連載小説
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シルフによろしく
 陽の光が降り注ぐ庭園と、一人で住むには手広な屋敷を繋ぐ場所。曖昧な境目。そこに彼は座っている。光を浴びる草花を眺めながら、足を遊ばせ待っている。風は微かで、立ち込める自然の香りを彼の鼻まで運んでくる。板張りの床がぺたぺたとした足音を彼の耳へ届ける。やがて足音は彼の近くへ来ると聞こえなくなった。

「おまたせ、セオドア」

 彼は透き通った声で自分の名を呼ばれると、その方へ振り向くこともなく、平坦な口調で告げた。

「マリア。ここへ」

 “ここ”を、セオドアは指差さない。定位置となっているがゆえに、それでマリアが迷うこともない。縁側に座る彼のすぐ隣へ、彼女は流れるような所作で腰を下ろした。
 風が少し強くなった。晒された庭と彼らの髪がさらさらと乾いた音を立てて弄ばれる。マリアの風下にいたセオドアは、彼女の可憐なブロンドの香りを静かに吸うと、それに目を奪われた。長い髪が風に流される様は――それが自分の愛する者のならば尚更のこと――胸を打たれるものだと彼は考えている。時も風に流されていったようだ。

「……セオドア?」
「ああ、いや。何でもない」

 いつの間にかマリアが怪訝な顔で覗き込むのを、彼は何ということもなく嘯いた。それが余りに見え透いていることを承知の上でだ。彼女は惑うように足をぶらぶらさせて、小奇麗なエプロンドレスの裾を揺らしている。風は、流れ続けている。

「……どんなにおい、した?」
「日と土と、花の香り。とても、いい匂いだった」

 やはりマリアは意地の悪い質問をしたが、今度は隠さなかった。彼女はセオドアの忌憚ない評価に顔を赤らめて俯いたが、彼は見ていない。未だ二人の庭園を見つめたままでいる。陽の下を白と黄の蝶たちが遊んでいるのを、誤魔化すように目で追っていた。
 そして彼の鼻を、また悩ましい香りが擽った。それと同時に、彼は自分の肩に優しい重みが寄りかかっているのにも気づいた。

「もっと、かいでも、いいよ」

 マリアはセオドアに体を預けると、自分に構うようせがんだのだった。彼はふれあいそのものに対して拒否する意思はない。その証に、寄りかかる彼女を自分の腕で更に抱き寄せた。

「ぁ……」

 小さく声を上げるマリア。彼女は相応に勇気を振り絞ったのだろう、小ぢんまりとした顔はしきりに上気している。彼は抱き寄せたまま、もう片方の腕を彼女の頬へ伸ばした。撫でようとする手に対して頬はあまりに小さいが、それはかえって彼女の喜びを助長する。マリアは彼の腕に手を添えて愛撫を快く受け入れると、深い海のような青い目を嬉しそうに細めた。

「少し、眠そうだね」

 セオドアは必ずしも素直にマリアの願いを聞き入れるわけではない。彼にもやりたいことはあって、彼女の気分を害さない範囲で、当然ながら彼女の願いを叶えるという前提で、我を通そうとする。だからこそ彼は彼女の細まった目を見て、敢えて見当違いの解釈をしたのだった。

「きのうは、あんまり眠れなかったの」
「今は昼寝日和だね」

 マリアは頷くと、わざとらしく欠伸をした。

「眠いなら……今のうちに、お休み」

 ここぞとばかりに、セオドアは自分の膝をぽんと叩いて彼女を招いた。マリアは魔法にかかったかのように彼の招きに吸い寄せられていく。けれど彼女は全く正気である。四六時中いとしい彼のことを考えるのが彼女の……魔物娘としての正気である。この甘美な誘いに応じない手などない。 
 そこは常に座るもよし寝るもよしの、マリアにとっての、彼女だけの特等席である。横たわり、仰向けになった彼女は自然に……愛でられながら、彼の宵闇のような髪と目を見る。セオドアは伝播の免れない、幸せに満ちた微笑みを浮かべながら、大きな手で撫でてくれる。一本一本まで慈しむように髪を梳いてくれる。マリアは、大好きなセオドアにこうして甘える時を何よりも好んだ。胸を、いっそ苦しいくらいの幸福が満たすのだ。そんな幸福に彼女は、ただ目を閉じ、口元をこれでもかと緩めて、浸る。
 セオドアも同様だった。彼にとって、愛するマリアを甘えさせるのは、彼の知る限り最も幸福な瞬間である。自分の所作の一つ一つで、いちいち相好を崩してくれる彼女がいとしくて堪らないのだ。マリアの笑顔もまた、伝染は不可避だった。
 晩春の陽気が、二人を包んで逃がさない。

