、それならば少しでもイヴを笑顔にさせておきたかった。その間は僕も安心していられる。
「さ、帰ろう。街に戻って宿を探さなきゃ」
「うん!」
 昨日止まっていた宿は出払った。理由は考えるまでも無く単純で、僕が過ちを犯した事を知っている者と同じ宿に居られはしなかったからだった。
僕達は新たな宿を探しに街へ戻る。白い光が零れてくる濃緑の林道を、僕達は引き返した。



 意外にも、休憩は摂らずに済んだ。というより、摂れなかった。林道も終わって森の出口が近づこうかという頃、それが起こった。変わらず前を歩いて気を払う僕と、それに付いて来るイヴ。手は、矢張り繋いでいない。僕が前を向いている状態では、彼女が草葉を踏み分ける音が健在の頼りだった。森の出口が近づいて、気が緩んでいたのかもしれない。僕は気付くのが少し遅くなってしまった。
 不意に、僕達の頭上を何かが通ったような感じがした。いや、通ったのだ。そしてそれは、僕達に近付いてくる。降りてくる。『彼女たち』が。
「あぁー、やっと見つけたわぁっ」
「ずっと待っていたの!」
「かっこよくて、強そうな、理想の人!」
「私の、私たちのっ」
「旦那様!」
 上を見上げる。頭上、歓喜の声。無邪気に、そう、かくれんぼの鬼のように。果実を採取する際に遭遇したモスマンの群れが、僕達を発見してしまった。この声ならば、僕は彼女たちのお眼鏡に適ってしまったのだろう。理想も何も、男なら誰でも良いのではないのか。僕がそう思える程度には、彼女たちは黄色い声を上げていた。
「イヴッ! 息を止めるんだ!」
 反射的に、僕はイヴに向かって叫んだ。頭上ではもう、羽ばたく音がする。同時に、僕はイヴに向かって駆ける。固く口を結んだイヴを抱き上げると、彼女は少し驚いた顔をして、身体を強張らせた。気にせず、僕は出口を目指して土を蹴った。
「イヴ、息をしても大丈夫だ」
「あの人たち、大丈夫なの?」
「分からない。だから走ってるんだ」
 ある程度走って距離を空けたので、鱗粉を吸ってしまう事は避けられただろう。だから、次は蛾たちから逃げなければいけなかった。待って、待ってと、蛾の追い縋る声が聞こえる。ばさばさと、蛾の羽ばたく声が聞こえる。木漏れ日が前に見えては、目の端へ通り過ぎる。草葉を踏んづけて走る僕。背後、追随する飢蛾。走っても、走っても、羽ばたきが止まない。辞めたとはいえ、主神の加護を受けた勇者なのに。いや、勇者だからこそか。
 出口は近いはずなのに、ずっと遠くにあるように思われる。追われている、そして追い付かれてはならないという恐怖が僕をそうさせていた。いよいよ息も上がって来た頃、辺りに満ちる光が多くなってきた。遠くに一際強い光の筋が見える。出口。彼女たちが森の外まで追ってこないという保証は無いが、自分が進んでいるという事実が形となって現れた瞬間だ。その先に見える光に、僕は僅かな希望を見た。視界が開ける。凡そ5時間ぶりの青空。走りながらも、背後を確認してみる。見えるのは僕達が居たであろう木々だけ。どうやら撒いたようだ。
「はぁ、はぁ……イヴ、具合は悪くないか?」
「うん、平気だよ」
「よかった……」
 奇襲を受けたためにイヴが鱗粉を吸ってしまった事も考えられたが、彼女の無事を確認して胸を撫で下ろす。
「あのおねえちゃんたち、どうしてエリスを追いかけてきたの?」
「言ってただろ? 旦那様って。僕を夫にしようと捕まえに来たんだよ」
 イヴが妙な事を訊いたと思ったが、彼女が他の、それも人間を襲う魔物に遭遇するのは初めての事だ。それまで外の世界を知らなかったのだから、魔物が人間を襲う理由が判らなくてもおかしくはない。彼女は幼体だが、魔物としての本能が備わっているはずだ。いずれ理解出来るだろう。いずれは。
