#3 殿上
私と彼が出会ってから二度季節が巡った。
瞬く間に急激な成長を遂げた彼は、今や国内はおろか国外にもその名を轟かせる勇者となっていた。
清く、高潔な心から発現する彼の奇跡は既に私にも迫るほど。
美しく、強靭な肉体の振るう剣は既に並ぶ者が居ないほど。
彼はいつしか、私と同じく人々に崇められる存在となっていた。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
「どうしたのですか? 今日の貴方は何かもの悲しい顔をしているように思います」
目を瞑って跪いたまま祈りを捧げる彼に、私は語りかける。
「母上…私は、人間です」
彼は目を瞑り、祈りの体勢のまま私にそう告げた。
「私は自分が何者かもわからず森の中を彷徨っている所をこの国の神官兵によって見つけられ、魔物に組した罪人として異端審問にかけられようとしていた所を母上に見い出されました」
彼は目を開き、傍らに立つ私をその蒼い目で見上げる。
「それから私は母上に、聖堂騎士達に、神官たちにがむしゃらに学びました。母上を遣わせて下さった父に、何よりも私を救って下さった母上に報いるために」
立ち上がり、彼は陽の差し込む美しいステンドグラスを見上げる。このステンドグラスは私がこの国に降臨した時の事を題材にしたものだ。
天から差し込む光の中、父への祈りを捧げる人々の元に翼を広げた私が降り立っている。
「しかし、気がつけば、私は――…っ」
彼は言葉を切り、悲しげに目を伏せる。
「…孤独に、なっていたのですね」
「…はい。街往く人々も、様々な事を教えてくれた神官達も、稽古を付けてくれた聖堂騎士達も…今は私を『勇者様』としか呼んではくれません」
私は彼の正面へと回り、両手を彼の頬に添えて正面から彼の瞳を見つめる。
出会った時は殆ど同じくらいの高さであったはずの瞳は、いつの間にか見上げるほどの高さになっていた。
「彼らには、心の支えが必要なのです。辛いでしょうが、彼らの心の支えになるのも神に選ばれた貴方の使命なのですよ」
「わかっています。わかっていますが…」
「寂しい、ですか?」
私の問いには答えず、彼はただ頷いた。
そんな彼を、私は正面から優しく抱きしめる。
「使命を果たすまで、今はまだ耐えてください。代わりに、私はいつでも貴方の傍に居ますから」
「母上…」
彼の身体から孤独の恐怖と、使命に対する不安が抜けていくのがわかる。
「身体が大きくなっても、強い力を身につけても、やはり貴方は貴方のままですよ。こうして抱きしめると心が落ち着くでしょう?」
「そうですね…母上は初めて出会ったあの日も、何もわからず、ただ恐怖に怯えた私をこうして抱きしめてくれました」
そう言って彼も私をそっと抱きしめる。
硝子細工にでも触れるかのように、そっと。
「母上…」
「なんですか?」
「使命を果たせば…私達は野に咲く花になれるのでしょうか?」
彼の言っている言葉の意味が理解できず、私は彼を見上げる。
「私が使命を果たせば、私と母上は二人で…誰も私達を知らない場所で、静かに過ごせるのでしょうか?」
「それは…」
私は、言葉に詰まる。
彼の言うことは、つまり使命を果たせば私と彼とが…いけない。これは、これ以上考えてはいけないことだ。
彼は私にとって子も同然。私は彼にとって母も同然。
父の教えに、反する。
「そう、だといいですね。私は、そう信じたいです」
しかし、私の口から出た言葉は私の意志に反するものだった。
だが、私の言葉に彼の顔が喜色に輝く。その顔を見て、私の胸が躍る。
「なんだか力が沸いてきたように思います。言葉一つで、不思議なものですね」
「そう、ですね…」
互いに身を離し、頭上のステンドグラスを見上げる。
晴れやかな彼の表情とは対照的に、私の心は混乱していた。
「午後から騎士団長と今後の征伐について話し合う予定がありますので、今日はここで失礼します」
「はい。気をつけて、無茶をしてはいけませんよ」
「勿論です、母上」
軽快な足取りで彼は聖堂から去ってゆく。
その後姿を見送り、私はステンドグラスへと向き直った。
(私は…どうしてしまったのでしょうか?)
