節介な遠雷
しとしと、しとしと。
鈍色の雲が、降り注ぐ雨で霞んだ地平線の向こうまで広がっている。屋根に衝突した雨粒が軒先から地面へ滑り降りてくる。雨粒どもが彼らの領域を侵すことはない。
今日もまた魔術師の青年と淫魔の少女は二人、縁側に留まり、鈍行したかと錯覚しそうな時間を共に過ごしている。青年であるセオドアはこの錯覚が雨によるものではないかと推測していた。憂鬱な時間は早く過ぎてはくれないものだ。隣の少女マリアも、退屈そうに足を揺らしては床板の木目を撫でてみたり、気まぐれに軒先から手を出して雨の勢いを確かめたりしている。
「退屈かい?」
「うん。外で遊べないもん」
わかりきった質問にマリアは素直に答えた。砂嵐のような雨音が邪魔していても、彼女の声は澄み渡ってセオドアのもとへ届く。
「そうだねぇ。庭の手入れもままならないし」
「じめじめするの」
眉間に皺を寄せる彼女に同意するように、彼は小さく笑った。同時に、不安げに庭園の方を見ている。
「葡萄が傷まないといいのだけどね」
「ちゃんと雨除けしたでしょ?」
確かめるように彼女が顔を覗き込む。この時間が訪れる前、彼女と葡萄の房の一つ一つに雨を防ぐシートを被せたのを彼は想起した。年若い彼女のたどたどしい手つきが脳裏をよぎり、彼はまた相好を崩す。
「……そうだね。マリアが手伝ってくれたんだもの、大丈夫か」
「わたし、がんばったでしょ?」
どこか誇らしげで、何かを望んでいるような目線を向けるマリア。こういう時に何をしてやるべきか、セオドアは自分の経験則から既に把握している。
「うん、えらいね」
褒めて、頬を撫でる。たったそれだけのことで、先程までの物憂げな表情が嘘のように緩んでいくのを見ると、彼はこの単純極まりない少女が羨ましくも、愛おしくてたまらなくなってしまう。頬のきめ細かくて滑らかな肌触りは、いつまででも離したくなくなるほどだ。
「えへへ……セオドアの手、ひんやりしてる」
「ああ、雨で冷えてしまったかも。嫌だったかい?」
「ううん。もう少し、このまま……」
幸福を噛みしめるような微笑みを浮かべ、マリアは引き続きセオドアの愛撫を促す。離してほしくないと言わんばかりに彼の大きな手に自分の手を重ね、目を閉じて撫でられる感覚に集中している。マリアにとっては手の冷たさなど関係ない。重要なのはそれが誰の手かなのだ。
「……温かい手だ」
重なった手の熱さにセオドアはいつも心を乱される。指先まで血の通った、小さくも生命力あふれる手は、冷えた自分の手に活力を分け与えてくれる気がする。
「セオドアもあったかいよ」
「さっきひんやりするって言ったじゃないか」
思わず吹き出すセオドア。マリアは諭すようにかぶりを振った。
「心があったかくなるの」
蝋燭の火のように彼の笑みが消え、面食らった顔に変わると、一拍おいて彼は顔を伏せた。
「セオドア? 手を止めないで、もっと……」
「あ、ああ。全く君には……」
マリアにせがまれ、再び手を動かす。彼の尻すぼみになった言葉がそれ以上出てくることはなかった。彼女の頬の飽きることのない感触を楽しみながら、彼は惚れた弱みという言葉を思い出していた。かなうわけがないのだった。
暫く、沈黙が続く。決まりの悪くなった彼が撫でることを中断してからは、また前を向くことになった。言葉を許さない様な重々しさで、雨音が一帯を支配している。自分の肩に寄り掛かる彼女を気に留めることなく、セオドアは微かに甘酸っぱい香りのする庭の向こうを見ていた。やがて隣からは雨音に紛れて、小さくも規則正しい息が聞こえてくる。彼の横目に、うつらうつらと揺れる彼女が映る。
「マリア?」
「……あっ、ううん、ねてないよ」
はっと目を覚まし、首を横に振るマリア。退屈に負けたのだろう。そのままにしておいてあげようともセオドアは考えた。
「お昼の後だもの、無理はよくないよ。ほら」
しかし、そうするよりも自分の膝を指して、そこに招く方がいいことを彼は知っている。彼女もまた、彼の誘いは断らない方が幸せになれると知っていた。少女が遠慮がちに青年の膝に頭を乗せると、青年は少女の頭へそっと手を添える。違和感のない、自然な動作だった。
「セオドアのひざまくら、かたくて、ごつごつしてるの」
「質の悪い枕ですまないね」
「ううん、安心できるからこれでいいの。でも……ねむれなくなっちゃうの」
「それならやっぱり、お布団にでも……」
