絶望と決断とコンソメスープ
小一時間後、アーシェスさんのお昼ごはんの残り――パンと、サラダと、具だくさんのコンソメスープをすっかり平らげ、私は何ヶ月ぶりかもわからないくらいの満腹感を味わっていました。
「マンドラゴラは普通の食事も食べるんだねえ。」
そんな風に言うアーシェスさんにご馳走様と、助けてくれたお礼を言いました。
「ああ、気にしなくていいよ。おかげでひとつ賢くなった。」
低い仕切りの向こう側で食器を洗いながら、アーシェスさんは笑います。
あれは笑ってるのでしょうか。かすかに首を右にかしげて、唇の端を吊り上げます。でも、右しか見えない紫の瞳はちっとも笑っていなかったんです。
まるで、笑顔を知らない人形が無理やり笑顔の真似をしてるみたい。
でも、魔術師なのに私たちのことをあんまり知らないのは、なんでだろう?
「……そんな目で見ないでくれるかい。私の専門は氷属性の現象魔術一般、あなたたちの生態には詳しくない。」
視線に気づいたのか、そんな風に言葉を投げてきたアーシェスさん。
「さて……落ち着いたところで事情を教えてもらえるかな。あなたは荒野で干からびかけてたわけだけど。」
食後のアイスティを二人分持ってきながら聞いてきました。
助けてもらった恩人ですし、私に断る理由はありませんでした。
引き抜かれた時の叫びの魔力で男性の精を吸ったあと、悪い人に捕まって遠くまで売られたこと。
売られた先での辛い日々。
ほかにも捕まっていたマンドラゴラと相談して、屋敷を脱走したこと。
魔術師からの追っ手がかかって、逃げる最中に散り散りになってしまったこと。
そして……荒野に迷い込んで日照りが続いて、ついに倒れてしまったこと。
納得がいったね。名乗ったときにあそこまで怯えた理由。
私もそいつと同じ魔術師だったゆえに、またひどい待遇で飼われるのを恐れたのか。
「とはいえ、魔術師というのはピンキリいてね。自分の欲に負けては真の叡智と力が手に入るものではないのさ。
私は魔術師ギルド<口伝の黄金>が副議長アーシェス・レット。少なくともあなたがここにいる間、あなたを泣かすような真似は決してすまいよ。」
「私は魔術師ギルド<口伝の黄金>が副議長アーシェス・レット。少なくともあなたがここにいる間、あなたを泣かすような真似は決してすまいよ。」
表情をほとんど変えないまま、遠くを見るような瞳で、朗々とした声で、彼はそう宣言しました。続けて、
「……何かを誓うときに名乗るのは故郷の風習でね。」
って、かすかに首を振りながら。表情は変わらなかったのですが……照れてる?
「さあ、身の上話を聞いた対価だ。私のこともいろいろと教えてみようか。」
それがどうして対価になるのかよく分かりませんが、とにかく彼は訥々と語り始めました。
生まれはどこにでもある商家の次男坊だったこと。
学者を志して、遠くの街に留学したこと。
魔力を見出されて、老魔術師のもとで修行していたこと。
独立して、魔術師ギルドに入ったこと。
犯罪者とのトラブルから命を狙われ、夜逃げするように街を出たこと。
冒険者のようなことを生業にしながら放浪し……6年ほど前にこの街にたどり着いたこと。
縁あって<口伝の黄金>なる魔術師ギルドに入り、いつの間にか副議長なんて呼ばれるようになっていたこと。
「こんなところかな。さあ、質問はあるかい。」
私はもちろん、その白と黒の仮面と、長いコートについて聞いてみました。
一番気になるところなのに、そこについての説明がなかったから。
コートのことは、自分の魔法の冷気から身を守るためのマジックアイテムだって教えてくれました。仮面のことは、
「これはマスカレイドと呼ばれる仮面。それで分かる人は分かる。分からないならそれでも構わない程度の代物だよ。」
……はぐらかされてしまいました。
「それはそうと。これからどうするんだい。」
空気を引き締めるように、アーシェスさんは真面目な話を始めました。
「街から東に3日ほど行けば森林地帯がある。でも、そこにあなたの仲間はいない。これから来る確率も、ゼロに等しいよ。」
どうしてそんなことが分かるのでしょう。思わず顔を上げてアーシェスさんのほうを見つめて――いや、睨んでしまいました。