「セオドア」
「ん?」
「なんでもないの」
「そうか」

 彼女の、微笑の混じった冷やかしに彼は怒らない。

「マリア」
「どうしたの?」
「何でもないよ」
「うん」

 彼に仕返しされても、彼女は笑って許す。
 違う。

「えへへ……」
「……ふふ」

 勝手に零れるのだ。次から次へと、幸せを噛みしめるような笑みが。二人をいつしか包んでいたのは、二人以外の一切の介入を拒んでしまうような、ひどく甘ったるい暖気だった。

「セオドア」
「何だい」
「好き」

 先に中てられたのはマリアの方だった。それまでずっと彼女の顔を見続けていた彼は、途端にまた前を向いた。

「セオドア? セオドアは?」

 マリアが彼を逃がす道理はない。辛うじてこの空気から逃れた彼を、容赦なく引きずり込もうとする。彼にとって、今のマリアの微笑みは純粋にして恐ろしいものだ。火が出そうな顔を、ひたすら真っ直ぐに見つめてくる。勿論……全て理解した上で。

「ねぇ……ちゃんと言ってほしいの」
「マリア。手を」

 セオドアは観念したようだった。彼の意を汲み取ったのか、マリアは口角を上げて自分の右手を差し出した。少女であるマリアに対して、セオドアはもう青年だ。互いの手は、比べるまでもない。彼の左手が、包み込むようにして彼女の手を握る。指が絡み、体温がじわりと伝わる。鼓動まで伝わってくるように熱い。

「よく……聴いておいて」

 マリアは彼の言葉に、静かに頷く。セオドアは内心、混乱していた。自分自身の気持ちを伝えるだけのことがこれ程までに難しいとは。いや、伝えること自体は常日頃からしているはずなのだ。それとなく、日常的にそうしているはずだ。だが……この場面においては、異常なまでの難度を伴っている。とはいえ、はぐらかそうとしても彼女はそれを許さないだろう。ぎし、と重く家鳴りがした。
 ゆえに彼は覚悟せねばならなかったのだ。彼の一挙一動に、彼女は目を凝らしていた。

 そして――今日で一番強い風が吹いた。遠くの山々は唸り、近くの森は騒ぎ、庭園は揺れる。繋いだ手が、ひときわ温かくなるのを感じた。その間中、マリアは彼の唇の動きを見逃しはしなかった。

「シルフさんに、ありがとうって言わなくちゃいけないの」
「え?」
「風の音でね、聞こえなかったの。だから、もういっかい言って」

 セオドアは流石に苦笑せざるを得なかったようだ。

「……好きだ」

 寧ろ青年は開き直ると、愛しい人外の碧眼を強く見据えた。瞠目しているが、彼は有無を言わせないらしい。

「何度でも言うよ。好きだ、マリア」
「セオドア」
「庭の手入れを手伝ってくれること。魔術の実験に付き合ってくれること」
「セオドア」
「思ったことを素直に言ってくれること。目が合えば笑ってくれること」
「セオ……」
「……こうして甘えてくれること。全てが好きなんだ。愛してる」

 風は既に、止んでいた。

「…………」
「マリア? あまり目を逸らさないでほしいな」
「だめ……」

 思わぬ反撃に茹だったような赤い顔をして、しおらしい声を上げるのを見て、セオドアは晴れ晴れとした気持ちでいた。ありのままの想いを吐露して、それを受け止めてくれる相手のなんと愛しいことか。

「……セオドア」
「ん?」
「ありがとう。お返しがしたいの」

 マリアは依然、目を逸らしたままでいるが、同時に何かを決心してもいるようだ。セオドアもそれを汲み取れなかったわけではないが、敢えて気付かないふりをした。彼なりのけじめである。

「嬉しいね。何をくれるのかな」
「えっと……かがんで?」
「? どういう――」

 怪訝に想いながらも彼女の言う通りにした直後、セオドアは濃い少女の匂いと、唇に触れる柔かく瑞々しいものを感じた。
 零距離にマリアがいる。視線が深く交わっている。繋がったところから感じるぬくもりが、胸を満たしていく。風は、ずっと止んだまま……静かで、甘い世界だ。もっと……沈んでいきたい。

「セオドア、大好き」

 囁くようなその言葉に彼は激しく胸を打たれたが、先程とは違い目を逸らすわけではなかった。ただ彼女しか映っていないかのように、視線を交わし続けてい
る。

「――ああ、ありがとう。最高のお返しだよ。それじゃ……お返しのお返し、しないとね」
「それならわたしも、お返しのお返しのお返しを――」

 セオドアは、彼女が言い終える前に唇を塞いだ。握った手と手はいつの間にか汗ばんでいる。彼も我慢の限界だったようだ。
 凪の昼下がりは、まだまだ続く。
18/10/08 22:19更新 / 香橋
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■作者メッセージ
凡そこんなノリで二人の日常を切り取っていきます。濡れ場を用意するかはまだ分からないです。

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