「ち、違うの。ねむれなくなるのは……その…………どきどきしちゃうから。セオドアの顔が、すぐそばにあるから……」
「……マリア」
目を泳がす彼女へ彼が次の言葉を紡ぐ前に、辺りが光ったかと思うと、雲に電光が走り、けたたましい雷鳴が響いた。
にわかに雨が勢いを増してくる。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、思わず耳を塞ぐマリア。セオドアは動じることもなく、強張った彼女の手を優しく握り、あやすように頭を撫でた。
「大丈夫。怖くないよ」
「う、うん。セオドアが、そばにいてくれるなら……」
撫でる指に彼女の細い金髪が絡んだ。湿気を帯びて引っ掛かりのある感触に、彼は微かに眉をひそめた。
「葡萄よりも……」
「え?」
思考が口に出ていたことに気付き、彼は咄嗟にとぼける。
「何でもないよ。怖いなら、居間の方に戻るかい?」
「いいの、だいじょうぶ。……でも」
「でも?」
「その……やっぱり、怖いから。……抱きしめて、ほしいの」
「うん、いいよ。おいで」
今にものぼせそうなマリアに、セオドアは少し驚いたような顔をしながらも、間を置かずに認めた。マリアは起き上がり、彼の両脚に跨ると、背中へ手を回して思いきり抱きしめる。セオドアも彼女に応えるように、彼女よりも大きな腕で背中を抱擁する。少女の柔らかな感触と密着すると、甘く、清かな匂いが彼の鼻を香った。彼女もまた、胸に顔をうずめながら、青年のほのかに湿った香りを楽しんでいる。よく干した布団にそうするかのように、ぐりぐりと鼻先を押しつけていた。
「……ね、今日は?」
「濡れた石と葉と土の匂い。落ち着く香り」
「よかった」
嬉しそうにマリアが笑って、どちらからともなく抱きしめ直す。身じろぎして起こる衣擦れの音さえ雨を貫くほど近く感じられ、それがまた二人には心地良い。
「……この音なら、雷が来てもへいき」
「音?」
「うん。セオドアの心臓、どくん、どくん、って鳴ってるの」
安堵の息と共にマリアが言う。自分の心音を聞かれている。そう思うとセオドアは妙なむず痒さを感じて、居ても立ってもいられなくなった。
「……楽しいかい?」
「たのしい、とかじゃなくて、安心するの。セオドアがいちばん近くにいるって分かるから」
「…………」
「だんだん、あたまがふわふわしてきちゃうの」
「…………」
始めはいたたまれなさそうに苦笑いしていたセオドアも、マリアの真っ直ぐな言葉を聞いているうちに身動きがとれなくなってくる。
「セオドア? 心臓の音、早くなってるよ?」
マリアが悪気なく彼の顔を覗き込む。無邪気ゆえの含みのなさに、思わずたじろいだ。
「僕も、みたいだ。マリアがどきどきしてるみたいに、僕も……マリア、もうい
いんじゃないのかい?」
彼はたまらず音を上げて目を逸らした。しかし、ここぞとばかりに彼女は離そうとしない。
「でも……まだ雨やんでないよ。雷も……きゃっ」
彼女の言葉に遠雷が、慮ったかのように力強く響き渡った。いつの間に光っていたのか、彼には知る由もない。
「雨が止むまでこうしてるつもり? もう……」
溜息まじりながらも、セオドアの声色はどこか嬉しそうで、照れ臭そうでいる。あとどれだけ耐えられるのかは、彼自身にも分からない。少女の眠気はいつの間にか消えて、あとは来るべき時を待つばかりとなった。
「……マリア、場所を移してもいいかい?」
「え?」
「僕の方が怖くなったみたいだ」
「……そうなの」
マリアは幼い少女に違いないが、彼女の根幹をなすのは魔物娘という、配偶者との淫靡を何よりも好む性質である。それゆえ、セオドアが本当に雷を怖がっているとは思っていない。何かを察したかのような、これからのことに期待するような、蠱惑的な薄ら笑みを浮かべる。自分から誘った青年でさえ、少女であるはずのそれを見て背筋にぞくりとした寒気を感じた。
「行こう、マリア」
「うん。こわがりなセオドアのために……」
青い魔術師と幼い淫魔はおもむろに立ち上がると、お互いに肩を寄せ合いながら奥の寝室へと消えていく。その後の光り荒ぶる稲妻も、強まる雨も、二人の睦びを外に漏らさないための遮音材にしかならなかった。
しとしと、しとしと。
雨が上がったのは、結局のところ夜更けの頃である。