父は、何も答えてくれない。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
かくして、天使の心に綻びが生まれる。
ごく、小さな綻び。
だが、あまりにも純粋すぎる彼女にとって、その綻びは致命の傷。
彼女の心が、壊れ始める。
堤防が、蟻の空けた小さな穴から決壊するかのように。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
「母上…母上?」
「は、はい? なんですか?」
「やはり調子が悪いのでしょう? 神官長に式典を取りやめるよう言って参ります」
あれから季節が二つ進み、季節は冬を迎えていた。
私の中に生まれた綻びは急速にその大きさを増し、今にも理性という堤防を押し流さんとしている。
「い、いえ! 大丈夫! 大丈夫です!」
我に返った私は、今すぐにでも神官長の所へ走って行こうとする彼を何とか押し留める。
「しかし母上…この所母上はずっと調子が悪いのでしょう? きっと疲れが溜まっているのです。それもこれも神官長があれこれと母上を担ぎ出すから…」
「大丈夫、大丈夫ですから…陽が温かいので、少しボーっとしてしまっただけです」
彼をなんとか押し留めながら、自らの内から溢れ出そうとするモノも必死に圧し留める。
「私は貴方の母なのですから。そう、だからこそここは私が頑張らなければならない所なのです」
「母上…」
彼が困ったような表情を浮かべる。
その表情を見て、私の頭の片隅から邪な声が沸きあがる。
(もっと、もっと困った顔を…可愛い顔を見せて欲しい)
禁忌破りの反証術式を心の中に展開し、溢れ出そうとする劣情を封殺する。
(効かないのは解っているはず。母と子? そんなのはまやかしだもの)
天罰術式を心の中に展開し、禁忌破りを回避した劣情を粛清する。
(天使を侵すのは罪、か。ねぇ、今の貴女(わたし)は本当に天使? そもそも、受肉して二十年近くも経つ貴女(わたし)は本当に天使であると言える?)
―――え。
私は天使だ。
父の命を受けて、彼を立派な勇者にする。その使命を負った天使だ。
―はうえ。
(立派な勇者に、ね。ならもう貴女(わたし)は天使じゃないんじゃない?)
なにを、いっているの?
ははうえ。
(だって彼は、もう立派な勇者じゃない。貴女(わたし)の役目は終わり。今そこに在るのは、人間界で穢れ、それによって父の加護を失ったただの――)
「母上っ!」
「えっ――? あっ…」
気がつけば、私は彼に肩を揺さぶられていた。
心底心配した表情で彼が私の顔を覗き込んでいる。
「全然大丈夫ではないではないですか…やはり、今日の式典は取りやめにしてもらいましょう」
そう言って彼が駆けて行き、私は聖堂の中に独り。
独り、ステンドグラスを見上げる。
「父よ…貴方は、私を…」
父は、答えない。
何も、答えてはくれない。
「嘘吐き…」
(クスクス…そんな事ないわよ。お父様は嘘なんて吐いていないわ)
「嘘だ…お父様は、私を堕とさないと言った」
私の言葉に、頭の片隅の声は哄笑をあげる。
(ククク、アハハハハハッ! そんなことお父様は言わなかったわよ? ただ、貴女(わたし)の問いに『否』と答えただけ。貴女(わたし)、何てあの時問いかけたか覚えてる?)