「エリス、連れて行かれちゃうの?」
「魔物に捕まるとね」
「エリスはわたしのものだもん!」
 今度こそイヴが妙な事を言った。本人に他意は無いのだろうが、ここが他に誰もいない草原で良かった。街中だったら要らぬ誤解を受けていたところだ。
「……変な事言ってないで、早く街に戻ろう。ほら、立って」
「あっ、待って」
 僕は動揺を隠して腕の中のイヴを立たせようとしたが、彼女がそれを制止する。
「何だよ」
「もっと……抱っこされてたい」
「……駄目だ。ちゃんと歩かなきゃ身体にも悪い」
 少し語勢を弱めて、イヴは僕にそう言った。おねだり。そう言ってもいいだろう。僕は今度こそ動揺を露呈しそうになったが、それでも平静を装ってイヴを立たせた。イヴが僕に向けてくる好意は、恋愛ではなく、親愛の情。自分の面倒を見てくれる、家族のような存在へ向ける好意。そう考えると、気持ちが幾分軽くなった。
「ぷぅ……けち」
「ほら、行くよ」
イヴが僕を異性として意識してはいない。これは恋愛感情ではないと思うと、僕は表情を明るくすることも出来た。僕はその方がずっと楽だった。その方がずっと都合が良いことだけは、間違いなかった。
 僕が拗ねるイヴの手を引くと、それだけでも彼女は少し機嫌が良くなったようだった。僕は彼女の単純さが羨ましくて、憎くもあった。



 街に戻ってきたのはもう日が傾こうかという頃。一先ず僕達は宿を取り、部屋で休憩することにした。歩き通しでイヴも疲れているはずだろうと思ってのことだった。
「疲れたぁ……」
「お疲れ様。ゆっくり休むといいさ」
 計らいは大正解だった。ぐったりとしてベッドに寝転がるイヴにちょっとした罪悪感を覚える。少し無理をさせすぎただろうか。僕は彼女を労いながら袋を取り出そうとした。そこで僕はある事に気付いた。ベッドのイヴが、まだそれに気付いていないのは幸運だった。
「じゃあ、僕は依頼主に頼まれた品を届けてくるから、イヴは休んでて」
「うん……」
 疲労が祟ったか、イヴは僕と一緒に来ることはしなかった。もし一緒に来るつもりであればどうにか諭して諦めさせるつもりだったが、手間が省けた僕は後ろめたい思いに駆られながらも宿を出た。
 霊草と果実を入れた袋は無くなっていた。モスマンたちから逃げる時に落としたと考えるのが妥当だろう。今から森へ戻るとなると、捜索が始まる頃には夜になってしまう。魔物が活性化するその時間にイヴを連れて行くのは危険だ。だが、あまり遅くなってもイヴを心配させてしまう。僕は小走りで街の外へ出ると、あの森へ向かって駆けだした。昨日も見た紫色の空が、憎らしい程に澄んでいた。



 道中は無事に踏破出来たものの、問題はここからだった。日中、ただでさえ薄暗さを覚える森は、夜が降りてしまった今、暗闇そのものとも思える程に僕を待ち構えている。この中には先刻僕達を襲ってきた魔物も巣食っている。気が滅入りそうになりながらも、僕は用意しておいたランタンを手に、黒々とした森へ踏み込んだ。
ランタンで照らさなければ足元も覚束ないような暗さで袋を探すのは、ひどく現実的ではないと、僕は探しに行く前から気付いていた。それでも、明日からアルマリークへ出発する事を考えると、今日中に依頼は達成しておかなければならなかった。この捜索が多少の無謀を孕むとしても、だ。
 ランタンの明かりは、魔物からすれば獲物の存在を知らせてくれる都合の良い目印だ。森に棲むような魔物はランタンなど使わずとも夜目が利く。探索に時間を掛ければ掛ける程、魔物に襲撃される可能性が増していく。すぐそこの闇から、どんな魔物が飛び出してくるのか分からない。