鈍色の雲が、降り注ぐ雨で霞んだ地平線の向こうまで広がっている。屋根に衝突した雨粒が軒先から地面へ滑り降りてくる。雨粒どもが彼らの領域を侵すことはない。
今日もまた魔術師の青年と淫魔の少女は二人、縁側に留まり、鈍行したかと錯覚しそうな時間を共に過ごしている。青年であるセオドアはこの錯覚が雨によるものではないかと推測していた。憂鬱な時間は早く過ぎてはくれないものだ。隣の少女マリアも、退屈そうに足を揺らしては床板の木目を撫でてみたり、気まぐれに軒先から手を出して雨の勢いを確かめたりしている。
「退屈かい?」
「うん。外で遊べないもん」
わかりきった質問にマリアは素直に答えた。砂嵐のような雨音が邪魔していても、彼女の声は澄み渡ってセオドアのもとへ届く。
「そうだねぇ。庭の手入れもままならないし」
「じめじめするの」
眉間に皺を寄せる彼女に同意するように、彼は小さく笑った。同時に、不安げに庭園の方を見ている。
「葡萄が傷まないといいのだけどね」
「ちゃんと雨除けしたでしょ?」
確かめるように彼女が顔を覗き込む。この時間が訪れる前、彼女と葡萄の房の一つ一つに雨を防ぐシートを被せたのを彼は想起した。年若い彼女のたどたどしい手つきが脳裏をよぎり、彼はまた相好を崩す。
「……そうだね。マリアが手伝ってくれたんだもの、大丈夫か」
「わたし、がんばったでしょ?」
どこか誇らしげで、何かを望んでいるような目線を向けるマリア。こういう時に何をしてやるべきか、セオドアは自分の経験則から既に把握している。
「うん、えらいね」
褒めて、頬を撫でる。たったそれだけのことで、先程までの物憂げな表情が嘘のように緩んでいくのを見ると、彼はこの単純極まりない少女が羨ましくも、愛おしくてたまらなくなってしまう。頬のきめ細かくて滑らかな肌触りは、いつまででも離したくなくなるほどだ。
「えへへ……セオドアの手、ひんやりしてる」
「ああ、雨で冷えてしまったかも。嫌だったかい?」
「ううん。もう少し、このまま……」
幸福を噛みしめるような微笑みを浮かべ、マリアは引き続きセオドアの愛撫を促す。離してほしくないと言わんばかりに彼の大きな手に自分の手を重ね、目を閉じて撫でられる感覚に集中している。マリアにとっては手の冷たさなど関係ない。重要なのはそれが誰の手かなのだ。
「……温かい手だ」
重なった手の熱さにセオドアはいつも心を乱される。指先まで血の通った、小さくも生命力あふれる手は、冷えた自分の手に活力を分け与えてくれる気がする。
「セオドアもあったかいよ」
「さっきひんやりするって言ったじゃないか」
思わず吹き出すセオドア。マリアは諭すようにかぶりを振った。
「心があったかくなるの」
蝋燭の火のように彼の笑みが消え、面食らった顔に変わると、一拍おいて彼は顔を伏せた。
「セオドア? 手を止めないで、もっと……」
「あ、ああ。全く君には……」
マリアにせがまれ、再び手を動かす。彼の尻すぼみになった言葉がそれ以上出てくることはなかった。彼女の頬の飽きることのない感触を楽しみながら、彼は惚れた弱みという言葉を思い出していた。かなうわけがないのだった。
暫く、沈黙が続く。決まりの悪くなった彼が撫でることを中断してからは、また前を向くことになった。言葉を許さない様な重々しさで、雨音が一帯を支配している。自分の肩に寄り掛かる彼女を気に留めることなく、セオドアは微かに甘酸っぱい香りのする庭の向こうを見ていた。やがて隣からは雨音に紛れて、小さくも規則正しい息が聞こえてくる。彼の横目に、うつらうつらと揺れる彼女が映る。
「マリア?」
「……あっ、ううん、ねてないよ」
はっと目を覚まし、首を横に振るマリア。退屈に負けたのだろう。そのままにしておいてあげようともセオドアは考えた。
「お昼の後だもの、無理はよくないよ。ほら」
しかし、そうするよりも自分の膝を指して、そこに招く方がいいことを彼は知っている。彼女もまた、彼の誘いは断らない方が幸せになれると知っていた。少女が遠慮がちに青年の膝に頭を乗せると、青年は少女の頭へそっと手を添える。違和感のない、自然な動作だった。
「セオドアのひざまくら、かたくて、ごつごつしてるの」
「質の悪い枕ですまないね」
「ううん、安心できるからこれでいいの。でも……ねむれなくなっちゃうの」
「それならやっぱり、お布団にでも……」
「ち、違うの。ねむれなくなるのは……その…………どきどきしちゃうから。セオドアの顔が、すぐそばにあるから……」