「…あなたが倒れていたあの荒野は通称常昼荒原。あそこは太陽が沈まず、雲もなく、常に中天で輝き続けている。どうなっているのか知らないけれどね。
これがどういうことか分かるかい。」
……言葉も出ませんでした。
太陽が絶対に沈まない、雲もない……それは、気温が絶対に下がらないし雨も降らない、ということ。私たちマンドラゴラが…いえ、地上の生物が生きていけるはずもない、まさに不毛の地だったのです。
奇跡的な確率でアーシェスさんが通らなければ、私も死んでしまっていたでしょう。みんながたどり着いていても……。
「残酷なことを言っていると思っている。ただ、偽りの希望はもっと残酷だと思っている。……使う?」
差し出されたハンカチの形が歪んでいるのを見て、初めて私は自分が泣いているのに気づきました。
震える手でハンカチを受け取って、目元に押し当てたまま……私はしばらく肩を震わせて泣いていました。
アーシェスさんはその間も、表情を変えることなくずっと動きませんでした。
「……落ち着いたかい。」
小さく返事と、そしてハンカチを返しました。
「酷なことを言うけれど、あなたはこれからの身の振り方を決断しなくてはいけない。今すぐとは言わないけれど、一週間くらいには――」
「私を、ここに置いてください。」
「私を、ここに置いてください。」
空耳かと思ったね。
私はあの子にとって残酷な真実を告げたばかりだから、恨まれているとも思っていた。
その理由を聞くのは、自然なことだったと思うよ。
「その話が本当なら……私はきっともう、昔の友達には会えません。いくら平和な森の中でも、静かに一人ぼっちなのは……嫌です。
それに、アーシェスさんは私の命の恩人ですから。命の恩人には、やっぱり相応の恩返しをしなくちゃいけません。
だから、私をここに置いてください。」
……そういえば、どうして私はあの時断らなかったんだろう。
「マンドラゴラは普通の食事も食べるんだねえ。」
そんな風に言うアーシェスさんにご馳走様と、助けてくれたお礼を言いました。
「ああ、気にしなくていいよ。おかげでひとつ賢くなった。」
低い仕切りの向こう側で食器を洗いながら、アーシェスさんは笑います。
あれは笑ってるのでしょうか。かすかに首を右にかしげて、唇の端を吊り上げます。でも、右しか見えない紫の瞳はちっとも笑っていなかったんです。
まるで、笑顔を知らない人形が無理やり笑顔の真似をしてるみたい。
でも、魔術師なのに私たちのことをあんまり知らないのは、なんでだろう?
「……そんな目で見ないでくれるかい。私の専門は氷属性の現象魔術一般、あなたたちの生態には詳しくない。」
視線に気づいたのか、そんな風に言葉を投げてきたアーシェスさん。
「さて……落ち着いたところで事情を教えてもらえるかな。あなたは荒野で干からびかけてたわけだけど。」
食後のアイスティを二人分持ってきながら聞いてきました。
助けてもらった恩人ですし、私に断る理由はありませんでした。
引き抜かれた時の叫びの魔力で男性の精を吸ったあと、悪い人に捕まって遠くまで売られたこと。
売られた先での辛い日々。
ほかにも捕まっていたマンドラゴラと相談して、屋敷を脱走したこと。
魔術師からの追っ手がかかって、逃げる最中に散り散りになってしまったこと。
そして……荒野に迷い込んで日照りが続いて、ついに倒れてしまったこと。
納得がいったね。名乗ったときにあそこまで怯えた理由。
私もそいつと同じ魔術師だったゆえに、またひどい待遇で飼われるのを恐れたのか。
「とはいえ、魔術師というのはピンキリいてね。自分の欲に負けては真の叡智と力が手に入るものではないのさ。
私は魔術師ギルド<口伝の黄金>が副議長アーシェス・レット。少なくともあなたがここにいる間、あなたを泣かすような真似は決してすまいよ。」
「私は魔術師ギルド<口伝の黄金>が副議長アーシェス・レット。少なくともあなたがここにいる間、あなたを泣かすような真似は決してすまいよ。」
表情をほとんど変えないまま、遠くを見るような瞳で、朗々とした声で、彼はそう宣言しました。続けて、
「……何かを誓うときに名乗るのは故郷の風習でね。」
って、かすかに首を振りながら。表情は変わらなかったのですが……照れてる?