 僕は焦燥に駆られながらも探索を続けるが、焦る気持ちと反比例して、袋は一向に見つからない。モスマンに見つかった地点が出口に近い所だったから、道に沿って探していれば、見つけることは難しくないはずだ。無論、その袋が落ちたまま放置されていれば、の話だが。そう、有難迷惑ではあるが、袋が誰かによって拾われている可能性もある。いくら探しても見つからない場合はその可能性が濃厚となる。そうなれば愈々、依頼達成は困難を極めてくる。或いは、ドロップアウトも視野に入れなくてはならない。
 足を前に進める時間が多くなると、それに従ってよくない考えが頭をよぎるようになる。もう、見つからないのではないか……ひとり宿に残してきたイヴの事を考えたその時、白いものがランタンの明かりに引っかかった。
 僕は目をぎょろつかせてそれを見る。先ず、あれは袋だった。しかし、僕が探している袋ではないかもしれない。ぬか喜びだったらそれこそ辛くなると判っていた僕は、逸る気持ちを抑えてその中身を確認する。そこで漸く僕は一息吐いた。袋の中の霊草と果実は、まさしく僕が採取したものだった。仮にそうでなかったとしても、僕はこれを天に感謝するような気持ちで拝借しよう。それくらい、僕は気を張って探していた。いつ魔物に襲われるか分からない緊張と戦いながら。
 僕は周りの闇が晴れた時のように安心していた。だから、その瞬間ばかりは周囲に対する警戒を解いてしまっていた。もしかすると、彼女たちはそれを狙っていたのかもしれない。殊、人間を襲うという一点において、彼女たちは途轍も無く狡猾であるのは僕も嫌という程知るところだ。
「あっ、旦那様!」
「戻ってきてくれたのね!」
 僕が袋を拾い上げるのと、先程も聞いた黄色い声が聞こえるのは同時だった。咄嗟に背後に向くと、ランタンの光に照らされた彼女たちの肢体が艶かしく映る。ただ、僕にはそれに見惚れている暇なんてものが一秒たりとも無い。幸い、数はさっきより少なくなって二体。不利である事には変わりないが、逃げるにはまだマシだ。引き返す道もまだ塞がれていない。
「旦那様じゃないし、あんたらの為でもない!」
 僕は吐き捨てて横へ身を翻した。一度逃げる態勢が整いさえすれば、後は僕の脚力で逃げ切れるのは把握済みだ。
「ダ・メ・よ?」
「私たちと、一つになるの」
「一緒に気持ちよくなりましょ?」
 それを見越したかのような増援が、僕の針路を完全に塞ぐ。僕が気付いていなかっただけで、恐らく最初から彼女たちに欠員は無かったのだろう。僕は息を飲んだ。挟み撃ちの格好に。彼女たちが翅を開く。次の瞬間、僕は鱗粉まみれになった僕自身を想起した。次いで、イヴの後ろ姿が思い浮かんだ。
「ま、待て! 僕にはもう相手が……」
「エリスッ!!」
 僕が苦し紛れに活路を求めようとした時、目の前に居るモスマンの一人がその場に頽れた。その背中がランタンに照らされると、そこは真っ赤に染まっていた。開いた背中から、赤いものがどくどくと溢れている。血。背後の、恐らくは僕の名前を呼んだ誰かがやったのだ。目線を前に戻す。そこに、僕に手を差し伸べる者がいた。
「あんたは……!」
「いいから逃げるぞ! 早く!」
 ランタンを捨て、促されるままに僕はその手を取り、驚いている暇も無く引きずられるようにして森林の暗闇をひた走った。去り際、倒れた彼女に駆け寄った仲間が、悲鳴混じりに何かを言っていた。無論、それを気にしてはいられない。報いようと襲ってくることだけは間違いないからだ。
「おい、あの子……」
「どうなったかは分からねえ。手加減する余裕も無かったからな」
僕は助けてくれた彼を強く責める事は出来なかった。あの時助けられていなければ、僕が無事でいられたかどうか分からない。今にも、復讐に駆られた彼女たちが酷い形相で追ってくるのではないかと、僕は走りながら、嫌な汗もかいていた。