「私が…堕天、することに、なるのか…」
あの時の事を思い出し、搾り出すように言葉にする。
(そうよね? それはつまり『使命を終えるまで』の話。『使命を終えた後』も堕ちないといったわけでも無いし、終えた後に天界に帰る事ができると言ったわけでもない)
「そ、んな…」
頭の片隅から響く声に、私は絶望する。
(あの時貴女(わたし)はこう聞くべきだったのかもね。『私は再び天界に戻ってこられるのか』と)
「あ、あはは…なによそれ、ペテンじゃない」
(あら、お父様はペテン師よ? そんなことわかってたはずじゃない。嘘は吐かないけど、誤解させるのが得意のペテン師だわ)
「は、ははは…ふふ、あははははっ…はははハハハッ!!」
わたしのこころは、ついに、こわれてしまった。
瞬く間に急激な成長を遂げた彼は、今や国内はおろか国外にもその名を轟かせる勇者となっていた。
清く、高潔な心から発現する彼の奇跡は既に私にも迫るほど。
美しく、強靭な肉体の振るう剣は既に並ぶ者が居ないほど。
彼はいつしか、私と同じく人々に崇められる存在となっていた。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
「どうしたのですか? 今日の貴方は何かもの悲しい顔をしているように思います」
目を瞑って跪いたまま祈りを捧げる彼に、私は語りかける。
「母上…私は、人間です」
彼は目を瞑り、祈りの体勢のまま私にそう告げた。
「私は自分が何者かもわからず森の中を彷徨っている所をこの国の神官兵によって見つけられ、魔物に組した罪人として異端審問にかけられようとしていた所を母上に見い出されました」
彼は目を開き、傍らに立つ私をその蒼い目で見上げる。
「それから私は母上に、聖堂騎士達に、神官たちにがむしゃらに学びました。母上を遣わせて下さった父に、何よりも私を救って下さった母上に報いるために」
立ち上がり、彼は陽の差し込む美しいステンドグラスを見上げる。このステンドグラスは私がこの国に降臨した時の事を題材にしたものだ。
天から差し込む光の中、父への祈りを捧げる人々の元に翼を広げた私が降り立っている。
「しかし、気がつけば、私は――…っ」
彼は言葉を切り、悲しげに目を伏せる。
「…孤独に、なっていたのですね」
「…はい。街往く人々も、様々な事を教えてくれた神官達も、稽古を付けてくれた聖堂騎士達も…今は私を『勇者様』としか呼んではくれません」
私は彼の正面へと回り、両手を彼の頬に添えて正面から彼の瞳を見つめる。
出会った時は殆ど同じくらいの高さであったはずの瞳は、いつの間にか見上げるほどの高さになっていた。
「彼らには、心の支えが必要なのです。辛いでしょうが、彼らの心の支えになるのも神に選ばれた貴方の使命なのですよ」
「わかっています。わかっていますが…」
「寂しい、ですか?」
私の問いには答えず、彼はただ頷いた。
そんな彼を、私は正面から優しく抱きしめる。
「使命を果たすまで、今はまだ耐えてください。代わりに、私はいつでも貴方の傍に居ますから」
「母上…」
彼の身体から孤独の恐怖と、使命に対する不安が抜けていくのがわかる。
「身体が大きくなっても、強い力を身につけても、やはり貴方は貴方のままですよ。こうして抱きしめると心が落ち着くでしょう?」
「そうですね…母上は初めて出会ったあの日も、何もわからず、ただ恐怖に怯えた私をこうして抱きしめてくれました」
そう言って彼も私をそっと抱きしめる。
硝子細工にでも触れるかのように、そっと。
「母上…」
「なんですか?」
「使命を果たせば…私達は野に咲く花になれるのでしょうか?」
彼の言っている言葉の意味が理解できず、私は彼を見上げる。
「私が使命を果たせば、私と母上は二人で…誰も私達を知らない場所で、静かに過ごせるのでしょうか?」
「それは…」
私は、言葉に詰まる。
彼の言うことは、つまり使命を果たせば私と彼とが…いけない。これは、これ以上考えてはいけないことだ。
彼は私にとって子も同然。私は彼にとって母も同然。
父の教えに、反する。
「そう、だといいですね。私は、そう信じたいです」
しかし、私の口から出た言葉は私の意志に反するものだった。
だが、私の言葉に彼の顔が喜色に輝く。その顔を見て、私の胸が躍る。
「なんだか力が沸いてきたように思います。言葉一つで、不思議なものですね」
「そう、ですね…」
互いに身を離し、頭上のステンドグラスを見上げる。
晴れやかな彼の表情とは対照的に、私の心は混乱していた。
「午後から騎士団長と今後の征伐について話し合う予定がありますので、今日はここで失礼します」
「はい。気をつけて、無茶をしてはいけませんよ」
「勿論です、母上」
軽快な足取りで彼は聖堂から去ってゆく。
その後姿を見送り、私はステンドグラスへと向き直った。
(私は…どうしてしまったのでしょうか?)