「さあ、身の上話を聞いた対価だ。私のこともいろいろと教えてみようか。」
それがどうして対価になるのかよく分かりませんが、とにかく彼は訥々と語り始めました。
生まれはどこにでもある商家の次男坊だったこと。
学者を志して、遠くの街に留学したこと。
魔力を見出されて、老魔術師のもとで修行していたこと。
独立して、魔術師ギルドに入ったこと。
犯罪者とのトラブルから命を狙われ、夜逃げするように街を出たこと。
冒険者のようなことを生業にしながら放浪し……6年ほど前にこの街にたどり着いたこと。
縁あって<口伝の黄金>なる魔術師ギルドに入り、いつの間にか副議長なんて呼ばれるようになっていたこと。
「こんなところかな。さあ、質問はあるかい。」
私はもちろん、その白と黒の仮面と、長いコートについて聞いてみました。
一番気になるところなのに、そこについての説明がなかったから。
コートのことは、自分の魔法の冷気から身を守るためのマジックアイテムだって教えてくれました。仮面のことは、
「これはマスカレイドと呼ばれる仮面。それで分かる人は分かる。分からないならそれでも構わない程度の代物だよ。」
……はぐらかされてしまいました。
「それはそうと。これからどうするんだい。」
空気を引き締めるように、アーシェスさんは真面目な話を始めました。
「街から東に3日ほど行けば森林地帯がある。でも、そこにあなたの仲間はいない。これから来る確率も、ゼロに等しいよ。」
どうしてそんなことが分かるのでしょう。思わず顔を上げてアーシェスさんのほうを見つめて――いや、睨んでしまいました。
「…あなたが倒れていたあの荒野は通称常昼荒原。あそこは太陽が沈まず、雲もなく、常に中天で輝き続けている。どうなっているのか知らないけれどね。
これがどういうことか分かるかい。」
……言葉も出ませんでした。
太陽が絶対に沈まない、雲もない……それは、気温が絶対に下がらないし雨も降らない、ということ。私たちマンドラゴラが…いえ、地上の生物が生きていけるはずもない、まさに不毛の地だったのです。
奇跡的な確率でアーシェスさんが通らなければ、私も死んでしまっていたでしょう。みんながたどり着いていても……。
「残酷なことを言っていると思っている。ただ、偽りの希望はもっと残酷だと思っている。……使う?」
差し出されたハンカチの形が歪んでいるのを見て、初めて私は自分が泣いているのに気づきました。
震える手でハンカチを受け取って、目元に押し当てたまま……私はしばらく肩を震わせて泣いていました。
アーシェスさんはその間も、表情を変えることなくずっと動きませんでした。
「……落ち着いたかい。」
小さく返事と、そしてハンカチを返しました。
「酷なことを言うけれど、あなたはこれからの身の振り方を決断しなくてはいけない。今すぐとは言わないけれど、一週間くらいには――」
「私を、ここに置いてください。」
「私を、ここに置いてください。」
空耳かと思ったね。
私はあの子にとって残酷な真実を告げたばかりだから、恨まれているとも思っていた。
その理由を聞くのは、自然なことだったと思うよ。
「その話が本当なら……私はきっともう、昔の友達には会えません。いくら平和な森の中でも、静かに一人ぼっちなのは……嫌です。
それに、アーシェスさんは私の命の恩人ですから。命の恩人には、やっぱり相応の恩返しをしなくちゃいけません。
だから、私をここに置いてください。」
……そういえば、どうして私はあの時断らなかったんだろう。
11/04/19 01:25更新 / 霧谷 来蓮
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