 森を抜けて暫くしても、モスマンたちが追いかけてくる気配は無い。追いかけるのを一旦諦めたのだろうか。
「助かったよ、ハンス」
「良いってことよ。明かりがあるんで近づいてみたら、まさかお前だったとはな」
漸く身体に掛かっていた力が抜けてきて、僕は恩人に礼を述べた。モスマンを斬り、僕を助けたのは他でもない、僕の嘗ての仲間、ハンス・バーンズその人だった。彫りの深く鋭い目に心持ち大きめの鼻の彼は、少し大雑把で粗野だが、器量の良さは兄貴分として僕は慕っていた。
 僕達はそれから、思いがけない旧友との再会に昔話が花開いた。久し振りに会う友人との語らいは思った以上に心に沁みた。この時ばかりは、イヴとの間に生じた歪みから、目を背けていられた。その精神の安息は、街に到着するまで続いた。



「……なぁエリス、あれからどうよ?」
 やがて、僕が決して良くは思っていない話題をハンスが振る。彼は彼で、僕の選択を咎めはしなかったし、理解もしていた。そこに不満が全く無いわけでもなかったが。
「それなりだよ」
「……そうか。何か厄介事とか、無いよな?」
 魔王討伐の旅を辞退した僕を、ハンスは責めない。僕の性質を理解しているが故に。鈍いオレンジの街灯が、僕達を暗く照らしているようだった。
「大丈夫だよ。新しい依頼人も出来たし」
「そりゃよかったな」
顔を綻ばせるハンス。僕には何だか、仮面を被っているように見えた。月夜でなければ、もっと暗い顔をしているように見えるのではないか。
「……いや、大丈夫ではないかな」
「なんだ、やっぱりか。お前背負いこみやすいんだからさぁ。で、何だ?」
 僕は伏し目がちに嘘を告白した。ハンスもハンスでそれは見越していたらしく、呆れた口調が耳に痛かった。だが、これが又と無い好機であることを、僕は見逃しかけていた。
「それが、さ」
「ああ」
 話す悩みなんて、もう一つしかない。それを吐露出来る者なんて、今は彼しかいない。けれど、どう吐露すればいいのかが分からなくて、僕は言いかけて口を噤んでしまった。焦れたハンスが捲る。
「なんだよ、そんなに言いにくいのか? なんだ? 女か?」
「うっ……」
「……マジかよ」
 図星を突かれて、図らずもハンスに悩みの内容を伝える事になった。完全に虚を突かれた格好になった僕だが、それは彼も同じだ。
「お前が色恋沙汰とはなぁ」
「茶化さないでくれよ」
 しみじみとした口振りでハンスが頷く。僕と旅をしていた彼からすれば、その反応は致し方なしだ。勇者としての僕は、今より余程堅物だった。それこそ、女性との関係だなんて考えた事も無いくらいで、ハンスからも度々からかわれるこもしばしばだった。考えるだけの余裕が無かったのだろうと、今ならそう思える。
「で、どんな奴なんだ?」
 目の色を変えて尋ねるハンスはどこか楽しげだった。少し腹は立つが、相談相手には教えねば相談が始まらない。
「……依頼主」
「ああー、一目惚れってやつか? お前ありそうだもんなぁ」
「こっちは真剣に悩んでるんだけど」
 ハンスの声は弾んでいた。本人からすれば深刻な問題にこうも下世話な反応を返されては怒っても仕方は無いだろう。本当に相談に乗る気があるのかも怪しくなってきた。けれど、この反応をどこかで楽しんでいる自分も居る。旧友とのやり取りに懐かしさを覚えている。
「分かった分かった。でもよ、好きなら好きって何で伝えないんだ?」
「それが出来たら苦労はしないってこと」
「あー……何だ、ワケあり?」
 感付いたハンスが遠慮がちに訊く。僕は無言で首を縦に振った。
「ワケありってーと……身分違いか? いいとこのお嬢様とか」
「あ……うん。そんな感じ」