父は、何も答えてくれない。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
かくして、天使の心に綻びが生まれる。
ごく、小さな綻び。
だが、あまりにも純粋すぎる彼女にとって、その綻びは致命の傷。
彼女の心が、壊れ始める。
堤防が、蟻の空けた小さな穴から決壊するかのように。
―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ―――― ――――
「母上…母上?」
「は、はい? なんですか?」
「やはり調子が悪いのでしょう? 神官長に式典を取りやめるよう言って参ります」
あれから季節が二つ進み、季節は冬を迎えていた。
私の中に生まれた綻びは急速にその大きさを増し、今にも理性という堤防を押し流さんとしている。
「い、いえ! 大丈夫! 大丈夫です!」
我に返った私は、今すぐにでも神官長の所へ走って行こうとする彼を何とか押し留める。
「しかし母上…この所母上はずっと調子が悪いのでしょう? きっと疲れが溜まっているのです。それもこれも神官長があれこれと母上を担ぎ出すから…」
「大丈夫、大丈夫ですから…陽が温かいので、少しボーっとしてしまっただけです」
彼をなんとか押し留めながら、自らの内から溢れ出そうとするモノも必死に圧し留める。
「私は貴方の母なのですから。そう、だからこそここは私が頑張らなければならない所なのです」
「母上…」
彼が困ったような表情を浮かべる。
その表情を見て、私の頭の片隅から邪な声が沸きあがる。
(もっと、もっと困った顔を…可愛い顔を見せて欲しい)
禁忌破りの反証術式を心の中に展開し、溢れ出そうとする劣情を封殺する。
(効かないのは解っているはず。母と子? そんなのはまやかしだもの)
天罰術式を心の中に展開し、禁忌破りを回避した劣情を粛清する。
(天使を侵すのは罪、か。ねぇ、今の貴女(わたし)は本当に天使? そもそも、受肉して二十年近くも経つ貴女(わたし)は本当に天使であると言える?)
―――え。
私は天使だ。
父の命を受けて、彼を立派な勇者にする。その使命を負った天使だ。
―はうえ。
(立派な勇者に、ね。ならもう貴女(わたし)は天使じゃないんじゃない?)
なにを、いっているの?
ははうえ。
(だって彼は、もう立派な勇者じゃない。貴女(わたし)の役目は終わり。今そこに在るのは、人間界で穢れ、それによって父の加護を失ったただの――)
「母上っ!」
「えっ――? あっ…」
気がつけば、私は彼に肩を揺さぶられていた。
心底心配した表情で彼が私の顔を覗き込んでいる。
「全然大丈夫ではないではないですか…やはり、今日の式典は取りやめにしてもらいましょう」
そう言って彼が駆けて行き、私は聖堂の中に独り。
独り、ステンドグラスを見上げる。
「父よ…貴方は、私を…」
父は、答えない。
何も、答えてはくれない。
「嘘吐き…」
(クスクス…そんな事ないわよ。お父様は嘘なんて吐いていないわ)
「嘘だ…お父様は、私を堕とさないと言った」
私の言葉に、頭の片隅の声は哄笑をあげる。
(ククク、アハハハハハッ! そんなことお父様は言わなかったわよ? ただ、貴女(わたし)の問いに『否』と答えただけ。貴女(わたし)、何てあの時問いかけたか覚えてる?)
「私が…堕天、することに、なるのか…」
あの時の事を思い出し、搾り出すように言葉にする。
(そうよね? それはつまり『使命を終えるまで』の話。『使命を終えた後』も堕ちないといったわけでも無いし、終えた後に天界に帰る事ができると言ったわけでもない)
「そ、んな…」
頭の片隅から響く声に、私は絶望する。
(あの時貴女(わたし)はこう聞くべきだったのかもね。『私は再び天界に戻ってこられるのか』と)
「あ、あはは…なによそれ、ペテンじゃない」
(あら、お父様はペテン師よ? そんなことわかってたはずじゃない。嘘は吐かないけど、誤解させるのが得意のペテン師だわ)
「は、ははは…ふふ、あははははっ…はははハハハッ!!」
わたしのこころは、ついに、こわれてしまった。
09/12/27 03:48更新 / R
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