「……マリア」
目を泳がす彼女へ彼が次の言葉を紡ぐ前に、辺りが光ったかと思うと、雲に電光が走り、けたたましい雷鳴が響いた。
にわかに雨が勢いを増してくる。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、思わず耳を塞ぐマリア。セオドアは動じることもなく、強張った彼女の手を優しく握り、あやすように頭を撫でた。
「大丈夫。怖くないよ」
「う、うん。セオドアが、そばにいてくれるなら……」
撫でる指に彼女の細い金髪が絡んだ。湿気を帯びて引っ掛かりのある感触に、彼は微かに眉をひそめた。
「葡萄よりも……」
「え?」
思考が口に出ていたことに気付き、彼は咄嗟にとぼける。
「何でもないよ。怖いなら、居間の方に戻るかい?」
「いいの、だいじょうぶ。……でも」
「でも?」
「その……やっぱり、怖いから。……抱きしめて、ほしいの」
「うん、いいよ。おいで」
今にものぼせそうなマリアに、セオドアは少し驚いたような顔をしながらも、間を置かずに認めた。マリアは起き上がり、彼の両脚に跨ると、背中へ手を回して思いきり抱きしめる。セオドアも彼女に応えるように、彼女よりも大きな腕で背中を抱擁する。少女の柔らかな感触と密着すると、甘く、清かな匂いが彼の鼻を香った。彼女もまた、胸に顔をうずめながら、青年のほのかに湿った香りを楽しんでいる。よく干した布団にそうするかのように、ぐりぐりと鼻先を押しつけていた。
「……ね、今日は?」
「濡れた石と葉と土の匂い。落ち着く香り」
「よかった」
嬉しそうにマリアが笑って、どちらからともなく抱きしめ直す。身じろぎして起こる衣擦れの音さえ雨を貫くほど近く感じられ、それがまた二人には心地良い。
「……この音なら、雷が来てもへいき」
「音?」
「うん。セオドアの心臓、どくん、どくん、って鳴ってるの」
安堵の息と共にマリアが言う。自分の心音を聞かれている。そう思うとセオドアは妙なむず痒さを感じて、居ても立ってもいられなくなった。
「……楽しいかい?」
「たのしい、とかじゃなくて、安心するの。セオドアがいちばん近くにいるって分かるから」
「…………」
「だんだん、あたまがふわふわしてきちゃうの」
「…………」
始めはいたたまれなさそうに苦笑いしていたセオドアも、マリアの真っ直ぐな言葉を聞いているうちに身動きがとれなくなってくる。
「セオドア? 心臓の音、早くなってるよ?」
マリアが悪気なく彼の顔を覗き込む。無邪気ゆえの含みのなさに、思わずたじろいだ。
「僕も、みたいだ。マリアがどきどきしてるみたいに、僕も……マリア、もうい
いんじゃないのかい?」
彼はたまらず音を上げて目を逸らした。しかし、ここぞとばかりに彼女は離そうとしない。
「でも……まだ雨やんでないよ。雷も……きゃっ」
彼女の言葉に遠雷が、慮ったかのように力強く響き渡った。いつの間に光っていたのか、彼には知る由もない。
「雨が止むまでこうしてるつもり? もう……」
溜息まじりながらも、セオドアの声色はどこか嬉しそうで、照れ臭そうでいる。あとどれだけ耐えられるのかは、彼自身にも分からない。少女の眠気はいつの間にか消えて、あとは来るべき時を待つばかりとなった。
「……マリア、場所を移してもいいかい?」
「え?」
「僕の方が怖くなったみたいだ」
「……そうなの」
マリアは幼い少女に違いないが、彼女の根幹をなすのは魔物娘という、配偶者との淫靡を何よりも好む性質である。それゆえ、セオドアが本当に雷を怖がっているとは思っていない。何かを察したかのような、これからのことに期待するような、蠱惑的な薄ら笑みを浮かべる。自分から誘った青年でさえ、少女であるはずのそれを見て背筋にぞくりとした寒気を感じた。
「行こう、マリア」
「うん。こわがりなセオドアのために……」
青い魔術師と幼い淫魔はおもむろに立ち上がると、お互いに肩を寄せ合いながら奥の寝室へと消えていく。その後の光り荒ぶる稲妻も、強まる雨も、二人の睦びを外に漏らさないための遮音材にしかならなかった。
しとしと、しとしと。
雨が上がったのは、結局のところ夜更けの頃である。
18/10/08 22:21更新 / 香橋
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