 ハンスの目星は当たらずとも遠からず、といった感じだったが、僕はそれに頷いておいた。あまり彼女についての詳細な情報を与えすぎると、相談そのものが崩壊してしまう恐れがある。僕とは違い、ハンスは魔物に対する意識という点で立派な勇者だ。僕が魔物に惹かれていると分かれば、恐らく幻滅するだろう。僕はそれを避けようとしていた。
「身分が邪魔して想いを伝えらんねえって、そんでウジウジしてたらきっと後悔するぜー?」
「……まぁ、ね」
「依頼人ってことは、お前のことだから多分長期依頼請け負ってんだろ。で、そいつが終わったらお別れ。自分の気持ちも伝えられずにサヨナラだ。このままじゃ、そうなるぜ?」
「それはそうだけど……」
 腰の引けた僕を、怖いくらいに捲し上げてくる。付き合いが長いのは自分でも理解しているが、僕は旧友にここまでの熱弁を振るわれている為か、余計に煽られている気持ちがした。
「いいのか? それで?」
「……それは嫌だ。けど、気持ちを伝えても、彼女が困るだろうから」
 僕も負けじと食い下がる。彼女の好意と僕の好意は噛み合うものではないと、僕は考えている。あの夜が尾を引いて、イヴの悲鳴が耳に蘇った気がした。
「……ま、最後に決めるのはお前だ。後悔しないようにな」
溜め息を吐いたかと思うと、ハンスは急に熱が抜けたような調子になった。踏ん切りのつかない僕に呆れたように見えた。後悔しないように、という言葉が、耳の奥で粘っこい感触をもって貼りついた。まだ始まったばかりの繁華街の夜が、いやに騒がしく感じた。
「……なぁ、エリス」
「何?」
顔が引き締まり、珍しく真剣な顔が見える。僕はあまり見ないハンスの顔に身構えた。
「勇者、戻るつもりは無いか?」
 凡そ応じる事の出来ない誘いが来た。彼の目を見れば、僕に戻ってきてほしいと思っているのは判る。魔物に助けられ、あまつさえ関係を持ってしまった僕には、もう魔物を殺すだけのことは出来ない。戦う意志も無い者に剣は向けられない。
「……ごめん」
「……そうか」
 目を伏せてそう答えると、ハンスがまた溜め息を吐いた。心底の諦観が混じったような、深い息に思えた。僕とハンスの間を、夜の雑踏が突き抜ける。それからは、どちらが何かを言う事も無く、僕は依頼を無事達成した。ハンスの宿泊先は僕の所とは別だったので、中央の噴水広場で別れることになった。
「頑張れよ。……」
「ああ。……ありがとう」
 去り際に、ハンスが僕を小さく激励した。何を、と僕は訊きたくなったが、僕は礼を言っておくだけに留めた。繁華街のぎらぎらしたネオンに消える彼の背中は、どこか悲壮なものに見えた。僕が見ていない間に何かあったのだろうか。僕は踵を返し、早足で宿へ向かった。イヴはもう待ち草臥れているだろう。
 宿のロビーを抜け、階段を上り、右へ進んだ突き当りの客室の前に立つ。ロビーに置いてあった柱時計は、既に九時を回っていた。ノブを回して、僕は彼女の待つ部屋へ体を滑らせた。
「ごめん、イヴ。遅くなって……」
 僕が言い終える間も無く、走り寄ってきたイヴが僕の胸に飛び込んだ。突然の事で思わず倒れてしまいそうになりながらも、僕は鼓動を大きくしてイヴの顔を見た。それこそ僕は二の句が継げなくなってしまった。
「どこ行ってたの!?」
 耳がきんとするような涙声でイヴが憤慨した。顔をくしゃくしゃにして、嘗て無いほどの剣幕で激情をぶつけられ、僕はたじろいだ。ただただ平伏するしかないくらいに。
「ご、ごめん……」
「エリス、ずっと戻ってこなくて、また一人になっちゃうんじゃないかって……うぅ……ひっ、く……」
 今度は怒りよりも泣く方が優先されたようで、僕はしどろもどろになっていた。どうにかして彼女を泣き止ませないといけないのだが、僕にはこれといった方法は見つからない。
「……ごめん。一人で寂しかったよな。……大丈夫、イヴを置いていなくなったりはしないよ」
「……っく、ほんと?」
「本当に本当だ。だから、もう泣かないでくれ」
「……じゃあ、ゆびきり」
 イヴに寂しい思いをさせてしまったのは、確かに嘘を吐いて出てしまった僕の落ち度だ。僕が謝らなければいけないのはそこで、誠意を見せなければならない。僕にはそうして謝る以外に方法は無かった。幸い、イヴはそれで許してくれた。指切りという、破る事の出来ない誓約で。僕はイヴに目線を合わせて、小指を絡ませた。薄汚れた僕の硬い手とは違う、雪のように白くて、小さく細っこい指。僕は赤くなってしまった彼女の碧眼に吸い込まれそうになりながらも、約束した。元々僕はそう決意していたのだ。彼女を一人にはしないと。それが、彼女を穢した僕に出来る償いだった。



 僕はイヴを見る。無防備な寝顔を見る。あどけなくて愛くるしい、その小さな顔を。今日という日は、イヴにとっては少し刺激が強すぎたらしい。僕がゆっくりするようにと言うと、程無くして彼女は眠りに落ちてしまった。彼女の毛布を正して、僕も同じように体をベッドに横たえる。目を閉じれば、一日の出来事が頭の中を列車の様に過ぎっていく。明日からは遠征だ。アルマリークの首都ヴェルドラまでは、少なく見積もっても一週間はかかる。途中、野宿をしなければならない所も出てくるだろう。世間知らずなイヴには辛いだろうが、彼女を親元に帰す為には耐えてもらわなくてはならない。辛苦を強いるのが、少し憂鬱だった。僕の意識が眠りに落ちるまで、ハンスの言った言葉が頭の中にへばりついていた。後悔しない。僕はその選択肢を見つけられるのかを、眠るまで模索していた。



 僕は、靄の中にいた。形容しがたい色をした、濃い靄の中で蠢いていた。そこがどこなのかは分からない。ただ、確かな意識を持って、僕は靄の中に含まれていた。一寸先も見えない不明瞭の中で、僕は彷徨っていた。そこから逃げ出そうとしていたんだと思う。だから、何も見えないにも関わらず、いや、何かに当たってもいいと無軌道に考えて走っていた。
 それもそうだった。どこからともなく笑い声が聞こえるのだから。笑い声だけじゃない。悲鳴とか怒号とか、靄は僕にとって不快な殆どを網羅していた。どれだけ走っても靄の終わりが見えない。僕は何かに躓いて転んだ。何かが僕の足を引っかけた。靄だ。靄が形を成して僕を転ばせたのだ。僕が起き上がる間も無く、靄は僕の頭を踏み躙った。丁度、革靴の踵で後頭部を踏みつけられているような、そんな感じがした。靄が僕を責めている。何を言っているのかはよく分からない。だが、それを聞いているにつれ、僕の心はヤスリでも掛けられているみたいに摩耗していく。
 這い蹲った僕の前に誰かの脚が見えた。プラムの色をした靴に、真っ白なオーバーニーソックス。僕はこれに見覚えがある。僕は面を上げて、その顔を見た。凡そ彼女がするはずもないような顔をしていた。側溝のヘドロでも見るような目で僕をねめつけていた。彼女が足を振りかぶったかと思うと、僕の首と胴体が離れた。視界がぐるぐると回る。捕獲される前の蜻蛉には世界がこう見えているのだろうか。
 回る世界の中で、僕を笑う声だけが木霊していた。ずっと。彼女も一緒になって笑っていた。僕が最も見たいと思う笑顔で。いつまでも。



 絶叫しそうになって、僕は目が覚めた。悪夢と言っても差支えない内容だったと思う。正気か、僕は。
 窓から頼りなげな朝日が差していた。隣のイヴはまだ眠ったままだ。二度寝に興じるような眠気も無く、妙に冴えてしまったので、僕はベッドを降りて二人掛けのソファに腰掛けた。すぐそこのテーブルに置いてある本を取る。僕達の本だ。描き足されてはいないかとページを捲ると、矢張り新たなページが描かれていた。



 主である女の子に恋をしてしまった騎士は、想いをひた隠しにして旅を続けます。
 騎士は時々思います。旅は、いつ終わるのかと。旅が終わった後も、女の子は自分を傍に置いていてくれるだろうかと。
「ねぇねぇ」
「はい、何でしょう」
「わたし、恋をしてみたいの」
「恋、ですか」
「いいものでしょう?」
「きっと、つらいだけです」
「そうかしら?」
「そうです」 
 女の子はまだ、恋をしたことがありませんでした。どこから聞いてきたのか、恋という存在を知ってしまったのです。
 騎士は正直に答えたつもりでした。騎士は女の子に恋をしていてとても辛い思いをしていたのです。
 騎士は、自分の中にある想いを女の子に伝えるつもりはありませんでした。
 旅が終わっても、女の子は自分ではない別の誰かと恋をした方が良いと考えていました。
 それが正しいと、騎士は考えていました。
 女の子も騎士も、考えることは同じでした。旅が長く続けばいいと。
 女の子と騎士の旅は続きます。



 今回描かれていたのはここまでだ。騎士の葛藤と僕の葛藤は似ている。この想いは届くべきではないと考えている。確信ではないが矢張り、この絵本は僕達の行動に応じて描かれている気がしてならない。そうだとすれば、騎士が僕を、女の子がイヴを表していることになる。絵本が僕達の足跡を表したものだとしたら、この絵本のページが全て埋まった時に、何が起こるのだろうか。何も起こらないかもしれないが、ここまでの仕掛け絵本なら何かしらの意味が有ると考えて間違いは無いだろう。全てはきっと、イヴの両親が見つかれば明らかになるはずだ。
「ん……エリス?」 
 絵本を閉じて声のした方を向くと、起きたイヴが眠たげに目をこすっていた。
「ごめん、起こしたみたいだね。まだ寝てていいから」
 まだ朝の早い時間だから、僕が起こしてしまったのだろう。この時間に起きても、彼女には特にやることも無いので、僕は寝ているように言った。如何にも寝惚けているといった顔から見ても、僕とは違って、戻ろうと思えばそのまま夢の世界に戻れるだろう。
 イヴはよく、こんな時に限って、という時に僕の予想を裏切る。今回もだ。寝ていろと言ったのに、むくりと起き出せば、寝起きの覚束ない足取りで僕に近付いてくる。そしてそのまま、僕の隣にちょこんと座って身を摺り寄せてくるのだ。
「だから、寝てていいって」
「んーん。こうしてたいの」
 困惑気味に苦笑いして繰り返しても、イヴは聞く耳を持たない。飽くまでも僕の傍で寝たいらしい。ぼんやりした目で、今にも眠ってしまいそうだ。
「寝惚けてるだろ」
「ねぼけてなんかないよ」
 僕がむっとして訊ねると、イヴは間延びした口調で返した。そもそも寝惚けてなかったらそんな顔はしてないし、こんな事もしないだろう。それを指摘するのは野暮なので、僕は息を吐き出して頭を掻いた。
「僕、風呂に入ってくるよ」
「えっ?」
「風呂だって。昨日、入らなかったから。イヴも入る?」
 居心地が悪くなって、僕は立ち上がった。イヴがぽかんとして聞き返したので、僕は分かりきった質問をした。
「いくいく!」
 それまでの寝惚け眼が嘘の様に、イヴの瞳が輝いた。予想が出来ていたから溜め息も出ない。小さく鼻で笑いながら、僕は入浴に使うタオルやら何やらの用意を始めた。準備している間、イヴは小躍りでも始めそうに楽しそうだった。高が湯浴みでそこまで気分が上がるものなのか。
「まだ寝てる人もいるだろうから、静かにね」
 部屋を出る前に、人差し指を立てて唇に当てた。イヴは静かに頷いた。
 朝早くの宿の廊下は静謐に包まれている。二人分のスリッパの足音だけが聞こえている。夜でないからか、イヴは怖がっていない様だった。繋いだ手も震えていなかった。浴場の前、男湯と女湯の間にある戸を開けて中へ進む。
 今回は人の目を気にしなくていい分、気が楽だった。有り難い事にこの宿には家族風呂が備えてあったのだ。今の僕にとってこれほど助かるものも無い。誰かに見られるかもしれないという不安要素が無いだけでも、精神的な負荷は雲泥の差だ。僕が自分から彼女を誘うくらいの事が出来たのもこのためだった。
「服は?」
「脱いだよ」
「タオルは?」
「巻いたよ」
 よし。お互いに最低限のマナーは守れているし、要らぬ声を張り上げなくて済みそうだ。変に意識するものではない。何てことは無い、ただの入浴。そう思っていないと、心が落ち着かなかった。
 浴室に入ってみると、湯と木の匂いが鼻を擽った。家族風呂だけあって小ぢんまりとした印象を受ける。湯から立ち上る白い湯気を、取り付けられた窓から差す朝日が煌々と差していた。手入れも行き届いている様だ。
 湯をかけ流して、浴槽へゆっくりと体を沈める。気持ち熱めの湯が、時間に連れて身体中に広がっていく。これから始まる長旅への活力を与えてくれる様だった。
「気持ちいいねー……」
「朝風呂も結構悪くないだろ?」
「そうだね……」
 頬を綻ばせてうっとりとしているところを見ると、イヴも素直に楽しめているらしい。僕も、邪魔が入らない状況でなら落ち着いていられそうだった。湯が体に沁みる感覚が心地良い。穏やかな気持ちに任せて、今ならしこりも無くイヴと話せそうだった。
「イヴ」
「なぁに?」
「あの本さ、また描かれてたんだ」
「ほんと?」
 イヴが声を弾ませた。
「ああ。騎士が女の子に恋をしたのは憶えてるか?」
「うん。それでとっても悩んでたんだよね」
「そうだ。それで、女の子が言ったんだよ。『わたし、恋をしてみたいの』……って」
「騎士はどうしたの?」
「想いを伝えないことにしたんだ」
「えっ、どうして?」
 イヴがさも意外そうに訊く。
「自分より、他の人と恋をした方が良いと思ったんだよ」
「そんなのひどいよ!」
「え……?」
 ひどい、と。イヴが眉根を寄せながらそう言って、僕は面食らった顔をした。イヴがそんな返しをするとは考えていなかった。
「自分の気持ちもちゃんと伝えてないのに諦めちゃダメだよ!」
 僕はその時、イヴの声がそれまで忘れていたハンスの言葉と重なって聞こえた。彼女は騎士に対しての感想を述べただけなのだろうが、それはある意味では、僕に対して非難しているとも言える。少しの間、僕は口が塞がってしまった。
「そ、そうだよな」
 漸く出てきた言葉にも、ひどく中身が無かった。それぐらい、僕は心を打たれたということだ。湯浴みの終わるまで、頭の中でハンスの言葉とイヴの言葉が代わる代わる響いていた。



 そうして、僕達は今旅路に着く。アルマリークまでは凡そ一週間。途中に幾つか集落や村もあるが、野宿をしなければならない日も出てくるだろう。久々の長旅だ。
「ヴェルドラ目指して……」
「しゅっぱつ!」
 イヴのこの快活さは一体どこまで続くのだろうか。ヴェルドラに彼女の両親はいるのか。旅は……終わるのか。僕は沈殿した不安を抱えながらも、イヴと共に啖呵を切った。抜けるような草原の向こう、燦々とした太陽に、雲が半分ほど翳っていた。
15/10/30 22:58更新 / 香橋
戻る 次へ

■作者メッセージ
事情が立て込んでしまったのと、このお話自体が結構な難産だったということでこの有り様になりました。お待たせしました。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33